アリス物語 ルウヰス・カロル作 菊池寛・芥川龍之介共譯 (十) 海老の四組舞踏(クワドリール)
暫く間が開いた。こちらが前回分。
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十 海老の四組舞踏(クワドリール)
[やぶちゃん注:原題は“THE LOBSTER QUADRILLE.”。 本来はフランス語である「カドリーユ」の英語読み「クヮドリール」である。四組の男女のカップルがスクエア(四角)になって踊る歴史的に古いダンス形式の名で、伝統的なスクエアダンスの先駆けとなったもの及びそのダンスに用いられた音楽のスタイル名。]
まがひ海龜は深い溜息をついて、鰭足(ひれあし)の裏で目をふきごした。アリスの顏を見て、話しかけやうとしてゐましたが一、二間(あひだ)聲がつかへて出てきませんでした。喉頭(のど)に骨でもたつたからだななあ。」とグリフオンは言つてまがひ海龜の身體(からだ)をゆすぶつたり、背中を叩いたりしました。やつとまがひ海龜は聲がでるやうになつて、淚を頰に流しながら話しつづけました。
「お前さんはあまり海の中に住んだことはないんだらう。」(アリスは「住んだことなんてありませんわ。」と言ひました。)「それで多分海老に紹介されたことこともないだらう。」(アリスは「わたし食べたことはあるわ。――」と言ひかけましたが、あわてていふのを止めて、「いいえ、ないわ。」といひました。
[やぶちゃん注:段落の最後に『」』があるが、除去した。]
「それでは、お前は海老の四組舞踏(クワドリール)がどん右に面白いか、分らないことだらう。」
「ええ、ほんとに分りませんわ。」とアリスはいひました。「どんな風の舞踏(ダンスなのですか。」
「うん、まづ海岸に一列にならぶのだ――。」とグリフオンが云ひかけますと、「二列だよ。」っとまがひ海龜がさへぎりました。「海豹(あざらし)に海龜に、鮭(さけ)達かね、それから道の邪魔になる海月(くらげ)をのけてしまつて――。」
「それにはいつも手間がとれる。」とグリフオンが口出しをしました。
「――二度前に進むのだ――。」
「銘銘(めいめい)が海老を相手にして。」とグリフオンが言ひました。
「無論さ。」とまがひ海龜はいひました。「「二度進む相手と向き合ふ――。」
「――海老を代へて同じ順であとに戾るんだ。」とグリフオンが後からつづけました。
「それからねえ」とまがひ海龜はつづけて言ひました。「それから投げるんだ――。」
「海老を。」とグリフオンが大きな聲でいつて、宙にとび上りました。
「――ずつと遠くまで海の向ふヘ――。」
「そのあとを泳いでつけるのだ。」とグリフオンが叫びました。
「海の中で、でんぐり返しをするのだ。」とまがひ海龜はきちがひのやうに躍り𢌞つて叫びました。
「また海老をとりかへるんだ。」とグリフオンは、ありつたけの聲で言ひました。
「また陸にもどつていくのだ――これが舞踏の第一節なんだ。」とまがひ海龜は急に聲を細めていひました。いままでズツと氣違ひのやうにとび𢌞つてゐた二人のものは、また悲しさうに坐つてアリスを見ました。
「大層きれいな舞踏(ダンス)にちがひないわ。」とアリスはオドオドした聲でいひました。
「お前さん少し見たいとか思ひですか。」とまがひ海龜は言ひました。
「ええ、ほんとに見たいわ。」とアリスは言ひました。
「さあ、それでは第一節をやらう。」とまがひ海龜はグリフオンに言ひました。「海老がゐなくたつてやれるだらう。歌は誰がやるのだ。」
「おお、お前が歌ふのだ」とダリフオンは言ひました。「わしは歌の文句を忘れてしまつたのだ。」
さういつて二人は眞面目くさつて、アリスのぐるりを踊り始めました。時時二人がアリスの極(ご)く近く、やつてくるものですから、アリスの足ゆびを踏んづけたり、又は、訓子をとるために前足をパタパタ動かしたりしました。そしてかうやつて踊る間、まがひ海龜は大層ノロノロと悲しさうに次のやうな歌を始めました。
「心う少し早く歩かないか。」と鱈(たら)は蝸牛(かたつむり)に言ひました。
「海豚(いるか)があとからやつてきて、少しの尻尾を踏みつける。
海老と海龜とが一生懸命進んでいくのをごらんよ。
あいつら砂利(じやり)の上で待つてゐる――踊りの仲間に入(はい)らうか。
踊(おどり)の仲間に入(はい)るか、入(はい)らぬか、入るか、入らぬか、入るか。
踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。
「あいつらがわしらを仲間に入れて、海老と一緒に海のむかうに投げるとき、どんなに面白いか、か前にやほんとにわかるまい。」
けれども蝸牛が答へるにや、「遠ほぎる、遠すぎる。」そして橫目でジロリと見ました。
蝸牛は叮嚀にお禮は言つたけれど、踊の仲間にや入らなんだ。
踊の仲間に入らぬか、入れぬか、入らぬか、入れぬか、入らぬか。
踊の仲間に入らぬか、入れぬか、入らぬか、入れぬか、入らぬか。
「どんなに遠くたつて平氣だよ。」鱈(たら)はすましていひました。
「海の向ふにやもう一つ外(ほか)の岸がある。」
イギリスから遠ざかりや、フランスに近くなる。
だから靑い顏なんかするな、おい蝸牛さん。
踊の仲間に入らないかい。
踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。
踊の仲間に入るか、入らぬか、入るか、入らぬか、入るか。
「ありがたう、見てゐて大層面白かつたわ。」とアリスは舞踏(ダンス)が終つたのでやれやれと思つていひました。「そして、わたし鱈(たら)のことを歌つた妙な唄が好きだわ。」
「さうさう鱈といへば。」とまがひ海龜がいひました。「鱈は――いや、いやお前さんは、鱈を見たことがあるだらうねえ。」
[やぶちゃん注:ここに「鱈」に纏わる言葉遊び、そこから引き出される洒落のシークエンス、アリスが歌う、へんてこりんな唄二パート(各二連)を含んだ多量の割愛がある。結果的に面白味十分の一以下に減衰してしまっている。訳者菊池寛(推定)のやる気のなさが目に見えて悲しくなってくる。]
「俺たち海老のクワドリールの、第二節をやらうか。」
とグリフオンは續けて言ひました。それとも、まがひ海龜に歌をうたつてもらうかな。」
「ええ。歌がいいわ、どうぞね。まがひ海龜さんさへよろしかつたらね、」
アリスがアマリ熱心になつて答へたものですから、グリフオンは少し氣を惡くした調子で言ひました。「ふん、この子には趣味が分らないんだ、お
い御老人、「海龜スープ」でも歌つてやつてくれ。」
まがひ海龜は深く溜息をついて、時時啜(すす)り泣きで聲をつまらせながら、歌ひだしました。
澤山あつて、綠色のみごとなスーブ
熟い鉢の中で待つて居る。
こんなうまいもの、とびつかいでゐらりよか。
晩のスープ、みごとな スープ
晩のスープ、みごとな スープ
み――ごとな スープ
み――ごとな スープ
ば――――んのスーーープ
みごとな、みごとな スープ
みごとなスープ、魚(さかな)はいらない、
鳥の肉もいらない、他(ほか)の何(なん)にもいらない。
みごとなスープがたつた二十錢、
この二十錢の爲にな何を惜(をし)まう。
み――ごとな スープ
み――ごとな スープ
ば――んの スープ
みごとな、みごと――な スープ
「さあもう一度合唱だ。」とグリフオンが言ひました。そこでまがひ海龜が又これをくりかへさうとしましたが、そのときに「裁判か始まる。」といふ聲が遠くの方で聞えました。
「さあいけ。」とグリフオンは言つて、アリスの手をとり歌の終(しま)ひなんか待たないで急いででかけました。
「何の裁判なの。」とアリスはせいせい息をきらして走りながら訊きました。けれどもグリフオンはただ「さあ、いけ。」と答へるばかりで、ますます早く走りだしました。するとうしろから、悲しけな唄聲が風にのつて、段段薄れながら聞えて來るのでした。
「ば――んのスープ
みごとな、みごとなスープ」
[やぶちゃん注:「悲しけな」はママ。]
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