諸國百物語卷之二 十五 西江伊予の女ばうの執心の事
十五 西江伊予(さいごういよ)の女ばうの執心の事
江州澤山(がうしうさわやま)に、伊井のなにがしの家中に、西江伊予と云ふ人あり。三とせがほど、知行所(ちぎやうしよ)にこもりゐて、わかき女どもをてうあひし、あそばれけるゆへ、本妻、嫉妬ぶかき人にて、なかなが是れをいかり、つねづね、ほむらをもやされけるが、つゐにおもひ死にしける。つねづね申されけるは、
「われ、としごろのほむら、いづくへかゆくべき。もしあひはてなば、一日二日があいだには伊予どのをむかへに來るべし。もしさもなくは、みなみな、われをあざけりわらふべし」
とて、白きくすりを、かゞみの下にいれをき、
「われまつごにをよぶとき、此くすりをのますべし」
とて、そのゝち、ほどなく、あひはてられけるが、いひごんのごとく、くだんの藥をあたへける。伊予は知行所よりかへりて、葬禮、ねんごろにとりをこなひ給ひける。そのゝち、屋のうち、なりわたりて、すさまじき事、いふばかりなく、かなしき事もよそになり、みな人、いろをうしなひける。本妻あひはてられてのち、三日めの事なるに、伊予、かわやへゆかれけるに、しばらくありて、かわやのうちにて、まろびたをるゝおとしければ、人々おどろき、かわやの戸をひらきてみれば、伊予がまなこ、玉をほりぬきて、ころしをきける。さて手(て)かけの子、あとをつぎければ、つねに、屋なり、すさまじく、戸しやうじを取りはづし、なげすて、たれがするともなく、けしからずあれければ、その子、母を辨才天にいわひしより、そのゝちはしづまりたると也。
[やぶちゃん注:「西江伊予(さいごういよ)」不詳。後注に示す通り、実在した井伊氏家中の者がモデルか。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『井伊氏重臣に西郷氏がある』と記す。
「江州澤山(がうしうさわやま)」滋賀県彦根市内。
「伊井のなにがし」井伊氏の意識的変字。近江国佐和山藩初代藩主は井伊直政(永禄四(一五六一)年~慶長七(一六〇二)年)で、彼は嫡子直継(第二代佐和山藩藩主)に当時の居城であった佐和山城とは別に、新たに彦根城を築城するように命じ、直継は彦根城(彦根市金亀町。佐和山城の西南西一・七キロメートル)を完成させたが、直継は病弱で(実際には一部の家臣団や家康自身が彼の力量を見限っていたために江戸藩邸に半ば軟禁されていたともされる)大坂の陣に参陣出来なかったことを理由とし、上野安中藩に三万石を分知され、移封されてしまう(この時、直勝と名を改めている)。彼に代わって参陣し、活躍した弟直孝が、佐和山藩を廃藩して改めて置かれた彦根藩の藩主となった(この時、直継の藩主としての履歴は抹消されており、現在も直孝が彦根藩第二代とされている)。幕末まで井伊家が継いだ。なお、第十五代藩主は、かの井伊直弼である。本話が「澤山」と限って用いているところからは、第一代直政の治世を暗に措定しているものか?
「知行所(ちぎやうしよ)」前記「江戸怪談集 下」の脚注に西江伊予の『所領地。佐和山藩内にあり、城下の屋敷とは別』とする。ここには佐和山藩としるしており、城下とは彦根城下ではなく、佐和山城下という謂いであるから、高田衛氏は本話柄の時制を直政の入部(慶長五(一六〇〇)年の関ヶ原の戦い以後)からその死(関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因とされる。ウィキの「井伊直政」によれば破傷風とも)までの閉区間に措定していることが判る。
「てうあひ」「寵愛」。歴史的仮名遣の誤り。「ちようあい」でよい。
「なかなが」ママ(底本は後半が踊り字「〲」となっているからかく表記した)。副詞「なかなか」(とても)の誤りとも見えるが、これは後の「つねづね」と対となると考えるなら、「長々」「永々」の謂いと考えてもなんらおかしくはないが、にしても「なかなが」は結局、おかしい。
「ほむら」嫉妬の「焰」(ほむら)。
「おもひ死に」「思ひ死(じ)に」。怨み死に。本来は恋い焦がれて死んでしまうことを指すが、考えてみれば、激しい嫉妬を燃やして狂死するということは、尋常ならざる恋情を夫に持っていたことになるわけで、なんら、これ、おかしな謂いではない。
「としごろ」「年來(としごろ)」。
「いづくへかゆくべき」「何處(いづく)へか行くべき」。強烈な反語であることに注意。「妾(わらわ)は何処へ行くというのか?! あの憎っくき非情の夫、それでも愛する夫をおいて、何処へ行くというのか?! いいえ! 何処にも参らぬ!! 妾はこの世に居続ける! そうして――そうして必ずあの夫を迎えに、来てやるッツ!!!」という怨詛の台詞なのである。
「いれをき」「入れ置き」。歴史的仮名遣の誤り。
「まつごにをよぶとき」「末期に及ぶ時」。臨終の際。
「此くすりをのますべし」この薬を必ず私の口の中に含ませなさい。これは霊魂を一時的に現世に留置させ得る霊薬としか読めぬ。この薬の正体、知りたいなぁ!
「いひごん」遺言。
「ねんごろにとりをこなひ給ひける」「懇ろに執り行ひ給ひける」。
「屋のうち、なりわたりて、すさまじき事、いふばかりなく」半端ないポルターガイスト(Poltergeist:ドイツ語「polter」(騒がしい)+「geist」(霊)・「騒がしい幽霊」)現象が起こったのである。恐らくは物が飛んだり(天狗礫(てんぐつぶて:石が空から突然降ってくる超常現象とされるもの)などを含むであろう)、移動したり、天上から激しい落下音、床下から突き上げるような音がするのである。これはもう、ただのラップ(Rap)現象(人的関与や作為なしに誰もいない部屋や、何も置かれていない空室から、ある種の音が発生して鳴り響く、超常現象とされるもの)とされる現象のレベルではないからこそ、次の言葉も出てくるのである。
「かなしき事もよそになり」主人の葬儀後の正妻の死という悲しみや喪の意識も、これ、そっちのけになってしまい。
「かわや」「厠」。歴史的仮名遣の誤り。
「まろびたをるゝおと」ドスンと転倒するような音。
「伊予がまなこ、玉をほりぬきて、ころしをきける」「伊予が眼、玉を彫り拔きて、殺しける」
「手(て)かけの子」「妾の子」。めかけの子。本妻との間には子がなかったか、或いは夭折してしまっていたのであろう。「てかけ」「めかけ」とは「他と違って手や目をかけて愛し育む者」の意が語源である。
「屋なり」「屋鳴り」。
「戸しやうじ」「戸・障子」。
「けしからず」まずは第一義の「怪しい・異様だ」、次に明らかに「よくない」徴候、それに程度が「ひどい・甚だしい」の意を加えた三重の意を添えた語である。
「その子、母を辨才天にいわひしより」その妾の子(嗣子であるから単に「母」と書いておかしくない)が義母を弁財天として祀ったことから。何故、弁財天か? ここは彦根の佐和山で琵琶湖西岸、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つ竹生島宝厳寺も近いし、琵琶と言えば弁財天、また、神道・仏教の習合形態の中で女の神仏化といったら、まんず、彼女、数ある仏像の中でも唯一完全な美形の女神仏として造形される数少ない弁財天で、女性を神仏化して祀るとなれば最も相応しい(仏教には今一つ、鬼子母神がいるが、この像がおとろしけない。あれでは義母も厭がろう。神道の天照大神ではちょっと厳か過ぎて、嫉妬に駆られて狂死した女を神格化するには馴染まぬ。また、天鈿女(あめのうずめ)では、これ、ちとエロティック過ぎるし、実は彼女はそれほどメジャーではない。観音は概ねすこぶる女性的に造形されるものの、一般的仏説では中性とされる)。前記「江戸怪談集 下」の脚注で高田氏は『民間では、水神、音楽神であるとともに、嫉妬する女神としての信仰があった』と記す。確かに弁財天は嫉妬によって恋人の仲を裂く力、縁切りの能力を持つという俗信が古くからあった。ここは西江もその本妻も亡くなっており、嗣子の子も未だ独身のようであるから、彼が嫉妬する女神として本妻を祀るのにはこの時点では問題はない。但し、彼が妻を迎えた場合、そのパワーが再燃する惧れは十分にあるとは言えるから、迎えた妻とは拝礼しないことが望まれるか(例えば近現代の江ノ島神社などはその辺りの俗信を払拭して参詣者を呼び込まねばならなかった。昭和四六(一九七一)年三月七日に「お岩屋」で落石事故のために二人が亡くなった時でさえ、まことしやかにその噂が流れ、新聞にも書かれたのを私は忘れない。因みに、この事故を以って岩屋は立ち入り禁止となったが、一九九三年に再改装されて復活した。言っておくが、私は江ノ島を愛して止まない江ノ島フリークでもある)。因みに、かの忌まわしい明治の廃仏毀釈でも概ね、神道が受け入れて生き残った(寺院が残したり、持ち出して廃棄流失を免れたものもまた多い)のもこの弁財天であるが、それは何故かといえば、私は、男或いは男からしか仏菩薩になれないとする、如何にも差別的でかったるく迂遠な信仰(変生男子(へんじょうなんし)説)からか、美形の仏像でも、元(もと)男か、或いは、男根が渦を巻いて股間に封じられていたりする(そう彫られている裸になった古い地蔵菩薩像を私は知っている)点で仏教系では意識的に下位に置かれていた(しかし、そのあからさまな女体表現に実は僧侶も魅惑されていたに違いないのだが)のに対し、女神が異様に多く、女の性的属性に対しても圧倒的に受容耐性に富んでいた神道系の認識は、こうした艶っぽい形象の弁財天像を逆に受け入れるに寛容であったからだと考えている。]