靖国神社例大祭 梅崎春生
九段坂を登り「下乗」の建札の前で車を降りる。石柱に大きく靖国神社の文字。その上に白っぽく削り取られているのは、「別格官幣」という文字らしい。すなわちすべての神社と同じく、ここも、戦後国家の手から放たれたわけである。境内の銀杏並木の若葉がみずみずしくうつくしい。
その並木の下はずらずらと、参詣客相手の露店。風船、水中花、駄菓子店等々。さらにその背後は、サーカス、犬猿芝居、蛇男蛇女などの掛小屋。騒々しい呼声、拡声器のレコード、そして時々空に花火が上り、薄茶色の煙のかたまりが春風にただよう。昭和二十八年度の春季例祭なのである。
拝殿に行く。遺族ならびに特別崇敬者には、願い出れば昇殿参拝が許されるそうで、今も昇殿参拝者の後姿がたくさん奥の方にながめられる。拝殿の仕切りの向うが賽銭(さいせん)投込所。床に白布をしいてその白布が見えぬ程に賽銭が投込まれてある。
おおむねは十円紙幣、十円五円硬貨、それに一円紙幣で、百円札は私が探した(もちろん眼で)限りでは三枚しか無かった。まして千円札など一枚も見当らない。
神職の説明によると、ここは御利益(ごりやく)をさずける神様ではないから個々の賽銭がかくも小額に止まる由。なるほど肯綮(こうけい)にあたった解釈である。
拝殿のそばに、特別奉納者芳名(昭和二十七年以降)の立札がある。名前と金額がずらずらと書込まれてある。驚いたことにはその大半が在外邦人で、ブラジルが圧倒的に多い。金額も相当なものである。
吉田茂や尾津喜之助の名前も眼についた。金額は共に一万円だ。
戦後、国費の負担がなくなったわけだから、社費はおおむね賽銭や寄進に待つ他はない。だから権宮司の話では、戦後しばらくは経済的に相当に苦労した由で、遊就館を貸しに出したり、いろいろ遣り繰りさんだんしたが、平和条約締結ごろから参詣人も増え始め、現在ではどうにかやって行ける程度にこぎつけたという。昇殿参拝者で計れば、一昨年十万、昨年二十万、今年は大体昨年の五割増乃至十割増の予想だという話。しかし戦後合祀した百五十万の戦没霊の遺族通知もまだしていないし(やれば五千万円以上かかる由)、献納した青銅の大鳥居も再建しなくてはならないし、いろいろ気がかりなことばかりだと権宮司は嘆く。
拝殿を右に外れ遊就館におもむく。私はこの建物を見るのは始めてで、内田百閒の優れた短篇「遊就館」を読んだだけであるが、想像していたのとちがって、これは堂々たる鉄筋の建物である。今は十年契約で某生命保険会社に貸してあり、家賃は月四十万円だとのこと。法外の安値と思われたが、終戦直後の契約のこととて致し方なかろう。国防館は現在上京遺族の宿泊所となっている。
拝殿を外に出ると、白衣の傷病兵たちの群れ。三四十人分散して、箱を手にして参詣客に呼びかけ訴えている。参詣客の大部分は眼を外らすようにして歩いている。六人ばかり一列横隊に並び、ここはお国を何百里の歌を、低い声で合唱している。その合唱にかぶさるように、向うの掛小屋から拡声器で「愛国行進曲」のレコード。白衣傷病兵に対して、参詣遺族からあれはどうにかしてくれと申し入れもあるそうであるが、神社側では神社の性質上、どうにも出来ないという。それはそうだろう。
見世物は蛇男と半身女とサーカスを見た。終戦後は、人寄せのために小屋をかけてくれと、神社側から頼んでまわったそうだが、参詣人少なく採算が取れぬと来てくれなかった由。
今では頼まずとも、祭りになればえっさえっさとやって来る。採算が取れるようになったからだろう。
蛇男は蛇を口や鼻の穴から出し入れするやつ。あまり気持のいいものではなく、同行の大森画伯はすぐに飛び出した。半身女は鏡応用のインチキで、台の上の女は腰から上しかない。呼び込みでは着物を脱いで裸になるというのだが、いつまで待ってても着物は脱がず、また裸になっても腰から下がなければ観ても意味ないので、あきらめて出る。両者とも場内整理費として二十円ずつ取る。五百円札を出すと、十円札ばかりでおつりをくれた。
最後に観たサーカスだけは、一応まっとうなものであった。が総じて招魂祭の見世物は、うらがなしいものである。
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月二十四日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「靖国神社例大祭」ウィキの「靖国神社」によれば、春季例大祭は四月二十一日から二十三日。同神社の歴史はリンク先をどうぞ。
「別格官幣」別格官幣社。ウィキの「近代社格制度」によれば、『国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなったや兵士を祭神として祀る神社のために別格官幣社が創設され』たとあり、明治五(一八七二)年に『楠木正成を主祭神とする湊川神社が』列格したのを嚆矢とする。『別格官幣社は官幣小社と待遇は同じであるが、国幣小社よりも上位とされた規定はない』。『なお、臣下であった菅原道真を主祭神とする天満宮は天神信仰によって祭神は雷神と同一視されたため、北野神社(現・北野天満宮)と太宰府神社(現・太宰府天満宮)の』二社のみは『例外的に別格官幣社ではなく』、『待遇が上となる官幣中社に列した』とある。言っておくが、我々が今も普通に目にするこの社格制度は既に廃止されたものであって、権威や権利及び威光は公的には全く存在しない。
「十円紙幣」当時通用のそれはこれ(リンク先はウィキの「十円紙幣」の画像。以下、「同前」としたのは当該紙幣・硬貨のウィキの画像の意)。
「五円硬貨」当時はまだ十分、無孔のこれが通用していた。昭和三二(一九五七)年生まれの私でもこの硬貨を幾らも使っていた(同前)。
「一円紙幣」当時、一般的だったのは二宮尊徳の肖像の入ったこれ(同前)。
「百円札」当時、一般的だったのは表に聖徳太子と夢殿がセットで入ったこれ(同前)。私も使った板垣退助版はこの記事の年の十二月一日発行開始なので、まだ、ない。
「千円札」当時のそれは懐かしい通称「聖徳太子」(表・裏に夢殿)でこれ(同前)。
「尾津喜之助」(おづきのすけ 明治三一(一八九八)年~昭和五二(一九七七)年)は東京出身の露天商の元締で元暴力団組長。戦後、東京都新宿区に本拠を置いた的屋(てきや)系暴力団「関東尾津組」組長となり、新宿東口に青空マーケットを開設、七万人を擁する東京露天商同業組合の理事長に就任、昭和二二(一九四七)年、恐喝容疑で検挙され、組を解散。六○年安保闘争では全日本神農憂国同志会を結成し、安保改定を支援したことはかなり知られる(主に講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「遊就館」「ゆうしゅうかん」と読む。靖国神社境内に併設された同社の祭神所縁の資料を集めた宝物館。詳しくはウィキの「遊就館」をどうぞ。
「平和条約締結ごろ」「サンフランシスコ平和条約」昭和二六(一九五一)年九月八日署名(同日で「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」も署名)され、翌年四月二十八日に発効。
『内田百閒の優れた短篇「遊就館」』第二創作集「旅順入城式」(昭和九(一九三四)年岩波書店刊)所収。但し、第一創作集「冥途」と同様、夢記述風の小説であって、ウィキの「遊就館」にも、『内容は夢物語的であり、現実の遊就館を描いているわけではない』とある。なお、百閒の盟友であった芥川龍之介は「侏儒の言葉」の「武器」にここを登場させている。
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武器
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさへすれば、敵にも味方にも買はれるであらう。正義も理窟をつけさへすれば、敵にも味方にも買はれるものである。古來「正義の敵」と云ふ名は砲彈のやうに投げかはされた。しかし修辭につりこまれなければ、どちらがほんとうの「正義の敵」だか、滅多に判然したためしはない。
日本人の勞働者は單に日本人と生まれたが故に、パナマから退去を命ぜられた。これは正義に反してゐる。亞米利加は新聞紙の傳へる通り、「正義の敵」と云はなければならぬ。しかし支那人の勞働者も單に支那人と生まれたが故に、千住から退去を命ぜられた。これも正義に反してゐる。日本は新聞紙の傳へる通り、――いや、日本は二千年來、常に「正義の味方」である。正義はまだ日本の利害と一度も矛盾はしなかつたらしい。
武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄辯である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の亂に當り、駱賓王の檄を讀んだ時には色を失ふことを免れなかつた。「一抔土未乾 六尺孤安在」の雙句は天成のデマゴオクを待たない限り、發し得ない名言だつたからである。
わたしは歷史を飜へす度に、遊就館を想ふことを禁じ得ない。過去の廊下には薄暗い中にさまざまの正義が陳列してある。靑龍刀に似てゐるのは儒教の教へる正義であらう。騎士の槍に似てゐるのは基督教の教へる正義であらう。此處に太い棍棒がある。これは社會主義者の正義であらう。彼處に房のついた長劍がある。あれは國家主義者の正義であらう。わたしはさう云ふ武器を見ながら、幾多の戰ひを想像し、をのづから心悸の高まることがある、しかしまだ幸か不幸か、わたし自身その武器の一つを執りたいと思つた記憶はない。
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私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 武器』の注も参照されたい。
「某生命保険会社に貸してあり、家賃は月四十万円だとのこと」ウィキの「遊就館」に、『第二次大戦後は敗戦により遊就館令が廃止され閉館。国家補助を打ち切られた靖国神社は、遊就館の修理を条件に、建物および周囲の土地の貸与を表明』。昭和二二(一九四七)年十一月に、『社屋を進駐軍に接収された富国生命保険と月額』五万円(当時)で『賃貸契約が結ばれ、同生保会社の「九段本社」として使用された』。昭和三六(一九六一)年に『遊就館に隣接する靖国会館の一部を「宝物遺品館」として再開した』。昭和五五(一九八〇)年に『富国生命保険が立ち退くにあたり、当時の社長が靖国神社の経済的窮状を財界有力者に訴えた。これを契機に「靖国神社奉賛会」が発足』、昭和六〇(一九八五)年七月に『施設の改修が終わ』って『遊就館として再開』したとある(下線やぶちゃん)。
「法外の安値と思われたが、終戦直後の契約のこととて致し方なかろう」それでも六年で五倍には値上げしているのであって、契約時そのままの金額ではない(前注下線参照)。
「国防館」現在の靖国神社内の遊就館の隣にある現在の「靖国会館」のこと。現在は一階は無料休憩所、二階は靖国偕行(かいこう)文庫(日本近代軍事史関係資料約十三万冊の図書資料を収蔵する)となっている。因みに「偕行」は「詩経」秦風の「無衣(むい)」の最終連(三連構成)、
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豈曰無衣
與子同裳
王于興師
修我甲兵
與子偕行
豈(あ)に 衣(い)無しと 曰(い)へど
子(し)と 裳(しやう)を 同じうせん
王(わう) 于(ゆ)きて 師(いくさ)を
興(おこ)こさば
我が甲兵を修め
子と偕(とも)に行かん
*
「私は着る衣がないわけではないけれど、戦場では貴君と一つ衣をみに纏おうぞ。帝王が発って軍を起こしたなら、私は私の鎧と武器を調え、貴君とともに戦場(いくさば)へと行こうぞ」という詩句に由来する。
「白衣の傷病兵」私は大学を卒業した昭和五四(一九七九)三月末、芥川龍之介を染井霊園奥の慈眼寺に墓参した帰り道、巣鴨地蔵通り商店街の入口で見た二人が最後であった。片足と片腕をそれぞれ義足としている。まさに「白衣」の陸軍帽を被った傷痍軍人姿で、片足の男がアコーディオンを実に巧みに弾き、片手の男がまさしく梅崎春生が語っている通り、軍歌「戦友」を歌っていた(「戦友」は梅崎春生の「私のノイローゼ闘病記」の私の注を参照)。しかし、彼らはどう見ても五十歳を越えておらず、従軍兵では絶対にあり得なかったことを思い出す。しかし、私は義憤を感じなかった。寧ろ、私の内なる、ある種の奇体なサンチマンタリスムを彼らは刺戟したことを私は忘れずに、いる。
「愛国行進曲」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 自由(四章)』の私の注を参照されたい。
「大森画伯」不詳。]
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