明恵上人夢記 52
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一、同九月十二日の夜、夢に云はく、熊野に詣で、其の道に宿所に宿る。心に思はく、義淵房(ぎえんばう)を本處(ほんじよ)に留め置く。此の如き旅所(たびしよ)にはさかくしくて大切なる物をと覺ゆ。他人は皆、隨從すと云々。十藏房(じふざうばう)、知音(ちいん)を尋ぬ。使者は之(これ)無き由を稱す。即ち、有りといへども、態(わざ)と隱すかと覺ゆ。又、新院、予に謁せむと仰す。即ち、見參に入る。予は賞(よろこび)を奉らず。後に人に語りて曰はく、「新院仰せて云はく、『我、明惠房に謁す。喜悦の思ひ深し。然れども、明惠房、語らずして頗る本意(ほい)無し』」と云々。
案じて曰はく、之を知るべし。
[やぶちゃん注:「同九月十二日」「51」に続くととるならば、建保六(一二一八)年である。この夢は構造上は連続しない(深層心理学的には通底すると思われるが)三つの夢から成ると私は採る。一つは明恵自身を一人称とした熊野詣の夢、間に十蔵房を一人称とした情景を画面外の明恵が観察している夢、三つ目が新院へ拝謁した明恵に関わる映画的な夢である。
「義淵房(ぎえんばう)」底本注に『明恵の同行者の一人霊典』とあり、「歌集」パートの注に『明恵の弟子。治承四年(一一八〇)の誕生。もと高雄の住僧で、早くから明恵に師事したか。池坊覚園院に住む。建暦元年(一二一一)の八十華厳経書写に行弁』『とともに参加している。明恵の置文で知事』(寺で雑事や庶務を司る僧)『とされた。建長七年(一二五五)入寂。七十六歳』とある。
「本處(ほんじよ)」事実に即した意ならば、当時の明恵のいた前の「51」の前書に語られる「圓覺山の地」、注で、賀茂別雷神社の後背地で塔尾の麓に神主能久が建てて明恵に施与した僧坊となろう。
「さかくしくて」賢く、しっかりとしており、頼もしい者で。
「十藏房(じふざうばう)」不詳。ただ、この後に出る、「夢記」の中でも女性性の強く暗示される重要な夢の一つ、通称「善妙の夢」(承久二(一二二〇)年五月二十日の夢)で唐渡来の香炉を明恵に渡すのがこの十蔵房で、同夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように読めるから、私には弟子とは読めない。
「使者」訪ねたのであるから、ここはその命を受けた用人・家来の謂いであろう。
「新院」底本注に『土御門院か。土御門天皇』(建久六(一一九六)年~寛喜三(一二三一)年)『第八十三代の天皇。諱は為仁』(ためひと)。『後鳥羽天皇の第一皇子。母は承明門院源在子』(源通親養女で法勝寺執行法印能円の娘)。後鳥羽天皇の譲位により三歳で『建久九年(一一九八)一月十一日受禅。承元四年(一二一〇)十一月二十五日』異母『弟守成親王(順徳天皇)に譲位。承久の乱』(承久三(一二二一)年六月)『後、土佐、次いで阿波に遷される。寛喜三年(一二三一)十月十一日阿波において崩じた。三十七歳』とある。この夢が建保六(一二一八)年九月十二日の夢であるならば、当時、彼は未だ二十一歳である。ここで夢の中の明恵が彼に終始、冷淡なこと、末尾の意味深長な「案じて曰はく、之を知るべし」の語などから察するに、この夢記述は(少なくとも末尾の有意に下げて記したそれなどは)明らかに、承久の乱のプレも最中も、一貫して父に批判的であり続け、乱後も幕府は乱の謀議に無関係として処罰しようとしなかった(彼の土佐・阿波への事実上の配流は隠岐に流された父への遠流を忍びなく思った彼の自発的要請であったし、阿波に移ったのも幕府がより都へ近い場所として配慮したからである)親幕的天皇であった彼への感情的な冷やかさのように思われる。夢自体のそれが乱の三年前だとすれば、これは予知夢であると明恵には認識され、だからこそこの意味深なる「案じて曰はく、之を知るべし」を書き添えたとすると、私は非常に腑に落ちるのである。大方の御批判を俟つものではある。]
□やぶちゃん現代語訳
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建保六年九月十二日の夜、こんな夢を見た。
*
第一の夢。
――……私は熊野に詣でて、その途次に、とある宿所(しゅくしょ)に宿っている。私が心の中に思うたことには、
『……義淵房を我が僧坊に留め置いてきてしまったが、このような淋しき旅の宿にあっては、彼こそしっかり者であり、頼もしく大切なる存在であるのに、何故に連れて参らなかったのであろう……』
と深く感じているのである。他の弟子は、これ、皆、随従しているのに…………――
*
第二の夢。
――……私の朋友の十蔵房が彼の旧知の親しい友の家を訪ねている。出て参った家の者は十蔵房に、
「本日只今ここに主人はおりませぬ。」
といった旨を述べ応えているのである。
しかし、それを情景として見ている私明恵は、意識の中で、
『……明らかに家内に主人、十蔵房の旧友は居る。……居るにも拘らず、わざと「居ない」と隠しているのではないか?』
と強く感じている…………――
*
第三の夢。
――……土御門院さまが、畏れ多くも、私明恵めを「謁せん。」と仰せられているのである。
されば、直ちに、土御門院さまに見参(げんざん)に与かったのである。
しかし乍ら、私は顔を硬くしたまま、一切の祝辞も述べ奉らずに、執拗(しゅう)ねく黙りこくっているのである…………
……さても、暫く経って後のことである。私が誰かに以下のように語っている様子が映し出された……
「……土御門院さまは、あれから御傍(おそば)の者に仰せられて曰く、『我れ、かの名僧と評判の明恵房に謁を許した。我れ、逢(お)うことの出来、まことに喜悦の思い、これ、深(ふこ)う感じたものでった。然(しか)れども、かの明恵房、これ、一言も我れに語らずして、終始、黙りこくっておった。これ、すこぶる残念にして面白うないことであった。』と語ったと聞いた…………」――
*
最後の夢については、案ずるに、「このことをよく記憶しておかねばならぬ。」と言っておこう。