諸國百物語卷之二 十六 吉利支丹宗門の者の幽靈の事
十六 吉利支丹宗門の者の幽靈の事
いせの津に吉利支丹の宗門ありて、江戸より申しきたり。此ものどもをさかさまにつり、せいばいして、そののちおとべと云ふ所にて灰になしけるに、二三日すぎて、くれがたに、さぶらい二三人づれにて、古川と云ふ所をとをりければ、うるはしき女、かづきをきて、下女にふくろをもたせ、とをりけるを、さぶらひども、是れをみて、かやうの女は、伊せにてはつゐに見なれず、いづかたよりきたりたるやらん、とふしぎにおもひ、そろそろあとをしたいてみれば、この女、乙部(をとべ)のかたへゆきて、かの吉利支丹をやきたる穴のほとりへゆきて、ひた、と、骨をひろひゐたるが、又、つれの女ばう、いづくともなく二三人いでゝ、おなじごとくに、ほねをひろいけるが、しばらく有りて、みなきへうせけると也。
[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「切支丹宗門幽灵」。「灵」は「靈」の異体字。禁教の切支丹の霊をそれも複数(四人以上。挿絵は二人の高貴な感じの婦人御附きの者一人の三人であるが、本文を読むと、まず、婦人一人、その場について骨を拾い始めると、湧き出たように「二三人いで」とあるからである)出現させるというのは私の知る限り、極めて異常な特異点の古典怪談であると思われる。当時の切支丹、現在のキリスト教徒はこの怪談をどう読み解くか? 訊いてみたくはある。しかし、この作者、ただ者ではないぞ! 凄い所に眼をつけた! 脱帽!
「いせの津」「伊勢の津」。現在の三重県津市。
「宗門」信者。
「申しきたり」禁教令に基づき、命令が下され。通常、単禁教令と言った場合は、慶長一七(一六一二)年及びその翌年に江戸幕府が出したキリスト教を禁ずる「慶長の禁教令」を指す。
「さかさまにつり」後で「穴」と出るように、これは所謂「穴吊るし」の刑である。キリシタン弾圧で悪名高い豊後府内藩二代藩主長崎奉行竹中重義(?~寛永一一(一六三四)年:彼は後に密貿易の嫌疑で奉行職を罷免されて切腹したと記録には残るが、事実は重義が第二代将軍徳川秀忠の寵臣であったために次代の家光に代替わりした際に粛清されたものと考えられている。ここはウィキの「竹中重義」に拠った)が考案したとされる残虐刑で、ウィキの「禁教令」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『穴吊るしは、深さ二メートル程の穴に逆さ吊りにされる拷問である。公開されても穴から出た足しか見えず、耳やこめかみに血抜き用の穴が開けられることで簡単に死ぬことはできず、それでいて棄教の意思表示は容易にできるという非常にきつい拷問であった。寛永十年九月十七日(一六三三年十月十八日)、この拷問によって管区長代理であったクリストヴァン・フェレイラが棄教し、カトリック教会に大きな衝撃を与えた。同じく拷問を受けた中浦ジュリアンは殉教している』。なお、ヒトを逆さ吊りにした場合には三~四時間で脳圧が血圧により高まって意識が無くなり、そのまま放置すれば死に至る。耳や蟀谷(こめかみ)に血抜き用の穴が開けられるのは、殺さずに永く苦しませるためで、経過上は本来は即刻の死刑ではなく、転ばせるための拷問刑たるものの真骨頂部分であるとは言える。
「せいばい」「成敗」。
「おとべ」現在の三重県津市乙部。
「灰になしける」禁教の門徒であるから、埋葬しようがないので(そうした墓碑などがまた信仰の対象になることを防ぐためにも)、異例の火葬にしてその骨もそこにそのまま放置したのである(或いは、それを密かに拾いに来る者があれば、これまた、芋蔓式に切支丹を捕縛出来るとも言える。或いは、後に出る「さぶらい二三人づれ」というのもそういった密偵ともとれなくはないように私は思う)。
「古川」現在、津市に西古河町がある。この附近か。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注でもここに比定されている。
「かづき」「被き」或いは「被衣」と漢字表記する。身分ある女性などが外出の際に顔を隠すために頭から被った衣服。後に「かつぎ」とも言った。挿絵の骨を拾っている二人の婦人が被っているのがそれ。
「あとをしたいてみれば」「後を慕ひて見れば」。歴史的仮名遣は誤り。後をつけて行ってみたところ。単に鄙(ひな)には稀な高貴なる美女だからとすれば、まさにハイエナのように女を漁らんと文字通り「慕って」行ったとも読める。そうしたチャラ男(お)三馬鹿トリオが怪異に逢うというのも面白い。しかし、先に述べた通り、官憲の犬がチャラオ男に変装して尾行したととった方が(それを最後に夢想すれば)二重に話は面白くなると私は思うのである。]