柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(3) 村の爭ひ
村の爭ひ
奧羽地方の鹿踊の鹿頭は、一般に靈あつて能く賞罰すと信ぜられたのみならず、鄰同士で喧嘩をして咬み合つたといふ話が、幾つとも無く傳はつて居る。秋田縣では平鹿郡淺舞のシシ塚などが、その有名な一つの例であつた。昔大森の町から鹿踊(しゝをどり)が遣つて來て、爰で山田の鹿頭と鬪つて負けたので、それを埋めて此塚が築かれたと謂つて居た。同郡の河登といふ部落にもシシ塚の梨の木といふのがあつた。周圍五尺餘りの空洞木で、下には亦鹿踊の頭が埋めてある。是も古くシシの大喧嘩があつたので、埋めてあるのは負けた方か勝つた方か、其點は明瞭で無いが、兎に角此村へは其から以後、鹿踊が入らぬことになつて居た。同じ名前の塚は尚村々に多く、由來は何れも同樣であつたが、土地の人たちは或は之を實際的に解して、以前鹿踊の大にはずんだ時代、喧嘩の爲に傷き死する人があつて、それを裡めたものであらうと謂つたのは、全く塚まで築いて踊の面ばかりを、埋めたといふ理由が不明になつた爲で、それだけ又著しい信仰の變化が、古代を近世から引離して居たことも察せられるのである。
右の舊傳を錄した雪之出羽路といふ書物は、同じく白井翁の遺稿であるが、是には鹿踊を獅子舞と書いてあつた。鹿ならば殊に其樣な荒い鬪爭をするわけが無いと、考へられたのも尤もなことである。併し立派に角があるのだから、何としても仕方が無い。村々鹿踊の組が各其力を發揮しようとすると、斯ういふ衝突は免がれぬわけだつた。殊に此踊の目的は災害を我領分から追佛ふのだから、鄰村より見れば常に侵害である。双方の主張を折合はせようすれば、爭鬪が無くともやはり境の上に、塚でも築くより他は無い。それ故に必ずしも其通りの事蹟は無くとも、斯ういふ言ひ傳へは起り易かつたのである。現に東京の近くでは二合半領の戸ケ崎村に、又次の樣な話もあつた。村には古くから三つ獅子と稀して、越後獅子程の頭に俣のある二本の角あり、鷄の毛を以て飾としたものがあつた。寶永元年の大洪水の時、水練の達者な者が之をかぶつて、夜明け前に向ふ岸へ泳いで行くと、水番をして居た人々は大蛇かと思つて、驚き怖れて逃げ散つた。其間に安々と對岸の堤を切つて還り、我村の水害を免がれたと謂つて居る。是なども多分は話であつたらうと思ふ。
[やぶちゃん注:「平鹿郡淺舞」秋田県の旧平鹿(ひらか)郡にあった村。現在の平鹿町浅舞。横手市南西部の国道百七号線沿線に相当する。
「シシ塚」現存確認出来ず。識者の御教授を乞う。
「大森」横手市大森町であろう。浅舞の北西十キロ、雄物川の向こう岸一帯。
「同郡の河登」文庫版全集では『かわのぼり』とルビする。不詳。旧郡域にはこの地名を現認出来ない。識者の御教授を乞う。
「シシ塚の梨の木」「河登」の位置が不明なので現存するかどうか不詳。なお、鹿とは無関係に梨の木をある塚の目印に植えたとする伝承は日本各地に数多く存在する。
「五尺」一メートル五一センチ強。
「雪之出羽路」柳田が述べている通り、菅江真澄(本名・白井秀雄)の「雪の道奥(みちおく)雪の出羽路」(享和元
(一八〇一)年筆)のこと。津軽から出羽に入った旅の記録。ウィキの「菅江真澄」によれば、深浦(現在の青森県西津軽郡深浦町(まち))の人々に送られ、途中、岩館(いわだて)村(秋田県の旧山本郡内。現在は八森(はちもり)町内)で『ハタハタ漁の様子や伝説等を記録、能代に』十一月六日に到着、六日間『滞在し、山王社や住吉社の縁起を詳細に記録した』。一日市(ひといち:現在の南秋田郡八郎潟町)に一泊して十三日には土崎湊(つちざきみなと:現在の秋田県秋田市北部の地区名)に『来て滞在した。津軽藩から土崎まで真澄を見送りした人もいる。年の終わりに雪ぞりに乗って久保田城下に入った。市内の市場の様子を記録する』とある。
「二合半領の戸ケ崎村」文庫版全集では「二合半」に「こなから」とルビする。但し、これは正確には「二郷半領」が正しい。埼玉県吉川市の公式サイトのこちらによれば、十四世紀の後半、五十戸以上の集落であった「吉川郷」と「彦成(ひこなり)郷」(現在の三郷市)の二郷と、その南にあった五十戸に満たない集落の「半郷」を合わせて「二郷半領」と呼ぶようになった、とある。現在、埼玉県南東部北葛飾郡松伏町金杉地先の江戸川から吉川市を通って三郷市戸ヶ崎を経る用水路に「二郷半領用水」があり、この「戸ケ崎村」はそこ(因みに、全集の読みの「こなから」は確かに「小半ら」「二合半」と漢字を当て、この原義は「全体の半分の半分」で「四分の一」のことである。但し、特に米や酒に於いて「一升の四分の一」即ち「二合五勺」を指した。他に「少量」の意にも用いる)。この戸ヶ崎は現在、地図で見る限り、北を中川が、南を大場川が流れている。但し、地図で見る限りではここで出る川は中川かと思われ、現在、その対岸(中川右岸)域は埼玉県八潮(やしお)市である。
「寶永元年」一七〇四年。この年にこの流域で洪水が発生したことは事実である。「利根川氾濫流の流下と中川流域」(PDF)を参照されたい。]
« 甲子夜話卷之二 13 新金焚て色變じたる事 | トップページ | ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 大人國(4) 箱の中の私(Ⅱ) »