佐渡怪談藻鹽草 仁木與三兵衞賭ものに行事
仁木與三兵衞(よさべえ)賭(かけ)ものに行(ゆく)事
天和年中の事なるに、或時腕立する若侍五七輩、寄合(よりあひ)て物語しける中に、壱人の男言(いひ)けるは、
「昨日平山邊、爰彼所(こゝかしこ)を遊行せしに、總源寺の松原に、新敷(あたらしき)卒都婆立(たち)たる墓所有(あり)。今宵誰にても、右の處へ至り、卒都婆を取(とり)て、歸りしならば、此連中にて近日一會を催し、振舞(ふるまひ)なん。誰にても、速かに參らるべし」
と言(いへ)ば、頃しも卯月の始(はじめ)、宵月もとく入果(いりはて)、目ざすもしらぬ闇なれば、道の程も覺束なく、我行(ゆか)んと言(いふ)人もなく、爰に仁木與三兵衞は、柱に添(そへ)て眠り居けるが、此沙汰を聞て、
「件(くだん)の所へは、我行(ゆく)べし。跡にて饗應必(かならず)、違へ給ふな」
とて、刀おつとり立出(たちいで)れば、其座に、親しき人有(あり)て、
「わきて、今宵は夜寒なれば、一盃吞(のみ)て行(ゆき)給へ」
と心を添(そへ)るに、與三兵衞答へけるは、
「予も吞度(のみたく)はおもへども、酒に力をかりて行(ゆく)に似たれば、ひたすら呑まじ」
迚(とて)、其處を立出、夫より總源寺の門前に至り、平道へおりて、又松林へ登り、彼(かの)聞置(きゝおき)し墓の邊を尋(たづぬ)るに、夜ながら、向(むかひ)の方に卒都婆とおぼしき白きもの見へけるより、能々(よくよく)見定(さだめ)て、扨(さて)急(いそぎ)て、聞置(きゝおき)ける事のあれば、後ろざまに七足歩みて、卒都婆に手を掛け取(とり)て、脇挾み、前の邊りを下り、總源寺の前に出(いで)、夫(それ)より嚴常寺坂へ掛り、半端下りけるに、法泉寺裏門【當時は表門となり】の前へ至れば、門柱の上に、薄白きもの見へける故、立寄(たちより)て、何やらんと能々(よくよく)すかし見るに、其丈ケ、七八尺もあらんとおもふ坊主、目を見はりて居たり。
「心得たり」
迚、拔打(ぬきうち)にせんとするを、ひらりとあなたより飛かゝり、上に成(なり)、下に成、組(くむ)程に取(とり)て、押へて上になれば、亦かへされて、組敷(くみし)かれ、數度かくの如(ごとく)して、精根疲れ、夫より前後を忘れ、扨(さて)草の葉露の口に入(いり)て、氣の付ければ、起上(おきあがり)て見るに畑の中なり。
「何として、爰には寢し事ぞ」
と、能々おもひめぐらせば、
「かけに行(ゆき)しものを」
と、しかしかの事ども思ひ出し、
「卒都婆はいかにしつらん」
と、尋ぬれば、裏門の前の溝に有。寢て居たる處は、其向(むかひ)の畑なり。是(これ)にこりて、足を急ぎ、會合の處へかえり、皆々待(まち)果て、休(やすみ)居たりしを、呼起(よびおこ)し、卒都婆を渡しければ、何れも賞美して、
「扨、何として遲かりしぞ」
と、子細尋ければ、
「名折にや成(なり)なん」
とて、少しもあかさず。其後會合の内、親敷(したしき)人へは、密(ひそか)に語りしと也。
[やぶちゃん注:「仁木與三兵衞」寛文年間(一六六一年から一六七二年)の佐渡奉行所役人に仁木与三右衛門秀幸という人物が見えるが、この縁者か同一人か。
「賭(かけ)もの」仲間内の賭け事。
「天和年中」一六八一年から一六八四年。
「腕立する」腕自慢の。
「平山」不詳であるが、以下に出る「總源寺」から現在の佐渡市相川下山之神町地区及びその周辺の通称名と思われる。
「總源寺」現在の佐渡市相川下山之神町にある曹洞宗青嶽山総源寺。「BSNホームテレビ」公式サイト内の「新潟名刹紀行」のこちらによると、元和五(一六一九)年の開山であるから、本話柄は建って間もない頃の出来事である。名奉行と称された初期の佐渡奉行鎮目惟明(しずめこれあき 永錄七(一五六四)年~寛永四(一六二七)年)を始めとする四人の佐渡奉行の墓があるとある。
「頃しも卯月の始(はじめ)、宵月もとく入果(いりはて)、目ざすもしらぬ闇なれば」前にも類似の表現が出たが(「高田備寛狸の火を見し事」)、殆んど新月なので何かを目を凝らし、じっと見てもその対象物を視認することが全く出来ないほどの完全な闇夜なので、の意。
「刀おつとり」「押取(おっとり)り刀」と同じ。武士が刀を腰に差す間も無く手に取って飛び出して行くさまを指す。
「わきて」「別きて」。格別に。
「心」ちょっとした思いやり。
「ひたすら」呼応の副詞。下に打ち消しの語を伴って「まるきり・少しも」の意。
「平道」或いはこれは平らな道ではなく、「平(山へ向かう)道」の略なのかも知れぬ。
「聞置(きゝおき)ける事のあれば、後ろざまに七足歩みて」これは興味深い表現である。「以前から聴いていたことがあったので、そこで立ちどまり、後ろの方に七歩歩いて「卒都婆に手を掛け取」ったというのである。恐らくは怪奇現象に遭遇しないようにする呪いがこの七歩下がることにはあると考えてよい。そこで思い出すのは「禹歩(うほ)」で、これは、古代中国の夏の禹王が治水のために天下を廻り、足が不自由になって片足を引きずって歩くようになったという伝説から生まれたとされる呪法で、貴人が外出する際、陰陽師が行う邪気を払うものである。呪文を唱えつつ、一見、千鳥足のように歩くという(この「禹歩を含む儀式全体」を「反閇(へんばい)」と称する)。禹歩の一種と思われるものに「歩五星法」(「五星図」に描かれた五星を踏んでいく呪法)があり、また、星座の形を描いて歩く呪法に「北斗七星」を描く「歩罡(ほこう)」(「罡」「北斗七星」のこと)という道家に採り入れられた重要な歩法呪術が存在し、ここの七歩とは北斗七星の星の数に対応する、この「歩罡」に基づく邪気払いの呪(まじな)いであろうと私は考えている。
「嚴常寺坂」「佐渡市世界遺産推進課」の「佐渡市の文化財」にある「厳常寺坂」に『濁川を境に奉行所に向かう帯刀坂と対象的に下山之神台地に通じる石段道が厳常寺坂です。石段に沿って、左側は地役人天野氏邸跡のみごとな石垣、総源寺末寺の長泉寺跡、その奥が日蓮宗法泉寺と続きます。右側は浄土宗厳常寺跡、法泉寺墓地跡、厳常寺墓地跡、長泉寺墓地跡と今は荒廃した石垣を残すだけです。寺院や墓地が集まっていた跡だけに、石段の両側には今も地蔵が多く見られます』百三十八段(昭和四八(一九七三)年現在)の『坂は昔のままで、両側は小高い丘の樹木に囲まれて、いつも陽のあたらない感じです。役人が、東照宮や大山祇神社・八幡神社に詣でるのに奉行所からの最短距離に開いた道と思われます。坂の頂上近く、杉木立の闇の間を登りつめ、ホッと見上げる右の石の鳥居が八幡神社です。眺望が開けて、はるか左の森が東照宮跡・愛宕さん・大乗寺の山門と弘法堂の石段、大山祇神社と禅宗総源寺。台地は神社仏閣の静寂な一画です』。全二百二十五メートルに及ぶ『この石段は、また庶民信仰の坂道として、下山之神台地への唯一の歴史を語る道です』とある。この「嚴常寺」は浄土宗栄照山厳常寺で下山之神町に寛永五(一六二八)年(「相川町誌」では寛永元年)に創建された寺であるが、明治元(一八六七)年に廃寺となっている(最後の厳常寺の箇所は旧相川地区の「寺社調査」(PDF)に拠る)。
「半端」「なかば」。半分。
「法泉寺」相川下山之神に現存する日蓮宗妙栄山法泉寺。は寛永元(一六二四)年創建。「佐渡名勝志」八巻を書いた地役人須田富守(延宝八(一六八〇)年~延享三(一七四六)年)の墓があることで知られる。
「裏門【當時は表門となり】」こういう執筆時点との相違割注はすこぶる貴重である。それによって本話の見かけ上の現実性が強く補強されるからでもある。
「七八尺」二・二~二・五メートル強。
「心得たり」「正体見極めたり!」という物の怪に負けないための「言上げ」である。
「何として、爰には寢し事ぞ」「かけに行(ゆき)しものを」「卒都婆はいかにしつらん」この奇怪な記憶の健忘自体が怪異に遭遇した証しとなっている。そこを実に丁寧に記している手腕は、怪談語りとしては「ただ者」ではないという気がする。
「名折」「なおれ」。不名誉。しかし、とすれば、ここは直接話法ではなく、心内語である。仁木与三兵衛はその場では、黙して語らなかったのである。]
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