諸國百物語卷之二 十九 森の美作殿屋敷の池にばけ物すみし事
十九 森(もり)の美作(みまさか)殿屋敷の池にばけ物すみし事
森美作どの屋しきのうらに、ちいさき堀あり。その堀のうちより、ちいさき兒、いづる事もあり。又、女のかづきをきたるが、あなたこなたと、あるく事も有り。あるとき、美作どの、近習(きんしう)のしうをあつめ、夜ばなしをなされけるに、ざしきのまわりを、女、かみをさけ、二人づれにて、あなたこなたを、あるきけるかげ、ざしきのかべに、うつりてみへければ、美作どの、ふしぎにおぼしめし、ざしきのうちをたてまはし、すみずみまで、さぶらひどもに、さがさせ、御らんなされ候へども、なに物も、なし。たゞかげばかり、あなたこたなとするが、みな人のめに、みへけると也。それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也。
[やぶちゃん注:「森(もり)の美作(みまさか)殿」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『森長一の子で、美作守となった、森美作守忠政であろう』と記す。ただ、この『森長一の子』というのは不審で、森長一(ながかず)というのは森長可(ながよし)の別名であり、彼は忠政の父ではなく兄である(長可は織田信長に仕えて武田攻略に功を立てて信濃川中島城主となり、北信四郡を領し、本能寺の変後は豊臣秀吉に従って天正一二(一五八四)年の小牧・長久手の戦いで戦死している。彼のすぐ下の弟は、かの森蘭丸である)。森忠政(元亀元(一五七〇)年~寛永一一(一六三四)年)は森可成の六男で豊臣秀吉に仕えた。天正一二(一五八四)年に兄長可の遺領美濃国(岐阜県)金山城七万石を継ぎ、同十五年二月六日には従四位下・侍従に叙任、羽柴姓を授けられ、文禄元(一五九二)年には肥前名護屋城の警護に当たった。秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長五(一六〇〇)年二月、信濃更科・水内・埴科・高井四郡に移封、海津城主となり十三万七千五百石を領した。同年の関ケ原の戦では、徳川方東軍に属し、所領を安堵された。同八年、美作津山に移封、藩祖となって十八万六千石余を領したが、第三代将軍徳川家光の上洛に際し、京都に赴いた際、食事が原因で急死した(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「森忠政」によれば、死因は桃に当たった食中毒とするが、何か、怪しいぞ!
「ちいさき兒」児童・乳児の幽霊というのは、多くは出現する理由を自ら語ることが出来ない点に於いて、怪談最強の登場人物と言える。子どもの霊の出る怪談はマジ、キョワい!!!
「かづき」既注であるが、再掲しておく。「被き」或いは「被衣」と漢字表記する。身分ある女性などが外出の際に顔を隠すために頭から被った衣服。後に「かつぎ」とも言った。
「近習(きんしう)」主君の側(そば)近くに仕える選りすぐりの者。
「しう」「衆」。
「かみをさけ」当初は「髮を裂け」と読んだが、表記もおかしく、そもそもが壁に映る影であるのに、裂けたようなざんばら髮というのは、これ、表現上も視覚上も無理があることに気づいた。そこで、先の「江戸怪談集 下」の本文を見ると、「髪を下げ」とあることに気づいた。これでとる。
「たてまはし」「立て𢌞し」。各座敷の中に、それぞれ近習の侍どもを立たせて(見逃すことが出来ないように配置し)。
「それより一年ほどすぎて、殿も御死去なされけると也」ということは、この二人の女の影だけの怪事件は寛永一〇(一六三三)年のことだったことになる。]