諸國百物語卷之二 十八 小笠原殿家に大坊主ばけ物の事
十八 小笠原殿(どの)家に大坊主(をゝばうず)ばけ物の事
慶長年中に、小笠原の何がしの内儀、とし四十四五にて疱瘡(はうそう)せられしが、大せつなりしゆへ、小笠原どのも、つぎの間にて、くすりの御だんがうなどしてゐられけるに、をくの間より、女ばうしう、
「をそろしき事あり」
とて、かけいづる。小笠原どの、をくへ御入り候ひて見給へば、屛風のうへより、まつくろなる大ぼうず、御内儀をみて、わらひゐける。小笠原どの、やがて刀をぬき、きりはらひ給へば、かのぼうずは、きへうせけり。あくる夜もまたきたるべしと思ひ、さぶらひども五六人、をくへよび置き、まちかまへゐたる所へ、あんのごとく、くだんのぼうず、又、びやうぶのうへより、あたまをいだす。
「なに物なれば、かやうにへんげをなしけるぞ」
と、しかり給へば、かのぼうず、内儀をひつつかみ、天井をけやぶりてあがる所を、さぶらひども、御内儀にとりつき、ひきとめんと、しける。ぼうずは、かみへ、ひきあげん、とす。このいきをいにて、御内儀をふたつにひきさき、くびをば、とつて、かへりけると也。そのゝち一年ほどがあいだは、殿、せつちんへゆき給へば、ひやゝかなる手にて股をなで、あるひは、せつちんのかけがねを、そとよりかけるなど、色々のすさまじき事をゝかりしと也。
[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「小笠原殿家内大坊主の事」。
「小笠原殿(どの)」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『小笠原を名のる家は多いが、大名とすれば、小笠原信濃守秀政であろう』と記す。冒頭の「慶長年中」とも合致し、信濃守護小笠原氏の末裔で下総古河藩主・信濃飯田藩主・信濃松本藩初代藩主にして小笠原宗家初代である小笠原秀政(永禄一二(一五六九)年~慶長二〇(一六一五)年)ウィキの「小笠原秀政」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)、『小笠原貞慶の長男として山城宇治田原』(現在の京都府綴喜(つづき)郡宇治田原町(うじたわらちょう))『で生まれる。この頃の小笠原氏は武田信玄に信濃を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正十年(一五八二年)六月の本能寺の変で織田信長が死去すると、父・貞慶は徳川家康の家臣となるため、長男の貞政を人質として差し出し、石川数正に預けられた』。『天正十三年(一五八五年)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。貞政は秀吉より偏諱を与えられ』、『秀政と名乗る。天正十七年(一五八九年)一月、父から家督を譲られて小笠原氏の当主となる。八月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫(信康の娘)を娶ることを許された』。『天正十八年(一五九〇年)、父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総古河に三万石を与えられた。同年の小田原征伐でも軍功を挙げた』。『文禄四年(一五九五年)三月二十日、従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられる』。『慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき』、『宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(一六〇一年)に信濃飯田五万石に加増移封される。慶長十二年(一六〇七年)、出家して家督を長男の忠脩』(ただなが)『に譲る。慶長十八年(一六一三年)に父祖の地である信濃松本八万石に加増移封された』。『慶長二十年(一六一五年)の大坂夏の陣に参陣し』、『榊原康勝軍に従って、本多忠朝を救援する。しかし天王寺口の戦いで大坂方の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる。享年四十七』。『跡を次男の忠真が継いだ。なお、このときの秀政の戦死が、後世の小笠原氏の改易危機の際に、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した』とある。
「慶長年中」グレゴリオ暦一五九六年から一六一五年。
「疱瘡(はうそう)」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注など参照されたい。私はかなり沢山の電子テクスト注で「疱瘡」を扱っているが、リンク先は、ごく初期のものである。
「大せつ」重大な事態であること。当時の痘瘡は特に成人が罹患した場合、重篤化することが多く、死亡することもあった。
「だんがう」談合。処方についての協議検討。
「女ばうしう」「女房衆」。
「をそろしき事あり」
「かみへ」「上へ」。
「いきをい」「勢(いきほ)ひ」。歴史的仮名遣の誤り。]