佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事
大蛸(おおだこ)馬に乘(のり)し事
享保の始(はじめ)、濁川(にごりかわ)町に、瀧浪友庵(たきなみゆうあん)と言(いふ)醫師有ける。
其頃高田氏何某(なにがし)、十五六才の時、或時友庵方へ行(ゆき)けるに、息の仲右衞門(ちゆうえもん)、古き橫帳を取出(とりいだ)し、小細工のよりにせん迚(とて)、彼(かの)帳をときたるを見れば、端(はし)に「蛸配り候覺」と有(あり)て、誰々と名を書(かき)續けたる也。去共(されども)、何心もなく、よりによりて細工に遣(つか)ひぬ。次の日、友庵へふと右の蛸の事を尋ければ、友庵語りけるは、
「夫(それ)は後世の語り傳へに、能(よき)證據なるを、などて失ひけるぞ」
と、仲右衞門を叱りけれ共、詮(せん)なく、角(かく)て、
「其(その)蛸の物語聞(きき)給へ」
とて、
「享保の今より、五六十年も先ならん。和泉村の百姓、馬を牽(ひきゐ)て、相川へ出(いで)、板町何某が方へ來り、肥(こえ)を取(とり)て、歸らんとするに、日いだくたけたり。雨氣の道、ぬかりたれば、中々、半途迄も行(ゆく)事かたしとて、其夜は居留(とま)りけるが、馬をば濱へ牽出(ひきゐだ)し、浪除の柵に繋ぎ置(おき)、翌日烏の告(つぐ)るを待(まち)て、起出(おきいで)、馬に荷鞍(くら)して、出立(いでたゝ)んと、濱に出て見れば、馬はなくて、繫ぎたる藁綱の、弐尺斗(ばかり)、切れ殘りたるさま、
『何物の業(わざ)なるぞ。又人の盜行(ぬすみゆき)けるにや』
と、あやしく、夫(それ)より濱傳ひ、下相川の邊り、吹上(ふきあげ)邊(あたり)までも、尋(たづね)求むれ共、なし。さらばと、下戸鹿伏(かふす)の邊(あたり)へ行(ゆけ)ども、見當らねば、誠に馬放せし人のたとへも、我身の上に知られて、又元の板町に立(たち)歸る時、上の方より沙汰して、
『北澤神明の上に、椎の木林に、化物出(いで)て、馬に乘(のり)居る』
抔(など)、取々に言はやして、
『我行(ゆか)ん』、『己もまからん』
なんと、ふためきあへるを聞(きく)に、馬に乘りし化物とは、耳寄(よせ)なれば、件(くだん)の馬士も、行(ゆき)て見るに、いでそも言ひしに違(たが)わず、法師の樣なるもの、馬にまたがりて、居たり。先達(さきだち)て、見屆たる人の、
『あれは大蛸(おおだこ)の馬に乘(のり)たる』
なんと、いゝあへれば、跡より、まかる人々に打交(うちまじは)り、強氣なく、近寄(より)て見るに、彼(かの)蛸、弐(ふた)筋の手を馬の平首にまとひ、手綱(たづな)を表するならん、四筋は下へ𢌞して腹帶とし、弐筋は鞭(むち)とす。かくて、有(ある)べきならねば、馬を牽(ひきゐ)て下る。馬放せし人は、德付(つき)てければ、頓(やが)て、蛸を引(ひき)おろし、大釜を借りて煮るに、壱筋の手の長さ、凡(およそ)疊表丈(た)ケにも過(すぎ)けるにぞ、是を切(きり)て、一きれつゝ、町並へ配當するに、坂下町の領分に餘り、濁川(にごりかわ)は半ば過(すぎ)配りけるなり。
『其時配りし門々を記し置(おけ)る帳也(なり)』
とぞ。されば、
『馬を取(とる)べき蛸ならんに、かしこくも、山へ逃(のがれ)し事よ』
と、其世の人々、言(いひ)あへりし」となん語られし。
[やぶちゃん注:「大蛸」実はこれは現在でも、タコの中で世界最大の種とされる、
軟体動物門 Cephalopoda 頭足綱 Cephalopoda 八腕目 Octopoda マダコ科 Octopodidae ミズダコ属 Enteroctopus ミズダコ Enteroctopus
dofleini
の異名であり、本話の体長の有意な大きさからも同種に比定するのが自然であると思われる。ウィキの「ミズダコ」によれば、本種は『寒海性のタコで、主に日本の東北地方以北の海に広く分布し、北太平洋が主な生息場所になる。カナダをはじめ、北アメリカ沿岸部にも生息している』とするが、佐渡、特に相川のある大佐渡の外洋側の海域は北から南下するリマン海流の影響を強く受けると判断でき、大型のミズダコが漂着することは充分にあり得ることと思う。『タコ類最大だけあって体、吸盤ともに非常に大きい。体長は足(腕)を広げると』三~五メートルに及び、体重十キロから五十キログラムにもなる。現在、体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムの最大個体記録がある(『ナショナル・ジオグラフィック』二〇一〇年二月一四日閲覧の注記有り)。『口のカラストンビは人の握り拳大ほどもあり、これで餌であるカニの甲羅や貝の殻を咬み砕くと言われるが、他のタコ』
(八腕目マダコ亜目 Incirrinaマダコ科 Octopodidaeマダコ亜科 Octopodinaeマダコ属 Octopusマダコ亜属
Octopusマダコ Octopus (Octopus) vulgarisなど)
『のような唾液のチラミン』(Tyramine:間接型交感神経興奮効果を持つ化学物質)『毒素の強さについては不明』。『体のほとんどが柔軟な筋肉であるため力が強く、巨大な個体に絡まれたら人間でも危険である。潜っていたときに襲われ、溺死した例もある。ただし、近づきすぎたり、刺激しない限りは故意にダイバーを攻撃することはない』。但し、『陸上では水中と違い、重い体重を支えることはできず、動けなくなってしまう』。『カナダ方面では大型化し、体長』三・五メートルにも『達する大物も少なくないと言われるが、生息地域が寒い海ということもあり、マダコなどに比べれば、まだまだ生態的に未解明な部分が多い』。『餌は主にケガニ』
(節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 軟甲綱 Malacostraca 真軟甲亜綱 Eumalacostraca ホンエビ上目 Eucarida 十脚(エビ)目 Decapoda 抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata 短尾(カニ)下目 Brachyura イチョウガニ上科 Cancroidea クリガニ科 Atelecyclidae ケガニ属 Erimacrus
ケガニ Erimacrus isenbeckii)
や『タラバガニ』
(抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata 異尾(ヤドカリ下目 Anomura ヤドカリ上科 Paguroidea タラバガニ科 Lithodidae タラバガニ属Paralithodes
タラバガニ Paralithodes camtschaticus)
『などの大型甲殻類』、魚類やホタテガイ
(軟体動物門 Mollusca 斧足(二枚貝)綱 Bivalvia 翼形亜綱 Pteriomorphia イタヤガイ目 Pectinoida イタヤガイ上科 Pectinoidea イタヤガイ科 Pectinidae Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis)
を始めとした多様な貝類や海胆(ウニ:棘皮動物門 Echinodermata ウニ綱 Echinoidea)類等、『手当たり次第に』捕獲して『貪欲に食べてしまう。本種が最大のタコでいられるのも、寒い海に生息するそれら大型甲殻類などの餌が豊富であり、そのために寒海には住めない他のタコ類との競争も減り、大型化していったと考えられる』。『天敵はイルカ』
(獣亜綱 Theria 真獣下綱 Eutheria ローラシア獣上目 Laurasiatheria 鯨偶蹄目 Cetartiodactyla ハクジラ亜目 Odontoceti の主にマイルカ科 Delphinidae に属する海豚(イルカ)類)
や『ラッコ』
(ローラシア獣上目 Laurasiatheria 食肉(ネコ)目 Carnivora イヌ亜目 Caniformia クマ下目 Arctoidea イタチ上科 Musteloidea イタチ科 Mustelidae カワウソ亜科 Lutrinae ラッコ属 Enhydra ラッコ Enhydra lutris)
や『アザラシ』
(イヌ亜目 Caniformia 鰭脚下目 Pinnipedia アザラシ科 Phocidae の海豹(アザラシ)類)
や『トド』
(食肉(ネコ)目 Carnivora アシカ科 Otariidae トド属 Eumetopias トド Eumetopias jubatus)
『といった海生哺乳類に、サメ類などの大型魚類などで、襲われると周囲のものに擬態したり、墨を吐いて逃走するが、それらに捕食されるのは小さな個体である場合が多く、巨大な個体なら逆にサメを捕食してしまう事すらあるほどの力を持っていて、充分に育った成体にはあまり敵はいないだろうとも思われる。また水族館では、同じ水槽内にいたアブラツノザメ』
(脊索動物門 Chordata 軟骨魚綱 Chondrichthyesツノザメ目 Squaliformes ツノザメ科 Squalidae ツノザメ属 Squalus アブラツノザメ Squalus
suckleyi)
『を攻撃し死亡させた例もある』。『他の多くのタコと同じく、寿命は』二~三年と『されていて、雄は雌と交尾した後、雌は卵を守り、孵化を見届けた後に一生を終えるが、地域別には』四『年ほども生きる個体もいるといわれる』。『雌雄の違いは雄の方が体も吸盤も大きく、相手を捕らえて抱え込んだり、吸い付く力も強力だとされているが、その吸盤の大きさから配列は大小ともに歪な感じがする。雌は雄に比べて、吸盤の配列や大きさが、比較的均等になっている』。『また、他のタコや周囲の状況に擬態したり、迷路を解いたりするなど高い知能を有している』。本邦では『本種は人間によって食用目的に捕獲されている。体が大きい分、水産上重要種と見なされ、蛸壺にて漁獲されている。また、マダコの流通が少ない北海道や東北でのタコというと大抵は本種であり、北海道では本種の漁獲高が最も多い。現在、需要が高いが、乱獲による個体数の減少も懸念されている。北海ダコという名称で呼ばれることもある』。『北海道・東北では、マダコの代わりに各種タコ料理として利用され、正月料理に使われるタコの多くは、ミズダコである。本来タコは、腕(足)の方が利用価値は高い。しかし、産地では、足より胴(頭)の方が食され利用頻度は高い(足よりも頭の方が安いという事情もある)。その他、口(顎板:通称タコトンビ)が食用とされる』。『マダコに比べて皮膚だけでなく、肉質も柔らかく、水っぽいのでコクが強いマダコよりおいしくないと言われるが、それが本種の名前の由来にもなっており、また、そのために食感としてはミズダコの方が歯触りが良いともいわれる。体の大きさから含まれるタウリン』(taurine:動物の体細胞を正常状態で保つ作用(ホメオスタシス)を持つ生体にとって重要な物質。イカ(頭足綱 Cephalopoda 鞘形亜綱 Coleoidea 十腕形上目 Decapodiformes の烏賊(イカ)類)・タコ・カキ(二枚貝綱 Bivalviaウグイスガイ目 Pterioidaイタボガキ科 Ostreidae 及びベッコウガキ科 Gryphaeidae に属する牡蠣(カキ)類)などの軟体動物では組織に遊離状態で豊富に存在する)『の多さでもマダコをしのいでいる。メスの方がオスよりも味が良いという意見もある。 また、吸盤が大きいことからミズダコのほうを好む人もいる』。『北海道での料理方法として、刺身(足、頭)寿司、たこ焼き(足、頭)の他には、おでんや塩茹で、たこしゃぶ(しゃぶしゃぶ)、燻製、酢蛸、塩辛(イカの塩辛とは別物)などがある。』とある。
「享保」一七一六年から一七三五年。始めであるから、以下の考証のために一七二二年ぐらいまでとしよう。
「濁川(にごりかわ)町」現在の佐渡市相川濁川町。相川中央北側の川の河口近くの両岸で、佐渡奉行所の西北の隣接地に当たる。
「瀧浪友庵(たきなみゆうあん)」底本は「滝浪友庵」。人物は不詳。
「息の仲右衞門(ちゆうえもん)」友庵の息子である。恐らくは高田某よりもかなり年下なのではあるまいか。
「橫帳」「よこちやう(よこちょう)」。用紙を横長に二つ折りして綴じた帳簿。細字で記入すれば所謂竪帳(たてちょう:用紙を縦に二つ折りにして袋綴じにした帳面。検地帳・宗門人別帳・五人組帳・村明細帳などの領主向け公式帳面は原則として全てこの形をとる)より多くの記載が可能で、紙の節約にもなる。年貢算用帳・小作収納帳など数字を列記する場合や、覚書き・日記などは概ねこの形をとる(まさに「新潟県立文書館」公式サイト内の「古文書解読の基礎知識」に拠った)。
「小細工のより」手慰みの遊びに遣うための紙縒(こよ)り。
「蛸配り候覺」「たこくばりさふらふおぼえ」。後で明らかになるように、以下に語られた化け大蛸を茹でて捌(さば)き、それらを人々に分配した際の、分量や配布先の人々の名を一々記した覚書であったのである。前振りにはここに語れた馬に跨った蛸の一件についても記されてあったと考えるのが自然である(事実とすれば、である。或いは単に浜辺に巨大な蛸が打ち上がったのを処理したと書かれていたのかも知れぬ。漁師が生捕ったものならば、その大蛸と漁師の武勇仕立てにすれば十分怪異譚になるのであるから、漂着物の可能性が高いようには思われる)。
「友庵へふと右の蛸の事を尋ければ」訊ねたのは実は高田某であろう。そうしたところが、友庵が思いの外、息子をきつく叱り、息子は泣き出し、一緒に紙縒りにしてしまったその場にいた高田は何とも申し訳なく思って、「其(その)蛸の物語聞(きき)給へ」と友庵に乞うた。それを高田が後に記したか或いは語ったというのでなくては、高田の出番がないからである。
「享保の今より、五六十年も先ならん」明暦二(一六五六)年前後から寛文一二(一六七二)年頃か。第四代将軍徳川家綱の治世である。
「和泉村」現在の佐渡市和泉。現在は飛び地で二分しているが、大佐渡の南部の妙見山の南部分から南東、佐和田の内陸域に当たる。
「板町」相川の濁川町の更に海寄りの左岸に現存する。
「肥(こえ)を取(とり)て」農作物の肥料にする人糞を汲み取って。
「いだくたけたり」「痛く闌(た)けたり」。思いの外、とっぷりと暮れてしまったのである。
「雨氣」「うき」。或いは既に止んでいたのだが(馬を浜の柵に繫いでいるところから推理出来る)、その日は一日雨模様で雨上がりであったのであろう。
「半途」泉村まで皇行程の半分の謂いであろう。大佐渡の南を廻つとなったら、これはとんでもない距離(二十キロメートルはある)があるからあり得ず、ぬかり道では山越え(直線でも十キロメートルある)も難いのである。
「浪除の柵」「なみよけのさく」。太い材木をみっちりと組んだ一種の防波堤と想像される。かくするところを見ると、この時は既に波浪も激しくなかく落ち着いていたのであろう。
「烏」「からす」。
「荷鞍(くら)して」これは思うに「荷と鞍」ではなく、左右に肥え桶(たご)をバランスよく配した荷を馬に負わせるための鞍と読む。
「弐尺」六十一センチ弱。
斗(ばかり)、切れ殘りたるさま、
「又」或いはまた。
「下相川」現在の佐渡市下相川地区は板町から北へ七百メートル強。
「吹上(ふきあげ)」佐渡市下相川吹上は下相川のさらに北地区の吹上海岸。ここは金山で発掘した岩岩石を擂り潰すための臼を作るための石切場跡として知られる。
「下戸鹿伏(かふす)」「下戸」は「おりと」と読むと思われる。今度は反対の相川の南端である。現在も下戸(おりと)村が、そのさらに南西の海岸域に相川鹿伏(かぶせ)の地名が残る。因みに私は二度の佐渡行では、その鹿伏の更に西にあるホテル大佐渡に泊まった。
「馬放せし人のたとへ」不詳。「淮南子(えなんじ)」の「塞翁が馬」ではここで途方に暮れて、「我身の上に知られて」呆然と「又元の板町」へととぼとぼ帰って行く百姓のエピソードには相応しくない。識者の御教授を乞う。しかし、実は私はこれはやはり「塞翁が馬」を伏線としているように実は思っている。以下の「德付(つき)てければ」の注を参照されたい。
「沙汰して」知らせ。
「北澤神明」この社(やしろ)は確認出来ないものの、板町からずっと川を遡って東に折れた佐渡奉行所の東北の両岸は現在、相川北沢町である。この付近でロケーションとしてもしっくりくる。地図上では現在、当該地北沢町の北直近の下山之神町に八幡宮を現認出来る。
「ふためきあへる」慌てて騒ぎ立て合っている。
「耳寄(よせ)なれば」馬を失った百姓にしてみれば、無視出来ない耳よりの話(或いは自分の馬であるかも知れないから)なので。
「いで」感動詞。「いや! もう!」。
「法師の樣なるもの」坊主のような、つるんとした頭の奇体な者。タコ坊主とはよく言ったものだ。
「先達(さきだち)て、見屆たる人の」この読点はない方がよい。野次馬どもの先の方で既にその正体を見届けた人が。
「なんと」「抔(など)と」の意か。或いはまた、前の台詞についているものであって、「乘りたるなむ」、余韻を示す係助詞「なむ」で「乘りたるなむある」の結びの省略ともとれないことはない。異常な光景には後者の方が私にはしっくりくる。
「跡より」自分と同様に群集の「あと」の方から或いは「遅れて」(群がってゆく人々に「打交(うちまじは)り」。
「強氣なく、近寄(より)て見るに」そのような奇体な化け物と言われては、とてものことに気の強さも起こらず、おっかなびっくりで近寄って見て見たところが。
「弐(ふた)筋の手を馬の平首にまとひ、手綱(たづな)を表するならん、四筋は下へ𢌞して腹帶とし、弐筋は鞭(むち)とす」「平首」馬の首の両側の平らな部分。「手綱(たづな)を表するならん」そのようにすることで手綱を執っているようなポーズを表わしているつもりなのだろうか。「腹帶」「はらおび」で馬の背に鞍 を附けるために馬の腹に締める帯。計八本の足を馬上の蛸にとって必要十分条件で実にしっかりと腑に落ちる形で説明されてある妙味を味わうべし!
「かくて、有(ある)べきならねば、馬を牽(ひきゐ)て下る」かくして(その箇所は存在しないものの、彼の馬であることが確かにはっきりと認められたのである)、こんな奇体なことはあり得ようはずはないから――しかし、現に事実として「ある」のである――ともかくも、神明社の神域を穢そうずものなればこそ、百姓はその馬を化け蛸の跨ったまま、急いで社から引いて麓へと下っていったのである(北沢神明社が小高い位置にあることがこれで判る)。
「德付(つき)てければ」当初、私は余りの奇体な現象或いは洒落にならない悪戯に「どくづいて」(毒づいて)、「ひどく罵りの言葉を吐いて」の謂いかと読んだのだが、どうも「ければ」という部分と、次のシークエンスへの速やかなジョイントを考えるなら、これはまさに、やはり「塞翁が馬」なのであって、馬を失ったと思った百姓の元に、巨大な蛸を引き添えて帰ってきた、――予想外の「德」(とく)が「付」加されて手元に戻ったので――という謂いではあるまいか?
「壱筋の手の長さ、凡(およそ)疊表丈(た)ケにも過(すぎ)ける」一本の腕足だけでも畳一枚の長辺を有に越える長さであった。江戸時代の畳の寸法は種々あるものの、概ね六尺と考えてよいから、一メートル八十二センチを越える長さということにある。
「一きれつゝ」ママ。
「坂下町」「坂下町」現在の北沢町の下流、濁川町の上流の両岸の当時の佐渡奉行所の北方に位置する、相川坂下町である。
「馬を取(とる)べき蛸ならんに、かしこくも、山へ逃(のがれ)し事よ」この一般大衆の褒め言葉から、この馬は大蛸に襲われて喰われそうになったが、組みついた蛸を巧みに馬上に載せ、山へと逃げて、化け蛸を退治したと真面目に信じていることが判るのである。ここまでの本書の中では、これ、そのまことしやかな種明かしなども全く不要なる、すこぶる微笑ましい大ダコ怪「奇」笑談である。相川の民草の気持ちのいい笑い声が聴こえてくるではないか。]