諸國百物語卷之二 二 相模の國小野寺村のばけ物の事
二 相模の國小野寺村(おのでらむら)のばけ物の事
さがみの國小野寺村と云ふ山里に、ばけ物のすむ家ありて、人、すむことなし。あるとき、みやこより、たび人下りて此里にとまりけるが、ていしゆ、さまざま物がたりのついでに、かの家のばけ物のことをかたりければ、このたび人、ぶへんものにて、
「是れはめづらしきことこそあれ。そのばけ物のありさま見をきて、都へ歸りてのはなしにせん」
と云ふ。ていしゆ、
「むよう也」
とて、さまざま、とめけれども、聞きいれず。その夜の夜半ばかりに、くだんの家にゆきて、内よりかけがねをかけ、門戶をかたくしめ、ようがひをしてまちゐたり。此家の座敷は八じうじきにて、ひがしに窓あり、窓のむかい一町ばかりにしげりたる森あり。その夜の丑のときとおもふころに、この森のかたより、いなづまのごとく、ひかり物ちらちらと、みへたり。この男、すわや、と、おもひ、腰の刀をぬきかけゐければ、しばらくありて又、はじめのごとくひかりて、座敷のあたりも晝のごとくにかゞやきけるに、よりよく見れば年のころ、四十あまりなる男、かげろふのごとく、やせおとろへ、色せうせうとしたるが、窓にとりつき、大いきつきて、うちなる男を見入りゐたり。おそろしさは、いわんかたなし。されども此男、ぶへんものなれば、腰の刀をするりとぬき、かゝらばきらん、と、かまへゐければ、かのばけ物、
「こゝには入口なし、臺所より入らん」
と云ふて、二重三重の戶をやすやすとけはなして、をくに入りければ、男、をもふやう、へんげの物ならば切りとめがたし、くみとめんと思ひ、とんでかゝれば、ばけ物、かの男のむねを、はた、と、ける。けられて男は氣をうしなひければ、そのまに、へんげは、うせにけり。夜あけて、宿のていしゆ、在所のものども、心もとなく思ひてゆきてみれば、かの男は死してゐけり。人々おどろき、氣つけをのませ、よびいけなどして、やうやう氣つきて、とへば、はじめをわりを物がたりしける。けはなしたる戶を見れば、みなみな、かけがね、よひのごとくにかけて有りける。ふしぎとも、なかなか、いふばかりなし。その家にはいよいよ人住まずと也。
[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻四の「十 おそろしくあひなき事」(「あひなき」は「怖ろしくてあり得ない」の意)とほぼ同話であるが、「曾呂里物語」では怪異が起こるのは「みちのく小野寺といふ山寺」であるのに対し、こちらの「相模國の小野寺村」という山里の民屋である。なお、この陸奥の「小野寺」という寺も「相模」の「小野寺村」というのも孰れも所在は現認出来ず、不詳である。
「ぶへんもの」「武邊者」。武道・武術に優れた勇敢な強者(つわもの)。武士である必要は全くない。
「都へ歸りてのはなし」都へ戻る際の土産話。
「むよう」「無用」。この場合は、禁止の意を強く含んだ、不必要どころか、やってはならないことを言う。
「ようがひ」「要害」。歴史的仮名遣は「えうがい」が正しい。防御を固めること。用心すること。
「八じうじき」「八疊敷(はちじやうじき)」。歴史的仮名遣は誤り。
「一町」凡そ百九メートル。
「丑のとき」午前二時前後。怪異出来(しゅったい)のお馴染みの境界的(夜でも未明(暁)でもない)時間である。
「いなづまのごとく」「稻妻の如く」。
「ひかり物」「光り物」。人魂である。
「すわや」歴史的仮名遣では「すはや」が正しい。感動詞。ある急に起った事態に対して激しく驚く場合に用いる。同じ意味の感動詞「すは」の更なる強調形である。「あッツ!!」。
「ぬきかけゐければ」「拔きかけ居ければ」。刀の鯉口(こいくち:刀の鞘(さや)の口の部分。形が鯉の口に似ていることに由来)を切った状態にして、いつでも素早く刀を抜ける状態にして、静かに座っていた(或いは素早い動作を行うために蹲踞していたかも知れぬ)ところ。
「かげろふ」「陽炎」。揺らめいていて輪郭がはっきりしないのであろう。老婆心乍ら、「蜉蝣の如く瘦せ」ではない。
「やせおとろへ」「瘦せ衰へ」。
「色せうせうとしたるが」「色蕭蕭としたるが」。輪郭だけでなく、全体の色が生きた人間のそれとは異なり、はっきりせずもの淋しい青く透き通るような色をしている男が。
「大いきつきて」大きな溜息をついて。
「かゝらばきらん」「かかってきたら、一刀両断にしてやる!」。
「かまへゐければ」「構へ居ければ」。彼は立ち上がったりして、物の怪に悟られないよう、と、ここはもう確実に蹲踞の姿勢で「居(ゐ)る」のである。
「をく」「奥」。歴史的仮名遣は「おく」が正しい。
「をもふやう」「思(おも)ふ樣(やう)」。「をもふ」は歴史的仮名遣の誤り。
「へんげの物ならば切りとめがたし、くみとめん」「もし、所謂、霊的な物の怪の類いであるならば、刀で斬り防ぐことは難しいであろう。されば、素手で組み伏せてやる!」
「とんでかゝれば」飛びかかったところ。
「むね」「胸」。
「ける」「蹴る」。
「心もとなく」不安で気掛かりであったので。
「氣つけをのませ」「氣附け(藥)を飮ませ」。
「よびいけ」「呼び生け」で、「大声で呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」の名詞化したもの。仮死状態や臨終近く、或いは死後に蘇生を目的として死者の名や称を屋根の上から西方に、或いは井戸の底(黄泉の国・冥界・地獄に通ずると考えた)に向かって叫ぶ、民俗習慣である。黒澤明の「赤ひげ」(昭和四〇(一九六五)年公開)で石見銀山で心中を図った家族の末子長坊(ちょうぼう:本名、長次)を助けようと、女たちが井戸の筒井に縋って叫ぶシーンが忘れられぬ(長次は台本の台詞で「七ツ」とあるから、満で六つになるかならぬかであり、こうした未成年の子どもは亡くなればその死因に限らず、地獄の手前の賽の河原に堕ちることになっているから「井戸」での「呼び生け」はまさしく正しいのである)。因みに、あの際の降りてゆくカメラ・ワークも素晴らしい(私はあの場面は黒澤が評価し、黒澤を敬愛したアンドレイ・タルコフスキイ(Андрей Арсеньевич Тарковский/英語:Andrei Arsenyevich Tarkovsky 一九三二年四月四日~一九八六年十二月二十九日)の「僕の村は戦場だった」(“Иваново детство”(イワンの少年時代)・一九六二年製作・日本公開一九六三年)のイワンの井戸の夢のシークエンスを意識したものと秘かに思っている)。
「けはなしたる戶」物の怪が蹴り放して外れてしまっているはずの戸という戸。
「かけがねよひのごとくにかけて有りける」「掛け金、宵の如くに掛けてありける」。不思議なことに蹴り壊されてなどいなかったのである。実に上手い映像的エンディングである。]

