神経科病室にて 梅崎春生
ズルフォナールと言う薬がある。
この薬はもともと睡眠薬であったが、効きが遅い上に覚めも遅いので、やがて催眠用にはもっと速効性のものにとってかわられ、使用されなくなってしまった。ところがその後、その遅効性持続性が再認識されて、持続睡眠療法の主薬として登場することになった。この療法は、持続的に眠ることで精神障害を取りのぞこうというもので、朝昼晩の三度にこれを服用、ひたすら眠りに眠る。眠っている間に抑圧が取れ、覚めたらさっぱりするという仕組みのもので、私がこの療法に興味を持ったのは一昨年(昭和三十二年)のことだ。
何故私がこれに興味を抱いたかというと、ある人問(仮りにAとしよう)がこの療法を受けて、一種の酩酊(めいてい)状態となる。酪酎状態となって、さまざまでたらめを言い放つ。そこへBという人物が見舞いにやって来て、そのでたらめを真に受ける。Aは大金持の爺さんで、そのでたらめ言辞の裏附けをなす大金を出したりするものだから、Bはますます真に受けて、その金でいろんな事業などを始める。その空に浮いたような金をめぐつて諸人物を配置させ、そこで小説が書けないものかと考えたのである。
そこで実際に医師の教えを乞い、医書をひもとき、病院を参観したりして、とうとうそんな小説を一篇でっち上げた。それと同時に私が持続睡眠療法のちょいとした通となったのも当然だろう。何事にしろ、通となることは、立派なことであり、またいい気持のものである。
そんないきさつで通になり、神経のおかしい人に治療を勧告したり、やに下ったりしている中はよかった。今年になって思いがけなく、火の粉が今度は、こちらにふりかかって来たのである。今年の初め頃からどうも神経状態がおかしくなり、変な不安感が強まって来た。まさかあんな療法を小説に仕立てたせいじゃあるまい、とは思うが、讖(しん)ヲナスというむずかしい言葉が昔からあることだし、きっぱりそうでないとは言い切れない。その意識が私の不安感を更にかり立て、ついに私は医師に相談に行くことを決心した。その医師というのが、前に教えを受けた医師で、医師は私の訴えを聞き、こともなげに言った。
「まあ暫く眠って見るんですな。そうすればさっぱりしますよ」
その二言で私の入院は、簡単に決定してしまった。その病院というのも、私が一昨年参観した病院で、つまり私は以前書いた小説の主人公の運命を、そっくりそのままたどるということになったのである。それはかなり妙な気分のものだった。
私は昔から、病気など入院などということは、あまり好きでない。(好きな人はあまりいないだろうけれども)
その好きでない最大のものは、肉体の苦痛がそこにあるからである。私は痛さにはなはだ弱いのだ。
ところがこの持続睡眠というやつは、その点においてはラクで、痛さということはほとんどないのである。入院して薬を服用してさえいればだんだん眠くなり、浅眠期に入り、一種の酩酊状態におちいり、それから嗜眠期に入る。睡眠時間はますます延長して、昼夜を通して十八時間から二十二時間も眠るようになる。眠っているのだから、痛いとか苦しいということは全然ない。覚めている時も、抑圧が取れた酩酊状態、酒を飲んでいい気持になったのと同じ状態になるのだから、こんな楽しいことはない筈である。そのことを私は体験で知ったのではなく、あらかじめ一昨年の勉強で、下調べがついていた。だから苦痛の点では不安がなかった。
しかし別の不安があった。薬によって酩酊状態となる。夢うつつの状態になる。しかもそれは何時間でなく、何日、何週という長期にわたって、そんな状態となるのだ。その期間に私がどんなことを口走り、また行動するか。それが私の不安のたねであった。誰も見てないならいいけれど、その一部始終を看護婦やつきそいたちが見るに違いない。それを思うと、何だか身がすくむような気がする。一体私から抑圧をごっそり取り除いたら、どういうことになるのか。
もちろんこれは私の自尊心でなく、虚栄心のなせる業であることは、よく知っている。多少見苦しい真似はするかも知れないが、はっきりした意識の下で醜態を演ずるのではなく、ほとんど無意識の状態でそれをやるので、現身(うつしみ)の私は責任を取る必要がないのだ。とは考えてみるものの、どうも自信がなく、憂鬱な思いにとらわれる。
でもお前は、健康時においても、夜になると眠るじゃないか。時には寝とぼけたりするじゃないか。また時には大酒も飲んで酩酊し、でたらめを口走ったり、痴愚の限りをつくしたりするではないか。
しかしそれは、この療法の場合とは少し違う。夜になって私が眠るのは、私が眠ろうと思って眠るのであり、飲酒して酩酊するのも、自発的に盃を傾けて酩酊に至るのである。その自発的という点が違う。持続睡眠療法は、三度三度薬をのまされて、無理矢理に眠らされるのだ。たとえ私が自発的に入院したとしても、その後の療法は私の意志に任せられていない。あくまで他力である。どうもそのことが面白くない。
それにも一つ、私に妙な虚栄心があった。それはその治療を受けて、他人と同じような反応を示したくない。自分だけは特別な反応を示してやりたい、というばかげた虚栄心だ。無論それは口には出さなかったが、入院前かなり頑固に、その考えは私の胸にわだかまっていた。
もちろん私だって叩かれたら痛いし、撫でられたら気持がいい。人間であるからには、他人様と反応は同じである。ところがこの場合に限ってそんな妙な虚栄心が起きたのは、持続睡眠療法の手の内を私が知っていたからである。手の内を知りつくした療法なんかで、かんたんに抑圧を取り除かれ、ころりと眠らせられてたまるものかというのが、私のいつわらざる本音であった。
それで結果はどうであったか。そんなに胸中深くレジスタンスをこころみたにもかかわらず、私はころりと眠ってしまったらしいのである。
投薬は入院したその日から始まった。何のへんてつもない白色粉末で、食後に一服ずつ出て来る。私はその粉末を一度にらみつけて、おもむろに服用する。簡単にやられはしないぞという心意気なのである。
レジスタンスの一方法として、私は大判ノートを病室に持ち込んでいた。毎日の出来事を細大洩らさずしたためて置こうとの心算(つもり)で、鉛筆も何本も用意した。つまり日記を書き続けることで、自分が覚めていることを立証したかったのだ。
そしてその日記は書き続けたか。
ころりと眠ったのなら、中絶したに違いないと読者は思うだろうが、そうではない。私は完全に書き通したのである。ただ深眠期の二日ばかり、書くには書いてあるが、字形が乱れて、何を書いてあるかは判らない。が、字らしきものがめんめんとつながっているので、書こうという意志があって、書いたことに間違いはないのである。
薬は四日目頃から、そろそろ効き出したようだ。四日目にこう書いている。
「もうそろそろズルフォナールきいて来そうに思えども未だその様子なし。やや足はふらつくけれど」
足がふらつくのが、効いて来た証拠であるが、気分の上では効いて来たと思いたくなかったのだろう。五日目にはテレビを見ている。
「ちょっとちらちらして不快なり」
六日目にはいよいよ効いて来て、
「何もかも二重に見える。新聞を読むのがつらい。薬がきいて来たのか。テレビ見ようか電話かけようかと思うけど面倒くさい気分あり。酔っているようだ」
「便秘のこと先生に訴えしに、下剤かけても腸が眠るからだめだとのこと。腸が眠るとは初耳なり。前代未聞なり。そんなことがあるべきか」
などと悲憤慷慨している。腸の眠りは下調べにはなかったので、怒ったのである。この日あたりから、日記に書いたことが、私の記憶には残っていない。夢うつつで書いているのだ。
「看護婦さんスカートをまくり上げる。いけないねとたしなめる」
抑圧が取れると、人間は多少エロになる。多少どころか大いにエロになることは、下調べで調べがついていた。だからエロになっちゃいけないと、大いに自戒していたのだが、八日目の日記にこんな文句があることを覚醒時に知って、私はぎくりとした。私がまくってたしなめられたのかと思ったのだ。(この頃の日記は文章も乱れていて、能動形も受動形もごっちゃになっている)
早速つきそいさんを呼んで調べて貰ったところ、まくったのは看護婦さんで(暑かったから)たしなめたのは私だったと判明して、ほっと胸を撫でおろした。(小心翼々たる様思い見るべし)
十日目あたりが最高潮で、前述の如く何を書いてあるか判読出来ない。便所と食事以外は、眠りに眠っていたものらしい。
そこを通り越すと、少し覚めて来て、また活動が始まる。廊下をうろうろしてよその部屋に遊びに行ったり、階下にテレビを見に行ったり。廊下は一間半ほどの広さがあるが、その両方の壁に両手をあてて、私は歩いていたという。(やはり同病の患者談。)いくら私の手が長いとはいえ、一間半の両側の壁に同時に手をあてるなんて、神業である。平均を取るために大手を拡げて、ふらふらとよろめき歩いていたから、そう見えたのだろうと思う。
茫漠たる記憶を探ると、私はこの頃テレビを見て、全然愉しくなかった。泥酔時と同じで、テレビの画面が二重に見える。それは苦痛なので、右眼を閉じたり左眼を閉じたり、片眼だけで眺めていたような記憶がある。筋なんかももちろんたどれない。瞬間瞬間がちらちらしているだけで、では何故そんな面白くないテレビを見に階下に降りて行くかというと、おれはまだ覚めているんだぞ、テレビを見る余裕があるんだぞと、他人にも見せ、自分でも納得したかったからだろうと思う。そして病室に戻って、今見て来たテレビ番組を丹念に日記に書き記したりしている。六月八日の日記。
「夜テレビ。ゼスチュアに大岡昇平出る。なかなか立派なり。碁は下手だけれども」
この夜の記憶も、私からさっぱりぬぐい取られている。後でこれを読み、大岡昇平が「ゼスチュア」に出るのは、どう考えても想像が出来なかったから、見舞いに来た家人に訊ねて見たら、「私の秘密」の誤りであった。「私の秘密」なら想像出来る。
こんな具合に、記憶にも残らないのに、震える手でせっせと日記を書き綴っている自分を考えると、何だかいじらしくて、肩でも叩いてやりたいような気がする。
半月ばかう経つと、眠りがだんだん覚めて来て、気分もはっきりして来る。眠るのは夜だけで、昼間は覚めている。飯を食う時間以外は、ベッドの上で週刊誌を読みふけったり、よその部屋に遊びに行って、花札をたたかわしたりする。この病院ではこいこいが流行していて、入院中に私も大いにこれに習熟した。これは神経科病室にふさわしくないほど、なかなか知的な遊戯である。
そこで私は病友諸君(神経症だのアル中だの鬱病だのいろいろ)を観察して、ひとつの発見をした。彼等には非常に左利きが多いということである。一々左利きか右利きかと聞いて廻ったわけではない。花札をたたかわしている手を見ると、直ぐに判るのだ。
大体左利きの人間は、幼少時から両親や先生に矯(た)め直されて、字も右で書くし、箸も右手で取るというのが多い。ただ花札みたいなことになると、先生だの両親だのは、右手でやれとは決して教えて呉れない。そこでどうしても利き手が出てしまうのである。
私のいた病院では、左利きの数の方が、右利きよりもずっと多かった。かく申す私も、生れつき左利きである。
何故左利きが神経科あるいは精神科の患者になりやすいか。つれづれなるままに、私は考えてみた。
前述の如く左利きというやつは、幼少時から両親や先生に圧迫されて、本来なら左手を使いたいところを、心ならずも右手を使用する羽目となっている。これは精神に対する相当な圧力だろうと思う。子供の時はまだ柔軟だから、その圧力に耐えるけれども、青年あるいは中年になると、その圧力の歪みがついに表面に出て来て、鬱病になったり神経がこわれたり、また酒でも飲まねばやり切れない気分になってアル中になるのだろう。そうとでも考えねば、病人に左利きが多いということは説明がつかない。
もちろんこれは私の仮説であって、一々データを取って調べたわけではない。そのうち暇があったら、正確なデータを取りまとめ、学界に問おうかと思っているが、もし読者諸子の中に左利きがおられるなら、日頃から神経を涵養(かんよう)し、精神を柔軟にして、精神科病院に入院する羽目にならないよう、御忠告申し上げたいと思う。
[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年十月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。この睡眠療法体験記は「私のノイローゼ闘病記」などとかなり被るので、「ズルフォナール」などは、そちらの注を参照されたい。
「讖(しん)ヲナス」未来の吉凶や禍福を推測して説くこと、予言するの意。古代中国の「讖緯(しんい)」に由来し、「讖緯の説」「讖緯思想」「図讖」などと呼ばれる。ウィキの「讖緯」によれば、『元来は、讖と緯とは別のものである。讖とは、未来を予言することを意味しており、予言書のことを「讖記」などと呼んでいる。それに対して、緯とは、儒教の経典に対応する「緯書」と呼ばれる書物群を指すものである。しかし、後には、この二者はともに予言を指す言葉と、それを記した書物として、併せて用いられるようになり、「讖緯」という用語が予言を指すようになった』。「隋書」の「経籍志」には(以下は引用元のそれを歴史的仮名遣に正し、漢字を正字に変え、読みを補い、一部の訓読を個人的に変更してある)、『説く者、又た云ふ、孔子は既に六經(りくけい)を敍し、以つて天人の道を明らかにするも、後世には、その意に稽同すること能はざるを知り、別に緯及び讖を立て、以つて來世に遺す』とある。『讖緯説が著しく発展したのは、王莽の新の時代である。王莽の即位を予言する瑞石が発見された、とされ、王莽自身も、それを利用して漢朝を事実上簒奪した』。『儒教の経書に対する緯書が後漢代にも盛んに述作され、それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられた。後漢の光武帝も、讖緯説を利用して即位している。また、春秋戦国時代の天文占などに由来する讖記の方も、緯書の中に採り入れられて、やがては、それらも、孔子の言であるとされるようになった。当時の大儒者であった鄭玄や馬融らも、緯書を用いて経典を解釈することに全く違和感を持っていなかった。よって、五経に対する緯書は言うに及ばず、当時は経典の中に数えられていなかった『論語』に対する『論語讖』というものまで述作されるに至った。その一方で、桓譚や張衡のような、讖緯説を信じない者は不遇をかこった』。『讖緯の説は、その飛躍の時代である王莽の新の時代以来、王朝革命、易姓革命と深く結びつく密接不可分な存在であったため、時の権力からは常に危険視されていた。よって、南北朝以来、歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし、その流通を禁圧している』とある。
「一間半」一メートル二十三センチ弱。
「ゼスチュア」「ジェスチャー」が正しい。昭和二八(一九五三)年二月二十日から昭和四三(一九六八)年三月二十五日までNHKで放送されたクイズ番組。梅崎春生の入院当時(昭和三四(一九五九)年五月から七月)の放映時間は火曜日の午後七時半から七時五十九分で、紅組のキャプテンは「ターキー」こと水の江瀧子、白組が柳家金語楼であった。レギュラー格の出演者(解答者)らは参照したウィキの「ジェスチャー(テレビ番組)」を見られたい。無論、私もリアル・タイムで見た。
「私の秘密」昭和三〇(一九五五)年四月十四日から昭和四二(一九六七)年三月二十七日までNHKで放送されたクイズ番組。梅崎春生の入院当時の放映時間は毎週月曜日の午後七時半から八時で、司会はNHKの名アナウンサーとして知られた高橋圭三。参照したウィキの「私の秘密」によれば、『一般視聴者からの参加者が登場し、その参加者の持つ特技、趣味、自慢などを』四人の『著名人で構成された解答者が質問を通じて当てる、という内容であった』。無論、こちらも私は見た。]
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