芥川龍之介 手帳6 (4)
○孔子廟 門 池 杉 禮門black. 石獅 池 石橋 靑衣 テン足の老婆 女子 アバタ 塔 桑 門 毒ダミノ花 鐘 太鼓(大中小) 廊 煉瓦 廊 大イテフ 二三本 石階 龍 ○大成殿 群靑へ白 赤瓦 大廊 黃柱 黃壁 萬世師表 朱金 臭氣 蝙蝠の糞 異臭
[やぶちゃん注:「○大成殿」は底本では一見行頭に来て改行されているように見えるが、大成殿は孔子廟の正殿であるから、連続したものととった。
「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の一〇三五年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。
「テン足」纏足。
「女子 アバタ」後者は「痘痕(あばた)」である。「江南游記 十五 蘇州城内(下)」に「痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子」が登場する。
「大成殿」孔子廟の正殿。
「萬世師表」「万世の模範」という意味の成語。魏の文帝が孔子を褒め称える言葉として「師表」を用い、後に清の康煕帝が孔子廟に「萬世師表」(それで「孔子は永遠の師」の意となる)の額を掲げた。
「蝙蝠の糞」やはり、「江南游記 十五 蘇州城内(下)」で「戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黃色(きいろ)の壁、群靑に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。
「何です、あれは?」
私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。
「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」
島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。
「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」
「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」
驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺靑(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新綠の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」と美事に素材化されている。]
○玄妙觀 觀後の畫□ 劍術(四人) 赤毛の槍 手品 秋になると虫の鳴き合せ
[やぶちゃん注:「玄妙觀」西晋の咸寧年間(二七五年~二八〇年)に創建された道教寺院。但し、玄妙観という呼称は元代以降のもの(それまでは真慶道院)。明の一三七一年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積四ヘクタールに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊と修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(これは主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観」の記載を参照した)。
「畫□」「江南游記 十四 蘇州城内(中)」に、玄妙観の「中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない」とあるから、これは玄妙観の中の後ろの方に安っぽい「書畫」を売っているというメモを、旧全集の編者が「書」を「畫」と誤判読した結果、後の「畫」が読めなくなってしまったのではあるまいか?
「劍術(四人) 赤毛の槍」「江南游記 十四 蘇州城内(中)」に、「堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた」と活写されるシークエンスのメモである。]
○北寺 七塔 桃色の壁 入口暗し カンテラの塔 所々の金佛 遙に瑞光寺の癈塔
[やぶちゃん注:「北寺」蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の太祖孫権(一八二年~二五二年)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。が母への報恩を目的に造立(二四七年~二五〇年頃)した通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた。
「七塔」北寺塔。諸注が孫権の建立とするこの塔の元自体は梁時代(五〇二~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、芥川が登った現在の八角形九層塔(私も登った)は南宋時代の一一五三年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ七十六メートル、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。
「桃色の壁」「江南游記」の私の注に掲げた教え子の写した塔内部の写真「北寺塔内階梯」を参照されたい。
「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の一三五一年の再建になる)の北側に聳える瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の二四一年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ四十三・二メートル。]
○盲人の胡弓 轎子の美人 珠玉商 裝飾商多し 驢上の客
[やぶちゃん注:「轎子」「けうし(きょうし)」。お神輿のような形をした乗物。既注。]
○ホテル 野雉 三階 胡弓 朝のバラ賣り 靑衣の婆
[やぶちゃん注:「野雉」“yĕzhì”(イエヂィー)は街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えた。後の「上海游記 十四 罪」に登場する。]
○天平山 山羊 犬與日奴不得題壁 高義園 天平地平 人心不平 人心平平 天下泰平
[やぶちゃん注:「天平山」は蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。
「犬與日奴不得題壁」訓読すると「犬と日奴とは壁に題することを得ず」で、「犬と日奴(日本人野郎)は壁に落書きするな」の意。これは有名な上海外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The
Bund”バンド)あった“Public
Garden”パブリック・ガーデンの入口の看板「華人與狗不得入内」を逆手に取ったパロディである。(芥川龍之介「上海游記」の「十二 西洋」等の本文及び私の注を参照されたい)。この落書きは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」に描写されている。
「高義園」天平山の麓にある林泉式庭園。林泉式とは泉水・築山・曲水・樹林など自然の景観を真似て造られた庭園を言う。「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に出る。
「天平地平 人心不平 人心平平 天下泰平」これも反日落書き。日本語は勿論小気味よいのだが、これを拼音(ピンイン)で示すと、
“tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpíngpíng,
tiānxiàtàipíng”
(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピンピン、ティエンシィアタイピン)
若しくは、
“tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpiánpián,
tiānxiàtàipíng”
(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピェンピェン、ティエンシィアタイピン)
となってより美事である。因みに、後者は「平平」の部分の意味を「安らか」の意でなく、「整い治まる」として用いた際の読みを試みたものである。やはり「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に出る。]
○諸君儞在快活之時不可忘了三七二十一條
[やぶちゃん注:「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」に出る反日落書き。訓読するなら、「諸君、儞(なんぢ)、快活の時に在りて、三、七、二十一條を忘了(ばうりやう)すべからず」で、「三七二十一」は九九の掛け算で読む。「君たち! そこの、あなた、だ! この大事な時にあって、あの屈辱的な二十一ヶ条を忘れてはならない!」の意。本邦で言う通称「対華二十一ヶ条要求」のことを言っている(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)。大正四(一八一五)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約。第一次世界大戦に敗北したドイツの山東省での権益の日本継承・関東州租借期限延長・満鉄権益期限延長・漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)日中合弁化等を内容とした、あからさまな不平等条約であった。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した五月九日を国恥記念日と呼び、学生・労働者のストライキから、一八一九年の五四運動の火種となった(以上は主にウィキの「対華21ヶ条要求」を参照した)。]
○棗 栗 西瓜 枝豆(茹而干) 貝障 楓二抱
[やぶちゃん注:「棗」双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメZiziphus jujuba の実。中国北部原産の落葉高木で、果実を乾燥させて「干しなつめ」とし、漢方薬や菓子材料として利用される。
「茹而干」「ゆでてほす」。
「貝障」「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」で天平山白雲寺を見学した芥川龍之介がそれこそ前に出た「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」や多くの反日落書きを見、
*
欄外の若楓(わかかへで)の枝が、雨氣(うき)に垂れたのを眺めながら、若い寺男の持つて來る、抹香臭い茶を飮んだり、固い棗(なつめ)の實を嚙つたりした。
「天平山は思つたより好い。もう少し綺麗にしてあると猶好(よ)いが、――おや、あの山の下の堂の障子は、あれは硝子(がらす)が嵌まつてゐるのですか?」
「いや、貝ですよ。木連(きつ)れ格子(がうし)の目へ一枚づつ、何とか云ふ貝の薄いやつを、硝子代りに貼りつけたのです。[やぶちゃん注:以下略。]
*
とある、「貝障子」のことである。この「木連れ格子」とは屋根の妻(切妻や入母屋(いりもや)の屋根の側面の三角形の壁面部分)の飾りの一つで、格子の内側に板を張ったもの。狐格子・妻格子等とも呼称するもの。「何とか云ふ貝」は二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ(窓貝)Placuna placenta 若しくはその近縁種と推定する。円形で殻長は約八センチ。右殻は平らで薄く、白色半透明。熱帯の浅海に生息する。貝ボタンの材料とする一方、中国やフィリピンではここに出るように昔から、窓にガラスのように使用された。現在もアクセサリーや手工芸品(風鈴・モビール・トレー等)に用いられている。]
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