北條九代記 卷第九 時宗執權 付 御息所御産祈禱
○時宗執權 付 御息所御産祈禱
時賴入道の嫡子式部丞時輔は、京都に居(す)ゑられ、北條重時の二男陸奥〔の〕左近〔の〕大夫將監(しやうげん)時茂(ときしげ)と兩六波羅として、畿内西國の政道を行はる。と兩六波羅として、畿内西國の政道を行はる。時賴入道の二男左馬頭時宗は、天性篤實にして仁德あり、禮節自(おのづか)ら其宜(よろし)きに合ひければ、幼稚ながらも其器(き)に當る給へりと、人ごとに見參らせけり。今年十三歳にして、時賴入道の家督を繼ぎて、相摸守に任じ、執權職に補(ふ)せられ、政村、長時、輔翼(ふよく)とし、政道を佐(たす)けらる。同十二月、將軍家の御息所(みやすどころ)、御産(ごさん)の事、近付き給へば、宮内權大輔時秀が家を御産所に定めらる〻所に、十七日戌(いぬの)刻に、荏柄社(えがらのやしろ)の前より失火ありて、塔辻(たふのつじ)まで燒きたり、時秀が家も囘祿(くわいろく)せしかば、俄に武藏守義政の亭に入れ奉るべき評定一決し、同二十四日、御方違(おかたたがへ)の沙汰を以て、陰陽師等を召して、異見を尋ねらる。「二十四日は沒日(もつにち)なり、御憚(おんはゞかり)あるべきか」と、晴茂(はるしげ)朝臣、勘(かんが)へ申す。業昌(なりまさ)朝臣申しけるは、「建長六年四月二十四日は丙寅(ひのえとら)沒日にて候ひしに、大宮(おほみやの)院、御産所に入り給ふ、憚なかりき。此度もその例に任せらるべし。次に御方違の事、二十九日を用ひらるべきか」と、業昌、又、申して曰く、「其日は往亡日(わうまうにち)なり。但し、御産の事には憚如何(いかゞ)」と申したりけるを、晴茂は「苦(くるし)かるべからず」と問答しけれども、將軍家には憚るべきの義を御(ご)許容あり。一日引越(ひきこ)して同じく二十八日に、左近大夫將監公時(きんとき)朝臣の名越(なごや)の亭に入れ奉り、御産所と定めて、若宮の僧正、御祈(おんいのり)の師として加持し奉らる。次の日、名越より御息所は還御し給ふ。
[やぶちゃん注:短い北条時宗(建長三(一二五一)年~弘安七(一二八四)年)の第八代執権就任(文永五(一二六八)年三月五日)の箇所は「吾妻鏡」では欠落しており、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は林鵞峯「日本王代一覧」及び、本「北條九代記」の作者と推定される浅井了意作「将軍記」巻五「文永元年八月十日」に基づき、御息所の産所に関しての評議の箇所は「吾妻鏡」巻五十一の弘長三(一二六三)年十一月二十三日、十二月十七日・二十四日・二十八日・二十九日に基づくとする。
「御息所」既注であるが、再掲しておく。第六代将軍宗尊親王正室で近衛兼経(この娘の輿入れの前年に死去)の娘近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?)。第七代将軍惟康親王の母。まずは元執権北条時頼の猶子として鎌倉に入って同文応元年の三月二十一日に十九歳の将軍宗尊の正室となって御息所と呼ばれた。参照したウィキの「近衛宰子」によれば、『時頼の猶子にすることで、北条氏の女性が将軍に嫁すという形を取っている』。この翌文永元(一二六四)年四月に無事、惟康王を出産するが、文永三(一二六六)年に宰子と、この惟康『出産の際に験者を務めた護持僧良基』(りょうき)『との密通事件が露見』、六月二十日、良基は逐電、『連署である北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われ、宗尊親王の京都送還が決定されたと見られる。宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移された』。『鎌倉は大きな騒ぎとなり、近国の武士たちが蜂のごとく馳せ集った』。七月四日、『宗尊親王は将軍職を追われ、女房の輿に乗せられて鎌倉を出』て帰洛、京には『「将軍御謀反」と伝えられ、幕府は』未だ三歳であった『惟康王を新たな将軍として擁立した』。『その後、宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻った。都では良基は高野山で断食して果てた、または御息所と夫婦になって仲良く暮らしているなどと噂された』とある。この一連の将軍交替の騒動は無論、後に「北條九代記卷之第九」で語られるが、良基と宰子の爛れた関係には触れられてはいない。
「時賴入道の嫡子式部丞時輔」北条時輔(宝治二(一二四八)年~文永九(一二七二)年)。時頼の長男。母は時頼側室の、出雲国の御家人三処(みところ)氏の娘、讃岐局で、三歳年下の異母弟時宗は時頼の次男ながら、母が時頼正室の北条重時の娘、葛西殿であったことから嫡男とされた(元の名は時利であったが、十三歳の正元二(一二六〇)年正月に時輔と改名しているが、これは父時頼の命によるものと考えられており、それは時宗を「輔(たす)く」の意が露わであった)。文永元(一二六四)年十月、十七歳で六波羅探題南方となる(この二ヶ月前に十四歳の時宗は連署に就任している)。文永五年、時宗が執権を継ぐが、これに内心不満を抱き、蒙古・高麗の使者との交渉に於いても時宗と対立した。文永九(一二七二)年二月十一日に鎌倉で反得宗勢力であった北条時章(名越流北条氏初代北条朝時の子)・教時兄弟が謀反を理由に誅殺されると、その四日後の十五日、京都の時輔も同じく謀反を図ったとして執権時宗による追討を受け、六波羅北方の北条義宗(先の第六代執権北条長時嫡男。赤橋流北条氏第二代当主)によって襲撃され、誅殺された(二月騒動)。享年二十五。吉野に逃れたとする説もある。
「北條」「時茂(ときしげ)」(仁治元(一二四〇)年~文永七(一二七〇)年)第二代執権北条義時三男北条重時の三男。同母兄北条長時が評定衆に任ぜられたため、建長八(一二五六)年六月から兄に代わって六波羅探題北方として上洛、以後十四年に渡って同職を勤めた。三十一で若死にしているが、後にこの六波羅を滅ぼす足利尊氏は彼の曾孫に当たる(以上はウィキの「北条時茂」に拠った)。
「左馬頭時宗」正確には「左馬權頭」。時宗の左馬権頭任官(同時に従五位下に叙された)は弘長元(一二六一)年十二月(満九歳)。
「今年十三歳にして、時賴入道の家督を繼ぎて、相摸守に任じ、執權職に補(ふ)せられ」これは書き方がいい加減。
時頼の家督を継いだのは 弘長三(一二六三)年頃(本文後半の「御息所御産」の記事との整合性と教育社の増淵氏現代語訳の割注に基づく)
相模守となるのは 文永二(一二六五)年三月
第八代執権就任は 文永五(一二六八)年三月
である。
「輔翼(ふよく)」助けること。補佐。「扶翼」とも書く。
「同十二月、將軍家の御息所、御産の事、近付き給へば」弘長三(一二六三)年十二月。
「宮内權大輔時秀」「宮内權大輔」は官位。幕府御家人長井時秀(生没年不詳)。ウィキの「長井時秀」によれば、正元元(一二五九)年閏十月に宮内権大輔に任ぜられ、五位に叙せられている。『長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり』、『北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられ』、『「時」の字は北条氏得宗家当主よりその通字を受けたものと考えられる』とする。リンク先を見る限り、引付衆・評定衆に任ぜられており、また『執権・北条氏の下で評定衆を務める身でありながら、歴代将軍(藤原頼経・頼嗣・宗尊親王)の側近としても重用されてい』ることから、執権北条時宗の厚い信頼を受けた人物であることが判る。また子の宗秀は「吾妻鏡」の編纂者の一人ではないかと推測されている、ともある。
「戌(いぬの)刻」午後八時頃。
「武藏守義政」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、文永一〇(一二七三)年に叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任じられ、執権北条時宗を補佐した。但し、「武藏守」となるのは文永一〇(一二七三)年七月で、この話柄内時制では官位は「左近衞將監」(「吾妻鏡」も「大夫將監」とある)が正しい(ウィキの「北条義政」に拠る)。
「異見」異なった見解。以下、例によって、陰陽師の責任逃れ的「異見」の連発。いい加減、聴き飽きた(さればこそ、本章は「吾妻鏡」の引用もしないこととする)。
「没日(もつにち)」陰陽道に於いて一切の事に凶であるとする凶日。
「建長六年」一二五四年。
「大宮(おほみやの)院」後嵯峨天皇の中宮で後に皇太后となった西園寺姞子(きつし 嘉禄元(一二二五)年~正応五(一二九二)年)。太政大臣西園寺実氏の長女。後深草及び亀山天皇の生母。大宮院は院号。ウィキの「西園寺きつ子」によれば、『後嵯峨天皇が姞子所生の後深草天皇に譲位して上皇となったのを受けて』、宝治二(一二四六)年六月に『院号宣下を受けて「大宮院」の称号を与えられた』とある。
「往亡日(わうまうにち)」陰陽道に凶日の一つで一年間に十二日あり、旅行・婚礼・移転・建築などを忌み禁じる日とする。
「御産の事には憚如何(いかゞ)」御産のための方違えを、旅行や移転とは採らずに特殊な事例として捉えた場合、それが決定的に忌み避けるべきであるかどうかは判断出来ません、というのである。
「一日引越(ひきこ)して」一日早めて。
「左近大夫將監公時(きんとき)」
「若宮の僧正」隆弁。
「次の日、名越より御息所は還御し給ふ」御産所と定めた公時邸へ方違えとしてこの日に向かい、そこでの御産所と決めた隆弁主催の祈禱を滞りなく終え、御所へ戻った(「吾妻鏡」によれば還御は翌二十九日で、その日に腹帯を着帯したとある)。何だか、かなり面倒で妊婦さんにはこっちの方が「凶」でしょう!]
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