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2016/10/31

谷の響 二の卷 十六 怪蟲

 十六 怪蟲

 

 文政年間、千葉某といへる人嶽の温泉に浴(ゆあみ)したる時、同僚(どうやく)の人二三人に促されて筍子(たけのこ)を摘(と)るにとて山に上り、篠叢(さゝむら)の繁みに入りて探れるうち、何やらん響(ものおと)して竹の葉の搖れ亘(わた)れるに、如何なるものや出來んと倶に足をふみしめ見やりたるに、長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺もあるべき形狀(かたち)芋蠋(いもむし)の如く太く短きものにして、背に金色の鱗を累(かさ)ね頭は小兒の翫ぶ獅子といふに似て、眼口大きく髮を被りていと怕きものなるが、(するする)出來るにすは擊殺せと立蒐(かゝ)らんとするに、一人堅く制する人有りしが、手を下さで見てあればこのもの驚き惶るゝ氣象(けしき)なく、徐(しつか)に路を橫ぎりて傍なる叢箴(やぶ)に入りけるなり。龍にあらず蛇にあらず、いまだ諸史にも見へざる蟲にていといと奇代のものなりと、この千葉氏は語られき。南溪が西遊記に榎の蛇(うはばみ)といふを載せてその形太く短きものといへり。もしくはかゝる物に有ざるか。[やぶちゃん字注:「」=「月」+「羊」。

 安政四丁巳の年の四月、御藏町の寅次郎といへる者、龍の子とて持來るを見るに長さは三尺許り、環周(まはり)は六寸もあらんか。手足なくして全體千朶(たん)卷といふ鞘に等しく、割片(きざめ)相つらなり硬くして甲の如く、廣さ二分餘厚さ一分も有るべし。體中悉(みな)空虛(うつろ)にして骨なく肉なく、髗骨(あたま)決壞(くだけ)て眼口の痕(あと)見得ず。背と肚(はら)との差(けじめ)も分明(あきらか)ならざれど、首根(もと)二片(ひら)中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處あるを見れば、この方は背なるべし。又中半の六七片は磨(すれ)て割目(きざめ)あざやかならぬは肛と見ゆるなり。尾の端六七寸兩岐(ふたまた)となりたるが、こも中空虛(うつろ)にして擘斷(ちぎれ)たる狀(さま)にて裂けたり。色は淡灰黑(うはべづみ)色に赤身を帶(ふく)めり。未だ好くも乾かぬものなれば腥くして、水に入るれば脂膏(あぶら)浮(あが)れり。この異蟲(むし)一月の下旬(すゑ)の出水にながれ來つるがして、三ツ目内の河の岩に係りてありけるを、石川村の者見當り世に希らしきものなりとて、携へ歸りて土(ところ)のもの老夫と倶に見すれども、更に知るものなくたゞ龍の尾なるべしといへりとぞ。さるに、日を經てこの寅次郎といふものこを酒に換へたりとて己が裡に持來り、これが名を求むれども、己從來(もとより)史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬからかゝる怪しきものは見も及ばねば、そのよしいふて歸したり。如何なる異物(もの)にかあらん、希らしかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「怪蟲」「かいちう」と読んでおく。

「文政年間」一八一八年~一八三〇年。

「嶽の温泉」前条に出た。現在の青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺」全長六十一センチメートル弱、胴回り約三十センチメートル。

「怕き」「こはき」。

蟉(するする)」二字へのルビ。オノマトペイア(擬音・擬態ともに)。

「出來るに」「いでくるに」。

「すは」「それ!」。感動詞。他の者の注意を促す発語。

「擊殺せ」「うちころせ」。

「立蒐(かゝ)らんとするに」「たちかからん」。よってたかって打ちのめそうとしたところが。

「一人堅く制する人有りしが」「有れば」とすべきところ。

「手を下さで」「てをくださで」。

「見てあれば」傍観していたところ。

「惶るゝ」「おそるる」。

「徐(しつか)に」読みはママ。

「叢箴(やぶ)」二字へのルビ。「箴」は「針」で不審。何か「竹」や「藪」の意の(たけかんむり)の漢字の誤記ではないか?

「南溪が西遊記に榎の蛇(うはばみ)」江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)が寛政七(一七九五)年に板行した紀行「西遊記」の「正編卷一」に「榎木の大蛇」の一章がある。以下に引く(岩波新日本古典文学大系版を参考に漢字を正字化して示した)。

   *

 

    榎木ノ大蛇

 

 肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)壱岐守殿御城下、五日町(いつかまち)といへる所に、知足軒といふ小庵あり。其庵の裏はすなはち求麻川なり。其川端に大(おほき)なる榎木あり。地より上三四間程の所二またに成りたるに、其またの間うつろに成りゐて、其中に年久敷(ひさしく)大蛇すめり。時〻此榎木のまたに出(いづ)るを、城下の人〻は多く見及べり。顏を見合すれば病む事ありて、此木の下を通るものは頭をたれて通る、常の事なり。ふとさ弐三尺まはりにて、惣身色白く、長サは纔(わづか)に三尺餘なり。たとへば犬の足なきがごとく、又、芋蟲によく似たりといふ。所の者、是を壱寸坊蛇(いつすんばうへび)と云(いふ)。昔より人を害する事はなしと也。予も每度其榎木の下にいたりうかゞひ見しかど、折あしくてやついに見ざりき。

   *

●「肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)」は現在の大分県人吉市。●「求麻川」球磨川。●「三四間」五メートル四十五センチから七メートル二十七センチほど。●「弐三尺」六十一センチ弱から九十一センチ弱。

「その形太く短きものといへり」これって、「つちのこ」じゃ、ね? ウィキの「ツチノコ」によれば、同形或いはそれらしいものは、かなり古くからの(後掲するように一説に記紀の頃からの)未確認動物の一つとし知られている。『鎚に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で目撃例があるとされる』。その形状は『普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている』ことを最大の特徴とし、二『メートルほどのジャンプ力を持』とか、いや、高さ五メートルだとか、いやいや前方へ一気に二メートル以上飛ぶとか、二メートルどころじゃない、十メートルだなどとも言われ、『日本酒が好き』・『「チー」などと鳴き声をあげる』・『非常に素早い』・『尺取虫のように体を屈伸させて進む』・『尾をくわえて体を輪にして転がるなどの手段で移動する』・鼾(いびき)をかく・『味噌、スルメ、頭髪を焼く臭い』を好む、などと言われ、また『猛毒を持っているとされることもある』(但し、私は「つちのこ」に咬まれて死んだとする実例を知らない)。『ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた日本語の方言だった。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約』四十『種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。』『縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている』。奈良時代の「古事記」「日本書紀には『カヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある』。『江戸時代に出版された百科事典』寺島良安の「和漢三才図会」に『「野槌蛇」の名称でツチノコの解説がある』私の電子テクスト注「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「のつちへび 野槌蛇」の項を是非、参照されたい)。東北地方では『十和田湖付近の山中で、体長約』三十『センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている』。二〇〇七年四月には『山形県最上郡大蔵村の牧場の干草の中から、ツチノコ状のヘビの死骸が発見された。この死骸は写真が撮影され、ツチノコ写真の中でも信憑性が高いとの声もあるが、日本国内のヘビ研究の権威である日本蛇族学術研究所は、干草がオーストラリア産であったことから、この死骸はオーストラリアの毒ヘビであるデスアダー』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科デスアダー属コモンデスアダー Acanthophis antarcticus)『だった可能性を示唆している』。北陸地方では江戸の文化年間頃の随筆「北国奇談巡杖記」に『ツチノコのものとされる話が以下のようにある。石川県金沢市の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、雷のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという。同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集』「聖域怪談録」『にも記述がある』。『新潟県糸魚川市能生地区の山中でツチノコが目撃された』『同地区では「つちのこ探検隊」が結成され』二〇〇六年『以降から毎年ツチノコの捜索が行われ、最大』一『億円の賞金がかけられている』。『新潟県小千谷市に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている』とある(本書のロケーションに繋がる地方のみを採った。他の地方はリンク先を参照されたい)。『正体についての仮説』の項。『新種の未確認動物とする説』の他、『特定種のトカゲ類の誤認とする説』があり、その一つにインドネシア・オーストラリア・パプア=ニューギニアに棲息するアオジタトカゲ類(有鱗目トカゲ亜目 Scincomorpha 下目 Scincoidea 上科トカゲ科アオジタトカゲ属 Tiliqua)を誤認したとする説がある。このトカゲは一九七〇年代から『日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の荒俣宏は、流行の原因となった漫画』(一九七三年、ツチノコに遭遇した経験を持つという漫画家の矢口高雄がツチノコをテーマとした漫画「幻の怪蛇バチヘビ」を発表し、これがツチノコ・ブームの契機となっていた)『の影響で脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある』。『ただし、ツチノコは尾が細いとされるが、アオジタトカゲは尻尾が太い点が異なる』(実際、似ている。ウィキの「アオジタトカゲの画像を見られたい。古くからの発見例の説明がつかない)。また、オーストラリア産のマツカサトカゲ(同トカゲ科 Scincidae のマツカサトカゲ属マツカサトカゲ Trachydosaurus rugosus)を『誤認したとする説。このトカゲは岐阜県の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも愛玩動物として飼育されている。このことから、心ない者が山野に捨てたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある』(これも古くからの発見例の説明がつかない)。そうではなく、『胴の短い種類の蛇の誤認とする説』も当然あり、先に出た『デスアダーを誤認したとする説。これは毒蛇で太く短い体型がツチノコに近い。実際に山形の目撃談にも出てくる』(実際、やはり似ている。グーグル画像検索「Acanthophis antarcticusをリンクしておくが、蛇アレルギーの方はクリックされない方が無難。これも古くからの発見例の説明がつかない)。或いはヒメハブ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科ヤマハブ属ヒメハブ Ovophis okinavensisを『誤認したとする説。これも毒蛇で南西諸島に生息し、ツチノコとの類似も古くから指摘されている。デスアダーとも似ているが』、『胴の短さではデスアダー以上にツチノコに近い』グーグル画像検索「Ovophis okinavensisをリンクしておくが、注意は同前! しかし、これでは本州での古くからの発見例の説明がつかない)。また、普通の蛇の『腹の膨れた』個体を『誤認したとする説』があり、事実、在来の蛇であるヤマカガシ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus。有毒蛇)やニホンマムシ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。有毒蛇)などが『妊娠中で腹が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある』『大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説。蛇は顎の間接が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる』。『以上にあげたような複数の目撃証言が一つに複合されたものがツチノコとする仮説もある』とする。私は生存個体はいおろか、死亡個体やその断片もないのに、日本国内の広汎な地域で未発見種が種を保存しているとする非科学的な説は、全くあり得ないと考える人間である。

「有ざるか」「あらざるか」。

「安政四丁巳」一八五七年。「丁巳」は「ひのとみ」。干支は正しい。

「御藏町」既出既注であるが再掲しておく。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「環周(まはり)は六寸」二字へのルビ。「六寸」は十八・一八センチメートル。

「千朶(たん)卷」「千手巻」とも書き、「千段巻(せんだんまき)」と同義。刀や槍の柄などを籐(とう)や麻苧(あさお:麻の繊維を原料として作った麻糸)で隙間なく巻き、漆で塗り込めたもの。

「割片(きざめ)相つらなり」これは蛇の背の鱗が逆立った形になったものであろう。私はこれは死んで間もない蛇類の断裂個体の表皮とその下の真皮層と脂肪層の一部だけとなった残骸(頭部が失われ、骨格と筋肉や内臓が総て脱落した)であると考えている。体色からすると、先に注で出したニホンマムシであろう。

「廣さ二分餘厚さ一分」広さ七・六ミリ、厚さは三ミリ。先のひびらいた甲の鱗のサイズであろう。蛇のそれと見て不思議ではない。

「決壞(くだけ)て」二字へのルビ。

「首根(もと)二片(ひら)」これは首のカマの左右に張り出し部分の残痕であろう。

「中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處ある」これは或いはのペニスの残痕かも知れぬ。ただ、損壊で出来た傷とも読めなくはない。

「肛」肛門。蛇の場合、頭の後ろから肛門までが胴体で、肛門よりも後ろが尾である。

「六七寸」二十~二十一センチメートルほど。

「兩岐(ふたまた)となりたるが」尾が二股の異常個体は存在する(次条に出る両頭蛇も実在する)が、これ、裂断が甚だしく、これも単に尾が二股に裂けただけの可能性が高い。

「こも中空虛(うつろ)にして」これも中は空虚であって肉も骨格もない。

「擘斷(ちぎれ)たる」二字へのルビ。「擘」は「つんざ・く」(「劈く」とも書く)と訓読みでき(「つんざく」は「つみさく」の音変化)、「勢いよく突き破る・強く裂き破る」の意。

「淡灰黑(うはべづみ)」三字へのルビ。

「腥くして」「なまぐさくして」。

「異蟲(むし)」二字へのルビ。

「出水」「でみず」。

「ながれ來つるがして」ママ。「ながれ來つる物にして」或いは「ながれ來つるが物にして」。

「三ツ目内」既出既注。再掲する。現在の南津軽郡大野町大鰐町(おおわにまち)三ツ目内(みつめない)。大鰐の南の川に沿った山村地区。ここ(ヤフー地図データ)。

「石川村」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『弘前市石川(いしかわ)。弘前の南六キロ。羽州街道添いの農村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「見當り」発見し。

「希らしき」「めづらしき」。

「老夫」物知りの古老。

「倶に見すれども」皆、一緒になって観察してみたが。

「こを酒に換へたり」この「龍の尾」というものが如何にも珍しいものに見えたので、酒と交換して入手した。

「己が裡」「わがうち」。平尾の屋敷。

「持來り」「もちきたり」。

「これが名を求むれども」この不思議な生物の名(正体)を教えてくれと言ってきたが。

「己」「われ」。

「史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬから」意味不明。「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ぬから」或いは「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ざるから」。総ての古今の博物書に眼を通したわけではないので、の意でとっておく。

「そのよしいふて」「その由(よし)云ふて」。

「異物(もの)」二字へのルビ。]

甲子夜話卷之二 40 田沼氏在職中の有樣幷陪臣驕奢の事

2―40 田沼氏在職中の有樣陪臣驕奢の事

先年、田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屢彼第に往たり。予は大勝手を申込て、主人に逢しが、その間大底三十餘席も敷べき處なりき。他の老職の坐敷は、大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の坐敷は兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき。その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては、主人は餘程客と離れて坐し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るゝゆへ、ようようと主人出坐の所二三尺許りを明て、客着坐するゆへ、主人出て逢ふときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不禮とも云べきありさまなり。さて何方も佩刀は坐敷の次に脱て置ことなるが、如ㇾ此きの客ゆへ、坐敷の次には、數十腰か知れず刀を並べて、海波を畫けるが如くなりし。此外にも、今にいかゞと臆中に殘りしは、公用人三浦某と云しを用、賴に約して主人の逢日に往て、取次を以て三浦へ申入ければ、答るには、只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし。陪臣の身として、我等をかく取扱こと世に希なることなるべし。予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし。當年の權勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲如くなりき。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏在職中」遠江相良藩初代藩主で老中として重商主義の「田沼時代」と呼ばれ、権勢を揮った田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)の老中(格)在職は、明和六(一七六九)年八月に側用人から老中格に異動(側用人兼務・侍従兼任)で、明和九(一七七二)年一月に老中に異動し、天明六(一七八六)年八月二十七日に老中依願御役御免となって失脚(雁之間詰)まで。翌年には蟄居となっている(ウィキの「田沼意次」に拠る)。

「陪臣」直参の旗本・御家人に対して、諸大名の家臣を言う。

「予も廿許の頃にて」「廿許」は「はたちばかり」。静山の生年は宝暦一〇(一七六〇)年であるから、数えなので安永八(一七七九)年頃となる。意次は数え六十一である。

「世の習」「よのならひ」。世の常のことなれば。

「雲路の志も有て」「うんろのこころざしもありて」より高い官職に就いて、出世したいという希望も人並みにあって。

「屢」「しばしば」。

「彼第」「かのだい」。田沼意次の上屋敷。

「大勝手」不詳。辞書類にはない。但し、後の描写を見る限りでは、対面の間、それも大座敷のそれである。

「申込て」「まうしこみて」。

「主人」意次。

「逢し」「あひし」。

「その間」「そのま」。

「大底」凡そ。

「三十餘席も敷べき處」三十人分の座布団をゆったりと「敷べき」(しくべき:敷くことが出来るほどの)座敷の間。

「居るが」「をるが」。座るのが。

「兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき」異様に座敷が広いことに驚いているのではなく、その広い座敷でも足りずに、座敷の外の廊下にまで一回の来客がはみ出して座るほど、雲霞の如く、対面を望む者らがやって来ているのを静山は驚いたのである。「兩側に居並び」とは、以下に見るように、まず、主人意次の出座する位置のすぐ直近に、左右に一人分ほどの間を空けて座り、その後ろに、その空隙の背後にやはり左右に展開して座り、更にまた、その間隙の後ろに幾「筋」にも並んで、「夫」(それ)でも座れない者がいて、その方々は、なんとまあ、座敷の外廊下にこれまた何名も坐っているという有様だったと呆れているのである。十九歳の凛々しい青年清(きよし)の、素直な驚いた顔が思い浮かぶようだ。

「その輩」「そのともがら」。廊下にはみ出た連中。

「主人の出ても見えざるほどの所なり」主人がその大座敷に対面のために出座しても、それが見えない、それに気づけないほどの、とんでもない遠い場所にいたのである。

「出て」「いでて」。

「逢とき」「あふとき」。

「多人席に溢るゝゆへ」「多く人、席にあふるるゆゑ」。歴史的仮名遣は誤り。

「ようようと」ようやっと。辛うじて。

「二三尺」六十一~九十一センチメートルほど。

「明て」「あけて」。空けて。

「面」「おもて」。

「計なり」「ばかりなり」。

「繁昌とはいへども」人が引きも切らずご機嫌伺いに来て「繁盛している」とは言ってもそれは。

「不禮とも云べきありさまなり」大名や相応の地位の武家の者が対面することを考えた時(静山はこの二十当時、既に従五位下壱岐守で肥前国平戸藩第九代藩主であった)、無礼と言ってもよいほどの呆れた仕儀であった。

「何方も」「どなたも」。

「坐敷の次」「座敷の次の間」。手前の小部屋。

「脱て置こと」「ぬぎておくこと」。

「如ㇾ此きの」「かくのごときの」。前に述べたように異常なほどに多人数の。

「數十腰か知れず」六十本前後とも知れぬほどの多数の。

「海波を畫けるが如くなりし」「海波」は「かいは」。盛り上がったり、下がったりする、巨大な海の波濤を立体に描いたような有様であった。

「此外」「このほか」。

「今にいかゞと臆中に殘りしは」今でも『あんなことは如何なものか』とすこぶる疑問に思うこととして、私の記憶の中に、はっきりと刻み残されてあることは。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の執筆開始であるから、静山は既に四十二年以上も前の記憶であるから、よほど、以下に書かれたようなやり方が、静山にとっては、武家というよりも人道に悖(もと)る不快にして卑怯なやり口と、今も感じていることがよく判る。

「公用人」「こうようにん」。大名や小名の家で幕府に関する用務を取り扱った役。

「三浦某」三浦庄司(みうらしょうじ 享保九(一七二四)年~?)は相良藩士で「田沼時代」の政策立案に深く関わった人物。備後国福山藩(現在の広島県福山市)領蘆田郡府川村(同府中市)出身。田沼家用人三浦五左衛門の養子となり、田沼意次が老中であった頃の公用人として権勢を振るった。天明六(一七八六)年六月のこと、田沼は全国の農民・町人らから、御用金を取り立て、それを資本として諸大名に貸し付けを行おうとしたが、この立案には三浦が介在していた。ところが、これが諸大名の激しい反発を浴び、撤回を余儀なくされてしまい、これこそが田沼失脚の原因となってしまう。その結果、この三浦は田沼家から暇を出された(この頃、田沼の用人であったことから、彼の兄山本藤右衛門や弟の弁助も福山藩主阿部正倫に重用されていたが、この田沼失脚により追放されている。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「云しを用」「いひしをもちひ」。

「賴に約して」この三浦庄司に依頼し、面会の約束をして。

「逢日」「あふひ」。

「往て」「ゆきて」。

「申入ければ」「まうしいれければ」。用心のために、再度、面会確認の申し入れをしてみると。

「答るには」「こたふるには」。

「只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし」「本日、只今(ただいま)より、御出座なされ、お目にかかることとは思われまする。しかしながら、大座敷へお出でなされた時には、瞬時に大勢の御客方が主人を取り巻きなされます故に、なかなかすぐには、これ、謁見は叶(かな)いがたいものにて御座いますればこそ、(貴方様は従五位下壱岐守にて肥前国平戸藩第九代藩主であらせられ、幸いにして意次様のお気に入りで御座いまするよって(ここは私の推定敷衍訳))何卒(なにとぞ)、「密」(ひそか)に別に拵えましたる静かな御座敷にお入りあられたい(「有たし(ありたし)」)「迚」(とて)、私を「隱處」(いんきよ:蔭の別座敷。)へ通し、密(ひそ)かに一対一で親しく、逢う手筈を調えたりした(「逢たりし」(あひたりし))。結果として静山は優遇されたわけだが、それを彼はすこぶる道義に反すると考えたのである。恐らくは、その大広間には清よりも年上で、しかも官位も石高も上の大名がいたからであろう。しかも、順序を守らずに、如何にも優先してやった的な慇懃無礼な特別扱いに、逆に腹を立てているのであると私は思う。それを意次自身ではなく、以下に見る通り(「陪臣の身として、我等をかく取扱」(とりあつかふ)「こと世に希なることなるべし」)、たかが雇われの陪臣風情が独断でやっていると清には推定出来たのである。確かにますます無礼千万な輩(やから)ではある。

「予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし」私は意次邸の大広間(とこの時の別座敷)しか行ったことはなく、他は知らぬ。しかし、中座敷(中位の大きさの座敷か)・意次が彼の親族や姻族と対面する座敷、或いは表座敷(この場合は玄関に近い方の、主に小人数の急の客と面会する客間・応接間として使う座敷)なども、その状態は恐らくはこの大座敷と似たり寄ったりの有様であったに違いない。

「當年の」当時の。

「權勢」「けんせい」。

「信に」「まことに」。

「浮雲」「うきぐも」。儚いものの譬え。意次の後の失脚の事実を指す。

甲子夜話卷之二 39 旗下の小出氏、家紋の事

2―39 旗下の小出氏、家紋の事

小出龜之助とて【二千石】當時御使番なる人、予も相識にて武邊者なり。此人の家紋、額の中に二八と文字あり。予其故を問に曰。我が先祖、某の處【地名忘】に於て首十六を獲て、其邊なる祠の額に積て實檢に及べり。神祖功勞を賞給ひて、其狀を家紋にせよと命ぜらるゝより、この如しと云へり。

■やぶちゃんの呟き

「旗下」「はたもと」。旗本。

「小出氏、家紋」サイト「戦国大名探究」の小出氏」の本文及び画像を参照のこと。なお、この「額」(がく)の中に「二八」の家紋は小出氏でもその分家の家紋のようである(ウィキの「小出に拠る)。樹堂氏のサイト「古樹紀之房間(こきぎのへや)」の「諏訪神の越後分祀と小出氏」の「2額紋」の項で本条への考察に関わる記事が出る。沼田頼輔著「日本紋章学」で本条について、『沼田博士は、「扁額は神社寺院に掲げる神聖なものだから、あの玉垣・千木堅魚木を紋章に選んだのと同じ意味で用いたもので、これに二八の文字を記したのは、二十八宿の頭文字をとったものらしい」とコメントして、「信仰的意義に基づいたものと考えられる」と推論』し、『額紋を用いた姓氏は』「寛政重修諸家譜」に『藤原為憲系の小出氏と、同じく藤原氏支流に属する小出氏とがある。そして、その同氏同紋であることから推測して、両氏は同じ祖先から出たものであろう」と記され』あてあるとある。『これら沼田博士の記事に拠ると、旗本の小出氏は尾張系の小出氏の後裔となるから、信濃出身で藤原為憲系と称した小出氏は、用いた家紋から、実際には神官系(諏訪の古族後裔)であったことが明らかになって』くるとある。

「小出龜之助」「【二千石】當時御使番」不詳。識者の御教授を乞う。本流のどこで分岐したかだけでも結構。「御使番」(おつかいばん)は江戸幕府(諸藩にもあった)の職名で、古くは「使役(つかいやく)」とも称した。元は戦国時代に戦場に於いて伝令や監察・敵軍への使者などを務めた役職で、これがそのまま、江戸幕府や諸藩に継承されたものである。

「相識」「あひしき」。知れる人物。

「武邊者」勇猛果敢で武道・武術に長けた人物。

「予其故を問に曰」「予、その故(ゆゑ)を問ふに曰はく」。

「我が先祖」家康と関わったとすれば、小出秀政・小出秀家・小出吉英などの名が挙げられよう。

「某の處【地名忘】」「なにがしのところ【地名、忘れたり。】」。

「獲て」「とりて」。

「其邊」「そのあたり」。

「なる」にあった。

「祠」「やしろ」。

「積て」「つみて」。

「實檢」首実検。

「神祖」徳川家康。

「賞給ひて」「ほめたまひて」。

「其狀を」「そのかたちを」。

甲子夜話卷之二 38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事

2―38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事

過にし頃、奧州を知れる某侯の家老、新吉原の遊女のもとに通ひ、後は甚しくなりて、用人奉行抔をも皆勸誘して、もし隨はざる者あれば、己が權に據て陵辱しければ、皆畏怖して隨ひ行けり。又甚しきは、一宿のみか居續して、十日にさへ及り。從へる用人奉行の輩も同じく居續ければ、其邸より官に申し出べき願書なども、皆遊宴の所に持來り、かむろ取次てかの家老に達せしとなり。竟に主君の咎めをうけて逼塞せり。これぞ寛政始の事なりけり。總て寛政にて維新の令を下されざりし前は、世上の弊風これに類すること夥しきことなりき。

■やぶちゃんの呟き

「某家」不詳。識者の御教授を乞う。

「過にし」「すぎにし」。

「奧州を」ママ。「奥州の」に読み換える。

「新吉原」当時世界最大の都市であった江戸の膨張の中、幕府は明暦二(一六五六)年十月に幕府は当時、現在の日本橋人形町に当たる当時は海岸に近かった元は葦屋(よしや)町(これが「よしはら」「よしわら」の語源)と呼ばれる地にあった「吉原」の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転していた。

「己が權に據て」「おのがけんによりて」。

「陵辱」「凌辱」に同じい。暴行。

「居續」「ゐつづけ」。「流連」とも書き、遊里で幾日もの間、泊まり続けて遊ぶこと。対語 は「一夜切(いちやぎ)り」。

「及り」「およべり」。

「輩」「やから」。

「其邸」その江戸家老の屋敷。

「申し出べき」「まうしいづべき」。

「持來り」「もちきたり」。

「かむろ」「禿」。「かぶろ」と読むのが本来であるが、近世以後では「かむろ」と清音でも呼んだ。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が、傍に置いて使う一三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。この段階では男はとらない。

「取次て」「とりつぎて」。

「逼塞」「ひつそく(ひっそく)」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された。

「寛政始」「かんせいはじめ」。「寛政」は一七八九年から一八〇一年主に倹約を旨とするタイトな経済政策を打ち出した「寛政の改革」は松平定信が、老中在任期間中の一七八七年から一七九三年にかけて、主導して行ったから、まさに「寛政の」初めに相当する。

「寛政にて維新の令を下されざりし前」「寛政の改革」よりも前。一般には賄賂が横行したとされる「田沼時代」。老中の田沼意次が幕政を主導していた明和四(一七六七)年から天明六(一七八六)年までの凡そ二十年間(或いはそれより前の宝暦期(一七五一年から一七六四年)から天明期(一七八一年から一七八九年)ともされる)。田沼意次が幕閣に於いて政権を握ったのは安永八(一七七九)年)のことであり、特に天明元年を契機としたとされる。江戸幕府が重商主義的政策を採った時代である(以上はウィキの「田沼時代に拠った)。「維新」は「維(こ)れ新たなり」の意で、「詩経」「大雅」の文王の「周は旧邦と雖も、其の命、維れ、新たなり」に基づく語で、「総ての事柄が改められ、完全に新しくなることを言う。

「弊風」「へいふう」。悪しき風俗。

譚海 卷之二 信州善光寺公事の事

信州善光寺公事の事

○信州善光寺の御朱印は千石也。且又(かつまた)善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也。そのうへ江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺にて、信州の住持と、江戸の尼寺と兩寺にて持來(もちきた)る事なり。近來靑山の尼寺諸侯の息女うちつゞき住持する事になりたるゆへ、自然と尼寺の威權(いげん)つよき樣になり、終(つひ)に信州の住持と御朱印配分の爭論(さうろん)おこり、公訴に及(および)たる事のありしに、公裁(こうさい)にも是非わかちがたく、千石の御朱印は善光寺如來へ付置(つけおか)れたる事なれば、如來所持の寺、御朱印進退すべきよし仰出(おほせいだ)されし時、兩寺ともに同作の如來所持ある事故、これもわかちがたく、最末(さいまつ)御吟味の所、善光寺眞の祕佛の本尊は、信州の寺にある事に決し、東叡山へ御吟味仰付(おほせつけ)られ、日光御門主より覺樹王院僧正へ祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける。御門主よりも右の次第公儀へ仰上(おほせあげ)られ、いよいよ信州の寺御未印進退すべき事に定(さだま)り、尼寺住持公儀(こうぎ)へ召出(めしいだ)され、御朱印は信州の寺へ下さるゝ間、分米(ぶんまい)の義は兩寺相對(あひたい)に致すべしと仰渡(おほせわた)され、其砌(そのみぎり)直(ただち)に兩寺とも東叡山支配に仰付られし故、宗旨は淨土にて支配は東叡山より沙汰する事に成(なり)たり。右御裁許(ごさいきよ)相濟(あひすみ)たるに、御門主より千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし仰付られけるとぞ。

[やぶちゃん注:「公事」「くじ」と読む。民事訴訟。

「御朱印」将軍が花押(かおう)の代わりに朱印を押して発行した公的文書であるが、ここはそれで公定された寺領の石高。

「善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也……」前条にも少し注(引用で)したが、善光寺はその総体は現在も非常に珍しい無宗派の寺院である。ウィキの「善光寺によれば、『山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と』二十五院、『浄土宗の「大本願」と』十四坊『によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが』、『代々公家出身者から住職を迎えている』、『古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する』。『特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済』『が挙げられる』とある。

「江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺」現在の港区北青山にある南命山(なんみょうさん)善光寺。松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の南命山善光寺|港区北青山にある浄土宗寺院の頁によれば、こちらの青山の善光寺は、永禄元(一五五八)年谷中に創建され、宝永二(一七〇五)年、『光蓮社心誉知善上人明観』(みょうかん)『大和尚の代に当地へ移転、江戸時代には信州善光寺本願上人の東京宿院であったとい』う。以下、「江戸名所圖會」による善光寺の縁起によれば、

   *

 南命山善光寺 同所(靑山)百人町(まち)右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、淨土宗尼寺あり。本尊阿彌陀如來は御長(みたけ)一尺五寸、脇士(けふじ)觀音・勢至の二菩薩は、共に一尺づつあり。称德天皇の景雲元年[やぶちゃん注:西暦七六七年。]八月十五日夜、法如尼(はふぢよに)和州當麻(たいま)の紫雲庵にて念佛誦持の頃、信州善光寺の如來、來現ありしを拝し奉り、直ちに一刀三禮(さんらい)にして其の御形を模(うつ)さる、是れ、則ち、當寺の本尊なり。

 當寺は永祿元年[やぶちゃん注:西暦一五五八年。]戊午(つちのえうま)の創建にして始めは谷中(やなか)にありしを、中興光蓮社心譽知善上人明観大和尚の時、宝永二年[やぶちゃん注:西暦一七〇五年。]、臺命(たいめい[やぶちゃん注:ここは将軍の命令。])に依つて、此の地へ遷(うつ)されけるととなり【今、谷中に善光寺坂と號(なづ)くるは、其の舊地なるが故にして、其の旧跡は今の玉林寺の地なりと云ふ】。什寶は中將姫、自(みづか)らの毛髮を以つて製造する所の六時の名號あり。

 觀音堂【本堂の左に並ぶ。堂内觀音百躰を安ず。本尊は聖觀音にして其の丈二尺ばかりあり、惠心僧都の作なり、當寺、むかし、谷中にありし頃、自(みづか)ら火中を遁れ坐給ひし靈像なりといへり。故に字(あざな)をして火除(ひよ)けとも、又は火災の時、榎(えのき)にうつり給ひしにより、榎觀世音とも稱ずるといへり。】。

   *

とある(以上はリンク先のそれと、ちくま文庫版を参考に恣意的に正字化して示した)。

「持來(もちきた)る」運営維持する。

「威權(いげん)」「威嚴」。勢力。

「つよき樣になり」「強きやうに成り」。

「爭論」紛争。

「公裁」公事による民事訴訟の裁定。

「如來所持の寺、御朱印進退すべきよし」本尊である如来を所持する寺が寺領配分を自由決定する権限を行使するのがよいという調停案を示したということを謂うのであろう。

「最末」最終的な、の意であろう。

「東叡山」東叡山寛永寺円頓院。天台宗。

「覺樹王院僧正」不詳であるが、覚樹王院大泉寺(最初は湯島にあったが、明和大火(行人坂火事)により一七七二年に焼失し、深川に移転)という寺はあった(現存はしない模様)。

「祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける」ウィキの「善光寺によれば、この像は『三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸』(四十五・四五センチメートル)『の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されて』おり、『その姿は寺の住職ですら』、『目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される』とある。また、同ウィキの年表に、元禄五(一六九二)年に、『秘仏の本尊を検分する使者が幕府から派遣され実測された』とあるが、ここはそれを指すものか(下線やぶちゃん)。

「分米」通常は、検地によって定められた耕地の石高を指すが、ここは全寺領の石高の二寺へに分配配当高を指している。

「義」底本には右に『(儀)』という補正注がある。

「相對」双方が対等の立場にあることをいう。幕府の裁定としては粋な計らいと言うべきであろう。

「千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし」折半でないのは、明らかに寺の規模が異なり、従事する僧の絶対数も違うからであろう。部外者の私でも穏当な配分量と見る。]

諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事

    十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事

 

 ある人、あづまより、みやこへのぼるとて、みちにて、日くれ、雨にあひて、とまりはぐれて、かなたこなたとする所に、かしこに、柴のかりや一けんありけるを、たちより、

「一やのやどをかし給はれ」

と云ふ。ていしゆ、たちいで、

「やすき事也」

とて、よびいれ、たき火などにあたらせけるが、夜もやうやう四つじぶんのころ、ていしゆの女ばう、わづらふと見へしが、その夜にむなしくなりにけり。ていしゆ、たび人をたのみ、

「われは寺へまゐり、出家をたのみまいるべし。そのあいだ、るすをたのみ申す」

とて、ていしゆは、たちいでぬ。たび人、すさまじくおもひけれども、ぜひなく、るすしてゐたりけるが、なにとやらん、おそろしく、身のけもよだつばかりにおもひける折ふし、なんどのかたより、としのほど、廿あまりなる女、いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ、たび人を見て、にこにこと、わらふ。たび人、これを見て、氣もたましひも、うせはてゝ、身をすくめてゐたりし所へ、ていしゆ、かへりければ、たび人、うれしくて、

「さてさて、ふしぎの事こそ候へ。御内儀はいまだ御はてなされずと見へたり。たゞ今まで、なんどのくちより、それがしを見て御わらひなされ候ふ」

とかたりければ、ていしゆもおどろき、なんどにいりてみれば、女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり。ふしぎにおもひ、あたりをみれば、となりに氣のちがいたる女、有りしが、いつもきたりて、たゝずみゐけるが、その夜もうらの口にたちゐければ、かのたび人を、まねき、

「これにては、なかりけるか」

とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしなひけると也。

 

[やぶちゃん注:「あづま」「吾妻」。広義の関東の意。

「柴のかりや一けん」「柴の假屋一軒」。粗末な柴で作った掘立小屋が一軒。実際にはこの建物は隣りの家もあるから、二軒あるのだが、背後にでも隠れて見えなかったのであろう。

「四つじぶんのころ」「四ツ時分の頃」。定時法で午後十時頃。

「すさまじくおもひけれども」心気に於いてもの凄い感じではあったけれども。

「るすしてゐたりけるが」「留守(役)をして居たりけるが」。

「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。

「いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ」「(顏の)色白く、鉄漿(かね)黑々と附けたるが出でて」。「鉄漿(かね)」はお歯黒のこと。

「女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり」「女房は別の事も無く(蘇生したような様子も全くなく)、(さっき看取ったままに)死して居たり」。

「ふしぎにおもひ、あたりをみれば」「不思議に思ひ、邊りを見れば」。

「となりに氣のちがいたる女」「隣りに氣の違ひたる女」。

「いつもきたりて、たゝずみゐけるが」「何時も來りて、(裏口のところで)佇みけるが」。納戸を抜けたすぐ奥にあったのであろう。ここは掘立小屋であるから、これらの配置は我々が想像する以上に狭い空間内にあると考えねばならぬ。そうした閉塞空間なればこそ、その向こうに今一軒の隣家があり、そこに狂人の娘が住んでおり、毎日のように、その裏口に立っては覗き、時に部屋の仲間で入り込んで来るなどという事情は、まず、何も知らぬ旅人には想定外の事実である。さればこそ、「かのたび人を、まねき、/「これにては、なかりけるか」/とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしな」ったというのも頷けるわけだが、本話、貧者の茅屋・その亭主の妻の頓死・死者と留守居をする旅人・隣家の白い亡霊のような狂人娘の恐るべき笑みという暗く悲しい現実の事象の積み重ねなのに、そうして、死者が蘇生したのではなくて実はそれは隣りの気違いの娘だったのだということを亭主が説明なしで見せて確認させてしまった結果、旅人が遂には気絶昏倒してしまうという筋書きが、登場人物全員に失礼乍ら、読者にとっては面白さの際立つショート・ショートの体(てい)を成している。]

2016/10/30

甲子夜話卷之二 37 妖僧、山鹿氏と對接の事

2―37 妖僧、山鹿氏と對接の事

昔、僧に、人の心中を能知り其思ふと所を云ふ者あり。誰人も皆見ぬかれて一言もなし。此時山鹿甚五左衞門【素行先生】未だ若かりし頃なりしが、或人其僧に對面せしむ。山鹿固辭すれども聞かず。止ことを得ず、遂に對面せしに、彼僧、常とかはりて、今日は心中の事云は御免あれと云ふ。山鹿、是非承りたしといへども云はざりしとなり。これを見るもの大に訝り、いかなれば彼僧云得ざるやと山鹿に問へば答には、我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり。若し我が胸中を一言にても口外せば拔打にせんと思切りて居たるを知たると覺て、言出さずして逃返りしなるべしと云しと。

■やぶちゃんの呟き

「山鹿氏」「山鹿甚五左衞門【素行先生】」山鹿素行(やまがそこう 元和八(一六二二)年~貞享二(一六八五)年)は江戸前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。名は義以(よしもち)。甚五左衛門は通称で、素行は号。ウィキの「山鹿素行」によれば、『陸奥国会津(福島県会津若松市)』で浪人の子として生まれ、寛永五(一六二八)年、六歳で江戸に出た。寛永七年、九歳で、『大学頭を務めていた林羅山の門下に入』って『朱子学を学び』、十五歳からは『小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ』。後、『朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる』。寛文二(一六六二)年頃から朱子学に対する疑問が強まり、『新しい学問体系を研究』、寛文五(一六六五)年、『天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され』「山鹿語類」『などに示されている』。延宝三(一六七五)年になって『許されて江戸へ戻り、その後』十年間は『軍学を教えた。その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている』とある。

「對接」「たいせつ」接対」応接・対面すること。

「能」「よく」。

「誰人」「たれびと」。

「此時未だ若かりし頃なりしが」は以下の「山鹿」の修飾で、位置がおかしい。

「止ことを得ず」「やむことをえず」。止むを得ず。

「彼僧」「かの僧」。

「今日は心中の事云は御免あれ」「今日はその御仁の心中に思わるることを言うは、何卒、御容赦下され。」。

「大に訝り」「おほいにいぶかり」。

「云得ざるや」「いひえざるや」。「言い当てることが出来なかったか?」。

「答」「こたへ」。

「我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり。若し我が胸中を一言にても口外せば拔打にせんと思切りて居たるを知たると覺て、言出さずして逃返りしなるべし」これ全体が山鹿が答えた言葉であるが、少し表記を変えてみる。

「我が心に決したるは、『心中に思ふ所の物有りて(それを)知るは理(り)の當然なり。若し、我が胸中を一言にても口外せば、拔き打ちにせん』と思ひ切りて居たるを、(その心を確かに読んで)知りたると覺えて、言ひ出さずして逃げ返りしなるべし」

敷衍的な補語を加えて意訳してみる。

「拙者が心の中で確かにはっきりと思うたことは、

――所詮、人は同じ人であるからして、人が心底、その心中に、ある決意を以って明確に念じたところの思いは、種々の表情やちょっとした仕草、その人の体全体から発する気配などから、十全に推理して明確に知り、言い当てるなんどということは、妖しいことでも何でもない。理の当然である。さて、もし、そうした私の胸の内を完全に読むことが出来、それをこの場でこれから一言でも口外したならば、ここで拙者は、貴僧を一刀のもとに抜き打ちにしようぞ!――

とのみ、強く念じて御座ったればこそ、その総ての、則ち、私が抜き打ちにして斬り殺すという部分までも総て、かの僧は読心して御座ったと思われ、読み取ったことを言うことなく、逃げ帰ったので御座ろう。」

所謂、ありがちな、二律背反、ジレンマのパラドックスであるが、妙な飾りがない分、非常に清々しい話柄と言える。私は好きだ。なお、ネット上を調べてみると、複数の現代語訳で、「我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり」の箇所を――私が心の中で思ったことを読み取ることが出来たとすれば、あの僧が、あのように尻をからげて逃げ帰ったのは当然のことだ――と言った感じで訳しているのを見かけたが、それは原文に即していない、表現としてそのようには採れない、と私は考える。そして、そんな「屁理屈」を頭に出してしまって山鹿の台詞を訳してしまうと、「如何にも解り易いが、如何にもクソのようにつまらぬ」話柄となってしまう。これはあくまで冷徹な論理の、軍学家らしい、実にのっぴきならない一対一の対決の妙味の面白さなのである

「云し」「いひし」。

谷の響 二の卷 十五 山靈

 十五 山靈

 

 この中村某といへる人、天保九戌の年の荒歳に東濱なる奧内村に勤番して有けるが、百姓ども山に入りて檜樹の皮を剝ぎ取る故、こを制せん爲め山中を見分に巡り、往々(ゆきゆき)てツホケ森と言ふに至れり。この山ことに檜樹多ければ登らんとなしたるに、引路(あない)の者の言へるは、この山に山神の住ませ玉へる故に登る時は必ず風雨起りて人を傷むることままあれば、登る事は停(とゞま)り玉へとありけれども、吾私に登るにあらず、公命なれば山神とても豈(いかで)難を加ふべき、とく導(あない)せよと言へど只(たゞ)に平伏(かしこまり)て、私どもは千乞(どうぞ)おゆるし下さるべしと言へるに、血氣盛んの時なれば以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばらと呵(しか)りちらして辿往(たどりゆ)くに、檜樹森々(いよやか)に繁滋(しげれ)る中、皮を剝たるものもまゝあれば、然(さ)ては渠等(きやつら)犯せる罪のあるからに吾を欺騙(だませ)るものなるべし。さればよく見屆けて縡(こと)を立つべしとて、すでに廿町ばかりも登りしに、海潮(うしほ)の涌が如く響きわたりて一山鳴動し、忽ち暴風(はやて)起りて葉を裂き樹を折り、見る見る大雨盆を傾くるが如く雷鳴地軸に徹し、片時も耐居ることならねば急いでもとの處へかけ下りしに、引路(あない)の者ども途の半に迎へ出て有つるに、これに助けられて三丁ばかり下りしに、雨の痕(あと)も漸々にうすく村近くなりて一滴のあとだになく、粉埃(こなほこり)起(たつ)てありしかば、渠らが欺かぬ由をしりしなりと語りけるとなり。

 又、この人笹子(たけのこ)を取らんとその隣家(となり)なる齋藤某と二個同伴(ふたりつれ)にて、岩木山の裾野なる小杉澤に往きけるに、その頃大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】の兄弟と渾名(あだな)せる山中自在の老人(おやじ)ありて大膽なる人なるが、この日も往きてとある片蔭に憩み煙草を吹て居たりしが、元より知遇(しれ)る人なれば倶に休みて語らひたるに、老父が言ふ、必ず赤倉の澤へは登らざれ、風雨の難のみならずことによれば過傷(けが)する事も間々あるなり。こなたの澤には笋子も多ければ其處にて取るべし。諄々(かへすかへす)赤倉へは登るべからずと示(おしへ)しに、謝儀(れい)を演(のべ)て喩(をしへ)のまゝに辿り行きしに、齋藤が言へるは、かの老父自らよき獲物せんとて吾等を欺騙(だま)せるものならん。いでその赤倉に往きて取るべしとて、路を改(かへ)て登りしに、いかにも大きなる笋子さはなれば、然(さて)こそとて笑ひ合ひつゝすでに一背負も取得たる頃、俄然(にはか)に山中震動して黒雲足下(あしもと)に起りて溪澗(たに)を封(ふさ)ぎ、迅雷(いかづち)宇宙(そら)に轟き驟雨(おほあめ)砂石を流して、その凌然(すさま)じきこと言ふべくもあらず。二個(ふたり)は大に驚惶迷亂(おどろきあはて)、倉卒(にはか)に笋子を荷負(にない)て嶮岨(さかしき)も厭はで十四五丁も脱去(にげ)たりしに、かの老父傍(かたへ)の藪蔭より聲をかけ大にあざみ笑ひ、己が言を聽ずして濡鼠となるは好き氣味なれど吾にまで雨に遇はせたりとて、夫より倶に下りしが二丁許にして雨の痕(あと)更になければ、誠に山戒の守るべく犯すべからざるを知れり。こは天保初年の事なりとてこの中村は語りしなり。

 また小館某の二男なる人、その同伴(とも)五六人と山中投宿にて筍子を取らんと、嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】より鳥海山の方へ登りしが、何地にか迷ひ往きけん亂柴(むづし)を僂洩(くぐ)り嶄絶(なんしよ)を匍匐(はらば)ひ、難を凌いで漸々(ようよう)に坦地(ひらち)に出たるが、その傍なる溪澗(たに)を見れば篠(しの)竹の彌(いや)蕃(しげ)りに茂りたれば、さてはよき地(ところ)なりとて個々(おのおの)篠叢(さゝやぶ)に入り、少々時(わつかのあいだ)にしていとよき筍を多く獲りつれば、卒(いざ)晝飯を喫はんとかの坦地(ひらち)に戾りて憩(やす)らひしが、圍(まはり)二尺二三寸より三四尺なる木の今伐りたりと見ゆるもの、何處ともなく飛來りて礫を打つが如くなれど、人には中らで頭の上僅か一尺ばかり離れて足下(あしもと)一二尺の前に墮ち、又甚しきはこの木の長さ七八尺のものなどは、地に墮る勢ひに二箇三個に折れたるもあれど、人かげもなく木を伐る音も聞えねば、これぞ大人の業(わざ)ならんと咸々(みなみな)怕(おそれ)をなして飯も食ひ得ず、早卒(にはか)に其地(ところ)を立退きしに忽ち雷鳴天地を轟かして大雨盆を傾くるが如くなるに、いよいよ怖れて北(にげ)走りしが、硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】の上に出たれど、猶雨は止まざるに風且(また)起りて吹飛ばさるゝが如くなれば、玆にも耐得で馳(はせ)下り本湯【嵩温泉の涌壺なり。】といふ處に來る頃、風雨しばらく和ぎしに僉々(みなみな)放心(あんど)して徐行(しづか)に嶽に戾りしが、その途中より又雨のあと更になく嵩にては風も吹かずと言へり。山神の掲焉(いちゞるき)こと惶るべきなりと、木村某なる人小館より聞しとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「山靈」「さんれい」と読んでおく。ウィキの「山霊」によれば、『山に宿るとされる神霊の総称』で、『古来日本の山の多くは山岳信仰の対象として聖なる山として祀られており、そうして山には様々な神々や霊が宿るとされていた。また山は霊界に最も近いところとも言われ、死者の霊が集うとも言われていた。そうした神々や霊の総称を山霊と呼ぶ』。『山霊は聖地たる山に人が入ることを良しとせず、山中に踏み入る人に対して警告を発する意味で、怪しげな音を立てたり、不気味な声を出したり、笑い声をあげたりする。時には人間への報いとして、怪火を出現させて畏怖を与えることもあるという』私も電子化注を行っている松浦静山の「甲子夜話」にも、『山霊のことが語られている』(「甲子夜話」は膨大で元を点検する暇がない。見付け次第、追加する)。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之六」に載る「相州大山怪異の事」を指していよう。】『その昔、関東のとある山でのこと。麓の茶店に登山途中の』二『人の男が立ち寄り、休憩をとった』。二『人は先を急いでいる様子だったが、足は進んでいないようで、しかも時は既に夕刻だった。このままでは山に登りきる頃には夜更けになってしまう』。『店の主人や客たちは、夜の山に入るのは良くないと、明日改めて山に登ることを勧めたが、男たちは今夜中に頂上をきわめたいと言い張り、彼らの制止を聞かずに店を去って山へ入って行った』。『間もなく凄まじい雷鳴が轟き、大雨が降り始めた。やがて雷雨はやんだが、店の主人たちは何か異変が起きたに違いないと、次の日に男たちを探して山へ入った。すると案の定、頂上へと続く途中の木に、男たちの身につけていた着物などが引っ掛かっていた。男たちの姿は影も形もなかった。一同は、彼らは山霊にやられたに違いないと、畏れながら話し合ったということである』とあって、この「甲子夜話」の話では二人が二人とも殺害され、遺体も消えている。二人とも直近にあって落雷の直撃を同時に受け、肉体が断裂し、獣に食われてしまったとも考えることは可能である。

「この中村某」前話「谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅」の最後の最後に名が出る人物。如何にも前話の採集と本話のそれが共時的であったことを窺わせる書き出しである。

「天保九戌の年の荒歳」天保九年は正しく「戊戌」(つちのえいぬ)で西暦一八三八年。「荒歳」は「こうさい」で凶作の年のことを指す。底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『天保年間、津軽領内は三年から十年まで、五年を除いて七年連続の凶作であった。八年には餓死者四万五千人、隣国秋田への流散者一万人といわれた』とある。

「東濱なる奧内村」同じく森山氏の補註によれば、『青森市奥内(おくない)。青森から北へ十キロ、陸奥湾に臨む。この西方丘陵部がヒバの美林地帯である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「檜樹の皮を剝ぎ取る」檜 の樹皮は「檜皮葺」として屋根に葺 く以外にも、腰壁(主に窓の下端をから床までの室内側の装飾壁)にしたりする高級木材で、火繩の原料の一つともなった。

「ツホケ森」不詳。但し、先の現行の地図を見ると、奥内の西方丘陵部には「源八森」という山、青森寄りには「田沢森」、その南西には「土筆山森山」、その西方の五所川原市には「長者森山」という名称の山や森を見出せる。識者の御教授を乞うものである。

「傷むる」「いたむる」。傷つける。

「吾私に登るにあらず」「われ、わたくしに登るに非ず」。「私は物見遊山に登るのではないぞ。」。

「豈(いかで)難を加ふべき」「どうして私に危害を加えることなんぞが出来ようか、いや、出来ぬ!」。「千乞(どうぞ)」二字へのルビ。

「以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばら」「よし! 分かった! それなら私独りで登るわ! さりながら、何と甲斐性のない臆病者どもがッツ!!」

「森々(いよやか)に」二字へのルビ。何とも豊かに。

「繁滋(しげれ)る」二字へのルビ。

「剝たる」「はぎたる」。

「欺騙(だませ)る」二字へのルビ。

「さればよく見屆けて縡(こと)を立つべし」「そういう魂胆だったのであれば、よくよく状況を見届けて、報告ときゃつらへの処断の方法を厳しく立てずんばならず!」。

「廿町」二キロメートル強。

「涌が如く」「わくがごとく」。山の中であるのだが、あたかも海の大波が押し寄せてくるような地響きを立てて異様な怪音が木霊するのである。

「耐居る」「たへゐる」。

「下りしに」「くだりしに」。

「半」「なかば」。

「迎へ出て有つるに」「むかへいでてありつるに」。

「三丁ばかり」僅か三百二十七メートルばっかし。

「漸々に」「ようように」次第に。

「うすく」「薄く」。小降りとなり。

「渠らが欺かぬ由」「かれら(彼等)があざむかぬよし」。彼らが私を騙したのではなかったこと、山神が実際にいかったのだということ。

をしりしなりと語りけるとなり。

「岩木山の裾野なる小杉澤」現在の弘前市百沢字東岩木山地内に「小杉沢湧水」が現存する。この周辺である(グーグル・マップ・データ)。サイト「おもリ湧水サーベイ」の「小杉沢の湧水」で限定位置と現地の画像が確認出来る。

「大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】」同じく森山氏の補註によれば、『山に住む巨人で怪力をもち超人的垂所業をすると信じられた。津軽では開墾』を『手伝ってくれた話、一夜のうちに薪を運んでくれた話、相撲を好むことなど』、『大人(おおひと)の話が多い、山の神の人格化した伝承と思われる』とある。ウィキの「山男」によれば、『日本各地の山中に伝わる大男の妖怪。中世以降の怪談集、随筆、近代の民俗資料などに記述がある。山人(やまびと)、大人(おおひと)などの呼称もある』とし、かく地方の山人(大人)伝承を載せるが、そこに「青森県・秋田県」の項があい、『青森県の赤倉岳では大人(おおひと)と呼ばれた。相撲の力士よりも背の高いもので、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという』。『弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑に灌漑をするなどして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られたために村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという』。『当時の村人たちはこの大人を鬼と考えており、岩木町鬼沢(現・弘前市)の地名はこれに由来する』(この附近であろう(グーグル・マップ・データ))。『現地にある鬼神社は、村人が彼らの仕事ぶりを喜んで建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が神体として祀られている』。『三戸郡留崎村荒沢の不動という社には、山男がかつて使用したといわれる木臼と杵があり、これで木の実を搗いて山男の食料としたという』。『秋田県北部でも山男を山人(やまびと)または大人といい、津軽との境に住むもので、煙草を与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれたといわれる』と載るのが、森山氏の注の具体例として判る。

「憩み」「やすみ」。

「吹て」「ふきて」或いは「ふかして」。

「赤倉の澤」同じく森山氏の補註によれば、『岩木山中の難所。登山口から北方に当り、気性変化激しく』、『神秘的な場所と考えられ、行者の修行場となっている』とある。先の「小杉沢」の北辺りと思われる。

「登らざれ」「登ってはいかんぞ!」。

「過傷(けが)」二字へのルビ。

「間々」「まま」。

「こなた」この(小杉沢)辺り。

「諄々(かへすかへす)」「返す返(がへ)す」。「諄(くど)いが」。「諄諄」は「諄々(じゅんじゅん)と」で今も生きているように、「相手に解るようによく言い聞かせるさま」を言う。

「大きなる笋子さはなれば」如何にも大きな筍がさわに生えていたので。「さは」は「沢山にある」の意で「澤」の意ではないので注意。

「一背負」「ひとせおひ」。

「取得たる」「とりえたる」。

「迅雷(いかづち)」二字へのルビ。

「驚惶迷亂(おどろきあはて)」四字へのルビ。

「十四五丁」一・六キロメートル前後。

「あざみ笑ひ」「あざむ」は「淺む」でもとは清音「あさむ」。近世以後に「あざむ」と濁音化もした。「意外なことに驚く・呆れ返る」或いは「蔑(さげす)む・侮(あなど)る」の意で、ここは両方の意を掛ける。『言わんこっちゃない、儂(わし)の言ったことを信じず、守らず、或いは、大方、儂が筍を独り占めしようと騙したとでも思ったのであろうが』といった微苦笑である。図星!

「己が言を聽ずして」「われがげんをきかずして」。

「濡鼠」「ぬれねづみ」。

「好き氣味なれど」「よききみなれど」。「いい気味じゃが」。

「吾」「われ」。

「夫より」「それより」。

「二丁許」たった二百十八メートルほど。

「誠に」「まことに」。

「山戒」「さんかい」と音読みしておく。山の戒め・山入りの禁忌(タブー)。

「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。

「小館」「こだて」「おだて」「こたち」と読める。ネット検索で実は「小館」姓が現在、最も多い都道府県はまさに青森県だそうである。

「嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】」「俗に只嵩とのみ稱へり」とは「当地では俗にただ、「嵩(だけ)」とのみ、呼び習わしている」の意。「岩木鳥海山」の「鳥海山」はかの山形県と秋田県に跨がるあれではないので注意。森山氏の補註によれば、『岩木山の山頂部に三峰があり、中央は岩木山、北は巌鬼山』(がんきさん)、『南を鳥海山と呼ぶ』とある(外輪山の一部)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「温泉」とは次の話柄にも出るが、現在の、青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「何地」「いづち」(但し、先行例では皆「いつち」と清音)。「何地にか」で「どこかで」。

「亂柴(むづし)」二字へのルビ。前条に「亂柴蕃殖(むづしばら)」(四字へのルビ)と出て注した。再掲すると、底本の森山氏の補註によれば、『津軽方言で雑柴や荊棘』(いばら)『が混茂している原野をいう。本文の文字は表意の当て字である』とある。

「僂洩(くぐ)り」二字へのルビ。「僂」は「屈(かが)む」の意、「洩」は「出る」の意か。

「嶄絶(まんしよ)」二字へのルビ。「嶄」(音「ザン」)は「高く険しい」意。難所。

「篠(しの)竹」小振りの竹類の総称。

「少々時(わつかのあいだ)」三字へのルビ。「わつか」はママ。

「喫はん」「くはん」「食わん」。

「二尺二三寸」六十六・六六~六十六・九九センチ。

「三四尺」九十一センチから一メートル二十一センチ。

「飛來りて」「とびきたりて」。

「中らで」「あたらで」。当たらずに。

「一尺」三十・三センチ。

「一二尺」三十・三~六十・六センチ。

「七八尺」二・一二~二・四二メートル。

「二箇三個」漢字表記の違いはママ。

「大人」「おほひと」。先に山を知り尽くした老人の比喩に出たものが、ここでは真正の変化(へんげ)・妖怪・山霊(やまれい)の意で使われてある。

「其地(ところ)」「そのところ」「ところ」は「地」一字へのルビ。

「北(にげ)走りしが」「北」は、人が背をそむき合って反対方向を向いている象形文字で、原義は「背(そむ)く」。そこか「逃げる」「負ける」の意が生じた。

「硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】」「いわうたい(いおうたい)」と読むか。「岱」は中国の五岳の長、神聖な泰山の別称であるが、ここは「山」「峰」「ピーク」の謂いのようである。現在の所定地は不明であるが、嶽温泉の二十町上(二キロ百八十二メートル程)手とあるから、「湯の沢」北東に登った写真中央(鳥海山南西直近尾根附近か(グーグル・マップの航空写真データ)。

「耐得で」「たへえで」。

「本湯」「もとゆ」か。

「涌壺」「わきつぼ」か。同温泉の古い源泉か。恐らく「湯の沢」のどこかにあるような気はする。

「掲焉(いちゞるき)こと」「掲焉」は音で「ケチエン」或いは「ケツエン」と読み、著しいさま、目立つさま、の意である。

「惶る」「おそる」。]

諸國百物語卷之四 十 淺間の社のばけ物の事

    十 淺間(あさま)の社(やしろ)のばけ物の事


Bunsin

 しなのゝ國に、何がしのさぶらひ、有りけるが、心、がうに、力つよき人なり。あるとき、家來をあつめて申されけるは、

「あさまの社(やしろ)にはばけ物ありと、きゝおよびたり。われ、此所にゐながら、これを見とゞけんもくちをしく、こよひ思ひたち、あさまへゆきて、ばけ物のやうす見んと思ふ也。もし、わがあとに一人にても、つききたらんものは、はらをきらすべし」

とせいし、二尺七寸の正むねの刀に、一尺九寸の吉(よし)みつのわき指をさしそへ、九寸五分のよろひどをしを、ふところにさし、五、六人ほどしてもつ、くろがねの棒をつえにつき、ころは八月中じゆん、月くまなき夜、あさまのやしろをさしてゆき、はいでんにこしをかけ、なに物にてもあれ、たゞ一うちにせんとまちゐける所に、ふもとのかたより、としのほど十七、八なる、うるはしき女、しろきかたびらをきて、三さいばかりなる子をいだききたりて、何がしをみて、云ふやう。

「さても、うれしき事かな。こよひはこのやしろにつやを申すに、よきとぎのおはしますぞや。あまりにくたびれたれば、なんぢはあの殿にいだかれよ」

とて、ふところよりおろしければ、この子、するするとはいのぼるを、何がし、もちたる棒にて、ちやうど、うてば、うたれて、此子、母がもとにかへりけるを、

「いだかれよ、いだかれよ」

とて、ひたと、おひかへす事、五、六どにおよべば、くだんの棒もうちまげゝれば、腰のかたなを、するりと、ぬき、此子を、ふたつに切りたをしける。かたわれに、又、目、はなつきて、此子、ふたりになりて、はいかゝるを、ふたりともに切りたをしければ、又、その手あし、むくろなどに、目、はな、つきて、子となり、ひたと、此子、かずをゝくなるほどに、のちには二、三百ほどになりて、はいでんにみちみち、一どに何がしに、はいかかる、母も、

「今は、それがしも、まいらん」

と云ふ。何がしも、かゝらばきりころさんとは思ひしかども、いづくともなく、うしろさむく、身の毛もよだちておぼへけるが、うしろのかたへ、大石(たいせき)などを、おとしたるほどのおと、しけるほどに、見かへりければ、そのたけ、十丈ばかりの鬼(をに)となり、何がしにとびかゝるを、九寸五分にて、つゞけさまに三刀(かたな)、さし、とつて引きよせ、とゞめをさす、と思ひしが、そのまゝ、心もうせはつるところへ、家來のものども、かけつけみれば、わき指(ざし)をさか手にもち、塔の九りんをつきとをしてぞ、ゐられける。ばけ物は、きへうせけるに、ぜひ一刀(ひとかたな)とおもわれしねんりきにて、九りんをつきとをされけると也。 

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「淺間の社のはけ物の事」。

「淺間の社」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、長野県北佐久郡『軽井沢町追分の浅間神社、または松本市浅間温泉の御射山神社(浅間宮)であろう。追分の浅間神社は鬼神堂ろ呼ばれた時期がある』と記す。因みに、前者は「あさまじんじゃ」と読み、磐長姫神(いわながひめのかみ)を祭神とする。ここは芥川龍之介を始めとした文化人所縁の神社である。後者は調べる限り、現行では「御射(みさ)神社」と呼称しているようである。

「心、がうに」「心、剛に」。

「われ、此所にゐながら、これを見とゞけんもくちをしく」我れ、ここに居ながらにして誰彼をそこに遣わし、その変化(へんげ)のものを、見届けさすると申すも(己(おの)れを安全圏に退(ひ)いておいて、かくすると申すも)、まっこと、口惜しく、自身が許さぬ故。

「こよひ思ひたち」「今宵、思ひ立ち」。

「あさまへゆきて」「淺間へ行きて」。

「つききたらんもの」我らを心配して、こっそりと後をつけて来るような者は。

「はらをきらすべし」「腹を切らすべし」。「切腹、申しつくるであろうぞ!」。

「せいし」「制し」。家来たち全員に随行を禁じたのである。

「二尺七寸」約八十一センチ八ミリメートル。

「正むね」「正宗」。正宗(まさむね 生没年不詳)は鎌倉末から南北朝初期にかけて鎌倉で活動した刀工で、正宗は日本刀の名刀の代名詞となっており、彼が鍛えたとされるそれらには数々の伝承が付随する。

「一尺九寸」五十七センチ六ミリ弱。

「吉(よし)みつ」「吉光」。粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 生没年未詳)は鎌倉中期の刀鍛冶で先の正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られている。

「わき指」「脇差(わきざし)」。

「九寸五分」二十八センチメートル八ミリ弱。

「よろひどをし」「鎧通(よろひどほ)し」歴史的仮名遣は誤り。組み打ちの際の武器(名称は鎧を貫通させる意)とした短刀。反りがなく、長さはまさに九寸五分前後のものを言う。「馬手(めて)差し」或いは単に「めて」とも称した。

「くろがねの棒」「鐡(くろがね)の棒」。「鬼に金棒(かなぼう)」の鉄製の打撲面に尖った突起を持った総金属製の棒。金砕棒(かなさいぼう)。ウィキの「金砕棒」によれば、『日本の打棒系武器の一種。 南北朝時代に現れたと考えられ、初期のものは、櫟』・栗・樫などの硬い木を』一・五メートルから二メートルほどの『八角棒に整形したものに「星」と呼ばれる正方形あるいは菱形の四角推型の鋲と箍で補強したものであったが、後に「蛭金物(ひるかなもの:帯状の板金)」を巻き付たり長覆輪(ながふくりん:鉄板で覆う)といった鉄板で覆って貼り付け補強した』拵えとなり、『さらに後世、完全な鉄製(時代を経るごとに鋳物製から鍛鉄製の順に移行)となった』とある。

「八月中じゆん」「八月中旬」。旧暦であるから、既に秋で中秋の名月の前後である。

「月くまなき夜」「月、隈無き夜」。皓々たる月光の中というシチュエーションがこの後の奇体な変化(へんげ)の分身術のシークエンスを盛り上げる。

「はいでんにこしをかけ」「拜殿に腰を掛け」。

「うるはしき女」「麗しき・美(うるは)しき女」。

「しろきかたびらをきて」「白き帷子を着て」。他の話にも何度も出てきた、裏を付けていない白い単衣(ひとえ)。

「いだききたりて」「抱き來りて」。

「云ふやう。」句点は底本のママ。

「つや」「通夜」。この場合は、社寺に夜通し籠って祈ることを言う。

「よきとぎのおはしますぞや」「良き伽の御座しますぞや」。「伽」は夜明かしの勤行する際の(時間潰しの話し)相手。通夜の祈禱と言っても、修行僧の勤行のようなものとは違って、ずっとき祈りをささげ続けるわけではない。寧ろ、それを口実に酒食や談話に興じたりすることの方が、実際には多かった。

「するすると」如何にも妖怪じみた機敏にしてキビ悪い動きのオノマトペイア。

「はいのぼる」「這ひ登る」。歴史的仮名遣は誤り。

「ちやうど」「チョウ!」と。打ちこむ際のオノマトペイア。実際、打ち込む際に「ちょうッツ!」叫んだりもする。

「ひたと」直ちに。ただ、ひたすらに。後のも同じ意。

「くだんの棒もうちまげゝれば」「件の棒も打ち枉(ま)げければ」。かの金棒を、この幼児は遂に素手で捻り曲げてしまったのである。それだけでも恐るべき怪力の妖児であるが、これだけでは済まない。

「ふたつに切りたをしける」「二つに切り仆(たふ)しける」。「倒(たふ)し」でもよいが、歴史的仮名遣では「たをし」は誤り。

「かたわれに、又、目、はなつきて、此子、ふたりになりて、はいかゝるを」「片割れに、また、目・鼻附きて、二人に成りて這ひ掛かるを」「はい」は歴史的仮名遣の誤り。挿絵の通り(この挿絵は、その瞬間を文字通り、美事にスカルプティング・イン・タイムしている点に着目!)、切った半身(はんみ)が瞬時に一体に再生するのである。以下、驚異の再勢力を持つ扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida のプラナリア類(Planaria:生物学で「プラナリア」という場合、本邦では、北海道北部を除く日本に普通に産する淡水性のそれ、三岐腸(ウズムシ)亜目サンカクアタマウズムシ科ナミウズムシ属ナミウズムシ(並渦虫)Dugesia japonica を指すと考えてよい)か、「X-MEN  ファイナル・ディシジョン」(X-Men: The Last Stand 二〇〇六年)に出てくる、分身術を操るミュータント「マルチプル・マン(Multiple Man)」みたようなもんだな。

「むくろ」「骸」。ここは特異な用法で、ばらばらに斬られたその妖児の肉片

「此子、かずをゝくなるほどに、のちには二、三百ほどになりて、はいでんにみちみち」「この子、數多(おほ)く成る程に、後には二、三百程(の分身)に成りて、拜殿に滿ち滿ち」(「ををく」の歴史的仮名遣は誤り)。それらの雲霞の如き多数の再生分身が「一どに何がし」(一度にかの主人公何某(なにがし))「に、はいかかる」(「這ひ掛かる」の誤り)というと併せ、ヴィジュアルに実に凄い!

「かゝらばきりころさん」その母なる女の変化(へんげ)が襲いかかってきたら、即座に切り殺してやると。

「いづくともなく」「何處とも無く」。何とも言えず。わけもなく。

「うしろさむく」「後ろ・背後(うし)ろ寒く」。

「うしろのかたへ大石(たいせき)などを、おとしたるほどのおと、しけるほどに」突如、自分の背後の方で、巨大な岩石などを、髙いところから何者かが投げ落としたような音が、したので。

「十丈」三十メートル三十センチ弱。

「九寸五分」前に出た鎧通し。

「とつて引きよせ」「捕つて引き寄せ」。

「とゞめをさす」「止めを刺す」。

「心もうせはつる」「心も失せ果つる」。失神したのである。

「塔の九りん」石製の九輪塔。特に寺院の五重の塔のような建物の描写がないので、これは実際の高い木造塔の頂きに飾られる相輪(塔の最上部にある装飾部分で下から露盤・伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・水煙・竜舎・宝珠の七つから成る)の部分名である「九輪」。露盤上の請花(うけばな)と水煙(すいえん)との間にある九つの金属製の輪で「宝輪」「空輪」などとも呼ぶ)ではない(遙か十数メートル上のその「九輪」に彼の鎧通しが突き刺さっていたなら、これ、私は素敵に雄大で面白くなると思うのだが)。これは所謂、等身大或いは少しそれよりも高い、本来の前の「九輪」のミニチュアである石塔の「九輪」「相輪」である。但し、仏塔の最上部のその「相輪」全体を「九輪」と称することもあり、ここはそれでよい。要は、恐らくは高い確率で宝篋印塔の最上部のとんがったそれである。

「つきとをしてぞ、ゐられける」「突き通(とほ)してぞ、居られける」。石の九輪を鎧通しで貫通させていたというのだから、これ自体が、瞬発的な怪力、神業、まさに「念力」とも言うべき仕儀である。その映像を想像すると、これまた、凄い。上手いコーダと言える。]

2016/10/29

北條九代記 卷第十 甲乙人等印地停止

      ○甲乙人等印地停止

 

同四月二十一日、鎌倉内外(うちと)の甲乙人等(かふおつにんら)數十人、比企谷(ひきがやつ)の山の麓に群集し、未〔の〕刻よりして向飛礫(むかひつぶて)を打ちける程に、所々の溢者(あぶれもの)ども、兩方に行集(ゆきつど)ひ、意恨(いこん)もなく怨(あた)もなくて、分(わか)ち、はじめには只、飛礫(つぶて)を打合(うちあ)ひ、漸々、人衆の重(かさな)るに任せて互(たがひ)に矢を放ち、是(これ)に中(た)りて死傷する者、兩陣に數多(あまた)出來りれば、愈(いよいよ)引退(ひきの)かず。親屬朋友(しんぞくほういう)、その敵(てき)を討たんと構へ、暮方に成りては、武具を帶(たい)し、馬に乘りて、偏(ひとへ)に軍陣(ぐんぢん)に異らず。閧(とき)の聲、矢叫(やさけび)の音、入亂(いりみだ)れて戰ふ。手負(ておひ)、死人(しにん)、おほかりければ、夜𢌞(よまはり)の輩(ともがら)、數百人を率(そつ)して走向(はせむか)ひ、「こはそも何事ぞ。意恨にもあらず怨(あた)にもあらず、見えたる事もなくして兩陣を張り、手柄にもあらぬ武篇(ぶへん)を勵(はげま)し、人を殞(そん)して、騷動せしむる條、亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや。京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)するだに宜(よろ)しからず。鎌倉邊には、古今、未だ此事なし。頗(すこぶ)る狼藉(らうぜき)の至りなり」とて、張本三人を召捕(めしと)りて禁籠(きんろう)せらる。今より以後、關東の事は申すに及ばず、京都にても、堅く禁遏(きんあつ)すべき由を、六波羅に仰遣(おほせつかは)さる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の記事に基づく。標題の「甲乙人等印地停止」は「かふおつにんら、いんぢ、ちやうじ」と読む。「甲乙人」は、中世日本の頃から使われ始めた語で「年齢や身分を問わない全ての人」の意。そこから転じて、「名を挙げるまでもない一般庶民」のことを指すようになった。現在の民事事務や裁判に於いて複数の当事者を示す場合に「甲」「乙」と使用するのと同じように、参照したウィキの「甲乙人」によれば、もともとは『特定の固有名詞に代わって表現するための記号に相当し』、また、現代に於いて事例例文などで『不特定の人あるいは無関係な第三者を指すために「Aさん」「Bさん」「Cさん」と表現するところを、中世日本では「甲人」「乙人」「丙人」といった表現した』とあり、『そこから、転じて正当な資格や権利を持たず、当該利害関係とは無関係な第三者として排除された人々を指すようになった。特に所領・所職を知行する正当な器量(資格・能力)を持たない人が売買譲与などによって知行することを非難する際に用いられた。例えば、将軍から恩地として与えられた御家人領が御家人役を負担する能力および義務(主従関係)を持たない者が知行した場合、それが公家や寺院であったとしても「非器の甲乙人」による知行であるとして禁止の対象となった。同様に神社の神領が各種の負担義務のない者が知行した場合、それが御家人であったとしても同様の理由によって非難の対象となった』とし、特に「凡下百姓(ぼんげひゃくしょう:鎌倉幕府が御家人を「侍」とし、郎党・郎従を始めとして名主・農民・商人・職人・下人などを一括して「凡下」と呼び、幕府の職員でも雑色(ぞうしき:雑役に当たった下級役人)以下の者は「凡下」として扱われた。但し、有力武士の郎党・郎従の中でも官位を持つ者は例外的に「侍」として扱われることになっていた)」または「雑人雑人(ぞうにん:原義は「身分が低い者」であるが、用法としては「一般庶民」を指す場合と、主家に隷属して雑事に従事して動産として売買・譲渡の対象とされた「賤民」を指す場合とがある。鎌倉時代には「凡下」と同義的になった)に『称せられた一般庶民は、無条件で所領・所職を知行する正当な器量を持たない人々、すなわち「非器の甲乙人」の典型であるとされており、そのため鎌倉時代中期には』「甲乙人」という『言葉は転じて「甲乙人トハ凡下百姓等事也」(『沙汰未練書』)などのように一般庶民を指す呼称としても用いられた。その一方でこうした表現の普及は、庶民――特に商業資本が金銭の力を背景に所領・所職を手中に収めていこうとする現実』――『に対する支配階級(知行・所領を与える側)の警戒感の反映でもあった。また、武士・侍身分においては』、「甲乙人」と『呼ばれることは自己の身分を否定される(=庶民扱いされる)侮辱的行為と考えられるようになり、悪口の罪として告発の対象とされるようになっていった』とある。

「同四月二十一日」前条の冒頭を受ける。文永三(一二六六)年四月二十一日。ユリウス暦では五月二十七日、グレゴリオ暦に換算すると六月三日。谷戸の多い鎌倉ではそろそろ蒸し暑くなってくる時期である。

「比企谷(ひきがやつ)の山の麓」現在の妙本寺のある附近。この一件の起こる六年前の文応元(一二六〇)年に「比企の変」で滅ぼされた比企能員の末子で生き残って僧となり、日蓮に帰依していた比企能本(よしもと 建仁二(一二〇二)年~弘安九(一二八六)年)が父や一族の菩提を弔うため、日蓮に屋敷(妙本寺のある位置は旧比企邸)を献上、かの地に法華堂を建立しているが、これが妙本寺の前身であり、妙本寺はこの年を創建としている。

「未〔の〕刻」午後二時前後。

「向飛礫(むかひつぶて)を打ちける」「石合戦(いしがっせん)」「礫(つぶて)合戦」などと称する恐らく元来は「追儺」「鬼やらい」と同じく、悪霊や疫病(えやみ)などの災いを石に込めた呪力で村落共同体から追い出す、一種の民俗社会に於ける遊技的呪的行事であったものであろう或いは幕末の「ええじゃないか」や、原始社会で時に発生したと思われ、現代の特定の宗教集団の中で或いは未開民族社会や貧困な下級階層の集団内於いてもストレス現象のはけ口としてしばしば見られる集団ヒステリー様の現象と根は同じと見てもよいと私は思う。祭りで事故で死者が出てこそ「祭り」であるとどこかで思っている民族社会的人間は私は結構、多いと思っているウィキの「石合戦」によれば、『武家の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと』現在でも五月五日に『行事として行われる』地域が現存し、本文に出るように「印地」「印地打ち」とも言う(辞書類では、五月五日に大勢の子供が集まって二手に分かれて石を投げ合い、合戦の真似をした遊び。中世では大人が互いに石を投げ合って勝負を競ったが、近世以降は子供の遊びとなったとある)。『かつては、大人達が行い、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれていた。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かった。そのため、鎌倉幕府』第三代『執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布し』ている。『水の権利・土地争いなどを解決する手段として』、非合法な手荒な解決法として『石合戦が採用されるケースもあった』。後のことであるが、武田信玄は実際の戦闘部隊に『石礫隊(投石衆)を組織しており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わる』ともあり、『逸話としては、一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行った(模擬実戦として最適であった)とも言われている。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てた。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われている』と記す。

「溢者(あぶれもの)ども」社会から脱落して放浪し、徒党をなす悪党染みた連中。乞食や流浪の芸能者、差別された賤民なども含まれる。

「意恨(いこん)」「遺恨」。

「怨(あた)」恨み。怨恨。

「漸々」「ぜんぜん」。だんだん。

「人衆」「にんじゆ」と読んでおく。人数(にんず)。

「重(かさな)る」増えてくる。

「偏(ひとへ)に」ただもう、全く。

「矢叫(やさけび)」原義は和弓に於いて、矢を射当てたと際に射手が声を挙げること。或いは、その叫び声、「やごたえ」「やごえ」などとも言うが、戦場では、戦いの初めなどに於いて、遠矢を射合う際、両軍が互いに発する鬨の声も差す。

「夜𢌞(よまはり)」幕府の公的な夜警の武士。但し、「數百人を率(そつ)して走向(はせむか)」ったとあるからは、かなりの高位の武将である(但し、後に掲げるように「吾妻鏡」には「數百人を率して」とは、ない。現実をよりドラマにする筆者の手技である。

「見えたる事もなくして」これといって憎み、戦い、傷つけて果ては死に至らしめるだけの、動機も原因も全くないのにも拘わらず。

「手柄にもあらぬ」やっても手柄にもなりもしない。しかし、これは「武士」階級ならではの台詞であって、彼らの心の底、心理的な鬱憤やストレスを推し測ろうとする意識が全く以って欠落していると言わざるを得ない。

「武篇(ぶへん)」「武邊」が正しい。意味のない武闘・戦闘。乱闘。

「勵(はげま)し」異様に昂奮し。

「人を殞(そん)して」他者を傷つけ。

「亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや」「そもそもが、その何の根拠もない喧嘩による負傷や殺人が遺恨や怨恨の火種となって大きなる紛争や争乱を招くのじゃ! お前らは、まさにそういう、不埒千万な曲者そのものではないかッツ!!」

「京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)する」恐らくは私が先に書いた、汚穢を石の打擲によって民俗社会の安全空間から排除する原義が殆んど失われた、下層民の子らの馬鹿遊びであろう。但し、「吾妻鏡」の本文は子供のそれとは書いてない。

「鎌倉邊には、古今、未だ此事なし」狼藉者らを説き伏せるのに、この武士はこんなことを言っているのだけれど、本当にそうかなぁ?

「張本」張本人。最初に石合戦を始めた首謀者。「最初はあいつだ!」みたいなシュプレヒコールの波が三人に集まってゆくその映像が、また、こわいね、私には。

「禁籠(きんろう)」禁錮。牢に押し込めること。意外であるが、余り見かけない熟語である。

「禁遏(きんあつ)」禁じて止めさせること。

 

 以下、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の条。

 

○原文

廿一日甲申。霽。甲乙人等數十人群集于比企谷山之麓。自未尅至酉尅。向飛礫。爾後帶武具起諍鬪。夜𢌞等馳向其所。生虜張本一兩輩。被禁籠之。所殘悉以逃亡。關東未有此事。京都飛礫猶以爲狼藉之基。固可加禁遏之由。前武州禪室執權之時其沙汰被仰六波羅畢。况於鎌倉中哉。可奇云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲申。霽る。甲乙人等(ら)、數十人、比企谷山の麓于に群(ぐんじゆ)集し、未の尅より酉の尅に至るまで、向ひ飛礫(つぶて)す。爾(しか)る後(のち)、武具を帶び、諍鬪(じやうとう)を起こす。夜𢌞(よまは)り等(ら)、其の所へ馳せ向ひ、張本の一兩輩を生け虜り、之れを禁籠せらる。殘る所、悉く以つて逃亡す。關東に、未だ此の事、有らず。京都の飛礫(つぶて)は猶ほ以つて狼藉の基(もとゐ)たり。固く禁遏(きんあつ)を加へるべきの由、前武州禪室、執權の時、其の沙汰を六波羅へ仰せられ畢んぬ。况んや、鎌倉中に於てをや。奇とすべしと云々。

●「前武州禪室」北条泰時。

●「奇とすべし」しばしば参考にさせて貰っている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注の参考(そこでは原文「可奇」を『奇(あや)しむべし』と訓じておられる)ではここを、『京都から鎌倉へ挑発者が入り込んでるのでは』と訳しておられる。この直後に宗尊親王の更迭が起こる辺りからは、そうしたニュアンスも感じられなくはない。]

甲子夜話卷之二 36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

2―36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

延享中、板倉某亂心にて、御城の厠中にて熊本侯細川氏を刃す。此時諸席の人騷亂一方ならず。又かの厠は柳の間に近し。時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず。伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】遂に坐を立給はざりしとなり。此時、本覺君の見られしは、始めは何ごととも知らず人々騷ぎ立しが、厠の中より坊主衆六七人計して、一人を扶て出たるに、其人色靑ざめ、脇指を杖につき、肩衣の前後血流てあけになり、よろぼひ出たる體、忽胸わるく覺て能も見玉はざりしとなり。程經ても食に當られたるとき抔に、不斗思ひ出玉へば、胸あしゝと屢々云給しとなり。夫人佐竹氏の親く御物語を聞れしと淸に語給ひき。

■やぶちゃんの呟き

「殿中にて板倉修理、細川侯を切りし」旗本板倉勝該(かつかね ?~延享四年八月二十三日(一七四七年九月二十七日)が肥後熊本藩第五代藩主細川宗孝(むねたか 正徳六(一七一六)年~延享四年八月十五日(一七四七年九月十九日)を殿中で刃傷に及び、結果、細川を殺害した事件。板倉勝該は旗本板倉重浮(しげゆき)の二男として生まれたが、兄板倉勝丘(「かつおか」か)の養子となり、延享三(一七四六)年に兄の遺領六千石を相続、延享四(一七四七)年三月十九日に第九代将軍徳川家重に拝謁している。ところがそれから五ヶ月後の同年八月十五日、江戸城大広間脇の厠(かわや)付近に於いて、月例拝賀で出仕していた細川宗孝に背後から脇差で斬りつけ、宗孝は同日死亡した(後のウィキの「細川宗孝」の引用を見る限りでは、どうもその場で程なく死んだ(即死)模様である)。まず参照したウィキの「板倉勝該」によれば、『伝えるところによると、勝該は日頃から狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清』(かつきよ 宝永三(一七〇六)年~安永九(一七八〇)年:当時は遠江相良(さがら)藩主。後に上野(こうずけ)安中藩主で老中となった)『は、勝該を致仕させて自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまった』誤認殺人とされる。しかし『一方で、人違いではなく勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする説も存在する。大谷木醇堂』(おおやぎじゅうどう:幕末の漢学者で昌平黌准博士ともなった人物)の「醇堂叢稿」に『よれば、白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため犯行に及んだという』ものである。『事件後、勝該は水野忠辰』(ただとき:三河国岡崎藩第六代藩主)『宅に預けられ』、同月二十三日に『同所で切腹させられた』とある。一方、殺されてしまった「細川宗孝」のウィキを見ると、前者の誤認殺人と断定してあり、同日、『月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、宗孝が大広間脇の厠に立つと、そこで旗本』寄合席七千石(先の記載とは千石も異なるの板倉勝該に突然、『背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した』。『勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。ところが細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである』。『宗孝にとってはとんだ災難だったが、これは細川家にとっても一大事だった』。三十一歳『になったばかりの宗孝にはまだ世継ぎがおらず、さりとてまだ若いこともあり、養子は立てていなかったのである。殿中での刃傷には』、ただでさえ、『喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては肥後』五十四『万石細川家は改易必至だった』。『この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。これを受けて家臣たちは、宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには』、『人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た』。この「殿中ウッカリ刃傷事件」の『報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして』、「九つの星が十五の月に消え」「劍先が九曜(くえう)にあたる十五日」など『と詠んでいる。「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃と襟と衽の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である』(リンク先にそれぞれの家紋が示されているので是非参照されたい。こちらには変更後の紋もある)。『大事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常は裃の両胸・両袖表・背中の』五ヶ所に『家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも』一つずつ『付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」』 と呼ばれ、『氏素性を明示する際には』、『よく引き合いに出される例えとなった』とある。私は家紋の誤認というよりも、先の「醇堂叢稿」にあるようなつまらぬ遺恨が元にあり、精神に致命的な変調をきたしていた勝該が、気に食わない隣家の細川、その家紋が板倉本家の家紋とダブって、感情のフラッシュ・バックによって宗孝を襲ったとするのが正しいようには思われるのである。

「柳の間」「やなぎのま」江戸城本丸殿中の居間。「大広間」(江戸城内の広間の中で式日などに国持ち大名や四位以上の外様大名などが列席した部屋)と「白書院」(しろしょいん:大広間の奥隣りに位置し、先の「赤穂事件」の刃傷で知られる「松之廊下」で連結された建物。上段・下段・帝鑑之間・連歌之間の四室が田の字型に並んでおり、大広間に次ぐ格式を持っていた。公式行事で使われ、大掛かりな行事の際には大広間と一体化して使われた)との間にある中庭の東側にあり、四位以下の大名及び表高家(おもてこうけ:官位を持たない高家(伊勢や日光への代参・勅使の接待・朝廷への使い・幕府の儀式・典礼関係などを掌った。足利氏以来の名家の吉良・武田・畠山・織田・六角家などが世襲した。禄高は少なかったが、官位は大名に準じて高かった)。基本、幼年者や事務に未熟な者らであった)の詰め所であった。名は襖(ふすま)に雪と柳の絵があったことに由来する。

「時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず」これは事件とは無関係に、多くの者がたまたま諸事私用によって座を立っており、在席着座していた者が極めて少なかったことを指しているようである。

「伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】」松浦邦(まつらくにし 享保一七(一七三二)年~宝暦七(一七五七)年)は、平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ)の長男で世嗣。延享元(一七四四)年に徳川吉宗に拝謁し、この事件の前年の延享三(一七四六)年に叙任したが、家督を継ぐことなく宝暦七(一七五七)年に二十六の若さで早世してしまった。代わって弟の政信が嫡子となったもののこれも早世し、結果、政信の子であった清(静山)が祖父誠信の養嗣子となって家督を継いだのである(ここはウィキの「松浦邦」に拠った)。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生れであるから、彼が亡くなった時は三歳、恐らく逢っていたとしても、静山に記憶はなかったであろう。

「遂に坐を立給はざりしとなり」「ついにざをたちたまはざりとなり」。事件当時は数えで十六で、「立たなかった」のではなく、「立てなかった」のである。後の最後の述懐部分を見ても、無理もない。

「坊主衆六七人計して」「坊主」は「茶坊主」(将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕・来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに芥川龍之介はこの末裔であった)。「計」は「ばかり」。

「扶て出たるに」「たすけていでたるに」。

「脇指」「脇差」。

「肩衣」「かたぎぬ」武士の礼服の一つ。袖がなく、小袖の上に肩から背中を覆って着るものをいう。下には半袴(はんばかま)を着した「継上下(つぎかみしも)」とも呼ぶ。

「血流て」「血、ながれて」。

「あけになり」「朱(あけ)に成り」。

「よろぼひ出たる體」「よろぼひいでたるてい」。「よろぼふ」は「蹌踉ふ」「蹣跚ふ」などと漢字を当て、「よろよろと歩く・よろめく」或いは「倒れかかる・崩れかかる」の意で、ここダブルの意味である。

「忽」「たちまち」。

「覺て」「おぼえて」。

「能も見玉はざりし」「よくもみたまはざりし」。正視なさることはことはお出来にならなかった。

「程經ても」その後、かなり経った後でも。

「食に當られたるとき抔に」食事を摂っておられる際などに。

「不斗」「ふと」。

「思ひ出玉へば」その折りの凄惨な様子をお思い出されたりなさると。

「胸あしゝ」「胸惡しし」。気持ちが悪くなった。

「云給しとなり」「いひたまひしとなり」。述懐なさっておられたとのことである。

「夫人佐竹氏」松浦邦の正室であった壽(「ひさ」か)。彼女は出羽久保田藩第五代藩主佐竹義峯(元禄三(一六九〇)年~寛延二(一七四九)年)の娘であった。

「親く」「したしく」。

「聞れし」「きかれし」。

「淸」静山自身の自称。

「語給ひき」「かたりたまひき」。夫人佐竹氏への敬意。

譚海 卷之二 水戸栗田八郎兵衞事

譚海 卷之二

 

水戸栗田八郎兵衞事

○水戸家中に栗田八郎兵衞と云(いふ)人あり。譽田善光(よだぜんこう)の後胤也。黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故、御抱(おかかへ)被ㇾ成(なられ)候。然しながら善光の子孫と云(いふ)斗(ばかり)にて何の藝術もなき家故、五十石俸祿玉(たま)はり、代々無役(むやく)にて水戸にあり。善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也。善光寺開帳など有(ある)時は、詰切(つめきり)子細なしとぞ。元來栗田は信州の在名(ざいめい)なればかく呼來(よびきた)る也。其家にも往古より持傳(もちつた)へたる善光寺如來同作の本尊あり。家に佛間を別に構(かまへ)安置する也。此栗田代々一人づつ出家にする子供出來る、ふしぎの事也。養子或は娘などに遣したるがもどさるゝ事あれば、如來の御奉公人也とて、再(ふたたび)人のもとへ出す事なく、出家尼になし、家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする也と。

[やぶちゃん注:「栗田八郎兵衞」不詳であるが、実は「流れ星」氏のサイト「干潟八万石」の「こぼれ話」の銚子街道大田宿(太田宿の誤りと思われる。本文はそうなっている。現在の千葉県旭市内か。)の中の「水戸黄門一行が宿泊」の条に『徳川光圀が泊まる本陣を八郎兵衛家におき、家老栗田八郎兵衛他』四十『人を四郎兵衛宅に、側用人木村権三右衛門他』十五『人を市郎兵衛宅にというように、身分階級に応じて大田村、成田村の民家に振り分けた』と出る人物と同一人かと思った(しかし、当時、二十八万石の常陸水戸藩の家老で五十石とは少な過ぎるから違うのかなぁ?)。なお、幕末の水戸藩士に栗田八郎兵衛寛剛(天保二(一八三一)年~元治二(一八六五)年)なる者がおり、奥右筆などを勤め、元治元年の天狗党の乱では執政の榊原新左衛門に従い、松平頼徳軍とともに保守派や幕府軍と闘い、投降、下総古河で切腹した人物がいるが(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、この人物の末裔かも知れぬ。

「譽田善光」底本の竹内氏注に、『信州善光寺の開創者本田善光、難波の堀江から仏像を拾い、善光寺を開創した話は名高く、戦国期に善光寺の別当として活躍した栗田氏はその末流と伝えていた。栗田は長野市内の地名。なお、善光寺は特定の宗旨に属する寺ではなく、近世は天台宗の大勧進と浄土宗の大本願(尼寺)とが、傘下の僧坊をしたがえて、協同で奉仕し、そのほか寺務に仕える妻戸方の僧坊もあった甲胃師の家名。初代の宗介は名工として名高く、平安末期近衛天皇から明珍の名を賜ったといい、中世を経て近世に及ぶが、特に十代宗安(室町期)や十七代信家(戦国期)が名匠として知られている』とある。「朝日日本歴史人物事典」の「本田善光」によれば、『伝説上の人物』で、欽明一三(五五二)年、百済の聖明王から献上された、天竺の月蓋長者作とされる阿弥陀如来像が悪疫流行のために物部氏によって難波の堀江に流し捨てられたが、都にのぼっていたこの善光が、そこを通ると、阿弥陀仏が水の中から飛び出し、背中におぶさったという。そこで彼は信濃国までそれを背負って行き、自分の屋敷に安置した後、阿弥陀の霊告によって、水内(みのち)郡芋井(いもい)郷(現在の長野市内)に移し、後に如来堂を建立して祭ったと伝えられる。それが長野市善光寺の古来より秘仏とされる本尊である舟形光背の阿弥陀三尊像であるとする。

「黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故」水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)自らが、家系を厳正に調査し、本多(誉田)善光の後裔で間違いなし、決したによって。

「藝術」才知や武術の覚え。

「善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也」善光寺の行事その他の寺務に関わらねばならぬ折には、栗田家の当主は、いつでも水戸を離れてそれに従事すること、お構いなしという免許を光圀公より頂戴しているということ。但し、本「譚海」の著者津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の存命年中は、常陸国水戸藩は後の第五代藩主徳川宗翰(むねもと)・第六代徳川治保(はるもり)・第七代徳川治紀(はるとし)の治世であるので注意されたい。

「善光寺開帳」ウィキの「善光寺によれば、『開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた』とあり、『正式名は、善光寺前立本尊御開帳』と言い、現行では七年目ごとに一度(開帳の年を一年目と数えるため、六年間隔の丑年と未年)、『秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ』とあるが、「御開帳の歴史」の項によると、『居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ』、『寺の都合により』、『開催されていた』とある(下線やぶちゃん)。そこにある「居開帳」に限ってみるなら、津村の存命中に行われたのは、寛保二(一七四二)年から文化元(一八〇四)年までの九回で、因みに、文化元年を以って「出開帳」は終わっている。なお、この本文の「善光寺開帳」には「出開帳」も含まれると考えてよいと私は判断する。とすれば、かなりの頻度で水戸外へ彼は自由に出ていたものと思われ、或いは、そうした名目で、この栗田八郎兵衛やその後継者らは、実は密かに幕府や他藩の政情を探っていたのではあるまいかとも考え得るのである。

「詰切子細なしとぞ」開帳の場に開帳の間中、ずっと詰めていても問題ないとのことである。これは藩士としては、破格の扱いであろう。さればこそ、私は前の注の最後のような隠密行動を疑うのである。

「元來栗田は信州の在名(ざいめい)」ウィキの「栗田氏によれば、『信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。本姓は清和源氏の一系統の河内源氏頼清流村上氏の支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺(延暦寺系山門派)別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡)栗田村に住居して栗田氏となった。鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職をも世襲し、犬猿の関係にあった両社を支配下に置く有力国人となる』とあって、『江戸時代には、庄内藩、水戸藩、松本藩とそれぞれに仕えた』と確かにあるのだが、別に「常陸国の栗田氏」を設け、『本姓は平氏。家系は桓武天皇を祖とする桓武平氏で、常陸国那珂郡の名族。川崎氏の支流にあたり、下小瀬の古城主・川崎次郎の後裔と伝える。茨城郡六地蔵過去帳に栗田又次郎の名を載せる。家紋は丸に二つ引き、女紋としては九曜の星を用いる。水戸藩の栗田寛』(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年:幕末の水戸藩に仕えた国学者で歴史学者で、後に東京帝国大学教授となった)『もこの一族の末裔という』。『なお、佐竹氏の家臣としてもこの栗田氏の名が見える』ともあるのである。ますます怪しいぞ!? 善光寺系の栗田氏と、この水戸藩の栗田氏は実は違うのではないか?

「養子或は娘などに遣したるが」養子としたり、或いは娘で他家へ嫁入りした者。

「もどさるゝ事あれば」何らの理由により、養家から戻されたり、婚家から離縁されたりすることがあった場合には。

「出家尼になし」必ず、男子なら出家させて僧となし、女子なら尼にさせ。

「家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする」実家のその伝来の本尊の香華を供する役で一生を終わらせることとしている。それって、結構、残酷でしょ。或いはそうなるからね、と念を押して養子や嫁に出して、出戻ることがないようにしていたのかもね。]

谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅

 

 十四 蟇の妖魅

 

 成田某と言へる人、炭藏の奉行たりし時、三ツ目内の者炭上納に來りしが、時(をり)から閑暇(ひま)にてありければ何か希らしき話なかりしやと問(たづ)ぬるに、かの者の曰、さればいといと奇怪のものに遇へるなり。そは今年の八月、同侶(どうやく)三人にて炭を焚て居たりしが、一日(あるひ)の下晡(くれ)ころに年甲(としのころ)二十二三とも見ゆる美しき尼來りて、吾は弘前某といふ尼にて大鰐に湯治せるが、今日しも花を採らん爲に山に入り路を失ひてはからず暮に迨(およ)べるなり。女の身のかゝる山中を一個(ひとり)往くこと惶(おそろ)しければ、今宵一夜を明させ玉へと言ふに、三個(にん)のものみな二十三四の若者なれば、互に顏見合せつゝ子細なく了諾(しやうち)して、夕飯などしたゝめさせ道路(みち)の勞(つか)れを慰めつるが、やがて寢(い)ぬる時にもなれば豫て期したることゆゑ、各々替々(かはりかはり)迫りしにいと心よく諾(うべな)ひて交接(まじはり)をなしたりけり。斯て夜も明け旭(ひ)も昇りぬれば尼起出て告辭(いとまごひ)しつるに、握飯(むすび)を持たせ半途に送り、往くべき先の路を委細(つばら)に喩示(ゆし)してやりたるが、奈何(いかゞ)しけんその黃昏(たそがれ)に又來りていと本意(ほい)なげに言ひけるは、又しても道を踏外し里へ出べき便宜(たより)あらで、詮術(せんすべ)なくもと來りし道を來つるなり。千乞(なにとぞ)今宵も宿を賜はれとあるに、皆々好き事にして假屋(こや)に留め、その夜も淫事(いたづら)したりけり。

 さるに、其の翌る日もかくの如く已(すで)に四度に及びぬるに、一人某といふ者、訝(いぶか)しき事のあれば必ず狐狸の屬(たぐひ)なるべしとて二人の者にも語りたるに、奈何にも怪しき處ありとて鉞(まさかり)鉈など硏磨(とぎ)たてゝ彼が來るを待たりしに、果してその薄暮(くれ)にも來りければ、種々(いろいろ)淫蕩話(いたづらばなし)をいひかかるに、かれも媟熟(なれなれ)しく咲(わら)ひ噪(さはぎ)て居たりしが、かねて謀りし事なれば二個(ふたり)は外(はづ)して外へ出たるあとに、淫犯(たはけ)る化粧(けはい)にもてなして、鉈もて肩先より胸のあたりへかけて二擊三擊斬つけしに、欵(ぎやつ)と叫んでそのまゝ奔走(はしり)出けるゆゑ、急に二人を呼よせて血の跡を所緣(しるべ)に追ひ往くに、亂柴蕃殖(むづしばら)にかゝりて見分がたく、日も且(また)沒(くれ)て爲方(せんすべ)なければ其夜はともに休息(やすみ)けるが、明る旦(あさ)とく起出で三人ともに刄もの引提げ血を索(もと)めて探り往くに、二里許にして幽(ふか)き溪(たに)に下りたるに樹木繁(いや)茂(しげり)ていと陰欝(くら)く、葛藟(つた)蔓延(はへわた)りて踏處もなきに杳(はるか)にものの嘹呍(うなる)音聞えしかば、これぞ決(きはめ)てかの妖魅(もの)ならんと、三人もろとも聲を望(めあて)に窺ひ看(み)れば、絕岸(きりきし)の傍に徑(わたり)二尺ばかりの洞穴ありて、其中に鮮血(なまち)を曳いてありけるに、然(さ)てこそとてすかし看れば、四五尺の先に物ありて兩眼鏡の如くなるに、さすが洞穴へ入るべきものもなく鎌に繩を付て投かけて引寄るに、洞穴崩るゝばかりに吼え嘹(うな)りて搖ぎ出でたるものを視るに、三尺ばかりの大蝦蟇にていと怖ろしきものなるが、重傷(ふかで)のために弱れるにや、猛るもやらで有けるを、みなみな立倚り截り殺し留めを刺して棄(すて)けるなり。山に起臥(すまゐ)すれば大きなる蟇を時々見ることあれど、かゝる巨物(もの)は未だ聞かざることなりと語りしを、この成田が親屬中村某の聞つけて語りしなり。

[やぶちゃん注:大蝦蟇の怪異はスタンダードであるが、人間の女、しかも若い美麗な尼に化けて、若者と毎夜乱交を繰り返すという話柄は、少なくとも私は初めて読んだ。但し、蟇蛙(がまがえる)(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)が長い舌で以って虫などを捕える捕食様態が、餌食となるものが距離が離れていて保護色である蟇の存在に気づかないさまを、あたかも蟇の妖術で金縛りにあったかのように見、その驚くほど長い舌で口の中に吸い込まれるのが何か、餌食の対象の精気が引き抜かれるが如くに見えることから、こうした蟇の変化(へんげ)が人の精気を吸うとも考えられたであろうことは想像に難くなく、さすれば、とっかえひっかえ若者を受け入れ、その実、その正に「精気」を吸い取っていたというのは、すこぶる腑に落ちる。それにしても「若い尼」という設定、この話を創作した人物は、タダ者ではない。或いはまた、この怪しい尼は実はニンフォマニアの女性(実際の尼であっても尼でなくてもよいが、尼の方が猟奇性は遙かに増す)で、その異常性欲に恐れをなした若者三人が斬殺し、それを蟇の化け物ということにした「尼僧殺人事件」の偽装だとするなら、これまた、違った猟奇趣味をそそりはする(但し、奉行に語れてしまうのは、残念ながら、そうした事件性はないとも言える。或いはその殺人に相手は「尼」ではなく、「瞽女」のような流浪の門付の女芸人ででもあったのかも知れぬ。そんあなことを考えていると、何だか、もの哀しくなるのを私は常としている)。

「三ツ目内」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『南津軽郡大野町大鰐町』(おおわにまち)『三ツ目内(みつめない)。大鰐の南、川に沿った山村』とある。ここ(ヤフー地図データ)。

「炭上納」「すみ、じやうなふ」。

「希らしき」「めづらしき」。

「曰」「いはく」。

「下晡(くれころ)」二字へのルビ。前に「晡下」で既出既注乍ら、再掲しておく。音は「カホ」で「晡」は申の刻で、その刻「下」(さが)りの謂い。午後四時過ぎ。

「吾は弘前某といふ尼にて」「私は弘前在の○○と申す尼で御座いまして」。

「大鰐」先の「三ツ目内」の直近。ここ(グーグル・マップ・データで左端に三ツ目内。炭焼き小屋は同地区の山間部としても三~四キロメートル圏内である)。ウィキの「大鰐温泉」によれば、『円智上人により建久年間』(一一九〇年から一一九八年)『に発見されたと伝わる。江戸時代には津軽藩の湯治場として津軽氏の歴代藩主も訪れ、御仮屋と呼ばれる館が設置された。また江戸時代には津軽地方の人々の療養の場として広く利用された』。『江戸時代に発行された「諸国温泉功能鑑」(多数作られた温泉番付のうちの一つ)にも、大関、関脇などの番付とは別の行司として熱海温泉とともに掲載されている。また西の前頭として記載されている津軽倉立の湯は大鰐温泉北側の蔵舘町エリアの旧名である』とある。

「互に顏見合せつゝ子細なく了諾(しやうち)して」「子細なく」は「文句なしに・気軽に」で、この若者三人のシーンの目つきや表情に猥雑さが見てとれるように、この語がさりげなく差し挟められてあるのである。平尾、やっぱり、タダ者ではない。

「したゝめさせ」食べさせ。

「豫て期したることゆゑ」「かねてきしたること故」。三人の暗黙の了解と、ここですっぱり示するところにも私は上手いと思う。

「各々替々(かはりかはり)迫りしにいと心よく諾(うべな)ひて交接(まじはり)をなしたりけり」この馬鹿、基(もとい)、若者ども、ここで彼女がまともな者ではないと気づかねばならぬ。――満で二十一、二にしか見えない、初対面の、それも美しい尼が、極めてすんなりと快く笑顔で承知してコイツスに及ばせてくれる、しかも三人すべてに、この山中のむさくるしい炭焼き小屋で――というところで、変化(へんげ)の者と思うのがこれ、風俗社会では、当た前田のクラッカー、だろが!

「斯て」「かくて」。

「起出て」「おきいでて」。

「半途」「はんと」或いは「はんみち」。一里の半分。凡そ二キロ弱。握り飯や帰り道を途中まで送ってやるところなんぞは、この若者らは、ここでは今一つ、憎めない気もしないではない。或いは、私もこのお馬鹿な若者の一人であっておかしくはないとも思うのである。

「委細(つばら)に喩示(ゆし)して」分かり易くこと細かに諭すように教え示して。だからね、それなのにその日暮れにまた道に迷って帰れずに、この、また、八重葎の山の中の炭焼き小屋に戻ってくると言うところで(「詮術(せんすべ)なく」と言っているが、「もと來りし道を來つる」能力と記憶力があれば麓へ辿りつけるだろガ!)、ヘンだと思わなきゃ、あかんて!

「本意(ほい)なげに言ひけるは」ちゃんと言われた通りに歩いたつもり、ここにまた戻って来ようなどとはさらさら思ってもいなかったのに、という如何にもな雰囲気は、逆に艶なるポーズではないカイ?!

「踏外し」「ふみはづし」。迷い。

「便宜(たより)あらで」手立てを失い。

「千乞(なにとぞ)」二字へのルビ。美味い、基、上手い和姦、基、和訓だ。

「好き事にして」そっちの方面は無論、好きなもんだからして。

「淫事(いたづら)」イ「イン」でない、このルビ!

「さるに、其の翌る日もかくの如く已(すで)に四度に及びぬるに」ここは「さるに、其の翌」(あく)「る日もかくの如く、(而してその翌る日までもと)已(すで)に四度に及びぬるに」の謂い。でないと回数が合わぬ。

「一人某といふ者」三人の若者の中の「某(なにがし)」という者が。ということは、話者の炭焼きの若者ではなく、他の二人のうちの孰れかという設定である。ここは逆にリアルである。作話性が強ければ、話者自身がそれを言い出すことにした方が自慢話になるからである。

「鉈」「なた」。

「硏磨(とぎ)」二字へのルビ。

「彼」「かれ」。かの女(の変化(へんげ))。

「來るを」「きたるを」。

「待たりしに」「まちたりしに」。

「薄暮(くれ)」二字へのルビ。

「かれ」女。

「媟熟(なれなれ)しく」二字へのルビ。「媟」(音「セツ・セチ」)は「穢(けが)す・汚れる」の他、「馴れる」の意があり、「熟」は「ある物事に対して十分に馴れ親しむ」の意がある。この語以下「咲(わら)ひ噪(さはぎ)て居たりし」は、この女の真正の淫猥さを示す美事な描写と言える。

「淫犯(たはけ)る化粧(けはい)にもてなして」孰れも二字へのルビ。男は、如何にも前の四日と全く変わらず、卑猥なに戯れる振りをして女が気を緩めるようにさせて。

「斬つけしに」「きりつけしに」。

「欵(ぎやつ)と」これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声のオノマトペイアとなるからである。

「呼よせて」「よぼびよせて」。

「亂柴蕃殖(むづしばら)」四字へのルビ。底本の森山氏の補註(ルビの「むづしばら」の註)によれば、『津軽方言で雑柴や荊棘』(いばら)『が混茂している原野をいう。本文の文字は表意の当て字である』とある。しかしこの当て字、美事に痒くなる。

「見分がたく」「みわけ難く」。

「刄もの引提げ」「はものひつさげ(刃物、引っ提げ)」。

「二里許」「にりばかり」。八キロ弱。

「繁(いや)」程度の甚だしいことを示す副詞。「繁茂」をかく分けて訓じたのは、すこぶる面白い。

「陰欝(くら)く」二字へのルビ。

「葛藟(つた)」二字へのルビ。「藟」(音「ルイ・ラ・リュウ」で「蔦蔓(つたかずら)・藤葛(ふじかずら」の意。

「蔓延(はへわた)りて」二字へのルビ。

「踏處」「ふみどころ」暗に人跡未踏の地であることを示している。

「嘹呍(うなる)」二字へのルビ。「嘹」(音「リョウ」)は「よく響く」の意、「呍」(音「ウン」)は「唸(うな)る」の意。

「妖魅(もの)」二字へのルビ。

「二尺」約六十センチ。

「四五尺」一メートル二十二センチ~一メートル五十一センチ。

「兩眼鏡の如くなるに」所謂、現在のような両眼用の眼鏡。その玉のように蟇の両眼が皓々と光っていたのである。

「鎌に繩を付て投かけて引寄るに」「鎌に繩をつけて投げ掛けて引き寄するに」。鎖鎌の要領である。

「搖ぎ出でたる」「ゆらぎいでたる」。

「三尺」約十一センチメートル。異様に巨大である。

「猛るもやらで有けるを」「たけるもやらでありけるを」。はむかってくる様子もなく、凝っとしていたのを。しかし、私は、ここで可哀想な気になってくるのである。畜生とはいえ、四度ばかりとはいえ、情交を結んだ。さればこそ、この蟇、この若者らに虐殺されることを甘んじて受けているともとれはせぬか?

「立倚り截り殺し留めを刺して棄(すて)けるなり」「たちより(よってたかって)、きりころし(ずだづたに斬り殺し)、止(とど)めを刺して棄てけるなり」。ここは、この忌まわしい蟇とセックスしたことをおぞましく嫌悪し、憎悪する若者らの記憶への激しい嫌悪の体現であるが、所謂、人間の激した感情が行う虐殺とは総てこのシークエンスと等価だと知らねばならぬ。何時の時代も、血塗られるのは虐殺された者たちだけではない。寧ろ、その血によって永遠に虐殺者としての自己の汚点を記憶することととなる執行者たち自身とその末裔らである。

「起臥(すまゐ)すれば」二字へのルビ。但し、これは歴史的仮名遣では「すまひ」が正しい。

「巨物(もの)」二字へのルビ。

「この成田が親屬中村某の聞つけて語りしなり」ここで、話柄中の炭焼きの若者の一人(実体験者)→炭蔵奉行成田某→成田の親族である中村某→平尾魯僊という伝聞経路が明らかとなる。]

諸國百物語卷之四 九 遠江の國にて蛇人の妻をおかす事

     九 遠江(とをとをみの國にて蛇人(ひと)の妻をおかす事

Hebidoutoku

 中(なか)ごろ、遠江のくににある山さとに、名ぬし、有りけるが、此女ばう、をつとのるすのまに、ねやに入り、ひるねしてゐけるが、名ぬし、ほかよりかへりて、ねやに入りみれば、たけ五、六尺ばかりのへび、女ばうを二ゑみへにまとい、口とくちとを、さしつけて、ふしたり。名ぬし、みて、つえをもつて、うちはなし、

「なんぢ、ちくしやうなれども、めがたきなれば、うちころすべけれども、ぢひをもつて此たびばかりは、たすくる也。かさねてひが事あらば、いのちをとるべし」

とて、つえにて、すこし、うちなやして、山のかたへ、すてにける。さて、あくるあさ、いつもより、名ぬし、あさねしけるが、家内(かない)の男女(なんによ)、おどろきさわぐ。

「なに事ぞ」

とて、名ぬし、おきあがりみれば、たけ一丈ばかりのへび、にわのまんなかにきたり、一、二尺より五、六尺までのへびをつれ、あき地もなく、なみゐて、かしらをあげ、くれなひのやうなるしたを、うごかしける。名ぬし、へびにむかつていひけるは、

「なんぢら、ちくしやうなれどもよく聞くべし。きのふ、わがめがたきを、ぢひをもつてたすけたるに、かへつて、かようにたゝりをなす事、ちくしやう也とても、物のどうりをもわきまへぬものどもかな、佛神三方天ぢん地ぎ、上はぼん天大しやく、四大の天わう日月せいしゆくも、御しやうらん候へ」

とて、さもあらゝかに道理をつくしていかりければ、大へびをはじめ、のこるへびども、一どにかしらをさげ、大へびのそばに、ゐたり。きのふのへびとおぼしきを、かずのへびどもたかりかゝつてかみころし、みそみそとして、山のかたへ、みな、かへりて、べつの事もなかりしと也。名ぬし、さかしきものにて、ときのなんをのがれ、へびは、ちくしやうなれども、物のどうりをきゝうけゝるこそふしぎなれ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「へひ妻をおかする事」。

「遠江(とをとを)の國」「遠江」は歴史的仮名遣では「とほたうみ」が正しい(これは「遠淡海(とおつおうみ)」の転。これは「琵琶湖」を「近(ちか)つ淡海(おうみ)」というのに対し、都から遠い湖(うみ)の意で「浜名湖」及びそこを含む広域地名としての遠江国)。現在の静岡県の西部に相当。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『「蛇」を神として信仰すること』の『多い土地であった』と記す。必ずしも遠江に限らず、身体を邪神とするのは非出雲系の土着神に広汎に見られ、例えば諏訪大社系のそれや、中世以降の仏教の弁財天信仰に習合した宇賀神などがそれに当たる。ただ、確かに静岡付近には大蛇伝承が、かなり多く見られることは事実のようである。個々の事例はサイト「龍学」の「静岡県の竜蛇」に詳しいので参照されたい。

「中(なか)ごろ」叙述当時から見て、あまり古くない時代の意。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世である延宝五(一六七七)年四月に刊行されているから、中世末期の室町・戦国・安土桃山から江戸時代の前期までが含まれようか。

「をつとのるすのまに、ねやに入り、ひるねしてゐけるが」「夫の留守の間に、閨(ねや)に入り、晝寢して居けるが」。

「ほかよりかへりて」「外より歸りて」。

「五、六尺」一・五~一・八メートル。

「二ゑみへにまとい」「二重三重(にへみへ)に纏ひ」二箇所は歴史的仮名遣の誤り。

「口とくちとをさしつけて、ふしたり」寝ている女房の口に、蛇がおぞましくも自分の口を差し附けて(キスをして)、女房と蛇とが、ともに添い臥して寝ていたのである。

「つえをもつて」「杖を以つて」。「持つて」でもよいが、私は前者で採る。

「うちはなし」「打ち離し」。

「なんぢ」「汝」。

「ちくしやう」「畜生」。

「めがたき」「妻敵・女仇(めがたき)」。江戸の法にあっては、夫の社会的面目が丸潰れとなるゆゆしき事態であり、討ち果たすのが当然の決まりとしてあり、許すことは逆に不作為犯として処罰の対象ともなり、そうでなくても、道義に反することとして夫の方が軽蔑された。

「うちころすべけれども」打ち殺すのが筋であるが。前注参照。

「ぢひ」「慈悲(じひ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「たすくる也。」「助くるなり。」。「助けてやるのだ。」。

「かさねてひが事」「重ねて僻事あらば」。再度、このような不埒な行いがあったならば。

「うちなやして」「打ち萎(なや)して」。「萎す」「なやす」は最早、古語化して使われなくなったが(徳田秋声「黴」「十二」末『痛い頭を萎(な)やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨(ぶらぶら)して、また明るい部屋へ戾つて見た。』(明治四四(一九一一)年『読売新聞』初出))、他動詞で、「気力や体力などを失わせてぐったりさせる・萎えるようにさせる」「なよなよとさせる・やわらかにする」の意。打ち叩いて、ぐったりくたくたになるまで弱らせて。

「一丈」約三メートル。

「一、二尺」凡そ三十センチから六十一センチ弱。

「五、六尺」一メートル五十二から一メートル八十二センチ弱。

「あき地もなく」「空き地もなく」。庭の土の表面が全く見えないほどに。

「なみゐて」「並み居て」。庭全面にびっしりと並び居て。

「かしらをあげ」「頭を挙げ」。鎌首を擡(もた)げて。

「くれなひのやうなるした」「紅(くれなゐ)の樣なる舌」。歴史的仮名遣は誤り。

 

「なんぢら、ちくしやうなれどもよく聞くべし。きのふ、わがめがたきを、ぢひをもつてたすけたるに、かへつて、かようにたゝりをなす事、ちくしやう也とても、物のどうりをもわきまへぬものどもかな、佛神三方天ぢん地ぎ、上はぼん天大しやく、四大の天わう日月せいしゆくも、御しやうらん候へ」大方を漢字正字表記に書き変えたもの(一部、平仮名化或いは漢字を正しいものに訂しもし、読みも補った。誤った歴史的仮名遣は正して示してある)を、まず、以下に示す。

「汝等(ら)、畜生なれどもよく聞くべし。昨日、我が妻敵(めがたき)を、慈悲を以つて助けたるに、却つて、斯樣(かやう)に祟りを成す事、畜生なりとても、物の道理(だうり)をも辨(わきま)へぬ者共(ども)かな、佛神三方(寶)(ぶつしんさんぱう)天神地祇(てんじんちぎ)、上(かみ)は梵天(ぼんてん)帝釋(たいしやく)、四大(しだい)の天王(てんわう)日月星宿(じつげつせいしゆく)も、御照覽(しやうらん)候へ」

以下、●で、この名主の台詞(後者の書き変えを見出しとする)内の語釈を施す。

「佛神三方(寶)」から台詞の最後まで総ては、蛇集団への言葉ではなく、神仏に誓文を唱える際の神仏習合の神々の名を言上げする慣用表現。「三方」とは神道の神事に於いて使われる神饌(しんせん)を載せるための台であるが、それは神への奉仕であり、同時に神と対面することと等しい謂いであると同時に、神仏習合であるからして、「三寶」、則ち、仏教に於ける「仏」(ほとけ)・仏の教えである「法」・その教えをひろめる「僧」の神聖にして不可欠な三者「仏法僧(ぶっぽうそう)」をも指している。

●「天神(てんじん)地祇(ちぎ)」神道では天の神と地の神・天つ神と国つ神のことを指し、「あらゆる神々」の謂い。詳しく述べるなら、「高天原(たかまのはら)」で生成又は誕生した神々を「天神」とし、当初より「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(記紀神話に於ける原日本を含む地上世界)に誕生した神を「地祇」とする。これに対して仏教では「天界」に住むとされる「夜叉」・「梵天」・「帝釈天」などを「天神」とし、「地界」に住む「堅牢地神」・「八大竜王」などを「地祇」とする。

●「梵天(ぼんてん)」仏教の守護神である天部十二天の一人。古代インドに於いて「万物の根源」とされた「ブラフマン」を神格化した神「ブラフマー」(ヒンドゥ教では創造神で、ヴィシュヌ(維持神)・シヴァ(破壊神)とともに三大神の一人に数えられる)が仏教にとり入れられたもの。「梵」はその梵語の漢音写。次の帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある(以上はウィキの「梵天」に拠った)。

●「帝釋(たいしやく)」仏教の守護神である天部十二天の一人。本来はバラモン教やヒンドゥー教などの神インドラで、かの知られた阿修羅とも戦闘したという「武勇神」であったが、仏教に取り入れられ、成道(じょうどう)前から釈迦を助けた上、釈迦の説法を聴聞したことによって梵天と並んで仏教の二大護法善神となったとされる神である。彼の東南西北(それは同時に天地の四隅を守護する意味がある)には、かの四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)。本文に出る「四大の天王」はこれ)が仕えるとされることから「四天王天」とも呼ばれる(以上はウィキの「帝釈天に拠った)。

●「日月星宿(じつげつせいしゆく)」天界・宇宙全体の意。「太陽」と「月」と「星宿」。「星宿」は天球上の総ての可視出来る星(それが当時の宇宙全体の大部分を構成していると考えられた)を二十八宿に分けたもの。

 

「さもあらゝかに」如何にも荒々しく厳しい口調で。

「道理をつくしていかりければ」「道理を盡して怒りければ」。

「かずのへびども」「數の蛇ども」。数多(あまた)の蛇どもが。

「たかりかゝつてかみころし」「集(たか)り掛かつて咬み殺し」。ここが意外な展開である。人の執心の化したところの蛇は、なかなか、こうはいかない。正真正銘の蛇族は人間以上に果敢に断罪する道徳性を持っているのであった。

「みそみそとして」如何にも勢いや感情が弱まって静まりかえってしまうさま。落胆して気弱な感じでひっそりと。すごすごと。こそこそと。

「べつの事も」「別の事も」。それ以降、何の怪事も変事も。況や、蛇が妻の閨房に侵入するようなことも、である。

「さかしきもの」「賢しき者」。ここは「まことに賢明な人物」という、いい意味で用いられている。

「ときのなんをのがれ」「時の難を逃れ」。

「へびは、ちくしやうなれども、物のどうりをきゝうけゝるこそふしぎなれ」「蛇は、畜生なれども、ものの道理を聞き請けるこそ不思議なれ」。前の「たかりかゝつてかみころし」の注を参照。]

2016/10/28

甲子夜話卷之二 35 柳澤吉保勤職のとき先公贈物の事

2―35 柳澤吉保勤職のとき先公贈物の事

以前、松平吉保權勢のとき、諸大名等、其ほどほどの贈物あり。吾先世雄香君【壱岐守】、養子【諱、篤信。雄香君の弟】せられて相見を請はれしとき、金銀以て造たる橘を石臺に植たるにて有しとぞ。是は祖母夫人の聞傳て語り給ふなり。此頃の風俗は今とは替りて優美なりき。

■やぶちゃんの呟き

「柳澤吉保勤職」(「勤職」は「きんしよく」と音読みしておく)「松平吉保權勢」老中柳沢(松平)義保(万治元(一六五九)年~正徳四(一七一四)年:元禄七(一六九四)年に重用された第五代将軍徳川綱吉の小姓から川越藩七万石となり、元禄一一(一六九八)年に老中上座に就き、元禄一四(一七〇一)年には松平姓を与えられて美濃守吉保となり、甲府藩十五万石を領した。学問の奨励や荻生徂徠の登用等、文治政治の推進者としては評価されるが、宝永六(一七〇九)年二月の綱吉の死去によって、新将軍家宣とその家臣新井白石が権勢を握ることとなり、同年六月に隠居し、失脚した。ここは「權勢」と言っているところから、元禄一一(一六九八)年から宝永五(一七〇八)年の十年間の間と考えてよいように思う。

「其ほどほどの贈物あり」「贈物」は「ぞうもつ」で合法的な賄賂たる付け届けの品。「其(その)ほどほどの」とは、字面とは異なり、「それはもう、程度を甚だ超えるようなとんでもなく高価な」の謂いである。

「吾先世雄香君【壱岐守】」「わがせんせい、ゆうかくん」と読んでおく。既出既注の肥前平戸藩第五代藩主松浦棟(たかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年)。静山の曽祖父であった第六代藩主篤信の兄である。

「養子【諱、篤信。雄香君の弟】せられて」既出既注なので簡単に済ませる。同平戸藩第六代藩主松浦篤信(貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)。ウィキの「松浦篤信によれば、兄で第五代藩主であった先の松浦棟(たかし)の長男長(ながし)が早くに死去してしまったことから、元禄九(一六九六)年に兄棟(たかし)の養嗣子となった。同年五月二十一日に将軍徳川綱吉に拝謁(本条はその直前のまず側用人柳沢義保(当時は老中格を得、侍従を兼帯していた)に面会した際のエピソードである)、元禄十一年八月に江戸城菊間詰めとなった。

「相見」「さうけん」。側用人柳沢義保との目通り。養嗣子をするには幕府の公的な許可が必要で、そのための形式上の言上のための必須会見。

「請はれしとき」「こはれしとき」。請われた際。

「橘」バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana。ウィキの「タチバナ」の「文化」によれば、『日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた』。「古事記」「日本書紀」には、『垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では』「右近の橘」「左近の桜」として『橘が植えられている』。但し、実際に「古事記」などに『登場する』それ『が橘そのものであるかについてはわかっていない』とある(下線やぶちゃん)。

「造たる」「つくりたる」。

「石臺」「せきだい」。浅い箱或いは植木鉢に草木等を植え、石などを配し、山水の景を模したもの。石盆。盆景。

「植たる」「うゑたる」。

「有し」「ありし」。

「祖母夫人」静山の祖母であるから、平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)の正室(宮川氏出身)。誠信は長男が亡くなり、後継者を三男であった政信(静山の父)と定めていたものの、その政信も明和八(一七七一)年に誠信自身に先立って亡くなってしまったため、政信の子であった清(静山)を後継者として定められたのである。即ち、静山自身もこの祖父の養嗣子であったのである(以上はウィキの「松浦誠信に拠った)。

「聞傳て」「ききつたへて」。

谷の響 二の卷 十三 犬無形に吼える

 十三 犬無形に吼える

 

 往ぬる丙辰の年の五月、下堤町搗屋四郎左衞門が門に立たる幟の下(もと)に五六疋の犬ありて、この幟を向上(みあげ)先に𢌞り後になりて物あるごとく吼えかゝるを、土(ところ)の人も往來の人もいと怪しみ、何物かあるらんと見望(みやり)たれど目に遮(さへぎ)るものもなく、犬はますく猛り吼えけるを、四郎左衞門が僕(しもべ)これを逐ひ散らして停めしとなり。この縡(こと)は此年より五六年前にも有しよしなり。

 又、同じ事ながら己が邸裏(やしき)の隣境に柿樹一株(ぽん)ありけるが、二疋の犬この柿樹を望みていたく吼えかゝること少時(しばらく)なれば、柿樹を見上ぐれどもあやしきものもあらず。あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありしが、その主に追立てられて歇(や)みたりし。こは文政七八年の頃にて、今思へば幽界(かくりよ)のものゝ爽來るなるべし。平田のうしの妖魅考にも、かくのごとき无形に吼えたることを記して、幽界に神あることを論(あげつら)へり。最もさもあるべき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:以下の注では、私は現実にあり得る現象としての可能性を各個的には注した(下線太字部分)……しかし……私の中学・高校時代の友人には、眼の前の夜の浜辺の直近に「誰かいる。」と突然こともなげに静かに言い、数秒後に「ああ、もういなくなった。」と平然としている、所謂、「見鬼(けんき)の性(しょう)」を持つ男がいたし、「小さな頃は家に帰ると、毎日、普通の人の目には見えない狐の子どもたちと一緒に遊んでたわ。」と真顔で言う少女がいた。私のかつての同僚曰く、「赤ん坊を猿島に連れて行ったら、何もいない崖の岩や隧道の闇を見上げて見つめて、ずっと笑っているですよ。何だか、霊でも見えるのかと思うと、気味が悪かったです。」などと言っていた。……そういえば、ついさっき、私の三女のアリスが突如、外で吠えだした(彼女は餌を欲しがる時以外はまず吠えることはない)。出て見ると、誰もいない家の前の寒々とした小径に向かってしきりに吠えていた。……誰も何もいない空間に向かって……こんなことは、彼女と散歩をすると、しばしば体験する。それを不思議に思わなくなっている自分がいる。ある意味、それは「異界」という非日常が半日常化しているアブナい境界に私が棲んでいるということ、なのかも知れない…………

「無形」目に見えない対象物。

「丙辰の年の五月」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年で、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。

「下堤町」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『下土手町の当て字』とある。これは一巻に既出既注で、同じく一巻の森山氏の註で『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。

「搗屋四郎左衞門」底本の森山氏の補註に、『弘前の米穀商、藩の御用達を勤めた富豪であった。竹内氏、屋号搗屋、代々四郎左衛門と称した』とある。

「幟」「のぼり」。恐らくは屋号や新米入荷などを染め抜いた昇り旗であろう。この場合は、たまたま当日の風の具合と、その幟の状態から、犬にとっては聴き慣れぬ、強いバタバタという音が生じて、それに警戒したものともとれぬことはなく、天候がひどく悪くなりかけていたのであったなら、眼には見えない一種の軽い放電現象が起こっていたのを、敏感な犬が察知したとも採れる。

「停めし」「やめし」。吠えかかるのを止めさせた。

「此年より五六年前」嘉永三(一八五〇)年或いは翌嘉永四年。

「有しよしなり」「ありし由なり」。

「柿樹」今までの西尾の書き癖からは、この二字で「かき」と読んでいる可能性が高い。

「あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありし」西尾の屋敷の裏手の墻根の向こうの鄰りの屋敷の垣根と間の、西尾ものでも隣家のものでもない非常に狭い土地(空き地)があって、そこに自然に柿の木が生えており、犬ならば、その垣根と垣根の間の柿の木のある叢に潜り込むことが出来るのであろう。最初は西尾の屋敷内に二匹の野犬が侵入して、その裏庭でその柿の木に向かって盛んに吠えたてたのを、屋敷の外に路地のある、側面の横木戸辺りから追っ払ったところが、野犬らはまた、西尾の屋敷の裏手のそこに潜り込んでゆき、柿の木の直下の叢で吠えたて、その後に隣家の垣根を潜って、隣家の庭に移ってさらに吠えたて続けたのである。ここで犬が一旦、柿の木の根元近くへ行ったにも拘わらず、そこからまた少し離れた隣家の庭に移動した点を考えると、犬らは何かの危険を感じたものかとも思われる。季節が示されていないので、よく判らないが、例えば、これが夏から初秋にかけてであったなら、その柿の木が大木で、その根方や洞などにスズメバチが有意に大きな巣を作っていれば、その翅音を鋭く聴きつけたものか、などという推理も働かし得る。無論、洞の中にいるのは――モモンガ・リス・アナグマ・タヌキ・ハクビシン・イタチ――であっても一向に構わないなるべく臭いの強い動物が相応しいことは言うまでもない。

「文政七八年」一八二四、一八二五年。

「幽界(かくりよ)」一巻に既出既注ながら、平尾の思想を知る上で重要な語であるので、そのまま再掲する。これはいい加減な当て字ではない。平田神学に心酔していた平尾らしい読みである。古神道に於いては、人間世界は目に見える「顕世(うつしよ)」であるのに対し、人間の目に見えない幽冥の世界、神の世界は「幽世(かくりよ)」「隠世(かくりよ)」「幽冥(かくりよ)」と呼称するのである。しかもこの「幽冥」の表記は、その多数の漢字表記のある中でも、最もポピュラーなものなのである。

「平田のうしの妖魅考」平尾が心酔した江戸後期の国学者で神道家の平田篤胤(安永(一七七六一七七六)年~天保一四(一八四三)年:出羽久保田藩(現在の秋田市)出身であるが、成人後は備中松山藩士の兵学者平田篤穏(あつやす)の養子となった。平尾(篤胤より二十八も若い)自身は彼と面識はないと思わるが、篤胤の長女千枝が文政七(一八二四)年に夫とした伊予国新谷(にいや)藩(現在の愛媛県大洲市新谷町)の碧川篤真(みどりかわあつまさ)と結婚、彼が平田家の養嗣子となり、江戸で平田鐵胤(かねたね)を名乗って篤胤の思想を継いだ。平尾は元治元(一八六四)年(明治維新の四年前)になって、友人を介してその鐡胤の弟子として入門している)が文政四(一八二一)年に刊行した「古今妖魅考」全七巻。ウィキの「平田篤胤」によれば、江戸初期の朱子学派の儒者で、かの林家の祖林羅山の書いた「本朝神社考」の中の、「天狗」に関する考証に共鳴して執筆したもので、『天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた』とある。底本の森山氏の補註には、『内容は著撰書目に、「此書は古今の記録物語を探りて、謂ゆる天狗妖魅の種々に世を乱し、或は地獄極楽など云ふを変現して人を惑はし、或は異験をも見せて人に信を起さしむる有趣きを説き、且その物等に三熱の苦みと云ふ事の有る因縁までを具に論じ致されたる書なり」とある。平田神道独特の所論である幽界に神あることを論証しようとしたもの』とある。

「无形」「むけい」で「無形」。]

諸國百物語卷之四 八 土佐の國にて女の執心蛇になりし事

    八 土佐の國にて女の執心蛇(くちなわ)になりし事

 

 土佐のくにゝ獵(かり)をして世をわたる人あり。男は四十、女は四十五、六にてありしが、此をんな、かくれなきりんきふかきものにて、男、かりにいづるにも、ついてあるきける。男あまりのうるさゝに、あるとき、獵にいでけるに、かの女ばう、あとより、れいのごとくついて來たる所を、とつてひきよせ、さしころしければ、かたはらなる大木のねより、大きなる蛇(くちなわ)いでゝ、男のくびにまといつきける。男、わき指をぬき、ずんずんに切りはなせば、また、まといつきまといつき、やむことなし。男、せんかたなく、高野へまいりければ、ふどう坂の中ほどにて、蛇(くちなわ)、くびよりはなれをち、くさむらのうちへ、はいりける。男、うれしくおもひ、高野に、百日あまり、とうりうして、もはや、べつぎもあるまじきとおもひ、山をげかうしければ、ふどう坂の中ほどにて、かの蛇(くちなわ)、くさむらのうちより、はひ出でて、また男のくびに、まといつく。男も、ぜひなくて、これより、くはんとうへしゆぎやうせんとて、すぐにたびたち、大津のうらにてのりあひのふねにのりけるが、をき中にこぎ出だしければ、舟、あとへもさきへも、ゆかず。せんどう、申しけるは、

「のりあひのうちに、なにゝても、おもひあわする事あらば、まつすぐにかたり給へ。一人のわざにて、あまたの人のなんぎなるぞ」

と、いひければ、かの男、ぜひなく、くびの綿をとり、

「さだめて、このゆへなるべし」

とて、蛇(くちなわ)をみせ、はじめをわりをざんげしければ、人々、おどろき、

「はやはや、舟を出で給へ」

と、せめければ、

「今はこれまで也(なり)」

とて、かの男、うみへ身をなげ、はてにけり。そのとき、くちなはゝ、くびをはなれ、大津のかたへ、をよぎゆきけり。ふねもさうなく、やばせにつきぬと、せんどうかたりしを聞きはんべる也。

 

[やぶちゃん注:「蛇(くちなわ)」以下、本文も含め歴史的仮名遣は総て誤り。正しくは「くちなは」。

「かくれなきりんきふかきものにて」「隱無き悋氣深き者にて」。それが誰にもはっきりとわかるほど異常に嫉妬深い者であって。

「かりにいづる」「獵に出ずる」。

「とつてひきよせ」「捕つて引き寄せ」。

「さしころし」「刺し殺し」。

「大木のね」「大木(たいぼく)の根」。

「男のくびにまといつきける」「男の頸(くび)に纏ひ附きける」。私が「首」ではなく、「頸」としたのは、後のシークエンスを考慮してのことである。

「わき指」「脇差(わきざし)」。

「ずんずんに」「寸々(すんずん)に」の意であろう。細かく幾つにも切るさま。ずたずたに。

「高野へまいりければ」「高野」は真言宗総本山高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)のこと。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に古来、『悪行を犯したものでも』、逃げ込むことで、『罪科をまぬかれることがあった』とある。実際的にも高野山は古えより罪人を匿うことをモットーとする治外法権的特権を持ってはいた。但し、徳川幕府創建以降は薄れてしまう。ただ、ここでは弘法大師の強力な呪力によって、邪悪なもの、しかも女人禁制が厳しく守られていた高野山の結界内へは、この蛇は侵入出来なかったという点で、非常に腑に落ちる(論理的な理解は可能)とは言える。しかし、私はこの手の理屈は怪談の怖さを逆に委縮させてしまうものと理解している。

「ふどう坂」「不動坂」。高野山の最も知られた、現行、正規の登り口「不動口(ふどうぐち)」にある坂。その先に女人堂が建てられてあり、そこより上は「女人結界」で女性はその堂までしか立ち入ることが出来なかった(古くは高野山へ登る道は七つあり、「七口(ななくち)」と呼ばれ、それぞれに女人堂があったが、不動坂のそれはその中でも群を抜いて大きいものであったという。因みに高野山の女人禁制は明治五(一八七二)年まで続いた)。

「くびよりはなれをち」「頸より離れ落ち」。

「くさむらのうちへ、はいりける」「叢の中(うち)へ、入りける」。

「とうりう」「逗留」。

「もはや、べつぎもあるまじきとおもひ」「最早、別儀も有るまじきと思ひ」。これだけ時間が経てば、最早、如何なる変事も起ころうはず、これ、あるまいと思い。ただ、女人結界の御蔭であることに気づかぬこの男は、これ、修行の甲斐もない、大たわけであり、結果、命の落とすのは、まさに無智蒙昧からくる自業自得以外の何ものでもないのである。

「げかう」「下向」。

「くさむらのうちより、はひ出でて」「叢の中より、這ひ出でて」。

「くはんとうへしゆぎやうせん」「關東へ修行せん」。何故、高野に戻らないのか。それが私には不思議でしょうがない。

「すぐにたびたち」「直ぐに旅立ち」。

「大津のうら」「大津の浦」。言わずもがな琵琶湖南岸。

「のりあひのふねにのりけるが」「乘り合ひの舟に乘りけるが」。

「をき中」「沖中」。

「こぎ出だしければ」「漕ぎ出だしければ」。漕ぎ出てみたところが。

「あとへもさきへも、ゆかず」「後へも先へも、行くかず」。怪異現象の発現。舟が沖で、船頭(せんどう)が幾ら漕いでも、全く動かなくなってしまったのである。

「おもひあわする事」「思ひ合(あは)すること」。歴史的仮名遣は誤り。心当たりのあること。

「一人のわざにて」「一人の業(わざ)にて」。この「業」は悪業(あくごう)のこと。

「あまたの人のなんぎなるぞ」「數多(あまた)の人の難儀なるぞ」。

「くびの綿をとり」「頸の綿を取り」。頸部に巻き付いて離れぬ蛇を、頸部の病いか疵を隠す繃帯のように擬装して真綿で巻き、蛇が人から見えぬようにしていたのである。

「さだめて、このゆへなるべし」「定めてこの故(ゆゑ)なるべし」。歴史的仮名遣は誤り。

「はじめをわりをざんげしければ」「初め終りを懺悔しければ」。

「はやはや」「さっさと!」

「せめければ」「責めければ」。責め立てたので。

「うみ」「湖」。

「はてにけり」「果てにけり」。

「をよぎゆきけり」「泳(およ)ぎ行きけり」。歴史的仮名遣は誤り。

「さうなく」「左右(双)無く」。原義は「比べるものがない・比類ない・素晴らしい」であるが、怪異としての舟の不思議な停留が解かれ、舟が「漕ぐにまかせて」「順調に」「実に滞りなく」「すみやかに」動き出した、を総て包含した意である。

「やばせ」「矢橋」と書いて「やばせ」と読む。現在の滋賀県南西部の草津市西部の琵琶湖東岸にある地区名。かつての琵琶湖水運の港で、特に江戸時代には東海道の近道(陸路よりも道程を有意に短縮することが出来た)となった対岸の大津と、この矢橋の間の渡船場として栄えた。「近江八景」の一つ「矢橋帰帆」で知られたが、現在は石垣と常夜灯のみが残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2016/10/27

本日一記事にて悪しからず

今日は「諸國百物語」の先を電子化注することに追われ、「諸國百物語」の新規記事一本だけの公開に終わった。ブログで一記事しか出さななかったのは、多分、この数年では(昨年夏の入院や緊急所用以外では)特異点となってしまった。悪しからず。

諸國百物語卷之四 七 筑前の國三太夫と云ふ人幽靈とちぎりし事

     七 筑前の國三太夫(だゆふ)と云ふ人幽靈とちぎりし事

Sandayuu

 ちくぜんの國に三太夫と云ふ、あきんどあり。まいねん、大さかへあきなひ物をもちてのぼるとて、あまが崎へもたちより、あつきやと云ふを宿にしけるが、此あつき屋の下女にさゝといふ女ありしを、ていしゆ、三太夫が夜とぎにおこせけり。かようにする事、數年なりしとき、三太夫、ゆへありてひさしくあまが崎へものぼらず。としへてのち、のぼり、くだんのあつき屋へつきければ、ていしゆ、さまざま、ちさうをし、酒をしいて、

「さゝが、ゐたらば」

などと、たわぶれけるを、つかいにゆきつらんなどゝ思ひゐて、夜もふけゝれば、かやをつりてねにけり。やはんのころ、なに物やらん、かやのうちへはいるを見ればさゝ也。三太夫、うれしくて、

「なにと、久しや。ひるは、いづかたへ、ゆきつるぞ」

とゝふ。さゝ、いひけるは、

「われは今はこゝにもゐ申さず候ふ。こよひ、これまでまいり候ふ事、かならず、かたり給ふな」

と云ふ。三太夫、おもひけるは、さては此家を氣にちがいて出でたるか、又は、えんにつきたるにてあらんとて、さまざまとへども、しさいをいわず。さて、その夜はこしかた行くすへしみじみと物がたりしければ、ほどなく夜もあけがたになるまゝに、

「もはや御いとま申さん」

とて、たちいづる。三太夫もなごりをおしみて、かたみとて、しろきかたびらをとらせければ、

「かたじけなし」

とて、ひきかづき、おもてをさして出でければ、三太夫も心もとなく思ひ、あとをしたいて行きければ、西をさしてゆき、あまが崎をはなれける。さては、にしのみやへゆくらん、とおもひければ、さはなくて、なにはのかたへゆきけるが、つゝみのきはにて、かきけすやうにうせにけり。三太夫、夜あけて、ていしゆに、

「さゝは今ほどいづくにゐ申すぞ」

と、とひければ、

「その事に候ふ。さゝは、過ぎしはる、かりそめにわづらひつき、あひはて候ふが、今はのときは、そなたの御事をのみ申しいだし候ふ」

とかたる。三太夫、おどろき、

「さてさて、ふしぎの事の候ふ」

とて、過ぎし夜のしだいを物がたりしければ、ていしゆもおどろき、

「かのみうしなひたる所へ、つれゆかれよ」

とて、三太夫と同道して、ていしゆ、行きてみければ、さゝをうづめたる墓所にてありしが、くだんのしろきかたびらを、つかのうへにかづけをきたり。兩人ともにふしぎのおもひをなし、ねんごろにとぶらひてとらせけると也。三太夫はそのゝち、をやの名をつぎ、黑田右衞門の守(かみ)樣にほうかうをせられしと也。今にかくれなき事なり。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「三太夫云人幽灵とちきる事」。

「筑前の國」現在の福岡県北西部。

「あまが崎」「尼崎」。現在の兵庫県尼崎市。

「あつきや」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本文は『小豆屋』とする。

「さゝ」笹であろう。

「夜とぎ」夜の閨の相手。宿屋の亭主自身が行っていた女中の売春行為である。江戸時代でも立派な犯罪行為である。

「おこせけり」「おこせ」は「寄越す」の意。

「ちさう」「馳走」。

「しいて」「強いて」。一方的に勧め。

「これまで」此処(あなたさまの寝床)まで。

「氣にちがいて」「氣に違ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。店の気風・亭主・同僚・客などと気が合わなくなって。

「えんにつきたるにてあらん」「緣(ゑん)に付きたるにてやあらん」(歴史的仮名遣は誤り)。嫁に行ったのでもあろう。

「かたみ」「形見」。久しぶりに会ったその思い出の品。

「しろきかたびら」「白き帷子」白い裏をつけていない単衣(ひとえ)の着物。

「とらせければ」与えたところ。

「ひきかづき」「引き被(かづ)き、面(おもて)を」。頭からすっぽりと被って。婦人がお忍びで外を行く際に顔を隠す普通の仕草。

「おもてをさして」「表を差して」宿屋の外へ向かって。

「心もとなく思ひ」なんとなく気遣わしく、意味もなく不安な気がしてきたので。

「あとをしたいて」後をつけて。

「にしのみや」「西宮」。現在の兵庫県西宮市。

「なには」「難波」現在の大阪府大阪市。

「つゝみのきは」「堤の際」。

「今ほど」現在は。

「かのみうしなひたる」「彼(か)の見失ひたる」。

「くだんのしろきかたびら」「件の白き帷子」。

「つかのうへにかづけをきたり」「塚の上に被け置(お)きたり」。歴史的仮名遣は誤り。挿絵はこの瞬間をスカルプティング・イン・タイムしたもの。

「黑田右衞門の守(かみ)樣」筑前福岡藩第二代藩主黒田忠之(ただゆき 慶長七(一六〇二)年~承応三(一六五四)年)。ウィキの「黒田忠之によれば、『江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る』。福岡藩初代藩主黒田長政と正室栄姫(大涼院・徳川家康養女)の『嫡男として筑前福岡、福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している』。慶長一九(一六一四)年の『大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられた為、代わりに出陣している。この際、長政は忠之に、関ケ原の合戦の折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え』、一万の『軍を率いさせている』。元和九(一六二三)年、『徳川家光将軍宣下の先役を仰せつかった長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。当初、江戸幕府』二代将軍徳川秀忠から偏諱を授かり、『忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく』。『また、父の遺言で弟の長興に』五万石(秋月藩)、高政に四万石(東蓮寺藩)を分知し、これによって石高は四十三万三千余石となった。『忠之は生まれながらの大藩御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も我侭であったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶、鳳凰丸などを建造したり、自らの側近集団を組織し』、倉八正俊姓は「くらはち」で、「倉八家頼」ともする。稚児小姓から忠之に仕えていた人物。忠之は先代からの家老職の家柄で、先勲も甚だしい栗山家出身の家老栗山大膳利章(としあきら:彼の父は栗山善助利安(としやす)で、かの軍師として名高い福岡藩黒田官兵衛(如水)孝高(よしたか)の筆頭家老で直参の家臣であった。官兵衛が有岡城に監禁された際の救出、関ヶ原の戦い前夜には大坂屋敷から孝高と長男長政(彼が後に福岡藩初代藩主となる)の両夫人を脱出させるなど、まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。)を殊更に忌避し、この正俊を寵愛、仕置家老(当代藩主が従来の家老の能力を不十分として、異例として新たに家老に取り立てた、実力主義で選ばれた新参家老)にまで取り立てているこれに大膳が激しく反発、以下に書かれる黒田騒動に発展するのであるが、彼は通称を「倉八十太夫(じゅうだゆう)」と称した。或いは、本作の「三太夫」はこの佞臣の通称がヒントかも知れぬ。なお、この挿入部分では個人サイト「歴史の勉強」の黒田騒動を参考にさせて頂いた)、『郡慶成らを重用した。一方で』「筑前六端城(領内主要六拠点の支城)」城主を『始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。ところが』、寛永九(一六三二)年、六端城の一つであった麻底良城主『栗山利章(大膳)によって幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、黒田家は改易の危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である』。三代将軍徳川家光は寛永一〇(一六三三)年二月、『自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり』、『藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山、栗山は盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、旧領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府老中の安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の重臣を中心とした合議制色が強くなった』。ここに実に十年にも及んだ藩内抗争であった黒田騒動は幕を閉じたのであった。寛永一四(一六三七)年の『島原の乱に出陣し、武功を挙げ』、寛永一八(一六四一)年には『江戸幕府の鎖国令により長崎が幕府直轄地(長崎奉行地)となり、肥前佐賀藩と交代で長崎警備の幕命を受ける。この事により福岡藩は参勤交代に於ける参勤回数、当主の江戸滞在短縮など幕府から優遇を受け』ている。なお黒田騒動後の栗山大膳と倉八十太夫は、ウィキの「福岡藩の「黒田騒動」の条によれば、『大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち』、『上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている』とあり、一方の大膳は、ウィキの「栗山利章によれば、彼は事実上の流罪ではあったものの、百五十人扶持であり、『盛岡藩南部家も手厚く待遇した。盛岡在府中は、同様に対馬藩から盛岡藩預かりとなった規伯玄方』(きはくげんぽう:対馬藩の朝鮮との外交交渉を担当し、朝鮮へ使者として出向いたりもした、筑前国宗像郡出身の臨済僧。柳川一件(やながわいっけん:対馬藩第二代藩主宗義成(そう よしなり)と家老柳川調興(しげおき)が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造(実際に藩主導で偽造は行われた)を巡って対立した事件。家光の裁定は義成は無罪、調興は津軽に流罪。ウィキの「柳川一件の参照されたい)で国書改竄に関与したとされ、大膳が預かりとなった二年後の寛永一二(一六三五)年に盛岡藩に配流となった。盛岡では学問・文化の指導者として尊敬され、南部鉄器や黄精飴黄精飴(おうせいあめ:薬名を「王竹」「姜蛇」とも呼ぶ漢方薬「黄精」は「甘野老(あまどころ)」(単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum
odoratum
)の地下茎から取りだした煎汁で、胃腸や心肺に良いされるが、この煎汁を砂糖・飴・餅粉に混ぜて仕上げた求肥(ぎゅうひ)状の盛岡の伝統和菓子。岩手県の「黄精飴本舗長沢屋」についての記載を一部で参考にした)の創出などに関わったとされ、、また盛岡藩では南部牛が多く飼育されていたが、玄方は慶安三(一六五〇)年に第三代藩主南部重直に対して牛乳の使用を奨め、これは江戸時代に於ける牛乳の利用についての早い事例として知られる。万治元(一六五八)年に赦免となり、京都の南禅寺に移った。この部分は主にウィキの「規伯玄方に拠った)『とも親交があり、共に盛岡城下の文化振興に寄与した』。栗山大膳利章は承応元(一六五二)年に同地で死去した。墓所は盛岡城下の曹洞宗恩流寺にあり、規伯玄方の手になる忠節を讃えた碑がある、とある。]

2016/10/26

譚海 卷之一 安永五年日光御社參の事

安永五年日光御社參の事

○日光御社參安永五年に有(あり)。十三日に江戸を御發駕(はつが)に付(つき)、十二日暮六つ時より江戸町の辻々木戸(きど)をうち、夜は往來の人を拍子木にて送り、晝も又然り、翌十三日晝八つ時御成(おなり)相濟(あひすみ)たるよしにて、木戸を開き往來常の如し。夫(それ)より毎夜五(いつつ)ときより木戸をとぢ、曉まで往來を拍子木にて送る。町ごとに上下(かみしも)の辻番の外、中番屋(なかばんや)を假(かり)にしつらひ、家主月行事晝夜詰切(つめきり)、火消の人數も不斷(ふだん)火の元用心に徘徊する。廿一日還御也。廿日の宵より木戸をとぢ、辻々をかたむる事御發駕の日の如し。町々木戸なき時は、竹やらひにて小路にてもがりを拵(こしらへ)たり。又よせ馬といふ事あり、房總より召(めさ)れて道中駄荷(だに)の用にあてらるゝ事也。其馬小屋鳥越橋の西の原、淺草かやてうのうしろの原、柳原あたらし橋向ひの馬場、同所天文はら等也。假小屋をしつらひ率(ひ)くる馬を追入々々(おひいれおひいれ)する事、凡(およそ)三萬餘疋に及(および)けるとか。都(すべ)て道中の傳馬(てんま)をかぞへ入(いれ)ては廿三萬疋程也とぞ。

[やぶちゃん注:本条を持って「譚海 卷之一」は終わる。

「安永五年」一七七六年。月が書かれていないが、主に徳川家康の命日である四月十七日に参拝するように実施されたから、これも総て旧暦四月のことである。因みにこれは第十将軍徳川家治の社参で、じつはこの後の第十二代将軍徳川家慶天保一四(一八四三)年の社参が最後の日光社参となった。因みに、旧暦安永五年四月十二日はグレゴリオ暦一七七六年五月二十九日で、還御の二十一日は六月六日に当たる。ウィキの「日光社参」によれば、そのルートは、『江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城』(いわつきじょう:武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁)『に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿』(さってじゅく:現在の埼玉県幸手市中部から北部地区)『近くで日光街道(日光道中)に入り、二日目は古河城』(こがじょう:現在の茨城県古河市の渡良瀬川東岸にあった古河藩の藩庁)『に宿泊、三日目は宇都宮城に宿泊したのち、四日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計』八泊九日にも及ぶ将軍の外遊としては特異的に長い『行程であった』。

「暮六つ時」不定時法でこの時期だと午後七時半近くである。

「夜は往來の人を拍子木にて送り」番屋(消防・自警団の役割をしていた自身番の詰所。木戸番や火の見櫓を併設していることが多く、江戸・大坂・京都などの大都市及び地方の城下町でも見られた。地元住民が交代で役割に従って担当した)の者が住所や名、通行目的を確認した上、認められた特別通行許可を受けた人間であることを示すために、同道して拍子木を打って通ったという意味か。識者の御教授を乞う。

「五とき」不定時法の夜五つ(初更)なら、八時半過ぎ頃で、定時法の「五つ」なら午後八時前後となる。

「上下」必ずしも各町に「上町」「下町」がある訳ではないから、木戸が設置されてあった町の両端の謂いであろう。

「家主月行事晝夜詰切」家主(やぬし)及び月行事担当の者が、交代で昼も夜もずっと番屋につめて。

「不斷」「絶え間なく」の意の副詞。

「かたむる事」「固むる事」。警固すること。

「竹やらひ」「竹矢來」。竹で造った仮囲い。長さ二~三メートルの竹を斜めに組合せ、交差部を棕櫚繩などで結んだもの。時代劇に出て来る刑場のあれ。

「もがり」「虎落(もがり)」。竹を筋違いに組み合わせ、繩などで結い固めた柵。前の竹矢来よりもサイズも小さく、造作も簡便なものであろう。要は、人がこっそり簡単に通り抜けられぬような障碍物として存在すればよいような代物である。

「よせ馬」将軍家日光社参のために必要な荷馬を徴集することであろう。先に引いたウィキの「日光社参」によれば、『日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば』、ここに出る『将軍家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた』。『これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった』。『なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう』とある。リンク先を見て戴くと分かるが、日光社参は江戸時代、十九回行われているが、その内の十回は総て家光のそれである。

「鳥越橋」鳥越川に架かっていた橋(現在は暗渠)。現在の東京都台東区柳橋にある須賀橋交番前。この橋は江戸時代には須賀橋・天王橋・地獄橋などとも呼ばれた。

「淺草かやてう」「淺草茅町」。浅草橋から浅草橋駅付近の旧町名。

「柳原あたらし橋」現在の東神田三丁目から二丁目の、神田川に架かる美倉(みくら)橋。

「同所天文はら」浅草の新堀と三味線堀の間。天明二(一七八二)年に幕府天文方(てんもんかた)がここに移転し、この時、浅草天文台という呼称を初めて用いたが、それ以来、この付近を天文原と呼ぶようになった。

「傳馬」旅中の状況や急務の送受信のための特別逓送(ていそう)用の馬。宿場毎に一定数が配置されてはいたが、これは日光社参のための別用立てのそれである。]

譚海 卷之一 遠州長門御所の事

遠州長門御所の事

○友人某遠州に在番の頃、其所のくもん御所と云(いふ)ことを書記(かきしる)しこしたる書に云(いふ)、遠州秋葉山より南の表山(おもてやま)七八箇村を飯(ゐい)の奧山と唱へ、北東うらの山中六箇村を水久保入(みづくぼいり)と云傳(いひつた)へし事は、そのかみ後醍醐帝都よりむもん御所と申奉(まうしたてまつ)りし御方(おんかた)の、飯の奧山法光寺へおち忍ばせ玉ふに、行良(ゆきなが)親王と申せし君達(きんだち)御所の御行衞(おんゆくゑ)をしたはせ玉ひ、奧の山に尋ねさまよひおはしまし、いのおく山を此奧の山と取(とり)ちがひ、此おく山よりは信濃路へ鄰(となり)しゆへ、信濃路へおもむき玉ひ、信州竝合(なみあひ)といふ所にて薨(こう)じ玉ふ。折からの御辭世のよし、「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」。此(この)故(ゆゑ)によりて遠州奧山六箇村に限りて、莊屋を君門(くんもん)莊屋と唱へ來るよし、今にかくいひ傳へ候。按ずるに此(この)事浪合の記といふ物に委しく記したり。此書狀少しわかりかねたる事あれどもそのままをしるす。

[やぶちゃん注:「竝合(なみあひ)」は特異点の原典のルビ。「世(さ)の」は底本の別校本の補正。「世」を「さ」と読み換えよということであろう。

「くもん御所」不詳。以下の手紙文によるなら、「君門(くんもん)」(この読みは私の推定)「御所」の「ん」の脱落(しばしば起こる)ということなる。こういう呼称の場所は現在の静岡県西部(「遠州」。旧「遠江(とおとうみ)国」)には現認出来ない。

「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。

「飯(ゐい)の奧山」不詳。秋葉山の西直近の天竜川を遡上すると、長野県「飯」田市に突き辺りはする。後の底本の注引用を参照。

「水久保入」不詳。後の底本の注引用を参照。

「むもん御所」不詳。

「飯の奧山法光寺」秋葉山の近くで、現存する同名の寺は静岡県浜松市中区泉にあるにはあるが(日蓮宗)、ここかどうかは不詳。

「行良(ゆきなが)親王」これは尹良親王(ゆきなが(よし)/これなが/ただながしんのう 正平一九/貞治三(一三六四)年?~応永三一(一四二四)年?)か? ウィキの「尹良親王によれば、「浪合記」(後注参照)「信濃宮伝」などの『軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女』『とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在性を疑問視する意見が多い。源尹良とも』。「浪合記」「信濃宮伝」の『間では年紀などに少なからず異同が見られるが』、「南朝編年記略」などを『援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる』。『遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野に移ったが』、天授五/康暦元(一三七九)年、『吉野に参候し、親王宣下を蒙って二品に叙される。後に兵部卿を経て』、元中三/至徳三(一三八六)年、『源姓を賜って臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左近衛大将・征夷大将軍を兼ねた』。元中九/明徳三(一三九二)年の南北朝合一後も、なお、『吉野に隠れ留ま』った。応永四(一三九七)年二月、『伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った』。同五(一三九八)年『春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦。武田信長の館に入って数日逗留した後』、八月、上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いている。同一〇(一四〇三)年、『頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落。次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士』百余騎を『率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った』。同三一(一四二四)年八月、『三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎ら』二百余騎が『阻んだため、浪合にてこれと奮戦した(浪合合戦)。味方は』八十余騎で『あったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下』二十五人が『討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した』。但し、『岐阜県の東濃(中津川市・恵那市)の伝説では、親王は浪合で死なず、従士の逸見左衛門九郎朝彬を召し連れ、柿の衣に笈を掛けた山伏姿に身をやつして美濃笠置山の麓の毛呂窪の郷に落ち延び、松王寺で再起を図った。大河原で敗残した従士達も集まって農耕をしながら』二十年余りを過ごしたが、『やがて足利方の知るところとなって敵兵が来襲したため、従士』四十九人が『討死し、親王もまた自害したという。中津川市蛭川と恵那市笠置町毛呂窪に親王の墓所と伝えられる石塔が残っている』ともある。後の底本の注引用を参照。

「君達」「公達」とも書き、「きんだち」は「きみたち」の転じた読み。親王・摂家・清華(せいがけ:公卿の家格の一つで、摂関家に次ぎ、大臣家の上に位する家柄。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る。転法輪三条・今出川・大炊(おおい)御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家であったが、後に醍醐・広幡を加え、九清華という)など、公家の最上層の者の子弟を指す。

「信州竝合(なみあひ)」現在の長野県下伊那郡の西南部にある浪合村(なみあいむら)。天竜川上流の右岸の山中で、話柄の流れからの位置としては、辻褄は合う。

「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」不詳。失礼乍ら、和歌としても辞世としても、見どころは一つもない。

「君門(くんもん)莊屋」不詳。

「浪合の記」底本の竹内利美氏の注に、『「浪合記」。応永年中南朝の貴種が流離の末、信州伊那の山中、浪合で悲運の最後をとげた次第をしるした歴史伝記で、主人公をユキヨシ親王としている。津島社の社家の手を経た後世の仮托の作らしい。飯の奥山、水久保は遠州側で、天竜川の東に位する。宗良親王の隠住した地方なので、こうした伝説も生じた』とある。]

譚海 卷之一 大坂芝居棧敷の事

 

大坂芝居棧敷の事

○安永四年友人大坂より來書に云(いふ)、上方大和邊も此節開帳何角(なにかと)賑々敷(にぎにぎしく)、伊勢山田も兩芝居繁昌致(いたし)候。當時は參宮人も山城・大和・大坂・京都邊ばかりに御座候。關東道者(もの)はいまだ少(すくな)く存(ぞんぜ)られ候。されど時分柄(がら)ゆへ伊勢海道は格別にぎはひ申(まうし)候。扨(さて)大坂にてけしからぬ事は芝居にて御座候。尾上菊五郞去年顏見せより忠臣藏致候處、總役者衣裝三度まであらたに仕(し)かへ、今に大あたりに御座候。大坂は棧敷幟(さじきのぼり)と申(まうす)ものを、茶屋中(うち)より芝居の向側(むかひがは)へ出(いだ)し申候。三月廿日までに十七本に及(および)申候。棧敷千軒うれ候得(そうらえ)ば、のぼり壹本づつ出し申候。幾日より幾日までと日付をして賣(うり)たる事記(しる)し申事に御座候。棧敷の直段(ねだん)江戶とは違ひ、日々相場を立(たて)高下(かうげ)致候。二月中より鳥目(ちやうもく)六貫四五百文、此間は七貫二百文までに賣申候。けしからぬ事あるものに候。

[やぶちゃん注:私は文楽好きの歌舞伎嫌いであるので、注はそっけない。悪しからず。

「安永四年」一七七五年。

「尾上菊五郞」初代尾上菊五郎(享保二(一七一七)年~天明三(一七八四)年)。ウィキの「尾上菊五郎初代によれば、『屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎』。『京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る』。享保一五(一七三〇)年、『京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台』、同二〇(一七三五)年『からは若女形として舞台に立ち評判を取る』。その後、寛保元(一七四一)年には『大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後』、宝暦二(一七五二)年に立役(たちやく)に転じた。しかし、明和三(一七六六)年に『江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経て』後、再び、『江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した』。彼の当り役はまさにここに出る「仮名手本忠臣蔵」の「大星由良助」、「ひらかな盛衰記」の「延寿」や「畠山重忠」などであった。]

譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事

相州三浦篝堂の事

相州三崎に篝堂(かがりだう)とて、官より建置(たてお)かれたる所あり。海岸高き所に堂有(あり)、晝夜兩人づつ詰居(つめを)る也。晝は風波破船などの遠見(とほみ)をいたし、夜は明(あく)るまでたえずかゞり火を燒(やき)て、海舶往來の目じるしになる樣に掟(さだめ)られし也。篝になる薪は、浦々より役割をもちてよせ來る定數(じやうすう)ある事也。然るに此地七月十三日の夜は、いつも難船橫死の幽靈此堂に現ずるゆへ、人甚(はなはだ)恐怖し、其日に限りては數十人寄合(よりあひ)、奐鐘(かんしよう)大念佛にて通夜(つや)するなり。さるにつけても幽靈必ず現(げん)ず、或は大船にはかに現じて漂ひ來り、巖頭(ぐわんたう)にふれてくだけくづるゝ響(ひびき)おびたゞしく震動して、人の耳を驚(おどろか)し、身の毛立(けだち)、その時忽ち數十人影(ひとかげ)まぼろしの如く水面に充滿し、わつといふて此堂をさして入來(いりきた)る事、年々たがはず、恐しき事(こと)言語同斷也。因て年々施餓鬼會を勤め佛事を營む、ふしぎの事に言傳いひつたは)る也。

[やぶちゃん注:「譚海」では珍しい、「ザ・フォッグ」(The Fog 一九八〇年。監督・脚本ジョン・カーペンター)並みにキョワい舟幽霊(ふなゆうれい)の怪談が途中に挟まっている。

「奐鐘(かんしよう)大念佛」のルビは特異点の原典のもの。これは恐らく、現在の神奈川県横須賀市の浦賀港入口に当たる岬(燈明崎(とうみょうがさき))の先端に江戸時代に築造された和式灯台である燈明堂のことであろう。但し、ここならば火は当初から篝火ではなく、油火であった。ウィキの「燈明堂横須賀市によれば、天正一八(一五九〇年)の『徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた』。慶安元(一六四八)年、『江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設』、『燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた』。『当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている』。『建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが』、元禄五(一六九二年)以降は浦賀港の干鰯問屋(ほいかどいやは:干した鰯(いわし)などの魚肥を扱った問屋)が修復費用も捻出するようになったという。『海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた』とある。引用元にはもっと詳しい歴史記載が載るので参照されたい。

「奐鐘(かんしよう)大念佛」「くわんしよう」が正しいが、この「奐鐘」は「喚鐘」で、法会で人々を呼び集めるための小さな鐘を指し、それを皆で打ち鳴らしながら、念仏を唱える水死者を供養する施餓鬼様のものと思われる。]

譚海 卷之一 豆州大島幷八丈島の事

豆州大島幷八丈島の事

○伊豆國四郡と云は、元來豆州三部に大島一郡を合(あはせ)ていへる事也。豆州より大島へ七里、大島よりにい島ヘ七里、にい島より三宅島ヘ七里、三宅島よりかうづ島へ七里、かうづ島よりとしまへ七里也。としまの先にはだか島と云(いふ)あり、一里四方程ある島也といへり、此(ここ)は行(いき)たる人もなし、里數もしれがたし。扨(さ)て八丈島は大島より東南、はだか島よりは東にあたれる島也。里數國禁(こくきん)にてしれがたし、已上を八島といふ。大島の産物矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ。牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也。しひたけ・かつほぶし等也。にい島にも椎茸を産す。牛もありといへども角はおほく出(いだ)す事なし。椿の油を産す。八丈より出す所の織物は運上(うんじやう)にて米にてかへ納(おさめ)らるゝ也。尤(もつとも)八丈島には官府ありて官船のほか海舶の往來制禁也。

[やぶちゃん注:「幷」は「ならびに」。「矢〆(やしめ)」は特異点の原典のルビ。

「七里」二十七キロ四百七十九メートル。一律、これで揃えているが、後で「里數國禁」と述べているように実測値とは微妙に異なる。というより、三宅島を起点に後の島への距離を示すのは実際の海路から腑に落ちはするが、地図も頭にない読者は皆、江戸に近いところから遠いところとして、

 大島→新島三宅島神津島利島→「はだか島」(御蔵島:後注参照)→八丈島

の順に伊豆諸島は南或いは南東に点在しているとしか読まない。事実は無論、

 大島→利島新島→式根島→神津島三宅島→御蔵島→八丈島

の順である。

「にい島」「新島」。なお大島以下のここに出る伊豆諸島は現在は行政上は総て東京都。

「かうづ島」「神津島」。私が唯一行ったことのある伊豆諸島の島。夜の墓場の美しかったことは生涯、忘れない。二十三の時に訪れた……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊(く)えた墓石に至るまで、毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていた……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を何ども訪ねたのだった……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものだった…………

「としま」「利島」。

「はだか島と云あり、一里四方程ある島」順序と「四方」という謂い方からは、ほぼ円形を成し、概ね五キロメートル弱四方に入るところの御蔵島のことと思われるが、このような別名を現認出来ない。「裸島」或いは「波高島」などが考えられ、或いはもっと南の後に出る「八丈島」の記載を、この御蔵島と誤認し、しかもそれを「ハ丈島」(はだかじま)と誤読した可能性もあるように私には思われる。「八」はカタカナ「ハ」と読み違い易く、しかも「丈」は「たか」「だか」と訓じ易いからである。

「里數もしれがたし」御蔵島は江戸の南約二百キロメートル、直近の三宅島からは南南東十九キロメートルの附近に位置する。前者は換算すると約五十一里、後者は五里弱。

「里數國禁(こくきん)にてしれがたし」江戸の南亦二百八十七キロメートル、直近の御蔵島からは南南東方約七十五キロメートル附近に位置する。前者は換算すると約七十三里、後者は十九里ほどとなる。

「矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ」不詳。「島眞木」の読みは「しままき」(島の薪(まき))であろう。識者の御教授を乞う。

「牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也」前条鰹魚を釣るに用る牛角の事を参照されたい。

「しひたけ」「椎茸」。現在も八丈島の特産品である。

「八丈より出す所の織物」八丈島を本場とする「黄八丈」のこと。ウィキの「黄八丈」より引く。『黄八丈(きはちじょう)は、八丈島に伝わる草木染めの絹織物。 島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったもの。 まれに無地の物も染められることがあるが、地の黄色がムラになりやすく市場にはほとんど出回らない』。『むろん八丈島が本場だが、秋田県でもハマナス』(バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属Cinnamomeae節ハマナス Rosa rugosa)『などを原料とした染料を用いた「黄八丈」が織られているため、そちらの八丈を「秋田黄八丈」、八丈島で生産される八丈を「本場黄八丈」と呼んで区別している』。『八丈刈安』(はちじょうかりやす:単子葉植物綱イネ目イネ科コブナグサ属コブナグサ(子鮒草)Arthraxon hispidus)『で染めた明るい黄色の色彩が特徴であり、現在は伝統的工芸品として国の指定を受けている。 鳶色が主体になったものは茶八丈、黒が主体のものは黒八丈と呼ぶことがあるが、黒八丈には同名の別の絹織物が存在するので混同しやすい。 黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったものであり、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていた』(下線やぶちゃん:本来ならここでも冒頭、「黄八丈」ではなく、それで呼ぶべきではあろう)。『伊豆諸島では八丈島の他に三宅島でも独自の絹織物が製造されている。三宅島のものは三宅丹後と呼ばれている』。『本居宣長は「玉勝間」にて「神鳳抄という書物に、諸国の御厨(神社の領地)より大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋という表現が多く見える。したがってこの絹はどこの国からも産出したのである。伊豆の沖にある八丈が島というところも、昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない……」と記している事から八丈島の島名の由来になったとされる』。『この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。寛永年間にはタブノキ(八丈島ではマダミと呼ぶ)』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii)『の樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになり、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれる。

江戸時代後期に、白子屋お熊の入婿殺人未遂事件を脚本化した浄瑠璃「恋娘昔八丈」(こいむすめむかしはちじょう)で黄八丈の衣装が採用されたことから爆発的な人気を誇った。お熊が処刑に臨んで八丈を着たのは確かだが、江戸時代中期には黄八丈の知名度は低く実際には鳶色か黒地の八丈と思われる』。『黄八丈の印象的な黄色は、ほかの地方では雑草扱いされるコブナグサというイネ科の一年草から取れるもの。ほかの草木に比べて群を抜いて美しい黄金色を染め出すことから、八丈島では本土で古くから黄色の染色に使われるカリヤスにちなんで八丈刈安と呼んで大事に栽培されている。これを用いて秋の初めに糸を染め始め、椿などの灰で「灰汁付け」(媒染)する』。『鳶色はタブノキの樹皮が原料で、何度も染液に漬けては乾燥させて赤みがかった濃い茶色を染める』。『黒色はいわゆる「泥染め」(鉄媒染)で得る。スダジイ』(ブナ目ブナ科シイ属スダジイ Castanopsis sieboldii)『の樹皮で染めた糸を自然の沼で「泥付け」して泥の中の鉄分とスダジイのタンニンを結合させることで黒が得られる。ちなみに泥染めで黒を染めると糸が脆くなり易いため』、『黒染めの古布は現代に伝わりにくい』とある。]

譚海 卷之一 鰹魚を釣るに用る牛角の事

鰹魚を釣るに用る牛角の事

鰹(かつを)を釣るには餌を用ひず牛の角にて釣る也。生(いき)たる牛の角を刄物(はもの)にて段々けづりされば、しんの所鰹ぶしのしんの色のごとく、うつくしくすき通る樣になる、其かふばしき匂ひ、誠にくふて見たき程なり。その角のしんの先へ釣(つり)はりを仕込(しこみ)、(針の際へふぐの皮を付る事也。)その角を繩に付(つけ)海へ投ずれば、かつほ此(この)角の匂ひを慕ひてそのまゝくひつけば、鈎(はり)さきにかゝりてはなるゝ事ならず。それを引あげ引きあげ舟に入(いれ)、ざんじに舟の内(うち)山の如くにとり得らるゝ事也。餘り澤山釣(つり)けるときは、わにざめの鰹をしたひきて呑(のま)んとするゆへ、舟の難儀に及ぶゆへ、見はからひて、澤山に釣(つり)あまる程の時は、鰹を五六本十本程づつ繩にくゝりて海中へなげやり、其まぎれに船をこぎもどすと也。此牛の角伊豆の大島よりくる、百本づつかます入(いれ)にして江戸鐡砲洲(てつぱうず)邊(へん)にある事也。扨(さて)大島にて此牛の角をとる事、元來大島牛多く生産して田畑なき所ゆへ、耕作に遣ふ用なければ、角をとりてかくうりしろなす事也。牛の角をとらんとする時、島の内の人殘らず組合(くみあひ)、流人(るにん)をももよほして一時に牛を追出(おひいだ)す。牛大勢に追はれて段々海邊(うみべ)へ行(ゆき)つまり、行所(ゆきどころ)なくして海岸にたちて居るを、棒を人々もちてねらひよりて牛の角をうち落す、牛(うし)角を落されて悲鳴する事云(いふ)ばかりなし。それを百本づつ俵(たはら)にして送る也。牛角を落されたる跡、しんありてわづかに殘れり。壹寸程高く生出(おひいで)たる跡殘りて有(あり)。月をへて疵(きず)いゆれども、又角を生ずる事なし、されば大島には角のなき牛多しとぞ。

[やぶちゃん注:「(針の際へふぐの皮を付る事也。)」は底本にないものを編者が対校正本によって補ったことを示すもので、割注ではない。果たして、牛の角の芯の性質が、ここに書かれたようなもの(釣りの餌となる)であるかどうかは私は知らない(なってもおかしくはないとは思う)。但し、牛の角は芯の部分は血管も神経も通っているので、後にも出るが、牛は角を強く叩かれたり、切られたりすれば非常に痛がるはずである。ブログ「牛コラム」の導入直後の除角を参照されたい(たいしたことはないが一枚だけ除角直後の映像が有る。クリックは自己責任で)。そもそもこの文章、牛の角を加工して鰹漁の釣針にしたというのなら、腑に落ちるのだが。ここに書いてあるのは、本当に事実なのだろうか? 個人サイト「TROLLING FAQ INDEX」のに本条を引き、私と同様の疑問を呈されつつも、『ここに描かれているのは現代の和角ともうほとんど変わりがないと言えます。ただ、「其香ばしき匂い」というのはあまり合点が行きません。削った人なら分かると思いますが、その臭いは結構きついものがあります。皮加工か獣臭のような臭い、濡れるとさらにきつくなるこの臭いは、あるいは魚にとってはgood smellなのかもしれませんが』と附言してはおられる。

「針の際へふぐの皮を付る事也」このフグの皮は一種のフライの飾りのように思われる。

「わにざめ」サメ類の古くからの総称。

「かます」「叺」。藁莚(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋。

「江戸鐡砲洲(てつぱうず)」現在の東京都中央区東部の湊(みなと)や明石町(あかしちょう)に相当する地名。徳川家康の入府当時、鉄砲の形をした洲の島であったことに由来とも、寛永の頃にこの洲浜で鉄砲の試射をしたことに由るとも伝える。

「壹寸」三センチメートル。

「又角を生ずる事なし」牛の角は骨の上に角質が載っているもので、生え変わったりはしないので、盛り上がって少し伸びることはあっても元通りの角は生えない。]

タルコフスキイを撮る夢

本未明のタルコフスキイを撮る夢――

僕はどこかの国の高台の修道院に匿われているタルコフスキイと面会している。

[やぶちゃん注:後からその修道院が遠景で映し出されるれるが、それは「ノスタルジア」ドメニコが世界の終末のために家族を匿うロケ地とよく似ていた。]

背後の壁は全体を大きなゴブラン織りが覆っていて、その上にルブリョフの「三位一体図」(троица:トローイツァ)が掛かっている。

[やぶちゃん注:ゴブラン織りは「鏡」の「作家」の家のもの、言わずもがな、「三位一体図」は「アンドレイ・ルブリョフ」の最後に映し出されるあれだ。]
タルコフスキイは、
「明日、官憲が私を捕縛に来る。その連行される一切が今回の私の作品のエンディングとなる。君は他の二人とともにそれを撮るのだ。」
と僕に命じながら、右手で絨毯の上に伏せしている犬の頭を撫でる。犬は僕を見て尻尾を振る。犬はシェパードである。

[やぶちゃん注:この犬は言わずもがな、「ノスタルジア」の「ゾイ」である。]

隣りの部屋に後の二人がいる。一人は長机の部屋の奥の端に僧衣を被っており、今一人は、その真反対にある出窓の前で外を見ている。二人とも暗く沈んでいる。

僧衣の男はアナトリー・ソロニーツィン、窓辺の男はトニーノ・グエッラであった。

[やぶちゃん注:前者 Анато́лий Алексе́евич Солони́цын 1934年~1982年)はタルコフスキイ組の私が最も好きなロシア人名優。後者はTonino Guerra 1920年~2012年) はイタリアの脚本家で「ノスタルジア」の脚本やイタリアでのタルコフスキイの複数のドキュメンタリー映像を手掛けた。]

翌日、官憲が修道院へやって来る。百人以上の重装備の機動隊である。彼らがタルコフスキイのいる納屋に近づいてゆく。しかし、その扉が自ずと内からゆっくりと開かれる。暗闇の納屋の中、そこだけスポットが当たるようにしてタルコフスキイが毅然として立っている(ここはモノクロ)。

[やぶちゃん注:この扉は「サクリファイス」の戦闘機音とともに激しく開くそれと同じ扉であり、開いた後のシーンの処理は「鏡」の少年期の「作家」のイメージ部分とよく似ていた。]

官憲に乱暴に引き立てられてゆくタルコフスキイ。

修道院からは徒歩である。その道は地肌も露わな赤土で、昨晩の雨でどろどろにぬかるんでいる。
私は師の捕縛を哀しんでその先導をする修道僧の役となり、ソロニーツィンにカメラを頼む。
下り道の崖側には牧羊の囲いに有刺点線が張られている。
僕は何度もずるずると滑りそうになる。
その都度、僕は右手で囲いを摑む。
その都度、僕の右の掌は甲まで錆びた鋭い有刺鉄線が突き抜けて、飛び出るのであった。
それをソロニーツィンが撮ってくれているのが判る。

[やぶちゃん注:この泥濘の道は「アンドレイ・ルブリョフ」でルブリョフ(ソロニーツィン演)と喧嘩別れした青年「ボリースカ」(ニコライ・ブルリャーエフ演)が鐘に最適な粘土を発見するシークエンスの道を恐ろしく長く高くしたようなものであった。有刺鉄線は「僕の村は戦場だった」で主人公「イワン」(同ブルリャーエフ演)を有刺鉄線でなめるシーンとダブった。なお、このシークエンス全体はタルコフスキイの好んだ、キリストのゴルゴダへの登攀の逆転したシンボライズであるように思われる。]
麓の町につく。

[やぶちゃん注:以下で実は、その町の老婦人と、先の「ゾイ」そっくりの犬が登場し、煉瓦の壁に掛かった三枚のルネサンスの絵画(その時は夢の中でその絵を誰の何としっかり認識していたのに今は失念してしまった)を僕がカメラ映りのよいように何度も掛け変えるシーンなどが挟まるのだが、超常的な現象が多発したりして、説明に時間がかかるので総て涙を呑んで割愛する。]

護送車が待っている。
その横にこちらを向いてグエッラが哀しげな表情で立っている。
僕は師タルコフスキイの先払いの演技をしながらも、
『グエッラって黙って立ってると、美事に「役者」やないけ』
と心の中で思ったことを覚えている。そうして、そうした総てを背後でソロニーツィンが撮っているのを背中に感じながら。
そう。そのグエッラへの感じは一種の嫉妬に近い感情であったことを告白しておく。僕は終始、僧帽を深く被っていて顔が出ないのである。ドキュメント映像には僕の顏は全く出ないのである。
タルコフスキイを載せた護送車が薄い霧の中をだんだんに小さくなってゆく…………

[やぶちゃん注:これも言わずもがな、「サクリファイス」のエンディングで狂人扱いされたアレクサンデルが救急車で運ばれるシークエンスのインスパイアである。出来れば、ここで今の覚醒した僕としては、「タルコフスキイ! また、いつか、どこかで!!」と叫びたかったのだが、夢の僕は、ささくれた唇から血を流してむっとした表情で目を大きく開いてそれを見ているばかりであった。しかしそれは「僕の村は戦場だった」のあの「イワン」の、見上げるきっとした強烈な表情にそっくりだったとは思うのである。]

諸國百物語卷之四 六 丹波申樂へんげの物につかまれし事

     六 丹波申樂(たんばさるがく)へんげの物につかまれし事

 

 たんば申樂、妻子弟子をつれ、廿人ばかりにて、京へのぼりけるが、をりふし、山なかにて日くれければ、ぜひなく、山なかにて一夜をあかしけるが、女ばう、うみ月にて、その夜に、よろこびしけるを、とやかくと、いとなみて、夜のあくるをまちければ、夜のほのぼのあけに、としのころ、廿ばかりの女、そこを、とをりけるを、申樂、見てよびよせ、

「たれ人もぞんせず候へども、よき折から、とをり給ふものかな。ちかごろ、申しかね候へども、此子を、いだき給はらんや」

といへば、

「やすき事」

とて、かの子をいだきゐけるが、人々、すこしねむりたるまに、かの女、この子があたまをそろそろとねぶりけるを、申樂、めをさまし、つくづくとながめゐければ、いつのまにか、その子を、みな、ねぶりけしたり。申樂、をどろき、弟子どもをおこしければ、廿人ばかりのもの、一どに、はつと、をきあがるとひとしく、なにものともしれず、廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる。されども、申樂一人をのこしをきけるが、又、こくうより、しわがれたるこゑにて、

「それにのこりたる男も、とれ」

といへば、かの女、申しけるは、

「この男もとるべきとおもへども、りやうかはの脇指をさしてゐるゆへ、つかまれず」

と云ふ。その時、こくうより、

「つかまれずは、たすけよ、たすけよ」

とよばはりて、かの女も、いづくともなく、きへうせけり。申樂、大きにおどろき、夜のあくるをまちゐければ、ほどなく夜もあくるとおもひければ、ひるの七つじぶんにて有りしと也。

 

[やぶちゃん注:「丹波申樂(たんばさるがく)」中世、丹波亀山(現在の京都府亀岡市)及び綾部(現在の綾部市大島)に本拠を置いた猿楽(軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物真似などの演芸を主とし、奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎に作り出された芸能。鎌倉時代頃からこれを職業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などで興行し、座を結んで一般庶民にも愛好された。室町時代になると、田楽)(平安中期頃から流行した芸能で、農耕行事に伴う歌舞から起こり、後に専業の田楽法師が現れて座も発生した。本来は田楽踊りと散楽系の曲芸が主要芸であったが,鎌倉末期より猿楽能も演じ、独自の田楽能を上演した。室町後期には猿楽におされて衰退した)や曲舞(くせまい:南北朝から室町に流行した白拍子系と考えられる芸能で、少年や女性が立烏帽子(たてえぼし)・水干(すいかん)姿で男装し、男は水干の代わりに直垂(ひたたれ)で舞った。鼓を伴奏とする拍子が主体の謠と、扇を手にした簡単な所作の舞いで、専業者のほか、声聞師(しようもんじ)なども演じた。観阿弥が猿楽に取り入れで現在も曲(くせ)としてその面影が能に残る。後期は幸若舞がその主流となった)などの要素もとり入れ、観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成された)集団。丹波に本拠地を置いた矢田猿楽、大島の梅若猿楽、それに加えて本拠地不明の日吉(ひえ)猿楽などが丹波猿楽の有力な猿楽の座であった。矢田猿楽は鎌倉時代から本座と呼ばれていた古い座で、京都法勝(ほっしょう)寺の法会や賀茂社の御土代祭(みとしろまつり)、住吉社の御田植神事などに摂津の榎並(えなみ)座や法成寺座とともに参勤、伏見の御香宮(ごこうのみや:現在の京都市伏見区御香宮御香宮門前町にある御香神社)でもかなり早い時代から永享九(一四三七)年まで楽頭職を保持し、春秋の神事に猿楽を奉仕していた(。ここではその座長を指している。

「うみ月」「産み月」。臨月。

「よろこびしけるを」目出度く出産したので。

「とやかくと、いとなみて」お産の世話や産後の看護などを滞りなく致いて。

「申樂、見てよびよせ」子の誕生を他者によって抱いて貰い、言祝(ことほ)ぎを受けようというのは、当時の通例の民俗習慣である。

「ちかごろ、申しかね候へども」このような早朝の、淋しき山中のこと乍ら。寧ろ、だからこその言祝ぎを求めてのことなのである。

「すこしねむりたるまに」「少し眠りたる間に」。出産の騒ぎで諸人(もろびと)は当然、寝ずの世話で疲れ切っていたから、みなみな、仮眠をとったのである。しかし、この睡魔は実は、変化(へんげ)の物の魔手によるものでもあったのである(最後の覚醒時の現実がそれを物語っている)。

「ねぶりけるを」舐るようにしているのを。

「その子を、みな、ねぶりけしたり」舐め尽くし消した、舐め舐めして、下ろし金(がねのような)舌で赤子をこそいで、総て完全に喰らい尽くしたのである。

「廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる」このシークエンスが美事である。赤子を舐め喰らったばかりか、座長の男を除いた二十人の者どもを皆、一瞬にして虚空に舞い上げて、餌食として掻っ攫ったのである。

「りやうかはの脇指」不詳。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『未詳』としつつ、も『「両(りょう)が刃」とすれば山人の名剣である。あるいは刀剣の名か』とある。両刃の剣は神聖な古剣の形状ではあるが、私が無知なのか、この『山人の名剣』の意がよく判らぬ(単なる山の民伝承の宝剣のいいか。こうした芸能者は海人族や放浪する「ほかいびと」を遠い出自とするから、その謂いなら、分らぬではない)識者の御教授を乞う。

「ひるの七つじぶん」午後四時頃。]

2016/10/25

譚海 卷之一 おぼこ魚の事

おぼこ魚の事

○をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也。川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す。夫より海へ入(いり)てはいなと稱す。又生長してはなよしと稱し、秋末に至りてはぼらと稱するもの也。又わかなごといふ魚漸(ようよう)生長していなだと號す。又長じて鼻しろと號す。又それより長じたるをばわらさと號す。又生大(せいだい)したるをぶりと稱す。又長大したるをば大いをと號す。これはまぐろほどの形に成(なり)たるときの事也と、相州三浦の人かたりし。

[やぶちゃん注:前段(「をぼこ」から「ぼらと稱するもの也」までは出世魚である鯔(ぼら:条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)の呼称の変わり方を示したもので、「わかなご」以下の後段は同じく出世魚である鰤(ぶり:スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata)のそれを述べたものである。

 但し、この呼称は地方によってかなり異なる。まず、ボラの場合、本「譚海」では、

      ヲボコ(オボコ) → スバシリ → イナ →ボラ

であるが、現行では(ウィキの「ボラに拠った)、

●東北 コツブラ→  ツボ  → ミョウゲチ → ボラ

●関東 オボコ → イナッコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド

●関西 ハク  →  オボコ  → スバシリ → イナ → ボラ → トド

●高知 イキナゴ→  コボラ  →  イナ  → ボラ → オオボラ

老成した、がっしりした大型個体を指す「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから、後に「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった。「イナ」は、若い衆の月代(さかやき)の青々とした剃り跡を青年魚の青灰色でざらついた背中に見立て、俠気(きょうき)に富んで身のこなしが粋なさまをいう「鯔背(いなせ)」に基づくとも、若い衆が粋をこれ見よがしに示すために、髷の形をピンと跳ね上げたのを、この青年魚の背鰭の形に譬えたとする説もある。幼年魚の「オボコ」は子供などの幼い様子や「可愛らしい」の意の「おぼこい」の語源とされ、また「未通女」と書いて「おぼこ」と読んで「処女」をも意味した。「イナ」はボラの幼魚で十八~三十センチメートルまでのもの、「名吉(みょうきち・みょうぎち・なよし)」などとも呼ぶ。以上、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」(現在の神奈川県の三浦)と、現行の関東(関西も)の呼称はよく一致する

 一方、ブリは本「譚海」では、

    ワカナゴ→イナダ→ハナシロ→ワラサ→ブリ→オホイヲ(オオイオ)

としているが、現行では、(ウィキの「ブリに拠る)、①稚魚(十センチメートル未満)・②二十センチメートル未満・③三十センチメートル未満・④四十センチメートル未満・⑤六十センチメートル未満・⑥七十センチメートル未満・⑦八十センチメートル未満・⑧八十センチメートル以上で区分すると、

●三陸 ②コズクラ・ショッコ→③フクラギ・フクラゲ→④アオブリ→⑤ハナジロ→⑥ガンド→⑦⑧ブリ

●関東 ③ワカシ→④ワカシ・イナダ→⑤イナダ→⑥ワラサ→⑦ワラサ→⑧ブリ

●北陸 ①ツバス・ツバイソ→②ツバス→③コズクラ→④ハマチ→⑤フクラギ→⑥ガンド・ガンドブリ→⑦⑧ブリ

●関西 ②ワカナ→③ワカナ・ツバス→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦メジロ→⑧ブリ

●和歌山 ②ワカナゴ→③ツバス・イナダ・イナラ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥ブリ→⑦オオイオ→⑧ブリ

●島根 ②モジャッコ→③ショウジンゴ・ツバス・ワカナ→④ハマチ・ヤズ→⑤メジ→⑥マルゴ→⑦⑧ブリ

●香川 ①モジャコ→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦⑧ブリ

●高知 ①モジャッコ→②モジャコ・ワカナゴ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥オオイオ→⑦スズイナ→⑧ブリ

●九州北部 ②ワカナゴ・ヤズ→④ハマチ→⑤メジロ→⑦⑧ブリ

以上やはり、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」と、現行の関東の呼称はよく一致する。なお、流通過程では大きさに関わらず、「養殖もの」を「ハマチ」、「天然もの」を「ブリ」と呼んで区別する場合もあると記す。

「をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也」ボラは河口や内湾の汽水域に多く棲息しており、海水魚であるが、幼魚のうちは、しばしば大群を成して淡水域に遡上する。

「川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す」河口付近の砂洲の浅瀬で勢いよく泳ぐボラの幼魚をよく見かけるので、この名は腑に落ちる。

「生大(せいだい)したる」成魚で成長した個体。

「長大したる」成魚の特に大きくなった個体。

「まぐろ」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus。]

甲子夜話卷之二 34 猫の踊の話

2―34 猫の踊の話

先年角筈村に住給へる伯母夫人に仕る醫、高木伯仙と云るが話しは、我生國は下總の佐倉にて、亡父或夜睡後に枕頭に音あり。寤て見るに、久く畜ひし猫の、首に手巾を被りて立、手をあげて招が如く、そのさま小兒の跳舞が如し。父卽枕刀を取て斬んとす。猫駭走て行所を知らず。それより家に歸らずと。然ば世に猫の踊を謂こと妄言にあらず。

■やぶちゃんの呟き

「角筈村」「つのはずむら」。現在の新宿区西新宿と歌舞伎町及び新宿の一部地域に相当。一部を除き、幕府直轄領であった。ウィキの「角筈によれば、地名の由来は、この『角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈』(矢の末端の弓の弦 (つる)を受けるY字型の部分。矢柄を直接筈形に削ったものと、竹・木・金属などで作って差したものとがある)『にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった』とする説を新宿区教育委員会は有力としている、とある。

「住給へる」「すみたまへる」

「仕る」「つかふる」。

「高木伯仙」不詳。

「云る」「いへる」

「話しは」「はなせしは」。

「我」「わが」。ここから「歸らず」までが高木の直接話法。

「下總の佐倉」「しもふさのさくら」。現在の千葉県佐倉市。

「寤て」「さめて」。眠りから覚めて。

「畜ひし」「かひし」。飼っていた。

「手巾」「てふき」。

「被りて立」「かぶりてたち」。

「招が如く」「まねくがごとく」。

「跳舞が如し」「とびまふがごとし」。

「卽」「すなはち」。

「枕刀」「ちんたう」。

「取て斬んとす」「とりてきらんとす」。

「駭走て」「おどろきはしりて」。

「行所」「ゆくところ」。

「然ば」「しからば」

「猫の踊」「ねこのをどり」。サイト「小猫の部屋」の年をとると猫股になる(ヴィジュアル的にも面白いページである)の「猫股のダンス」の条によれば、『鳥山石燕(とりやませきえん)の「画図百鬼夜行」』(安永五(一七七六)年)『の「猫また」を始め、猫股をモチーフとした絵画や浮世絵では、頭に手拭いを乗せて踊っている姿を多く見かけます。その端緒とでもいうべき逸話は、江戸中期』、宝永五(一七〇八)年刊の『「大和怪異記」の中に早くも登場していました』。『筑後国(現在の福岡県)に暮らすとある侍の家では、夜になると手鞠ほどの大きさもある火の玉が現れ、家人に怪をなしていた。ある日主人が何気なく屋根の上を見ると、一体何年生きているのかわからないようなすさまじい猫が、下女の赤い手拭いを頭にかぶり、しっぽと後ろ足で立ち上がって手をかざして四方を眺めているではないか。すかさず矢を射ると見事に命中し、怪猫は体に刺さった矢を噛み砕きながら死んでしまった。屋根から引き落としてみると、そのしっぽは二つに裂け、体長は五尺』(一・五メートル)『ほどもあった』とあるとし、このように元禄後期から宝永初めの一七〇〇年代初頭の『時点ですでに、「猫股が人間のように立ち上がる」という擬人化が進んでいたと考えられます』と述べられた後、それから百年以上後の本「甲子夜話」の本条の訳が示され、さらに同じく『角筈(現在の東京都新宿区)に暮らしていた光照という女性が体験した「飼っていた黒毛の老猫が侍女の枕元で踊りだしたので布団をかぶって寝た振りをした」といったエピソードが紹介されています』とある(後者は「甲子夜話 卷之七」の24「猫の踊」である)。』こうしたことから、一七〇〇年代初頭に『現れ出した「猫股は踊る」というイメージが』、百年以上『の時を経て徐々に固定化されていった流れを確認することができます』とある(「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年)。

「謂」「いふ」。

甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事

2―33 秋田にて雷獸を食せし士の事

出羽國秋田は、冬は雪殊に降積り、高さ數丈に及て、家を埋み山を沒す。然に雷の鳴こと甚しく、夏に異らず。却て夏は雷鳴あること希にて、其聲も强からず。冬は數々鳴て、聲雪吹(フヾキ)に交りて尤迅し。又挺發すること度々ありて、其墮る每に必獸ありて共に墮つ。形猫のごとしと。これ先年秋田の支封壱岐守の叔父中務の語しなり。又語しは、秋田侯の近習某、性强壯、一日霆激して屋頭に墮。雷獸あり。渠卽これを捕獲煮て食すと。然ば雷獸は無毒のものと見えたり。

 

■やぶちゃんの呟き

「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん。前者は「甲子夜話卷之八」の8の「鳥越袋町に雷震せし時の事」を指す)。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

「數丈」「すじやう」。一丈は三メートル。秋田の現在の年間降雪量二メートル七十一センチで世界でも指折り豪雪地で、一部では世界ランキング第八位とする。しかし、「數丈」は大袈裟過ぎ(私は不定数を示す「数」は一単位の六倍前後と考えているからである)。

「及て」「およびて」。

「埋み」「うづみ」。

「然に」「しかるに」。

「鳴こと」「なること」。

「却て」「かへつて」。

「希」「まれ」。

「數々」「しばしば」。

「鳴て」「なりて」。

「尤迅し」「もつともはやし」。

「挺發」「テイハツ」と音読みしておくが、意味不明。「挺」は「先に抜け出て進む・一群ら抜きん出る」意で、「發」は「爆発」の意で、これは落雷現象のことを指していると私は読む。だからこそ直後で「其墮る毎に」(そのおつるごとに)と続くのである。

「必」「かならず」。

「獸」雷獣。

「秋田の支封壱岐守の叔父中務」「支封」(しふう)とは支藩の意か。秋田藩(久保田藩)の支藩には岩崎藩があり、これは元禄一四(一七〇一)年に久保田藩第三代藩主佐竹義処(よしずみ)が弟の壱岐守義長に新田二万石を蔵米で分知したことに始まる藩で、「甲子夜話」執筆前となると、第五代藩主佐竹義知(よしちか)か、第六代藩主佐竹義純(よしずみ)である。その静山の「叔父」でもある「中務」(なかつかさ)とは、同佐竹家血縁の家臣の系列の人物か。少し後の主家久保田藩の第十代藩主佐竹義厚(よしひろ)の家臣団の中に「佐竹中務」の名を見出せるからである。

「語し」「かたりし」。

「近習」「きんじふ(きんじゅう)」或いは「きんじゆ(きんじゅ)」。主君の傍近くに仕える者。

「霆激」「ていげき」。稲妻が一気に激しく打つこと。

「屋頭」「やがしら」。棟木のことか。

「墮」「おつ」。

「渠」「かれ」。彼。

「卽」「すなはち」。

「捕獲」「とらへ」と訓じておく。

「然ば」「しかれば」。

譚海 卷之一 守宮幷やもりの事

 

守宮幷やもりの事

○守宮(いもり)女の臂(はだ)にぬりて他心(たしん)を試(こころみ)るものは、京都にてやもりと稱する物也。江戸にて山うりの持(もち)ありくは、箱根にある赤(あか)はらといふものにて、漢名龍蟠魚といふもの也。また魚をいもりと覺えあやまりたる人あり、そこつ成(なる)事と人の云(いへ)りし。

[やぶちゃん注:「守宮」本文の「守宮(いもり)」のルビは数少ない底本のルビである。しかし、この当て読み自体が既にして混乱しており、「宮」(屋形・屋敷)を「守」るのは「いもり」ではなく「宮守・屋守」で「やもり」なのである。これについては後にリンクさせる私の膨大な電子テクストと注を参照されたい。まず、ここでは、各個に単なる注を施す。和訓の「いもり」は

脊椎動物亜門両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属 Cynops の両生類である淡水中に棲息するイモリ類

を指す彼等は基本、中華人民共和国及び日本にしか自然分布しないウィキの「イモリ属」によれば、以下の種が挙げられてある。

チェンコンイモリ Cynops chenggongensis(絶滅したか)

アオイモリ Cynops cyanurus

シリケンイモリ Cynops ensicauda

フーディンイモリ Cynops fudingensis

ウーファイイモリ Cynops glaucus

チュウゴクイモリ Cynops orientalis

クァントンイモリ Cynops orphicus

アカハライモリ Cynops pyrrhogaster(後注参照)

ユンナンイモリ Cynops wolterstorffi(絶滅種)

「やもり」先に述べた通り、漢字表記は通常、「守宮」で、

脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属 Gekko の爬虫類のトカゲの仲間である陸上性で好んで人家周辺に棲むヤモリ類

を指す東南アジアを始めとしたアジア各地に広く分布するウィキの「ヤモリ属にその多くの種が列挙されてあるので参照されたい(本邦に棲息せず、和名を持たない種も多い)が、本邦の本土に普通に棲息し、我が家にも永年、一族が棲みついていて、他人とは思えない馴染みのそれは、

ニホンヤモリ Gekko japonicus

である。但し、本種は「ニホンヤモリ」と言う名でありながら、しかし日本固有種ではないので注意されたいウィキの「ニホンヤモリによれば、『江戸時代に来日したシーボルトが新種として報告したため、種小名の japonicus (「日本の」の意)が付けられているが、ユーラシア大陸からの外来種と考えられており、日本固有種ではない。日本に定着した時期については不明だが、平安時代以降と思われる』とある)。

「守宮女の臂にぬりて他心を試る」kの「他心」とは二心(ふたごころ)、他意の意で、ここでは狭義に、婦人で、言い交わした男(夫)以外の間男との実際の密通行為の既遂を指す。中国で古来、「守宮」なる生物を、練丹術や漢方で用いられてきた「朱」(辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。有毒)をある程度希釈したものを入れた中で飼育したものから調剤した薬物を、女性の素肌に塗ると、後にその女が不義の姦淫したかどうかが分かるとされたのである。これについては私の古い電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」に詳しいのでそちらをまずは読んで頂きたいが、その冒頭にも、

   *

『古今図書集成』禽虫典一八四に、『淮南万畢術』を引いていわく、「七月七日、守宮を採り、これを陰乾(かげぼし)し、合わすに井華水をもってし、和(わ)って女身に塗る。文章(もよう)あれば、すなわち丹をもってこれに塗る。去(き)えざる者は淫せず、去ゆる者は奸あり」。晋の張華の『博物志』四には、「蜥蜴、あるいは蝘蜓と名づく。器をもってこれを養うに朱砂をもってすれば、体ことごとく赤し。食うところ七斤に満つれば、治(おさ)め杵(つ)くこと万杵す。女人の支体に点ずれば、終年滅せず。ただ房室のことあればすなわち滅す。故に守宮と号(なづ)く。伝えていわく、東方朔、漢の武帝に語り、これを試みるに験あり、と」。

   *

と引き、熊楠も続けて、『『本草綱目』四三と本邦本草諸家の説を合わせ考うるに、大抵蜥蜴はトカゲ、蝘蜓はヤモリらしいが、古人はこれを混同して、いずれもまた守宮と名づけたらしく、件(くだん)の試験法に、いずれか一つ用いたか、両(ふたつ)ともに用いたか分からぬ』とし、取り敢えず彼は『かくトカゲ、ヤモリ、イモリを混じて同名で呼んだから、むかし女の貞不貞を試みた守宮は何であったか全く判らぬ』と匙を投げているのである。即ち、問題はこれで、この「守宮」が所謂、正しい爬虫類の「ヤモリ」類なのか、はたまた、ルビに振る「やもり」、両生類の「ヤモリ」類なのかが、古い時代より、全く以って錯雑してしまって、最早、その比定が出来なくなっているなのである。而して、それがその昏迷を究めたまま、本邦に伝来してしまい、ことさらに信じられるようになり、そこでは専ら「守宮」を「イモリ」と誤って理解されるようになってしまった傾向が強いのである。例えば、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」に所載する寂蓮法師の和歌に、

ゐもりすむ山下水の秋の色はむすぶ手につく印なりけり 寂蓮

というのがあるが、これはまさに古来、媚薬ともされた(後注の引用下線部を参照)井守(イモリ)の粉末には、それを女性の体に塗ると痣(あざ)となり、その女性が姦淫した時にのみ、その痣が消えるという効果があるとされた、当時信じられたそれに基づく一首であり、

……あの女の変節を即座に当てる媚薬の主である井守(イモリ)が棲んでいる山の下の清水……そこに映るその移ろい易い秋の空の気配……その水を私は両手で汲んでみる……その手にあった井守の痣が消えゆく如く……そこに示されたのは……人の移ろい易い心のそのはかない心変わりを語るシンボルであったのだ……

といった意味であろうが、これはもう平安末期には、秘薬を産み出すその生物は両生類の「イモリ」と一般に認識されてしまって定着していたことを如実に示す好例なのである。これは私の好む論考で多くのいろいろな注で綴ってきたのであるが、それを書き始めると、異様に長い注となってしまう。私が纏めてこの問題を最初に考証したのは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「蠑螈(いもり)」「守宮(やもり)」「避役(大(おほ)いもり)」辺りの注で、これは厖大でここには引けない。されば、先の南方熊楠のそれとそこを併せてお読み戴くことで、私の注にかえたいと思う。悪しからず。

「山うり」「山賣り」であるが、これは山の物を売る行商の意ではないので注意。山師(やまし:投機的な事業で金儲けをたくらむ人の意から、儲け話を持ちかけては他人を欺く人)のようなやり口で、人を騙して怪しい、イカサマ物を売りつける人のことである。

「赤はら」先に掲げた本邦のイモリの単一種で日本固有種であるアカハライモリ Cynops pyrrhogaster ウィキの「アカハライモリより引く。『本州、四国、九州とその周囲の島嶼に分布する日本の固有種で、当該地域に分布するイモリとしては唯一の種でもある。島嶼では佐渡島、隠岐諸島、壱岐島、五島列島、大隅諸島まで分布するが、対馬島には分布していない。大隅諸島では近年、生息の確認は無い。北海道や伊豆諸島などには本来分布していなかったが、人為的に移入されたものが増えており問題となっている』。『なお、奄美大島から沖縄本島にはイモリ属シリケンイモリ(尻剣井守)Cynops ensicauda とイボイモリ(イモリ科イボイモリ属イボイモリ(疣井守) Echinotriton andersoni が分布している(この二種は棲息数が減少しており、特に後者のイボイモリ絶滅危惧類(絶滅の危険が増大している種)に指定されている)。全長は十センチメートル前後で、二対四本の『短い足と長い尾をもつ。サンショウウオ類と異なり皮膚がザラザラしている。背中側は黒-茶褐色で、腹は赤地に黒の斑点模様になっている。赤みや斑点模様は地域差や個体差があり、ほとんど黒いものや全く斑点が無いもの、逆に背中まで赤いものもいる』。『フグと同じテトロドトキシンという毒をもち、腹の赤黒の斑点模様は毒をもつことを他の動物に知らせる警戒色になっていると考えられている。陸上で強い物理刺激を受けると横に倒れて体を反らせ、赤い腹を見せる動作を行う』。『イモリは脊椎動物としては特に再生能力が高いことでも知られている。たとえば尾を切ったとしても本種では完全に骨まで再生する。また四肢を肩の関節より先で切断しても指先まで完全に再生する。さらには目のレンズも再生することができ、この性質は教科書にも記載されている。多くの脊椎動物ではこれらの部位は再生できない。ちなみに、尾を自切し再生することが知られているトカゲでも、尾骨までは再生しない』。『なお、この再生能力の高さは、生態学的研究の立場からは障害になる場合がある。個体識別をするためのマーキングが困難となるためである。一般に小型の両生類や爬虫類では様々なパターンで足指を切ってマーキングしたり個体識別(トークリッピング)を行うが、イモリの場合には簡単に再生してしまう。尾に切れ込みを入れても、傷が浅ければすぐ再生する。さらに札などを縫いつけても、やはり皮膚が切れて外れやすく、その傷もすぐに癒えてしまう』。『水田、池、川の淀みなど流れのない淡水中に生息する。 繁殖期以外は水辺の近くの林や、クズなどの茂る草地の水気の多い枯れ草の下などに潜むことが多い。 日本産サンショウウオ類』(有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea)『は繁殖時期にのみ水辺に留まるものが多いが、本種の成体は繁殖期以外も水中で生活することが多い。ただし雨の日には水から出て移動することもある。冬は水路の落ち葉の下や水辺近くの石の下などで冬眠する』。『幼生も成体も昆虫、ミミズ等の小動物を貪欲に捕食する。他の両生類の卵や幼生の有力な捕食者ともなっており、モリアオガエルやアベサンショウウオなど、希少な両生類の生息地では厄介者とされる』。『和名の「井守」は、野井戸の中にも生息するので「井戸を守る」に由来するという説や、井は田んぼを意味し、水田に生息することから「田を守る」との意味に由来するという説がある』。『名前がヤモリと似ている。しかし、ヤモリは爬虫類であること、人家の外壁などに生息し一生を通じて水中に入ることがないこと、変態をしないことなどが、イモリとの相違点である』。『春になり気温が上昇し始めると、成体が水中に姿を現す。オスがメスの行く先にまわりこみ、紫色の婚姻色を呈した尾を身体の横まで曲げて小刻みにふるわせるなど複雑な求愛行動を行う。このときにオスが分泌するフェロモンであるソデフリン(sodefrin、額田王の短歌にちなむ)が』(「ソデフリン」は私の過去記事クビフリン・ソデフリン・シリフリンを参照されたい)、『脊椎動物初のペプチドフェロモンとして報告されている。メスが受け入れる態勢になると、メスはオスの後ろについて歩き、オスの尾に触れる合図を送ると、オスが精子嚢を落としメスが総排出腔から取り込む。その際にオスの求愛行動に地域差があり、地域が異なる個体間では交配が成立しにくいといわれる』。『メスは、寒天質に包まれた受精卵を水中の水草の葉にくるむように』一つずつ『産卵する。流水に産卵する種類がいるサンショウウオ類に対し、アカハライモリは水たまり、池、川の淀みなど流れの無い止水域で産卵・発生する』。『卵から孵った幼生はアホロートル』(Axolotl:有尾目イモリ上科トラフサンショウウオ科 Ambystomatidae の構成種の中には幼形成熟する個体があり、それらを総称して、かく呼称する。ほれ、昔、流行った「ウーパールーパ」だよ)『のような外鰓(外えら)があり、さらにバランサーという突起をもつ。幼生ははじめのうちは足も生えていないが、やがて前後の脚が生える。ただしカエル(オタマジャクシ)はまず後脚から生えるが、イモリは前脚が先に生える。外鰓があるうちは水中で小動物を食べて成長するが、口に入りそうな動くものには何にでも食いつくため、共食いすることもある』。『幼生は十分成長すると、外鰓が消えて成体と同じような形の幼体となり、上陸する。幼生の皮膚は滑らかだが、幼体の皮膚は成体と同じくざらざらしており、乾燥には幾分抵抗性がある。そのため、上陸した幼体を無理に水に戻すと、皮膚が水をはじいて気泡がまとわりつき、銀色に見えることがある。幼体は、森林内などで小さな昆虫や陸棲貝類、ミミズなどの土壌動物を捕食して』三年から五年かけて『成長し、成熟すると再び水域に戻ってくる『一般的に有尾類は温度変化に弱く、摂餌行動が鈍く、人工環境での長期飼育が困難な種が多い。また、現地で法的に保護されている場合も少なくない。しかし日本のアカハライモリやシリケンイモリは温度変化に強く、きわめて貪欲で、飼育に適し、個体数が多く特に保護されていなかったため、ペットとして日本のみならず欧米でも人気が高まった』。但し、二十一世紀初頭の『時点では先述のように保護地域も設定されるようになった。また、産地不明の飼育個体が逃げだしたり個体を遺棄することによる地域個体群への遺伝子汚染が懸念されている』。『イモリ類は胚発生の実験材料としてもよく用いられる。特に、シュペーマンが胚域の交換移植実験などを通じて、形成体を発見するのにイモリを用いた一連の実験が有名である』。『近年では、その再生力の強さに注目して、再生・分化などの研究に用いられることも多い。一度精子をオスから受け取ると半年以上も体内で保持されメス単独で産卵することや、卵が透明な寒天状物質に包まれており、容易に観察できる点など利点は多い』。『かつて日本では、イモリの黒焼きはほれ薬として有名であった。竹筒のしきりを挟んで両側に雄雌一匹ずつを分けて入れ、これを焼いたもので、しきりの向こうの相手に恋焦がれて心臓まで真っ黒に焼けると伝える。実際の成分よりは、配偶行動などからの想像が主体であると思われるが、元来中国ではヤモリの黒焼きが用いられ、イモリの黒焼きになったのは日本の独自解釈による』とある(下線やぶちゃん)。……因みに、私は自分の分かりもしないことを解ったふりをして引用など、しない人間である。――私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていた。――生物部では、このアカハライモリの四肢を切断し、それを再生させる実験を繰り返していた。――貴方はそんなフランケンシュタイン博士めいた実験に従事したことはあるかね?――私はあるのだよ。――まさに「いもり」の「血」塗られた手で、ね…………

「漢名龍蟠魚」不詳。このソース元が判らない。識者の御教授を乞う。

」これは山椒魚、有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ類(オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus も含まれるが、他の種群は概ね二十センチメートル以下と小型である)のこと。]

譚海 卷之一 關西の國にて牛を焚ころす事

關西の國にて牛を焚ころす事

○亦關西いづれの山中にや、牛を焚(やく)ところあり。其民里の人家にて、年來(としごろ)遣ひ盡して用にたゝざる老牛を買(かひ)とり、深山中に牽(ひき)ゆき牛を入べきほどに大きなる穴をほり、穴の中に大きなるはしらをあまたたて置(おき)、扨(さて)牛を穴の内へ驅入(かけい)れ、此はしらに牛の動かざる樣によくくゝりつけ、牛のはらのあたる所にて堅炭(かたずみ)ををこし、牛の腹をあぶる。火の盛成(さかんなる)にしたがつて牛の口中より津液(しんえき)を吐出(はきいだ)すを、器にてとり盡(つく)しとり盡しすれば、果(はて)は津液とともに肉ながれ盡(つき)て、牛は皮と骨斗(ばかり)に成(なり)て死ぬる也。牛の號吼(がうく)する聲山谷(さんこく)に振(ふる)ひ、悲痛聞(きく)にたへがたき事とぞ。その骨をば婦人のくし・かふがひ・髮なで等の用にひさぎ、小なるはそろばんの目盛板(めもりいた)、小(ちさ)き角(こま)の細工等に用ひ、粉に成(なる)をば婦人のおしろひにまぜ用(もちふ)る事、少しも殘る物なく用に立(たつ)事なりとぞ。忍人のしわざ酸鼻(さんび)するに堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:「亦」前条「同所ほひろひ幷蠟燭の事」を受けた発語の辞。ここまでこれでもかと「酸鼻するに堪」得ぬ(「堪たり」とは「~値する」で「酸鼻する」(痛ましく惨たらしいこととして、ひどく心を痛めて悲しむこと」におぞましくも相応しいの謂いであろう)、おぞましい事実(かどうかは判らぬ)を記すところは、前の条で私が津村には関西人への差別は認められないとした見解を補正すべきかも知れぬ。しかし、寧ろ、「少しも殘る物なく用に立」てる、則ち、役に立たずなった老牛を、その骨の粉まで無駄にせぬことは、やはり、私には一つの人間のプラグマティクな首肯し得る才覚に他ならない、とも感じていることも、述べておくこととはする。

「堅炭」樫(かし)・楢(なら)・栗の木などで作った質が堅く火力の強い木炭。

「津液」漢方医学で「津」(しん:陽気に基づく水分で、清んで粘り気がなく、主として体表を潤し、体温調節に関与し、汗や尿となって体外へ排泄されるものを指す)と「液」(えき:陰期に基づく水分で、粘り気があり、体内をゆっくりと流れ、骨や髄を潤すもの。体表部では目・鼻・口などの粘膜や皮膚に潤いを与えるとされる)で構成される体内の水分の総称。源は飲食物で、胃や腸に入って水様性のものが分離されて作られる。別名を「水液」「水津」「水湿」などとも呼ぶ(以上はウィキの「津液に拠った)。

「くし」「櫛」。

「かふがひ」「笄」。本来は髪を整えるための道具で、毛筋を立てたり、頭の痒いところを掻いたりするための、箸に似た細長いもの。但し、江戸時代には専ら、女性が髷(まげ)などに挿す髪飾りとなった。

「髮なで」ここは前の「くし・かふがひ」を含む整髪用の諸具の謂いで纏めたものであろう。

「ひさぎ」「鬻ぎ」。商品として売り。

「そろばん」「算盤」。

「目盛板(めもりいた)」算盤の枠に当たる縦横の板を指すか。

「小き角」「こま」は私の推定。所謂、算盤の珠(たま)の謂いでとった。

「忍人」前条にも出た。「ニンジン」と音読みしているか。残酷な性質(たち)の人の謂いであろう。]

谷の響 二の卷 十二 神の擁護

 十二 神の擁護

 

 己幼見(おさな)かりしとき、同じ記年(としばへ)なる小兒四五人と嬉戲(あそび)たるに、木の端枌(そげ)の屑など探り集めて、庭の簀墻(すがき)をかたとり一尺四方許(ばかり)に小屋を作りたりしが、一人の兒これに火を放(つけ)て火事の眞似(まね)せんにと言ふに、興ある事に覺えてその兒と倶(とも)に火を取りに往きしが、時(をり)よく厨下(だいどころ)に人のあらぬにより、焠兒(つけぎ)につけて袖にかざし方纔(やうやう)に持來り、巳に火を放けけるが、人在て擊消したるが如くにて小屋も其まゝ潰れければ、再び建て又火を放けたれどはじめの如く打消されたり。斯の如くなること四五囘(たび)になりて、遂に祖母なる人に見咎められいたく呵責られたること有しなり。然(さ)て今これを思ふに、この日は四月の頃とて風いと強き日にあれば、燃興(あが)らんには決定(きはめ)て火事になるべかりしを、かく人ありて擊消したるやうなるは、先祖の神靈(みたま)の救はせ玉ひし故なるべし。されば今吾曹(われら)がかくして居るあたりにも、人の眼にこそ見えね、いかなる神の在(ま)すかは測(し)るべからず。世の狡猾(さかしき)もの、人死して魂魄天地に歸して一物も存(のこ)れるはなければ神も靈もなしとするはいと烏滸(をこ)にて、かの阮膽が無鬼論范鎭が神滅論に泥染(なじむ)ものにて論(と)るに足らず。

 又、己が分家八五郎と言へるものゝ兒女(むすめ)、三四歳の頃にてありけん。爐の邊に嬉遊(あそん)で火中に仆れしが、直に三四尺ばかりの向ふに轉(こ)けかへりて、火の怪我もなかりしなり。八五郎夫婦は愕き怖れ、火を潔めて祭りしなり。こも現(うつゝ)に神在(まし)て助しものなり。さらでは火の心(しん)に仆れたる三四歳の幼兒の、爭(いかで)か身自(みづか)ら轉𢌞(かへる)ことを成し得んや。こは天保十年亥の事なりし。

 又、これに一般(おな)じ話なるが、東長町境屋利助の裡(うち)に於て主と説話(ものかた)れるとき、厨下の爐(いろり)に五六歳の小供二個(ふたり)爐椽(ろふち)に腰掛けながら嬉遊(あそび)居たりしに、いかゞしけん一人の小兒火の燃えたる中に眞傾(まうつむき)に俯せると見るに、忽ち蜻蛉(とんぼ)かへりして向對(むかひ)の板の間に仰けに倒れたり。着物などに火の着(つい)たれど兒には少も火傷(けが)もなし。利助目下(まのあたり)にこれを見て奇異のおもひをなし、倶に現(うつし)に神ある事を語りけり。こは天保九年の頃なるべし。

 

[やぶちゃん注:作者平尾魯僊は終生、熱心な平田神学の信奉者であったことを如実に示す一条である。しかしそれにしても、この最初の彼の実体験のシチュエーション、私は思わずタルコフスキイを思い出さずにはいられなかった「一尺四方許(ばかり)」(三十センチ四方)のミニチュアの「小屋を作り」、「これに火を放(つけ)て火事の眞似(まね)せん」とするというのは、かの遺作「サクリファイス」であり、少年魯僊が「火を取りに往き」「焠兒(つけぎ)」(点け木。火を移したりするための薄く小さな木片)「につけて袖にかざし方纔(やうやう:二字へのルビ。消えそうになるの辛うじて)に持來」るシークエンスは「ノスタルジア」のコーダの湯を抜いた温泉の端から端まで蠟燭を運ぶ奇跡成就のそれではないか!

「記年(としばへ)」「年延(としば)へ」。年恰好。年齢。

「木の端」「このは」。木端(こっぱ)。材木の切れ端。

「枌(そげ)の屑」削(そ)ぎ(材木を薄く挽(ひ)き剝いた板)の破片。

「簀墻(すがき)」普通は竹で作った垣根、竹垣を指す。

「かたとり」「象(かたど)り」。真似て。

「放けけるが」「放(つ)けけるが」。

「人在て擊消したるが如くにて」「ひとありてうちけしたつがごとくにて」。

「呵責られ」「しかられ」と訓じているようである。

「燃興(あが)らんには」「もえあがらんには」。

「烏滸(をこ)」ウィキの「烏滸」によれば(このウィキがあるとは思わなかった)、馬鹿げていて、或いは滑稽で、人の笑いを買うような有様を指す上代からあった古い和語。『記紀に「ヲコ」もしくは「ウコ」として登場し、「袁許」「于古」の字が当てられる。平安時代には「烏滸」「尾籠」「嗚呼」などの当て字が登場した』。『平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は「猿楽」として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが』、「新猿楽記」に描かれており、「今昔物語集」や「古今著聞集」など、『平安・鎌倉時代の説話集には烏滸話と呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵(おこえ)と呼ばれる絵画も盛んに描かれ』、かの快作「鳥獣戯画」や「放屁合戦絵巻」が『その代表的な作品である』。『南北朝・室町時代に入ると、「気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な」』(「日葡辞書」)『など、より道化的な意味を強め、これに対して単なる愚鈍な者を「バカ(馬鹿)」と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった』とある。

「阮膽が無鬼論」「阮膽」の「膽」は「瞻」の誤りで、「阮膽」(げんせん 生没年未詳)が正しい。陳留群尉氏(いし)県(現在の河南省内)の生まれで清談(この場合は、現実の則らずに、理屈を捏ね回して議論することを指す)を得意とすることで知られた。姓と出身地から判るが、名詩「詠懷詩」の作者、「白眼視」の故事で知られる三国時代の「竹林の七賢」の指導者的人物として知られる阮籍(二一〇年~二六三年)の孫で、父もやはり「竹林の七賢」の一人、阮咸(げんかん)である。この阮膽は三十で亡くなったとされている。この「無鬼論」(鬼神の存在を否定する思想。伝統的な儒家思想では死後の霊魂の存在が肯定されており、人間は死後、鬼神となるとされ、仏教もそれを認めていたから、ある種、かなりの異端思想である)のショート・ブラック・ユーモアは「幽明錄」「列異傳」その他、多くの作品に収録されている私の好きな話で、教師時代はオリジナルの実力テストの問題にしたりしたので、御記憶の方もあろう。四世紀に東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」の「卷十六 三七六」のそれを以下に引く。

   *

阮瞻、素秉無鬼論、世莫能難。每自謂、理足、可以辨正幽明。忽有一鬼、通姓名作客詣阮。寒温畢、卽談名理。客甚有才情。末及鬼神之事、反覆甚苦、遂屈。乃作色曰、鬼神古今聖賢所共傳、君何獨言無耶。僕便是鬼。於是忽變爲異形、須臾消滅。瞻默然、意色大惡。後年餘、病死。

(阮瞻、素より、無鬼論を秉(と)るに、世に能く難ずる莫し。每(つね)に自(みづか)ら謂ふ、「理、足りて、以つて幽明を辨正すべし。」と。忽ち一鬼(いつき)有り、姓名を通じて客(きやく)作(な)り阮に詣(いた)る。寒溫(かんをん)畢(お)はりて、卽ち、名理を談ず。客、甚だ才情有り。末(すゑ)に鬼神の事に及び、反覆すること甚だ苦しく、遂に屈す。乃(すなは)ち色を作(な)して曰はく、「鬼神は古今(こきん)の聖賢の共に傳ふる所、君、何ぞ獨り無と言はんや。僕は、便ち、是れ、鬼なり。」と。是(ここ)に於いて忽ち變じて異形(いけい)と爲(な)り、須臾(しゆゆ)にして消滅す。瞻、默然として、意色(いしよく)、大いに惡(あ)し。後(のち)、年餘(ねにょ)にして、病みて死す。)

   *

文中、「忽有一鬼」の部分は他の本の「忽有一客」の方がよい。「寒溫」は時候の挨拶。「名理」清談で扱われた事物の「名」称とその道「理」を分析する論理を指す。「反覆」議論の応酬をしたことを指す。「遂に屈す」言わずもがなであるが、鬼神などいないとする阮瞻の勝ちで、鬼神在りとする議論に負けたのは何と、客(実は鬼)の方なのである。「意色」顔色・表情。

「范鎭が神滅論」「范鎭」の「鎭」の「縝」の誤り。「范縝」(はんしん 四五〇年~五一〇年)が正しい。南朝時代の思想家で南郷舞陰(現在の河南省内)の人。「神滅論」を著わし、肉体と霊魂は同一の物であり、肉体の消滅とともに霊魂も消滅すると説き、仏教の因果説や儒教の霊魂永存説を全否定した。唯物主義的な無神論者で、梁の武帝は仏僧らを動員し、この「神滅論」を反駁させている。

「己が」「わが」。

「三四歳」数えであるから、満二、三歳と読み換えねばならぬ。

「爐」後でルビに「いろり」と振られてある。

「仆れしが」「たふれしが」。倒れたが。

「直に」「ぢきに」。直ちに。

「三四尺」九十一~一メートル二十一センチ。

「神在(まし)て」「まし」は「在」一字へのルビ。

「助し」「たすけし」。

「火の心(しん)」真っ赤に燃え盛っていた囲炉裏の芯。

「身自(みづか)ら」二字へのルビ。

「轉𢌞(かへる)」二字へのルビ。

「天保十年亥」天保十年は正しく己亥(つちのとい)。西暦一八三九年。

「東長町」現在も弘前市東長町(ひがしながまち)として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「主」「あるじ」。ここ以下は西尾の実見談である点に注意。

「説話(ものかた)れる」読みはママ。

「爐椽(ろふち)」「爐緣」。大きな囲炉裏の木枠。

「俯せる」「ふせる」。うつむくように落ち込んだ。

「着(つい)たれど」読みはママ。

「火傷(けが)」二字へのルビ。

「天保九年」一八三八年。]

諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事

 

     五 牡丹堂(ぼたんどう)女のしうしんの事

 

 もろこしに牡丹堂と云ふ所あり。人、しすれば、はこにいれ、そのはこのまわりに牡丹の花をかき、かの堂にもち行きて、かさねをくと也。ある人、つまにおくれ、かなしびのあまりに、よなよな、かの牡丹堂へゆき、夜ねぶつを申す事、日、すでにひさし。ある夜、わかき女、くびにかねをかけ、ねぶつを申し、牡丹堂へきたりければ、かの男ふしぎにおもひ、

「女の身として、なにとて此ところにきたり給ふぞ」

とゝふ。かの女、云ふやう、

「わが身、つまにはなれ候ふゆへ、かくのごとく」

とかたる。さぞあらんとて、なみだをながし、それより、つれだち、あなたこなたの墓所をねんぶつ申しあるく事、每夜なりしが、いつのほどか、たがいにあさからぬちぎりをなし、のちには男のやどへもきたり、夜とゝもにさかもりなどしてあそびけるを、となりの人、ふと、のぞきみければ、女のしやれかうべとさしむかい、さかもりしてゐたり。となりの人、ふしんにおもひ、夜あけて、かの男にかくとかたりけれ。男もをどろき、その日のくるゝをまちければ、かの女、またきたるをみれば、まことにしやれかうベ也。それより物すごくなり、三年。ひきこもり、物いみしてゐけるが、三年すぎて、きばらしにとて、小鳥をおとしにいでけるが、すゞめを一ひきおふてゆくほどに、このすゞめ、牡丹堂のうちへ、にげいりぬ。かの男、この堂のうちまでおひゆくとみへしが、ほどなく、みへず。下人ども、ふしぎにおもひ、はこどものかさねてあるを見れば、血のつきたるはこあり。このはこのうちをみければ、女のしやれかうべ、かのをとこのくびをくわへてゐたりけると也。かの女のしうしん、三ねんすぎたれども、つゐに、男をとりけると也。

[やぶちゃん注:本話は、かの知られた明代に瞿佑(くゆう)によって著された怪異小説集「剪灯新話(せんとうしんわ)」の「卷二」に所収する「牡丹燈記」に基づく翻案怪談で、本「諸國百物語」の中で唯一の中国を舞台とした話である。

 原話は典型的な中国の民俗伝承として今も一部では強く信じられている冥婚譚で、元末(プロローグは至正二〇(一三六〇)年正月十五日元宵節(げんしょうせつ:現行でも「灯節」と呼ぶ。これは本行事の道教に由来する部分で燈籠を飾って吉祥を呼び込んで邪気を払う意味がある)の夜)の明州鎭明嶺下(現在の浙江省寧波市内)の「湖心寺」(本話の牡丹堂の原型)近くを舞台とし、主人公は書生「喬某」、「符麗卿(ふれいけい)」と「金蓮」(実は遺体に添えられた紙人形の女中)が亡霊と侍女の名である。前半は概ね、本話のような展開であるが、後半部があり、そこでは冥婚した二人と金蓮の霊の出現による騒ぎが発生、それを四明山の「鐡冠道人」が調伏し彼らを九幽の獄(所謂、仏教の地獄と同じい)へと送るという展開となっている。

 恐らく同原話の最初の本格的翻訳は「奇異雜談集」(貞享四(一六八七)年)であるが、それ以前に、舞台を本邦に移しながら、かなり忠実な翻案がなされてある浅井了意の「伽婢子(おとぎぼうこ)」の「卷三」の「牡丹燈籠」(寛文六(一六六六)年刊で本書(延宝五(一六七七)年刊)の十年前)があり、「西鶴諸國ばなし」(貞享二(一六八五)年)の「卷三」に載る「紫女」などを始めとして、多くの近世怪談に作り変えられ(その最も自由な換骨奪胎の名品は、私は、私も愛する上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「吉備津(きびつ)の釜」であると信ずる)、近代では三遊亭圓朝の落語の怪談噺「牡丹灯籠」にとどめを刺す。言わば「牡丹燈記」はそうした怪談の「流し燈籠」のようなうねりを持って連綿と続いている流れの、その濫觴であり、私も高校時代の漢文の授業で出逢って以来(厳密には担当の蟹谷徹先生のオリジナル翻案のお話として聴き、サイコーに面白かった記憶が最初である)、今に至るまで激しく偏愛してきている作品である。さしれば、以下の注では変則的に批判染みた文々(もんもん)のあることを最初にお断りしておく。悪しからず。

「牡丹堂(ぼたんどう)」読みはママ。「どう」は「だう」が正しい。これは「牡丹燈記」の「燈」(とう)の発音を単に誤ったもののようにも感じられる。太刀川清「牡丹灯記の系譜」(平成一〇(一九九八)年勉誠社刊)でも聞き誤りとされておられる。

「人、しすれば、はこにいれ」「人、死すれば、箱に入れ」。

「牡丹の花をかき」「牡丹の花(の意匠)を畫き」。

「かさねをくと也」「重ね置(お)くなり」。歴史的仮名遣は誤り。筆者はこの誤認した「牡丹堂」を、棺を仕舞い置く納骨所のような御霊屋(みたまや)と認識しているようである。

「つまにおくれ」「妻に遲れ」。妻に(先立たれて、自分はそれに、死に)遅れて。

「夜ねぶつ」「夜念佛」。これは後の様子から見ても、単に堂に籠って念仏をするのではなく(それならば「源氏物語」の「夕顔」の死の夜の無言念仏のように、普通に古く平安時代からある)、夜間に墓所などを巡りながら念仏を唱える、奇怪な勤行(こんなことを夜間にするのは本邦では呪いのようなもの以外ではあり得ない)のように思われる。

「かね」「鉦」。銅などで作った平たい円盆形の打楽器。ここでのそれは直径十二センチほどの小型の首から掛けるもので、小さな木槌か桴(ばち)状の撞木(しゅもく)で打つ伏せ鉦(がね)。

「つま」「夫(つま)」。

「はなれ」「離れ」。死別し。

「さぞあらん」さぞや、つらいことであろう、と。鰥夫(やもめ)となった我が身の悲しみと重層させての慰みの言葉である。

「あさからぬちぎりをなし」「淺からぬ契りを成し」。もう早速に関係を持ってしまうのである。

「夜とゝもにさかもりなどしてあそびけるを」「夜とともに(夜ともなれば)酒盛りなど(さえ)して(二人しっぽりと楽しく)遊びけるを」。最早、ともに亡き人の供養の思いは失せているのである。

「女のしやれかうべとさしむかい」「女の髑髏と差し向かひ」。「むかい」は歴史的仮名遣の誤り。なお、一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」のここへの脚注には、『男の死んだ妻が、別な女となって現れ、男と歓をつくすことを暗示』とするが、私は従えないこの女は、あくまで別な女――この牡丹堂に葬られた、恐らくは生前、男性と交わりのなかった処女の女の霊――と私は読むし、読みたい人種である

「ふしん」「不審」。

「かの女、またきたるをみれば、まことにしやれかうベ也」ここは叙述が粗く、何をどうしたら、彼女が髑髏(しゃれこうべ)と視認出来たのかをスポイルしてしまったために、話柄としてのリアルな落ち着き(これこそ怪談の要衝である)がなくなってしまっている。厠に行くふりをして、隣人と一緒に隣人の屋敷の塀の隙間なり、或いは戸外から外障子を垣間見するなりの、現実と異界との境界にあるスリット空間による衝撃の実相映像の提示シーンを添えなければ、怪談としては全く以って失格である。

「物すごくなり」「もの凄くなり」。激しい恐怖が襲ってきて。

「物いみ」「物忌み」。

「きばらし」「氣晴らし」。

「小鳥をおとしにいでける」鳥刺し(鳥黐(とりもち)を塗った竿を用いて小鳥を捕らえること。一般庶民の場合は遊興と専ら食に供するためである)に出た。殺生を成す男を描出するところは、筆者が男に応報性を持たせるように設定している臭さを私は感じる。こんなところに小手先の智恵を使うのだったら、もっと他の箇所の描き込みにこそ徹するべきであったと私は思う。

「下人ども」複数形であり、この主人公の男はそれを持てるだけの相応の人物であったことが知れる。

「はこどものかさねてあるを見れば」「箱(棺桶)どもの、重ねてあるを見れば」。

「血のつきたるはこあり。このはこのうちをみければ、女のしやれかうべ、かのをとこのくびをくわへてゐたりけると也。かの女のしうしん、三ねんすぎたれども、つゐに、男をとりけると也。」「血の附きたる箱あり。この箱の内を見ければ、女の髑髏(しやれかうべ)、彼(か)の男の首を銜(くは)へて居たりけるとなり。彼(か)の女の執心、三年過ぎたれども、遂(つひ)に、男を獲(と)りけるとなり。」。幾つかの歴史的仮名遣は誤り。このコーダのシークエンスは実にオリジナリティがあり、素晴らしく映像的である。それだけに中間部をもっと落ち着いて描いて欲しかった。そこが返す返すも残念である。] 

2016/10/24

譚海 卷之一 同所ほひろひ幷蠟燭の事

同所ほひろひ幷蠟燭の事

○大坂は商賣利勘(りかん)の事には、錐毛(すいもう)まで心を用(もちひ)る所なり。蠟燭なども江戸にてつかふ所三分二は大坂より下(ぐだ)す蠟燭にて事足(ことた)り、三分一江戸にてこしらゆるをつかふ事也。價(あたひ)の廉(れん)なるをもちて也。江戸にてこしらゆるろうそくは、漆(うるし)の實(み)を製したるに油等をまぜ遣ふゆへ、價限(かぎり)ありて廉ならず。大坂の下(くだ)りらうそくは、全體生蠟(なまらふ)にてこしらへたる物にあらず、皆魚油獸肉などをさらしかためたる物にてこしらゆる也。甚しきものは人肉をも用る事とぞ。大坂牛馬(ぎうば)の外狗肉(くにく)も多し。それゆへ大坂に犬とりといふもの有(あり)て、非人にもあらず穢多にもあらず、毎日わらにてこしらへたるかますを肩にかけ町をありく。路頭に死たる犬あれば皆取歸りて蠟にす。忍人なるものは死(しに)かかりたる犬などをみれば、打殺(うちころ)してもち歸る故、諸(もろもろ)の犬是(これ)をしりて、かますをかたげたる人をみれば、打殺さるゝ事をしりて、其人を犬ことごとく吠(ほゆ)る也。扨(さて)又竊(ひそか)に刑罪に行(おこな)れたる人の死骸をもとめ、土中に埋(うづ)めをけば、毎朝埋めたる土の上へあぶらの樣なるもの吹出(ふきいだ)しあり。それを竹のへらにて、こそげ取(とり)こそげ取、數日の後あぶら吹出(ふきいで)ざれば、其(その)埋(うづ)みたる死骸を掘出(ほりいだ)し見るに、肉は皆土氣(どき)に吸盡(すひつく)して白骨計(ばか)り殘り有(あり)とぞ。牛馬狗肉などひとつに集め、鍋にてせんじ油のごとく成(なり)たるを、風をあておけば氷(こほり)てかたまる、それを大き成(なる)をしき樣のものの内へくだき入(いれ)て、庭中などへ置(おき)、寒中日にさらし、一日に幾度となく箒(ほうき)に淸水をひたし肉にそゞく、三十日ばかりあればせうふ或はくずの粉のごとく白くされる也。扨(さて)その肉をあつめ釜にてせんじ、匂ひぬきといふ藥をもちて諸肉の腥臊(せいさう)をぬきとり、釜のまゝひやしをけば蠟のごとくかたまる。それをもちてこしらへ出(いだ)す事なれば、價も廉なる事なり。利を競ひ地利(ちのり)をつくし、工(たくみ)を用る事、大坂の人にはなずらふるものなしとぞ。

[やぶちゃん注:「同所」前の「大坂豪富の者、通用金の事」を受けた謂いで、大坂を指す。なお、筆者の津村淙庵は京都生まれで、後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達(ごようたし)を勤めた者で、関西人への差別意識は今までの叙述では私は感じない。この話も今の感覚から言えば、トンデモないことを書いている部分もあるが、私は概ね正しい事実記載と思うし、それが津村の大坂人蔑視を根底とするものとも思わぬ。

「ほひろひ」不詳。隠語や差別用語として近似するものを調べて見たが、出てこない。当初は「ほ」は「死骸」の意味かとも思ったが、そうした意味は見出せなかった。次に頭に浮かんだのは「脯」で「脯肉(ほじし)」であったが、これは「干し肉」の謂いで、この場合に全くそぐわないのでダメ。最後に思いついたのは、要は「歩いて犬の死骸を拾う」のだから『「步拾ひ」ではないか?』で私の中では強引に決着させてしまった。識者の御教授を乞うものである。

「利勘」何事にもまして何より利害得失をまず計算して取り掛かること。損得に敏感で抜け目がないこと。もっとフラットな意味なら、経済的なことを言う。

「錐毛」対象がごくごく小さく僅かなことを言っている。

「廉」安価であること。

「漆(うるし)の實(み)を製したる」これは所謂、「木蠟(もくろう)」「生臘(きろう)」と呼ばれるもので、ムクロジ目ウルシ科Anacardiaceae の櫨(はぜ:ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)や漆(ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)の果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蠟を指す。ウィキの「木蝋」によれば、『化学的には狭義の蝋であるワックスエステルではなく、中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分とする』。『搾ってからそのまま冷却して固めたものを「生蝋」(きろう)と呼び、さらに蝋燭の仕上げ用などにはこれを天日にさらすなどして漂白したものを用いる。かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶(つや)出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。このため商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた』。『長崎県では島原藩が藩財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培奨励をしたので、島原半島で盛んにハゼノキの栽培と木蝋製造が行われた。特に昭和になってから選抜された品種、「昭和福櫨」は、果肉に含まれる蝋の含有量が多く、島原半島内で広く栽培された。木蝋製造は島原市の本多木蝋工業所が伝統的な玉絞りによる製造を続け、伝統を守っている』。『愛媛県では南予一体、例えば内子(内子町)や川之石(八幡浜市、旧・西宇和郡保内町)は、ハゼノキの栽培が盛んであった。中でも内子は、木蝋の生産が盛んで、江戸時代、大洲藩』六『万石の経済を支えた柱の一つであった。明治期には一時、海外にも盛んに輸出された』とある。ダブる記載が多いが、ウィキの「蝋」の「木蝋(生蝋)」の部分も引いておく。まず「ハゼ蝋」の項。『ハゼノキの果実から作られる蝋。主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる』。『日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。日本以外では"Japan wax"と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』。二十一『世紀初頭の現在において海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである』。『木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪で』、『主成分はパルミチン酸 CH3(CH2)14COOH のトリグリセリド』。以下、「ウルシ蝋」の項。『ハゼノキと近縁なウルシの果実からもハゼ蝋と性質のよく似た木蝋が得られる』。『江戸時代、東北など東日本が主産地だったが、ハゼ蝋に押され、現在の日本ではほとんど生産されていない』。『主成分はハゼ蝋と同じパルミチン酸グリセリド』である、とある。アカデミストでウィキ嫌いの連中のために、「日本特用林産振興会木蝋」公式サイト内の「未来を拓く産業としての<木蝋>」をリンクさせておく。製造工程が画像で示されておる。また、そこには「木蝋日本地図の実産地と木蝋スポット」「櫨の実の生産量」「木蝋の生産量/輸入量/輸出量/消費量」「木蝋の輸出量と輸出先」(総てPDF)といった学術教信奉者にはこたえられないヴィジュアルな正式資料もある。どうぞ! しかし、ちょっと不思議なのは、このハゼ蠟もウルシ蠟もその原料は西日本が圧倒しているんだけど? ちょっとこの話と合わなくない?

「價限(かぎり)ありて」原材料及びその加工過程等から値段を下げるには限度があって。「魚油獸肉」「魚油(ぎよゆ)・獸肉」。

「かます」漢字では「叺」と書く。藁莚(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋。穀物・塩・石灰・肥料などを入れる。

「忍人」「ニンジン」と音読みしているか。その「犬とり」の中でも残酷な性質(たち)の人の謂いであろう。

「かたげたる」「担げたる・肩げたる」で、肩に(かますを)「載せて(担いで・担(にな)って)いる」の意。

「へら」「箆(へら)」。

「氷(こほり)てかたまる」これはゼラチンを含んだそれが煮凝ったものと当初は読んだが、直後の次なる製法中に「寒中」とあるので、実際に見た目、凍る部分もあるようである。

「をしき」「折敷」。へぎ(杉材や檜材を薄く剝いだ板)を折り曲げて縁(ふち)とした角盆或いは隅切りの盆。足を付けたものもある。近世以降は食膳としても用いた。

「くだき」「碎き」。

「せうふ」歴史的仮名遣の誤りであろうと思われ、これは「しやうふ」で、「正麩(しょう ふ)」のこととであると推定する。小麦粉に食塩水を加えて捏ね、それを水洗いして小麦の蛋白質(グルテン)と分離させた小麦の澱粉(でんぷん)。糊などに利用する。

「くず」「葛」。マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata

「せんじ」「煎じ」。

「匂ひぬき」「匂ひ拔き」。どのような薬かは不詳。

「腥臊」「腥」は「生臭い臭い」、「臊」は「生臭い」と「脂」の謂いがあるので、むっとした生臭く脂臭い耐えられないような臭いのことと考えてよい。

「地利をつくし、工を用る事」この場合、前述の内容からいうと、犬殺しの対象となるような野犬が多いとか、死人の骸とかを入手し易いとかは、人が集まる都会ならではの「地の利」ではあろう。また、それらの獣の肉を巧みに処理して蠟を精製するのは、確かに巧みなる匠(たくみ)の技とは言えないだろうか? 私は「言える」と思う。

「なずらふるものなし」匹敵し得る者はいない。]

甲子夜話卷之二 32 紀州、奥州の地より象骨出し事

2-32 紀州、奥州の地より象骨出し事

先年多紀安長の話しは、佛氏彌勒の世と云ふことを説く。これ妄言とも謂れず。紀州熊野の山中にて大骨見出せり。全く獸骨なり。一は羽州最上川の水濱より、同き大骨出づ。共に象骨なるべしと評す。奈んとなれば、德廟の時、異邦より御取寄の象、死して後其骨を某の處某寺に納て在り【處、寺、共忘】。此骨全く紀羽の地より出し物と同じ。然ば吾國にも、上古此獸有りて、今は無くなりしものか。

■やぶちゃんの呟き

「多紀安長」「たきやすなが」。奥医師であった多紀元簡(もとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)。ウィキの「多紀元簡」によれば、『名は元簡、字は廉夫、幼名は金松、長じて安清、安長と改め』たとある。医師『多紀元徳(藍渓)の長子として生まれる。儒学を井上金峨に、医学を父について修め』、安永六(一七七七)年に第十代将軍『徳川家治にお目通りが許される』。寛政二(一七九〇)年、『老中の松平定信にその才を信任され奥医師に抜擢、法眼に叙せられ』、第十一代『徳川家斉の侍医となる』。寛政三(一七九一)年に『父の主宰する躋寿館が官立の医学館となると』、『その助教として医官の子弟の教育にあたった』。寛政六(一七九四)年に『御匙見習とな』寛政一一(一七九九)年に父が致仕し、家督を相続、同年八月には『同族の吉田沢庵とともに御匙役となった』が、享和元(一八〇一)年、『医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された』。文化三(一八〇六)年に『医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した』。文化七(一八一〇)年には『再び奥医師として召し出されたが、その年の』十二月に急死した。『考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの伊沢蘭軒・多紀元堅・小島宝素・渋江抽斎・森立之らにみる考証医学を確立した』とある。静山より五歳年上。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、かなり以前の本人からの聞き書きである。

「話しは」「はなししは」。

「佛氏」仏教。

「彌勒の世と云ふことを説く」「弥勒下生経」などでは、弥勒菩薩は現在、兜率天(とそつてん:欲界六天(天上界の内、未だ欲望に捉われる六つの天界。四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)の第四天)にあって説法しており、釈迦入滅後から五十六億七千万年後に我々のいる地上に下生(げしょう)し、釈迦の説法に漏れた無数の衆生を救済するとする。ここはその途方もない未来の時間を過去に敷衍した時間認識を指す。

「紀州熊野の山中にて大骨見出せり。全く獸骨なり」不詳。紀州からは現在、中生代ジュラ紀の放散虫化石などの産出が認められるから(和歌山県立日高高校教諭寺井一夫氏の化石層序(PDF)を参照されたい)、古代恐竜の骨などが見つかってもおかしくはないし、日本にはナウマンゾウ(哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウPalaeoloxodon naumanni)が棲息していた。ウィキの「ナウマンゾウ」によれば、『はっきりとした年代は不明だが遅くとも』六十五万年~二万年前頃には『すでに出現していたのではないかと思われ』約二万年前頃から衰退し、約一万五千年前の『新生代更新世後期まで』棲息していたとあるから、その化石とも考え得るが、学術上の出土と確認は近代以降で、江戸時代の「紀州熊野の山中」や「最上川の水濱より、同き大骨出づ。共に象骨なるべし」というような事例の実記録は確認出来なかった。但し、同ウィキに『ナウマンゾウなどのように大型の動物の歯や骨の化石は「龍骨」(または「竜骨」)と呼ばれ、古くから収斂薬、鎮静薬などとして用いられてきた。正倉院には「五色龍歯」(ごしきりゅうし)と呼ばれるナウマンゾウの臼歯の化石が宝物として保存されている』とあり、日本各地から大型爬虫類(恐竜)や哺乳類の化石は古くから出土していたことは間違いない。これらの紀伊半島や最上川からの江戸期の化石出土について詳しい知見をお持ちの方の御教授を乞うものである。

「奈んとなれば」「いかんとなれば」。どうしてそう断言出来るかというならば。

「德廟」徳川吉宗。

「異邦より御取寄の象、死して後其骨を某の處某寺に納て在り」この詳細は私の電子テクスト注耳嚢 巻之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事で詳細に注してある。是非、読んで頂きたい。

「共忘」「ともにわすれたり」。

「然ば」「しからば」。

「吾國にも、上古此獸有りて、今は無くなりしものか」そうなんですよ、静山先生!

甲子夜話卷之二 31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事

2―31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事

淇園先生の門人【名忘】、或日一人言ふ。大佛殿の巨鐘も一人にて動すべしと。一人は巨鐘決して動くべからずと云ふ。因て翌日兩人彼處に往く。其一人、朝より掌を以て彼鐘を推す。如ㇾ此くすること良久して晝に及び、遂に未刻にも至れる比、鐘少しづゝ動くと覺えしが、稍々動きて纔人目にかゝる程に動きしが、後は次第に動出て、人力を仮らずして自ら動たり。因て前日動ずと云し人も、閉口して服したりと云ふ。物の積功知るべし。

■やぶちゃんの呟き

「京大佛の巨鐘」この「京」は広義の旧の「京師(けいし)」「みやこ」の意で奈良を指し、「大佛」は東大寺のこと。東大寺の鐘楼は大仏殿から二月堂の方向へ坂道を登った先にある。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼(かいげん)と同年の天平勝宝四(七五二)年の製で、中世以前の梵鐘として現存するものとしては最大のものである。総高三・八六メートル、口径二・七一メートル、重量は実に二十六・三トンもある。古来、東大寺では文字通り、「大鐘(おおがね)」と呼称し、俗では擬人化して「奈良次郎」とも呼んでいる。

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)ウィキの「皆川淇園」によれば、『淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある』。『生まれは京都』。東福門院御殿医皆川春洞の『長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれ』、四、五歳頃には『杜甫の詩を覚えていたと』される。『伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学』び、『易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた』。宝暦九(一七五九)年より『京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始め』、『また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こ』してもいる。『絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受け』たという。晩年の文化二(一八〇五)年には『様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた』が、『志半ばにして、翌年』、七十四で没した。門人は三千人に『及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる』。『京極の阿弥陀寺に葬られ、墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る』(下線やぶちゃん)。静山より二十五歳年長である。

「名忘」「名は忘れたり」。

「動すべし」「うごかすべし」。動かすことが出来る。

「彼處」「かのところ」。

「朝より」「あしたより」。早朝より。

「掌」「てのひら」。

「彼鐘」「かのかね」。

「如ㇾ此く」「かくのごとく」。

「良久して」「ややひさしうして」。

「未刻」「ひつじのこく」。午後二時頃。

「比」「ころ」。

「稍々」「やや」。

「纔」「わづか」。

「人目にかゝる程に動きしが」通常の人が普通に見て、何だか動いていないか? と僅かに視認出来るほどだけ動いたように見ていたが。

「動出て」「うごきいでて」。

「人力を仮らずして」「人力」は「じんりよく」。他の人の助力(じょりょく)を借りることなく、ただ一人の、それも掌だけに加えた力だけで。

「自ら」「おのづから」。自発の意。

「積功」一派には「積功累德(しやくくるいとく(しゃっくるいとく))」で使う仏語で、修行に励み、功徳を積み重ねること。ここは一般的な意味で小さな物の積み重ねが大きな成果を産み出すの謂い。

谷の響 二の卷 十一 夢魂本妻を殺す

 十一 夢魂本妻を殺す

 

 天保年間、三ツ橋某と言へる人靑森勤番の時(をり)、一人の婦人(をんな)と語らひしかど、家婦(つま)ある身にしあれば夫婦にも成りがたく、左右(とかく)するうち任(ばん)も畢りて弘前に上りぬれば、互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける。さるに明る年復勤番にあたりて靑森に往き、いよいよ深く契けるに女も妻のある事を恨み喞(かこ)てるばかりなり。

 一日(あるひ)この女宿(やど)なる嬶に語りけるは、過刻(さき)に轉寢(うたゝね)の夢のうちに三ツ橋氏の家に至りて見れば、主の妻なる人はいと淸艷(きよげ)にて衣服を縫ひてありしかば、あまりに嫉(ねた)たく思はれてかれが咽喉(のんど)へ噉(く)ひつけば、母と小兒(ことも)の起噪(たちさわぐ)にその場を去ると見て覺めたるが、今に口の中惡く胸悶悸(どきつく)は何なる事にやと問(たづ)ぬれば、宿の嬶は冷愁(こさびし)き事を言ふ人とて不應(とりあへ)ず、他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ。然(さ)るにその夜晨(あけ)近くなりて勤番所へ駛步(ひきやく)來りて、三ツ橋氏の妻頓死(とんし)したる事を訃音(しら)するに、三橋氏極太(いたく)愕き官曹(やくしよ)に願て宿に歸り、容子を問(たづ)ぬれば母の言へるは、昨日午下(ひるすぎ)のことなるが何處(いづく)より來りけるにや人魂の如きもの飛來りて、息婦(あね)が縫裁(しごと)して居る邊房(へや)へ入るよと見るに、忽ち呀呵(あゝ)と叫ぶ聲に愕き駈入りて觀れば、無慙(むざん)や息婦(よめ)は咽喉(のど)傷(やぶ)れて絶入りたるに、急(にはか)に騷いで藥用をすれども、命門(きゆうしよ)の重傷(いたで)に效(しるし)なく卽便(そのまゝ)空しくなりしなり。怎(そも)何等の冤魂(うらみ)なるか怪しくも怖ろしきものなりと泪と共に語りければ、三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば、獨すまして跡(あと)懇(ねんごろ)に弔ひけり。是よりして此女を疎厭(うと)み、又勤番も畢(をはり)たれば再び會はずして已(やみ)しとなり。この話は三橋氏の母時(をり)にふれて語り、又かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり。こは同姓なる三ツ橋某なる人の話なり。

 又、これに類する一話あり。そは寛政の年間(ころ)同國修行する二箇(ふたり)の尼ありて、倶に享年(とし)三十にも足らぬ程なるが、板柳村に來りしに一個(ひとり)の尼暑に傷(あて)られたりとて、正休寺と言へる一向宗の寺に寓居(とまり)て藥用してありけるが、院主なる人彼等が髮を薙(おろ)せる本緣(ゆかり)を問(たづ)ぬるに、一人の尼の曰、さればその縡(こと)に侍(さぶら)ふ。是にはいと奇しき因緣ありき。さるは辱しき事なるが又々懺悔して罪を亡(なく)すべし。吾はもと河内の國の者なるが、郎(をつと)と幼兒一個(ひとり)ありて倶に活業(なりはひ)を勤(いそし)みしが、奈何なる因果に有けるにや、親子三人の渡世(よわたり)難(むつかし)くなりて、いといと塞窘(なんぎ)に暮しけるが、ある日夫(をつと)の言へりけるは斯てあらんには何(いつ)の世に出べきも測られねば、吾はしばらく皇都(みやこ)に出で償身(ほうこう)し、些少(すこし)なりとも本錢(もとで)を持て下るべし。汝はそのうち辛抱して小兒を養育(はぐく)めよ。時々(をりをり)は音信(たより)を爲(な)して生業(すぎはひ)を援(たす)くべしといふて出にしが、二年暮れ三年過しても音信(たより)といふ事更にあらざれば、然(さて)は窘迫(まづしき)を厭ひて吾と小兒を棄てたるなるべし。さりとは恨めしき心かなと歎き喞(かこ)てど詮(せん)術(すべ)なければ、たゞ小兒の成長を憑(たのみ)にして遂に七年を暮したりき。左有(さる)に、ある日いたく勞倦(くたびれ)て轉寢(うたゝね)なせる夢の中に、土地(ところ)は何處か分らねどいと好き家の裡(うち)なるが、亭主(あるじ)と見ゆるは吾が郎(をつと)にて、髮結をして髮を結はせて有ける處に、二歳ばかりの嬰子(をさなご)の郎が膝へ這(はひ)上るを女房を呼んで抱きおろさせ、さも睦(むつま)しげに暮せる樣子なるに、いかにも斯くてありつれば吾等親子を忘るゝも理(ことわり)とは言ひながら、さりとは憎き爲業(しわざ)よとはからず怨炎(ほむら)燃起(もえたち)て、髮を結せる夫の咽喉に噉ひつけば、合家(かない)の者の噪ぐと觀て卽便(そのまゝ)夢は覺たるが、傍なる吾子の急(にはか)に泣出して、噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付ると呍(わめ)きたるに愕きて、手して口の邊(あたり)探しみれば、滑々(ぬらぬら)として兩頰ともに鮮血(なまち)に塗れてありければ、吾ながら寠(あさま)しくも怖ろしく惘忙(あきれ)てものも言ひ得ざるが、さりとは只得(ぜひなき)因果よと、忽ち發起(ほつき)の情(こゝろ)出來て菩提寺へ駈け往き、和尚にかくと懺悔してこれの菩提を弔はん爲め、遂に髮を薙(おろし)てかくの如くに修行に出にき。

 さるに殊に奇(あや)しきはこれなる同伴の尼にて侍ふ。そは、去(い)ぬる年其(それ)の國にてこの尼と同じ旅舍(やどや)に宿歇(とまり)けるが、認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ、國地(くにところ)及び尼になれるが由緣(ゆえん)を問(たづ)ぬるに、吾は近江の國の者にて早く兩(ふた)親に喪(わか)れ、親屬の人の扱(せは)にて河内の國より來れるといふ人を贅婿(むこ)にもらひ、親の併習(しにせ)の活業(なりはひ)をして貧しからず暮しけるが、去ぬる年の四月、郎(をつと)なる者子を愛しながら髮を結せて有けるが、女の姿の幻影(まぼろし)の如くに現れて郎の咽喉へ啖(く)ひつきしが、喉管(ふえ)に係りて立地(たちどころ)に失せたりき。こはこれ故郷に妻やありてその怨念のする業か、又馴あひし女の執念か、又生靈(いきりよう)なるか死靈なるか、何にまれ夫はかゝる非業の死を遂げぬれば、未來の追善を營みたくまた此女の怨魂をも鎭めたく、心ひとつに定めなして斯く髮を薙ぎ、諸國の靈佛を拜するなりと語られしに、聞くごとに胸に的中(あた)り、吾が身の上も委曲(つばら)に明して、かく遇ひぬる縡(こと)の奇(あや)しきは偏に亡夫のなす業ならめと、倶に感じあひつゝ同伴(つれだち)て𢌞りしなりと語りけるはいと希(めづ)らしきことなりと、この正休寺の住職の己が外祖父なる人に語れるとて、時々(をりをり)話せることなりけり。こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき。

 

[やぶちゃん注:本「谷の響」初の本格生霊譚である。

「天保年間」一八三〇年から一八四四年。

「靑森勤番」当時の藩庁は弘前であることを再確認されたい。青森は「重要な港湾」であったが、現在のような県庁所在地とは異なり、津軽藩の「地方」であったのである。ウィキの「青森市」などによれば、寛永元(一六二四)年に弘前藩が現在の青森市沿岸に港の建設を始めたという。翌寛永二年五月には弘前藩は津軽から江戸へ廻船を運航する許可を幕府より得、翌寛永三年四月には森山弥七郎なり人物に町作りを命じている。寛文一一(一六七一)年七月には藩の出先施設である「仮屋」が設置され(これは元治元(一八六四)年七月から明治二(一八六九)年十一月まで「陣屋」と称された)、元禄元(一六八八)年には安方(やすかた)町(現在の青森県青森市安方)に湊番所が置かれた。弘前城下に屋敷を持っていた藩士三橋某の青森「勤番」とは、この番所勤務のことであろう。本話より後になるが、幕末の元治二(一八六五)年には幕府より蝦夷地(北海道)への渡海地に指定された。弘前から青森までは直線でも三十四キロ離れている

「任(ばん)」勤「番」の当て読み。

「互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける」「(三ツ橋と情婦(現地妻)は)互ひの戀情(をば)、やるかたなくして(=どうにも処理しようがなくて。思い切ることが出来なくて)、人知れず(=妻や親族には内緒で)音信(おとづれ:手紙の遣り取り)を通はせける」。

「明る年」「あくるとし」。

「復」「また」。

「契ける」「ちぎりける」。

「女も妻のある事を」女も三ツ橋に正式な妻があって弘前にいることを。

「喞(かこ)てる」「かこちたる」の転訛。「託(かこ)つ」と書き、「嘆いてそれを口に出して言う・不平を言う」の謂い。

「宿」女の借りている宿(或いは長屋風の貸家)の女主人。以下の夢の具体を語るところから見ると、相当に親しい仲であることが判る。或いは、こうした「現地妻」を斡旋したり、それに部屋や長屋を貸し与えていた、「やり手婆あの」類いかも知れぬ。

「嬶」「かかあ」。

「過刻(さき)に」二字へのルビ。

「主」「あるじ」。

「淸艷(きよげ)にて」は無論、前の「妻」の形容。

「小兒(ことも)」読みはママ。

「その場を去る」自分(青森の情婦)が主語。

「惡く」「あしく」

「胸悶悸(どきつく)」「どきつく」は「悶悸」の二字へのルビ。胸がドキドキする。

「冷愁(こさびし)き事」なんとも言えず暗い淋しいこと。

「不應(とりあへ)ず」とり合わず。

「他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ」いい加減に無視して、あしらっておいた。この対応からは却って、その言葉の不吉な意味を、この老婆(海千山千の「やり手婆あ」であたならなおのこと)が確かに嗅ぎとっていた可能性の高さを示している感じが私には、する。

「駛步(ひきやく)」「飛脚」。

「頓死(とんし)」急死。

「訃音(しら)するに」二字へのルビ。上手い。

「極太(いたく)」二字へのルビ。

「願て」「ねがひて」。

「宿」この「やど」は弘前の役宅の意。藩士の官舎なのであろう。

「息婦(あね)」読みはママ。直後に「息婦(よめ)」と読んでいるのに、不審。

「縫裁(しごと)」二字への当て読み。

「邊房(へや)」二字へのルビ。

「呀呵(あゝ)」感動詞。「呀」は「ああっ!」の擬音語で、「呵」は「叫ぶ」「怒鳴る」の意。

「駈入りて」「かけいりて」。

「絶入りたるに」「たえいりたるに」。人事不省になっていたので。

「命門(きゆうしよ)」「急所」。

「重傷(いたで)」「痛手」。

「泪」「なみだ」。

「三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば」「言ひ出べき」は「いひいづべき」。「三橋氏(うじ)は、『あの青森の女だ!』と心中、思い当たったものの、とてものことに口に出して言えるようなことでもないので。

「獨」「ひとり」。

「すまして」平静を装って。

「疎厭(うと)み」二字へのルビ。

「三橋氏の母時(をり)にふれて語り」誰彼に語り。平尾にではあるまい。

「かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり」これは三ツ橋の周辺の藩士が勤番で青森の番所に勤めた折り、すげなく縁を切ったことを恨んで、飯盛り女か酌婦にでもなっていた元情婦が恨み混じりに語ったか、或いは「やり手婆あ」は藩士らの話(三ツ橋の妻の奇怪な急死事件)を耳にして、かの夢の話を思い出して、吹聴したものかも知れぬ。三ツ橋自身がかなり経って後に誰かに語ってしまったというのは、奇怪なだけでなく、不名誉な事件なれば考え難い。或いは実母にだけは、隠し仰せずして述べたとしても、である。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「板柳村」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「暑に傷(あて)られたり」暑気あたり。日射病・熱中症の類い。倒れたのは、後に懺悔する女ではなく、彼女の生霊に殺された夫の後妻の方である。

「正休寺」底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳町にある。板谷山正休寺』。前の「九 蝦蟇の智」に出て注した、弘前の浄土真宗の真教寺の『末寺として、万治二年開基という』とする(万治二年は西暦一六五九年)。青森県北津軽郡板柳町板柳土井で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藥用してありけるが」二人して仮に宿らせて貰い、薬を以ってその一人を療治致いて御座ったが。

「院主」「ゐんじゆ(いんじゅ)」と読んでおく。

「奇しき」「くしき」と読みたい。

「辱しき」「はづかしき」。

「懺悔」せめて「さんげ」と読んでおく。本邦に於いて過去の罪悪を悔いて神仏の前で告白してその許しを乞う仏教用語。本来は「さんけ」と清音であったが、近世中期以後には既に「ざんげ」の濁るようになってはいた。

「塞窘(なんぎ)」「難儀」。「窘」(音「キン」)はこれで「たしなむ」と訓じるが、その意味は「苦しむ・悩む・辛苦する」の謂いである。八方塞がりとなって辛苦すること。

「斯て」「かくて」。

「何(いつ)の世に出べきも測られねば」何時になっても全うに暮らせるようには、およそなれそうにもないので。

「皇都(みやこ)」二字へのルビ。京。彼が京に向かった(恐らくは北回り廻船に便乗させて貰ったのであろう)ことは、近江の娘と夫婦になったことからも、間違いはないようである。

「償身(ほうこう)」「奉公」。

「出にしが」「いでにしが」。

「過しても」「すぐしても」。

「窘迫(まづしき)を」二字へのルビ。「窘」は前注「塞窘(なんぎ)」を参照。

「喞(かこ)てど」読みはママ。「かこちたれど」の意であろう。前の「喞(かこ)てる」の注を参照。

「憑(たのみ)」この字は「霊がのり移る・とりつく」の意味以前に「寄り掛かる・頼みにする・よりどころ」の意が原義である。

「髮結をして」髪結いを呼んで。

「合家(かない)」「家内」。

「噪ぐ」「さはぐ」(騷ぐ)。

「覺たるが」「さめたるが」。

「泣出して」「なきだして」とここは訓じておく。

「噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付る」「噫(あゝ)! おそろし!母は何を喰ひて、かく口邊(くちばた)に血は付くる」。子の台詞。この視点移動の効果はホラー映画のように絶大であると言える。実に上手い!

「呍(わめ)きたる」「喚(わめ)きたる」。

「寠(あさま)しくも」「寠」は「小さい・寠(やつ)れる」の意であるが、「なんと卑小に、おぞましくも」の意。

「惘忙(あきれ)て」「惘」(音「マウ(モウ)」)はこれで「惘(あき)れる」(呆れる)と訓じ、「好ましくないことの意外さや甚だしさに驚く」或いは「意外なことに出合ってどうしてよいか分からなくなる」の謂いがある。「忙」はここでは「心を失って落ち着かないさま」を意味しよう。

「只得(ぜひなき)」(このような状況下では他に方法がなく)やむなく・やむをえず(~する)・(~するほか)仕方がない・しようがない」の意で、これは現代中国語でもこの文字列で通用し、他にも「只好」「只有」「不能不」などとも使う。

「發起(ほつき)の情(こゝろ)」発心。

「出にき」「いでにき」。

「其(それ)の國」どこそこの国。国名を伏せたのである。

「認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ」さりげないこの印象叙述が凄い! 見知っていたのは、他でもない! かの生霊となって夫の喉笛を嚙み切った時の映像の中で見覚えていたのである!

「扱(せは)」「世話」。

「河内の國より來れるといふ人」男は嘘をついている。そこには無意識の妻への自責の念が働いていると読む。自分の過去を変えることで、それとの関係を截ち切ろうとする意識の底にそれが窺えるのである。

「贅婿(むこ)」二字へのルビ。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。

「併習(しにせ)」「老舗(しにせ)」と同義。実は「しにせ」とは動詞の「仕似(しに)す」の連用形が元であって、「代々、同じ商売を続けている」店、由緒正しい古い店の謂いとなったものであり、「併習」(何度も同じことを繰り返してそれを習いみにつける)の文字列との親和性は強い。

「喉管(ふえ)」二字へのルビ。

「馴あひし女」「なれあひし女」。こっそりと私の目を盗んで馴れ親しんだ愛人。

「怨魂」音読みでは如何にもである。二字で「うらみ」と訓じておく。

「薙ぎ」「そぎ」と訓じておく。

「胸に的中(あた)り」総ての彼女の懺悔が激しく私の胸を打ち。

「委曲(つばら)に」こと細かに総て。

「明して」「あかして」。

「偏」「ひとへ」。

「業」「ごふ(ごふ)」。「夫のなす」なら「わざ」とも読めるが、ここはやはり「夫のな」した不実な行為、殺された「夫の」恨みの「なす」ところの、現世に生き残っている彼女らに与えられた「運命・制約・悪運」(これも「業」の意にある)という謂いであろうと考えるからである。そもそもが――夫の成した忌まわしい業(わざ)による報いの結果である――なんどと考えるようでは、彼女らは「夫」の菩提は到底、弔え得ないからである。

「己が外祖父なる人」筆者平尾魯僊の妻方の祖父。

「こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき」平尾魯僊がこの「谷の響」を如何に実証主義に基づいて書いているかを如実に示す附言である。本書は実は眉唾物キワモノの「怪奇談集」などではなく、平尾が冷徹に論理的に検証し、馬鹿馬鹿しい採るに足らぬ作り話と思われるものは一切排除し、事実或いは事実として認定出来る事件、事実性をその核心部に於いて十全に保持していると判断されるもののみを厳選して収録した、確かな「実録集」なのである。]

諸國百物語卷之四 四 ゆづるの觀音に兵法をならひし事

    四 ゆづるの觀音(くわんをん)に兵法(ひやうはう)をならひし事

Yuduru


 下總(しもふさ)のくに佐野と云ふところに兵法すぐれたる侍あり。同國に、この兵法者(ひやうはうしや)に、いかにもしてすぐれたきとおもふ人ありて、館林といふ所のをくに、ゆづるのくはんをんとて、めいよのりしやう、あらたなる觀音ましますときゝてまいり、通夜をして、この事、いのりければ、三日と云ふ夜(よ)、をくのかたより、十一、二なるかぶろ、そめつけの茶わんに人を一人、のせきたる。此ちやわんなる人のいひけるは、

「なんぢ、此ちごと、すまふを一ばんとり申さば、いのる所をかなへてとらせん」

と云ふ。

「それこそやすき事也」

とて、かのちごと、すまふをとるに、ちご、おもひのほかに力つよくて、まけしほにみへけるが、やうやうとしてひつくみ、とうど、なげつくるとおもへば、かへつてわが身、なげつけられぬ。をきあがりみれば、觀音のまへにてはなくて、いかにもけんそなる、いわがんせきの山也。こはいかにとおどろきて、いわのはな、木のえだなどにとりつきて、やうやうふもとへをり、みちゆき人を見つけ、

「佐野のかたへはいづかたぞ」

とゝへば、みち行人(ゆきひと)きゝて、

「御身はいかなる人にて、なに事をの給ふぞ」

とわらふ。かの人、いよいよふしぎにおもひ、

「こゝはいかなる所ぞ」

ととへば、

「佐渡の國也」

と云ふ。

「さて、御身はいづくより來たれる人ぞ」

と、みち行人、といければ、

「此山のうへよりきたり」

と云ふ。みち行きひと、おどろき、

「この山は、ほくさんかたけとて、人りんたへたる山にて候ふが、なにとて此山よりは、きたり給ふたるぞ。御身は人間(にんげん)にては有るまじ」

とて、みち行人(ゆきひと)もおそれて、にげさりぬ。かの人は、それより、あづまぢへかよふ舟にびんせんして佐野のさとへ歸り、あまりにふしぎにおもひ、又、ゆづるの觀音へさんけいしければ、くだんのちやわんのうちなる人また出でて、

「さてさて、なんぢはきしやうよきしやうぢき者かな。さらば所望をつたえん」

とて、兵法(ひやうはう)一とをりのひじゆつ、のこらずをしへ給ひける。それより、くだんの人、めいよの兵法しやとなり、人に刀をぬかせず。人の刀にてわが手を切らせても、きれざるごとくなるじゆつまでを、えられけると也。ちかきころまで、その子ども、江戸にありけるが、今はそのじゆつもならずと、うけ給はる也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは『觀音(きはんをん)に兵法(ひやうはう)をららひし事』。

「ゆづるの觀音(くわんをん)」「館林といふ所のをくに」ある「ゆづるのくはんをん」「あらたなる觀音」これだけの豊富で具体的なデータが挙げられながら、全く分からない。「ゆづる」は「結弦」であろうとは思うものの、まず、群馬県館林市或いはその奥の足利市の観音の名刹を調べて見たが、この名に近いものは見当たらない。万事休す。識者の御教授を乞うものである。これだけ霊験を讃えるからには東上州三十三観音霊場の中の孰れかであるようには思うのだが。

「下總(しもふさ)のくに佐野」不詳。一つ、旧下総国香取郡千田庄佐野とい地名を探し当てた。ここは推定で現在の千葉県北東部にある匝瑳(そうさ)市八日市場附近に当たるか。

「めいよのりしやう」「名譽の利生」。その利生の名の誉れも高い。

「そめつけ」「染付の茶碗」。磁器の素地(きじ)に呉須(ごす:磁器の染め付けに用いる藍色の顔料の名。主成分は酸化コバルトで、他に鉄・マンガンなどを含む。天然には青緑色を帯びた黒色の粘土(呉須土)として産出する)で下絵付けを施し、その上に透明な釉(うわぐすり)をかけて焼いたもの。青又は紫色がかった青に発色する。中国の元代に始まった製法。「藍染め付け」とも呼ぶ。

「のせきたる」「乘せ來たる」。

「此ちごと」「此(こ)の稚兒(ちご)と」。

「すまふ」「相撲」。

「まけしほにみへけるが」「まけしほ」は不詳。「負けし方(ほう)」かと思ったが、歴史的仮名遣が合わぬ。合わぬが歴史的仮名遣の誤りは本作では日常茶飯ではあるし、分らぬままに続けるのは癪なので、強引にそれでゆく。「負け気味に感じたが」の意でとっておく。「潮・汐」ではないかとも考えたが、しっくりくる意味はそれらにはない。

「やうやうとしてひつくみ」ようやっと相手を投げ飛ばせるような感じで引っ組むことが出来。

「とうど」「どうと」。オノマトペイア(擬態語・擬音語)。

「いかにもけんそなる、いわがんせきの山也」「如何(いか)にも險岨(けんそ)なる、岩巖石の山なり」。

「いわのはな」「岩の鼻」。岩の出っ張った箇所。ホールド(hold)。

「みちゆき人」「みちゆきひ(び)と」と訓じて通行人の意の一単語でとる。既出。

「ほくさんかたけ」現在の新潟県佐渡市の大佐渡山地(佐渡の北側)のほぼ中央の位置にある山。標高千百七十一・九メートルで島内の最高峰。ウィキの「金北山」によれば、古くはただ『北山(ほくさん)と呼ばれていたが、江戸時代初期に佐渡金山が発見されてから現在の名で呼ばれるようになった』とある。佐渡では神霊の宿る山として畏敬された。ここで村人が「ほくさん」と呼称しているとこころからは、本話柄は或いは佐渡金山発見直後以前、安土桃山時代後半を時代設定として置いている可能性が窺える。

「人りんたへたる山」「人倫絶えたる山」。歴史的仮名遣は誤り。人の侵入を阻む、神霊の住まう山。

「あづまぢ」「吾妻路」。

「かよふ舟にびんせんして」「通ふ船に便船して」。

「くだんのちやわんのうちなる人」「件の茶碗の内なる人」。「また」とあるが、ここでは一寸法師のような矮小人が歩いて彼の眼の前に出てきたようである。

「なんぢはきしやうよきしやうぢき者かな」「汝は氣性良き正直者哉」。

「所望をつたえん」「貴殿の所望するところの武芸の秘術を伝授せん。」。

「兵法(ひやうはう)一とをりのひじゆつ」「兵法の一通(とほ)りの祕術」。歴史的仮名遣は誤り。

「めいよの兵法しやとなり」「名譽の兵法者と成り」。その名も誉れ高き兵法(ひょうほう)者となって。

「人に刀をぬかせず。人の刀にてわが手を切らせても、きれざるごとくなるじゆつまでを、えられけると也」まず何より基本の防衛法は「対する相手に刀を抜かせない術」である。相手が隙を狙って卑怯にも刀を抜いて向かって来た場合でも第二の防衛法がある。それは「対する相手の刀で自分の腕を斬らせたかと思わせて、しかも、全く自分の手は創(きず)を負うことないというような術」で、そこまでも、この人物は体得していたということである。

「ちかきころまで、その子ども、江戸にありけるが、今はそのじゆつもならずと、うけ給はる也。」ごく最近まで、その御仁の子どもが江戸にいたということであるが、その時既に、その術をその子は操ることは出来なくなっていたと、話としては承っている。]

2016/10/23

谷の響 二の卷 十 蜘蛛の智

 十 蜘蛛の智

 

 文政の年間のよし、紺屋町の鍛冶工(かじや)金次郎と言へるもの、裡(うら)の木蔭に暑を避てありけるが、大きなる赤蜂一つ飛來りて蜘蛛の圍(かこひ)に係りたるに、蜘蛛も亦大きなるものにて互に挑みあふことしばらくなりしが、蜂竟(つい)に蜘蛛を刺し圍を脱れて飛行けり。さるにこの蜘蛛卽便(そのまゝ)圍を下り地上を這ひ行きしに、見る見る滿身(みうち)脹張(はれあがり)て動きもあへぬ程なりければ、何事すらんと眼も放さで視て居たるに、蜘蛛は苦しげに轉び𢌞る事三四囘にして、芋(いも)の葉に把(と)り着きしが、直ちにその葉を咬み又蔓をも嚙みてその汁を軀(からだ)にすり塗るに、漸々(しだいしだい)に腫(はれ)退(も)けてもとの形になりしかば、やがて糸を傳ひてその巣に歸りにき。金次郎奇異の事に思ひ、且蜘蛛の智に感じける。然(さ)てその後、近き邊(わたり)の兒童蜂に刺(さゝ)れしとていたく啼きけるに、この芋の葉を捼(も)みて摺(す)り着たれば、間(ほど)なくいたみ歇みて癒えたりと、この金次郎の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「文政」一八一八年~一八三〇年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「赤蜂」限定は出来ないが、これは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属ケブカスズメバチ亜種キイロスズメバチVespa simillima xanthoptera の地方名としてよく聴くものではある。或いは名前の「赤」に不満を感ずる方は、赤茶色の強い、やはり小型のスズメバチの一種である同属のチャイロスズメバチ Vespa dybowskii を挙げておきてもよい。

「圍(かこひ)」捕食網。

「脱れて飛行けり」「のがれてとびゆけり」。

「いたく啼きけるに」ひどく泣いているのを見かけ。

「捼(も)みて」「捼」には「押す・揉む・摺る」の意がある。

「歇みて」「やみて」。]

谷の響 二の卷 九 蝦蟇の智

 九 蝦蟇の智

 

弘化の頃なるよし、弘府(ひろさき)の一向宗眞教寺の院主庭の中を徜徉(ながめまはり)しに、木蔭に蟇と蛇とありて、蛇蟇を呑んとする勢ひなるを見て、蛇を逐(やら)ひ蟇を援けて互に遠く逐ひやりしに、其明る日復(また)その處に蛇と蟇と相對してありけるに、又々蟇を救ひて蛇を逐(お)ひやりぬ。斯の如きこと已に三四囘、其後二三日過て下僕(けらい)なるもの庭の中を掃除するに、大なる蛇の死して在るを見て住僧に告げければ、住僧來りてこれを視るに、蛇の肚内(はらうち)高く起りて動めく樣子なるに、僕をしてその肚を割(さ)かしむるに嚮(さき)の蟇ありていまだ死にもやらで、其手に一寸ばかりの鐡釘(かなくぎ)の穗先針の如くなるを持てり。僧も僕も蟇の智に感ぜしとなり。こは玄德寺の住僧の譚(ものがたり)にてありし。

 又、これと類(ひと)しきことは知遇(しるひと)なる八木橋某の話に、同じく庭の中に蛇と蟇とありて、蛇蟇を呑んと口を張りて立向へば、蟇手を擧げてその頭を擊(たゝ)くに蛇首を縮め、少時(しばし)して蛇又蟇を呑んとするに蟇も亦その頭をたゝく。斯の如くすること累囘(たびたび)なりしが、蛇の頭遂に血を流せり。八木橋氏甚あやしみ、蛇を逐(やら)ひ蟇を捕へてこれを視るに、手に五六分ばかりの錢釘を持てるが、その釘の先尖りて針のごとくありし。その智あやしむべきものなりと、この八木橋氏語りしなり。

 

[やぶちゃん注:この話、読みながら、比較的近年(二十年以内)の単行本で読んだ(書庫の底に沈んで出てこない)、沖繩でハブを撲滅するために実験された新しい事例で、ヒヨコの脚に、中央で発条(バネ)状に円を描いた針金の両端を動物性物質で出来た結節バンドで閉じ止めたものを附け、そのヒヨコをハブが習性上から丸呑みし、そのハブの腹の中で、そのバンドが溶け、その両端の針金が真っ直ぐに戻って、ハブを腹の中から外へと両側(そく)で突き刺し、それによってハブを弱らせて死に至らしめるというやり方を思わず思い出した。しかし、その後、その方法でハブが撲滅出来たという話も聞かない。実用化は案外、難しかったのだろうか? 必ずしも針金が上手くハブを串刺しにしないのではないか、という疑問は読んだ時に感じはしたのを思い出す。

「弘化」一八四四年から一八四七年。

「眞教寺」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『弘前市新寺町にある法輪山真教寺。浄土真宗東本願寺派に属する。天文十九年』(ユリウス暦一五四九年)『の開基といい、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『弘前に移る、寺禄三十石』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の真宗大谷派 法涼山 円明寺(圓明寺)& 平等山 浄徳寺  法輪山 真教寺(弘前市新寺町)で画像が見られる(因みに、この方の記事はなかなか面白い)。現在、日本庭園があるようである。(グーグル・マップ・データの航空写真)。

「徜徉(ながめまはり)しに」「徜」(ショウ/ジョウ)も「徉」(ヨウ)も「彷徨(さまよ)う」の意で、音も意味も「逍遙」と同系の単語のように見えるが、現代中国語を調べると「逍遥徜徉」という表現があり、訳して「のんびりとぶらつく」とあるから、音の近似性は偶然か。

「一寸」三センチメートル。

「鐡釘(かなくぎ)の穗先」人工の鉄製の釘の尖った方。

「玄德寺」同じく底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町にある浄土宗法源寺塔頭であった大会山玄徳寺。文禄四年』(一五九四年)『南津軽郡浪岡に開創、慶安三年』(一六五〇年)『弘前に移転したという。今はない』とある。法源寺は先の真教寺の真西に専徳寺という寺を挟んで現存するから(先のYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」にはこの遍照山法源寺(弘前市新寺町・大浦城の移築門)もある)、周辺(グーグル・マップ・データ)にあったのであろう。それにしても、まさに新寺町というだけに現在も軒並み寺が密集している。

「五六分」一・五~一・八センチ。]

谷の響 二の卷 八 燕繼子を殺す

 八 燕繼子を殺す

 

 嘉永年間のよし、青森の近江屋太作と言ふ者の家に、燕巣を造りて卵を孵(かへし)しけるが、雄(をどり)は猫の爲めにとられたりき。さるに三四日經てこの雌(めとり)、他(ほか)の雄と倶に來りて雛を養ひたるが、鷇(ひな)いまだ巣立たぬうちに後の雄として又卵を孵して倶に養へり。爾して六七日も過(すぎ)つるに、先の鷇ゆゑなく巣より落ちて三箇(みつ)とも死せり。太作の老母いたく不審(いぶか)り、死したる鷇を取上げ口を開て見るに、口の中に砂石(すな)滿ちて有りしとなり。後に産し鷇は事なく成長(なりたつ)て、巣を辭(たち)したりとなり。小鳥と言へどまゝ子を憎めるは、あやしむべき事なり。

 

[やぶちゃん注:「繼子」「ままこ」。親子の関係にはあるが、血の繋がっていない子の謂いであるから、ここでこの先の雛を落して殺したのは、後の夫であった雄の燕ということになるのだが、本当にそうだろうか? ハヌマン・ラングールやライオンの子殺しのケースのように、雌自らが「後の雄とし」(この表現は実に生々しいではないか!)た後に、新しい夫に自身の誠意(というよりハヌマン・ラングールの場合は新たな統率者となった雄に、複数の雌の中でも目を掛けて貰うための追従行為として殺害する)を示すために雌の燕が落したのではあるまいか?

「嘉永年間」一八四八年から一八五四年。]

譚海 卷之一 大坂豪富の者、通用金の事

大坂豪富の者、通用金の事

○大坂豪富の町人、奢侈(しやし)年々甚敷(はなはだしき)に付(つき)て、寶曆十三年の秋、分限に應じ用金を命ぜられ、其外嚴敷(きびしく)せんさくありて、種々の禁を立(たて)られ、是より大坂衰微のはじめとなりたりといへり。夫(それ)までは大坂豪富の者、仲間通用金と云ものをこしらへ融通せしが、是も同時に制止有けり。此仲間金止(とめ)たるは、殊外(ことのほか)大坂の差(さし)つかへに成(なり)たる事とぞ。此通用金といふは、大坂にて爲替金(かはせがね)の仲間、又大名仕送りを取扱ふ者共(ども)、百兩包(づつみ)をこしらへ、上封に銘々名判(めいはん)を連署して、包たる内は銅を小判の形に括(こしら)ひ、重さも富商の斤目(きんめ)にひとしく調置(ととのへおき)て、急に金子(きんす)入用の時は、眞(もこと)の小判にまぜつかひし故、巨萬の金も即時に辨ずる事にて、甚だ融通よろしかりきと。若(もし)右百兩他國へ遣す時は、上封の各判ある方へ持行(もちゆけ)ば、そのまゝ眞金(しんきん)に引(ひき)かえらるゝゆへ、數萬金の通用手つかふ事なし。全體銀札を遣ふよふなるもの也。夫よりは猶(なほ)慥成(たしかなる)物也(なり)。大坂の通用は過判此封金にて自由したるを、制止ありしより奢侈の徒(と)も一時に困窮に及びしとぞ。

[やぶちゃん注:「通用金」これは特殊な謂い方で、ここで説明されているように、一種の為替物件(預金証書や小切手のような機能)を有した、実際の額面の金貨・銀貨が包まれたものではないが、しかし、そこに署名された当該グループの為替金システムに参加している複数の商家・町人の誰かのところにその包を持って行けば、当該額面の通貨に換金してくれるというグループ内で仮通貨を指す。これは正直、私は読むまで知らなかったが、確かに、急に大金の用立てを複数から頼まれた豪商は、手持ち金では不足することも往々にしてあったに違いなく、これはすこぶるよい手立てであったに違いない。大阪では後には完全に紙と化した「銀目手形」(預かり証。現在の預金通帳のようなもので、銀貨は重く大量に持ち歩けないことから、現金を両替商に預けおいて必要に応じて引き出すシステムを採った)が主流ともなったらしい。江戸でもこうした金銀包があったが、これは内容物は正真正銘の等価金銀通貨が厳封されたものであって、それによって気風(きっぷ)のいい江戸商人連は逆に信用を高めたらしい(江戸のそれは山口健次郎氏の論文「江戸包金銀て」(PDF)を参照されたい)。

「寶曆十三年」一七六三年。

「用金」御用金。幕府や諸藩が財政難に対処するため、御用商人などを指名して臨時に募集(事実上は強制)した金銭。幕府では宝暦一一 (一七六一)年から慶応二(一八六六)年まで、実に十七回も賦課しており、償還が建前であったものの、償還されなかった(出来なかった)こともあった。

「せんさく」「穿鑿」。

「種々の禁を立(たて)られ」この「られ」はそうした金銭貸与要請の強制をかけた幕府に対する尊敬語。

「仲間金」「なかまがね」と読むか。

「重さも富商の斤目(きんめ)」実際の豪商が持つ実包む(じっぽう)の金銀包と同じ目方。重かろうにと思うが、確かに、関西人なれば、例えば百両千両とある包が、鞠のように軽いのは、これ、すかんやろ、な。

「數萬金の通用手つかふ事なし」数万両分の実際の金貨銀貨を扱うことはしない。

「銀札」先に書いた後の「銀目手形」のようなものであろう。

「よふ」「様(やう)」。歴史的仮名遣は誤り。]

甲子夜話卷之二 30 以前の大的の事

2―30 以前の大的の事

今大的とて、御旗本御家人などの射る物は、憲廟より前は、人形(ヒトカタ)と云て、五尺ばかりに紙を長く繼て、掛軸の如くし、竹竿にかけて射たりしを、憲廟の御時、治世に人がた射んこと不祥にして且不仁也と有て、これを改められ、竹を曲て輪とし、今の大的の大さに爲て、其中を通りたる箭を中(アタ)りとしけり。然を又德廟の御時、其物に中りて響なきは快からず迚、今の紙に張る的を制して射さしめらる。是よりいづ方も今の的になりしと也。先年同姓忠右衞門【信義】語れり。

■やぶちゃんの呟き

「大的」「おほまと」。現行のそれは和弓の歩射(かちゆみ)に用いる射場(いば)の大きな的を指し、直径は五尺二寸(約一・五八メートル)である。この条はその起源説に相当する。因みに、対する「小的(こまと)」は直径一尺二寸(約三十六センチ)以下のものを指す。

「憲廟」徳川綱吉。

「人形(ヒトカタ)」後で綱吉が不快に思う如く、太平の世に遇って戦場での対人射撃を忘れぬための呼称であろう。

「云て」「いひて」。

「五尺ばかり」一・五メートルほど。江戸時代の男性身長の平均は一五五~一五八センチとされる。なお、ここに出る徳川綱吉は一二四センチの小人症(低身長症)であったという記事がこちらに出る。

「繼て」「つぎて」。

「不祥」「ふしやう(ふしょう)」縁起が悪いこと。不吉。

「且」「かつ」。

「不仁也」「ふじんなり」。無慈悲極まりない行いである。

「有て」「ありて」。

「曲て」「まげて」。

「爲て」「して」。

「其中」其の竹の話の中空内。

「箭」「や」。「矢」に同じい。

「然を」「しかるを」。

「德廟」吉宗。

「其物に中りて」「それ、ものにあたりて」と訓じておく。

「響」「ひびき」。

「迚」「とて」。

「制して」これは「製して」ではない。「規定として定めて」の謂いである。念のため。

「同姓忠右衞門【信義】」自分と同姓の松浦(まつら)信義ということであろうが、不詳。

甲子夜話卷之二 29 松英公、隅田川扇流の御話

2―29 松英公、隅田川扇流の御話

 

天祥寺雄峰和尚の吾松英君の【諱、篤信、肥前守】物語とて語しは、若き頃、中秋月明の時、隅田川の上流に船を浮め、金銀の扇を數枚河水に投じて、月光の映じて流行を觀賞したりと云。今の世とは其韵趣殊なる事見るべし。

■やぶちゃんの呟き

「松英公」「しやうえいこう」。肥前平戸藩第九代藩主であった静山の曽祖父に当たる同藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)の法尊号。ウィキの「松浦篤信によれば、『江戸浅草に生まれる。幼名は数馬』。元禄九(一六九六)年、兄で第五代藩主であった松浦棟(まつらたかし)の長男長(ながし)が『早くに死去したため、棟の養嗣子となった』。同年五月に『将軍徳川綱吉に拝謁』、元禄十一年に『江戸城の菊間詰めとな』り、同年中に『従五位下肥前守に叙任』した。宝永元(一七〇四)年、『養父棟とともに初めてお国入りする許可を得』、宝永六年、『養父棟とともに江戸城の柳間詰めに戻され』ている。正徳三(一七一三)年、『養父棟の隠居により、家督を相続する。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果は無かった。養父棟と違って』十一男八女の『子女に恵まれ』、享保一二(一七二七)年閏一月二日、病気を理由に家督を長男有信に譲って隠居した。享年七十四、『法号は松英院殿。墓所は墨田区の天祥寺。後に平戸市の雄香寺に改葬された』とある。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれであるから生まれる三年前に亡くなっている。

「扇流」「あふぎながし」。

「御話」「おんはなし」。

「天祥寺」墨田区吾妻橋にある臨済宗向東山天祥寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏の都内の詳細な寺社案内サイト「猫のあしあと」の同寺記載によれば、現在の台東区松が谷にある臨済宗大雄山海禅寺が兼帯する寺院として寛永元(一六二四)年に創建、当初は向東山嶺松院と号していたとされる。元禄六(一六九三)年、『本所中之郷の下屋敷に隠居していた肥前平戸』藩四代『藩主松浦鎮信が』この寺を『譲り受け、深く帰依した盤珪』禅師を招いて中興開山とし、当地に中興したと伝えている。『近隣に同宗の松嶺寺があり、まぎらわしいということから、中興開基松浦鎮信の法名天祥院殿慶厳徳祐大居士より』、享保元(一七一六)年に「天祥寺」に改号したとされる。

「雄峰和尚」不詳。静山生前当時の天祥寺住持であろう。

「吾松英君」わが先祖松英(しょうえい)公(ぎみ)。

「諱」「いみな」。本名。

「浮め」「うかめ」。

「金銀の扇」金銀の箔で全面を覆った扇を開いたもの。

「流行」「ながれゆく」。

「其」「その」。

「韵趣」「ゐんしゆ(いんしゅ)」(本来は「うんしゆ」が正しい音読みである)「韵」は「趣」と同義で畳語。雅なる興趣。風雅。

「殊なる事」「ことなること」。高雅に在り方の格別に異なること。

甲子夜話卷之二 28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事

2―28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事

岸本應齋が【輪王寺宮の坊官、後罪ありて廢す】話し迚傳聞す。かれ坊官にてありしとき、上野の本坊にて樂あり。其合奏の際、不斗見たるに、書院の上段の床の上に狐あり。樂を聽て歡喜の體なり。人々驚き誰彼と呼びたて、もの騷しくなりたれば逃去ぬ。感心して出たる者なるべしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「上野御本坊」寛永寺。

「岸本應齋」不詳。識者の御教授を乞う。

「輪王寺宮」「りんのうじのみや」と読む。「輪王寺」は現在の栃木県日光市山内にある天台宗日光山輪王寺。但し、江戸時代までは神仏習合で、東照宮・二荒山神社と併せた一体の「日光山」という祭祀総体の一つであった。ウィキの輪王寺の「江戸時代」によれば、『近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進』み、元和三(一六一七)年に『徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた』際、輪王寺本堂は現在、『日光二荒山神社の社務所がある付近に移され』ている。正保四(一六四七)年、第三代『徳川家光によって、大雪で倒壊した本堂が再建され、現在の規模』となり、承応二(一六五三)年には『家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり』、『仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている』。明暦元(一六五五)年、『後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の』第三皇子守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が『入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」』『と称された。親子による世襲ではないが』、『宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う』『輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(下線やぶちゃん)。即ち、「輪王寺宮」とは宮家であり、彼は輪王寺住持・寛永寺門跡・天台座主(これらを纏めて「天台一宗総本寺」と称した)であったのであって、現地、日光の輪王寺にいたわけではなく、江戸に常住していたと考えるべきであろう。

「坊官」門跡家などに仕え、事務に当たった在俗の僧。剃髪して法衣を着たが、肉食妻帯・帯刀を許された。「殿上法師」「房官」とも称する。

「迚」「とて」。

「不斗」「ふと」。

「床」「とこ」。

「聽て」「ききて」。

「誰彼と呼びたて」「たれかれとよびたて」。誰彼(だれかれ)となく驚きの声を挙げて。

「逃去ぬ」「にげさりぬ」。

谷の響 二の卷 七 海仁草 海雲

 七 海仁草 海雲

 

 小泊の大間に海仁草(まくり)多くあり。文化文政の頃までは土地(ところ)にてこの名もしらで、ただ小兒の蚘(むし)下し藥といふて用ひしとなり。また海雲(もずく)といへるもの、深浦の沖にあるものは岩に生え、宇鐡の沖にあるものはホンダハラといふ藻の末に付て生えると也。

 

[やぶちゃん注:「七」は底本のママ。
 
「小泊」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。
の「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。

「海仁草(まくり)」アーケプラスチダ Archaeplastida  界(藻類の一種で、二枚の膜に囲まれた細胞内共生したシアノバクテリアから直接派生したと考えられるプラスチドを持つ一群)紅色植物門紅色植物亜門真正紅藻綱イギス目フジマツモ科マクリ Digenea simplex (一属一種)で、別名「カイニンソウ(海人草)」とも言う(これは海底に立つ藻体が人の形に見えるからではないかと私は昔から思っている)。暖流流域(本邦では和歌山県以南の暖海域)広く分布し、海底や珊瑚礁に生育する。生時は塩辛くて強い海藻臭と粘り気を持つ。マクリという名は「捲(まく)る」(追い払う)に由来し、古く新生児の胎毒を下す薬として用いられたことから、「胎毒を捲る」の意であるとされる。「和漢三才図会」には以下のように載っている(引用は私の電子テクスト「和漢三才図会 巻九十七 藻類 苔類」の掉尾より。詳細注を附してあるので参照されたい)。

   *

まくり  俗に末久利と云ふ。

海人草

ずるに、海人草(かいにんさう)は、琉球の海邊に生ずる藻花なり。多く薩州より出でて四方に販(ひさ)ぐ。黄色。微(かすか)に黯(くろみ)を帶ぶ。長さ一~二寸、岐有り。根髭無くして微(すこ)し毛茸(もうじよう)有り。輕虛。味、甘く、微鹹。能く胎毒を瀉す【一夜浸水し、土砂を去る。】。小兒初生、三日の中、先の海人草・甘草(かんざう)、二味を用ふ【或は蕗の根を加ふ。】。帛(きぬ)に包み、湯に浸して之を吃(の)ましむ。呼んで甜物(あまもの)と曰ふ。此の方、何れの時より始めると云ふことを知らず[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。本朝、通俗〔の〕必用の藥なり。之を呑みて、兒、涎-沫〔(よだれ)〕を吐く。之を「穢-汁(きたなげ)を吐(は)く」と謂ふ。以て膈上〔の〕胎毒を去るべし。既に乳を吃むに及ばば、則ち吐かず。加味五香湯を用ひて下すべし。

   *

これによって、かなり古い時代から乳児の胎毒を去るのに使用してきたことが窺える。ではこれが虫下しの薬として一般化したのはいつかと調べてみると、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」 (同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成九(一九九七)年三月十五日号より転載されたもの)に、私のように「和漢三才図会」を引用した上で、以下のようにあるのが見つかった。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

「大和本草」の記載は「卷之八 草之四」「海草類」の「マクリ、かいにんそう」で、「中倉学園」公式サイトの「貝原益軒アーカイブ」のPDF版で原典画像(42コマ目)が見られる。以下に私の読みで書き下して電子化しておく。但し、前の引用の内の『少しく(炒っての間違い)』という指摘を受けてその部分は訂しておいた。

   *

鷓鴣菜(マクリ) 閩書に曰く、海石の上に生じて、散碎。色、微黑。小兒腹中に蟲病有らば、炒りて食へば能く癒ゆ。〇甘草と同煎し用ゆれば、小兒腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

   *

この「散碎」(さんさい)というのは恐らく藻体が細かく分岐していることを言うものと思われる。さて、ここに出る「閩書」とは「閩書南産誌」のことで、明代の何喬遠撰の作であり、貝原益軒の「大和本草」の刊行は宝永六(一七〇九)年であるから、江戸時代前期の終わりぐらいには既に虫下しとしても使用されていたものと考えてよいだろう。薬理成分はアミノ酸の一種であるカイニン酸(昭和二八(一九五三)年に竹本常松らによって古くから虫下しとして用いられていた紅藻のマクリから単離命名された。カイニン酸はカイチュウやギョウチュウの運動をまず興奮させた後に麻痺させる効果を持つ。この作用は、ドウモイ酸同様にカイニン酸がアゴニスト(Agonist:生体内受容体分子に働きかけて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示すような作動薬を言う。)としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こることが分かっている。このため、現在はカイニン酸は神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が使用されているという(ここはウィキの「カイニン酸」その他を参照した)。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した物がポキールによる回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにポキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」!……懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あのマクリ・チョコレートの味を知らないのである。……(以上は私の電子テクスト「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 36 虫下し 附 やぶちゃんのポキールの思い出」の私の注から一部を抄録しつつ書き直したものである)。

「海雲(もずく)」ここに描写されるものはその植生から見て、不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科イシモズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata と思われる。本邦では産生が少ないモズク属モズク Nemacystus decipiens に比すと、より食感が堅く、私も最も好む食感のモズクである。因みに種名 Sphaerotrichia は「球+糸」、種小名 decipiens は「二股に分かれた」の意である(以上は、学名の由来も丁寧な私のすこぶる偏愛する海藻図鑑田中次郎氏の解説になる「基本284 日本の海藻」(二〇〇四年平凡社刊)に拠る)。なお「もづく」という古来からの和名は他の褐藻類、例えばまさに後に出るホンダワラのような種群に附着することから「藻付く」という名がついたとされる。

「深浦」「十八 龜恩に謝す」に既出既注。

「宇鐡」底本の森山氏の補註に『東津軽郡三厩村宇鉄(うてつ)。津軽半島北端部にある漁村』とある。現在は青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩(みんまや)地区の海辺に「上宇鉄」「元宇鉄」の名で残る。この附近である(グーグル・マップ・データ)。

「ホンダハラ」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum(及び同属の近縁種を含む)。海藻フリークの私としては、この条、エンドレスで語りたくなるところだが、ここで堪えて終りとしよう。]

谷の響 二の卷 七 異花を咲く

 七 異花を咲(ひら)く

 

 嘉永の末年にありけん、松森町高嶋屋半左衞門の花嘆(はたけ)なる槍扇(ひあふぎ)といふ草に燕子花(かきつばた)の花一ふさ咲き、色はいと美しき紫にて形又少しくも異なるなしとなり。されどこの一莖(きやう)のみ餘はみな常の槍扇なりといへり。伊香氏この稿本を見て片紙を附して曰く、このこと吾が家にも八九年前咲き一度兩三年以前に一度ありて、根を分けて別に植直しに繁茂して今にあり。只の槍扇にはきかず、朝鮮檜扇にはまれまれあるよし。八九年前(さき)にありしは白花なり。近年のは紫花なり。又、燕子花にあらず一八(いつぱち)といふものにて、燕子花の種類なれども花も葉も大に似て非なるものなりといへり。實にさることゝもあらめ。

 

[やぶちゃん注:「嘉永の末年」嘉永は七年が最後でグレゴリオ暦では一八五四年。

「松森町」青森県弘前市松森町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「花嘆(はたけ)」この文字列不詳。花壇や花園の意の洒落た当て字なら分かるが、「はたけ」じゃあ、ねぇ。

「槍扇(ひあふぎ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica。開いた花が宮廷人の持つ檜扇に似ていることから、命名されたという。

「燕子花(かきつばた)」同アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。「杜若」とも書くのは御承知の通り。同属であるから、こういう一部の異花発生現象は必ずしも不思議ではないと私には思われる。但し、本種がアヤメ属に編入され、現在の学名となったのは、実はつい最近、二〇〇五年のDNA解析に基づく結果であって、それ以前はヒオウギ属 Belamcandaとされ、Belamcanda chinensisの学名を与えられていたとウィキの「ヒオウギ」にはあるので、実は偉そうなことは言えないのである。

「伊香氏」不詳。

「この稿本を見て片紙を附して曰く」この「谷の響」の手書き草稿を披見して、この条に附箋して以下のように綴っている。以下、「このこと……」から「……似て非なるものなり」までがそれ。

「吾が家にも八九年前咲き一度……」これは「吾が家にも一度八九年前咲き……」の誤記であろう。

「兩三年以前」二、三年前。

「植直しに」「うゑなほしに」植え直したが(それでも元気に)。

「朝鮮檜扇」不詳。ヒオウギ Iris domestica の原産は日本・朝鮮半島・中国・インドとされるから、別種とは思われない。或いは朝鮮半島で品種改良されたものがあるのか。調べたところでは、変種に葉の幅が広く、全体的に寸詰まった草貌のダルマヒオウギ Belamcanda chinensis var. cruenta があり、他に園芸品種として真竜(しんりゅう)・黄竜・緋竜などがあるらしい。

「一八(いつぱち)」アヤメ科アヤメ属イチハツ(一初)Iris tectorum のことであろう。和名はアヤメ類の中でも一番先に咲くことに由来する。なお、ここは注しなくてはならないところで、伊香氏は実は私の家で起った異花開花現象のそこに元々あったのは同じヒオウギでも「朝鮮檜扇」という違う種類の「檜扇」であり、また、そのただ中の一本の「朝鮮檜扇」に咲いた花は「燕子花」ではなくて「一八」=「一初」であった、と記している点である。

「大に」「おほいに」。

「實に」「げに」。]

谷の響 二の卷 六 變化

 六 變化

 

 また、天保五六年の頃のよし、何地(いづれ)の洋中(より)より揚れるにや、大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしものを、ある太夫の邸宅(やしき)へ持ち來れるを見たりしとて、藩中七戸某語れるなり。又、藩中中村某の話に、一年(あるとし)海口(みなと)勤番の人より海帶(あらめ)を贈られしことあり。そを薦に包み庇(ひさし)の片隅に置(おけ)るが、二十日あまりありて啓(ひら)いて見るに、雨の洩りしと見え大概(おほかた)腐りたる樣にて、その中に多くの蛭蠢き居たりけるに、半身はまだ海帶に着て居るもありしなりと語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「變化」「へんげ」。超自然的に別生物からある別生物へ変生する化生(けしょう)である。

「天保五六年」一八三四、一八三五年。

「大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしもの」「ソイ」は脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属 Sebastes を指す広域で汎用される通称で青森に限った方言ではない。実際に、私も使うし、富山でもそう呼んでいたし、私の馴染みの江戸前の寿司屋の親爺も普通に使う。というより何より、同属内の種の正式な標準和名に、クロソイ Sebastes schlegeli・ムラソイ Sebastes pachycephalus・オウゴンムラソイ Sebastes mudus さえある。さて、問題は、この頭部がソイで体幹の下半分がガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)とは何か? であるが、まず、安易に考えるなら、たまたま釣り上げられたソイを、単に悪食多食のガマガエルが吞み込んだものの、大き過ぎ、しかも鰭の棘が引っ掛かって吐き出すことも出来ずに、そのまま悶死したものを見たというケースで、これは誰でも思いつくが、如何にもつまらない。私が実は最初に想起したのは、海中でソイをまさに海のガマガエルと称するに相応しいかの旧名「イザリウオ」(現在は差別用語として和名変更されてしまった)、条鰭綱アンコウ目カエルアンコウ科 Antennariidae の一種が半ばまで吞み込みかけたところ、ソイは眼の前に垂れさがってきた釣り餌に苦し紛れに喰いつき、それが釣り上げられたというシチュエーションである。カエルアンコウ類は擬態性が著しく、頭部の形状もはっきりしないから、蝦蟇の下半身に見えたとしても、私は強ちおかしいとは思わない

「太夫」いろいろな職種で当てられる地位名称であるが、ここは「藩士」の話で、しかも「邸宅(やしき)」へ持ち込んだとある以上、神主や禰宜(ねぎ)などの神職の別称ととっておく。

「七戸某」「一の卷」の掉尾十八 龜恩に謝すに登場した藩士「七戸某」と同一人物であろう。私のような海洋生物奇譚好きの情報屋と思われる。

「海帶(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Lessoniaceae 科アラメ属アラメ Eisenia bicyclis 

「蛭」これは恐らく環形動物門ヒル綱 Hirudinea とは思われない。湿気を含んで腐っていることからは腹足綱有肺亜綱柄眼目ナメクジ科 Meghimatium属ナメクジMeghimatium bilineatum 或いはその仲間のナメクジ類であろう。腐ったアラメの茎部に入り込んで内部から蚕食していたと考えれば、別段不思議ではない。但し、アラメは塩分を多量に含んでいるので、ナメクジがそれに堪え得るかは定かではないが。ともかくも、海産の蠕虫類(平尾が「蛭」と言っているのは、実はそういう意味であろう)である可能性は二十日も経っていることから見て、あり得ない。

「着て」「つきて」。]

谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず

 五 蟹羽を生ず

 

 官醫佐々木某なる人、幼弱(ことも)の時湯口村なる菅公庿(てんじんぐう)へ參詣(まゐり)てその歸るさに、小さき澤蟹數十を購(あがな)ひ水鉢に入れて翫弄(もてあそ)びしが、六七日の間に不殘(みな)脱(にげ)出で有處をしらずなりぬ。然るにその年の七月頃、厨下(だいどころ)の床の下より一箇(ひとつ)二箇(ふたつ)或は六箇七箇ばかり日々出たりしを見れば、盡(みな)蟬の如き薄き羽を生じて何處(いづく)ともなく飛去りしが、夾(はさみ)も脚もそのまゝにて有しとぞ。こは天保初年のことなりとて、この佐々木氏語りしなり。住むところによりては、蟹もかく變ずるものにこそあれ。

 

[やぶちゃん注:「幼弱(ことも)」読みはママ。

「湯口村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『中津軽郡相馬村湯口(ゆぐち)。弘前市の西郊二里ばかりの農山村』とある。現在は青森県弘前市湯口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菅公庿(てんじんぐう)」不詳。現在、弘前市湯口には石戸神社 という神社があるが、調べる限りでは菅原道真は祀っていない。

「澤蟹」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani。日本固有種で、青森県からトカラ列島(中之島)まで分布するとされる。偶然の配列であるが、前話のヒトの寄生虫症との関連のある生物である。ウィキの「サワガニ」によれば、肺気腫や気胸を引き起こす肺臓ジストマの一種(以下の二種による寄生虫症)の中間宿主で、生食或いは加熱不十分な状態で食用とした場合に発症することがあるので注意が必要である。まず一種は、前話の注に出した、同種に寄生する扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウ(ウェステルマン肺吸虫)Paragonimus westermani)で、「ウェステルマン肺吸虫症」を引き起こす。『成虫は肺に寄生し、血痰と胸部異常陰影が特徴。確定診断には血痰あるいは糞便から虫卵の検出』。なお、同種はやはり、よく食用にされる『モクズガニも中間宿主』であるので、やはり注意が必要である。次に宮崎肺吸虫(同じく Paragonimus 属のミヤザキハイキュウチュウParagonimus miyazakii)による「宮崎肺吸虫症」である。『幼虫は腸壁を突き破って、胸腔あるいは皮下まで移動するが、肺まで到達できない。胸膜炎、自然気胸、皮下腫瘤、好酸球増多などの症状がみられる。虫卵を検出することができないので、血中抗体測定法で診断』する。

「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。]

諸國百物語卷之四 三 酒の威德にてばけ物をたいらげたる事

    三 酒の威德(ゐとく)にてばけ物をたいらげたる事


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 大佛三十三間(げん)どうには、ばけ物ありとて、七つさがれば、人、ゆかず。この事、禁中にきこしめしおよばれ、此ばけ物、たいらげたらんものは、ほうびはのぞみたるべしと、高札(たかふだ)をたてられければ、さる酒のみのらう人ありけるが、禁中へまいり、

「それがし、したがへ申さん」

と、御うけを申し、ひやうたんに酒を入れ、三十三げんどうにゆき、どうのすみにまちゐければ、あんのごとく、夜はんのころ、たけ一丈ほどのぼうず、まなこは日月(じつげつ)ほどひかり、くま手のごとくなる手をさしいだし、かのらうにんを、たゞひとつかみにせんとす。らうにん、やがてかうべを地につけ、

「ひごろ、うけ給はりおよび候ふばけ物さまにて御座候ふか。まづ、しよたいめんの御禮申しあげ候ふ」

と云ふ。ばけ物、きゝて、物すごきこゑにてうちわらひ、

「さてさて、なんぢはおかしき人かな。一くちにせんとおもへども、しばらくゆるす。さて、こゝへは、なにとてきたるぞ」

と云ふ。らう人、きゝて、

「なにとなくまいり候ふが、ばけ物さまはいろいろに御ばけ候ふよし、うけ給はり及び候ふ。ちと、うつくしき上らうに御ばけ候ひて御見せ候へ」

と云ふ。ばけ物、きゝて、

「なんぢは、しやれたる事をいふものかな。のぞみにばけてみせ、そのゝち、一くちにぶくせん」

とて、そのまゝ大なる上らうにばけてみせければ、

「さても、さても、おもしろき事にて候ふ。今一ど、兒(ちご)にばけて御みせ候へ」

といへば、うつしくしき兒(ちご)のすがたになりける。

「さても、しゆうなる事かな、とてもの事に、をにのすかたに御なり候へ」

といへば、たけ一丈ばかりの鬼となり、つのふりたてゝ見せければ、らう人、申すやう、

「ばけ物さまは、さても、げいしや哉、のぞみ申す物に御なりなされ候ふ。されども、むめぼしのごとくなる、ちいさき物に御なりなさるゝ事は、いかゞなり申さずや」

といふ。ばけ物、きゝて、

「むめぼしにならば、もはや、くわれ候ふか」

といへば、

「ぜひにおよばず」

と云ふ。

「さらば、なりて見せん」

とて、いかにもちいさきむめぼしになり、ころりころりと、こけあるきければ、

「さても、きとくに御ばけ候ふものかな、手のうへゝ御あがり候へ」

とて、手をさしいだしければ、手のうちへこけあがりたるを、そのまゝ、口へうちこみ、がりがり、かみわり。ひやうたんなる酒を七八はい、ひつかけのみ、よひのまに、にげてかへり、

「ばけ物たいらげたるよ」

と、さうもん申しければ、禁中、ぎよかん、なゝめならず、くわぶんのちぎやうを下されけると也。ひとへに酒のいとく也。

 

[やぶちゃん注:これは最早、怪談ではなく、狂言そのものである。挿絵の右キャプションは右半分が切れてしまているので判読不能。

「威德(ゐとく)」原義は威厳と徳望で、勢力がありしかも同時に人徳の高いことを言うがここは、酒の霊力・威力の謂いである。ただ、米から醸造する酒は元来、稲玉の霊力の凝ったものとして認識されていたものではあったはずではある(が、ここは猿芝居だからそこまで考える必要は猿の毛ほどもない)。

「大佛三十三間(げん)どう」「どう」は「だう」が正しい。既出既注。「十四 京五條の者佛(ほとけ)の箔(はく)をこそげてむくいし事」の「大ぶつの三十三間(げん)のほとけ」の注を参照のこと。このロケーションとその呼称、そこに化け物が出るというところから考えると、筆者の時代設定は豊臣家滅亡以降(リンク先を参照されたいが、大仏自体はその後も残されたものの、寛文二(一六六二)年の地震で大破し、寛文七(一六六七)年に木造で再興されたが、これも寛政一〇(一七九八)年の落雷に起因する火災で焼失している)のごく江戸初期ではないかと私は推察する。後の浪人の台詞「ぜひにおよばず」が信長のその肉声として、響き合うような時代(それは如何にもな陳腐さを以ってであって、逆にこの創作自体は新しいことを逆に感じさせるわけではあるが)である。

「七つさがれば」定時法の「七つ時を過ぎると」で、現在の午後四時から午後五時頃(七つ半。午後六時は「暮れ六つ」となる)になるとの意。

「禁中にきこしめしおよばれ」その奇怪なる噂が宮中の畏れ多き帝の御耳にまでも達し及んでしもうて御座ったによって。

「たいらげたらんもの」「平らげらん者」。成敗致いた者。しかし、この言葉は結句、「食べつくす」という文字通りの意味とも重なることになる伏線なのである。

「ほうびはのぞみたるべし」「褒美は望みたるべし」。その褒美は、申すがままにとらせよう。

「高札(たかふだ)」お上より告知する内容を人通りの多い場所に高く掲げた札(板)様のもの。室町時代からあったが、江戸時代に最も盛んに行われた。制札(せいさつ)。

「らう人」「浪人」。

「したがへ申さん」「從へ申さん。」。「屹度、平伏退治致いてお見せ申し上げましょうぞ!」。

「御うけ」「御請け」。

「ひやうたん」「瓢簞」。

「どうのすみにまちゐければ」「堂(だう)の隅に待ち居ければ」。前に言った通り、「どう」の歴史的仮名遣は誤り。

「あんのごとく」「案の如く」。世間で噂しているその通りに。

「一丈」三メートル三センチ。

「くま手のごとくなる手」「熊手の如くなる手」。この場合の「熊手」は長い柄の先に鉄の爪数個をつけた武具或いは船道具を指す。戦場では、敵を馬から引き落としたり、盾や塀を引き倒したり、高所に攀じ登る際に用い、また、犯罪者や狼藉者を捕り押さえるのに用いた捕り手道具。水上では舟や浮遊物などを引き寄せるのに用いる。

「しよたいめん」「初對面」。

「一くちにせん」知られた「伊勢物語」第六段(芥川の段)、

   *

 昔、男ありけり。女のえ得(う)まじかりけるを、年を經て呼ばひわたりけるを、からうじて盜み出でて、いと暗きに來けり。芥川といふ河を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。行く先多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる藏に、女をば奥に押し入れて、男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり。はや、夜も明けなむ、と思ひつつゐたりけるに、鬼、はや、一口(ひとくち)に食ひてけり。「あなや」と言ひけれど、神鳴る騷ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て來(こ)し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。

   *

とあるように、古来、鬼が一口で人を食い殺すことを「鬼一口(おにひとくち)」と呼び慣わした。

「しばらくゆるす」「暫く赦す」。

「うつくしき上らう」「美しき上﨟(じやうらう)」美しい高貴な御婦人。

「しやれたる」「洒落たる」。

「のぞみにばけてみせ」「望み(通りに)化けて見せ」。

「ぶくせん」「服(ぶく)せん」。吞み込んでやろう。

「しゆうなる事かな」「自由(しゆう)なる事かな」「なんとまあ! 変幻自在なることで御座ろう!」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」(同書はこの「しゆう」に「自由」を当てた本文を載せる)の「自由」の脚注によれば、『無制約なこと。「自由」の語の成立は、室町期といわれている』とある。

「とてもの事に」次いでに。

「すかた」ママ。姿。

「げいしや哉」「藝者かな」。「芸達者であられますなあ!」ここまで徹底したヨイショ作戦で、鬼の自己肥大を最高度まで昂めた。「角振り立てて見せけ」るところなんぞは、最早、獅子舞いの大道芸レベルに堕していることに気づかぬのが、この鬼に哀しさである。ここの浪人の機転の利いた台詞は、まさにその笑いの転回点の要(かなめ)となるところである。

「むめぼしのごとくなる」「梅干(むめぼ)しの如くなる」。

「いかゞなり申さずや」「如何成り申さずや」。「どうでしょう? お出来になりますか? 成れませぬか? 成れませぬことは御座いますまいのぅ!」。原文は不可能の方だけを匂わせて、鬼を不満にさせ上手く慫慂した巧みな台詞となっている。

「むめぼしにならば、もはや、くわれ候ふか」「小さな梅干しに変じたら、さて――それを汐にいい加減、遊びは止めて――儂(わし)に食われるか?」この台詞が最後に主客を逆転させる美事な伏線となっている点を見逃してはならぬ

「ぜひにおよばず」「是非に及ばす」。「言うまでも御座らぬ! きっと喰われましょうぞ!」。

「こけあるきければ」「轉(こ)け步きければ」。ころころと転がり回ったので。

「さても、きとくに御ばけ候ふものかな」「さても、奇特に御(おん)化け候ふものかな」。「奇特」は私は「きどく」と濁って読みたい。「神仏の霊験(れいげん)」の意である。「何ともはや! 実に神妙玄妙にお化けになられたことであろうか!」。

「こけあがりたる」「轉(こ)け上がりたる」。この動的なシークエンスが実に笑いを誘う。特撮(SFXやでCGやアニメーションなんぞではなくて、である)で撮りたいなぁ!

「うちこみ」「打ち込み」。ぽいっと投げ込んで。

「かみわり。」句点はママ。ここは読点の編者の誤りだろう。「嚙み割り、」。

「ひつかけのみ」「引つ掛け吞み」グビ! グビグビ! グビ! グビ! グビグビグビグビビッツ! と立て続けにあおって。狂言的勘所である。

「よひのまに」「宵の間に」。「醉ひの間に」(酔いにまかせて)と読みそうになるが、であれば、歴史的仮名遣は「ゑひ」でなくてはならぬ。何より、鬼を吞み込んだその後に変事が危惧されることを考えれば、ともかくも逸早く、内裏へ征服成功(それも鬼を吞み込んで!)報告するのが先決であり、ここはやはり、夜明けを待たず、未だ「宵」の内に、の謂いである。

「さうもん」「奏聞」。帝に申し上げること。但し、歴史的仮名遣は「そうもん」でよい。

「ぎよかんなゝめならず」「御感斜めならず」。「斜めならず」は「なのめならず」の原型。帝の御気分は一通りではなく、格別にお喜びになられ。

「くわぶんのちぎやうを」「過分の知行を」。たかが浪人の分際に過ぎた褒賞としての領地を。

「いとく」標題の「威德」であるが、歴史的仮名遣は誤り。]

2016/10/22

谷の響 二の卷 四 怪蚘

  四 怪蚘

 

 これも文政の年間(ころ)なるが、己(おの)が姻家に田中傳之丞といへる者の子に市太郎といへる男子、その時十二歳の記年(とし)なるが、髖(しりぶた)に疱癤(ねぶと)を出していたく惱み、食も絶ゆるばかりにありしが、旬日(とうか)餘にして其疱髖の壞れ口より白き蚘(むし)二條(ふたつ)出でたり。一隻(ぴき)は長さ三寸ばかり一隻は二寸五分ばかりも有けるが、出て間もなく死せりとなり。又、この兒從來病身にて時々虫を吐出すことありけるが、一日長さ八寸ばかりの蚘一隻吐出せり。眼口なければ首尾は分らねども、五寸ばかりより先は二岐(ふたまた)に分れていと健(たけ)るものなるが、己この時九歳にてあれば好き弄物(もちもの)と思ひ、細き柴もてあちこちと觸(さは)りて見るに、勵(はげ)しく紆曲蠖(くねりまがり)て宛爾(さながら)憤(いか)れる形のごとし。身の色は淡褐(うすちや)と覺えしなり。さてこの親傳之丞は、こを希らしきものとして乾かしてありけるが、その后(のち)いかなりしか知らざるなり。

 又、己が知遇(しれる)外崎某の語りけるは、往ぬる安政二卯の年の三月、女兒(むすめ)なる者腹いたむといふこと四五囘(たび)言けるに、ある日一隻の蚘故なく下れり。その蚘長三寸ばかりにして太き針ほどなるが、尾頭ともに岐(ひだ)ありて肚の兩邊に小さき足すきもなく連り、色薄茶なるものなるがいと猛々しく、僅に觸(さは)るに蟺蜿盤縮(くるひまはり)て蛇の怒れる貌ありしが、日あたりに放ちたるに忽ち死せり。希らしき蚘もあるものなりと語りき。

 又、紺屋町新割に三上某といへる人の妻、享年(とし)三十四五の頃より病身になりて、平素(つね)に腹をあつかひけるが、時々(をりをり)呃逆(からえつき)して蛔蟲を嘔(は)くことありき。ある日己が家に來り何か用を調ひて居たるうち、蟲がつかふといふて椽先に立出けるが、吐嗟(あつ)といふ聲と倶に一塊(かたまり)の蛔蟲を吐出せり。その蚘地に墮ると否(いな)や解開(ほごれ)て、其數大小とも凡十六七疋とも覺しが、其邊(あたり)蠢蜿(うごめき)ありきし中に、一隻螻蛄(けらむし)の形して大さ一寸あまりなるが、遍身(みうち)の色淡茶褐(うすちや)にして四足を具へたり。いと猛(たけ)々しくして他(ほか)の蟲は悉(みな)死せる中に、ひとりこの蚘死もやらで一時ばかりも蠢(うごめき)てありしが、家僕(しもべ)なるものいと希代の物とて、洗足盥(あしたらひ)に微溫(なまぬるき)湯を汲みて其中に入れたるに、復烈しく跋歩行(はひあるき)しが、僕(しもべ)再(また)これに冷水を濺(そゝ)ぐに、漸(よふ)々弱りて遂に死せり。是よりこの人日々塊蟲を吐出せしよしなるが、一年の後身罷(まか)りぬ。蚘の數は萬を以て算ふべしと、この夫なる人語りしとなり。これも文政の年間にて己れ十二三歳の時なりき。

 又、五山の中なるよしなるが、何れの寺の住職にや、固(じ)病の溜飮にて平生(つね)に宿水(みづ)を嘔(はき)たりしに、冉(ぜん)々重(おも)り後には蛄蟖(けらむし)の如き毛の生えたる蚘の、長さ一寸餘りなるもの五七隻又は十隻あまり宿水(みづ)に交りて吐れしかど、遂に差(い)えずして身まかりしとなり。蛔蟲(はらのむし)毛の生えるはなき事とて、看病の人の病人を慰めんとて醫師と謀りて設けたることゝいふ人もありき。然るや否はしらざれども、奇病においては毛のある蚘なしともいふべからず。胎(たい)中を養ふところ萬般(いろいろ)なるべし。

 又、藩中工藤某甲といひし人、晩年に至りて何となく胸𣎅(むね)を惱みけるが、日數經るに隨ひ漸々に強く、後には胸の骨を嚙(かま)るゝが如くに覺えて、其齩(か)める音胎外(そと)へ聞ゆるまてにて、切苦(くる)しきこといふべくもあらず。配劑(くすり)もさらに功をなさゞりき。さるに一日(あるひ)嘔吐の氣味ありとて、喝(かつ)といふ宿水(みづ)を嘔出せるが、其中に一寸餘にして蟬にひとしき六疋の蛔蟲あり。この蚘また烈しく2(はねまはり)しが小半時にして死せり[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「發」。「2」=「虫」+「攴」。]。さるに是より胸の痛み忽ちに癒えてもとに復りたるに、世に希らしき蟲なればとて、厚き紙の袋に内(い)れて陰乾になし、時々(をりをり)人に見せてその怪しきを語りける。爾して後、三十日あまりも過ぎこの蚘を見たしと乞へる人あれば、その袋を披くに封は其まゝにありながら、蚘は何地(いづち)へ出けん脚の一つもあらざればいと怪しく思ひしかど、元來豪毅の人なる故心にも係(か)けず打捨てたるが、五六日を經て復胸の痛むことはじめの如くにして晝夜苦しみ、萬般(いろいろ)方藥(くすり)も傚(しるし)なく施すべき術盡きて、遂に之が爲めにみまかれり。いかなる怪しき蚘にやありけん、封はもとの儘なるに破れもあらで失せぬるは、復この人の胸に入りしにや人々不審(いびか)りあへりしと。こは前件(くだり)なる三上氏が妻の吐たる蚘によく似たり。實に希代の物といふべし。

 

[やぶちゃん注:標題「怪蚘」は「クヱユウ(ケユウ)」(呉音)或いは「クワイカイ(カイカイ)」(漢音)と音読み出来る。但し、本邦では必ずしも同音群で読まれている訳ではないので「クヱカイ」「クワイユウ」でないとは言えず、私などは一見、真っ先には「かいゆう」と読んだ但し、最初の本文を読んだ途端、『この「蚘」は「蛔」だな』と合点し、『或いは、この題名は「怪」しい「蛔蟲」で「かいかい」か?』と思うたことを最初に述べておく。既にお分かりと思うが、以下の注でも述べる通り、この――「怪」しい「蚘」――とは所謂――「腹の蟲」――その代表例は「カイチュウ(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides )であり、それは「蛔蟲」と書き、「蛔」は実に「蚘」の字の異体字だからである。但し、音読みに拘らぬとならば、本文内でも「蚘」を「むし」と訓じているから「あやしきむし」でも構わぬが、どうもそう読んでいるつもりは西尾にはない気がする。

「文政」一八一八年~一八三〇年。

「髖(しりぶた)」この漢語は「尾骶(びてい)骨」を指す。但し、「しりぶた」は「尻蓋」で、私は肛門或いは肛門のごく直近の臀部表面を指しているように思われてならない。以下の「」の注を参照のこと。

「疱癤(ねぶと)」「根太」。背中・大腿部・臀部などにできる腫れ物を指すが、一般には黄色ブドウ球菌の感染による毛包炎の大きくなったもので、膿(う)んで痛むものを指すことが多い。但し、近代以前は、それ以外のアテローム(脂肪瘤)や性感染症によるリンパの腫脹などの広汎な腫れ物に対してもこの語を用いる傾向が私はあったように思っている。

「旬日(とうか)」実際、「旬」は十日間を指す時期単位である。

「疱髖」読みを振っていないから「ハウクワン(ホウカン)」と読むしかないか。尾骶骨の辺りにある腫れ物の謂い。ただ、どうも以下、その腫れ物の壊(く)えた部分、裂けた箇所から回虫が出たという描写から見て、これは所謂、疣(いぼ)痔或いは穴(あな)痔のような症状部分で、そこが穿孔して直腸と繋がってしまっていたことから、その「腫れ物」の中から回虫が出現したように見えただけではないかと思われる。

「三寸」九センチメートル。

「二寸五分」十センチ六ミリメートル。ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoidesは雌雄異体で、は全長十五から三十センチメートル、は二十センチメートルから三十五センチメートルと、の方が大きく、ここと後に出る大きさの違うものは雌雄である可能性があり、さらに言えば、ここの二匹は交尾を行っている最中に体外に出てしまった、彼らにとっては不運な可能性をも示唆しているともいえるかも知れぬ。

「時々虫を吐出すことありける」ここの「虫」の字体はママ。症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、中にはこのように「逆虫(さかむし)」と称して、虫を嘔吐するケースさえ実際にあった。当時の寄生虫理解の一端を知ることが出来るものを一つ示すと、私が現在、電子化注を行っている津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」に、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』という下りがある(ここに出るそれは形状から引き出し方から明らかに謂うところの「真田虫」(後掲)である)。これによるならば、「疝気」には寄生虫病が含まれることになる。但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。

「八寸」二十五センチ七ミリメートル。長さとしては完全にヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides個体である。

「五寸ばかりより先は二岐(ふたまた)に分れて」後者の巨大一方の先端部分は先の十五センチばかりの箇所で二股に分岐しており。ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoidesにはこのような形状部はない。人によっては頭が裂けてるんだったら、裂頭条虫(所謂、サナダムシ類)っていうのがいるじゃん、とか言ったりする方があるかも知れぬが、あの扁形動物門条虫綱真性条虫亜綱擬葉目裂頭条虫科裂頭条虫属 Diphyllobothrium の頭部は、拡大すると、頭部の尖端が裂けたように見える(但し、私には例えば、代表的なヒトに感染する裂頭条虫科スピロメトラ属マンソンレットウジョウチュウ(マンソン裂頭条虫)Spirometra erinaceieuropaei なんぞの頭部は、おぞましい河童の頭のそのもののような感じに見える私の電子テクスト注生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(3)の図を参照されたい)からああいう名前がついているだけで、こんな二股には分れてなんぞはいないと言っておく。さて、では、この生物は何者か? と言えば、私はヒトの体内寄生虫にはこのようなものはいない、これは市太郎が体内から吐いたり、肛門から出てきた生物ではないと考える。以下でこの生物の「身の色は淡褐(うすちや)」とし、少年の西尾は、何と、それを「弄物(もちもの)」、弄ぶ対象として、柴枝で突っついて、いたぶって遊んだ、とするところからは、私はこれは市太郎とは無関係なもので(或いは少年の西尾を脅そうと、市太郎或いはその親が嘘をついた)、私は色と形状から、まず、これは扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目 Terricola 或いは同亜目のコウガイビル科コウガイビル属 Bipaliumに属するコウガイビル類である可能性が高いと考える。ウィキの「コウガイビルによれば、『コウガイビルは、陸上の湿ったところに生息する紐状の動物で、頭部は半月形である。「コウガイ」は、昔の女性の髪飾りである笄(こうがい)に頭部の形を見立てたものである。環形動物のヒルに比べて筋肉や神経系の発達が劣るため、運動はゆっくりとしており、ゆるゆると這うだけである。種数は日本に数種以上が生息しているとされるが、詳細は不明である。扁形動物門渦虫綱に属するものは、ヒラムシ、ウズムシ(プラナリア)など、ほとんどが海産または淡水産であり、陸上生活のものはこの仲間以外にはほとんどない』。『コウガイビルは雌雄同体とされ、体の大きさは長さが』十~三十センチメートル、場合によっては位一メートルを『越えるのに対し、幅は大きくても』一センチメートルを越えることはない。厚みも数ミリメートルで、『平たく細長い体をしている。体の端部のうち扇形に広がっている方が頭部で、頭部には肉眼で見えない眼点が多数存在する』。私は山でしばしば、このコウガイビル類の巨大な個体に遭遇したが、それらの多くはまさに「淡褐(うすちや)」薄茶色であった。なお、体色が白かったなら、私は回虫の♂♀二匹の交尾状態のものを候補と挙げたであろうが、回虫は決してこんな色はしていない

「いと健(たけ)る」非常に活発に動いている。

「己この時九歳にてあれば」平尾魯僊の生年は文化五(一八〇八)年であるから、この事例は実は文政ではなく、その前の文化一三(一八一六)年のこととなる。実証主義に平尾が自分のことを、かく誤って書くのは実に珍しいことである。

「安政二卯の年」安政二年は正しく乙卯(きのとう)でグレゴリオ暦では一八五五年。

「言けるに」「いひけるに」。

「故なく」何の前触れもなく、突如、の謂いか。

「尾頭ともに岐(ひだ)ありて肚の兩邊に小さき足すきもなく連り、色薄茶なるものなるがいと猛々しく、僅に觸(さは)るに蟺蜿盤縮(くるひまはり)て蛇の怒れる貌ありしが、日あたりに放ちたるに忽ち死せり」これは色と形状(体節と思しいもの、その周囲に極めて多数の脚を持っている点)からみて、ヒトの内臓寄生虫ではない。恐らくは、少女の糞便の中に多足類(節足動物門多足亜門 Myriapoda)の土中に棲息するヤスデ様の虫類(ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱 Diplopoda)が排泄後に潜り込んだのを、誤認したものであろう。腐植食性の彼らは強い直射日光に曝されれば、自己防衛のために身体を丸めて動かなくなるので、それを死んだとやはり誤認したものと考えるとすこぶる腑に落ちる。

「希らしき」「めづらしき」。

「紺屋町新割」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「新割町(弘前市)によれば、明治三(一八七〇)年の地図に同町の東部に紺屋町新割町とある、と載る。

「己が家」筆者西尾の屋敷。

「蟲がつかふといふて」「虫が咽喉へ痞(つか)えますで。」と訴えて。

「椽先」「緣先(ゑんさき)」。

「吐嗟(あつ)」感動詞。「吐嗟」は一派にはこれで「あはや(あわや)」と訓じ、何か事が起きんとする際に驚き危ぶんで発する声を指す。

「蛔蟲」遂にこの語がここで出る。狭義にはこれは、

線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides

の和名である。但し、当時は、形状の似た、しかし有意に小さな

旋尾線虫亜綱蟯虫(ギョウチュウ)目蟯虫(ギョウチュウ)上科蟯虫(ギョウチュウ)科Enterobius 属ヒトギョウチュウ(ヒト蟯虫)Enterobius vermicularis

も同一視していたと考えてよいから、以上も挙げておく。因みに蟯虫はが二~五ミリメートル程、の場合は八~十三ミリメートルである。

「解開(ほごれ)て」二字へのルビ。

「螻蛄(けらむし)」昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpa 属ケラ Gryllotalpa orientalis

「一寸」三センチメートル。

「遍身(みうち)の色淡茶褐(うすちや)にして四足を具へたり。いと猛(たけ)々しくして他(ほか)の蟲は悉(みな)死せる中に、ひとりこの蚘死もやらで一時ばかりも蠢(うごめき)てありし」これも先の少女の糞便の虫と同じく、庭先に吐きだした回虫の塊りに、庭にいた肉食性昆虫が臭いを嗅ぎつけて近づいたものであろう。「四足」とあるが、単に脚があることを言っているだけであろうから、昆虫と考えて差支えない。彼がヒトの内臓性寄生虫ではなく、普通の戸外に入る気管呼吸をする外骨格の昆虫に過ぎないことは、以下で西尾の家の下男が「いと希代の物とて、洗足盥(あしたらひ)に微溫(なまぬるき)湯を汲みて其中に入れたるに、復烈しく跋歩行(はひあるき)しが、僕(しもべ)再(また)これに冷水を濺(そゝ)ぐに、漸(よふ)々弱りて遂に死せり」という様態から見ても明らかであると私は思う。

「算ふべし」「かぞふべし」。

「夫」「をつと」。

「これも文政の年間にて己れ十二三歳の時なりき」先に示した平尾の生年から、満十一、十二歳は文政二(一八一九)年か翌三年となるので、ここの「文政の年間」は正しい。

「五山」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『寛永年間に津軽藩では京・鎌倉の寺院五山の制にならって、領内に真言宗の代表的な寺院五山を定めた。岩木山百沢寺・金剛山最勝院・愛宕山橋雲寺・護国山久渡寺・古懸山国上寺で』、みな、『上下の尊崇をあつめた』とある。なお、この内の岩木山百沢寺は廃寺となって現存しない。

「固(じ)病」「痔病」。

「溜飮」「りういん(りゅういん)」。一般には痔とは無関係に、胃の消化作用が不十分なために、胸焼けがしたり、口に酸っぱい液が上ってきたりする症状を指す。

「冉(ぜん)々」次第に進んでいくさま。徐々に侵し広がるさま。

「蛄蟖(けらむし)」先の「螻蛄」に同じ。

「毛の生えたる蚘の、長さ一寸餘りなるもの五七隻又は十隻あまり宿水(みづ)に交りて吐れしかど」同前。これはまさに庭土に胃液を吐き出したのを医師か看護人が庭に捨てたところが、その下の土中にいた正真正銘のケラが苦しくなって這い出てきたものか。或いは、後に西尾が附言しているように、「蛔蟲(はらのむし)毛の生えるはなき事とて、看病の人の病人を慰めんとて醫師と謀りて設けたることゝいふ人もありき」というのも、案外、当たっているかも知れぬ。しかし、これ、「慰め」ることには私はならんと思うが、ね。

「差(い)えず」漢語としての「差」には「病が癒える」の意がある。

「奇病においては毛のある蚘なしともいふべからず」いや、少なくとも本邦のヒトへの体内寄生虫(体表面への寄生をするダニやノミ・シラミ類は除く)には、実寸実体の視認観察で毛のある寄生虫はいないと私は思う。

「胎(たい)中を養ふところ萬般(いろいろ)なるべし」意味不明。「胎中に養ふところ(の蚘は人の知を越えて)萬般(いろいろ)なるべし」の謂いでとっておく。

「某甲」既出。二字で「なにがし」と訓ずる。

「胸𣎅(むね)」二字へのルビ。「𣎅」は胸骨の意。

「後には胸の骨を嚙(かま)るゝが如くに覺えて、其齩(か)める音胎外(そと)へ聞ゆるまてにて、切苦(くる)しきこといふべくもあらず」「胎外(そと)」は二字へのルビ。「まて」はママ。この工藤なる藩士は恐らく進行した労咳(結核)であったのであろう。この胸から聴こえる音と言うのは所謂、「ラッセル音」肺の聴診で聞かれる異常呼吸音(副雑音)のことであろう(「ラッセル」とはドイツ語で“Rasselgeräusch”(ラッセルゲロイシュ:「ガラガラ・カタカタといった雑音」の意)に由来する)。

「喝(かつ)といふ宿水(みづ)を嘔出せるが」底本では「いふ」の右には編者のママ注記が附されてある。確かにここは「喝(かつ)と、宿水(みづ)を嘔出せるが」で腑に落ちるところである。

「蟬にひとしき六疋の蛔蟲あり。この蚘また烈しく2(はねまはり)しが小半時にして死せり」(「1」=「虫」+「發」/「2」=「虫」+「攴」)肉眼での実体視で、蟬の形にそっくりなヒトの体内寄生虫、気管支・肺への寄生虫は、いない。肺吸虫は楕円形をしており、成体が大型になる本邦に棲息する、

扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウチュウ Paragonimus westermaniiの三倍体

ならば視認は可能(最大長十六ミリメートル)であるが、果たしてそれらを「蟬にひとしき」と言い得るかどうかはすこぶる怪しい(私は実物を見たことはないので全否定は避ける。だが、後で陰干しした上で封をしておいたそれがいなくなり、その中には「脚の一つ」もなかったとあるのは、これが蟬のように脚(恐らく三対六脚)を持っていたことを意味している。されば、これも吐物に集った庭の昆虫類と考えるのが自然である)。しかも肺吸虫を喀血などと一緒に吐き出すことがあるかどうかも私には疑わしいことである。但し、顕微鏡で観察するなら、その紡錘形の形状は蟬に全く似ていないとは言えない、とは言っておこう。しかし肉眼で見る限りでは、ただの粒でしかないし、ここにある「一寸」(三センチ)は、いくらなんでも巨大過ぎる。なお、これが肺ではなく、肝臓寄生の吸虫ならば、巨大な種は存在する。名にし負う、

二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属キョダイカンテツ(巨大肝蛭)Fasciola gigantica

である(体長は二・五~七センチメートル、体幅は五ミリから一センチ二ミリに達する)。しかし、本種も肝臓内に寄生し続けるものであって、迷走する可能性は少なく、それを吐き出すなどということは通常、考えられないと私は思う。

「故」「ゆえ」。

「復」「また」。後のも同じ。]

諸國百物語卷之四 二 叡山の源信ぢごくを見て歸られし事

    二 叡山の源信ぢごくを見て歸られし事

 

 一條のゐんのとき、ひゑい山に源信とて、たつときちしき、ましましける。あるとき、みやこへ下山せられしみちにて、にわかに雨ふりけるに、あとより、うつくしき女、はしりきたりて、かの源信にちかづき、さめざめとなきける。源信、しさいをとひ給へば、かのをんな、云ふやう、

「われは羅刹女(らせつによ)と申す、鬼のゆかりにて候ふが、男にはをんなのすがたをなし、女には男のすがたをなして、『人をたぶらかしきたれ』とをしへて、鬼のゑじきとす。『もし、人をもとめゑぬときは、それがしをふくせん』といふ。けふは、人をゑず、さだめてわがいのちを、うしなわるべし。ねがはくは御僧の法力をもつて、じやうぶついたしたく候ふ。たのみ奉る也。わがいふ事、まことしからずおぼしめさば、あとよりきたりてみ給へ」

とて、さきたちてゆくを、源信もしたいゆきて見給へば、とある山ぎはにゆきかゝれば、すでに日くれぬ。なを、山ふかくしたいゆけば、門あり。かの女、門をたゝけば、うちより、おそろしき鬼のこゑにて、門をひらき、かの女のゑ物なき事をいかり、かずの鬼どもあつまり、口より、くわゑんをはきいだし、かの女の手あしをぬき、ひきさき、くらふ有さま、なかなか、おそろしきしだい也。源信、ふびんにおぼしめし、山にかへり、經をよみ、ねんごろにくやうし給へば、源信、その夜のゆめに、かの女、しうんにのりきたりて、よろこばしきがんしよくにて、源信にむかつていひけるは、

「われ師の法力によつて、天上にむまれ、じやうぶつせり」

とて、三度らいはいして、西をさして歸りけると也。

 

[やぶちゃん注:「一條のゐんのとき」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の治世(寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)の意。

「源信」(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)は天台僧。以下、ウィキの「源信(僧侶)に基づく。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。大和国北葛城(かつらぎ)郡当麻(たいま:現在の奈良県葛城市当麻)生まれ。父は卜部(うらべ)正親。七歳(以下、数え)で父と死別し、天暦四(九五〇)年、信仰心の篤い母の影響によって九歳で比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称・元三(がんざん)大師)に入門、天暦九(九五五)年、十四で得度した。翌年、僅か十五にして「称讃浄土経」を講じて、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれている。この時、源信は下賜された布帛(ふはく:高級な織物)などの褒美の品を『故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて』、『その品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選』んだのであった。この時の母の諫言の和歌とされるのが、

 

 後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき

 

である。永観二(九八四)年末に師であった良源が病に冒されると、これを機にかの名作「往生要集」の撰述に入った(永観三(九八五)年一月三日に良源は示寂した)。寛和元(九八五)年三月、「往生要集」を脱稿している。寛弘元(一〇〇四)年には天皇の外戚として権勢を誇っていた藤原道長が帰依し、権少僧都となったが、翌年には母の諫言の通り、その位を辞退している。『臨終にあたって』は『阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した』とされる。源信は浄土教の濫觴とされる人物であると同時に、「往生要集」(私の偏愛する仏教書の一つである。偏愛する理由は無論、その地獄描写の飽くことなき細密描写とそこから私の内に生ずる猟奇趣味故にである)によって本邦に於ける地獄思想の定着を決定づけた人物でもある。源信はまさにそうした意味で本篇で主人公となるに相応しい人物なのである。

「たつときちしき」「尊き智識」。「智識」は仏道に教え導いてくれる優れた指導者。導師。善知識。

「羅刹女(らせつによ)」ウィキの「羅刹天」より引く。『仏教の天部の一つ十二天に属する西南の護法善神。羅刹(らせつ)とも言う』。『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王(Nirrti-rajaの音写、ラージャは王で、ねいりちおう、にりちおう)ともいわれる。破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い』。『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十世紀の『延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では』七十二『の羅刹女の名前が列記されている』とある。

「ゆかり」「所縁」。一族。

「『人をたぶらかしきたれ』とをしへて」これは後に出る羅刹女を使役する鬼の「をしへ」(命令)と読む。

「ゑじき」「餌食」。

『もし、人をもとめゑぬときは、それがしをふくせん』「若し、人を求め得(え)ぬ時は、某(それがし=汝(なんぢ))を服せん」。「ゑぬ」の歴史的仮名遣は誤り。「服す」は「吞み込む」で「喰らう」の意。これもその鬼の頭目の、羅刹女に対する「脅(おど)し」の言葉である。

「じやうぶついたしたく候ふ」「成佛致し度く候ふ」。

「まことしからずおぼしめさば」「真實(まこと)然らず思し召さば」。本当の事でないようにお疑いなされるのであれば。凡夫の私如きは、「あとよりきたりてみ給へ」まで自体が総て偽りで、まんまと鬼の餌食とされるのではないか、と猜疑するであろう。されば、私は羅刹女を救う宿根を持たない哀れな衆生に過ぎぬのであった。

「したいゆきて」後について行き。

「ゑ物」「得物」「獲物」。孰れでもやはり歴史的仮名遣は誤りである。

「かずの鬼ども」「數の鬼ども」沢山の鬼ども。

「くわゑん」「火炎」。

「かの女の手あしをぬき、ひきさき、くらふ」「彼の女の手足を拔き、引き裂き、喰らふ」。

「有さま」「有樣(ありさま)」。

「しだい」「次第」。一連の凄惨な殺戮と血と肉の饗宴。謂わば、源信の「往生要集」の地獄篇での地獄についての実景検分がこの時に実際に行われたと筆者は謂いたいのであろう。しかしだったら、もっと地獄巡りをして貰いたかったというのが私の猟奇心の本音であると告白しておく。本話柄、余りにも簡潔に短過ぎ、読者への映像化の慫慂が成されていない嫌いがあるのである。

「ふびん」「不憫」。

「ねんごろにくやうし給へば」「懇ろに供養し給へば」。

「しうんにのりきたりて」「紫雲に乘り來たりて」。「紫雲」とは、念仏行者が臨終する際、その人のために仏が乗って来迎(らいごう) するとされる、吉兆とされる紫色の雲のこと。それに載って極楽浄土へと仏とともに向かうのである。羅刹女は「女」とあるが、実際には女ではないから直ちに極楽往生出来るのである(仏教では如何なる徳や修行を積んでも女性は男性に生まれ変わって初めて往生出来るという「変生男子(へんじょうなんし)」説というトンデモない差別思想があることを、お忘れなく)。

「よろこばしきがんしよくにて」「喜ばしき顏色にて」。

「むまれ」「生(む)まれ」。

「らいはい」「禮拜」。

「西」西方浄土。]

2016/10/21

谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す

 三 蛇章魚に化す

 

 文政二三年の頃にて有けん、鯵ケ澤の漁夫(れふし)ども一個(ひとつ)の章魚を捕へしに、その章魚の脚一條(すじ)は俗(よ)に白ナブサと言ふ蛇にして、しかも鱗文(うろこ)も全く倶はり、章魚の頭に附着(つけ)るところは蛇の頸の方にて、眼口は无(な)けれども餘(ほか)七條(ほん)の常の脚と長さもひとしく、三時ばかりの間(ほど)はこの蛇のあしのみ死もやらで動めきてありしとなりと。こは魚の荷を賣る岡田屋傳五郎と言へるものゝ語なりき。

 又、蛸の足の末五六寸或は四五寸ばかり疣のなきものまゝあり。こはもと蛇の化(な)りたるものなれば其脚は切棄べし。萬一喰(くら)ふ時は人を傷ふものなりと、鯵ケ澤の漁夫藤吉と言ふもの語りしとなり。物の變化する、夫れ測るべからず。

 

[やぶちゃん注:民間伝承では蛇が蛸になる化生(けしょう)説は根強くあり、例えば先に電子化した佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事でも述べられている。但し、今回、本条の第一段落の事例を読みながら、「これは、もしや? あれでは?」と思ったものが、第二段落の記載で確信となった。これは所謂、 軟体動物門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda のタコ類のに見られる、私が博物学的に大好きな、

交接腕=ヘクトコチルス(Hectocotylus

を誤認したものであるという確信である(私はこれについて何度も書いている。取り敢えず、例えば生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルスを見て戴きたい。

 のタコは交接腕という特化した触手を持ち、交尾の際にはその先端の吸盤のない溝の部分に精子の入った精莢(せいきょう)を挟み込んで、その腕をメスの生殖孔に突き刺すのである(この際、メスはかなり暴れるので相当な痛みがあるものと思われる)。その後、八腕(タコ)目マダコ亜目アミダコ科アミダコ Ocythoe tuberculate  や八腕(タコ)目アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ(葵貝/カイダコ) Argonauta argo 及び同じアオイガイ属タコブネ Argonauta hians(別名・フネダコ)などの種では交尾を完全なものとするために、はその先端部を自切する。一八五九年、この交接腕の先端断片をアミダコの解剖中に発見したフランスの博物学者キュビエは、これをタコに寄生する寄生虫の一部と考え、ご丁寧に、

Hectocotylus Octopodis(ヘクトコチルス・オクトポイデス:百疣虫(ひゃくいぼむし))

と学名まで附けてしまった。なお、現在でも生物学では誤認ながらキュビエの交接腕断片の原発見の功績に敬意を表してタコの交接腕のことを「ヘクトコチルス」と呼称している。因みに、私の好きな萩原朔太郎の「死なない蛸」で知られるように、しばしば世間ではタコは自身の足を喰らうと信じられているが、もしかすると漁師たちは経験上、タコの腕の先端の一部が切れている個体があることを知っており(それはこのヘクトコチルスのそれよりもウツボなどの天敵襲われた際の自切現象によるものの方が目立つが)、そこから誤認して彼らが自然界で容易に自分で自分の足を食うと錯覚したのではないか私は考えている(水族館で見られるというタコの自身の足の自食行動(本当にそういう現象が多発しているとは私は実は信じておらず、これも朔太郎の詩辺りからの都市伝説の部類の話と考えている)は現在の知見では狭い水槽で飼育するために生じるストレスから生じた自傷行為と考えられている(軟体動物でもイカ・タコの類はナイーヴで、水族館でも飼育しづらい生物である)。

 この第一段落のそれも、第二段落のそれも、いずれも尖端部分に疣のない足が一本だけあるという異常性を蛇との変生にこじつけたに過ぎないものと私は考えているのである。

 

「文政二三年」一八一九、一八二〇年。

「白ナブサ」八 蛇塚で既出既注。私はそこで爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の白化個体(アルビノ(albino))に同定した。

「三時ばかりの間(ほど)はこの蛇のあしのみ死もやらで動めきてありしとなり」「三時」は「みとき」で六時間。これはヘクトコチルスだけがぴちぴち跳ねるとするには、ちょっと長過ぎる感じがする。他の部位が完全に運動性能を失っているのに、そこだけというのは、ちょっと説明がつかない。されば、或いはこれは(時間の記録が事実ならば)、何等かの線虫様(よう)の蛸の寄生虫が死んだタコから出て来て、のたくっていたのを誤認したと言う別の可能性を考えてもよいかも知れぬ。

「魚の荷を賣る」魚問屋であろう。

「五六寸或は四五寸ばかり」十二から十五、大きくて、十八センチほど。

「疣」「いぼ」。

「切棄べし」「きりすつべし」。

「萬一喰(くら)ふ時は人を傷ふものなり」私の知っている複数の寿司職人らも、必ずカットして捨てると言っている。]

谷の響 二の卷 二 章魚猿を搦む

 二 章魚猿を搦む

 

 又この席に三浦某なる人ありて語りけるは、知某(しるひと)下舞(したまへ)村に住しとき、海の汀(ほとり)に十四五疋の猿の聚り居たるを見て、何ごとすらんと傍に寄りて見れば、大きなる鮹ありて一疋の猿の骹(すね)に脚を匝給(から)みて洋(うみ)へ曳入れんとする樣子なるに、邊傍(あたり)に居たる猿どもがこを曳かせずとて、搦まれたる猿に取つき力を添えてありけるが、この某を見るより四五匹の猿前に進み膝を折り掌を合せて伏したるに、可憐(ふびん)に思ひ刀を拔て章魚の脚を斬斷(きりはな)して猿を援けたれば、この猿は元より側(そば)に有つる猿どもが不殘(みな)掌(て)を合せて拜したること數囘(あまたゝび)にして、この某の歸るを見送れりしとぞ。さすがに人に近きものなりと語りしなり。又、東なる久栗坂の濱にも此と一般(ひとし)き話あり。こは二々(つぎつぎ)に載くべし。

 

[やぶちゃん注:「下舞(したまへ)村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『北津軽郡小泊村下前(したまへ)。津軽半島の西側に突き出た権現崎の南岸にある漁村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「猿」北限のサル、日本猿(哺乳綱サル目オナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata)というと、下北半島そればかりが有名だが北緯から言えば確かに北限はそっちだが、この津軽半島の一群のそれも、同じ北限のニホンザルの貴重なグループであり、しかも現在でも殆んど調査されいないそうである。川本論文北限のサル考を参照されたい。

「聚り居たる」「あつまりゐたる」。

「鮹」「たこ」。

「骹(すね)」「脛(すね)」。

「匝給(から)みて」二字へのルビ。

「曳入れんとする」「ひきいれんとする」

「こを曳かせずとて」この絡まれた仲間を引きずり込ませまいとして。

「この某」前に併せて「このひと」と訓じておく。

「久栗坂」同じく底本の森山の補註に『青森市久栗坂(くくりざか)。陸奥湾沿岸で浅虫温泉付近』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「こは二々(つぎつぎ)に載(か)くべし」とあるが、ここで挙げた久栗坂の浜での類話というのは後には載ないようである。前にも同じような空振りがあったが、或いは平尾は続編「谷の響」を企図していたのかも知れない。]

谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ

 谷のひゞき 二の卷

 

        弘府 平尾魯僊亮致著

 

 

 一 大章魚屍を攫ふ

 

 文化三四年の頃なるよし、西の海濱(はま)なる澤邊村の者、夜中一箇(ひとり)に騎(のり)眠りながら艫作(へなし)の海汀(はま)を通りしに、馬は脚を停(とゞ)めて嘹呻(うな)る音に目を覺して見やりたれば、いとすさまじく大きなる章魚の、馬の脚にからみてありけるに、卽便(そのまゝ)鎌もて章魚の脚を斬棄て脱退(にげの)きて、村の者共にかゝる事ありしと語りければ、そは偸間(なほざり)の事ならず放下(すて)かんには人をも取るべしとて、數々(しばしば)これを覬觀(うかゞ)へどもそれと見るべき物も見えず。

 爾るに五六日も過て、同國修業の六部のものこの艫作村にて病死したれば、こを葬るとて濱邊の小高き土(ところ)にて火葬に爲してありけるが、まだ片時(かたとき)もあらぬうち十四五丁の先の澳(おき)より、浪を卷いて岸に浮寄(よりくる)ものあれば、これぞかの大章魚ならんと暴卒(にはか)に闔邑(むらちゆう)に徇布(ふれ)て、其浪のあとへ舟を漕ぎ寄せ、大網を張て脱るべき路を絶塞(たちき)り、陸にはみなみな待設けしに、章魚は火を望て眞文字に濱邊に搖り上り、浪をせきて火葬の火を打消し、死人を搦(から)んで囘頭(ひきかへ)さんとするに、豫て期したる邑の者ども鉈鎌などの得ものをもて、萬段(ずたずた)に裁斷屠(きりはふ)りて殺したりき。左有(さる)に此章魚はいと大きなるものにて、頭は六尺にあまり脚の周(まはり)は五六尺もあるべし。長さは三間あまりなるが此(これ)が頭を解(ひらい)るに、人の髑髏(とくほね)五個・馬の髗一個・骸骨・臟腑・尾髮の類いと生々しく、未だ血に塗(まみ)れたる有狀(ありさま)にて目冷(めさま)きこと見るべくもあらず。かくて是等のものを搔あつめて俵に内(い)るゝに、五俵あまりもありければ頓(やが)て土中に埋め葬(をさ)め、且章魚の軀(むくろ)をもその傍に埋め、僧を請うて囘向(えかう)をなせり。土人(ところのひと)こを號(なつけ)て蛸塚といへるとなん。

 却説(さて)是より先、土(ところ)の老父の言ひけるは、世にかゝる大きなる章魚の復(また)と有まじければ、人にも見せ世にも知らすべしとありて、疣(いぼ)一個(ひとつ)截(きり)取りて鰺ケ澤の岡部文吉と言ひしものに贈りしが、こを櫃(ひつ)に盛るに椽(ふち)より餘りければ、見る者悉(みな)興を覺して奇異の思ひを爲せり。又、此疣を解(ひらい)て見るに、二三分ばかりの剃毛(すりけ)のごときもの多くありといへり。この時伊勢屋善藏と言へるもの、鯵ケ澤にありて親しく視たりしとて語りけり。

 又、これと一般(ひと)しき一話(はなし)ありき。さるは往ぬる安政四丁巳の年の四月、醫師(くすし)吉村氏の亭にて小野某の語りけるは、今年(ことし)より二十年ばかり先きにて有けん、越後國にていと巨(おほ)きなる章魚を捕得しことあり。そは、越後某(それの)村の海汀(はま)の山壇(やまて)に荼毘(だび)所ありけり。或時土(ところ)に身罷(みまかれ)るものありてこの地に昇て火葬を爲し、翌日(あくるひ)親屬の者ども遺骨を治(をさむ)るとて往きたりしに、一片(ひら)の骨だになく四邊は悉(みな)箒して掃(はら)へるがごとくなるに、いたく訝(いぶか)り怪しめど詮(せん)術(すべ)なければ只得(ぜひなく)歇止(やみ)ぬ。しかして又二十日あまりにして死人を火葬する事あるに、こも嚮(さき)の如く骨とおぼしきもの更に無し。土人(ところのひと)不審はれやらず、捨置くべきにあらざればとて闔村(むらじゆう)寄りて評議するに一老父の曰、章魚の年を經たるものは陸に上(あが)りて牛馬及び人をも捕噉(くら)ふと言ふ古き傳へもあれば、必ず夫等のなす業にやあらんとありしかば、實に實にさる事もあらめ卒(いざ)や試(ため)し見んとて、其日荼毘所に空(から)火を焚き、數十人の者ども山壇(て)に隱れて闚(うかゞ)ひしに、やがて申(むつ)上ともおぼしき頃、遙(はるか)の沖の面(おもて)より浪を疊んで來るものあり。稍(やゝ)間(ほと)近くなりてこれを見れば、果して巨大(おほき)なる章魚にぞありける。衆(みな)々さればこそとて示し合せて用意を爲(し)つるに、章魚は忽ち浪を卷いて陸に上り、火を打滅(け)して屍を捕らんとすれど一物も無ければ、頭を擎(さゝげ)て四面(あたり)を看眺(みわた)し暫時(しばし)して歸らんとするに、村の者ども速く其歸るべき路に稃(すりぬか)を一面に播散らして置きしかば、この稃章魚の疣に貼着(ひつつ)き苦しむうち、僉々(みなみな)起蒐(たちかゝ)りて散々に斬殺し、その肉をば殘らず噉ひ盡せりとなり。さて、この章魚の脚の圍(まはり)三尺八寸ありしと聞しかど、其他(よ)の尺度(しんしやく)は聞ざりしと語りけり。こは甚類(いとに)たる話説(はなし)なれど、寰宇(よのなか)には事の跡の等しきが多かれば、さして疑ふべきにあらずなむ。

 

[やぶちゃん注:標題「大章魚屍を攫ふ」は「大章魚(おほだこ)、屍(かばね)を攫(さら)ふ」と読む。以下、冒頭の大蛸が馬を襲うという奇譚は、襲った蛸が逆にその馬に陸に拉致されて乗馬状態で捕獲されるという、大爆笑実録譚が先に電子化した「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」としてある。未読の方はゼッタイ、お薦め! なお、流石に蛸が馬を襲うというのは近代以降には聴かぬが、「タコが陸に上がって芋を食う」というのを信じている方は、実は現在でもかなり多い。一読、信じられない話だが、蛸が夜、陸まで上がってきて、じゃが芋や薩摩芋、西瓜やトマトを盗み食いするという話を信じている人は、これ、結構いるのである。近いところでは、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。実際、全国各地で、事実、畠や田圃に蛸が入り込んでいるのを見た明言する人も複数いるのであるが、生態学的には海を遠く離れることは、まず不可能であろう。たとえば岩礁帯の潮上線を越えて岩場に潜む蟹(蛸の好物である)を危険を冒して捕捉しようとするのを見たり、漁獲された後や搬送中に逃げ出した蛸が(個体によるが、一センチ程度の隙間があればかなり巨大な蛸でもバケットなどから脱出することは可能である)、畠や路上で蠢いているのを誤認した可能性が高いと私は考えている。また、タコは雑食性で、なおかつ極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつくことは十分考えられ、その辺が、この話の正体ではないかと思われる。なお、水死体ならば、これはしばしば蛸の格好の餌食になる。これは東京湾で実際にそうした業務に携わっている方の著作で読んで成程と感心したのであるが、その具体的な様態はかなりエグい故に、ここでは割愛することとする。

「文化三四年」西暦一八〇六、一八〇七年。

「西の海濱(はま)なる澤邊村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『西津軽郡岩崎村沢辺(さわべ)。日本海に臨んだ部落』とある。現在は合併により西津軽郡深浦町沢辺となった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「艫作(へなし)」同じく森山氏の補註に『西津軽郡の岩崎村と深浦町の境に艫作(へなし)崎があり、小部落がある』とある。現在は合併と表記変更によって西津軽郡深浦町舮作(へなし)となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。近年、ブレイクした「黄金崎不老ふ死温泉」は深浦町大字舮作字下清滝で直近である(私は行ってみたく思ってはいるが、未だ行ったことはない)。

「嘹呻(うな)る」二字へのルビ。「嘹」(音「リョウ」)は「よく透る・よく響く」の意。

「偸間(なほざり)の事ならず」二字へのルビ。等閑(なおざり)。しかし、「偸」の字は不審で、これは「偸(ぬす)む」の意であい、敢えて言うなら、本字の持つ「ぬすむ」の意の中の「わずかの時間をやりくりして、何かをする」の意の、「わずか」を「いいかげん」の意に転じたものか。「おろそかにしておいてよいような事件ではない。」。

「放下(すて)かんには人をも取るべし」「そのまま何の対処せずに捨ておいたら、その蛸は人をも襲うに違いない。」。

「覬觀(うかゞ)へども」二字へのルビ。「覬」(音「キ」)は「窺う・望む」の意。

「六部」六十六部の略。法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者、回国聖。室町時代に始まるとされるが、江戸時代には多くが零落し、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らしては米銭を請い歩いた、一種の僧形(そうぎょう)のホカイビト(乞食)ともなった。

「片時(かたとき)」一時(いっとき)の半分の「半時」と同じい。約一時間であるが、ここは、「ほんのわずかな時間」の意でとってよかろう。

「十四五丁」一キロ五百から六百メートルほど。

「澳(おき)」「沖」。

「闔邑(むらちゆう)」二字へのルビ。「闔」(音「コウ」)は「総て」の意。「邑」(音「ユウ」)は言わずもがな、「むら」(村)の意。

「徇布(ふれ)て」二字へのルビ。「徇」(音「ジュン・シュン)は「遍(あまね)く・唱える」の意。

「其浪のあと」その波しぶきの後。こっそりと蛸の泳ぐ後ろに舟を迂回させたのである。「大網を張て脱るべき路を絶塞(たちき)り」とあるから、最低でも左右に二艘である。

「待設けしに」「まちまうけしに」。待ち受けていたところが。

「望て」「のぞみて」。指して。

「浪をせきて」「波を堰きて」。腕足を以って海波を堰き、それを有意に浜辺から離れた、しかも小高い丘の上の「火葬の火」に、「ザッ! バァッツ!」と押し投げかけ、一瞬にして、それ「を打消(うちけ)」してしまったというのである。その巨大さが判ろうというものだ。

「豫て期したる」「かねてきしたる」。事前に準備万端整えていた。

「鉈鎌」「なた・かま」。

「得もの」「得物」。「武器」の意。

「萬段(ずたずた)に裁斷屠(きりはふ)りて」孰れも小気味いい当て訓である。

「頭は六尺にあまり脚の周(まはり)は五六尺もあるべし。長さは三間あまりなる」頭部(生物学上は胴部)の大きさ(縦長)だけで一・八メートルを有に越え、触手(恐らくは頭部に接続する根の先の一番太い基部)の腕回りだけでも一・五~一・八メートルはあって、全長はこれ、実に五メートル四十五センチメートルほどもある。

「髑髏(とくほね)」読みはママ。髑髏(どくろ)。頭蓋骨。

「髗」音「ロ」で訓は「かしら」であるから、馬の頭蓋骨。

「骸骨」ばらばらになった人馬の骨片であろう。

「尾髮」消化出来ない馬の尾や人間の頭髪、ととっておく。

「類いと生々しく」「たぐひ、いと生々しく」。

「目冷(めさま)きこと見るべくもあらず」不快極まりなく、直視するに堪えない惨状であったのである。

「搔あつめて」「搔き集めて」。

「俵」「たはら」。

「且」「かつ」。

「傍」「かたはら」。

「埋め」「うづめ」。

「囘向(えかう)」「ゑかう」が正しい。

「號(なつけ)て」読みはママ。

「櫃(ひつ)」大きなものでは、蓋が上に開く大形の唐櫃(からびつ)・長櫃などがあるが、ここは吸盤一個であり、先の測定記録から、飯を入れておく「おひつ」ととるべきである。

「椽(ふち)」「緣」。

「覺して」「さまして」。醒まして。

「二三分」「にさんぶ」。六~九ミリ。

「剃毛(すりけ)」剃毛(ていもう)してそこに和毛(にこげ)の生えたようなものの謂いであろう。不詳。或いは蛸の吸盤の襞のことをかく言っているか? しかし「毛」には見えないと思う。もしかすると、視認の印象ではなく、触った感じが頭を剃って有意に時間が経って、少し毛が生えたようなざらざらした感じを表現したものかも知れない。

「一話(はなし)」二字へのルビ。

「安政四丁巳の年の四月」安政四年は正しく「丁巳」(ひのとみ)。西暦一八五七年。

「今年(ことし)より二十年ばかり先き」天保八(一八三七)年前後。

「越後國にていと巨(おほ)きなる章魚を捕得しことあり」「越後國にて、いと巨(おほ)きなる章魚を捕り得しことあり」。

「某(それの)村」村名を意識的に隠した表現。実際には実在する村名が語られたであろう(でなくてはその場の聴き手は信じない)。では何故、伏せたか? 私は高い確率で、この話の最後で村人らが「その」死人(しびと)の肉を喰らった大蛸のその「肉をば殘らず噉」(くら)「ひ盡」したからだと思うておる彼らは間接的にカニバリズム(cannibalism:食人行為)を犯していることになるからである。

「箒して」「はうき(ほうき)して」。箒で以って。

「只得(ぜひなく)」二字へのルビ。

「歇止(やみ)ぬ」二字へのルビ。

「嚮(さき)」「先」。「嚮」(音「キョウ」)は「向」の正字。「ある方向に向かう」以外に「以前・先きに」の意がある。

「夫等」「それら」。

「業」「わざ」。

「實に實に」「げにげに」。

「山壇(て)」「やまて」(山手)。「て」は「壇」一字へのルビ。

「闚(うかゞ)ひしに」「闚」(音「キ」)は「小さな穴や隙間から覗(のぞ)く・窺(うかが)う」或いは「密かに探る」の意。

「申(むつ)上」「むつのうへ」と訓じておくが、この「むつ」という訓(ルビ)はおかしい。何故かというと、「申」は午後三時から五時を指し、その「上」刻(昔、一刻(二時間)を上・中・下に三等分したうちの最初の時刻)となると、前者では午後三時から三時四十分頃を指すことになるのに、別な定時法である、ルビにある「むつ」、「六つ時」とは暮れ六つ午後六時で、その上刻となると、午後六時から六時四十分頃となるからである。季節によってロケーションが大きく異なるが、ここは前者では明る過ぎて、荼毘の火が映像にちっとも映えない。ここは私は後者の午後六時から六時四十分頃をとる。なお、森山氏の補註にはこれを『午後五時ごろ』とされているのであるが、午後五時は定時法では「申の下の刻」に相当し、また「七つ」から「七つ半」であり、孰れも合わない。或いは森山氏は蛸が活発に動くのだから、冬とロケーションを設定され、しかも「申」を無視して、不定時法の「むつ」(暮れ六つ)ととられたのかも知れぬ何故なら、冬至の頃ならば、確かに「暮れ六つ」の始まり(上刻)は午後五時半頃になるからである。ともかくもこの本文とルビは頗る不審はである。

「間(ほと)近く」読みはママ。程近く。ごく近く。

「打滅(け)して」「うちけして」。

「屍」「かばね」。

「稃(すりぬか)」稲の実の最も外側の外皮、籾殻(もみがら)のこと。「磨糠(すりぬか)」。「粗糠(あらぬか)」「籾糠(もみぬか)」或いは単に「籾(もみ)」とも称する。

「播散らして」「まきちらして」。

「稃章魚の疣に貼着(ひつつ)き苦しむうち」水分や軟体部を大気から保護する粘液を吸収してしまい、また吸盤部にもくっ付いて吸着力が著しく減衰してしまうため、蛸は身動きがとれなくなるのである。

「起蒐(たちかゝ)りて」二字へのルビ。「蒐」には「集まる」の意がある。

「斬殺し」「きりころし」と訓じておく。

「三尺八寸」約一メートル十五センチ。

「尺度(しんしやく)」「斟酌」か。あまり良い当て読みではないと思う(「斟酌」は孰れも液体を「汲み測る」の謂いであって主に容積の計量表現だからである)。それ以外の全身や各部の長さ・大きさのデータ。

「聞ざりし」「きかざりし」。

「甚類(いとに)たる」「いと似たる」。ここまでくると、やり過ぎ。却って読み難にくいだけである。

「寰宇(よのなか)」音「クワンウ(カンウ)」で「天下・世界」の意。

「事の跡の等しき多かれば」「事蹟」の謂いであろう。事件・事例のごくごく類似したものが多いから。西尾はオオダコ譚が全国津々浦々(まさに文字通りだ)に多くある以上、これを法螺話とするべきではないという判例主義を採っているのである。]

諸國百物語卷之四 一 端井彌三郎幽靈を舟渡しせし事

 

諸國百物語卷之四 目錄

 

一  端井彌三郎ゆうれいを舟渡しせし事

二  ゑい山の源信ぢごくを見て歸られし事

三  酒のいとくにてばけ物をたいらげたる事

四  ゆづるの觀音に兵法をならひし事

五  牡丹堂女のしうしんの事

六  たんば申樂へんげの物につかまれし事

七  筑前の國三太夫と云ふ人幽靈とちぎりし事

八  土佐の國にて女のしうしん蛇になりし事

九  遠江の國にて蛇人の妻をおかす事

十  あさまの社ばけ物の事

十一 氣ちがいの女を幽靈かと思ひし事

十二 蟹をてうあひして命をたすかりし事

十三 嶋津藤四郎が女ばうゆうれいの事

十四 死靈の後妻うち付タリ法花經にて成佛の事

十五 ねこまた伊藤源六が女ばうにばけたる事

十六 狸のしうげん付タリ卒都婆のつえの奇特

十七 熊本主理が下女ぼうこんの事

十八 津のくに布引の瀧の事付タリ詠歌

十九 龍宮のおとひめ五十嵐平右衞門が子にしうしんの事

二十 大野道觀あやしみをみてあやしまざる事

諸國百物語卷之四目錄終

 

 

諸國百物語卷之四

 

    一 端井(はしい)彌(や)三郎幽靈を舟渡(ふなはた)しせし事

Sakasamanoyuurei

 信長公の御家來に端井彌三郎とて文武二道のさぶらひ、有り。のちは備後どのに、ほうこうして、淸州(きよす)にゐられけるが、犬山殿(いぬやまどの)御しそくと男色(なんしよく)のまじはり、あさからずして、三里があいだを、よなよなかよひ給ひけるが、ある夜、よづめすぎ候ひて、犬山へゆかれけるが、折しも、やみにて、雨、しきりにふり、物すごき夜なりしが、みちに、川わたしあり。わたしもりをよびけれども、川しもにねぶりゐて、をともせず。彌三郎は川ばたにたちやすらい、川の上下(かみしも)をながめゐたる所に、川かみより、火、見ゑたり。ぜんぜんにちかづくを、よくよく見れば、女、たけなるかみをさばき、口より、くわゑんをふきいだし、さかさまになり、あたまにて、あるきける。彌三郎、これをみて、刀をぬきくつろげ、

「なに物なるぞ」

とゝいければ、かの女、くるしげなるこゑをいだし、

「われは此川むかい屋村(やむら)の庄屋の女ばうにて候ひしが、夫(をつと)、めかけといひあわせ、われをしめころし、此、川上(かわかみ)にしうしんもまいらぬやうにとて、さかさまにうづめをき申し候ふ。かたきをとりたく候へども、かやうにさまにては川をもわたりがたく候へば、あわれ、ぶへんの人に行きあひ、わたしてもらいたく候ひて、此所わうらいの人々を、つねつね、心がけ候へども、ごへんほど、心がうなる人は、なし。ねがはくは御じひに此川をわたしてたべ」

と申しける。彌三郎、こゝろへたりとて、わたしもりをよび、

「くだんの女を舟にのせ、むかふのきしにわたせ」

と云ふ。わたしもり、此女を見て、ろかいをすてゝにげさりぬ。彌三郎、かいをつとり、かの女を舟にいだきのせ、むかふのきしにわたしければ、女は屋むらをさして、とびゆきける。彌三郎、あとをしたいてゆき、庄屋がかどに、たちぎゝしければ、女のこゑにて、

「あつ」

とさけぶをとしけるが、ほどなく、めかけのくびをひつさげいで、彌三郎にむかい、

「御かげにて、やすやすと、にくしとおもふかたきを、とり申したり。かたじけなし」

とて、あとかたなく、きへうせけり。彌三郎は、それより、犬山へゆき、よあけてかへるさに、屋むらにて、

「ゆうべ、なに事も此ざい所になかりけるか」

と、とひければ、ざいしよのもの、

「此むらの庄やどの、此ごろ、女ばうをむかへ給ふが、こよひいかなるゆへにか、女ばうしうのくびを、なに物かひきぬき、かへり候ふ」

とかたる。彌三郎、いよいよふしぎにおもひ、備後どのへ此むね、かくと物がたり申しあげゝれば、かの川かみをほらせ、御らんずれば、あんのごとく、さかさまにうづめたる女のしがいをほりいだす。ぜんだいみもんの事也とて、かの庄屋をせいばいなされけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは、上部が擦れて判読不能乍ら、「(幽)靈(を)舟渡せし事」という推定は出来る。「さかさまの幽霊」というのは、まさに私も面白く読んだ服部幸雄氏に「さかさまの幽霊―「視」の江戸文化論」(一九八九年平凡社刊・イメージ・リーディング叢書)というのがあるくらい、実は江戸初期から頻繁に登場する幽霊の、一つの定番でさえあるのである(同書の抜粋は個人ブログ「ひとでなしの猫」のこちらがよい。実は自分で本篇に触れる同書の要点を纏めたいのであるが、書庫に埋もれて今、現認出来ずにいる。発見次第、追記する)。そのシンボリズムについては当該書を読まれることを強くお薦めするが、ネットでは近世のそれらについて、こちらにかなり詳しい諸家の解釈論が提示されている。基本的には、底なしの無間(むけん)地獄へと真っ逆さまに落下していく恐怖のイメージの表象と考えられるのであるが、しかし、本話のそれは恨みを封じるために逆さに埋葬したという、一読、理屈がつくように書かれてあるのであり、しかもそれが理に落ちて恐怖が減衰するの弊害を持っていない点でも(論理的納得は一般には恐怖征服の致命的な一因であり、出現意図の核心の不可知さ、絶対の意味不明性にこそ、真の「怪奇性の絶対条件」は内包されていると私は考えているが、この場合は寧ろ、その亡者が無間地獄に堕ちるという実際の様態の形象化が「さかさまの幽霊」であるのなら、その亡者は現世へ怨念のために立ち現われることは出来ないはずだと考える人種でもあるのである)、私はすこぶる成功した稀有の「さかさまの幽霊」であると考えていることを附言するに留めおく。

「端井(はしい)彌(や)三郎」不詳。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注でも『実在』の『人物かどうか』と注するのみ。

「舟渡(ふなはた)し」の読みはママ。

「備後どの」不詳。同前「江戸怪談集 下」の脚注でも『不詳』とする。後に出る「淸州」城と関係する人物に、戦国武将で管領斯波氏家臣で織田備後守敏信なる人物がいるが、彼は後に娘が織田信長の父織田信秀の側室となったといわれ、時代(ここは――織田「信長」の「家來」であった「端井彌三郎」なる人物が、後に「備後」殿なる人物に仕えて「淸州」におられたが、その頃――という書き出しであり、話柄内時制は信長暗殺後の、秀吉以降で江戸時代のごく初期と考えねば、若衆道などの面からもおかしい)ならぬゐられけるが、犬山殿が全く合わない。

「ほうこう」「奉公」。

「淸州(きよす)」尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった清洲城の城下町。ウィキの「清州城」によれば、織田信長が約十年に亙って居城とした。天正一〇(一五八二)年の本能寺の変で信長が斃れると、ここで清洲会議が行われ、城は信長の次男信雄が相続したが、小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らったため、除封されて豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄四(一五九五)年には福島正則の居城となっている。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると』、慶長一二(一六〇七)年には『家康の九弟徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった』。慶長一四(一六〇九)年、『徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると』、慶長一五(一六一〇)年より『清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる』。慶長一八(一六一三)年、『名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった』とある。「備後殿」が架空であるとしても、時制は上記下線部を区切りとする閉区間でなくてはおかしい。

「犬山殿(いぬやまどの)」ウィキの「犬山城」によれば、『本能寺の変後、尾張国を領有した織田信雄配下の中川定成が城主となった』が、天正一二(一五八四)年、『小牧・長久手の戦いでは、信雄方と見られていた大垣城主・池田恒興が突如奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これにより、犬山城は尾張国における西軍の橋頭堡となり、さらに羽柴秀吉は本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙した』。天正一五(一五八七)年に織田信雄に返還されるも、先に述べた通り、『信雄が改易されると』、『豊臣秀次の領地となり、その実父の三好吉房が城代を務めた』。文禄四(一五九六)年、『豊臣秀次が切腹すると、石川貞清が城主となった』。『関ヶ原の戦いでは稲葉貞通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らが入城した』(但し、東軍に鞍替えした)。慶長六(一六〇一)年には『小笠原吉次が城主』、慶長十二年には『平岩親吉が城主とな』っている。元和三(一六一七)年に親吉が亡くなると、六年間、『親吉甥の吉範が城主を務めたのち、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり』、以後、『江戸時代を通じて成瀬家』九代の『居城となった』とする。私は前の注の推理から、この「犬山殿」とは、時制に合わせるならば、中川定成以降、平岩親吉までの城主の誰かがモデルと考えている。同前「江戸怪談集 下」の脚注では平岩親吉から書き出し、『以後は、成瀬隼人正虎が、犬山城主』と注するのみである。私は、先の理由から、彼らではない、と考えるものである。

「御しそく」「御子息」。

「三里」十一キロ弱。但し、清州城下から犬山城へは地図上の直線距離でも二十キロ近くある。不審。

「よづめすぎ候ひて」「よづめ」は「夜詰め」で宿直(とのい)のこと。しかし、それが「過ぎて御座ったので」ということは、この宿直は二直制で、弥三郎はその一直で深夜近くに交代したものであろう。そう考えないと、後のシチュエーションと齟齬するからである。

「やみ」「闇」。

「たけなるかみをさばき」「丈なる髮を捌き」。この「丈」は身長のこと。身の丈と同等にも伸びた髪を、束ねることもなく、左右に捌いて。これ、通常に立っているなら、必要な描写だが、実は逆立ちしているのであるから、やや奇異な感じではある。しかし、作者は寧ろ、ここで普通の正立像の女の髪をざんばらにした霊を読者に想起させておいて、直ぐに逆立ちさせることに意外性を狙った確信犯の意図があるように私には思われる。

「くわゑん」「火炎」。

「さかさまになり、あたまにて、あるきける」ここが凄い! ここで我々は初めて想起した女の霊を倒立させねばならなくなるのであり、そこでは身長と同じ長さの黒髪の束が、あたかも黒々とした二匹に蛇の如く、いや、頭に附いた二本の大蛸の足のように、前後にのたうちながら、「歩く」のである! これは表現すれば滑稽でも、恐らくは想定外の「恐怖」そのものであると言えるのである。

「刀をぬきくつろげ」鯉口を切って刀身を何時でも抜けるようにして。

「此川むかい屋村(やむら)」「屋村」という地名は不詳で、同前「江戸怪談集 下」の脚注でも『不詳』とするのであるが、現在の地図を見るに、清州から犬山向かう場合、川を渡るとすれば、その川は五条川である可能性が頗る高い。そこで調べてみると、まず手前から、五条川の北に、現在の丹羽郡大口町に「大屋敷」、同じ大口町のその北に「小口城屋敷」という地名を見出せる。或いはこの孰れかかも知れぬと私は思った。

「しうしんもまいらぬやうにとて」「執心も參らぬ樣に」。同前「江戸怪談集 下」の脚注には、『怨念が祟りとして、発現できないようにと』とある。

「さかさまにうづめをき」こうした風俗が現に古えにあったことを、私は確信する。葬送習俗として伝えられていなくても、確かにこうした呪術的封じ手は絶対にあったはずである。

「申し候ふ」「申し」は敬語としては正常な使い方ではないが、語っている相手である弥三郎への重ねた丁寧表現として用いられていると読む。

「かたき」「仇」。

「かやうにさまにては川をもわたりがたく候へば」亡者であるが、逆立ちでは渡渉出来ないということを意味している。この辺りは「さかさまの幽霊」の持つ、何らかの隠れた意味、倒立した亡魂は水によって必ず妨げられるという象徴性があるように思われる。

「あわれ」感動詞。「ああっつ! 何とか!」。

「ぶへんの人」「武邊の人」。心の勇猛な、逆立ちした女の霊をもものともせぬ剛直なる御方。

「わたしてもらいたく」「渡して貰ひたく」。歴史的仮名遣は誤り。

「此所」「このところ」。ここで。

「わうらい」「往來」。

「つねつね」「常々」。

「ごへん」「御邊」。貴方様。

「心がうなる」「心剛なる」。

「御じひに」「御慈悲に」。

「ろかい」「艪櫂」。舟を漕ぐ艪。

「かいをつとり」「櫂を押つ取り」。「押つ取り」は「押し取る」の音便で、「勢いよく、摑み取る」の意。

「いだきのせ」「抱き乘せ」。ここがいい! さかさまに立つおどろおどろしい女の亡者をお姫さま抱っこするのである! これでこそ、男の中の男である!

「女は屋むらをさして、とびゆきける」ここでも映像は倒立した彼女でなくてはならぬ。

「あとをしたいてゆき」その後を追って行き。

「庄屋がかど」庄屋の家の門(もん)、門口。

「たちぎゝ」「立ち聞き」。

「さけぶをと」「叫ぶ聲(をと)」。

「ほどなく、めかけのくびをひつさげいで」「程なく、妾の首を引つ提げ出で」である。前に述べたような情けない仕儀なれば(私の書斎では「さかさまの幽霊」がそれこそ埋もれて出てこないのである)、先に挙げたネット記載から引くと、元禄一二(一六九九)六月に江戸山村座で上演された「一心女雷神(いっしんおんななるかみ)」で、『絶間姫に恋慕する頼豪法師が、計画を練り絶間ゆえに死んで幽霊になったと見せかけて、口説こうとするシーンがある。「きつと思ひ出したり。幽霊の形になり、絶間ゆゑに死にたると謀り、心を引いてくどかん」と、弟子坊主が手に足袋をはかせ足にして、逆様なる形に成つて待ちゐたり。…彼のよろぼひ出て、「ああ苦しや、堪へがたや。…其方を深く思ひそめしが、さすが出家のあからさまには申されず、やる方なさに井戸に逆様に身を投げて死にました』(服部幸雄「さかさまの幽霊」より)とあるのに対し、一方で明和四(一七六七)年板行(リンク先は年号を明治と誤っている)の青本「思案閣女今川(しあんかくおんないまがわ)」には『白糸の滝の中から「さかさまの幽霊」が出現するシーンがある。「みつからは久国にころされ、にはのつき山にうつめしまつよひと申女也。」とあり、これは井戸に逆様に落とされて死んだ幽霊ではない』(同「さかさまの幽霊」より)。『右の二つの物語を比べてみる。前者の逆様の幽霊は、井戸へ逆様に身を投げたので(つまり死んだときに逆様の状態であった)逆様の幽霊として出現している。後者の逆様の幽霊は、無間地獄へまっさかさまに落下していく肉体の、その恐怖のイメージの表裏したものである。それは当時、井戸が冥界との通路と信じられていたからである。つまりは、実際逆様の形で死んだもののみが逆様の幽霊となるのではなく、浮かばれないでいる霊、解脱できない、迷える霊魂が形を与えられたものということである』。『それは、「因果物語」』(鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:曹洞宗の僧侶で仮名草子作家であったが、元は徳川家に仕えた旗本。本姓は穂積)が生前に書き留めてあった怪異譚聴き書きを弟子たちが没後の寛文元(一六六一)年に板行したもの。「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年であるから話柄自体は十六恐らくは少なくとも三十年以上は先行するものと考えてよいであろう)『(巻二ノ一)に収められている』「妬(ねたみ)て殺せし女、主(しゆ)の女房をとり殺す事」と、『「諸国百物語」(巻四ノ一)の「端井弥三郎、幽霊を船渡せし事」を比べてみると分かる。前者は不慮の妬みによって非業の死を遂げた女が、逆様の幽霊のまま復讐を果たす。すると翌日には苦患をまぬかれたため真様の姿になる。つまり、逆様の幽霊は成仏しきれず迷っている苦患の魂の表象であることになる。亡霊自ら、その苦しみに耐えかねて、早く成仏したい「常のごとく真様」になりたいと願っていたのである。一方後者は最後まで真様にならない』(下線やぶちゃん)とするのであるが、私はこの最後の解釈を実は留保したいのである。何故なら、この「ほどなく、めかけのくびをひつさげいで」という箇所を読んだ読者は、映像をどう心内に形成するかという一点に私は着目するからである。この引用のように彼女が先と同じく倒立していたとしたら、「めかけのくびをひつさげいで」ることは、私は出来ないと考えるからである。逆立ちした幽霊が首をその手に持っていたら、首は「ひつさげ」られるのではなくて、空中に一緒に反転して立ち上っていることになる。もし、正立した首だけが倒立した手から提げられているとしたら、これを「ひつさげ」と言い得るだろうか? というより、百歩譲って、この孰れかであったとして、生首をぶら下げた「さかさまの幽霊」というのは、どちらであっても表象し難く、しかも叙述が(特にこの異なった二種のどちらかであるならば、である)不可欠になるはずである。しかし、筆者はすこぶる自然にさらりと「めかけのくびをひつさげいで」と書いているではないか。これはもう――ここでは描出されていないけれども――私なら彼女を、もう、正立した姿の、晴れ晴れとした顔で、首を西瓜のように下に引っ提げた写真で絶対に撮る

「あんのごとく」「案の如く」。弥三郎が伝え、女の亡者の語った通り。

「ぜんだいみもん」「前代未聞」。

「せいばい」「成敗」。処罰。間違いなく死罪である。]

2016/10/20

谷の響 一の卷 十八 龜恩に謝す

 十八 龜恩に謝す

 

 明和の年間なるよし、鞘師坊(さやしまち)に左五郎といへる泥水匠(さくわん)のものあり。一日(あるひ)深浦に行くとて鯵ケ澤と赤石村の間を通れるに、磯際に烏多く群れてゐたれば何やらんと侍りて見るに、いと大きなる龜一個(ひとつ)在りて烏に圍繞(とりまか)れ、手脚も出し得ず不敢舒(いとちゞみ)になり有りけるに、左五郎惻隱(ふびん)がりて烏を逐ひ退(の)け、龜をば洋中(うみ)に放ししがこの龜十間ばかり泳ぎゆき頭を囘へし、謝せる容子して見えずなりぬ。

 左五郎はその日深浦に至りて投宿(とまり)けるが、其夜の夢に白髮の老翁枕頭(まくらがみ)にありて言へりけるは、今日嗣子(せがれ)なるもの助命の恩を蒙れり。いさゝか御禮申すべき旨あれば、歸路(かへり)にはかの龜を授けし處に彳寄(たちよ)りて賜るべしと見て覺めたり。左五郎奇異の思ひをなして又眠れるに、またこの老翁來りて諄々(かへすがへす)も向(さき)に申したる事必ず疑ひ玉ふなといひて失せりき。かゝりけるから左五郎は歸りに及び、かの磯際(いそぎは)に彳(たゝづ)みおりけるに、沖の方より一箇(ひとつ)の大龜泳ぎ爽れるありて、何やらん口に三尺もあるべきもの齟(くは)へたるが、その物を左五郎が足下(あしもと)に置き、頭を垂れ謝する容貌(かたち)して囘頭(ひきかへ)せり。

 左五郎こを取上げて見れば、三尺あまりもあるべき木の色ことに美しく漆の塗れる如くにて、いかなる樹といふことをしらず。持歸りてありしことを官府(おかみ)へ聞ゑ上げてこの樹を獻(たてまつ)れ共、吏人(やくにん)も亦これを知り玉はず。後、近衞殿に奉りしに、こは木※(ぼくたん)と言へるものにていと希なるものゝ由なれば、左五郎は平素(つね)も慈愛(いつくしみ)の情(こゝろ)あるから、かゝる稀なる物を得つるは奇特のものなりと、御賞賜として生涯一人扶持賜りしとなり。こは上の御日記にも載され、その時扱ひ爲したる縣官(やくにん)の上書(かきつけ)もあると見たりしとて、藩中七戸某なる人語られしなり。[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「難」。]

 

[やぶちゃん注:底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『この話は当時有名であったとみえ、津軽の古書にも記載が多く、大田南畝の「一言一話」にもみえる。年代も左官の名も一定せず、津軽旧記抄では明和五年十月に久田屋善四郎のことと伝え、永禄日記では明和七年のことにしている。とにかく西津軽の海岸では時折大亀か上ったとみえ、この話の数年前、明和元年六月に西の浜より八尺程の大亀が弘前へ来たと平山日記に書いてある』とある。但し、「一言一話」は「一話一言(いちわいちげん)」の誤りである。南畝の五十巻から成る大著の随筆・諸書引用記録で、安永八(一七七九) 年起稿で文政三(一八二〇)年に成立したもの。本「谷の響」は万延元(一八六〇)年の成立であるから、最長で八十一年、最短でも四十年も前の記載ということになる。明和の西暦は次から換算されたい。「八尺」は二メートル四十二センチ強。

「明和の年間」一七六四年から一七七一年まで。第十代将軍徳川家治の治世。

「鞘師坊(さやしまち)」底本の森山氏の「鞘師坊」の補註に『弘前市鞘師町。名の通り城下町特有の職人町である』とある。弘前城の西方直近で現在は鞘師町と下鞘師町に分かれる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 

「泥水匠(さくわん)」「左官」。壁塗りを仕事とする職人。壁塗り。泥工(でいこう)。宮中の修理に,木工寮の属(さかん:律令制で坊・職・寮のさいかきゅうの四(し)等官)として出入りさせたことに由来する。

「鯵ケ澤と赤石村の間」現在の青森県西津軽郡鰺ヶ沢町と同鰺ヶ沢町赤石町の間。海岸線(グーグル・マップ・データ)。

「烏」「からす」。「鳥」ではないので注意。

「不敢舒(いとちゞみ)になり」三字へのルビ。「舒」は「伸(の)ぶ」で「敢えては舒ぶることせず」で、カラスに啄まれるので首と四肢を伸ばすことが出来ずになって、の意。上手い和訓である。

「十間ばかり」十八メートル前後。

「囘へし」「かへし」。

「深浦」底本の森山氏の「深浦」の補註に『西津軽郡深浦(ふかうら)町。藩政時代、寛永十二年に津軽四浦の一つとして奉行所がおかれた。日本海北部の良港で、北前船が定期に入港する交易港として栄えたが、明治中期以後衰微し、いまは漁港と観光宣伝に努めている』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「彳寄(たちよ)りて賜るべし」この「賜る」は補助動詞で、中世以降に発生した、動作者を中心に置いた尊敬語の用法。「どうか、必ずや、お立ち寄りて下さいませ」。

「諄々(かへすがへす)も」「諄諄」は「諄々(じゅんじゅん)と」で今も生きているように、「相手に解るようによく言い聞かせるさま」を言う。

「三尺」九十一センチ弱。

「近衞殿」弘前(津軽)藩主の別称と思われる。ウィキの「津軽によれば、久慈氏から養子に入った弘前藩初代藩主津軽(大浦氏第五代)為信は『近衛家の傍流を自称して藤原氏と称し』、慶長五(一六〇〇)年、『為信が右京大夫に任命された際の口宣案には「藤原為信」とあり、藤原姓の名乗りを朝廷から認可された』。また、第三代藩主津軽信義は寛永一八(一六四一)年の『「寛永諸家系図伝」編纂の際に、近衛家に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から、大浦政信』(津軽氏始祖とする大浦光信の三代後の大浦盛信の娘婿)『近衛尚通の猶子であると認められ、系図上において近衛家は津軽家の宗家とされたが、政信の実父が不詳であることから、政信を始祖とする系図に書き換えられた』とある。この明和年間の弘前藩主は第七代で津軽信寧(のぶやす 元文四(一七三九)年~天明四(一七八四)年)であった。

「木※(ぼくたん)」(「※」=「木」+「難」)不詳。識者の御教授を乞う。

「一人扶持」「いちにんぶち」。江戸時代の武士階級或いはそれに準じた地位の者への現物支給の米の給与単位。武士一人一日の標準生計費用を米五合に算定、一ヶ月で一斗五升、一年間で一石八斗、俵に換算して米五俵を支給することを「一人扶持」と呼び、これを扶持米(ふちまい)支給の単位としたものである。これは知行高五石の蔵米取(くらまいとり)の御家人が一年間に受け取る切米(きりまい)に相当するもので侮れないものであるが、実際にその通りには給与されなかった(し得なかった)ことが殆んどであった。特に本話のすぐ後には、天明の大飢饉が奥州を襲っていることにも注意されたい。

「七戸」人名であり、ルビもないので読みは確定出来ないが、ルビを振らないということは地名と同様の「しちのへ」である可能性は高いように思われる。他に「しちと」「しちど」「しちし」「ななと」「ななど」等の読みが考え得られる。]

狂歌一首

動脈に龍の潛みし我が腦は否(ノー)と言へるを癤(せつ)とせるなり  唯至

ブログ・アクセス870000突破記念 梅崎春生 崖

 

[やぶちゃん注:本作は昭和二二(一九四七)年二・三月合併号『近代文学』に初出、後に単行本「桜島」(昭和二十三年三月大地書房刊)に再録された。

 簡単に語注しておく。

「兵舎の細長い居住甲板」以下、陸上の壕や兵舎が舞台であるが、海軍ではそれらの床も総て「甲板」と呼称するらしい。

「オスタップ」海軍用語。亜鉛又は木製の水桶で語源は“Washtub”。これで洗濯や洗顔をした。

「チスト」チェスト。“chest”。貴重品などを収納する蓋付きの大きな箱或いは整理簞笥。

「徴募兵」「徴集兵」のことであろう。所謂、徴兵制度によって集められた兵の意で、一般的には非自発的に集められた兵を指す。

「ネッチング」海軍用語。釣床格納庫。“netting”か(但し、海事用語では“netting knot”sheet bend)は二本のロープを結ぶ結び方の一つである「あた結び」(シート・ベント)の意)。釣床格納庫の様相は、サイト「路傍の詩」の第二〇五回の清水凡平氏の絵と文章を参照されたい。

「パイプ」海事用語。“pipe”。ホイッスル(whistle)・呼び子のこと。号笛(ごうてき)とも呼ぶらしい。

「内訌(ないこう)」「訌」は「乱れる」の意で、一般には国や組織の内部が乱れて互いに争う内紛を指すが、ここは自分の意識の中での混乱や義憤・鬱憤を指している。

「余瀝(よれき)」器の底に残った酒や汁などの滴(しづく)。

 本電子化は、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、アクセス数が870000アクセスを突破した記念として公開することとした。急遽行ったため、普段のテクストのように細かな注を附す余裕がないので、取り敢えず前に示したのは私の躓いた語のみに限った。【2016年10月20日 藪野直史】] 

 

  

 

 加納という男の姿を始めて見た時のことを私は今でもはっきり覚えて居る。それは何か花道を登場するといった風な感じで彼は私の視野に現われて来たのだが、その時の彼の挙動や態度にふと反撥(はんぱつ)めいたものを感じたのを私は今にして思い起すのだ。その感じは勿論その時だけで後は忘れてしまっていたけれども、彼との約二箇月間のつき合いを考えると、無意識のうちに根強くその感じが私に働いていたのではないか、そして彼も案外敏感にそれを感じ取っていたのではないか、という気がしないでもない。が、その間の経緯(いきさつ)はあとにして、始めて見た日のことを私は最初に書いてみようと思う。

 それはもう日が暮れて、風のある寒い晩であった。兵舎の細長い居住甲板に光の薄い電燈がぽつりぽつり点(つ)き、卓のあちこちには非番直の兵隊や下士官が低く私語し合っていたり、また当直から今下りて来たらしい兵隊が黙って晩(おそ)い食事をぼそぼそと食べていたりする。一種の緊張が鋭くその空気を支配していた。その緊張に脅(おび)えたように二三人若い兵が立ち上って、衣囊棚(いのうだな)の衣囊の位置を直したり、手箱の並びを整頓したりしているのだが、手箱の触れ合う堅い音がいやにはっきり響いたりするのだ。整理しなければならぬからしているのではない、只何となく追われるように手を動かしているに過ぎないということは、同じ兵隊である私にははっきりと判っている。だから私も立ち上って何かやらなければならぬのかも知れないと思うが、さてどうしたら良いのか判らないのである。あと四五日で正月という頃だから、いくら南九州とは言え隙洩(すきも)る風は身を切るように寒いのだ。私は胴ぶるいをこらえながら、居住区の片隅で、白けたような身の置き所も無いような気持でじっと腰かけ、盗むように四周(あたり)を見廻していたのだが、その時兵舎の入口近くにいた兵達の間にかすかなどよめきが起ったと思うと、入口から居住甲板の中央を貫く通路へつかつかと一人の兵隊が入って来た。此の男が加納であった。

 ――実は此の日が、私が佐世保から此の海軍航空隊に転勤して来た最初の日であった。私はひとりで汽車に乗り此の小さな温泉町の町外(まちはず)れにある航空隊へ、その日の午後入隊して来たのだが、私にとっては最初の航空部隊ではあるし、その上連れもなくやって来たという点もあって、心の中は不安でいっぱいだったのである。分隊士や其の他にもあいさつを済ませ、居住区に衣囊を下し、先刻から所在なくじっとしているのだが、それも決してぼんやりしているわけではなく、油断なく居住区の様子や兵隊の動きに気を配っていたのだ。居心地の良い処か悪い処か、勿論海軍一等水兵に過ぎない私にとっては如何なる部隊でも楽である筈もなかったが、つまり此処暫(しばら)くの私の生活の苦労の度合を一所懸命嗅ぎ取ろうと努力していた。ほんの一寸したことが兵隊の生活にどんなに影響するものであるか。たとえば此の部隊は吊床(つりどこ)であるか寝台であるか(此の居住区へ入って来るなり私は梁(ビーム)に並んだ吊床のフックを見て落胆した)また梁がどの位の高さであるか、通路の入口にあるオスタップの胴廻りなどを横眼で見ながら、私は次第に憂欝になっていたのである。オスタップにしろ、此の前の部隊のに比べるとたっぷり二倍の大きさがあった。あれに水を一杯入れて二人で持ち上げ右往左往することを思えば気が沈まない訳には行かない。夕食が済んだ頃から、

「有難うございました」

「有難うございました」

 通路に立ち挙手の敬礼をしながら、上陸(外出のこと)の兵隊が次々戻って来る。皆年若い兵隊はかりである。私のような応召の老兵はいないらしい。下士官が帰って来るとデッキから兵隊が飛び出して行って着換を手伝う。なるほどあんな具合に服を畳むのだな、靴磨道具はあのチストに蔵(しま)ってあるのだなと、一々検眼で納得しているうちに、日が暮れて次第に外が暗くなって来た。その頃から、まだ帰らないのは誰々かという詮議(せんぎ)のうちに、また二人三人戻って来たその後は途絶え、加納という兵隊だけがまだ帰って来ぬらしいことが、片隅にのけ者のように居る私にも判って来た。また加納がしくじりあがった、私の横手にいた上等水兵が舌打ちと共にはき出すように言った。帰隊時刻は十九時である。それに間もない。兵隊が一人自転車に乗りむかえに出て行った。そして十九時が過ぎた。

 軍隊で帰隊時間を切るということがどういう事か経験した人には判って貰えると思う。居住区の歪(ゆが)んだような厭(いや)な空気の其只中に、加納一等水兵が戻って来たのは、それから三十分以上も経ってからであった。花道を登場する感じと私はさきに書いたが、居住甲板に挿(はさ)まれた通路へ彼が足早に入って来たのを一目見た時、私はまことに予想を裏切られた感じであった。漠然とではあるが私は、年の若い一水がしょんぼり戻って来る光景などを予想していたのだ。私の眼にうつった最初の加納の感じは、一言にして尽せば鼠(ねずみ)のような男であった。色の悪いやせた小さな身体に、青いぴったりしない水兵服をつけ、縁(ふち)の歪んだ水兵帽の下の顔は紛(まぎ)れもなく四十歳に近い顔である。服の具合か両腕が非常に長いような感じであった。此の男も応召兵かと、私は胸を衝(つ)かれ、そして何か親近の感が胸にのぼって来たが、その前に私は加納の顔の表情にふと興味をうばわれていた。

 それはおそろしく冷たい感じの顔である。自分がしでかした事に対する不安やおそれの気配は微塵(みじん)もなく、むしろ昂然(こうぜん)と顔をあげて、通路をまっすぐにすたすたと入って来て靴を脱ぐと、彼を刺し通すような皆の視線をはじき返しながら、丁度一番向うの卓でひとり食事をとっていた暗号部の班長の処にゆき、風貌にそぐわぬ甲(かん)高い声で、

「加納一水、帰隊時間を切りました。御心配おかけいたしました」

 しんと静まった雰囲気の中に、その一語一語は私のいる処まではっきり徹(とお)って来た。

 時間を切るということ、これが同じ分隊の兵にどんな迷惑をかけるものか、また当人がどんな制裁を受けるものか、海軍に入って日が浅いとは言えあの男に判らないわけがない。鼠のように見すぼらしい恰好(かっこう)の彼がいささかもたじろぎを示さぬ態度を保つのも、不似合と言えは不似合だが、それ故にかえってふてぶてしい印象を皆に与えるのかも知れなかった。彼が入って来る前の居住区の空気から、彼が皆から憎まれ、又さげすまれているらしいという事を私は嗅ぎ取っていたのだが、だから私は、どの部隊にも良くある型の若い愚鈍な無神経な一水を想像していたのである。彼を最初一眼見たとき胸を衝かれるような気がしたのも、此の分隊唯一の老兵である彼に対する皆の憎しみが、そのまま老兵の私に適用されはせぬかという無意識のおそれであったかも知れない。入口から班長のところまで時間にすれば三十秒ほどの間、少し気負ったとは言えごく自然に見える彼の態度の裏に、私ははっきりと、肩を張ったポーズを、たとえば班長に申告を済ませた後に頰に浮んで消えたうすら笑いにも(他の者には笑いに見えなかったかも知れない)不自然な心の中の努力を感じたのだ。私は見まいとして、目が外らせなかった。腰を少し浮かし、デッキの一番むこうに立つ加納の後姿を、大きな上衣から伸びた彼の細い首筋のへんを、私は一心になって見つめていた――。

 それから甲板掃除が始まり、巡検のすぐ前に終った。吊床に入って待って居ると巡検の列がだんだん近づき、中央の通路を跫音(あしおと)を乱しながら通って行った。手提灯(てぢょうちん)の光で巡検の人々の影が、がらんとした天井や壁に幽鬼の影のように動いた。巡検終りのラッパが鳴ると、煙草喫う暇もなく私達は営庭を隔てた防空電信室にぞろぞろと集って行った。

 防空電信室は枯草地の中央にある半地下壕で、帽子を冠ったように土を重ね、厚い木扉から土階を降りると湿っぽい通路がつづき、更に木扉を開くと二三十坪の部屋の両側に台を据え、古びた無電機が並んでいる。電燈はあるが光が薄く、土の臭いが立った。私達はその土間に整列した。そこで加納一水は呼び出されてはげしい制裁を受けたのである。

 棒と言うよりも丸木と言った方が早いような荒くれた棒で、倒れないように両手を台に支えた加納の尻を、年若い逞(たくま)しい兵長が力いっぱいなぐりつける。棒が肉体に当る鈍い音がすると、加納は身体をよじるようにして堪えようとするのだが、苦痛の呻(うめ)きが自然と口唇から洩れて出るのだ。珍らしい風景ではない、度々私も見て来たことには違いないが、此のような地下の陰欝な雰囲気の中で、体力の乏しそうな老兵が力まかせに打たれるのは、思わず眼をそむけたくなるような情景であった。苦痛そのものよりは苦痛の予感の方が辛いのだ。此の眼前の情景は、何時(いつ)私に置き換えられる運命か判らない。私は身体を硬くして眺めていたのだが、やがてものの十本も加えられた時兵長は殴るのを止め、私達の方に向きなおりながら、

「兵隊としての分際を忘れた者は何時でもこうだぞ。判ったか」

 加納は、ほとんど両手で台にすがるようにし、膝は垂れて土間につきかけていたが、刑が終ったらしいことを知ったのであろう、気力を振い起して立ち上った。私刑(リンチ)の最中は彼は顔を両肩の間に伏せ、思うに苦痛の表情を皆から眺められるのを避けていた様子であるが、立ち上って私達の列に戻って来ようとする時の顔は、流石(さすが)に苦渋の跡を示していたとは言え、殴(なぐ)られたものがひとしく作るような卑屈な被征服者の表情ではなく、むしろ反抗をいっぱい漲(みなぎ)らした不敵の面貌であった。此んな見すぼらしい男の気力を支えているものは何であろうと、私はすこし驚きながら眺めていると、片隅から、待て、と言う声がして、今まで椅子に掛けてじっと見ていたらしい一人の兵長が中央に歩み出て来た。

「加納。も一度ここに来い。おれが徹底的に気合を入れてやる」

 肩の肉の厚い、もう二十四五と見えるところから徴募兵であろう、金義眼(かなつぼまなこ)の奥から眼を光らせて、

「年寄りかと思って手加減してやればいい気になりあがって」

 もとの台の処に戻り同じ姿勢をとった加納の肉体に再び樫の丸太が風を切って打ち落された。ぼとっという音と共に枝を離れた芋虫のように加納の身体は苦痛にもだえるのだが、

「何処で遊んで来た。温泉宿の赤提灯(あかぢょうちん)か」

 そして丸太が再び風を切り、

「何と言う女と寝た。はっきり言え」

 打ちおろされる度に、あっあっと言うような短い叫びを加納はあげ、それが返事のように聞えでもするのか、その兵長は何か引き剝ぐような面白さに駆られるらしく、なおも卑猥(ひわい)なことを喚(わめ)きながら力を振って棒をうちおろした。憑(つ)かれたようなその仕草を見ていると、私の身体も思わずふるえ出した。それは責任の無い暴力である。暴力の結果についてこの兵長は、何も顧慮する気持がないにちがいない。斜めに冠った略帽、短い事業服の袖から出た隆々たる腕、踏張った足の太さ、小児の無責任性をそのまま持って大人となった感じの此の男の腕が棒を振り上げる毎に、私は心の中で声無き叫びを加納に立てているのだが、

「今あやまったらいい。何故あやまらないのか」

 私刑の始めに嘆願してもそれは絶対に無駄だ。兵長が殴るつもりなら如何(どん)な事をしても殴る。しかしある程度殴ったとき、機をつかんであやまれはそれで済むのだ。その機とは半年も兵隊の生活をすれば、必ず判って来る。兵隊の本能のようなものだ。何故、今此の瞬間をとらえてあやまらないのか。加納が打たれる光景から私は気弱く目を外らせながら、そのようなことを考え念じ詰めていた。――

 それからまた長々しい訓辞があり、そして私達は解放された。壕を出ると風が冷たく、見上げると満天の星であった。暗がりの中を草原の凸凹に悩みながら兵舎の方にあるいた。このまま何処かに行ってしまいたい。そんな思いが切なく胸一ぱい拡がって来た。

 居住区へ戻り私は自分の吊床のそばで服を脱いだ。服が冷えて凍えた指では仲々脱ぎ難い。通路で靴を脱ぎ私の方に近づいて来る人影があった。身体の恰好ですぐ加納だと判った。加納の吊床は私の隣である。私に背を向けて同じく服を脱ぎ出した。一寸ためらった揚句(あげく)、加納一水、と私は低い声で呼びかけた。今日入って来た兵隊だがよろしく頼むというような事を私が言うと、脱ぎかけた手を休め、加納は振り返って暫く私を見ていたが、突然、

「お前は何時の兵隊だ」

 私が六月の兵隊である旨(むね)を答えると、彼はさげすむような薄笑いを口辺に浮べ、突離すような口調で言った。

「おれは五月の兵隊だ」

 それきり黙って服を脱ぎ、私の方を振り返ることなく吊床に上った。私も事業服を畳み枕の位置に置き吊床にのぼった。毛布は三枚入っていたけれど、身体は仲々あたたまらなかった。足を曲げ毛布を捲(ま)き込むようにし、暫(しばら)くじっとしていた。今の言葉の意味を考えていたのだ。若い現役兵ならいざ知らず、海軍に入って何箇月になろうと、それが私たち老兵にとつてどんな意味があるのか。私も今孤独であり、また加納の殴られたあとの孤独の気持も判るから、応召兵同士の親しみをこめて働きかけた出ばなをぴしゃりと叩(たた)かれた感じである。加納が今まで此の分隊でどのような取扱いを受けて来たか知らないが、そんな気持を突ぱねるほど気分が荒(すさ)んでいるのか。私が今まで同じ応召兵に対したように、お互いの弱さの部分でなれ合おうとした気持を、こんなに冷たく突離され、ふと悔ゆる思いもあったが、なお、それにしても此の男は一体どんな男なのか、何を考えているのかと、眠れぬままにぼんやり私は考えつづけていたが、先刻打たれて土間にたおれ、そしてまた起き上って来たときの加納の顔を、私は何となく思い浮べていた。それは酒に酔ったように真赤な、そして血走った白眼の中に瞳だけが燃えるように何かを求めて動いていた。光線の加減か、それはむしろ兇悪(きょうあく)な表情に見えたのだ。 

 

 暗号室は電信室と共に隊の本館の二階にあった。日のよく射さない暗い部屋で、卓の上は大小無数の暗号書や乱数盤がいつも取り散らされてある。前の所属には整頓にうるさい下士官がいて、いつも暗号書は棚にきちんとしていたので、此処に来て私は暗号室に入る度に奇異な感じがした。人の家風は玄関の下足の揃え方で判ると言うが、此処の気風もあるいは之にあらわれているのかも知れないと私は思った。私は次の日、加納と同じ当直の組に入れられたのだ。そして毎日時間を定めて此の部屋で勤務についた。忙がしい日課がこうして始まった。

 暗号室は扉を隔てて電信室となり、之がまた途方もなく大きなリノリュウム張りの部屋で、廊下を隔てて暗号長室、電信長室、電話室などが連なる。二三日にして私は此処が兵隊にとってどんなに辛(つら)い分隊であるかが身に恥みて判って来たのである。

 朝六時、総員起し五分前を兵舎番兵が触れて歩くと、私は吊床からはね起きて相棒の一等兵とオスタップを提げて水汲みに飛んで行く。それから夜は巡検後の整列が終るまで、自分の時間というものは文字通り一分もなかったのだ。ことに此処で辛かったのは甲板掃除である。甲板掃除は此処では朝夕共掃布(そうふ)を使うのだが、その水の冷たさもさることながら、掃布を使用する床の両横の広さが私を参らせた。先に書いた部屋部屋、それが済むと居住区の長い甲板、最後に通路を五六回「廻れ」の声に追われて往復すると、足はがくがくし目くらむ程であった。その上夜は夜で猛烈な吊床の教練が始まる。

 吊床というものは、一寸見た眼には寝心地良さそうな暖いように見えるかも知れないが、内に寝ている者にとっては、身体は匙(さじ)のように曲っていて窮屈だし、また冬は奇妙に寒いのだ。しかしそれは我慢出来る。問題は吊床の上げ下しにあるのである。毛布を三枚も四枚も入れた吊床を如何にして短い時間にくくり上げるか、またネッチングからおろした吊床を如何にして早く所定の位置に持って行き、そしてパイプ一声、フックに環をかけ繩を解きほぐし直ぐ寝られる形にまで持って行くか、勿論(もちろん)これは艦隊戦闘に応ずる為には必要な熟練には違いなかったが、訓練の名を借りて兵長連が必要以上に若い兵隊を苛(さい)なむ好個の行事であったのだ。此処では特にそれが烈しかった。続け様に七八回も吊床をくくったり解いたり、最後には全身汗みどろになるまでやらされるのである。早く出来たものから馳(か)け出して行って順次に並ぶ。吊床の繩が如何に取扱いに難いものであるか、くにやくにやしている癖に絶対に此方の意のままにならないのだ。それを息せき切ってどうにかこうにか処理し終えると懸命にかけ出すのだが、何しろ若い張切った兵隊と競走して私に勝目があろう筈(はず)がなく、大ていどん尻に近く行列の後にくっついて袖で額の汗を拭いながら振り返ると、その頃になっても吊床について繩を手繰(たぐ)ったり巻き上げたり、そして別段狼狽(ろうばい)する風もなく、並び吊られた吊床の下をくぐって歩いて来るのが決まって加納一水であった。兵長が箒(ほうき)の柄を逆に持って叫ぶ。

「遅れた者から三名、一人ずつ出て来い」

 棒よりは増しだがあの細い幕の柄とて馬鹿にならないのだ。思わずウッと口から呻き声が出そうになるのを堪えて、三四本打撃を尻にうける。そしてまた、総員起し、と兵長が喚(わめ)くものだから、今度も打たれてはたまらぬと血相を変えて自分の吊床へ向って飛んで行く。これが毎夜のことであった。

 三十歳の峠を越そうという人間が、二十になったやならずの兵長の喚くまま、汗水垂らして掃布握って床を這い廻り、眼の色変えて吊床を上げ下げする図は、どう考えても気の利いた風景でない事は私といえども百も承知しているのだが、しかし当時の私の気持としてはそうするより道がないのであった。私はどんな環境にも適応することによって、自分の精神や肉体が傷つくことから避けようと考えていたのである。自分をなるべく平凡な目立たぬ兵隊に仕立てる事で、下士官や兵長の眼から出来るだけ逃れていたかった。流線形が水中で最も抵抗の少ない形であるように、私は意識して現実の摩擦を避け得る形をとろうと努力していたのだ。(何事にも目を閉じ死んだ気になって)と私は自分に言い聞かせ、時に浮び上ろうとする自己侮蔑(ぶべつ)の思いを押え押えしているのだが、しかしその度に吊床の下をくぐって悠々と歩いて来る加納の姿が、急に或る意味を帯びたものとして思い出されて来る。それは何かにがいものでも口の中に押し込まれるような感じであった。その時の加納の顔は、おれは仔細(しさい)あってわざとゆっくりやって来たのだぞという表情を露骨にあらわしているのだが、それは言わば殴られるのを自分で志願しているようなもので、私も少なからずはらはらするのだけれども、兵長達もいつもどん尻になる加納を一々かまって居れないのか、あるいはそんな態度を年寄りの愚鈍さと解しているのか、私から見れば兵長等の暴力に対する霹骨な挑(いど)みと見える彼の挙動が案外そのまま見逃されているようであった。

 入隊して忙がしい四五日が終った。昭和二十年の一月元旦が来て、私は居住区で酒を飲む下士官や兵長のために肴(さかな)を烹炊所(ほうすいじょ)に貰いに駆け廻ったり、酔っぱらった兵長の代りに当直に立ったり、目の廻るような忙がしさのなかで、よそごとのように三十歳になっていた。やっと巡検後仕事を終えて自分の体となり、私は寒風の営庭を走り抜けて兵舎の陰の煙草盆に行き、ふるえながら今朝から始めての煙草の煙をふかぶかと喫(す)い込んだ。空には血のように赤い満月がかかり、兵舎の影は黒々と地に落ちていた。煙草盆には私の他に唯一人いて、それが煙草を喫い込む時ぱっと明るく照らされた顔はまさしく加納であった。私は思わず親しさが胸にあふれ、傍に近づいて行った。

「加納一水じゃないか」

 加納はびくりとしたらしいが、私であることを認めると「村上一水か」と低い声で言った。そして暫(しばら)く黙ったが、私は一日中こんなに多忙であったにも拘らず、誰とも言葉らしい言葉を交していなかったし、また入隊以来の内訌(ないこう)した気持を何かしゃべることによって散らしたい願いにかられていたから、兵舎の壁に寄りかかる加納に肩を並べ、むしろ押すようにしながら話しかけた。

「此処は非道(ひど)い処だね。よく今まで一人で我慢したな」

 加納は肩をすぼめて煙草を忙がしげに喫ったが、やがてぽつんと、

「こんなものじゃない。もとはもっと非道かった。俺は三箇月もいるんだ」

「まるで一日中煙草喫う間もないじゃないか」

 ふふ、と加納は低く笑って、

「煙草のみたければ何時でものみな。誰に遠慮してるんだ」

 嘲(あざ)けるような口調であったが、急に語調を変えて、

「今まで何処に居たんだ」

「佐通(佐世保通信隊)から来た」

「お前学校出だというのはほんとか」

 私が黙っていると、加納は煙草を煙草盆の中に投げ込み、大きな欠伸(あくび)をしながら、

「学校出ともあろうものが、どこの土百姓の伜(せがれ)とも知れない奴から追い廻されて、掃布握って這って廻るのも大していいざまじゃないぞ」

 私も少しむっとして、

「しかし皆の前で犬猫みたいにぶたれるよりは良いからな」

「ぶたれるのにこりたな。バッタがこわいのか」

「こわくは無いさ。あんな小僧っ子から打たれるのは恥辱だからよ」

「恥辱?」加納は身体をずらして私の方に向き直った。

「打たれるより、小僧っ子が喚くまま蟷螂(かまきり)みたいに尻をおっ立てて床を這い廻る方が恥辱じゃないのか」

「そりゃそうかも知れないが」と私は少しどもり、「しかし掃布持って走り廻っているのは自分で進んでやってると思えば済むからな。ぶたれる方はそうは行かない。此方(こっち)の考えの紛れようがないじゃないか」

「うまく胡麻化(ごまか)しあがる」加納はまた嘲けるような短い笑い声を立てた。「おれはな、そういう考え方に我慢が出来ないんだ」

 烈しい口調であった。白(しら)ける気持があって私は黙って煙草をすって居ると、悪いと思ったのか暫くして彼は、自分の顔をゆっくり私に近づけながら、

「お前はいくつになる」

「おれは今日から三十だ」

「三十?」ふっとさげすむような口調で言うと、「おれは、今日で三十九歳よ。いい加減気の利いたものなら功なり名とげて、妾(めかけ)の一人も置いている歳だぁ」と言っていることとは反対に、言葉の調子はひどく沈痛にひびいた。 

 

 此の日からしかし、私は加納に急速に近づいて行ったようである。近づいたと言っても、まだ私に対する彼の言動の端々に私の理解の出来ない排他の風情(ふぜい)があったが、それは私に対してだけでなく他の一等兵に対しても彼は猶(なお)露骨に示していたから、彼はもともとそんな性格なのだろうと考えただけで私は深く気にとめなかった。また深く考えるほどの余裕も私にはなかった。ただ当直が同じではあるし吊床が隣り合せであるから、自然彼の言動は残らず私の眼にうつって来る。

 寒い日が一日一日経った。無暗に忙がしいとは言え私もだんだん要領を得て来て、たとえば烹炊所(ほうすいじょ)に配食鍋をおさめて来る帰りに烹炊所の背後にある裏山の崖の下にある煙草盆で皆にかくれて一服することも覚えたし、時には防空電信室の当直を志願して一晩楽をしてみたりすることも覚えた。防空電信室は空襲の時に使用するために作られたものの、その頃は空襲など無い頃だったから、単に巡検後の整列に使用されるだけで、誰か一人兵隊が無電機などの番人として残るだけであった。これはまことに良い配置だった。

 烹炊所の背後の崖は高さは百尺ほどもあって、此の航空隊をつくるために切られたものではない証拠に肌理(きめ)は古び、枯れ残った羊歯(しだ)などがあちこちすがり付き、夕陽を浴びた時などの崖の肌は異様な赤さで私の視野にそそり立った。ああいう赤い岩は此の地方特有のものらしく、温泉と何か関係があるのだろうと私は今でも思っている。崖を廻って暫(しばら)く行くと内海となり、指揮所の建物が見えるあたりが此の航空隊の水上基地である。此の指揮所にも暗号員が一人ずつ交替で詰めて、飛翔(ひしょう)中の水上機と「多」という暗号書でもって連絡する。此の配置は、忙がしいという点では本部よりも忙がしかったが、一人であるから本部に居る時のように下士官や兵長から小姑(こじゅうと)的な苛(いじ)められ方をしないですむから、またこれも私の好む配置であった。しかし此処は熟練した者が必要だという訳で、私如きには仲々やって貰えない。おおむね私は本部暗号室に詰めて、電報の浄書などやらされる。時には加納が浄書をやることもあったが、大ていは私に押しつけられる。面白くない仕事だから暗号を引きたいと思うけれども、私が一番新しい兵隊だから仕方がない。

 若い暗号兵等の気持は、私は今もって判らないのだが、彼等は自ら志航して海軍暗号兵となって来たにも拘らず、実に暗号を引くことに於ては不熱心であった。上等兵になってもまだ暗号の引き方すらあやふやな者がいる位で、浄書に廻って来る彼等の草稿は字が汚いし誤りは多いし、誤字検出などに到ってはほとんど之を試みる風がないようであった。その間にあって加納だけは不思議に熱心であり、次から次へと電報を翻訳して倦(う)むことを知らない様子であった。しかし加納の場合は所謂(いわゆる)株を上げるために熱心であるのではないことは日頃の言動からおしても判るので、暗号を引いていると気が紛れるという点もあろうけれども、晴号の翻訳ということには一種の手工業的な面白さがあるせいにちがいないと私は思った。だから他の兵隊はそれを良いことにして難かしい電報を皆加納に押しつける。

 一度、浄書に廻って来た加納の草稿に明かな翻訳誤りを見つけて、私はそれを指摘したことがある。それも私は成意をもってやったのではなくて、それが浄書係りの一種の責任にもなっていたのだが、そうすると加納が顔色を変えて食ってかかった。

「どこが間違っているのだ。いい加減なけちをつけるな」

 何をそんなに怒るのだろうと私はむしろあっけに取られながら、私は加納の青ざめた顔を見返した。そして、此処の処の文章が可笑(おか)しいからも一度調べ直したらどうかと言ったとき、加納は指をぶるぶるふるわせながら、

「近頃此処に入って来たばかりで何も知らない癖に何だ」

 暗号員としての経歴も浅いのに僭越(せんえつ)だと言った風な口振りで私をにらみつけた。最初の日、おれはお前より一箇月早く海軍に入っているのだぞというあの言い方が未だに私の胸に残っているので、私はそのまま黙ってしまったが、ふと私は彼の考え方や感じ方に対するひとつの鍵が此の時、おぼろげながら摑めたような気がしたのである。

 此処まで書いて来て読み返してみると、此処に書かれた加納という男は何時も怒った顔で力んでいるように見えるが、之は私がそのような瞬間の彼ばかりを取り上げて書いたからで、私に対しても優越的な時には嘲弄(ちょうろう)的な態度を示すことは変りなかったにしろ、私は彼がもともと善良な型の人間であり、私にも時には不親切ではなかったことを認めなければならない。彼が此の分隊から半ば憎まれ半ば軽蔑されているのも、彼が時々事件を起して分隊員に迷惑をかけたり、また暗号は別として内務において不熱心であり不手際であったりする事、そしてそれ等のことに対して彼が後悔の色も反省の色も示さず平気でいることなどによるのであって、彼の暗号に熱心なことは皆認めていたのではないかと思う。昼食後の、課業始めまでの短い時間を、日の当る煙草盆などに年若い一水どもを集めて彼が自慢話などしているのは、遠くから見ればまことに罪のない風景であった。たとえば海軍に入る前の自分の生活を、志願兵の十五六の少年たちに話してきかせる。

「……日に五時間も働けば、二円か三円はすぐよ。おれなんぞは腕が良かったから、五円六円は平ちゃらさ。早いとこ仕事を切り上げて一風呂かぶって、あとは一杯やりに皆して出かけて行く。その頃で一本が二十銭か二十五銭よ。お前ら、まだ酒のんだこともねえんだろ」

 彼が職人か何かをやっていた時のことである。少年たちはまだ酒の味を知っている筈もないから、彼はそこで酒の味を微に入り、細をうがつて説明し始める。そんなことを説明している彼の表情を、一度私は仔細(しさい)に観察したことがあるが、彼の言葉は話がすすむにつれて次第に険を帯びて来る。いらいらしたものがだんだん眉の間に浮んだり消えたりし始めるのだ。

「酒飲んだ事もないお前たちにいくら聞かしても判るまいが、つまりだな、おれは今までに延数にしておちょうしを一万本か二万本を飲んだって話よ。こうやって海軍に引っぱられなきゃ今頃はおれは棟梁(とうりょう)か何かで……」

 そして何か詠嘆的な口ぶりで自分の不運をのろい始める。私は了解する。彼は今、海軍の一兵士として十五六歳の自分の息子のような兵隊と同列に置かれていることに腹が立って仕方がないのだ。だからどうにかして、自分がお前たちと違うということを示したくてたまらないのだ。おちょうしを一万本も飲んだことが彼等に対して誇りになることでも無いんだろうが、彼はそこにすがるようにして話をすすめて行く。勿論少年暗号員たちも、三十九にもなろうという親爺がそんなことを自慢にしているとは悟り得ないから、相槌をうちながら聞いているが、彼等の人間価値判断の根抵は海軍の兵隊として見込があるか無いかに尽きるので、いっこうに加納の意を汲んで加納を尊敬しようとはしないのである。それを感じて加納はますますいらいらし始めるらしかった。

「お前らには何を言っても、ぬかに釘だぁ」

 彼が好んで相手とするのは、去年の五月二十五日防府海軍通信学校に入った志願兵たちで、彼から見ると半箇月若い兵隊なのである。だからこんな言いたい放題のことを言うのだが、若いといっても自分より古い兵隊には彼も言いはしない。言いはしないが同じ気持は内訌(ないこう)しているので、自然と不貞腐(ふてくさ)れた態度になってあらわれるのである。

 此のような奇妙な自尊心は何であろう。自尊心、とは言えるだろうが、現実に見て観念的な悪あがきに過ぎないから、そんなことを積み重ねて行く度に、彼はますます救いのない泥沼に落ちて行くらしかった。そのことは彼にも歴歴と自覚されるらしく、彼は時あってか猛然として、自分が子供のような兵長や下士を恐れていないということを身をもって実証しにかかるのだ。実証すると言っても、誰にというあてはない。自分自身で納得(なっとく)が行けばそれでいいのだろうと思う。吊床教練の時でも始めから意識的に手をのろく動かして遅れ、そして自分では不敵なつもりの薄笑いを浮べながら行列の背後についたりするのはこんな気持のときなのだ。そして祭典的な物々しい身振りで両手を上げ、兵長の棒を尻に受ける。むしろそんなことに露悪的な喜悦をすら感じているらしい彼の挙動を眺めるとき、私の胸に浮び上って来るのは、悲しみとも怒りとも嘲けりともつかぬ一種の痛烈な感じであった。

 毎夜の吊床訓練でも、段々慣れるにしたがって私も余裕が出来、隣の加納の吊り方にも気がつくほどになっていたが、彼も私と同じく生来手足を早く動かすことは若手らしく、かてて老齢のせいもあって、吊床などは不得手に見えたが、それでも時には手順がうまいこと行って、済んで走って行き行列の中程に加わることもあったのだ。そんな時の彼はまことに嬉しそうに足音を立てて走って行き、行列の中から私などが悪戦しているのを晴れやかに眺めている。そんな時遅れでもしようものなら、あの加納よりも遅れたというかどで平常の二倍ほども殴られなければならない。だから私としても、加納の吊り方には極度の関心を持たざるを得ないのだ。

 私は知っている。彼はあの破局的な心境にある時でない限りは、手足を極度に有効に動かしてせめて列の中程に行きたいと努力している事を。しかし操作の中程にして、周囲の吊床から跫音(あしおと)が次々馳け出して行くのを聞くと、彼は急にのろのろとした動作に変り、さも始めからやる気は無かったんだぞといった風な表情で、皆の視線をはじき返しながら悠々とこちらに歩いて来る。一所懸命に努力し、その揚句(あげく)子供みたいな兵隊に後(おく)れを取るということが、またそれを他に知られることが、思うに彼には何ものにも増して苦痛であったのだ。その自尊心を傷つけられる苦痛に比べれば尻を打たれる痛みなどは物の数でもないらしいが、しかしそのような胡麻化しを重ねて行くうちに彼はだんだんやり切れなくなって来る。

 それはヒステリイの発作(ほっさ)のように、破局的な心境に彼がおち込むのは一定の周期があって、それは別段注意せずとも彼が私に対する態度ですぐ判った。彼をのぞけば唯一の老兵である私が、若年兵に伍して唯々諾々(いいだくだく)と勤務している、私にとっては(死んだ気になって)という無二の生き方であるにも拘らず、彼には下士官や兵長の腕力を畏怖(いふ)しての従順とうつって来るらしかった。此のような処に自分が落ち込もうとすることから踏み止まろうと、彼は無茶苦茶にあがいているのだから、そんな私の姿に彼は自分の最も厭らしい影を見るにちがいないのだ。その気持を、彼はもはやおさえることが出来ない。

「大学を出たといういい旦那が、何てざまだよう」

 パイプ一声、私が汗を流しながら吊床の繩をくくっていると、自分ものろのろと手を動かしながら、流石(さすが)に声をひそめて私にだけ聞えるように憎々しげに突掛る。下士官や兵長に対してと同じく、私は加納一水とも摩擦を起したくないので、聞えないふりをしている。その事が二重に彼のいら立ちをそそるらしかった。

 私は思い出す。あの最初の日、あらゆる肉体の苦痛を予感しながら、それでもそれを恐れていないことを自分に納得させようとして、彼は昂然と居住区の通路に入って来たのだ。眉一つ動かさぬあの英雄ぶりが、それへの自己陶酔が、彼の鼠のように貧しい肉体を昂然と支えていたにちがいないのだ。彼はその日以来外出止(ど)めとなり、十日に一度の上陸を禁止されていた。ある日私が外出番のとき朝用意をしていると加納がやって来て、自分の下宿に行って自分宛の手紙が来ているか見て来て呉れ、と私に頼んだ。下宿先からの文通は堅く禁じられている。曝(ば)れたら相当の覚悟をせねばならぬ。それを敢てする所に加納らしいところがあるとも言えようが、私が黙っていると、

「お前はまだ下宿持たんのだろ。おれの処に行けや。おれの名前を婆に言えばいい」

 外出して温泉地などに入り、まだ時間が余ったから、加納に教えられた道をぶらぶら歩いた。此の温泉地は名前は割に知られているくせにひなびた町で、板屋根の上に大根が並べてほしてあったり、低い庇(ひさし)をすすけた猫がひっそり歩いていたり、町角の小さな格子窓から湯気が流れ出る小屋が温泉宿であったりした。不規則な路を入って行くと突当りの傾いた家が加納の下宿であった。私は縁側に腰かけて芋など食いながら、老婆としばらく話をした。加納が帰隊時刻を切ったために外出止めになった事を話したら、老婆はひどく驚いた様子で、

「あの日はわたしがあんなに帰れ帰れと言うたんじゃがのう」

 時間を切ると大変だからと、老婆が時計を見い見い急(せ)き立てたにも拘らず、加納は炉端にすわり込み、頑固に動かなかったと言う。帰隊時刻は午後七時であるが古びた柱時計が七時を打った時、彼は薄ざめた顔でやっと立ち上り、そして老婆に暫(しばら)くは来られない旨を告げ、そして足早に立ち去って行ったと言う。訛(なま)りの多いたどたどしい老婆の話を聞きながら、私はふと涙の流れそうな気持を禁ずることが出来なかった。 

 

「おれはな、罰直がこわいから一所懸命にやってるんじゃない。海軍に呼ばれた以上、働くのがお国の為だと思うからこそ、精出して暗号も引き、下士官の洗濯だってしてやってるんだ。それをあいつ等はバッタがおそろしいから兵隊が働くんだと思ってやがる。可哀そうに子供の時から海軍に入っているんで、人間は追いまわされねば動かないものと定めてやがる。あいつ等はそんな風にしか頭が働かないんだからそれでもいいだろうが、おれは追い廻されて動くことに我慢が出来ないんだ」

 何故吊床を一所懸命に吊らぬのかと、私がある時たずねたら、加納ははき出すようにこう答えた。こんな風にしゃべる時は彼の気分も明るい時なので、これが陰欝な時だと私の質問など歯牙(しが)にかけない。一箇月早く入ったという優越を真正面にふりかざして、毒舌をもって報ゆる。私が先に破局的な気持と書いたが、それも私が彼の態度から推察しただけで、本当のところは判らない。が、わざと帰隊時刻を切ったり掃除を怠けて風呂に行ったりするのは、あきらかに常識を逸脱した行為であり、腹の中は絶望で真黒になっているとでも解釈しなければ説明つかないことであった。追い廻されて動くことは我慢が出来ぬ、とは彼が私にその度の表現こそ違え何度も言ったことだから、彼はその思想を私にだけではなく、あるいは追い廻す側の連中にも知らせたかったのかも知れない。それを、帰隊時刻をわざと切る、といった表現で示しても、果して兵長に通じるだろうかと、時に私は軽い嘲けりの心が起らぬでもなかった。

 二月に入ったある夜、私は非番直で寒風の中を烹炊所(ほうすいじょ)まで走って夜食を取って来た。夜食と言ってもそれはおおむね下士官や兵長が食ってしまうので、私達は文字通り余瀝(よれき)を頂くに過ぎない。それぞれ配り終えると私は下士官が食う山芋をせっせとすった。山芋は昼間非番直の兵隊が株を上げようと裏山から掘って来たものである。夜食を啜(すす)る音があちこちでする。私も腹は減っているし食べたくて仕方がないが、それでも我慢して山芋をすっていると、通路から先任下士が入って来た。その顔付が緊張しているので私は何事かと見守っているとその後から加納がやせた肩を張って入って来た。その表情を見たとき私はまた何か加納がしでかしたなと直覚した。

「夜食を置いて此処に集まれ」

 加納は苦しげな薄笑いを頰に浮べて、私達が集まるのを眺めていたが、例の長い腕でしきりに額のあたりをこするようにした。輪になった私達を見廻して、先任下士がとげとげしい声で言った。

「今日、加納がこういうことをした。皆良く開け」

 加納はその夜、防空電信室当番であった。そして先任下士が一寸用事があってそこに入って行った時、加納は椅子を並べてあおむけに寝ころび、莨(たばこ)をふかしていたのだ。それだけならその場で一つ二つ顎を打たれるだけで済んだろうが、壁側に据えられた無電機を廻して、敵側の放送を聞いていたと言うのである。

 私はそれを聞きながら先夜のことを思い出していた。それは私がやはりその当番に当ったときで、所在なさに無電機をいろいろいじくっていたら、スピイカアから突然声が流れ出たので私はぎょっとした。

「……ミンドロ島における日本軍の抵抗はまことに微弱でありました……」

 あわてて受信器を廻して声を断ち切り、私はあたりを見廻した。声は鮮かに耳朶(じだ)にやきついて残った。訛りはあるが流暢(りゅうちょう)な日本語であった。私は背筋の冷汗がひえて行くのを感じながら、再び何となく四周を見廻した。もう一度受信器を廻して見ようかという欲望が猛然と胸の中で渦巻いた。私はかたく瞼を閉じ、そのような欲望をひとつひとつ潰して行きながら、自分に言い聞かせていた。日本の抵抗が微弱であろうと、日本が敗北しようと、今の俺と何の関係もないではないか。そのような好奇心を断つことで俺は今生きて居れるのではないか。

 その声を聞いた時の戦慄がふいに私の身体によみがえって来たのだ。あれは私が念頭から忘れようとする世界から直接通じて来た声であった。掃布をもってかけ廻ったり吊床と格闘したりする私の現実も、何時かはあの世界と共に生き又思考出来るという予想があるからこそ辛抱出来るので、今の此の惨(みじ)めな私の現実と並行してああいう現実があるということは、私には堪えられぬことであった。私は聞くべからざるものを聞いた感じで、しかも二三日はあの言葉についてばかり考えつづけて来たのだが。――

「加納、出て来い!」

 先任下士の手に、何時の間にか棒が握られている。兵隊が一人飛び出して行った。先任下士の手を押え何か言っている。あの金壷眼をした弓削(ゆげ)という兵長である。先任下士の手をわずらわすより私がやる、と言うのだ。海軍の愚劣なしきたりみたいなもので、二三度押問答の揚句、先任下士は棒を渡し「よく気合を入れとけ」と捨てぜりふを残して居住区を足早に出て行った。私は加納の顔にその時、何とも言えない苦渋の表情が浮んで消えるのをはっきりと見た。弓削兵長は残忍な眼を光らせながら、加納をにらみつけ、棒でとんと床をついた。

「売国奴!」

 額を汗で光らせながら小さな加納の肉体は脅えるように後すざりしたが、すぐ顔を上げて昂然と言い返した。

「売国奴ではありません」

 なに、と弓削は怒鳴ったと思うと猛烈な第一打が振りおろされた。

 見るに堪えぬ此の光景も、ついに加納が気を失い、オスタップの水を頭からかけられ、またその上で叩かれることで終った。全身濡れ、青ざめた加納の身体をすみに運び、私達は冷えた夜食を啜り、あと片付けをした。吊床に横たわりながら流石(さすが)に加納のことが気になって隣の吊床を盗み見ると、加納は吊床にうつぶせにまたがるようにして、微かな呻(うめ)き声を立てていた。痛みのためにあおむけに寝られないのは私にも経験があるので、そのような姿勢を取る訳もすぐわかったが、そんな時は下手に慰めるよりほって置いた方が気持が楽にちがいないから、私は胸が熱くなるような気持を押えて黙っていた。私は放送を、自らの手で断ち切り、聞かなかった。加納はそれを敢て聞いた。そして殴(なぐ)られた。それだけのことである。しかしそれだけの事を考えることは私に辛(つら)かった。出来るだけ意識をそれにむけないようにしながら、私は毛布の中にちぢこまった。肩先がしんしんと冷え、頭が偏(かた)よって痛かった。明日の日課を物憂(う)く頭に思い浮べながら、私はしだいにうとうとと眠って行った。

 暫(しばら)く平穏な日が続いたあと一つの事件(トラブル)が起ると、不思議にいやな事件が次々起って来る。加納が殴られた翌日、暗号室から暗号書が一冊紛失したという出来事が持ち上った。

 加納はその朝、起きぬけに弓削兵長にまたなぐられた。吊床が変っていたというのである。激しい吊床訓練で吊床につけられた名札が外(はず)れて飛ぶこともあって、また新しい名札を作り良い加減な吊床につけて置く。弓削の名札もそんな具合で外(ほか)のにつけかえられていたに違いないのだが、兵長級にもなれば最も寝心地の良い、柔かい毛布が沢山入った吊床だから、外のに変ればすぐ判るのである。勿論(もちろん)その責任は加納にある訳ではないが昨夜のこともあって加納は顎を三つ四つ打たれたのだ。

 昨夜の事にしろ今朝のことにしろ、彼が自ら企(たくら)んで打たれたのではなく、言わば尻尾(しっぽ)を押えられた形であるから、加納としても株を下げた感じが強いらしく極めて陰欝な顔をしていたが、午後三時当直交替になって一緒に居住区に戻るとき、黙りこくつていた加納が思いつめたように私にささやいた。

「おれは、あの弓削が憎い」

 眉を嚙み蒼い顔をしていた。それ切り黙って歩いた。水洟(みずっぱな)がしきりと流れ、私は事業服の袖で鼻をこすり上げながら、加納のあとをあるいた。居住区に着くと一休みする間もなく彼はネッチングに登って行った。弓削兵長の吊床を探し名札をつけ換えるためである。ネッチングのはしごをのぼる加納の貧寒な猫背を眺めながら、私はくしゃみがいくつも出て仕方がなかった。悪感(おかん)が背筋を這い身体のあちこちがしびれるようだった。明朝診察を受け暫(しばら)く休業しようかとぼんやり考えていた。

 晴号室から前直を呼びに来たのはそれから暫く経ってからである。私達が暗号室に戻って行った時も、現直の兵隊は手分けして卓の下や書跡の後ろなどを探していたが、それは何処にも見当らなかったのだ。紛失したのは「天」という暗号書である。「天」は終戦間際には、発受信両用の大型の冊子になっていたが、その頃は発信受信が別になった四六判程の冊子であった。小さなものだから其処らに紛(まぎ)れ込むこともないとは言えない。もともと此処の暗号室は整頓が悪く、必ずしも私達の当直の時に紛失したのではなく、偶然現直で整理したときに足りないのが発見されたのだ。暗号室にはよその隊の士官や兵隊も時には出入することもあったし、大てい当直の交替時に一人は残ることになっていても或いはそれが守られて居なかったかも知れないが、それにしても外部からの盗難ということは私には考えられなかった。暗号部の準士官や先任下士が蒼い顔で協議などしているのを見ると、何か物々しい雰囲気があって、その責任が自分にないことが妙に愉しい気がした。しかし此の責任は結局上の連中が負うとしてもその欝憤は必ず兵隊に廻って来るのだからその点は少し気懸りでないこともない。今までも一週間に一二度は、近頃気合が抜けているというかどで総員バッタを食っているのだから、行事だと思えば済むものの矢張り心にかかる。私も一応真剣な表情を作り、人の探した後の卓の下に一応もぐり込んだりして調べて廻った。日本の暗号書は朝鮮の部隊に送るとき何時もゴソッと抜かれているという評判だったし、今考えると米軍はそんな事に関係なく全部解読していた由だから、私達は当時何の為に仕事に苦労していたのか判らないようなものだが、その頃は一冊でも紛失するとすぐ暗号書が改変されるという慎重さで、だから此処の暗号士官らの狼狽(ろうばい)ぶりも判って貰えると思う。しかし之を外の隊などに公(おおや)けにするわけには行かないのだし、いくらいらいらしてもその廉(かど)で兵隊を殴っても出て来るというわけにはゆかないので、上の連中は皆不機嫌に眼ばかり光らせて暗号室を出たり入ったりした。その中に何とか名目をつけてバッタを食うにちがいないと思っていたら、その夜もはや総員整列の号令がかかったのである。早く診察を受けて休業になって置けは良かったと後悔したけれど、もう遅かった。

 ところが此の夜のおもむきは何時もと少々異っていたのだ。下士官以下全部整列した処で先任下士が何処から見つけて来たのか太い鉄棒を引き摺って、一語一語顔をひきつらせて訓辞した。此の隊で此の度ある不祥な出来事が起った。それは言わずとも皆知っているだろう。その為に暗号士以下非常に心配をされていて、私としてはお気の毒で見るに堪えない。それも直接監督の任にある私の責任であるが、各直長また兵長等の監督に気合が入っていないからこんな事が起ったのだ。此の事件に関する限り若い兵隊には罪がない。私は私のやり方で、此の不祥事のつぐないをする。――

 先任下士は善行章四本も着けた陰欝な感じのする男である。若い時から海軍で苦労しているに違いないから、言うことだって陰にこもり物すごい処がある。訓辞半ばにして今日は私達一水は叩かれずに済むらしいことが推察出来たのでその訓辞も比較的楽に聞いたが、打たれる身を控えてあれを開くと相当こたえるだろうと思った。訓辞が済むと、若い二等下士、兵長、それに先任上水あたりまで一人ずつ出て行って、次々に鉄棒でしたたか打たれた。鉄棒の一打一打が私の心に釘を打ち込むように響き、風邪性の悪感といりまじり烈しい嗜虐(しぎゃく)的な亢奮(こうふん)が、その度に私の肉体を衝(つ)き上げて来るような気がした。 

 

 翌朝診察を受けたら流行性感冒ときまり、私はネッチングの上に吊床を拡げて一日中寝ていた。熱が高いからうつらうつらしていると間もなく朝の甲板掃除が始まり、その物音が下から聞えて来る。水を流す音、後足で床を蹴立てて掃布を押して行く気配が近づき、「ま、わ、れえっ」とふり絞(しぼ)る声と一緒にまた方向を換えて遠ざかって行く。目を閉じているから音だけだが、見ているよりなお現実的に心に浮べられた。ほうきの柄で床をつく音、そしてオスタップを引きずる音。こうやって寝ている所を掃除している連中が下からにらめているような気がして、私は身体をちぢめて居たが、やがて潮の引いたように音が終ると、遠くで課業始めのラッパが鳴るらしかった。物音絶えた甲板のネッチングに私はひとり横たわっていた。

 熱の為かいろいろな想念が断(き)れ断(ぎ)れに浮んで消える。また此の病気がなおったら冷たい掃布を握って甲板を馳け廻らねばならぬことを考えたり、ふいに昔のこと、たとえば故郷に置いて来たパイプの形を思い出したりした。思い出すことに何の連絡もなかった。昨夜弓削が鉄棒で殴られた時、三つ四つ目あたりであの頑丈な男がよろめいて片手を床についた。土間の埃(ほこり)で弓削の掌が黄色く染ったが、そのまま立ち上らずにじっとしていたのを先任下士が略靴の先で蹴りつけた。戦慄に似たものがその時私の身体を奔(はし)り抜け、思わず横を向いたら、そうだ、低い笑い声が聞えたのだった。私だけしか聞かなかった。他の誰も聞かなかった。私の隣に加納の顔があって、それが歪んで眼ばかりぎらぎらと光った。笑ったのは加納だった。――それは狂気じみた短い笑いだった。――加納の背丈は五尺一寸位かしら。ネッチングの羽目板で何だかごとごと音がする。昨朝加納が吊床の件で殴られたとき唇が切れたのか血がパッと散った。白い事業服に一滴はねたのが、まるで紋章みたいに見えたっけ。……瞼の裏で何か黄色いかたまりがふくれたり縮んだりするのを眺めながら、私の聯想は次から次へと果しなく悪夢のようにつづいて行くのだが、毛布をかぶった私の耳に先刻からうるさく何か音が聞えて来るので、私は脚を伸ばして探ろうとすると、足指がひやりと冷たいキャンバスに触れた。毛布をはねのけて私が起き上ると、羽目板の破れを姿を見せぬ物音が走った。鼠だ、と思うと私はむやみに腹が立って、一体何を齧(かじ)ろうとしているのかとむき出しの右手を破れ目の暗い穴に突っこんだら、指が何かざらざらしたものに触れたのだ。こんな穴の奥に何が詰めてあるのか、私は腕の肌がぶつぶつになって来るのを感じながらも執拗に、中指と薬指でそのざらざらしたものを挾み、ずるずると引き出して来たとき、私はぎょっとして思わず指を引いた。それは赤表紙の、まぎれもなくあの「天」暗号書であったのだ。あの日猫背の体を丸めて虫のようにはしごをよじ登る加納の姿が、その瞬間反射的に頭に拡がって来た。二重写しのように、弓削が打たれるのを見つめながら吐息のような暗い笑いを洩らした加納の横顔が、奇怪な鮮明さで瞼のうらに浮び上って来た。私は顔の皮が冷たくなるような感じで、暗号書を再び穴の奥深く押し込んでいた。―― 

 

 暫(しばら)くなおりたくなかったけれども軍医が全治の診断を下したので、私は止むなく四日目に普通の勤務につくこととなった。三四日骨休めしたんだから元気回復したかと思ったら、甲板掃除などかえって辛くて、日課がまことに面白くなかった。しかし今怠けるとあとあとに響くと思って、私は精出して若い兵隊と共にかけ廻った。毎日冷たい水にふれるから、脚や手にはひびが切れ、風に当っても痛さが浸みわたった。あとは暖くなるのが唯ひとつの頼みだが、まだ彼岸までは一箇月もあることだし、指折り数えて待つ外はなかった。転勤命令が来るあてもなく何時まで此処にいるのかと私はうんざりした。実はあの四日間じっと寝ていた間、私は変に娑婆気(しゃばけ)が戻り、此処の勤務の愚劣なことにまこと嫌気がさして来たのである。勤務も愚劣だが、それを辛抱する自分の姿勢がなおの事醜悪に思われた。しかし之は始めから判っていることであった。今更事新しく反省することもないのだが、へんに感覚的になまなましく私の嫌悪をそそって来た。

 そんな日の午後であった。非番直であったから昼食のあと片付けも終えて暫くを煙草盆でぼんやりしていたら、加納が近づいて来て私に誘いかけた。

「裏の山に山芋ほりに連れてってやる」

 午後は整備作業というので、どうせ暗号書の鉛筆記入か何か肩の凝る退屈な仕事だから、私は二つ返事で賛成した。課業始めの前に出かける必要があった。整備作業に精出すより山芋掘りに力こぶを入れた方が上への受けは良いのだ。抵抗無き生き方を望むとは言え、意識的に必要以上の奉仕を上官にする事を自分にかたく禁ずる心は私も持っていたが、何かその時は安易に応ずることが出来た。加納もあの日以来は幾分気持に小康を保っているらしく、荒(すさ)んだ振舞いもないようであった。暗号書のことも、私の念頭からうすれかけていた。

 烹炊所(ほうすいじょ)の裏から崖に斜めについた小径を、私達は一歩二歩踏みしめながら登って行った。天気は良かったが、風は登るにつれて強かった。岩や木の根を摑まえてゆるゆるとのぼった。径を前後しながら私はぽつりぽつりと加納と会話を交していたが、ふと思い付いて、

「此の間の放送、あれは何だったんだね」

 私は気軽な気持で聞いたんだが、あるいは加納はそれに触れたくなかったのかも判らない。少し眉をひそめ、いらいらした表情で私を岩角から見下したが、

「――日本が負けるつて話よ」

「比律賓(フィリピン)の戦局だね」

「比律賓だって何処だって同じよ。こんなことしていて勝つ訳がない」

「そりゃ敗けるかも知れないさ。しかしあれは比律賓だろ?」

 加納は機械体操のように木の枝をつかんで足を次の岩角にうつしながら、

「知りたければ何故自分で聞かないんだ」

 そう言いながら急に腹が立って来たらしかった。

「その為に俺は一人で打たれたんだ。俺一人の胸にしまっとく」

 腹立ちは判らぬことも無かったが、私はつい好奇心を押えかねた。

「けちな事いうなよ。若い兵隊同士じゃあるまいし。だいいちお前は運が悪いから打たれたんで、おれだってそっと聞いたことも何度かあるんだ」

 加納は登るのを止めて私を振り返った。そして暫(しばら)く黙っていた。そして又登り出した。頂上はすぐ近かった。私もついて登ろうとすると加納はこちらを見ず低い声で突然言った。

「お前はほんとにずるい奴だな」

 わけもなくその言葉は骨身にしみるような感じであったが、私は反撥するように、

「おれがずるいのか。馬鹿正直よりは良いだろう」

「馬鹿正直とは俺のことか」

「お前とは言わないよ。言わないがだ、そう言うからにはお前はずるくない」

「そうだ。俺はずるくない」

 加納は例のあざけるような口調ではきすてた。

 頂上であった。

 そこはまばらな枯草原となり、遙(はる)かに海の展望があった。格納庫が小さくいくつも連なり、海上を低く水上機が滑走していた。風の具合で音は聞えなかった。私達は風を避けて岩鼻を廻った。加納が突然早口で言った。

「お前は一所懸命兵隊の仕事をやってるが、一所懸命にやっている所をあの連中に見せたいのだろう」

「誰がそんなことを思うものか。加納一水、それはちがう」

「おれは、ちがうとは思わん。お前はいつも兵長のことを勘定に入れてんだ」

「そうか。そう思うのなら思ってもいいが、それがお前と何の関係があるんだ」

 加納はぼんやりした薄笑いを頰に浮べた。

「関係はないさ。しかし俺はお前が食器を抱えて烹炊所(ほうすいじょ)などへ馳けて行く姿を見たくないだけの話よ」

「俺だけじゃない。皆やっている」

「皆はやっているさ。しかしお前は三十歳だよ」

 私は身体中が冷たくなるような気がした。

「加納一水。年にこだわるのは止せ。兵長の言い草じゃないが、俺たちは年取っても若い兵隊なんだ。仕方がないじゃないか。おれは今の通りやって行く」

「追い廻されて働くのか」

「兵長が一水を追い廻すのはあたり前だろう」

「あたり前じゃないこともあるさ。一水が這いつくばっているのは、兵長に追い廻して呉れと頼むようなもんだ。だからあいつ等が増長するんだ」

 悲しみが俄(にわ)かにこみ上げて来た。私が懸命に兵隊の仕事をするのもあいつ等と無益のいざこざを起したくない為だ。それで身を削るような事をしたくない為だ。勿論あいつ等は人間の屑にすぎない。加納は歪んだ自侍(じじ)の念から、彼等の暴力を恐れて逃げたがる自分を釘付けにして、そして苦痛を受ける事で安心している。私は出来るだけ意識をあいつ等から離そうとしているのに、加納はかえって軽蔑すべきあいつ等に意識をからみつかせようとしている。そうだとすれば、愚劣な現実に頭を下げて角突き合せようとしているのは、私ではなくてむしろ加納ではないか。おれのやり方も悲しいかも知れないが、お前のやり方はもっともっと悲しいのだと、私は黙ったまま考えたとき、加納はするどく私の方をながめ、再び突き刺すように言った。

「おれがひとり打たれているとき、お前はどんな事を考えながら見てるんだ」

「何も考えはしない」

「馬鹿な奴だと思ってるんだろう。お前は悧口(りこう)だから、な」

自嘲するような口調であった。私達は岩角に腰かけていた。静かな怒りが次第に私の胸に拡がり始めて来たのである。私は岩角に手をついて振り返り、わざと憎々しげな口を利いた。

「弓削が打たれる時、お前は笑っていたな。あんな虫けらみたいな奴が打たれるのが何で嬉しかったんだ」

 ははは、と加納が笑い出した。断ち切るように笑い声を止めた。

「おれは笑いはせん」

「笑いはせんか。そうか。そんならどんな事を考えて眺めていたんだ」私の方に加納はむき直った。

「へんにからんで来るじゃないか。あいつ等がだらしないから暗号書を持って行かれるんだ。鉄棒で打たれていいざまよ」

「お前には始めから、その件であいつ等が打たれることは判ってたんだろう」

「あたり前よ。そんな件で俺達一水までお鉢を廻されてたまるか」

「暗号書は――しかし、あれは何処に行ったんだろう」

 加納は急にぼんやりした顔になり遠くを見るような目付をした。

「――気象科の兵隊だよ。間違って持って行ったんだ」

「それは確かか」

「そうだろう、と俺は思うんだ。いつもあいつ等は気象電報取りに出入りしてるからな」

 加納の瞳はそう言いながら、気のせいか不安気に動いた。私の胸をつく衝動があって、私は固いものでも呑み込むような息苦しさを自覚しながら、こう言ってしまったのだ。

「ネッチングの羽目板からでも出て来たら、また大騒ぎだぜ」

 ぎょっと身体を引いたのがはっきり判った。私の横顔を刺すように見つめているらしい気配を全身で感じ取りながら、私は掌で岩角をかたく摑み、暫(しばら)く張りつめた沈黙がつづいた。脚を伸ばしたあたりは赤土の短い急斜面となり、それが終る所に羊歯(しだ)が枯れ風にゆらぎ、そこからあの赤色の崖は垂直にきり立つらしかった。気流がそこらで渦を巻くらしく、微塵(みじん)が午後の冬陽にちかちかと廻転する。烹炊所(ほうすいじょ)の屋根、砲術科倉庫の屋根、その間を縫う赤土の道がまばらな松林に入り、その彼方は薄墨色のくらい海の色であった。視角のせいか変に距離感がなくて、べったりと貼りついた感じだが、見ていると粟立(あわだ)つような倒錯が起り嘔(は)きたいような厭な気がした。ああっ、と手を伸ばして加納が不自然な大きな欠伸(あくび)をした。岩の上で不安定に立ち上って、事業服の白い上衣を脱ぎかかった。

「さて」声は服の中に籠ったが、「そろそろ山芋ほりにかかるかな」

 私も身体を斜めにして手をつき、風景から目を外らしながら立ち上ろうとした。その姿勢が無理だったのか、位置のせいで感覚が倒錯していたのか、私には全然判らない、背中を圧するようなふしぎな力がはたらいたと思うと、あっと言う間もなく視界が急激に錯乱するのを感じ、私は全身から凝集した冷汗を吹き出しながら、赤土の急斜を横ざまに落ちかかって居たのである。それはおそろしい瞬間であった。頭の中が弾(はじ)けるように乱れたまま、私は必死となって何かをつかもうとした。私はしっかと左手で握っていた。それは加納の脱ぎ捨てた事業服の片腕であった。反対の片袖を、岩角に足を踏張った加納がにぎっていた。雨上りのずるずるした斜面を、私の両足は持ちこたえ切れずに一寸二寸とずり落ちて行くのだが、私の右手は枯草の根を摘んでいるものの、ぶきぶきと厭な音を立てて根が千切れかかるのだ。私は事業服にすがる左手の筋が緊張のために慄(ふる)え出すのを感じた。砲術科倉庫のトタン屋根の汚染(しみ)が、絶望的な高さで眼底をかすめた。私は芋虫のように無抵抗にぶら下り、顔を左肩にこすりながら岩の上の加納を必死の努力で見上げようとした。

 午後の薄ら日を背にして加納の顔は、下から見る加減か別人のように見えた。瞼が深く垂れ下り、石のような無表情である。事業服を僅か支える彼の細い両手が、それを私は必死に見つめているのだが、唯表情の無い棒のように動かなかった。非常に長い間そうしていたような気もするし、また極く短い時間だったような気もする。頰から血の気が引いて行くのが自分でもわかった。

(……手を離そうかどうかと考えているにちがいない)

 頰を赤土面にこすりつけ、私はも一度左手に全身の力をこめてずり上ろうとした。肩の筋肉がめりめりと鳴った。その瞬間事業服が頼もしい牽引力(けんいんりょく)でずるずると引き上げられるらしかった。

(しめた!)

 私の身体もそれについてずり上った。右掌が岩角を摑んだ。事業服を両手で抱き込むように引き上げようとする加納の全身が、一ぱい私の視野を占めて来た。私は岩角まで引き上げられたのだ。

 烈しい息をはきながら、二人ともすわり込んで暫(しばら)くは何とも言わなかった。暫く経ってから私は全身ががたがたとふるえ出して来た。それは押えても押えても止らなかった。私は顔を両膝の間に伏せ、濡れた犬のように何時までも慄えつづけていた。

 それから三四日経って私に転勤命令が来た。私は海軍一等水兵の正装をし、皆と帽振って別れ、正門から出て行った。振り返る度に隊の兵舎は小さくなり、赤い崖もかすんで行った。

 その後五六箇月経った頃私は北九州のある通信隊にいたが、そこにあの赤い崖の航空隊から近頃来たという若い兵隊が居て、私はその男から色々話を聞いた。あの隊はその後米機の空襲を受け、兵舎は全焼したという。あの暗号書もとうとう見つからずに燃えてしまったんだなと思った。通信料の連中はほとんど防空電信室に入っていたが、どういうわけか加納一人は入口の処に出ていて、破片で背中を強打し、すぐ医務室に運んだけれども暫く苦しんだ揚句(あげく)息を引き取ったということであった。空襲をこわがって防空室に逃げこむ気持が彼には或いは我慢出来なかったのかも知れない。その話を聞き、私はしばらく暗い気持から去ることが出来なかった。あの赤い崖の記憶が灼(や)けつくようによみがえって来た。あの時、今でも判らないのだが、私の背を押すような感じのしたふしぎな力は、あれは或いは加納の掌ではなかったのだろうか。もしそうだとすれは何故あとで私を救い上げたのか。またネッチングに暗号書をかくしたのも果して加納であったかどうか判らないことだ。それも私の高熱の幻で、羽目板に暗号書など無かったのかも知れない。何でも判っているようで、私には何も彼も判っていないのだ。ただ判って居ることは――と私は考える――私があの二箇月間、生涯に無い卑屈な気持で暮したことだ。そしてそれを恥もなく肯定して居たことだ。

 私はその若い兵隊の話を聞きながら、そのような事を考え、また赤い崖や加納の細い襟首の形などを反芻(はんすう)するように思い出していたのである。

伏兵発見サル

前頭葉の反側損傷から一年二ヶ月、予後観察でMRIなんぞを撮ったら、細かな部分まで見えてきて、思わぬ別な伏兵が潜んでいることが判った。

左内頸動脈に二箇所に直径1・5ミリと2・8ミリの未破裂動脈瘤が発見された。五ミリ以下のそれは破裂率は十年で数%で、ただに経過観察、僕のそれも同様の処置となった。

診察は何時もの通り、数分の医師の口頭のみで、一般的な「未破裂動脈瘤」の解説の紙っぺら一枚が渡されただけであって、動脈瘤の大きさも、僕自身が眼の前の画像のキャプションから読み取ったものである。

という訳で――今開いて見たら、ブログ・アクセスは恙なく670046アクセスに達していた。
これより記念テクストの公開に取り掛かる。

朝ぼらけ

朝ぼらけ各時期共鳴腦の翳   唯至


これよりMRI。帰宅後、ブログ・アクセス870000突破ならん。梅崎春生の「崖」を公開予定。では暫く御機嫌よう――

諸國百物語卷之三 二十 賭づくをして我が子の首を切られし事

 

    二十 賭(かけ)づくをして我が子の首を切られし事

 

Wagakokubi

 

 紀州にて、ある里に、さぶらひ、五、六人よりあひ、夜ばなしのついでに、

「その里より、半みちばかり行きて、山ぎわに宮あり。宮のまへに、川あり。この川へ、をりをり、死人(しひと)、ながれきたるまゝ、たれにてもあれ、此川へ、こよひゆきて、死人(しひと)の指を切りきたらんものは、たがいの腰の物をやらん」

と、かけづくにしければ、たれも行かんと云ふもの、なし。その中に、よくふかきをくびやうものありて、

「それがし、參らん」

と、うけあひて、わがやにかへり、女ばうにかたりけるは、

「われ、かやうかやうのかけをしたれども、むね、ふるいて、なかなか、ゆかれず」

と云ふ。女ばう、きゝて、

「もはや、へんがへ、なるまじき也。それがし參りて、指をきりてまいらん。そなたはそこにるすせられよ」

とて、二つになる子を、せなかにをひ、くだんの所へゆきにける。此川のまへに、壱町ばかりあるもりありて、物すさまじきをゆきすぎて、かのみやのまへにつき、橋の下にをりてみれば、女のしがいありしを、ふところより、わきざしをぬきいだし、ゆび、ふたつ、きり、ふところにいれ、もりのうちをかへりければ、もりのうへより、からびたるこへにて、

「足もとをみよ」

と云ふ。をそろしく思ひて、見れば、ちいさきつとに、なにやらん、つゝみて、有り。とりあげみれば、おもき物なり。いかさま、これは佛神のわれをあわれみ給ひて、あたへ給ふ福なるべし、と思ひ、とりて、かへる。男は女ばうのかへるをまちかね、よぎをかぶり、かたかたとふるいてゐたりしが、やねのうへより人廿人ばかりのあしをとにて、どうどうとふみならし、

「なにとて、なんぢは、かけしたる所へ、ゆかぬぞ」

とよばはる。男は、なをなを、をそろしくて、いきをもせずして、すくみゐたり。その所へ女ばう、かへり、をもての戶をさらりとあくるをと、しければ、さては、ばけ物、はいる、と心へ、男、

「あつ」

といひて、めをまわしけり。女ばう、きゝて、

「われなるぞ、いかにいかに」

と、ことばをかけゝれば、そのとき、男、氣つきて、よろこびける。さて、女ばう、ふところより、ゆびをとりいだし、男にわたし、

「さて、うれしき事こそあれ」

とて、くだんのつとをひらきて見れば、わがうしろにおひたる、子のくび也。こはいかに、となきさけびて、いそぎ、子をおろしみければ、むくろばかりありけり。女ばう、これをみて、なげきかなしめども、かひなし。されども男は、よくふかきものなれば、かの指をもちゆきて、腰の物をとりけると也。

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「かけづくにて子のくひを切事」(「切事」は「きること」。「きらるること」と読むのが正しかろうが、それは少し無理がある)。木の上をご覧になられたい。まさに本話の妖異の者が、烏天狗として形象されてあるのが判る。なお、頁末尾に「諸國百物語卷之三終」とある。

 本話こそ、小泉八雲の“ Kottō (「骨董」 明治三五(一九〇五)年刊)に載る、かの知られた名作怪談The Legend of Yurei-Daki(「幽霊滝の伝説」)の原型であると私は思う(それは私が小学校五年生の時に読んだ(昭和四二(一九六七)年角川文庫刊(三十三版)の田代三千利稔(みちとし)氏訳になる「怪談・奇談」)、私の最初の八雲体験の衝撃の一作であった)。「英語学習者のためのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)作品集」の原文と田部隆次氏訳を並べたそれをリンクさせておく)。八雲の直接の原典は明治三十四年発行の『文藝倶樂部』第七巻第十一号の「諸國奇談」十九の一篇「幽靈瀧」(松江・平垣霜月著)ではあっても、そのプロト・タイプはどう見ても、これである。【追記】後日、電子化注した小泉八雲 作品集「骨董」 (正字正仮名)全電子化注始動 / 幽靈瀧の傳說 (田部隆次訳)』もリンクしておく。

「半みち」「半道」。一里の半分。半里。二キロ弱。

「此川へ」「このかはへ」。

「こよひゆきて」「今宵行きて」。

「指を切りきたらんもの」「指を切り來らん者」。指を切ってそれを持って帰った者。この手の肝試しのやり方は概ね、行った証拠を当該地に残しておき、翌日の昼間に当事者らで出向いて、確認の上、「賭(か)けづく」、賭けた金品(ここは皆々の佩刀)を渡すのが通常。ここはそのかったるい翌日の検証をすっ飛ばして手っ取り早く、その夜の内に賭け物を提供しよう、というものである。しかし、如何にも忌まわしい仕儀である。

「よくふかきをくびやうもの」「欲深き臆病者」。この設定が、通奏低音の陰惨な本話柄に、滑稽味を添えてはいる。いるが、どうも、この侍、非常に気に入らぬ。

「うけあひて」「請け合ひて」。

「わがやにかへり」「我が家に歸り」。

「女ばうにかたりけるは」「女房に語りけるは」。

「むね、ふるいて」「胸、震ひて」。歴史的仮名遣は誤り。

「へんがへ」「變改(へんがへ)」。約束を変えること。

「そこにるすせられよ」「其處に留守せられよ」。

「二つになる子」数えであるから、この年に生まれたばかりの乳飲み子。

「せなかにをひ」「背中に負ひ」。

「壱町ばかり」百九メートルほど。

「もり」「森」。

「物すさまじきをゆきすぎて」「もの凄まじきを行き過ぎて」。

「かのみやのまへにつき」「彼(か)の宮の前に着き」。

「をりて」「降(お)りて」。歴史的仮名遣は誤り。

「女のしがい」「女の死骸」。

「もりのうちをかへりければ」「森の內を歸りければ」。

「からびたるこへにて」「枯らびたる聲にて」。しゃがれた声で。

「ちいさきつと」「小さき苞(つと)」。小さな藁苞(わらづと:藁の中に食い物や物品を入れて持ち運ぶために包みとしたもの。挿絵を参照)。

「いかさま」副詞。「如何にも!」「きっと!」「これ、恐らくは!」。

「よぎをかぶり」「夜着を被り」。

「かたかたとふるいてゐたりしが」「かたかたと震いて居たりしが」。がたがたぶるぶると震えて蹲っていたが。「震いて」は「震ひて」の転訛。

「やねのうへより人廿人ばかりのあしをとにて」「屋根の上より、人、二十人許りの足音にて」。

「どうどう」どんどん。オノマトペイア(擬音・擬態語)。

「すくみゐたり」「竦み居たり」。

「その所へ女ばう、かへり、をもての戶をさらりとあくるをと、しければ、さては、ばけ物、はいる、と心へ、男、「あつ」といひて、めをまわしけり」「をもて」はママ。救い難い男の滑稽が、寧ろ、悲しくなってくる。

「むくろ」「骸(むくろ)」。言わずもがな、赤ん坊の首のない亡骸である。]

2016/10/19

そろそろ寝よう

そろそろ寝よう。明日は早朝に脳のMRI――

谷の響 一の卷 十七 猫讐を復す

 十七 猫讐を復す

 

 文政八九年の頃なるよし、板柳邑の坪田嘉平次と言へるもの雌猫一疋飼ひけるが、春子猫を産みて日を經るまにまにいと愛らしくなりたりき。さるにこの人の邸裏(やしき)に梨子の大木ありて年々巣造る鳥ありけるが、當(この)年も亦巣を架作(つく)りて子を孵(かへ)して居たりける。一日(あるひ)この子猫ども椽頭(えんさき)に出て庭を駈走(かけ)りて遊戲(たはむれ)ありしに、巣なる親鳥飛來りて子猫一疋を抓(つか)みて巣に持行しが、その悲泣(なける)聲いと哀切(あはれ)にして杳(はるか)に聞え、見るものあれよあれよと言ふばかりなりしが、其隙に又一匹を攫ひ遂に三四日の間(うち)に四匹の子猫悉(みな)捕(とら)れたり。親猫いたく哀啼(な)いてその鳥を逐ひて木に昇りしに、多くの鳥群簇(むらむら)と飛び來りて却りて猫を殺さんとするに、嘉平次が嗣子(せがれ)なる者見堪(みこら)へかねて鳥を追ひ、猫を援(すく)ひて直ちに巣を落さんとするを、慈(なさけ)深かき親共なれば種々(さまざま)に制し侍るに、默止(もだし)がたくて歇已(やみ)たりき。

 さるに其夜戌下(さが)る頃、巣の鳥どもいたく鳴噪(さはげ)るに、何事にやと燈を照して樹の下に到て見れば、五六羽の子鳥巣と共に地に墮(おち)て飛びも爲し得ず嘈々蠕々(がやめきまはれる)が、その側少し避(さ)りて親鳥一羽咽喉(のど)より血を流し未だ死もやらず發踏(ばたつき)しに、樹の上に猫の聲ありしが忽ち下りて、親鳥をはじめ子鳥をも不殘(みな)噬噉(かみくら)ひて殺しけり。家内皆希代の事として人に語れるに、聞く人その智のかしこきを稱(たゝ)へぬものはなかりしなりと、己が母なる人語りぬ。恩を報ひ讐を復(かへ)すの情、人にも劣らざりけり。

 

[やぶちゃん注:「讐」「あだ」。

「文政八九年」一八二五、一八二六年。

「板柳邑」既注。北津軽郡板柳(いたやなぎ)町。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「架作(つく)りて」二字へのルビ。

「持行しが」「もちゆきしが」。

「悲泣(なける)」二字へのルビ。

「攫ひ」「さらひ」。

「哀啼(な)いて」二字へのルビ。

「却りて」「かへりて」。かえって。

「猫を援(すく)ひて直ちに巣を落さんとするを、慈(なさけ)深かき親共なれば種々(さまざま)に制し侍るに、默止(もだし)がたくて歇已(やみ)たりき」次の描写から見て、やや表現がぎくしゃくしている。「制し侍るに」の接続助詞「に」は逆接で、「默止(もだし)がたくて歇已(やみ)たりき」とは両親の行動に対する表現、則ち、巣を叩き落とそうとする嫡男の行動を黙って見ていることが出来ずに止めさせた、という謂いだからである。ここは正確には、息子が「猫を援ひて直ちに巣を落さんとするを、慈深かき親共なれば、默止がたくて、種々(さまざま)に制し侍りて、歇已(や)めさせたりき」とあるべきところである。

「戌下(さが)る頃」午後八時過ぎ頃から九時前まで。

「鳴噪(さはげ)るに」「なきさはげるに」。「さはげ」は「噪」一字へのルビ。

「到て」「いたりて」。

「嘈々蠕々(がやめきまはれる)」四字へのルビ。「嘈」は「喧(かまびす)しい・五月蠅い・騒ぐ」の、「蠕」は「這い回る」の意。

「側」「そば」。

「發踏(ばたつき)しに」二字へのルビ。

「噬噉(かみくら)ひて」「噬」は「嚙(か)む」の意。]

譚海 卷之一 紀州侯奸臣を刑戮し給ふ事

紀州侯奸臣を刑戮し給ふ事

○紀州家の領所勢州に十萬石あり。松坂もその内なり。松坂豪富の者おほく、人々江戸に肆廛(してん[やぶちゃん字注:商店・店舗の意。実は底本は「肆塵」となっているが、これでは意味不明である。原本の誤記と断じて、特異的に本文を訂した。]をひらき贏利(えいり)を得て渡世す。江戸に大家の聞え有(ある)主人は、古く松坂所住の者也。然る所紀州に收斂(しうれん)の臣出來て、此歳(このとし)領所の町人に用金を命じ收納する事と成(なり)しに、松坂の商人いつもその内に有(あり)。たとへ領地をさり他邦に土着し商賣するものも、子孫に至るまで所帶のある限りは責(せめ)とらるゝ事と成(なり)たるゆへ、生國を祕し姓名をかえて他邦にあれども、露顯に及ぶ時は用金を出(いだ)さする。強(しい)て命に應ぜざれば、そのところの領主代官等に斷(ことわり)、當人を紀州に呼(よび)よせ、數年禁錮等に所せられ、はたりとらるゝゆへ難儀にたへず。悪敷(あしく)しては産を破り、妻子離散路頭に號泣する程(てい)云(いふ)斗(ばかり)なし。三井(みつゐ)成(なる)ものは松坂本宅にして、京都・江戸所々にも呉服みせ有(あり)。富有なれば年々用金を命ぜられし事數度に及べり。明和五年冬三井を紀州へ召され、登城目見得(めみえ)の上(うへ)羽織をり賜(たまひ)、膳菜丁寧成(なる)事にて饗應ありし後、又用金を命ぜられければ、松坂へ還り卽時に五萬兩奉り謝しける。又翌年春命を奉じて吏(り)來(きたり)て十五萬兩、其年の師走までに奉るべきよしを催す。三井命にたへず、逐に門戸をとぢ病氣と稱し、吏再三來(きた)れ共(ども)あはざりけり。是等の事やうやう君公の聽(てう)に達し、嚴敷(きびしく)せんさくありて、姦臣の慘刻なる事をしろし召(めし)、大勘定の奉行松本甚五兵衞といふ者を手づから殺戮し給ひ、其餘切腹追放等連座によぶもの數十人、はじめて淸廉(せいれん)に復(ふく)しけり。扨(さて)松本が家を籍沒(せきぼつ)せられしに、臟金四萬兩餘あり。其外松坂の商人に貸置(かりおき)たる金子(きんす)の證文おびたゞしくあり。私慾顯然(けんぜん)なりければ、其證文をば松坂の莊屋年寄をもちて、當人に返し給(たまは)りぬるよし。莊屋紀州にて證文を受取(うけとり)、荷にこしらへて松坂へ持參申(まうし)けるが、馬四疋にあまりたりとぞ。

[やぶちゃん注:この話柄、極めてに細部まで詳細に語られており、「紀州」(紀州藩)で「大勘定の奉行松本甚五兵衞」とちゃんと明記されており、松本以下、連座で多数の「切腹追放」がなされているにも拘らず、ネット検索に全く掛かってこない。しかし、本文中に「明和五年」(一七六八年)とあることから、これは第八代藩主徳川重倫(しげのり 延享三(一七四六)年~文政一二(一八二九)年)の治世(藩主在任は明和二(一七六五)年~安永四(一七七五)年)の出来事であることが判る。ところがこの藩主、たった十年弱(九年十一ヶ月)の藩主在任で、しかも三十前で隠居している。ウィキの「徳川重倫を見ると、この藩主自体が、実はかなりのクセ者であることも判明する。『伊勢参りが趣味で』、『性格は徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、家人などに対して刃を振り回したりすることも少なくなく、そのために幕府から登城停止を命じられることも少なくなかったという』。大田南畝の『「半日閑話」によると、江戸屋敷で隣家の松平邸(松江藩)の婦女を銃撃したこともある。理由は、夕涼みをしていたその婦女が自分の屋敷を見下しているかのように見えたことが、重倫の逆鱗にふれたとされているほか、幕府から素行の悪さを咎められて登城停止を命じられていたため、その腹いせでやったといわれる。後日』、『幕府から使者が派遣されて詰問されると、「あれは鉄砲を撃ったのではなく、花火を打ち上げただけだ。なのに天下のご直参(旗本)が花火の音にうろたえるとは何事か」と言い返して笑ったという』。三十歳(数え)の『若さで隠居した理由は、あまりの素行の悪さから幕府に強制的に隠居を命じられたためともいわれる』とある。このトンデモ藩主なら、佞臣に気づかず、気づいた途端に怒り心頭に発し、大殺戮し兼ねない気は十分に、する。

「刑戮」「けいりく」刑罰に処すること。死刑に処すること。

「紀州家の領所勢州に十萬石あり」以前に注したが、紀州藩は紀伊国一国と飛び地として伊勢国南部(現在の和歌山県と三重県南部)を所領とした。伊勢国には飯高郡の全域と、三重郡に一村・河曲郡内に三十五村・一志郡内に五十八村・多気郡内に九十七村・伊勢神宮のあった度会郡内には百四十七村もの紀州藩領があり、伊勢南部三郡で十八万石あった(石高には家臣分を含む)とウィキの「紀州藩にある。

「松坂もその内なり」紀州藩の藩領(飛び領地)になったのは元和五(一六一九)年。これは紀州徳川家第一代藩主徳川頼宣が藩主となった年である。

「贏利(えいり)」儲け。利益。「贏」は「余り」の意。

「收斂(しうれん)の臣」「收斂」はフラットには「租税を取り立てること・収税」の意であるが、ここは以下の文脈から見て、苛斂誅求の取り立てをする酷吏(実は私腹を肥やす佞臣)と読める。

「はたりとらるゝ」「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。

「悪敷(あしく)しては」最悪の場合は。

「三井(みつゐ)成(なる)もの」現在の三井グループの家祖三井高利は元和八(一六二二)年に伊勢松阪(現在の三重県松阪市)で生まれている(三井広報委員会の記載)。ウィキの「三井家によれば、『三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない』第十二代『出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる』。『慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている』。『一方で高俊の四男高利は俊次の元で手代同様に働きながら経験を積み、一時は本町四丁目の店を任されるほどになったが、母の看病のため松坂に帰った。しかし俊次の死後』、延宝元(一六七三)年に『再起し、長男高平を江戸に送り込んで本町一丁目に呉服屋「越後屋」を出店した。高利自身は本拠を松坂から京に移し、彼の指図で越後屋は急速に業績を拡大し釘抜三井家を上回る大商店へと発展した』。貞享四(一六八七)年には『幕府の納戸御用』、元禄二(一六八九)年には『元方御用を承っている。また両替商もはじめ』、元禄三(一六九〇)年には『幕府の為替御用を受けるようになった。こうして高利・高平の北家が三井家惣領の座を確立した。高利は嫡子で』十人、庶子一人『の男子を儲け、本家と』六『つの庶家を創設した。しかし高利は死にあたって兄弟中の「身代一致」を遺言し、身代を惣領の指導に基づく兄弟の共有財産とすることで財産の分割を防いだ。この事で三井家は強固な結束を持つ共同組織となり、江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けた』。また、兄弟達は年元禄七(一六九四)年に『家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立するとともに、利益の一部から生活費として賄料が各家に対して支給され各家の家政と三井家の事業の分離が図られた』。北家三代『高房以降、代々当主は三井八郎右衛門を名乗った。高房は豪商達の興隆・衰亡を記した『町人考見録』を著して地道な商売の必要性を唱えて大名貸などの派手な取引を禁じていることで有名である。ただし、破産した取引先が持っていた大名貸債権を引き受けさせられたりしたため、三井家と言えども大名貸とは無縁というわけにはいかなかった。また、高房は贅沢を戒めることも説いているが、皮肉なことに北家と八郎右衛門を継いだ長男高美は美術品の蒐集や信仰していた西教寺への寄進などのために大元方からの多額の負債を抱え』、延享四(一七四七)年には『隠居していた父の意向で八郎右衛門の返上に追い込まれた。その後、出家して実子の三井高清(後に八郎右衛門を継承)に北家を譲った高美は三井家からの離脱を申し入れるものの、実際には秘かに借財を続けていたことが発覚』、宝暦六(一七五六)年に『義絶(一族からの追放)処分を受けている。もっとも、高美の例は極端なものであり、他の三井諸家でも賄料を越える奢侈な生活によって負債を抱えており』、安永三(一七七四)年には『三井家は』三つの集団(『三越越後屋を担う北・新町・家原・長井家と両替店・糸絹問屋を担う伊皿子・室町・南・小石川家と松坂の店舗を担う松坂・鳥居坂・小野田家)に分裂するとともに一族の借財や大名貸による負債を清算した。その後』、寛政九(一七九七)年に『再統合されるものの、その後も一族の借財や内紛は度々発生した』とある。本話は後に出る通り、「明和五年」(一七六八年)のことであるから、ここに出る「三井」は当時の当主であった第五代三井高清(たかきよ)か或いは第六代高祐(たかすけ)である。

「五萬兩」「十五萬兩」現行江戸中期の一両八万円換算説(ここではそれより少し前であるから、もっと高値と考えてよい)によるなら、それぞれ四十億円、百二十億円に相当する。

「君公」藩主。第八代藩主徳川重倫。

「せんさく」「穿鑿」。

「慘刻」「残酷」。

「籍沒(せきぼつ)」罪人の財産を官府が没収すること。]

甲子夜話卷之二 27 狂歌師、撰を請し者へ、冷泉家返歌の事

2―27 狂歌師、撰を請し者へ、冷泉家返歌の事

中村彌三郎が【富士見御寶藏番。和哥を善す】語しは、某【名忘】は江都にて名ある狂哥人、その道の宗匠とて居ける。或時狂哥集を撰て、これを京師に上せて、冷泉某殿【名忘】に點を乞けり。然に其後一向に沙汰なし。因復手寄を求て某左右を聞ければ、彼集を返されける。某喜で展覽するに、一首も點なし。こは何(イカ)にと再視すれども無し。然に册末に一首の歌を記せり。某よく視れば、冷泉殿の手跡と覺しく、

 

 敷島の道を橫ぎるかま鼬

      てんになるべき言の葉もなし

 

狂哥師これを讀んで、流石歌道の御家とて愧入たりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「狂歌師」「狂歌」は「戯言歌(ざれごとうた)」とも呼び、日常卑近の事象を題材とし、専ら、俗語を以って洒落や風刺を利かせた滑稽を旨とする短歌。「万葉集」の戯笑歌 (ぎしょうか)や「古今和歌集」の俳諧歌の流れを汲むものであるが、特に江戸中期以後に流行した。ここはそれを専業の生業(なりわい)とした「狂歌師で」の意。

「請し」「こひし」。

「冷泉家」「れいぜいけ」。近衛中将に代々任官された羽林(うりん)家(但し、鎌倉時代以降の公家の家格として発生)と呼ばれる家柄の公家。御子左家(みこひだりけ:藤原北家嫡流藤原道長六男権大納言藤原長家を祖とするが、特に平安末から鎌倉前期にかけて藤原俊成・定家父子が現れて歌道の家流として確立、以後は永く歌壇に君臨した。但し、「御子左」を家名として名乗った者はない。「二条家」とも呼ぶ)の分家。冷泉小路に家名は由来し、歌道の宗匠家の内の一つで現在も冷泉流歌道を伝承している。なお、室町中期には上(かみ)冷泉家と下冷泉家に分かれ、両家ともに現在に続く名家であるが、現在一般に「冷泉家」として知られるのは、江戸時代から京の屋敷が移転していない上冷泉家の方である(以上はウィキの「冷泉家」及びそのリンク先のウィキ等に拠った)。このウィキの叙述から上冷泉家で本「甲子夜話」の執筆(文政四(一八二一)年)前後の当主となると、第十九代当主冷泉為全(ためたけ 享和二(一八〇二)年~弘化二(一八四五)年)である。因みに下であれば、冷泉為訓(ためさと 宝暦一四(一七六四)年~文政一〇(一八二七)年)である。

「中村彌三郎」「【富士見御寶藏番。和哥を善す】」「善す」は「よくす」。不詳。「富士見御寶藏番」とは江戸城内の富士見櫓脇の藤見多聞(長屋造りの櫓の一種で武器庫)の横にある、現在、「石室(いしむろ)」と称されるものがそれらしく、江戸城の抜け穴・御金蔵という説もあるものの、大奥御主殿・御納戸の脇という場所柄から考えて、非常時の大奥の調度品や文書類などの貴重品を納めた「富士見御宝蔵」の跡と考えられているとある(KD氏の個人ブログ「城館探訪記」の「江戸城② ~富士見櫓・天守台~」に拠った)、そこの警備担当官であろう。

「語しは」「かたりしは」。

「某」「なにがし」。中村弥三郎でないのは、以下の割注で「名は忘る」とあるから明白。歌を善くしたなどと前にあるので、誤読し易いかと思い、敢えて注した。

「江都」「カウト(コウト)/えど」。二様に読める。私は音読みしたい人間である。

「撰て」「えらみて」。作品(この場合は総てが自作の狂歌)を集めて書物を作って。

「京師」「けいし」。京都。元来、「京」は「大」、「師」は「衆」の意で、多くの人々の集まる所の意である。

「上せて」「のぼせて」。

「點を乞けり」「てんをこひけり」。「點」は和歌・連歌・俳諧などに於いて批評添削 すること(その評価を表すために通常、作品の頭に打った印が点や丸印であったことに由る)。

「然に」「しかるに」。後のも同じ。

「因復」「よつて、また」。

「手寄を求て」「たよりをもとめて」。冷泉家と関係のある手蔓(てづる)の者、伝手(つて)を探して。

「左右を聞ければ」「さうをききければ」。返事を重ねて乞うたところ。

「彼」「かの」。

「喜で」「よろこんで」。

「再視すれども」「さいしすれども」。再びよく見て見たが。

「册末」「さつまつ」。

「手跡」「しゆせき」。

「敷島の道を橫ぎるかま鼬/てんになるべき言の葉もなし」「しきしまのみちをよこぎるかまいたち てんになるべきことのはもなし」我流で訳すと、

――「敷島の道」(歌道)を「橫ぎる」(乱暴に吹き荒んでおぞましくも人の肌を切り裂く)妖怪「かま鼬」なんどの作れる歌は、所詮、一つの点にも値せぬ駄歌ばかりにて、所詮「鼬」は「貂(てん)」に成れる、「言の葉」歌語を操って以って歌人に化け得る(「狐が葉を翳しておこがましくも人に化ける如く」のニュアンスであろう)力など、ありはせぬわ――

ここで「鼬」は、

食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科イタチ属 Mustela のイタチ類、或いは、その本邦の代表種ニホンイタチ(イタチ)Mustela itatsi

を、「貂」は、

イタチ亜科テン属ホンドテン Martes melampus melampus

を指す。孰れも毛皮として珍重されるものの、後者のホンドテンの中でも黄色や黄褐色で頭部が白い(黄貂(キテン)は最高級とされる。そうした有意な価値の差異を引っ掛けてある。因みに、「鼬」も「貂」もともに化けるとされるが、伝承によっては貂は、かの実在動物変化(へんげ)のチャンピオンたる狐や狸を上回る変化(へんげ)能力を持つともされ、また、「鼬」が数百歳を経て始めて魔力を持つ妖怪「貂」となるとする叙述もある(鳥山石燕「画図百鬼夜行」の「鼬」。題の漢字は「鼬」であるが、読み仮名は「てん」と振る)。そうした現実や幻想の二層の異なった時空間でも「貂」と「鼬」とでは階層の上下が致命的に異なる点でも、この冷泉当主の「戯れ歌」の皮肉は強烈と言えるのである。

「流石」「さすが」。

「愧入たりし」「はぢいりたりし」。

諸國百物語卷之三 十九 艷書のしうしん鬼となりし事

    十九 艷書(ゑんじよ)のしうしん鬼(をに)となりし事

 

 いがの國くふ八と云ふ所に、寺、六十間(けん)あり。一休(きう)、しゆ行(ぎやう)に出で給ひ、こゝにて日くれければ、宿(やど)をからんとて、寺々をみれども、人、ひとりもなし。一休ふしぎに覺(をぼ)しめし、のこらず、寺々を見給へば、ある寺にうつくしき兒(ちご)、一人、ゐたり。一休、たちより、

「宿かし給へ」

と、の給へば、

「やすき事にて候へども、此寺へは、夜な夜な、へんげの物きたりて、人をとり申し候ふ」

と云ふ。一休、

「しゆつけの事にて候へば、くるしからず」

との給ふ。

「しからば、とまり給へ」

とて、きやくでんにいれ、兒(ちご)はつぎのまにねられけるが、夜半のころ、兒(ちご)のふしたるえんの下より、手まりほどなる火、いくつともなくいでゝ、兒(ちご)のふところへはいるかとおもへば、たちまち、二丈ばかりの鬼となり、きやくでんに來たり、

「こよひ、此寺にとまり給ふ、きやく僧は、いづくにおはしますぞ、とつてくはん」

と、さがしまわる。一休、もとより、をこなひすましてゐ給へば、さがしあたらず。ほどなく夜もあけゝれば、鬼も兒(ちご)のねまにかへるかとみれば、きへにけり。一休、ふしぎにおぼしめし、

「兒(ちご)のねられしえんの下を、みせ給へ」

とて見られければ、えんの下に血のつきたる文(ふみ)、かずもしれずあり。しだいをたづねければ、方(はう)々より、この兒(ちご)をこひしのびよせたる文(ふみ)を、へんじもせずして、えんの下へなげ入れ投げ入れ、をきたる。その文主(ふみぬし)のしう心ども、つもりて、夜な夜な、兒(ちご)のふところにかよひ、すなわち鬼(をに)となりける也。一休、この文どもをとり出だし、つみかさねてやきはらい、經をよみ、しめし給へば、それよりのちは、なにのしさいもなかりしと也。

 

[やぶちゃん注:「艷書(ゑんじよ)のしうしん」恋文の執心。ここは女から男へのラヴ・レターの山から発生した女の恋の執心の滲んだそれの付喪神的な物の怪であって、一人の女のそれではないことの注意しなくてはならぬ。そこがそれ、この怪異の興味深いところなのである。

「いがの國くふ八」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『地名「喰代」の誤読。正しくは「ほうじろ」と言い、原三重県上野市喰代町のあたり』とある。現在、ここは三重県伊賀市喰代である。ここ(グーグル・マップ・データ)

「六十間(けん)」「六十軒」。無論、現在はそんなにないが、先にリンクした地図の画像を見ても、それほど大きくない集落の中心に曹洞宗青雲寺・浄土真宗正光(しょうこう)寺・真言宗永保寺を現認出来る。この山間で六十というのは尋常ではない。関西方面からの伊勢参宮の街道筋、また伊賀衆の本拠地「百地砦(ももちとりで)」もあり、何か因縁があるのだろうか? また、何故、多くが、消えたのか? まさか、この一休が鎮魂した「鬼」に恐れをなした訳でもあるまいに?

「一休(きう)」無論、かの室町時代の臨済僧一休宗純(明徳五(一三九四)年~文明元(一四八一)年)。

「しゆ行(ぎやう)」「修行」。

「うつくしき兒(ちご)」美しい彼がどうして一人残っているのか? 数多の女の一人にさえ惹かれることはなかったのは何故か? 或いはまた、この稚児も、先輩僧の同性愛対象としてトラウマを背負っているのかも知れぬ。かの「一休」(彼は男色はもとより、飲酒・肉食(にくじき)・女犯も平気で行い、盲目の側女(そばめ)森侍者(しんじしゃ)や実子であった弟子までいた)に「恋文の付喪神」に「美童の稚児」ときた日にゃ、こたえられまっせんぜ!

「へんげ」「變化」。

「しゆつけ」「出家」。

「きやくでん」「客殿」。

「つぎのま」「次の間」。

「兒(ちご)のふしたるえんの下より」「稚兒の臥したる(次の間の)緣の下より」。

「手まり」「手鞠」。

「兒(ちご)のふところへはいるかとおもへば」次の間との仕切りはなく、寝ている稚児の姿が一休から見えたのである。

「二丈」凡そ六メートル。

「きやく僧」「客僧」。

「とつてくはん」「捕つて喰(く)はん」。

「をこなひすましてゐ給へば、さがしあたらず」「行ひ澄あして居給へば、搜し當らず」。静かに勤行に専心して瞑想して座っておられたによって、鬼の曇った眼には、その清浄なる姿が全く目に入らず、探し当てることが出来なかったのである。こうした現象は、仏教説話や怪談でしばしば認められるシークエンスである。私は直ちに、上田秋成の「靑頭巾」の以下を想起する(リンク先は私の電子テクスト。講義ノートオリジナル現代語訳もある)。

   *

 夜更(ふけ)て月の夜にあらたまりぬ。影、玲瓏(れいろう)として、いたらぬ隈もなし。子(ね)ひとつともおもふ比(ころ)、あるじの僧、眠藏(めんざう)を出でて、あはたゞしく物を討(たづ)ぬ。たづね得ずして大いに叫び、

「禿驢(とくろ/くそばうず)いづくに隱れけん。ここもとにこそありつれ。」

と禪師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禪師を見る事なし。堂の方に駈(かけ)りゆくかと見れば、庭をめぐりて躍りくるひ、遂に疲れふして起き來らず。夜明けて朝日のさし出ぬれば、酒の醒(さめ)たるごとくにして、禪師がもとの所に在(いま)すを見て、只、あきれたる形に、ものさへいはで、柱にもたれ、長噓(ためいき)をつぎて默(もだ)しゐたりける。

   *

「兒(ちご)のねまにかへるかとみれば」「稚兒の寢間に歸るかと見れば」。この行動様式(稚児の懐から懐へ)が私には妖しくも面白くも感じられる。

「ねられしえんの下を」「寢られし緣の下を」。

「血のつきたる文(ふみ)」女が自分の誠心を見せんがために、己が指を喰い破って血で綴った血書(けっしょ)の恋文。

「方(はう)々より」方々(ほうぼう)の複数の女より。

「こひしのびよせたる文(ふみ)」「戀ひ偲び寄せたる文」。

「つみかさねてやきはらい」「積み重ねて焚(や)き拂ひ」。「はらい」の歴史的仮名遣は誤り。

「經をよみ、しめし給へば」「經を讀み、示し給うへば」。「示し」は、一休がその稚児を諭し戒めた、というのである。待てい! 一休さん! あんたに、諭し戒めるられたく、ないわい!……いや、待てよ……案外、禅僧で、しかも一休とくれば――「皆、その女子(おなご)衆ら、抱いてやれば、よかったのじゃて!」――なんどと宣うたのかも知れん。畏れ入谷の鬼子母神!

「なにのしさいもなかりしと也」「なにのしさい」は「何の子細」。これと言って妖しいことは起こらなくなったということである。]

2016/10/18

谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ


 十六 猫の怪  猫恩を報ふ

 文化の季年(すえ)の頃なるが、己が姻族に伊藤某と言へる人あり。平素に猫を愛して撫育(そだて)けるが、候(をりふし)十月の中旬(なかごろ)にして風凛冽(すさまじ)く吹さわぎ、零(おつ)る木の葉は雨のことくいと凌競(ものすこ)き夜なりければ、ひとり冷燈(ともしび)のもとに書(ふみ)を照して閲(み)て在るに、稍(やが)て二更とも覺しきころかの猫へろへろと出來り、席薦(たたみ)二疊ばかりのあなたに居り手をつかへて、嘸(さぞ)お淋(さみ)しく居られませうと人のごとくに言ひけるが、其聲韻(こえ)帛(きぬ)を裂くが如く房(へや)の中陰々(さえわ)たり、蕭然(さびし)き事言はん方なし。某きつと睜眼(にらみ)、さすがに主を想ふてよくも詞を言ひ出したり將(いざ)倶に語るべし、近く倚りねと言はれしに、かの猫主の顏を熟々(つくつく)望視(うちながめ)、忽(たちまち)身を起して座を去りしが、何地(いつち)に往きけん再び見る事なくして失せたりしとなり。

 又、是と同じく藩中田中英の妻、猫を愛して畜(やしな)ひけるが、毎旦(まいあさ)手巾(てぬくひ)の端(はし)の泥土(どろ)に汚(けが)れてありし故異(あや)しく思ひ、童僕(わらべ)どもを詰問(なじ)れども、僉(みな)々知らぬよしして爲方(すべ)なかりしに、一日(あるひ)此妻衣類を洗濯(あらは)んとて未だほの暗きに起出て手水を遣ひて有けるが、この猫手巾を咥へながら裏囿(うら)の方より駈來り、已に裡に入らんとせしが、妻の形容(かたち)を視て驚きたる容子して、其まゝ脱布(てぬぐひ)を放下棄(ほうり)て身を飜(かえ)して遁(にげ)去りけるに、こも復(ふたゝ)び來ることなく行趾(ゆきかた)しらずなりしとなり。こは文政四五年の頃なりしとて、この田中氏語りしなり。又、死人に魅(みい)りしといふ事は、新(あら)町の造酒屋(さかや)兼子某の老母の話あれど、未だその證(たゞし)き說(こと)を得ざれば爰に洩しぬ。

 因(ちなみ)に言ふ。十有餘年の老牡猫は妖(ばけ)て災を爲すものあり。相傳ふ、純黃赤(あかね)色のものは多くは妖を爲す。唯暗室に於て手を以て逆(さかしま)に背を撫れば則光を放ち、或は油を舐(ねぶ)るものはまさに妖を作すべきの表(しるし)なりと、寺嶋氏の和漢三才圖會に載(あげ)り。

 又因に言ふ。世の人多く猫は恩惠(おん)を知らぬものとて苛(から)くあしらふもあれど、彼も情あれば一槪にしか言ふべきにもあらずかし。左有(さる)は語(こと)長けれど、佐々木高貞が閑窓瑣談と言へる册子(ふみ)に載たることを是(ここ)に記して、これが證(あかし)と爲すべし。さてその册子にはいはく、遠江國蓁原(はいばら)郡[やぶちゃん注:「蓁」は「榛」の異体字。]御前崎といふ處に西林院と言ふ一寺あり。この寺に猫の墓鼠の墓といふ石碑(せきひ)一つあり。そもそも此處は伊豆國石室崎・志摩國鳥羽の湊と同じく出崎にて、沖よりの見當に高燈籠を常燈としてありければ、西林院の境内に猫塚の由來を聞くに、ある年の難風に沖の方より船の敷板に子猫の乘りたるが波にゆられて流れ行くを、西林院の住職は丘の上より見下して不便の事に思はれ、舟人(せんどう)をいそぎ雇ひて小舟を走らせ、既に危き敷板の子猫を救ひ取りやがて寺中に養はれけるが、畜類といへども必死を救はれし大恩を深く尊み思ひけん、住職に馴れてその詞(ことば)をよく聞解(わけ)、片時も傍を放れず。斯る山寺にはなかなかよき伽(とぎ)を得たるこゝちにて寵愛せられしが、年をかさねてかの猫早くも十年を過(すぎ)し遖(あつぱれ)逸物(いつもの)の大猫となり、寺中には鼠の音も聞くことなかりしが、さてある時寺の勝手を勤むる男が椽の端に轉寢(ころびね)して居たりしが、かの猫傍に居て庭をながめありし處へ隣の飼猫が來て寺の猫に向ひ、日和もよろしければ伊勢へ參詣ぬかと言へば、寺の猫が言ふ、我も行きたけれど此節は和尙の身の上に危き事あれば他へ出がたしと言ふを聞いて、隣家の猫は寺の猫の側近くすゝみ寄り、何やら咡(さゝや)き合ひて後に別れ行しが、寺の男は夢現(ゆめうつゝ)のさかひを覺えず首をあげて奇異の思ひを爲しけるが、其夜本堂の天井にていと怖しき物音して雷の轟くに異ならず。此筋寺中には住職と下男ばかり住て、雲水の旅僧一人止宿(とまり)て四五日を過し居たるが、此騷ぎに起も出ず。住職と下男は燈火を照して彼是とさわぎけれども、夜中といひ高き天井の上なれば詮方なく夜を明しけるが、夜明けて見れば本堂の上より生血(なまぢ)のしたゝりて落ける故捨置かれず、近きあたりの人を雇ひ寺男と俱に天井の上を見せたれば、かの飼猫は赤に染みて死し、又その傍に隣の猫も疵を蒙りて半ば死したるが如し。夫より三四尺を隔りて、丈二尺ばかりの古鼠の毛は針をうゑたるが如きを生(はや)したる怖ろしげなるが、血に染まりて倒れいまだ少しは息のかよふやうなりければ、棒にてたゝき殺しやうやう下に引おろし、猫をばさまざま介抱しけれども二疋ながら助命(たすから)ず。かの鼠はあやしいかな旅僧の着て居たる衣を身にまとひゐたり。彼是を考へ見れば、舊(ふる)鼠が旅の僧に化て來り住職を喰んとせしを、飼猫が舊恩の爲に命を捨て住職の災を除きしならんと人々感じ入り、やがて二匹の塚を立て法事をせられて囘向し、鼠もいと怖ろしき變化なれば捨て置かれずと、住職は慈悲の心より猫と同じやうに鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶傳へてこの邊(ほとり)を往來の人々の噂に殘れり。塚は兩墓ともものさびて寺中にあり云々といへり。かかれば猫とても恩は忘れぬものなり。豈(いかで)たゞに恩知らずとて慈悲なくすべきものかは。かゝる猫に劣れる人のいと多きは痛むべきことなり。

[やぶちゃん注:「文化」一八〇四年から一八一八年まで。

「某」「なにがし」。

「撫育(そだて)けるが」二字へのルビ。

「凛冽(すさまじ)く」二字へのルビ。音「リンレツ」で熟語としてあり、「凜烈」とも書く。寒さが厳しく身に染み入るさま。「凜凜(りんりん)」も同義。

「凌競(ものすこ)き」読みはママ。二字へのルビ。

「冷燈(ともしび)」二字へのルビ。

「二更」現在の午後九時~十一時、又は、午後十時から十二時までの二時間の夜間の時間帯を指す語。

「へろへろ」見るからに力なく、弱弱しくの謂いであるが、ここは謙虚な感じで、の謂いか。この謙虚さと確信犯での人語の発声、その声のおぞましい不気味さの背後には何が隠されているのであろう?

「席薦(たたみ)」二字へのルビ。

「手をつかへて」礼をするために両手をついて。

「聲韻(こえ)」二字へのルビ。

「陰々(さえわ)たり」二字へのルビ。

「睜眼(にらみ)」)」二字へのルビ。

「熟々(つくつく)」読みはママ。

「何地(いつち)」読みはママ。

「故異(あや)しく思ひ」「ゆゑ、あやしくおもひ」。

「童僕(わらべ)」二字へのルビ。

「詰問(なじ)れども」二字へのルビ。

「起出て」「おきいでて」。

「手水」「てうづ(ちょうず)」。ここは廁のことであろう。

「咥へ」「くはへ」。口にくわえながら。これはこの猫が何かに化けていたことを示すポーズである。

「裏囿(うら)」二字へのルビ。

「駈來り」「かけきたり」。

「裡」「うち」。

「形容(かたち)」姿でもよいが、驚いた顏の方が、映像的には効果的である。

「放下棄(ほうり)て」三字へのルビ。

「文政四五年の頃」一八二一年か一八二二年の頃。

「死人に魅(みい)りしといふ事」「死人」は「しびと」と訓じておく。死者(その猫を可愛がってくれた人物か)に魅入って怪異をなした猫の話。

「新(あら)町」青森県弘前市新町(あらまち)であろう。弘前城南西のここ(グーグル・マップ・データ)。

「未だその證(たゞし)き說(こと)を得ざれば爰に洩しぬ」未だ、その兼子氏の老母自身から親しく話を聴いていないのでここでは割愛することとした。信用に措けぬという意味とは思われない。だったら、西尾は始めっから書かないはずであり、名前まで示したりするほど、えげつない男とは思われぬ。

「純黃赤(あかね)」三字へのルビ。

「暗室に於て」「暗室」は「あんじつ」と読んでおく。真っ暗な部屋で。

「則光を放ち」「すなはち、ひかりをはなち」。これらの条件からは静電気による発光の可能性が認められ、決して怪異とは言い難い気がする。

「作す」「なす」。

「寺嶋氏の和漢三才圖會に載(あげ)り」寺島良安の「和漢三才圖會」の「獸類 卷三十八」の「貓(ねこ)」の良安の猫の一般的な生態の叙述の中には突如、確かに以下のような一節が出る(以下は私の所持する原典を視認して電子化したもの、及び、訓点に従いつつ、私がオリジナルに読み下したものである)。

   *

……凡十有余年老牡猫有妖爲災相傳純黃赤毛者多作妖惟於暗室以手逆撫背毛則放光或舐油者是當爲恠之表也……

(凡そ十有余年の老ゆる牡猫(おすねこ)、妖(ば)けて災ひを爲す有り。相ひ傳ふ、純に黃赤(かあね)の毛の者、多くは妖(えう)を作(な)す。惟だ、暗室(あんじつ)に於いて手を以つて逆に背の毛を撫でて、則ち、光りを放ち、或いは、油を舐(ねぶ)る者、是れ、當(まさ)に恠(くわい)を爲(な)すべきの表(あら)はれなり。)

   *

【二〇二三年十二月二十四日追記】後の二〇一四年四月九日に和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貓(ねこ) (ネコ)」を全文電子化注してあるので、そちらを参照されたい。

「苛(から)くあしらふもあれど」厳しくきつく批判的に扱う向きがあるが。

「彼も」「かれも」。猫も。

「語(こと)長けれど」話が長くなるが。

「佐々木高貞が閑窓瑣談」これは教訓亭貞高(「高貞」は誤り。「春色梅兒譽美(しゅうしょくうめごよみ)」などの人情本で名を成した為永春水(ためながしゅんすい 寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年)の別名)の随筆「閑窓瑣談」(完本は天保一二(一八四一)年成立)の「卷之一」の「第七 猫の忠義」を指す、以下に電子化する。底本は吉川弘文館「日本随筆大成」の第一期第十二巻所収のものを、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。読みは底本では総ルビであるが、この「谷の響の読みを確定出来る場所を含む、一部に限って添えた(その分、後の本文注を減らせるからである)。【 】は底本の割注とするもの。原文には「西林院の住職 小猫の 必死を 救ふ」と題する絵が添えられてあるので、以下の冒頭に掲げておく。

   *

 

Hokusousadaineko

   第七 猫の忠義

遠江國(とほつあふみのくに)榛原郡(はいばらのごほり)御前崎(ごぜんざき)といふ所に高野山の出張(でばり)にて西林院といふ一寺あり、此寺に猫の墓、鼠の墓といふ石碑二ツ有り。そもそも此(この)所は伊豆の國石室崎(いろうざき)、志摩國鳥羽の湊と同じ出崎(でさき)にて沖よりの目當(めあて)に高燈籠(たかどうろう)を常燈(じやうとう)としてあり。されば西林院の境内にある猫塚の由來を聞(きく)に、或年の難風(なんぷう)に沖の方(かた)より船の敷板(いたご)に子猫の乘(のり)たるが波にゆられて流れ行(ゆく)を、西林院の住職は丘の上より見下して不便(ふびん)の事に思はれ、舟人(ふなびと)を急ぎ雇ひて小舟走らせ、既に危き敷板(いたご)の子猫を救ひ取(とり)、やがて寺中(じちう)に養れけるが、畜類といへども必死を救はれし大恩(だいおん)を深く尊(たつと)み思ひけん。住職に馴(なれ)て、その詞(ことば)を能(よく)聞解(きゝわけ)、片時(へんじ)も傍(かたはら)を放れず。斯(かゝ)る山寺にはなかなか能(よき)伽(とぎ)を得たるここちにて寵愛せられしが、年をかさねて彼(かの)猫のはやくも十年(ととせ)を過(すご)し、適(あは)れ逸物(いちもつ)の大猫(おほねこ)となり、寺中には鼠の音も聞(きく)事なかりし。爾(さ)て或時(あるとき)寺の勝手を勤める男が緣(ゑん)の端に轉寐(まろびね)して居たりしに、彼(かの)猫も傍(かたはら)に居て庭をながめありし所へ、寺の隣(となり)なる家(いへ)の飼猫(かひねこ)が來(きたり)て、寺の猫に向ひ、日和も宜しければ伊勢へ參詣(まいら)ぬかといへば、寺の猫が云(いふ)、我も(ゆき)たけれど、此(この)節は和尙の身の上に危(あやふ)き事あれば、他(た)へ出(いでがた)難しといふを聞(きい)て、隣家の猫は寺の猫の側(そば)近くすゝみ寄(より)、何やら咡(さゝや)き合(あひ)て後に別れ行(ゆき)しが、寺男は夢現(ゆめうつゝ)のさかひを覺(おぼへ)ず、首をあげて奇異の思ひをなしけるが、其夜本堂の天井にて最(いと)怖ろしき物音し、雷(らい)の轟(とゞろ)くにことならず。此節寺中には住職と下男ばかり住(すみ)て、雲水の旅僧(たびそう)一人(ひとり)止宿(とまり)て四五日を過し居たるが、此騷ぎに起(おき)も出(いで)ず、住持と下男は燈火(ともしび)を照らして、彼是(かれこれ)とさはぎけれども、夜中といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜を明しけるが、夜明(よあけ)て見れば、本堂の天井の上より生血(なまち)のしたゝりて落けるゆへ、捨(すて)おかれず近き傍(あたり)の人を雇ひ寺男と倶(とも)に天井の上を見せたれば、彼(かの)飼猫(かひねこ)は赤(あけ)に染(そみ)て死し、又其傍(かたはら)に隣家(となり)の猫も疵(きづ)を蒙(かふむ)りて半(なかば)は死したるが如し。夫(それ)より三四尺を隔りて、丈け二尺ばかりの古鼠(ふるねずみ)の、毛は針をうへたるが如きが生じたる、怖ろしげなるが血に染りて倒れ、いまだ少しは息のかよふ樣(やう)なりければ、棒にて敲(たゝ)き殺し、やうやうに下へ引(ひき)おろし、猫をさまざま介抱しけれども、二疋ながら助命(たすから)ず。彼(かの)鼠はあやしひかな旅僧(たびそう)の着て居たる衣(ころも)を身にまとひ居たり。彼是(かれこれ)と考へ察すれば、舊(ふるき)鼠が旅の僧に化(ばけ)て來り、住職を喰(く)はんとせしを、飼猫が舊恩の爲に、命(いのち)を捨てて住職の災(わざわひ)いを除(のぞ)きしならんと、人々も感じ入(いり)、頓(やが)て二匹の猫の塚を立て囘向(ゑかう)をし、鼠も最(いと)怖ろしき變化(へんげ)なれば捨(すて)おかれずと、住持は慈悲の心より、猫と同じ樣(やう)に鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶傳へて此邊(こゝ)を往來(ゆきゝ)の人の噂に殘り、塚は兩墓(ふたつ)ともものさびて寺中に在(あり)。【予が友人傳菴桂山遊歷の節に、彼寺にいたりて書とゞめしを此に出せり。】

   *

これを見ると、西尾の引用がすこぶる正確であることが判る。彼の誠実さを伝える証左と思う。「出張」は末寺の意であろう。「遠江圖泰原郡御前崎」現在の静岡県御前崎市。「西林院」現存しない模様である。「敷板」板子(いたご・いたこ)のこと。和船の底に敷く揚げ板。例の「板子一枚下は地獄」のそれ。「三四尺」は九十一~一メートル二十一センチ、化け鼠の大きさ「二尺」は六十一センチ弱である。「傳菴桂山」不詳。このロケーションは挿絵から見ても、現在の御前崎灯台の近くで、調べてみると、寺はないものの、この伝承は残っており、なんと!「猫塚」や「鼠塚」なるものが現存していることが判った!(但し、相互は有意に離れた位置にある)地図を参照されたい。今度、行ってみたいなぁ……

「遖(あつぱれ)逸物(いつもの)の大猫となり」他に例を見ぬ、まっこと天晴れな大きなる猫へと成長し。

「椽」緣。縁側。

「かゝる猫に劣れる人のいと多きは痛むべきことなり」平尾魯僊氏と炉端にて語り明かしたくなる一言である。

 最後に。この手の猫の報恩譚は実に数多ある。私の手掛けた全訳注の「耳囊」の中にも、

之七 猫忠臣の事

とそれとほぼ同話の、

之九 猫忠死の事

の二話が載る(個人的には後者の方が好きである)。そちらもまた、お楽しみあれかし。]

憂鬱な青春   梅崎春生 / 底本沖積舎版「梅崎春生全集」第七巻(詩篇・エッセイ)全電子化注完遂

本作を以って底本(沖積舎版「梅崎春生全集」第七巻の詩篇及びエッセイは、ここブログ・カテゴリ「梅崎春生」で全部の電子化注を終わることとなる。




   憂鬱な青春

 

 私は子供の頃、作文が下手であった。小学校中学校と、作文がにが手であった。今でこそこつもわかり、多少上手にもなったが、当時は文を綴るということがどういうことなのか、うまく見当がつかなかったのである。子供の頃作文が上手なことと、後年小説書きになることとは、一般的に無縁なことなのか。今想起すると、若年の折作文上手だったのは、たいてい早熟児だったようだ、早熟児の特徴は、一に人真似がうまいというところにある。私はいろんな点において晩熟であるらしい。今私の手元に当時の綴り方作文が若干残っているが、取り出して読んでもはなはだしく稚拙で、恥かしいようなものだから、他人に読まれては困るので、私の死後は直ちに焼却される手筈になっている。(義経だって屋島の戦で死を賭して弱弓を取り戻した。その心意気と同じだ)

 私は年少時、本(小説類)が読めなかった。うちが厳格であったのと、あまり家計が豊かでなかったからだ。収入はあったのだろうが、うちには男ばかりの六人兄弟がいる。私には今二人の子供がいるが、この二人のかわりに男の子が六人いて、ごしごしと大飯を食われては、さすがの私も音を上げて、好きな酒もやめねばならなくなるだろう。私は今になって、当時の親父(おやじ)や御袋(おふくろ)の労苦に強い同情を感じている。

 だから私は、小説類を読みたくてしようがなかったが、思いのままには読めなかった。(読めなかったから、それではというわけで、後年書き手の方に廻ったのか。まさか!)友達から借りて来てかくれて読みふけったり、日曜日には図書館に行って、手当り次第借り出して読んだりしていた。手当り次第だから、どんなものだったか、今はよく覚えていない。いわゆる「純文学」というようなものじゃなかったように思う。私ほまだ中学生の頃までは、文学づいていなかった。平凡で、身体の弱い、目立たない中学生であった。

 いつだったか、戦後、小説を書き始めた頃、故郷に帰ったら、街で中学の同級生とぱったり出会った。その級友が言った。

「お前と同姓同名の小説家が、近頃売り出しているよ。同姓同名とは、めずらしいねえ」

 こういう場合、あれはおれだよ、とはちょっと言いにくいものである。うやむやにごまかして、その場は別れた。今でも彼は、同姓同名の異人だと思っているかも知れない。

 私は中学では、あまり学業の成績が良くなかった。入学した時は、上から数えて四分の一のところにいたが、卒業の時は二百名の中九十何番に下っていた。頭はそう悪くないのだが、勉強が好きでなかったのだ。つまり怠け者(今でもその傾向多分にあり)だったのである。私は長崎高商か大分高商に入り、サラリーマンにでもなろうかと漠然と考えていた。家計の関係もあって、大学には行けないことを知っていたからだ。

 ところが卒業の年の正月になって、台湾で会社を経営していた伯父が、学資を出してやるから、高等学校を受けないか、と言って来た。そこでそれから、受験準備に取りかかった。受験までの三箇月、私はほんとによく勉強した。私の一生をふり返って、あんなに勉強した時期はない。今後ももうないだろうと思う。なにしろ九十何番なのだから、人一倍勉強しないことには、合格出来そうにもない。

 その頃の日記が私の手もとにあって、これがまたセンチメンタルな日記で(これも焼却の予定になっている)その一節に、もし五高に入れたら詩の勉強をしたい、などと書いてある。高等学校に行けると思ったとたん、若干文学づいたものであろう。

 それで昭和七年、首尾よく第五高等学校文科に入学が許可された。試験はあまり出来なかったから、すれすれで入学したに違いない。そこで詩を書き始めた。同級に霜多正次などがいて、それらの刺戟もあったのだろう。当時の五高には「竜南」という雑誌が年三回発行され、文芸部委員には三年生に中井正文や土居寛之、二年生に河北倫明や斯波四郎がいて、私がせっせと詩を投稿するけれど、なかなか載せて貰えない。上出来な詩じゃなかったからだろうと思う。

 二年生になって、やっと掲載されるようになった。そして文芸部の委員になることが出来た。委員になれば、おおむねお手盛りといった形で、毎号掲載ということになる。その頃の「竜南」も若干手もとに残っているが、これも大体焼却予定になっている。義経の弓のたぐいで、義理にも上出来とは申せない。つまりまだ詩魂が熟していなくて、幼稚なのである。

 詩に打込んでいたわけでなく、れいの怠け癖から、三年になりがけに、とうとう落第した。何かの週刊誌に、斯波四郎がつづけさまに落第して私の下級生になったように書いてあったが、そんなことはない。私も落第したから、いつも私が下級生である。同級生になる可能性はあったが、その瞬間に彼は退学させられたのである。しかし、落第ということは身にこたえた。伯父が学資を出して呉れなくなるおそれがあったからだ。病気にかかったとかなんとか、母がごまかして、やっと継続することになって、私はほっとした。で、今度は勉強に打込むようになったかというと、そうでもない。も一度落第すると、学資を断たれる確実な予感があったが、どうしても学業に打込む気分にはなれなかった。勉強に励んで何になるか、というような漠然たる気持があって、それが私を怠けさせた。といって、詩人で立ちたいとか小説家になりたいという気持も、別になかった。もちろんその自信もなかった。

 学生生活とは本来、もっとたのしく生甲斐があるものだが、私にはそれがなかった。学生生活を振り返ると、いつも私にはじめじめした感じがつきまとう。青春期にあり勝ちな憂鬱症、それがずっと私には続いていたような気がする。も少しひどければ、はっきりした神経衰弱として、治療の対象になっただろうが、病気と名付けるほどひどくはなかったので、かえってそれが私を不幸にしたらしい。私は今でも、青春を豊かにたのしんでいる青年男女を見ると、やり切れないような羨望と共に、かすかな憎しみを感じるのである。

 落第する前のクラスはあかるくて、遊び好きの連中が多かったが、あとのクラスは何だか暗くて、あまり私にはなじめなかった。落第したひがみもあったのかも知れぬ。木下順二などがいたが、彼はその頃秀才で(今も秀才だろうが)文学に関心は持っていないように見えた。前のクラスの連中が卒業してしまうと、私ほますます孤独で、学校に通うことが辛かった。

 私は京大の経済に行くつもりであった。しかし卒業前になって、東大英文に入っていた霜多正次から手紙が来て、東大に来ないか、東京で同人雑誌をやる計画がある、と言って来たので、私の心は動いた。英文はつらい、国文の方が楽だという霜多の説で、たちまち東大国文に受ける決心がついた。何だって私は楽な方が好きである。その頃の東大文学部は無試験で、国文がだめでも第二志望に廻れる。その点も私は気に入った。

 そしてやっと五高を卒業した。卒業試験の成績が悪く、私を卒業させるかさせないかで、教授会で三十分も揉めたということをあとで聞いて、私はぞっとした。あそこで落第していたら、私の一生はどうなったか判らない。別の惨めなコースをたどっていたに違いないと思う。丁度その卒業試験の時、東京では二・二六事件が起った。その三月、私は上京し、あこがれの(というほどでもないが)角帽を頭に乗せることに成功した。

 それで学問にいそしむ気になったかというと、その正反対で、高等学校では三分の二以上出席しないと落第する決めがあったが、大学にはそれがない。それをいいことにして、暫(しばら)く出席しないでいたら、何となく出るのが恥かしいような気分になって、とうとう大学にいる問、試験日の他は、一日も出席しなかった。何でもきっかけというやつが大切で、そのきっかけを失ったばかりに、私は学の蘊奥(うんのう)を極めるチャンスを失った。今思っても残念である。だから私は大学は出たけれど、その智能程度は高校卒並みにとどまっていると言っていいだろう。

 そんなわけで、私は高校時代の同級の友人はいるが、大学の同級の友人はいない。辛うじて井沢淳がいるだけである。これも大学の卒業試験の時に知合ったので、私は講義に出席していないから、ノートを持たない。誰かの紹介で井沢の下宿を訪ね、どんな参考書を読めばいいか、教えを乞いに行った覚えがある。後年井沢を知っている人にそのことを話したら、井沢なんかに教えを乞うようじゃよくよくのことだ、と呆れていたところを見ると、井沢もあまり秀才の方じゃなかったらしい。

 で、同人雑誌は昭和十一年六月に出したが、同人は十人ぐらいで、題は「寄港地」というのである。その第一号に私は「地図」という二十枚ぐらいのものを書いた。その頃改造社から出ていた雑誌「文芸」の同人誌批評欄で、手もとにないからはっきりした文句は忘れたが「ぴらぴらした擬似のロマンティシズムを捨てよ」という風に批評された。まあその程度の作品で、言葉だけででっち上げた、下手な散文詩みたいな小説であった。悪評されてくさったかというと、そうでもなく、大雑誌が私の作品をとり上げて呉れたことに、むしろ喜びを感じた。他愛のないものである。「寄港地」は二号でつぶれた。

 学校にも出ないし、雑誌もつぶれたし、あの頃の私は一体何をしていたのだろう。暇を持て余して、貧乏ばかりしていた。学資は人並みに貰っていたが、私という男は生れつきけちなくせに、へんに浪費的なところがあるのである。もっとも世の浪費家という奴は、たいていけちな反面を持っているものだ。下宿にごろごろして小説本を読んだり、浅草に行って割引きから映画やアチャラカ芝居を見たり、乏しい銭をはたいて安酒を飲んだり、また悪い病気にかかって苦労したり。

 それにあの鬱状態が、私には周期的にやって来た。鬱状態の時には、被害妄想も伴った。下宿の廊下の曲り角に女中たちがあつまって、私の悪口を言っている。下宿人たちも私の悪口を言っている。夜中に私は女中を呼んで、そんなにおればかりをいじめないで呉れと、涙ながらに頼んだこともある。またその妄想で腹を立て、下宿の雇い婆さんを殴って怪我をさせ、四泊五日の留置場入りをしたこともあった。今だからこそあれは妄想だったと判るのだが、当時は本気であった。

 こういう状態は、生来の私の身体の虚弱さからも来ているのだろうが、学資を貰いながら学校に出ていないという自責、また将来に対する不安からも生起したに違いない。(もちろん外の状況もあるけれど)

 そんな具合で二年が過ぎ、こんなことではだめだ、やはりおれは小説を書かなければ、と思い立って、二箇月ぐらいかかって六十枚の小説を書いた。「風宴」というのである。駒込千駄木町のアパートでそれを書いたが、これは書くのに苦労した。本郷の霜多正次の下宿の娘が病気で死んだ。それをヒントにしたもので、筋は大体きまっているが、どんな具合に書いたらいいのか判らない。だから苦しまぎれに、私は先ず最後の部分を書き、それから中程を書き、それに冒頭の部分をちょんとくっつけた。逆に書いて行ったようなものである。私は今までにずいぶん小説を書いたが、こんな書き方をしたのはこの一篇だけである。最初からすらすら書き流すには、まだ腕が未熟だったのであろう。

 書き上げたものの、雑誌を持たないから、発表のあてがない。友人に「文芸」の編集者を知っているのがいて、そこへ持って行って貰ったが、間もなくつき返されて来た。だから意を決して自分で「早稲田文学」に持ち込んで行った。編集は浅見淵で、もちろん私は初対面である。

 後に浅見さんが書いたものによると、私は紺餅の着物にセルの袴をきちんと穿いていたそうだが、私には記憶がない。セルの袴なんか持っていた覚えがないから、誰かに借りたのかも知れない。会見中私は膝をくずさなかった由で、その頃の私は割合礼儀正しく、几帳面だったのだろう。固くなっていたとも考えられる。幸いその作品は浅見さんのめがねにかなって、昭和十四年八月号の「早稲田文学」に掲載された。反響はほとんどなかった。次の号の「早稲田文学」の時評で、無気力な生活を描いて暗過ぎる、といったような批評が出ただけである。一所懸命書いたものだけに、私はいささかがっかりした。そこで次作を書く元気をうしなって、今松竹撮影所にいる野崎正郎と毎晩のようにつながって映画ばかり見て歩いていた。実際あの頃はよく映画を見て、眼も肥えていた。野崎はその後松竹に入ったが、私も助監督になろうと思い、砧の東宝撮影所に試験を受けに行ったことがある。試験官が私に言った。給料は如何ほど望むや。私答えて曰く。自分が生活出来るだけ欲しい。試験官たちは顔をつき合わせて相談していたが、それなら東宝本社で働いたら如何。私曰く。本社はいやです。実際の製作にたずさわりたいのです。

 そうですか。では後ほど、というわけで私は帰って来たが、後ほどおことわりの手紙がやって来た。食えなくてもやりたい、という熱意がなくては、あの仕事はだめらしい。それに助監督というのは、かなりの重労働らしいから、もし採用されたとしても、私は肺か何かをおかされて、中道で倒れるかやめるかという羽目になっていただろうと思う。

 

 大学には四年いた。

 講義に出ないで試験だけ受けようというのだから、どうしても三年ではむりである。四年ぐらいはかかる。

 自分で勝手に一年伸ばしたのだから、学資を続けて呉れとは言いにくい。自分でやるからと返上して、アルバイト生活に入った。半年はどうにか苦学生(?)生活を続けたが、卒業論文も書かねばならぬし、とうとう六箇月目に伯父に泣きついて、学資を復活して貰った。

 それから就職試験の季節に入る。

 私は実にたくさんの就職試験を受けた。各新聞社、放送局、出版社、それに前記撮影所など。皆落っこちた。どうも私は試験に弱い。

 ただひとつ、毎日新聞だけは通った。十四人採用の中に入っていたけれども、それには条件があった。十四人の中、上位成績の七人だけが本社勤務、下位七人は地方支局詰め。残念なことには、私はその下位七人の組に入っていたのだ。私は思い悩んだ。

 第一に私は差別されるのがいやだったし、地方落ちするということもおっくうで面白くなかった。何が何でも東京にとどまっていたい気持が強かった。それで結局ことわってしまったが、あの時思い切って入社して置けば、私も今頃はなんとか部の次長ぐらいにはなっているだろう、あるいは新聞記者出身の作家として、豊富な経験を生かして、多彩な活動を続けているかも知れない。もっとも新聞記者というのも激職だから、私の健康がそれに耐え得たかどうか。

 卒業論文は「森鷗外論」。当時は森鷗外にひかれていたのであるが、なにしろ日時がすくないのと、学問に弱いという欠点のため、お粗末な出来ばえであった。でもこれは、私が今までに書いた唯一の論文である。学校に保存されたらかなわぬので、卒業と同時にすぐ取り戻した。そんなところは抜け目がない。その論文は終戦後まで手もとにあったが、その後取り紛れて、どこかに見えなくなってしまった。

 一年先に大学を卒業した霜多正次が、東京都教育局に勤めていて、私は彼の手引きでそこへもぐり込んだ。教育局教育研究所というところである。教育には縁のない私だから、仕事に熱が入らず、いつも外様(とざま)あつかいにされていた。暇といえば極端に暇な配置で、その頃はそんな言葉はなかったが、今の言葉で言えば「税金泥棒」に近かったと思う。当時を回想する度に「都民の皆さま」に悪いような気持になる。

 今関西で精神病院長をやっている森村茂樹にさそわれて「炎」という同人雑誌に参加、「微生」という小説を発表した。勤め人生活のつらさを書いたものだが、これも反響は全然なし。もうこの頃は文学も、国策の線に沿わなくてはならないことになっていたから、私の書くようなのは問題なんかになりはしない。都庁から出ている「都職員文化」という雑誌にも、短篇一つを書いた。

 

 ここまで書いて読み返して見ると、どうも私は大切なところを抜かして書いている。つぼを外して書いているという気持が強い。何となくごまかしたところもあるが、意識的に省略したところもあるのだ。私は雑文は不得手でないが、自分の過去をありのまま書くのはにが手だ。雑文ならうそが混ぜられるけれども、自伝だの履歴書だのというものは、デフォルメがきかない。デフォルメがきかないから、この小文はつぼを外すことでおぎないをつけている傾向がある。ほんとは自分の過去などは、小説の材料に取って置きたいのである。

 それからどうなったかというと、ある事情があって教育局を辞(や)め、川崎の軍需会社に入った。その会社も面白くなくて、病気と称して休んでいるうちに、海軍から召集令状が来た。昭和十九年五月のことである。昭和十七年にも召集令状が来て、その時は即日帰郷になった。陸軍の対馬砲兵隊である。(あとで聞いたら、大西巨人も私と一緒に引っぱられ、終戦まで対馬で苦労したそうだ。)そんなことがあったから、今度もおそらく即日帰郷だろうと楽観して、別段荷物も処分せず、のこのこと佐世保に出かけて行った。

 その予想は甘過ぎた。見事に合格してしまった。甘過ぎたのはそれだけでない。海軍の実体に対する予想もそうであった。海軍は陸軍と違って紳士的だから、居心地もよかろうと思っていたら、これがとんでもない間違い。入団早早にしてそれが判り、たいへんなところに来たと思ったが、もう遅い。つらいからと言って、退団を願い出るわけには行かない。

 入団の翌日、いろいろと区分けがあり、一部の兵隊(訓練を受けなくてももう兵隊だ)は即日海兵団を出発して行った。行先はサイパンである。これが六月二日で、米軍がサイパン攻撃にかかったのは、二週間後の六月十四日だ。すると彼等は途中で撃沈されたか、到着したとしても直ちに玉砕したに違いない。その区分けも大ざっばなもので、私もその組に入る可能性は充分にあったのである。私は戦慄した。

 終戦までに、そんなたいへんなことになる機会が、私には幾回かあったけれども、どうにか右へはらい左にしのいで、復員にこぎつけることが出来た。要領なんてものでなく、やはり運がよかったのであろう。

 

[やぶちゃん注:昭和三四(一九五九)年十二月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本篇を以って底本に載る全エッセイの電子化注を終えた。以下、既注のものは原則、挙げていないが、ここに書かれてある梅崎春生が編集委員となった熊本第五高等学校の交友会誌『龍南』(梅崎春生は「竜南」と書いているが、旧字表記が正しい)に載せた詩群は既に電子化注している。本カテゴリ「梅崎春生」及びその一括ワード縦書版「藪野直史編 梅崎春生全詩集」(こちらなどでダウンロード可能)を管見されたい。また、以下に出る同誌の先輩諸氏の若書きのそれらも、私が詩で初出形復元に活用させて戴いた「熊本大学附属図書館」公式サイト内の「龍南会雑誌目次」から、画像でその総ての初出現物を読むことが出来る。

「中井正文」(まさひみ 大正二(一九一三)年~)は広島県廿日市市生まれのドイツ文学者・作家。東京帝国大学独文科卒。女学校教員をしながら小説や詩を書き、昭和一九(一九四四)年に「寒菊抄」で直木賞候補となった。戦後に広島大学助教授となり、昭和五一(一九七六)年定年退官、現在、同大名誉教授。同人誌『広島文藝派』主宰。現在の百三歳。

「土居寛之」土居寛之(どいひろゆき 大正二(一九一三)年平成二(一九九〇)年)はフランス文学者(参照したウィキの「土居寛之」には『大分県杵築出身、東京生まれ』とあるが、意味不明である)。東京帝国大学仏文科卒、外務省嘱託を経て、昭和二五(一九五〇)年に埼玉大学助教授、昭和三八(一九六三)年に東京大学教養学部教授となった。その後、東洋大学教授から福岡大学教授となり、昭和六〇(一九八五)年退官。サント=ブーヴやアミエルなどを研究した。

「河北倫明」(大正三(一九一四)年~平成七(一九九五)年)は福岡県生まれの美術評論家。京都帝国大学哲学科卒。文部省美術研究所に勤務し昭和二八(一九五二)年の国立近代美術館事業課長を皮切りに、同次長から京都国立近代美術館館長となった。昭和六一(一九八六)年退官後、京都造形芸術大学学長。

「斯波四郎」(しばしろう 明治四三(一九一〇)年~平成元(一九八九)年)は山口県阿東町(現在の山口市)生まれの作家。五高理科甲類中退後、明治大学新聞高等研究科で学び、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)に入社、昭和一六(一九四一)年には従軍記者となり、後に週刊誌『サンデー毎日』に配属された。戦後の昭和三四(一九五九)年、『早稲田文学』五月号に掲載された「山塔(さんとう)」で第四十一回芥川賞を受賞、当時同賞選考委員で師でもあった丹羽文雄から高く評価された。

「蘊奥(うんのう)」学問・技芸などの奥深い部分。奥義。極意。

「井沢淳」(いざわじゅん 大正五(一九一六)年~昭和五一(一九七六)年)は大阪生まれの映画評論家。ペンネームは「純」。朝日新聞社に入社し、昭和二〇(一九四五)年から映画欄を担当、昭和三八(一九六三)年以降は『キネマ旬報』誌などで活躍した。著書に「映像という怪物」など。

「地図」昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説。私のブログ版及びPDF縦書版がある。私は梅崎春生の初期作品の中でもとりわけ好きな作品の一つである。

「割引きから映画」意味不明。識者の御教授を乞う。

「アチャラカ芝居」昭和初期に流行した、ふざけた滑稽な仕草で客を笑わせるドタバタ喜劇の通称であるが、具体的には、古川緑波(ロッパ)・大辻司郎・渡辺篤・清川虹子らの役者、菊田一夫らの作家による、一夜漬けの脚本・舞台を「アチャラカ芝居」「アチャラカ・ナンセンス」と称した。演目はレマルクの「西部戦線異状なし」を捩った「東部戦線異状なし」、歌舞伎「絵本太功記」のパロディ「エヘン太閤記」いったものであった。

「風宴」以下に出る通り、『早稲田文学』昭和一四(一九三九)年八月号に初出。戦後の単行本「飢ゑの季節」(昭和二三(一九四八)年八月号)にも再録されている。青空文庫のこちらで電子化されている。

「セル」梳毛(そもう)和服地の一つで、オランダ語の「セルジ」(serge)の略語。「セルジ」。を「セル地」と誤解して「地」を略したもの。平織り薄手の毛織物で、本来は梳毛糸(羊毛繊維を梳(くしけず)って短いものを取り除き、長い繊維を平行に揃えた長い高級糸)を原料とする(但し、絹や人絹などを交ぜたものもある)。合せ着用の和服地。

「野崎正郎」「次郎物語」(昭和三五(一九六〇)年・松竹)で知られる映画監督(というか、私はそれしか見ていない。生没年などは不詳)

「森村茂樹」(大正五(一九一六)年~昭和五四(一九七九)年)は精神科医で地域医療と社会福祉を推進した教育者。兵庫県西宮市に兵庫医科大学を創設し、理事長・学長・病院長を歴任した。ウィキの「森村茂樹によれば、『小学校から中学、高校と文学関係の創作活動に取り組み、医学でなく作家を志したこともあった。森村茂樹のペン』・『ネームは「志摩亘(しまわたる)」。第三高校の同窓生富士正晴が』昭和二二(一九四七)年、『神戸に創刊した同人雑誌「VIKING」に』昭和二四(一九四九)年(年)に『入会』、昭和三〇(一九五五)年『に退会するまで、評論や詩、小説などを投稿している。未発表の作品も多い』とある。

「炎」詳細不詳。サイト「文学賞の世界」の改造社「文藝推薦」作品昭和一五(一九四〇年度の検討作品のリスト内に、前の森村茂樹の作品「翳」というのが挙がっているが、その掲載誌は『炎』である。

「微生」『炎』(昭和一六(一九四一)年六月刊)に初出。戦後の、梅崎春生の処女作品集「櫻島」(昭和二三(一九四八)年大地書房刊)に再録されている。これも近い将来、電子化する。]

諸國百物語卷之三 十八 伊賀の國名張にて狸老母にばけし事

    十八 伊賀の國名張(なはり)にて狸老母にばけし事


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 伊賀のくに名張と云ふ所より、たつみにあたりて、山ざとあり。このざいしよに、よなよな、人一人づゝ、うせけり。なに物のわざともしれず。あるひは子をとられ、あるひは親をとられ、なきかなしぶ事、めもあてられぬしだい也。又、その里に獵人(かりふど)のありけるが、ある日、くれがたに山へゆきけるに、山のをくより、人きたるを、なに物ぞ、と見れば、百とせばかりの老女、しらがのかみを四ほうへさばき、まなこをひからし、來たりけるが、そのけしき、にんげんにかわりたれば、かりふど、やがて、かりまた、ひつくわへ、かなくりばなしに、かつきと、はなせば、手ごたへするとおぼへしが、行衞もしらず、にげうせける。夜あけて、くだんの所にゆきみれば、のり、をちてありしが、みちもなき山中をあなたこなたとゆきて、かりふどのざい所の庄屋のうらなる小屋のうちへ、のり、つたいたり。獵人、ふしぎにおもひ、庄屋にあひて、

「此うらなる小屋のうちには、たれがゐ申すぞ」

と、とふ。

「此小屋にはそれがしが母ゐ申さるゝゐんきよ也。ゆふべより心ちあしきとて物をもくわず、あたりへ人をもよせられず候ふ」

とかたる。獵人きゝて、

「さればそれにつき、ふしぎなる事こそ候へ」

とて、ありししだいを物がたりしければ、庄屋もふしぎにおもひ、小屋に行きみれば、母は此をとをさとり、やがて小屋のかべをつきぬき、ゆくゑもしらず、にげうせける。ねまをみればゑんざほど、血、たまりてあり。さて、えんのしたをみれば、人の骨はかずをもしらず、子どもの手足などをくいちらしをきたり。それより山へゆき、しがいをたづねければ、大きなるふるだぬき、むねをいられて死してゐたり。かの庄屋の母は、此たぬき、とく、くひころして、そのあとに母にばけてゐたるとなり。

 

[やぶちゃん注:「曾呂利物語」(冒頭注参照)巻二「二 老女を獵師が射たる事」に基づく。元では地名「名張」を「南張(なんばり)」とする。『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」では、先行する非常に知られた、「今昔物語集 第二十七卷」の「獵師母成鬼擬噉子語第二十二」を掲げておられる。確かに、私も一瞬、あれを想起したものの、あの話柄では主人公は兄弟であり、母そのものが鬼となって実子の兄弟を喰らわんとするのであって、本話柄の源泉とは私は謂い難いと感ずる。諸子の判断に任せんとするため、以下に引いておく(参考底本は二〇〇一年岩波文庫刊池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」としたが、恣意的に漢字を正字化し、読みは振れるもののみに限ってオリジナルに歴史的仮名遣(参考底本は現代仮名遣)で振った(一部の送り仮名は参考底本に従っていない)。□は原本の欠字数分を推定して配した。読点などは一部を追加したり除去したりし、心内語は二重鍵括弧を附し、直接話法は改行して読み易くした)。

   *

 

 獵師の母、鬼と成りて子を噉(くら)はむと擬(す)る語(こと) 第二十二

 

 今は昔、□□の國□□の郡(こほり)に、鹿・猪を殺すを役(やく)と爲(す)る者、兄弟二人、有りけり。常に山に行きて鹿を射ければ、兄弟、搔き列(つ)れて山に行きにけり。

 待(まち)と云ふ事をなむ、しける。其れは、高き木の胯(また)に、橫樣(よこざま)に木を結ひて、其れに居(ゐ)て、鹿の來て、其の下に有るを待ちて射る也けり。然れば、四五段許りを隔てて、兄弟向樣(むかひざま)に木の上に居たり。九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころ)なれば、極めて暗くして、何(いか)にも物見えず。只(ただ)、鹿の來る音を聞かむと待つに、漸く、夜深更(ふく)るに、鹿、來ず。

 而る間、兄が居たる木の上より、物の手を指し下(おろ)して、兄が髻(もとどり)を取りて、上樣(うへざま)に引き上ぐれば、兄、『奇異(あさま)し』と思ひて、髻取りたる手を搜れば、吉(よ)く枯れて曝(さら)ぼひたる人の手にて有り。『此れは、鬼の、我れを噉(くら)はむとて、取りて引き上ぐるにこそ有んめれ』と思ひて、『向ひに居たる弟に告げむ』と思ひて、弟を呼べば、答ふ。

 兄が云はく、

「只今、若(も)し、我が髻を取りて上樣に引き上ぐる者有らむに、何にしてむ」

と。弟の云はく、

「然(さ)は、押し量りて射んぞかし」

と。兄が云はく、

「實(まこと)には、只今、我が髻を物の取りて上へ引き上ぐる也」

と。弟、

「然(さ)らば、音(こえ)に就きて射む」

と云へば、兄、

「然らば射よ」

と云ふに隨ひて、弟、雁胯(かりまた)を以つて射たりければ、兄が頭(かしら)の上(うへ)懸かると思(おぼ)ゆる程に、尻答(しりこた)ふる心地(ここち)すれば、弟、

「當りぬるにこそ有んめれ」

と云ふ時に、兄、手を以つて髻の上を搜れば、腕(かひな)の頸より取りたる手、射切られて下(さが)りたれば、兄(あ)に、此れを取りて弟に云く、

「取りたりつる手は、既に被射切(いきら)れて有りれば、此(ここ)に取りたり。去來(いざ)、今夜(こよひ)は返りなむ」

と云へば、弟、

「然也(さなり)」

と云ひて、二人乍(なが)ら木より下(お)りて、掻き列れて家に返りぬ。夜半(よなか)打ち過ぎてぞ、返り着きたりける。

 而るに、年老いて立居(たちゐ)も不安(やすから)ぬ母の有りけるを、一つの壺屋(つぼや)に置きて、子二人は家を衞別(かくみわ)けて居たりけるが、此の子共(こども)、山より返り來たるに、怪しう母の吟(によ)ひければ、子共、

「何と吟ひ給ふぞ」

と問へども、答へも不爲(せ)ず。其の時に、火を燃(とも)して、此の射切れたる手を二人して見るに、此の母の手に似たり。極(いみ)じく怪しく思ひて、吉(よ)く見るに、只、其の手にて有れば、子共、母の居たる所の遣戸(やりど)を引き開けたれば、母、起き上りて、

「己等(おのれら)は」

と云ひて、取り懸らむとすれば、子共、

「此れは御手(おほむて)か」

と云ひて投げ入れて、引き閉ぢて去(い)にけり。

 其の後(のち)、其の母、幾(いくば)く無くして死にけり。子共、寄りて見れば、母の片手、〻(て)の頸より被射切(いきられ)て無し。然(しか)れば、『早(はや)う、母の手也けり』と云ふ事を知りぬ。此れは、母が痛(いた)う老ひ耄(ほれ)て、鬼に成りて、『子を食む』とて、付きて山に行きたりける也けり。

 然(しか)れば、人の祖(おや)の年痛(いた)う老いたるは、必ず鬼に成りて、此(か)く、子をも食はむと爲(す)る也けり。母をば、子共、葬(はうぶり)してけり。

 此の事を思ふに、極めて怖しき事也となむ語り傳へたるとや。

   *

一部に池上氏の脚注を一部参考にしながら、語注する。

・「役(やく)と爲(す)る」それ(獣の狩猟)を生業(なりわい)とする者。

・「待(まち)」以下に出る獣類の狩猟法の名称。所謂、「獣道」の上の樹上で待ち伏せをし、通りがかった獣を射て捕獲するもの。

・「四五段」「段」は距離単位で一段は六間(十一メートル弱)であるから、四、五十メートル相当。

・「『奇異(あさま)し』と思ひて」『何じやぁあ?!』」と驚いて。

・「吉(よ)く枯れて曝(さら)ぼひたる」ひどく干乾びて痩せさらばえてしまった木乃伊の(ミイラ)のような。

・「有んめれ」ラ変動詞「あり」の連体形+推定の助動詞「めり」=「あるめり」の撥音便形。古くは「あめり」と表記された。~であるようだ。

・「只今、若(も)し、我が髻を取りて上樣に引き上ぐる者有らむに、何にしてむ」仮定法で述べているのは、上にいる何物(者)かの実体を認識出来ていないことよりも、物の怪に悟らないように(魔性のものの場合、下手な言上げをするとそれだけで負けてしまう惧れがあるからである)仮の平静な問答という形式を採っているのだと私は思う。

・「然(さ)は、押し量りて射んぞかし」「その時は、その辺りに見当をつけて兄者を傷つけぬように射るでしょう。」。

・「音(こえ)に就きて」その辺りから聴こえてくる僅かな気配を示す音を頼りとして。

・「雁胯(かりまた)」先が股(やや外に開いたU字型)の形に開き、その内側に刃のある狩猟用の鏃(やじり)。通常では飛ぶ鳥や、走っている獣の足を射切るのに用いる。

・「兄が頭(かしら)の上(うへ)懸かると思(おぼ)ゆる程に」兄の頭の上を矢が掠めたかと感じたその途端。

・「尻答(しりこた)ふる心地(ここち)」手応えがした感じ。一見、奇異な表記に思えるが、このシチュエーションを考えると、樹上の下方(「尻」の方)にいる兄が物の怪の「尻」の下にいるとすれば、物の怪が射られたとして、その物の怪の重量はその「尻」にかかり、樹上の「尻」にいる兄の頭にそれが「ズシリ!」とかかるわけで、逆にすこぶる腑に落ちる表現と言えるのである。

・「腕(かひな)の頸より取りたる」手首の部分から先が切れた腕首(手掌部分)。

・「兄(あ)に」「に」は捨仮名(自分の意図通りに読んで貰うために漢字の下に添える小さな仮名)。

・「一つの壺屋(つぼや)に置きて、子二人は家を衞別(かくみわ)けて居たりけるが」「壺屋」は仕切りを施して三方を壁で囲んだ、後の物置や納戸のような部屋を指し、それをさらに囲むようにして、兄弟二人は分けて(都合、母の壺屋の左右を兄弟それぞれの住居とするような三区画になるということであろう)住んでいたのだが。

・「吟(によ)ひければ」呻き声を上げているので。

・「遣戸(やりど)」引き戸。

・「己等(おのれら)は」「オ前ラハヨクモ!」。

・「取り懸らむとすれば」摑みかかってこようとしたので。

「此れは御手(おほむて)か」

と云ひて投げ入れて、引き閉ぢて去(い)にけり。

・「〻(て)の頸」「手の頸」。

・「早(はや)う、母の手也けり」「全く以って、実はなんと、母の手であったのだ。」。池上氏の注に『「はやう」は多く「也けり」と呼応して、それまで気づかなかった事実に気づいたことを示す』とある。

云ふ事を知りぬ。此れは、母が痛(いた)う老ひ耄(ほれ)て、鬼に成りて、『子を食む』とて、付きて山に行きたりける也けり。

 然(しか)れば、人の祖(おや)の年痛(いた)う老いたるは、必ず鬼に成りて、此(か)く、子をも食はむと爲(す)る也けり。母をば、子共、葬(はうぶり)してけり。

 此の事を思ふに、極めて怖しき事也となむ語り傳へたるとや。

   *

 なお、挿絵の右キャプションは「狸老母(らうぼ)にばけし事」。

 

「伊賀の國名張(なはり)」伊賀地方に位置する現在の三重県西部にある名張(なばりし)市。伊賀盆地南部にあって、周囲には赤目四十八滝や香落渓(かおちだに/こおちだに)といった渓谷があり、今も自然の豊かなところである。

「たつみ」「辰巳(巽)」東南。

「そのけしき、にんげんにかわりたれば」ここは化け物のような老女から、普通の人間に化け変わったのであろう。そうした変身を見たからこそ、これを変化(へんげ)のものと断じて、この猟師、確信犯で矢を射たのである。

「かりまた」先が股の形に開き、その内側に刃のある鏃を装着した矢。狩猟用で鳥や獣の足を切ったり折ったりするのに用いた。

「ひつくわへ」「引つ銜え」。一番矢は既に矢に番えてあるのである。万一の失敗や、次の矢が急遽必要な場合のために、二番の矢を口に銜えているのである。

「かなくりばなしに」「かなぐる」は「荒々しく払いのける」の意があるからグイッ! と引いて如何にも力を籠めて「荒々しく放す」如くに矢を放ったのである。

「かつき」「カッツ!」。矢を放った際のオノマトペイア(擬音・擬態語)。

「のり、をちてありしが」「(血)糊、落ちてありしが」。歴史的仮名遣は誤り。

「庄屋」名主(なぬし:村方三役の一つ。村の長(おさ)で村政の中心となった。土豪その他の有力者が代官に任命されてなり、世襲が普通であったが、享保(一七一六年~一七三六年)頃より一代限りとなったり、入れ札(ふだ)によって投票で選ぶこともあった。関西では「庄屋」と呼ぶことが多く、東北では「肝煎(きもいり)」と称した。

「のり、つたいたり」「糊、傳ひたり」。歴史的仮名遣は誤り。血糊が点々と続いていた。

「此小屋にはそれがしが母ゐ申さるゝゐんきよ也」「隱居(いんきよ)」。歴史的仮名遣は誤り。最後は「隠居所じゃ」の謂いであろう。

「母は此をとをさとり」「母は此(こ)の音を悟り」。]

2016/10/17

甲子夜話卷之二 26 九鬼家節分の事

26 九鬼家節分の事

先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守【隆國】に問には、世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓來りて對坐す。小石を水に入れ、吸物に出すに、鑿々として音あり。人目には見えずと。このことありやと云しに、答に、拙家曾て件のことなし。節分の夜は主人惠方に向ひ坐に就ば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。但世と異なるは、其唱を、鬼は内、福は内、富は内いふ。是は上の間の主人の坐せし所にて言て、豆を主人に打つくるなり。次の間をうつには、鬼は内、福は内、鬼は内と唱ふ。此餘、歳越の門戶に挾すひら木、鰯の頭、我家には用ひずとなり。これも又一奇なり。

やぶちゃんの呟き

「九鬼」ウィキの「九鬼やサイト「戦国大名研究」の九鬼氏」などを参照されたい。出自はよく判っていないが戦国の「九鬼水軍」で知られる。以下の隆国の叙述はしかし「九鬼氏」の祖先に鬼の血筋があることを暗に物語るもののようには取れる。

「九鬼隆國」(天明元(一七八一)年~嘉永五(一八五二)年)は摂津三田(さんだ)藩(現在の兵庫県三田市)第十代藩主で九鬼家宗家十一代。ウィキの「九鬼隆国」によれば、第九代藩主九鬼隆張(たかはる)長男として江戸で生まれ、寛政一〇(一七九八)年に父の隠居により跡を継いでいる。『勅使饗応役や奏者番を務めたが、そのためによる出費で藩財政が悪化した』。『外様大名ながら、幕府の儀式・典礼を高家とともに掌る要職である奏者番に任じられ』、天保一〇(一八三九)年には『城主格に昇格する。奏者番就任や城主格昇格は、阿波・淡路』二十五万七千石『の太守である蜂須賀氏から正室を迎えたことに起因するとも考えられる。藩政では京都から近藤顧一郎を招聘して、藩校の国光館を造士館として発展させた』。天保一四(一八四三)年六月に『長男の隆徳に家督を譲って隠居し、南嶽と号した』とある。静山より二十一年下である。

「問には」「とふには」。

「闇室」「あんじつ」と読んでおく。真っ暗な部屋。

「賓」「ひん」賓客。来客。

「鑿々」「さくさく」。オノマトペイア(擬音語)。

「答に」「こたへに」。

「曾て」「かつて」。

「件」「くだん」。

「惠方」「ゑはう」。

「就ば」「つけば」。

「歳男」「としをとこ」。

「持出」「もちいだし」。

「但」「ただし」。

「其唱」「そのとなへ」。

「鬼は内、福は内、富は内いふ」三田市のえべっちゃんのブログ「えべっちゃんの町おこし奮闘記」の三田の節分は「鬼は内」と「お化け」だよという記事が興味深い。それによれば、寛永一〇(一六三三)年に幕府は志摩国鳥羽藩の九鬼氏を、家督争いを理由に同藩五万六千石を分割、九鬼久隆を三万六千石で三田藩に移封したが、三田では藩主の名に「鬼」がつくから、『節分の豆まきに「鬼は外!」とは言い難く、「福は内、鬼は内」と言う様になったとか』言ったとか言わないとかと載り(断定はされておられない)、また、『これも昔、お婆ちゃんから聞いた話ですが、節分の夜に、男性が女物の和服を着て、お化粧をしたりお婆さんが若い女の子の格好をしたり』と、『まるで百鬼夜行、いやいや、今のコスプレ大会の様相で夜の街は「お化け」達がウロウロ徘徊していたそうです』。『調べてみると、この風習は「節分お化け」とも言われ、節分の夜、老婆が少女の髪型である桃割にしたり、逆に少女が成人女性の髪型である島田に髪を結ったりしたそうです。このような異装を行うのは、違う年齢や違う性など「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごすためであると信じられたことから始まった邪気払いの風習の一つで、昔の三田にも、節分お化けが出てました』とある。この失われた習俗は実に惹かれる。是非とも、復活して貰いたいものである。またリンク先が引き、さらにリンクもされている「伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記」の「鬼は内~」も必読で、それによれば、『「鬼は内~」と唱えるのは、九鬼家代々の伝統であったようだが、民俗学者の五来重によると、豆撒きのときにそう唱える例は、少なくないという』。『世の中には鬼の子孫という家筋はかなり多くあって、「鬼は内、福は内」という豆撒きをする家もすくなくない。鬼の子孫という伝承をのちのちまでもちつたえた家筋は、多く修験山伏の家筋であるが、祖霊を鬼として表象することは、実は一般的であった。それが仏教や陰陽道の影響で邪悪な鬼となり、地獄の牛頭馬頭や餓鬼となってからは「鬼は外」と追われる鬼になった』(五来重『宗教歳時記』一九八二年角川選書刊)。『九鬼隆国は鬼の姿をした客云々の噂を否定したが、九鬼家の豆撒きの唱えごとが「鬼は内~」であるということは、鬼の子孫であるとの伝承が同家にあるということをおのずから語るものであった。鬼の姿云々はそうした九鬼家の伝承から派生した噂であったのだろう』とある。

「上の間」「うへのま」。

「言て」「いひて」。

「打つくる」「うちつくる」。
此餘」「このほか」。

「挾す」「さす」。

「ひら木」柊(ひいらぎ:シソ目モクセイ科モクセイ属ヒイラギ変種ヒイラギ Osmanthus heterophyllus var. bibracteatus)の葉のついた小枝のこと。これに焼いた鰯の頭を挿したものを「柊鰯(ひいらぎいわし)」と称し、節分に魔除けとして門口に挿し掲げた。ウィキの「柊鰯によれば、『柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。日本各地に広く見られる』。『平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、土佐日記から確認』出来、『現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに豆柄(まめがら。種子を取り去った大豆の枝。)が加わる』とある。

祖父遺品の絵葉書から――中国絵葉書七枚

Kosintei


Musyaku


Ssyu


Shanghai


Tinkou


Kousyu


Nankin

[やぶちゃん注:縦型の一枚画像の「上海舊城内湖心亭」の一枚を除き、他の六枚は表の使用が完全に一致し(総て赤字印刷で上部に右書きで「郵便はがき」、切手塗布欄内に「軍事郵便」、中央区分線も赤の波線)、裏の写真のコンセプトもほぼ完全に一致していることから、同じセットの絵葉書と考えてよい。これら六枚の各写真は総て古き良き中国の名勝を写しているにも拘わらず、「南京」の一枚を除き、その間に、戦車と複葉戦闘機(「無錫」)・複葉戦闘機二機(「蘇州」)・戦闘機二機(「上海」)・重装備歩兵二名(「鎭江」)・日章旗(「杭州」)のコンテ画を配していて見るにおぞましい。]

祖父遺品の絵葉書から――「戰役紀念」(日露戦争絵葉書四種)

 

[やぶちゃん注:四枚の内、二枚(左下に雪の積もった木の上で歩哨する写真のあるものと沙河(さか/しゃか)会戦の右に双眼鏡の絵が添えられたもの)は表が全く同じ仕様なので、同じ絵葉書セットであった可能性が強い。なお、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日~明治三八(一九〇五)年九月五日に終了している。以下は総て、日露戦争勝利後の戦勝絵葉書類と思われる。


Nitiro1

「戰役紀念」縦型一枚

上部に消印を真似た印刷で「明治卅十八年戰役陸軍会戦觀兵敷紀念 39・4-30東京」(他英文)とあり、下部に軍艦の絵、上に観兵式の絵が載る一枚は、表は左手に「CARTE POSTALE」(フランス語で「葉書」の意)、下部に「信陽堂分工塲発行」(「発」はママ)とあるのみ。



Saka

「戰役紀念」日露戦争の沙河(さか/しゃか)会戦の一枚

右書きで「沙河會戰中第三司團司令部」(同英文)とキャプション。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、その下に英文で「CARTE POSTALE」、下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(他に二ヶ所に英文があるが、特に特異なものではないので略す)。

「沙河會戰」は日露戦争に於いてロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。ウィキの「沙河会戦」によれば、この戦い以降、冬季に突入し、『沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った』。『会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした』。十月九日『にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた』。『満州軍は弾薬がつき、大本営は旅順攻囲戦を遂行するために優先して弾薬をそちらに送ったことと、冬季に突入して軍隊行動が困難となったことから満州軍は塹壕で次なる攻勢機会を待つこととなった』。(同会戦の終結は十月二十日とされる)。『なお、この会戦に於いて特筆するべき存在としては梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(俗に言う「花の梅沢旅団」)がいる。近衛後備混成旅団は後備兵(予備役)の兵士たちによって構成された二級部隊ながら、梅沢による卓越した指揮の下、最前線に於いて精鋭部隊に劣らぬ猛烈な奮戦を見せ、勝機の一端をも担う活躍を見せた事で現在にその名を残している』とある。


Nitiro2

「戰役紀念」日露戦争の運河と雪の樹上の歩哨のショットの一枚

上部の写真キャプションは右書きで「運河ニ據ル我歩兵戰」(同英文。「據ル」は「よる」と読む。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(同前。前とこの一枚が同一のセット物の二枚と考えられる)。

下部の写真キャプションは右書きで「積雪樹上ノ我展望哨」。



Kouryokukounohousen

右下に騎馬と歩兵と野戦砲の絵の入った、刳り貫き画に写真を合成した一枚

左端に縦に「鴨綠江ノ砲戰」(他英文その他)。これは表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」とある他は、上部の右書き「郵便はがき」と「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」とあるだけで、上の二枚のようなごちゃごちゃとした他の英文は印刷されていない。]

祖父遺品の絵葉書から――「(滿州國安東縣名勝)冬の鴨綠江スケート大會」


Ouryokkou

 

[やぶちゃん注:左下に同英文があるが、「winten」と誤植している。

「安東縣」現在の中華人民共和国遼寧省南部にある、鴨緑江を隔てて、朝鮮民主主義人民共和国と接する国境の街、丹東市の旧名。ウィキの「丹東市」によれば、『朝鮮族が』二十『万人以上居住している。中朝貿易最大の物流拠点であり、その』七『割以上がここを通過すると言われている』とある。一九三一年(昭和六年)に『満州事変が勃発すると直ちに日本軍に占領され、満州国は』一九三四年に『安東省を新設、安東県を省城とした』。一九三七年(昭和十二年)、『安東県は安東市に昇格している。この時代には多数の日本企業が安東に進出した』。一九四五年、『日本の降伏後は中国共産党軍が接収し、朝鮮戦争』(一九五〇年~一九五三年)『では中国人民義勇軍の兵站前線となった』。一九六五年、『安東市は丹東市に改称された』とある。ということは、この絵葉書には「安東縣」とあり、安東が市になる前、昭和一二(一九三七)年よりも前の製造になるものであることが判る。

「鴨綠江」(おうりょくこう:北京語:Yālù Jiāng(ヤールージャン/朝鮮語(北朝鮮)アムロッカン/(韓国)アムノッカン)は現在の中華人民共和国東北部と朝鮮民主主義人民共和国との国境となっている川。同じく国境にある白頭山(中国語:チャンパイシャン/朝鮮語:ペクトゥサン)に源を発し、黄海に注ぐ。ウィキの「鴨緑江」によれば、『水の色が鴨の頭の色に似ていると言われたことからこの名前がある』。『日露戦争時には日本軍とロシア軍が激戦を繰り広げた(鴨緑江会戦)』川でもあった。]

祖父遺品の絵葉書から――「野外で開く我等の現地分會の集ひ(訥河縣龍河嶺分會)」


Bunnkai

 

[やぶちゃん注:右に中国語で「在野外召開之我們的分會常務會(訥河縣龍河嶺分會)」とあり、表は上部に右書きで「郵政明信片」、中央の区切り線中央に右書きで「滿州帝國協和會中央本部・滿州事情案内所發行」とある。「明信片」は中国語で「葉書」の意。

「訥河」(とつが)は現在の中華人民共和国黒竜江省チチハル市にある県級都市である訥河市に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。その中の「龍河嶺」とは、恐らく現在の「龍河鎮」、ここであろう(同前)。なお、満州国が建国(一九三二年(昭和七年)三月一日)後、チチハルには一九三六(昭和十一)年に市政が施行されている。

「滿州帝國協和會」満州国における官民一体の国民教化組織「満州国協和会」。ウィキの「満州国協和会によれば、『満州事変以後、中華民国からの分離独立や王道政治に基づく新国家建設の理念を説いた于沖漢らの自治指導部が協和会の起源である』。『満州国建国に至り、自治指導部は解散したが、このうち合流していた大雄峯会(主に資政局に流れた)の中野琥逸』(こいつ)『と満州青年連盟の山口重次、小澤開作、于沖漢の子于静遠、阮振鐸らが奉天忠霊塔前で「満州国協和党」を結成、軍司令部の石原莞爾と板垣征四郎から設立準備金』二万円『が拠出され、さらに結党宣言と綱領を監督した板垣・石原のブレーン宮崎正義の「ソ連や中国国民党と同じく、政府が補助金を出すべきだ」との提案により年額』百二十万円『が国庫から支弁されることになり』、『協和党という名称に反対した愛新覚羅溥儀の意向』『もあって溥儀を名誉総裁とする満州国協和会に改組された』。『協和会の基本的単位は「分会」で、地域毎に設立された。そして、各地方行政機関ごとに本部が設置され、これらの分会を統括した』(下線やぶちゃん)。『開設されなかった立法院に代わり、分会代表が参集した連合協議会が実質的に民意を汲み取る機関として期待され、石原に至っては協和会を関東軍に代わる「将来の主権者」として設定し、協和会による一党独裁制を志向していた。しかし、協和党から協和会への改組当初』『より小磯國昭らが山口や小澤ら旧協和党の古参を排除して関東軍と日系官吏による「内面指導」を強化して教化団体化を図り、特に協和会中央本部の甘粕正彦や古海忠之らと協和会東京事務所を根城にする石原一派の対立』『からはその存在意義は変質して日中戦争を機に国家総動員体制を担い』始めるに至った。その後、協和会青年訓練所・協和義勇奉公隊・協和青少年団を次々に創設し、一九四〇年(昭和十五年)からは『分会と連携して全住民や各家庭に浸透させる隣組を設置』、翌年四月には『各県長や各省長が地方の協和会の本部長を兼任することになり、政府行政と完全に一体化した』が、これはまさに日本本土の『道府県支部長を道府県知事が兼任した大政翼賛会と同じである』とある。]

祖父遺品の絵葉書から――「松花江  和田香苗 筆」


Syoukakou


[やぶちゃん注:表は最上部に右書きで「郵便はがき」、切手欄の中に「軍事郵便」、中央の区切り線の真ん中に右書きで「(陸軍恤兵部發行)」、最下部に右書きで「東京・一瀨印行」とある。
「陸軍恤兵部」(「恤兵」は「じゅっぺい」と読む)は陸軍省内の部署の一つで、長は恤兵監。戦地への慰問或いは慰問で送られるものを「恤兵」と呼ぶが、この部署では主にその恤兵の管理などを行っていた。また『陣中倶楽部』など、兵士向けの慰問雑誌の発行業務も行っていた。日中戦争の長期化に伴って恤兵も大きく増加したため、その規模は拡張した、とウィキの「陸軍恤兵部にある。「印行」は「いんこう」と読み、印刷して発行することの意。印刷物を製作した印刷会社の名前。ここは「一瀨」が固有社名らしい。

「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。

「和田香苗」(明治三〇(一八九七)年~昭和五二(一九七七)年)は東京都港区生まれの洋画家。光風会会員。大正九(一九二〇)年、東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)卒。卒業の年の十一月に渡米、シカゴに赴き、翌年八月にパリに移った。大正一二(一九二三)年二月までヨーロッパ各地を遊学して三月に帰国、同年四月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌年助教授、昭和六(一九三一)年教授となり、昭和二〇(一九四五)年三月に退官したが、その後も講師として昭和二四(一九四九)年まで勤めた。後、工学院大学講師、次いで教授。美術学校卒業の大正九(一九二〇)年の第二回帝展で「オルガンノソバ」が初入選、以後、帝展・文展に出品、大正一二(一九二三)年に文展無鑑査。光風会展にも出品、昭和八(一九三三)年、光風会会員となり、後に評議員を務めた。戦後も日展・光風会展に出品したほか、同二二(一九四七)年、同志十名と国際観光美術協会を結成している。彼は昭和一三(一九三八)年五月に陸軍嘱託画家となっている(「東京文化財研究所」公式サイト内のデータに拠った)。]

編集者の頃   梅崎春生

 

「群像」の創刊は、昭和二十一年十月。その二十一年に私は何をしていたか。当時の日記はあるけれど、今旅先だから取り寄せられない。

 二十一年の初め、私は創造社に勤めて「創造」という綜合雑誌の編集に従事していた。「創造」は戦前からあった雑誌らしいが、あんまりぱっとしない雑誌で、売行きもかんばしくなかったと思う。私がここに勤めたのは、一箇月半ぐらいでよく知らないが、間もなく廃刊したところをみると、そうとしか思えない。

 社長がいて(あたりまえだ)会計をやっているのがその社長の妾(めかけ)で、社員は二十人程度だ。皆働いているというより、のそのそ動いているという感じの雰囲気で、月給ももちろん安かった。(二百円程度。)私がここをやめた後、会計のお妾さんが、

「あれはすぐやめる男だと、初めから判っていたよ」

 と評していたと、人伝てに聞いた。のそのその中でも、私が一番のそのそしていて、働く気がないのを見破っていたのだろう。

 千葉県御宿の浅見淵氏から、はがきが来た。今度「素直」という同人誌をやるから、三十枚ぐらいの作品を書かないか、とのことなので、私は新生社に行き、懸賞応募の作品を取り戻し、浅見氏に送った。そのついでに、どこかいい働き口はないかと問い合わせた。

 すると浅見さんの返事では、創造杜というところは原稿料もろくに払わない社だそうではないか。八雲書店と赤坂書店に紹介状を書くから、行ってみろとのことなので、八雲書店に行き新庄嘉章氏に会い、赤坂書店に行き江口榛一氏に会った。どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで、当時私は柿ノ木坂に住んでいた。赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた。復員以来ひどくものぐさになっていて、満員電車に乗るのがおっくうだったのである。八雲書店に勤めれば、運命の進路が若干変ったかも知れないと、後年久保田正文氏があそこを舞台に書いた小説を読み、そう思った。

 赤坂書店で出そうとしていたのは「胡桃」「素直」。社長は元来印刷屋で、雑誌には素人である。「胡桃」第二号が出たのは六月頃。「四季」系の詩の雑誌で、これがほとんど売れなかった。おかげで社長はがっかり、それ以来クルミ(果物の)を食べるのもいやになったそうである。印刷さえしてあれば、何でも売れる時代だったが、やはり詩の雑誌では飛ぶように売れるというわけには行かなかった。

 そこで「素直」の発行も延びることになった。印刷の方で儲(もう)けて、その暇にソチョク(社長は「素直」のことをそう呼んだ)を出そうというのだから、なかなかはかが行かない。はかが行かなきゃ、怠けられて楽な筈だが、「素直」第一輯には、私の作品ものることになっている。少しやきもきした。

 赤坂書店に入ってから、いろんな作家に会った。志賀直哉氏の家にも行ったことがある。赤坂書店は印刷屋だから、紙や印刷機を持っている。それで志賀氏の名入りの原稿用紙をつくり、それを届けに行ったのだ。私は包みをかかえて東横線で渋谷に出て、玉電で世田谷新町の志賀邸に行った。二階の座敷に通され、甘いものを御馳走になり、飼兎の話などを拝聴し、外に出た。世田谷新町なんて、私はまだ一度も行ったことがない。ちょっと散歩して行こうと、ぶらぶら歩いている中に、向うの方に何か見覚えのある建物が見える。はて、何だったかなと、そちらの方に近づいて行くと、これが都立高校(今の都立大学)で、私はびっくりしてしまった。つまり私は柿ノ木坂から歩いて行けばよかったのに、地理を知らないばかりに渋谷から廻った。鋭角三角形の長い二稜をたどった勘定になる。私は今でも東京の地理だの方向に、自信がない。ぶらぶら歩いていると、すぐに迷子になってしまう。

 原稿依頼や稿料を届ける時は、訪問するのに足が軽いけれども、稿料や発行の遅延のための訪問は気が重かった。

「君んとこは原稿料を払わないつもりか」

 面罵というほどじゃないが、そう詰め寄られて弱ったことが、何度かある。

「素直」は結局、二十一年九月に出た。「群像」に先立つこと一箇月。不定期ながら今でも続いているようだ。二十一年十二月に私は赤坂書店をやめた。もう文筆で食って行けるだろうから首にする、と江口編集長が言ったから、やめさせられたと言うべきかも知れない。

 文章で食って行くのはたいへんなことで、二十二年は貧乏のどん底に落ちた。注文がないわけじゃなかったが、私はもうスランプに落ちていて、以後十五年ずっとスランプつづきのようである。

「群像」に最初に書いたのが二十五年四月号。以来大は七百枚から小は十四枚まで、小説を十篇書いた。ルポルタージュを書くために、浜松航空隊や砂川に行った。あまたの座談会に出て、つまらぬこと(時にはいいことも)をしゃべった。随筆や雑文に至っては数知れず。気分の上では毎号つき合っているような感じがしている。だから、赤ん坊の時見たのが、十五年目に会って成長ぶりにおどろく、という感じは「群像」にはない。

「群像」という名も初めは馴染めず、何だかやぼったい、同人雑誌みたいな名だと思っていたが、その中に板について来て、だんだん貫禄が出て、すこしも変でなくなった。十五年の歳月の重みが加わったせいもあるだろう。

 この文を書いている今日は八月十五日、終戦の記念日である。ここ信州はもう秋の気配で、萩、桔梗(きしょう)、松虫草などが咲いている。昨夜は雨が降り、雷が縦横に鳴りとどろいた。そのせいで今日は涼しい。

 あれから十六年も経ち、「群像」もそろそろハイティーンに入ると思うと、一体おれは何をして来たんだろうという感慨が、今おこらないでもないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十月号『群像』に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「群像」現在も続く、講談社発行の月刊文芸雑誌。梅崎春生の記す通り、昭和二一(一九四六)年十月の創刊である。ウィキの「群像」によれば、『群像新人文学賞を主催し、野間文芸賞と野間文芸新人賞の受賞発表も行っている。講談社の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『小説現代』が大衆小説部門を担っているのと対をなす』。『群像新人賞が優れた新進作家に多くの道を開いたこともあって、実験的な手法による作品が掲載されることが多い。主要文芸誌の中で、群像新人賞のみが評論部門をもっていることもあり、新人評論家発掘に功績がある』。三人『による〈創作合評〉、匿名時評〈侃侃諤諤〉などの名物コーナーもあり、それが特色ともなっている』。『この『群像』と、『新潮』(新潮社発行)、『文學界』(文藝春秋発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ』、『これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い』。二〇一二年『現在、印刷証明付の月間発行部数は』七千部とある。

『二十一年の初め、私は創造社に勤めて「創造」という綜合雑誌の編集に従事していた』この事蹟は底本別巻の年譜には出ない。国立国会図書館の蔵書のこちらの書誌データによれば、第九巻第五号が昭和一四(一九三九)年五月発行とあり、第十九巻第六号が昭二四(一九四九)年六月発行とある。これで梅崎春生が「戦前からあった雑誌らしい」とするのが確認出来、「間もなく廃刊した」というところからはこの昭和二十四年六月辺りとして、しっくりくる。社長や社史・雑誌の詳細データは不詳。

「浅見淵」(あさみふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年)は小説家・文芸評論家。ウィキの「浅見淵」によれば、兵庫県神戸市生まれ。早稲田大学文学部卒業。在学中に『朝』の『同人に加わり、初めて書いた小説「山」が下村千秋に推賞される。戦前は満洲国で文学活動を行った。戦後は井伏鱒二や上林暁らの「阿佐ヶ谷会」の主要メンバーで、尾崎一雄と親しく、随筆』「単線の駅」や回想記」あの日この日」によく出ている、とある。『文芸評論家としては梅崎春生、石原慎太郎、三浦哲郎、五木寛之らをいち早く見出し推したことで知られる』とする。

「新生社」同社の出していた『新生』が「私の創作体験」に既出し、そこで同社についても既注であるが、再掲する。月刊総合雑誌『新生』を昭和二〇(一九四五)年十一月に創刊した出版社。『新生』創刊号は岩淵辰雄・馬場恒吾・青野季吉・正宗白鳥といった戦時中に不遇だった自由主義者が名を連ねたもので、仮綴・三十二頁・定価一円二十銭であったが、忽ち、十三万部を売り尽くした。国民が如何に自由な言論に飢えていたかを如実に物語る出来事であったという。所謂、「大家」を動員して創作も毎号掲載したが、無名の青年青山虎之助が主宰する同社は、敗戦直後に続出した多くの出版社同様、長続きせず、『新生』も二年後の一九四七年二月・三月合併号で挫折、翌年一九四八年一月から復刊号を七冊出したところで廃刊となった(平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説に拠った)。

「八雲書店」豪華な雑誌『芸術』を発行し、太宰治の自死直前に「太宰治全集」第一回配本を刊行(同社版は全十八巻だったが、十四回配本で同社の倒産によって途絶)したりしていることが、ブログ「出版・読書メモランダム」の古本夜話468 八雲書店、石川達三『ろまんの残党』、久保田正文『花火』で判る。『芸術』の編集顧問に次に出る新庄嘉章の名も見える。

「赤坂書店」後述の詩人江口榛一が戦前から経営していた(一部には「勤務」ともある)出版社らしい。

「新庄嘉章」(しんじょうよしあきら 明治三七(一九〇四)年~平成九(一九九七)年) は山口県出身のフランス文学者。早稲田大学仏文科卒。元早稲田大学教授。ジッド「狭き門」やロマン=ロラン「ジャン・クリストフ」の翻訳で知られる。

「江口榛一」(えぐちしんいち 大正三(一九一四)年~昭和五四(一九七九)年)は詩人で社会運動家。今や紳士になった街――池袋に既出既注であるが、再掲する。ウィキの「江口榛一」によれば、大分県生まれで、本名は新一。明治大学文芸科卒で、当初は教師や新聞記者を務めていたが、戦後、聖書の啓示を受けて詩作を行い、雑誌『素直』(これは梅崎春生の「桜島」の初出誌である)の編集長を経、昭和二九(一九五四)年に「近所合壁」(『新潮』の同年五月号)で第三十一回芥川賞の候補となった。翌年、受洗するも、既成の教会に飽きたらず、昭和三二(一九五七)年には『困っている人が自由になかの金を取って使うことを目指した』募金活動「地の塩の箱運動」を起こしたが、二年後に縊死自殺している。娘の江口木綿子(ゆうこ)さんによって「地の塩の箱連盟」として遺志が現在も続けられている(「「地の塩の箱運動」については北尾トロ公式サイト「全力でスローボールを投げる」の「昭和の根っこをつかまえに」の『第3回「地の塩の箱」の巻』に拠った)。

「どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで、当時私は柿ノ木坂に住んでいた。赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた」この二文は「どちらも合格、というのも変だけれど、来てもよろしいとのことで(あったが)、当時(、)私は柿ノ木坂に住んでいた(関係上、)(「。」は除去)赤坂書店まで歩いて二十分見当で、それで赤坂書店に勤めることに決めた」とでもするのが文章としては正しいであろう。

『「群像」に最初に書いたのが二十五年四月号』未完の「日時計」。昭和二五(一九五〇)年四月・七月・九月・十二月号に隔月連載された。「日時計」は最初のパートの題名が「日時計」で、後の部分は「殺生石」というタイトルになり、それが「Ⅰ」から「Ⅲ」まで続き、その「殺生石(Ⅲ)」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしいが、続編は遂に書かれなかった。

「小説を十篇書いた」「ある青春」(昭和二六(一九五一)年六月号)・「Sの背中」(昭和二七(一九五二)年一月号)・「雀荘」(昭和二八(一九五三)年六月刊・増刊号)・「砂時計」(昭和二九(一九五四)年八月号から翌年の七月号まで連載)・「炎天」(昭和三二(一九五七)年一月号)・「顔序説」(昭和三二(一九五七)年十月号。後の「仮象」(『群像』(昭和三八(一九六三)年十二月号)に一部流用されている。底本全集第六巻解題に拠る)・「モデル」(昭和三五(一九五〇)年二月号)・「駅」(昭和三六(一九六一)年七月号。これは後の「狂い凧」(『群像』昭和三八(一九六三)年一月号から同年五月号連載)の第十四節に固有名詞を訂正しただけでそっくり流用された。底本全集第六巻解題に拠る)など(これに先の「日時計」を加えると九篇。以上は全集各巻の改題で調べた)。

「ルポルタージュを書くために、浜松航空隊や砂川に行った」既に電子化した浜松の保安隊航空学校見聞記及び砂川のこと。]

『桜島』のこと   梅崎春生

 

 最初の作品集を出すのは、実にうれしいものである。うれしいものであろうと思う。私も経験がある筈だが、もう忘れてしまった。出来上って届けられた時(届けられたか出版社に取りに行ったか、それも記憶がない)本の形や装釘や重さ、それに接した時のうれしさや感激を、どうも思い出せない。あの頃けいろんなことがあったし、それにうれしいことは、悲しいことやつらいことにくらべて、忘れやすいものだ。処女作品集の感激なんて、一過性のものである。いつまでも覚えてはいられない。

 最初の作品集は『桜島』。著作者、梅崎春生。装釘、広本森雄。発行所は、大地書房である。発行日は昭和二十三年三月二十日。定価七十円。

 この『桜島』は私の手元に一部しか残っていない。贈呈分は別として、二十部ぐらいもらった気がするが、その後人にやったり、引越しのどさくさで紛失したりして、これだけ残った。

 作品として「桜島」を発表したのは昭和二十一年九月。単行本にまとまるのに一年半もかかっているのは、集録した作品の関係もあったし出版社の方の事情もあった。原稿を渡してもなかなか本にならなかった。時勢だの物価だのが不安定で揺れ動いている時代なので、版元でもいろいろ考えたり計算したり、こんな新人のでも売れるかと惑ったり、また金繰りの関係もあったのだろう。出来上った時、誰か(たしか版元内部の人)が、今の時代にこれだけの本はめったに出来ないよ、と言ったが、今見ると表紙はぺらぺらだし、紙も仙花(せんか)紙(に毛の生えたようなもの)である。表紙は木版の桜島風景で、へんな枠のようなのは、双眼鏡でのぞいたところなのである。

 どうして発行が遅れたと判るのか。「あとがき」を読めば判る。「あとがき」の末尾に「昭和二十二年盛夏」とある。ここまで書いて思い出したが、原稿はすっかり渡したのに、言を左右にして刷って呉れないので、私は怒って原稿を取り返しに行ったことがある。どんな交渉になったか忘れたが、うまく言いくるめられたのだろう。そんな不愉快さが重なったから、出来上っても釈然として感激するわけにも行かなかったのかも知れない。それに私はその頃、金に困っていた。小説は書いていたが、一般の物価にくらべて、原稿料はひどく安かった。三十枚ぐらいの小説を書き、稿料をもらって、帰りに一杯やると、半分か三分の二ぐらいはふっ飛んでしまう。今なら稿料一枚分か二枚分で充分酩酊(めいてい)出来るが、当時はそうでなかった。(森谷均さん。あの頃神田の「ランボオ」で酩酊するのに、いくらぐらいかかりましたかねえ)

 大地書房は前借りに行っても、貸して呉れなかった。貸しても雀の涙ほど。腹が立ってむしゃくしゃして、「ランボオ」で飲むと、足が出る。どうやってあの頃食っていたのか(飲むのは百方都合して飲んでいたが)自分ながらよく判らない。

 最初の作品集なので、威勢のいいあとがきを書いている。気負ったというか、威張っているというか、とにかく大宣言じみた文章で、私は今読むと汗が出る。ところが私のことを書かれる度にこのあとがきの部分が引用されて、たいへん困惑する。私はそれでこりて、その次の作品集からはあとがきをつけないことにした。あとがきや自作解説を書くことは百害あって一利なし。尻尾(しっぽ)をつかまれるだけの話である。他人のことは知らないが、私の場合あの文章は若気のあやまちだと思っている。

 定価七十円で、何部ぐらい刷ったのだろう。初版三千部くらいかと思う。しばらくして再版して、それから、まだ売れそうな気がして、もっと刷って呉れと要求に行った。刷って呉れなきゃ、他の出版社で欲しがっているから、などとおどして、むりやりに五千部分だったか、五万円だったか、受け取ったことがある。おどしたとはオーバーだけれど、当時の情勢としては致し方なかった。受け取った分の本はとうとう出来上らず、やがて大地書房はつぶれた。だからこの最初の作品集は、造本もちゃちであったし、市場には残っていないと思う。問い合わせがあると、文庫本で読んで呉れと答えることにしている。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十一月号『本の手帖』に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「広本森雄」生没年未詳。多くの挿画・装幀を手掛けている画家である。個人ブログ「Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗」の嬉しいいただきもので本「櫻島」(表紙の表記)の初版本の画像が見られる。私は三十年ほど前、神田の古本屋で手に取ったことはあったが、当時で確か五千円以上したので買わなかったことが、今、惜しまれる。

「仙花(せんか)紙」狭義には和紙の一種で、楮(こうぞ)の皮で漉いた厚手の丈夫な紙を指す(江戸時代には帳簿・紙袋などに用いた。天正年間(一五七三年~一五九一年)に伊予の僧泉貨(せんか)が創製したという)が、ここのそれは第二次大戦後に故紙や砕木パルプなどを原料として作られた粗悪な洋紙の謂いであろう。

「あとがき」この「あとがき」の全文は底本の梅崎春生全集には何故か、所収しない。但し、先に電子化した『桜島』 ――「気宇壮大」なあとがき――(昭和三八(一九六三)年十二月二日号『週刊読書人』初出)に引用されてあるものが、その大部分であろう。引いておく。

   *

「小説という形式への疑問が、近来起りつつあるものの如くだが、私はこれに組しない。私は単純に小説というものを信じている。人間が存在する限りは小説もほろびない。小説とは人間を確認するものであり、だから小説とは人間と共にあるものだ。少なくとも私と共に確実にあるという自覚が、私を常に支えて来た。私は現在まで、曲りなりにも一人で歩いて来た。他人の踏みあらした路を、私は絶対に歩かなかった。今から先も一人であるき続ける他はない。そして私は自らの眼で見た人間を、私という一点でとらえ得ることに、未だ絶望を感じたことはないし、おそらく将来も感じることはないだろう」

   *

「森谷均」(もりやひとし 明治三〇(一八九七)年~昭和四四(一九六九)年)は岡山県出身の出版人。中央大学卒。昭和一〇(一九三五)年に東京京橋で昭森社を創業、特装本や美術書を出版、戦後は神田神保町に移転して、昭和二一(一九四六)年に総合雑誌『思潮』、昭和三十六年には本記事が載った『本の手帖』を創刊している。作家や詩人たちとの交流が深く、人柄と風貌から「神田のバルザック」と呼ばれた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

『神田の「ランボオ」』神田のすずらん通りの裏にあった喫茶店で、この隣りに昭森社があった(同社は一九九一年頃に廃業している)。私も昔、古書探しに疲れると、ここでよくコーヒーを飲んだ。ネットで調べると、現在のコーヒー・ショップ「ミロンガ・ヌオーバ」が後身らしい。]

わが小説   梅崎春生

 

 自分の作品について語るのは、たいへんむずかしい。強いためらいや抵抗を感じる。要は作品を出せばいいので、それに加えるべきなにものも私にはない。

 損得の問題もある。うっかり自作を解説して、これはこんなつもりで書いたなどと書くとする。すると読者の方では、あれはずいぶん深遠な作だと思っていたのに、そんな浅はかな動機で書かれたのかと、がっかりする場合が時々ある。時々以上に多い。(他人のを読む時は私も読者だから、よく知っている。)それでは損であり、逆効果だ。一つの作品を書き上げるまで、原稿の形では何度も読み返す。ところがそれが活字になり、雑誌が贈られて来ると、もう読む気がしない。いや、もっと強く、読むのを嫌悪したり畏(おそ)れたりする気が先に立って、その雑誌を押入れの中に突っ込んでしまう。原稿と活字と、内容は同じだけれども、どういうわけでそんな気持が生じるのかわからない。

 自作が活字になると、ためつすがめつ鑑賞し、時には音読してたのしむ人もあると聞いた。これとそれと、自信のあるなしには関係なく、性格の問題だろうと思っている。自作を読み返すのがいやなのは、私が自信がないからじゃない。別の感情だ。

 その感じも、半年ぐらい経つと、ゆるんで来る。たまたま押入れをあけると、その雑誌がころがり出て来て、おそるおそる読み返す。にがい感じはあるけれども、叫び出したくなるようなことは先ずない。その半年に新しく嫌悪すべき作をいくつか書いていて、この作品は人垣の向うにいるようなものだから、いやらしさが薄められるのだろう。一年経つと、もう大体安心して読める。やっと作品は私の手もとに里帰りして来る。

 自作というのはこの場合小説に限っていて、随筆だの雑文は含まれない。もっとも雑文などで、何とはしたないことを書いたのかと、思い出して舌打ちしたくなる場合もあるが、それは前の例とちょっと趣きが違う。舌打ちすれば、それで済んでしまう。

 と書いて、もう書くことがなくなった。今まで私はどのくらい書いたのか。著書を調べて計算して見ると、原稿用紙にして一万二、三千枚程度かと思う。決して多い方ではなかろう。

「書きたいことが山ほどある」

 という状態が、私に来たことがない。おそらくだれにもないだろう。一つの視点があり、それに材料を持って来れば、いくらでも生産出来る状態。それはあり得るだろう。私もその状況に乗っかったこともあるし、今多作している人の仕事を見ると、皆その手である。

 視点に動きはないから、発展はなく、作品は反復だけだ。どうしても材料にウエートがかかり、材料のひねり方や珍奇さが腕の見せ所となる。読者もそうと心得ているので、別に文句は言わず、よろこんで読む。(自作を語ることから逸脱したようだ)

 私の仕事時間は、平均して一日に二時間ぐらい。そのくらい机の前にすわっていると、飽きるというのは適当でないかも知れないが、面倒くさくなって、もう今日はこの程度でいいだろうと、やめてしまう。調子がよくて書き進むこともあるが、努力感が生じてくると、もういけない。いろんな事情から、私は近ごろ原則的に「努力」を自分に禁ずることにしている。いや、昔からそうだった。

「近ごろお忙しいでしょう」

 だから人からそんなあいさつを受けると、返答に困る。忙しいといえば忙しいし、暇だといえば暇だ。しかしもて余すほどの閑暇はない。

「ええ。まあ」

 なんてごまかす。人間、生きてりゃ、だれだって忙しい。私もその例外じゃない。などと心の中でつぶやきながら。

 ――以上、自分の作品について、語るがごとく、語らざるがごとく、二時間かかって書いた。自作をひとつだけあげよといわれれば「庭の眺め」をあげる。

 

[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年十二月十二日附『朝日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本解題には、『「わが小説」は新聞の連載随筆欄の名称であり、もともとの見出しは「ひとつだけあげれば――『庭の眺め』――」であった、しかし』肝心の『「庭の眺め」については語られていないので、前記のように校訂した』と注記がある。「庭の眺め」は昭和二五(一九五〇)年十一月号『新潮』初出で「青空文庫」ので読める。]

「崖」を書いた頃   梅崎春生

 

「崖」を書いた頃は、ひどく貧乏していた。昭和二十一年秋の頃で、私はまだ結婚していなくて、東横線の自由丘の松尾という友人宅にころがり込んでいた。神田のどこかに呼出しを受けて、

「近代文学に小説を書かないか」

 と言われた。勤め先はあったが、他に原稿を書かなきゃ食っていけないのである。日記で見ると割に早く書いている。

 十月二十九日(二十一年)の日記に

「新生の原稿『独楽(こま)』三十六枚まで書いた。これでいいような気もするし、またどだい悪作で、かえされそうな気もする。今日昼自由丘でスピードくじで二十円失い、やむなく渋谷に行って金鵄(きんし)一箇買った」

「独楽」は「日の果て」の下書きみたいなもので、五十枚に書き上げ、編集長桔梗利一から、未だしと返された。(これは書き直して二十二年「思索」秋季号に発表した)

「崖」は割に早く仕上げた。

 同十一月二十三日に、

「『崖』、四十枚まで書く」

 文学的に張り切っていたのか、金が欲しかったのか。その時の借金と予定入金の表がつけてある。その中に入るあてのある金として、

 近代文学――五百八十五円

 青春より――百八十円(一枚二十円、税引きとして)

「青春」の方は思い出さぬ。うやむやになったものか。

「近代文学」の方からも税引きを予想していて、一割を加算すると丁度(ちょうど)六百五十円になる。これを持って近代文学社に行き、六十五枚の原稿を手渡した。応接したのは本多さんたちであった。

 今でこそそうでもないが、私にはひどく大人に見えた。

私はその頃三十一歳だったが、彼等は皆四十ぐらいに見えた。掘割の見えるがらんとした部屋で、原稿料をもらった。予想に反して税引きでなく全額だったので、うれしかった記憶もある。その後「近代文学」の人々とは、あまり交際がなかったと思う。理由は彼等が酒の飲み手ではなかったからだ。

 先年「群像」の座談会で、

「あの頃椎名・野間は文壇について何も知らず、梅崎の方がはるかに文壇通であった」

 との平野発言があったが、それは間違っている。赤児性は私も同様であった。ただ私が一年近く赤坂書房(つぶれた)に勤め、かつ自分の原稿で他社の記者ともめごとがあったり、酔っぱらって喧嘩して死にそうになったり、そんなむちゃなことをすることで、やっと文壇の裏々や裏面が判るようになったのだ。「崖」を書いた時はすでに多少はすれていたのかも知れない。

 

[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年八月刊の『近代文学』終刊号に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇の内容は先に電子化した私の創作体験(昭和三〇(一九五五)年二月刊岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻初出)や『つい』(昭和三五(一九四〇)年十二月号『近代文学』初出)と重なる部分が多いのでそちらの本文と私の注を参照されたい。]

諸國百物語卷之三 十七 渡部新五郞が娘若宮の兒におもひそめし事

    十七 渡部(わたなべ)新五郞が娘若宮(わかみや)の兒(ちご)におもひそめし事

 


Sinkuroumusume

 

 かまくらに渡部新五郞と云ふ人あり。一人のむすめあり。十四さいになりける。あるとき若宮へさんけいして、社僧の兒(ちご)を見そめ、いつしか、戀やみとなり、今はたまのをもたへなんとするとき、母に、かくと、つげしらせければ、父はゝ、いかゞすべきとあんじわづらひけるが、よきたよりをもとめ、兒(ちご)のをやにいひ入れければ、をや、ゆるして、かよわしける。されども、まだ、としたけぬちごなれば、しみじみとしたる心ざしもなく、ちなみもしだいにうとくなりければ、むすめはいよいよあこがれて、つゐに、はかなくなりにけり。親、かなしみて、野べのけぶりとなし、骨(こつ)を、しなのゝぜんくはう寺にをさめんとて、箱にいれ、ひとま所に、いれをきける。そのゝち、かの兒(ちご)、また、わづらひつき、いろいろとかんびやうすれども、しるしもなし。のちには人をあたりへよする事もきらいければ、父母(ちゝはゝ)、ふしぎにおもひ、ものゝひまよりのぞきみれば、大きなる蛇(じや)とむかいゐて、物がたりしける。父母、これを見てなげきかなしび、僧、山ぶしをたのみ、かぢきたうをしけれども、そのしるしもなく、つゐに、むなしくなりければ、わか宮のにしの山にほうむりけるが、棺のうちに大きなる蛇ありて、兒(ちご)のしがいをまといゐたるを、ともにほふむりけると也。そのゝち、かのむすめの骨(こつ)をぜんくはう寺へをさめんとて、母、とりいだし見られければ、骨ども、みな、ちいさき蛇(じや)となり、あるひはなりかゝりてゐるも有りしと也。かのむすめのしうしん、つゐに兒(ちご)をとりころしける事、おそろしき事ども也。

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「新五郞が娘ちごこにおもひそめし事」。これは、私は誰にも負けない自信のある独擅場の話柄である。

 結論から先に言うと、これは、鎌倉後期に(弘安二(一二七九)年に起筆、同六(一二八三)年に原型が成立したが、その後も絶えず加筆されている)八宗兼学の学僧無住道暁(むじゅうどうぎょう 嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)によって編纂された仏教説話集「沙石集」がニュース・ソースである。以下、私の「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇ケ谷」の条と私の注を引くに若くはない。太字・下線は私がここで新たに引いた。

   *

蛇ケ谷 鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者(あるもの)の女が兒(ちご)を戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。

●「【沙石集】にいえる如く、……」以下、「沙石集」の「卷第七」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」を引く。底本は読み易くカタカナを平仮名に直した一九四三年岩波書店刊の岩波文庫版「沙石集 下巻」(筑土鈴寛校訂)を用いた[やぶちゃん2016年10月17日補注:今回の引用に際し、読点と読みをオリジナルに追加し、注の一部を改変した。]。

   ※

     七 妄執に依つて女蛇と成る事

鎌倉に或(ある)人の女(むすめ)、若宮の僧正坊(そうじやうばう)の兒(ちご)を戀ひて病(やまひ)になりぬ。母に、かくと、つげたりければ、かの兒が父母(ぶも)も、知人なりけるまゝに、この由(よし)申合(まうしあは)せて、時々、兒をもかよはしけれども、志(こころざし)もなかりけるにや。うとく成(なり)ゆく程に、つひに思死(おもひじに)に死にぬ。父母、悲しみて、彼(かの)骨(こつ)を善光寺へ送らんとて、箱に入れて、おきてけり。その後(のち)、此(この)兒、又、病付(やみつ)きて、大事になりて、物狂はしくなりにければ、一間(ひとま)なる所に、をしこめておく。人と物語(ものがた)る聲しけるを、あやしみて、父母、物のひまより見るに、大(おほい)なる蛇とむかひて、物をいひけるなるべし。さて終(つひ)に失(うせ)にければ、入棺して、若宮の西の山にて葬(はふり)するに、棺の中に大なる蛇ありて、兒と、まとはりたり。やがて蛇と共に葬してけり。かの父母、女(むすめ)が骨を善光寺へ送る次(ついで)、取分(とりわけ)けて、鎌倉の或(ある)寺へ送らんとして見けるに、骨、さながら、小蛇に成りたるも有り、なからばかり、なりかかりたるも、有り。此事は、かの父母、或(ある)僧に孝養(けうやう)してたべ、とて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありて、しるさず。此(この)物語は、多く當世(たうせい)の事を記(き)する故に、その所、その名を、はばかりて申さず。不定(ふぢやう)の故には非ず。凡そ一切の萬物は、一心の變ずるいはれ、始めて驚く可(べ)からずといへども、此(この)事、ちかき不思議なれば、まめやかに愛欲のとがと思ひとけば、いと罪深くとこそ覺え侍れ。されば執着愛念ほどに恐るべき事なし。生死に流轉(るてん)すること著欲(ぢやくよく)による。佛神にも祈念し、聖敎(しやうげう)の對治(たいぢ)をたづねて、此(この)愛欲をたち、此の情欲をやめて、眞實に解脫(げだつ)の門に入り、自性淸淨(じしやうせいじやう)の躰(てい)を見るべし。愛執(あいしふ)つきざれば、欲網(よくまう)を出でず。無始(むし)の輪𢌞(りんね)、多生(たしやう)の流轉(るてん)、ただ此(この)事を本(ほん)とす。何の國とかや、或(ある)尼公(にこう)、女(むすめ)を我(わが)夫にあはせて、我身は家に居て、女にかかりて侍るが、指の虵(へみ)になりりたるをつつみかくして、當時(たうじ)有りと云へり。昔もかかる事、發心集(ひつしんしふ)に見えたり。かれは懺悔(さんげ)して念を申しけるまゝに、本(もと)の如くなれりと云へり。

□やぶちゃん語注

・「若宮の僧正坊」若宮の別当僧正坊。岩波古典大系「沙石集」頭注には、「若宮」を『鶴岡八幡石階下にあり、仁德帝を祀る』とするが、如何? この時代に「若宮」と呼ぶのは、本来の勧請地である、もっと離れた由比の若宮であろう。但し、ここは移築した現在の鶴ヶ岡八幡宮自体を呼称しているようには読める。「僧正坊」は「二十五坊」(鶴岡八幡宮児寺の西から北の谷へあった僧坊群)を指す。

・「骨さながら小蛇に成りたるも有り」「骨の中には完全に小さな蛇に変態していたものもあり、また~」の意。

・「孝養」亡くなった人のために後世(ごぜ)の菩提を弔うこと。供養と同義。但し、「孝」の字があるように、一般には、亡くなった親のために子が供養することに用いる。

・「著欲」は著欲謗法(じゃくよくぼうほう)のこと。五欲(二説あって、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五境に対して起こす欲望とも、また、財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲(名誉欲)・睡眠欲の五つともいう。五塵とも)に執着して正法(しょうぼう)を求めぬことをいう。

・「聖敎」は「しやうげう(しょうぎょう)」と読み、仏法の正しい教えを説いた経典。

・「對治」は「退治」で、煩悩を断ち切るための方途。

・「自性淸淨」は本来の一切の煩悩による穢れから遠く離れた清浄な心の状態をいう。

・「何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、……」リンク元の本文に出る「発心集」に載る三つ目の蛇妄執譚。

 なお、「沙石集」の作者無住道暁(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉生まれで、三十七歳まで鎌倉に住んでおり、自称梶原氏末裔を名乗る。されば、その説話集である本作には鎌倉を舞台とする説話が有意に多い。鎌倉の古典を学ばんとするなら、私はまず、この「沙石集」をお勧めする。

   *

以下、注の一部を略した。他の蛇奇譚も細かな注をして示しているので、未読の方は是非、リンク先の当該箇所を読まれたい。

 以下、本文注。

「渡部(わたなべ)新五郞」不詳。無住の原話をリアルにするための架空人物である。前にある通り、無住はわざわざ、「此事はかの父母、或僧に孝養してたべとて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありてしるさず。此物語は、多く當世の事を記する故に、その所その名をはばかりて申さず。不定の故には非ず」と述べて以上の怪異が紛れもない事実であることを請けがっているわけで、その意を汲んだ「諸國百物語」の筆者の隠れた意図と考えてもよかろう。

「若宮」前の引用の私の「若宮の僧正坊」注を参照されたい。鶴岡八幡宮の原型である由比の若宮は規模が小さく、凡そ美童の稚児と娘が後の世の浄瑠璃っぽく出逢って惹かれ合うにはショボ過ぎるのである。

「戀やみ」「戀病み」。

「たまのをもたへなんとするとき」「玉の緖も絕えなん」。歴史的仮名遣は誤り。今にも命の絶えんとするほどに心痛せる時に至って。「玉」は「魂」と同義である。

「よきたよりをもとめ」良い返事(正式な婚姻)を希って。

「かよわしける」「通はしける」。歴史的仮名遣は誤り。彼は八幡宮の稚児であるから、一家を設けることは出来ないので、住まう僧坊から古い婚姻形態である「通い婚」の形を稚児の親は採らせたのである。

「としたけぬちごなれば」未だ年齢(とし)若い、恋の経験もない稚児(物心つく四、五歳ぐらいから寺院の僧の世話をする者として「稚児」はあったが、平安時代の昔から、剃髪しない少年修行僧の中で、凡そ現在の十一歳から十七歳ほどまでをも「稚児」と拡大して呼んでいた。ここは後者の年齢層の少年僧を想起すべきである)であるからして。

「しみじみとしたる心ざしもなく」心の底から深く向き合うような恋情は、稚児の方には生じず。

「ちなみだいにうとくなりければ」「因(ちな)みも次第に疎くなりゆけば」。「ちなみ」とは「ある特定の関係・仏教的な縁・因縁」の他に、特定の二人が「堅い契りを結ぶこと・縁を結ぶこと」、及び、「つき合うこと・親しくすること」を意味する。所謂、専ら、稚児の少年の側に若さ故のしっぽりとした娘だけへの恋に一途になる「縁」がなかっから、「堅い契りを結ぶ」ほどまでは進まず、それどころか「親しく」通ってくることも次第に「疎く」なってゆく、回数が減っていったのである。私はそれ以外に、娘の一途な彼への恋情にビビッた、病的なものを意識的或いは無意識的に感じ取ったからかも知れないとも思うし、或いはまた、彼女に惹かれる思いは十全にあったものの、稚児であるために(寺院の稚児は御承知の通り、その主目的は成人僧の男色・衆道・少年愛の対象であった)、自分の相手の年上の僧から彼女との関係を咎められたり、嫉妬されたりした結果、通いにくくなったとも考え得る。私は実はこの話柄では後者の娘と同性愛相手とに悩む少年僧という三角関係を設定として考える方が自然であり、文学的にも其の方が話に厚みが出ると大真面目に思っている人間である

「しなのゝぜんくはう寺にをさめんとて」「信濃の善光寺(ぜんくわうじ)に納(をさ)めんとて」。「ぜんくはう」は歴史的仮名遣の誤り。何故、定額山(じょうがくさん)善光寺(現在の長野県長野市元善町(もとよしちょう)にある、構成上は天台宗と浄土宗に属する寺であるが、現行でも寺総体は無宗派とし、浄土宗の方の住職である「大本願」は尼僧で、天台宗の住職「大勧進」は男僧である)かというと、本寺が日本に於いて仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院(七世紀初めの創建とされ、本尊は阿弥陀如来)であることから宗派の別なく広汎な衆生済度の霊場とされてきたこと特に女人禁制が一般であった旧来の仏教の中では稀な「女性救済」を掲げ、早くから女人の信仰を集めたことが挙げられよう。

「ひとま所に」「一間所に」。家内の一室に。

「かの兒(ちご)、また、わづらひつき」「かの」稚児の男も娘同様に「また」、心身を「患ひ」始め。これは文脈上は娘の執心によるものであるわけだが、前に注したように、私はそれに加えて、娘が稚児を恋い焦がれた末に亡くなったことや、稚児である彼を取り巻く生々しい若衆道のどろどろした現実が、彼の精神を苛んだものと解釈するものである。

「かんびやう」「看病」。彼の父母が、であろう。

「しるし」「驗」。効果。

「のちには人をあたりへよする事もきらいければ」「よする」は「寄り付かせる」、「きらい」は歴史的仮名遣の誤りで「嫌ひ」、則ち、まさに症状としては重度の鬱病或いは統合失調症を疑わせる厭人癖を見せるようになったのである。

「ものゝひま」「物の隙(ひま)より」。戸などの隙間から。

「なげきかなしび」「嘆き悲しび」。「悲しぶ」(上代はバ行下二段、中古にバ行四段活用に転じた)は「悲しむ」に同じい。

「かぢきたう」「加持祈禱」。

「むなしくなりければ」「むなしくなる」は「死ぬ」の忌み言葉。

「わか宮のにしの山」現在の二十五坊ヶ谷附近であろう。

「ほうむりけるが、棺のうちに大きなる蛇ありて」土葬したが、その際に見ると、棺桶(当時は座棺(坐棺))の中に知らぬ間に大きな蛇が入っていたのである。

「兒(ちご)のしがいをまといゐたるを、ともにほふむりける」「稚兒の死骸を纏ひ居たるを、伴に葬(はふむ)りける」。「まとい」「ほふむり」は歴史的仮名遣の誤り。

「骨ども、みな、ちいさき蛇(じや)となり、あるひはなりかゝりてゐるも有りしと也」「沙石集」の原話を踏襲しているが、こここそが、この哀しい怪奇情話の、稀に見る驚愕のコーダなのである。

「むすめのしうしん」「娘の執心」。私は何故か、この娘を憎めないでいるのである。]

蜂の夢

 

今曉の第一の夢――

「すがる」を放つ夢を見た……右手で軽く摘まんだ「すがる」をぱっと空に放つのだ…………

……タルコフスキイの「鏡」の射撃場の後の、ブリューゲル風の遠景のある、冬の木立と小鳥と少年のようだった……映像もあのシークエンスのようにハイ・スピード撮影である……僕はやはりあの「少年」のようである……それを「僕」が、あのシークエンスのカメラと同じような位置から見ているのである…………

[やぶちゃん注:「すがる」とは「須軽・酢軽・為軽・蜾蠃・蜂腰」或いは単に「蜂」などと書く、万葉以来の「似我蜂(じがばち:膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini)の古名。或いは広義の蜂(膜翅(ハチ)目 Hymenopteraを総称する古称でもある。「似我蜂」の由来その他はよろしければ私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠮螉」の注を参照されたい。]

 

第二の夢――

裏山の道にポリ袋の塵芥が山と積まれている。そこを通るとスズメバチの集団が「スター・ウォーズ」か「アバター」の軍用機のように、その上でゴマンとホバリングしている。そこを通らないと僕は家に帰れない。

『――僕は出掛けなければならない。――旅立ちが遅れてるんだ。――もう「その」時刻は過ぎてしまったんだ。……』

と焦る。

しかしスズメバチに刺されるのは怖い。

僕は右手のなだらかに広がる麦畑の方へ逸(そ)れて、麦の穂の間にしゃがんで身を潜める。

風と麦の香りがする。

結局、最後まで僕はスズメバチには刺されない。しかし同時に遂に「旅立ち」はやって来ないのであった…………

[やぶちゃん注:僕は小学校二年の夏、カブトムシを捕りに行ってアシナガバチ(細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科アシナガバチ族アシナガバチ属 Polistes の恐らくはフタモンアシナガバチ(二紋脚長蜂)Polistes chinensis)に太腿を刺されて大泣きしたことはあるが、スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinaeのスズメバチ類に刺されたことは幸いにして、ない。但し、最強のスズメバチ属オオスズメバチ Vespa mandarinia に危うく刺されかけたことは、ある。昔、自宅の庭樹にハンドボール大の巣を作られ、竹の棒の先に灯油を含ませた布を巻いて焼き払った際、右眼を狙われた。しかし、眼鏡のガラス面に毒液が噴射されただけで命拾いした。因みに、その毒液のために見事にガラスのコーティングが溶けた。]

2016/10/16

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(5) 五 習性の變異

 

     五 習性の變異

 

 外部の形狀、内部の構造の變異は數字を以て表に示せるが、動物の習性の變異の如きは、そのやうに精密には現せぬ。倂し習性にもなかなか變異の多いものであることは、次の二三の例でも解るであらう。抑々動物の習性に變異があるかないかといふことは、生物進化の往路を考へる上に大關係のある問題で、若し動物の習性に決して變異はないものとしたならば、動物の進化も容易には出來ぬ理窟である。それ故、近頃動物を研究する人は特にこの點に注意して居るが、丁寧に觀察して見ると、どの動物も習性の變異が隨分多くある。先年來アメリカの鳥類だけを專門に調べた某氏などは、その報告書の中に、鳥類の習性は決して從來人の思つて居た如くに一定不變のものではなく、一種中にも一疋每に多少の相違があり、産地が異なれば更に甚だしい相違があると特書した。


Nestor

[ネストル]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。]

 

 ニュージーランドの中央の島の山地に棲むネストルといふ奇妙な鸚鵡があるが、この鳥は他の鸚鵡の如く從來、花の蜜を吸い、果實を食つて生きて居たものであるが、西洋人が移住し來つてから、その習性に思ひ掛けぬ變異が起つた。或る時羊の生皮が日に乾してある處に來て、之を喙(ちば)んだのが始(はじまり)で、急に肉食を好むやうになり、千八百六十八年即ち我明治元年頃から牧場に居る生きた羊の脊を喙み、肉に食い入り、殊に好んで腎臟を食ふやうになつた。羊は無論そのために死んでしまふ。斯く突然大害を生ずるやうになつたので、牧羊者は捨て置く譯に行かず、力を盡してその撲滅に從事したから、この面白い鸚鵡の種類も今では極めて稀になつた。孰れ遠からぬ中には全く種が盡きてしまふであらう。元來鸚鵡の種類は決して肉食せぬもの故、爪の丈夫なのも嘴の太く曲つて居るのも、皆たゞ樹木を攀ぢ、枝の上を巧に運動するためであるが、一旦習性が變ると、形の相似たのを幸に、直に之を鷲・鷹同樣に、肉を裂き食ふために利用する具合はなかなか妙である。

[やぶちゃん注:「ネストル」オウム目フクロウオウム科ミヤマオウム属ミヤマオウム Nestor notabilis ウィキの「ミヤマオウム」によれば、『マオリ語ではケア(Kea)。ほかに、ケアオウム、キアとも』。『ニュージーランド南島固有種』で、全長四十六センチメートル。体重七百グラムから一キログラムにも達する。『全身はオリーブグリーン色の羽毛で覆われ、翼下部の羽毛は赤い。頭部から腹部の羽毛は灰色がかっており、蝋膜』(ろうまく:猛禽類やオウム・インコなどの上の嘴の付け根を覆う肉質の部分)と『眼は濃い灰色』。幼鳥(零歳から三歳)は、『蝋膜、目の周りとくちばしが黄色』。『ミヤマオウム属は、カカ』(Nestor meridionalis)、『ミヤマオウム、絶滅種キムネカカ(ノーフォーク島カカ)』(Nestor productus)の三種を含む。三種類全ては千五百万年前の『ニュージーランドで『プロト・カカ』から分化したと考えられる』。『ミヤマオウム属に最も近い親類はフクロウオウム(カカポ)』(フクロウオウム属フクロウオウム Strigops habroptilus)『と考えられ、併せてフクロウオウム科 Strigopidae に分類される。この科はミヤマオウム科 Nestoridae とも呼ばれるが、先に記載された「Strigopidae」が有効である』。『高山帯の森林や草原等に生息する。別名は鳴き声に由来し、日本語話者には「きーあー」と聞こえる。食物の少ない環境に対する適応として知能や体力、学習能力、好奇心、協調性、適応性が極めて高く、ゴミ箱の蓋を外す、ボルトナットを外す、自転車のタイヤに噛み付いてパンクさせるなど、極めて簡単にこなせ、集団で協力して様々ないたずらをする』。『食性は雑食で、葉や花の蜜、果実、昆虫類、鳥類の雛等を食べる。穴居性の海鳥(ミズナギドリなど)の雛を襲う時は鋭い嘴で巣穴を掘り拡げ、中に潜む雛を掴み出して噛み殺す』。『入植者が植生を破壊し』、『羊を放牧する様になった後、集団で羊を襲ってその背中の肉を食べることがあったため』、『多数が射殺されたが、絶滅寸前になったため』、『一九八六年以降は法令によって保護されている』(レッド・リストの絶滅危惧種の絶滅寸前種(CR)指定)。『冬期にパン、バター、ファーストフード等の残飯を漁って食べる、スキー場のロッジで飲酒するなどの個体が認められ、冬期には、これら高カロリー食品を簡単に入手できる山岳地帯のスキー場の近傍に営巣するつがいも出現している』とある。グーグル画像検索「Nestor notabilisをリンクさせておく。]

 

 またヨーロッパからニュージーランドに輸入して放した雀類の小鳥なども、その習性が大に變じて、ヨーロッパに於けるとは根本的に形の違ふ巣を造るやうになつた。「ひわ」は雀と同じく元來穀物を食ふ鳥であるが、ハワイ附近のレイサン島に居る一種は海鳥の卵を食ふやうになつた。一體、習性といふものは餘程までは眞似(まね)に基づくもので、通常は餘り變異せぬもののやうに見えるが、一疋何か變つたことをするものが現れると、直に他のものが之に習つて、ここに新しい習性が出來る。それ故異なつた場所に移すと、動物の習性に變異を生ずることが比較的に多いのであらう。

[やぶちゃん注:「ひわ」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する鳥の中で一般的には種子食で嘴の太くがっしりした小鳥の総称。英語の「フィンチ」(finch)は、以前は、ヒワ亜科に似た穀食型の嘴をもつ他の科の鳥もひっくるめた総称として用いられたため、現在でもヒワ亜科でない別種の鳥にも英名「フィンチ」の残っている種が多い。ヒワ亜科には約百二十種が含まれ、ユーラシア・アフリカ・南北アメリカに広く分布し、日本でもヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinusなど十六種が棲息する(なお、「ヒワ(鶸)という和名の種は存在しない)。孰れも穀食型の短く太い嘴を持ち、主に樹木や草の種子を摂餌する。一般に雌雄異色で、雄は赤色又は黄色の羽色を有する種が多く、日本の伝統色である鶸色は、先のマヒワの雄の緑黄色に由来した色名である(以上は主に小学館「日本大百科全書」を参照した)。

「レイサン島」レイサン島(Laysan:ハワイ語:Kauō)はホノルルから千五百キロートル北西に位置する火山島。ウィキの「レイサン島」によれば、面積四平方キロメートルの長方形を成し、中心部にレイサン湖がある。この湖はハワイに五つだけ存在する貴重な天然の湖の一つであり、温泉が湧き出している。現地ハワイ語名の「Kauō」は「卵」を意味する。レイサン島では『固有種、固有亜種』で『人間の密猟や戦争行動、外来種の脅威によって絶滅』したツル目クイナ科ヒメクイナ属レイサンクイナ Porzana palmeri や、カモ目カモ科マガモ属レイサンマガモ Anas laysanensis(CR指定)、『絶滅寸前の』ヒワ亜科ハワイミツスイ族 Telespiza 属レイサンハワイマシコ Telespiza cantans (絶滅危惧種の絶滅危急種VU指定)といったもいるとあり、恐らくこの最後のレイサンハワイマシコ Telespiza cantans は、まさに丘先生の言う人間が持ち込んだヒワ類によってこういう状態に陥ったものとも思われる。]

 

 以上は動物の習性の變異の最も有名な例である。斯く著しい例は餘り多くはないが、前にも述べた通り多少の變異は極めて普通であるから、親子の間と雖も、習性が全く同一とは限らぬ。また同じ子孫の中でも、或るものは舊習性を守り、或るものは新習性を取ることもあり、その間に自然に相違が現れるのは素よりである。

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(4) 三 他の動物の變異 / 四 内臟の變異

     三 他の動物の變異

 

 下等動物には變異の甚だしいものが頗る多い。中にも海綿の類などは餘り變異が烈しいので、種屬を分類することが殆ど出來ぬ程のものもある。現に海綿の或る部類は種屬識別の標準の立て方次第で、一屬三種とも十一屬百三十五種とも見ることが出來るといふが、これらの動物ではたゞ變異があるばかりで、種屬の區別はないといつて宜しい。その他蝸牛などがまた變異の盛な動物で、何處の國に行つても、多くの變種のないことはない。フランスの或る學者の調によると、「森蝸牛」といふ一種には、百九十八の變種があり、「園蝸牛」といふ一種には九十の變種がある。我が國などでも、蝸牛の標本を數多く集めて見ると、一種每になかなか變異が多くて、往々自分の手に持つて居る標本が執れの種に屬するか、判斷に困ることがある。といつて宜しい。

[やぶちゃん注:「森蝸牛」「園蝸牛」孰れもこんな和名は聴いたことがない。フランス語で検索もしてみたが、当該種と思われるものを発見出来ない。個人的には、変種数の多さから見て、これは「森林性カタツムリ」(地上性と樹上性の二種がいるが、多くは湿度が一定以下に低下すると生きて行けない種群が多いとは思われる)と「都会性カタツムリ」(我々が日常的に観察出来る、人家の近くや庭、かなり人工の手の入った公園をフィールドする種群。但し、環境がかなり自然状態に近い自然公園の場合には森林性カタツムリが有意に観察されている)といった生息域による、現在ではやや非科学的な旧分類に基づく、別種を変種扱いにしているようにも思われる。識者の御教授を乞う。私は実は陸産貝類はテリトリでない。]

 

 蛤、「あさり」等の貝殼の斑紋にも、隨分變異が多い。或は全部白色のものもあり、或は全部色の濃いものもあり、または波形の模樣あるもの鋸の齒の如き斑あるものなど、一つ椀の中にあるだけでも全く同一のものは決してない。之は單に貝殼の外面の模樣に過ぎぬから、殆ど何の意味もないことと思ふ人もあるかも知れぬが、かやうに色の違ふのは、やはり之を生ずる内の方に一定の相違があるに基づくことであらう。

[やぶちゃん注:「内」ハマグリやアサリの生体として軟体部本体。その色や形状の違いを産み出すところの、分泌物や分泌システム、或いは殻を構成する際のシステムの手順の微妙な相異は、単に環境に対する適応・不適応の個体単位の反応のみでなく(それも無論、多い)、その種の中のある群の中に特徴的に遺伝的に組み込まれており、それが代々保存されている可能性を丘先生は示唆しているのであろう。]

 

 以上掲げたのは最も手近な例を二三選み出したに過ぎぬが、今日の生物測定學の結果を見ると、如何なる生物でも變異を現さぬものは一種もない。然も執れも隨分著しい變異を示して居る。

 

     四 内臟の變異

 

 動物各種の變異は身長・斑紋等の如き單に外部に顯れた點に於てのみではない。内部の細かい構造にもなかなか著しい變異がある。併し動物か一疋每に解剖することは、たゞ身長を測つたりするのとは違ひ、大に手數のかゝるもの故、多數の標本を解剖して比較した例は甚だ少い。たゞ解剖學者が解剖する際に、偶然發見した變異を記錄して置いたものだけであるが、それだけでも變異の甚しい例が既に澤山にある。

 脊骨の數、肋骨の數なども往々一種の動物内で變異があり、一二本多過ぎたり、足らなかつたりすることは、決して珍しくはない。通常、解剖の書物には煩を避けるために、何事もたゞ模範的のものだけが掲げてあるから、初學の者は總べてこの如きものばかりであると思ひ込み、實際解剖して見て書物と違ふので大に驚くことがあり、また氣の早い者は一廉(かど)の新事實を發見した積りで、非常に騷ぐこともある。どの器官にも多少の變異はあるが、血管・神經の配布などには特に變異が甚しい。

[やぶちゃん注:私の昔の同僚の生物の先生は肋骨の最下部の第十二肋骨が左右とも生まれつきないとおっしゃっていた。作家の竹中労氏の父君で画家として知られた竹中英太郎氏は内臓逆位(Situs inversus:内臓の配置が鏡に映したようにすべて左右反対であることを指す。百万に一人と言われる)であった。]

 

 次の表は獨逸國の水産局の係の人が、一つ處で取れた鯡(にしん)を三百疋ばかり解剖して調べた脊骨の數の變異を現すものである。縱の線は脊骨の數を示し、橫の線は百分比例で疋數の割合を示すやうに出來て居るが、總數の殆ど四割五分は五十五個の脊骨を有し、略々四割は五十六個の脊骨を有するに反し、五十七個の脊骨を有するは僅に一割、五十四個を有するは僅に五分に過ぎない。五十八個或は五十三個を有するものは總體の中に僅に五六疋よりない。かやうに疋數の多少には著しい相違はあるが、鯡の脊骨の數は少きは五十三個、多きは五十八個で、都合六個の變異がある。

[やぶちゃん注:「鯡」条鰭綱ニシン目ニシン科ニシン属ニシン Clupea pallasii。]

 

Misinsekituikotu

 

[鯡の脊椎の數の變異]

[やぶちゃん注: 国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。縦軸が「百疋に付」、横軸が「脊椎の數」。]

 

Kareisiribire

 

[鰈の臀鰭の線の數の異變]

[やぶちゃん注:以上の図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像からトリミングし、補正を加えたものである。縦軸が「百疋に付」、横軸が「臀鰭の線の數」。]

 

 尚一つ掲げたのは、蝶(かれい)の臀鰭の骨の數の變異を示す表であるが、蝶は人の知る通り海底に橫臥して居る魚で、左右兩側は全く色が違ふて恰も他の魚類の背と腹との如くに見え、眞の背と腹とは却て他の魚類の左右兩側の如くに見える。而して斯く背と腹との同じく見えるは、普通の魚類では腹の後部にあるべき臀鰭といふ鰭が、非常に大きくて殆ど背鰭と同じ位になつて居る結果であるが、この臀鰭の骨の數を算へると、種々の變異を發見する。こゝに出した表はイギリス國のプリマスで取れた一種の蝶に就いてその變異を表したものであるが、四十二本・四十三本を有するものが最多數で、稀には三十八本に過ぎぬのもあれば、また四十八本もあるのも何疋かある。而して面白いことには同一種の蝶でも、産地によつてこの數が違ひ、ドイツ國北海岸の西部では、四十一本・四十二本のものが最多數で、東部へ行くと三十九本のものが最も多い。之を表に造れば産地が東へ寄る程、曲線の山の頂上に當る所が表の左方へ進んで行く譯である。

[やぶちゃん注:「蝶」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ科 Pleuronectidae に属するカレイ類であるが、私はこれは、ある程度、臀鰭(カレイ類の臀鰭とは頭部の傍にある小さな腹鰭から尾鰭の根元まで続く(多くの種では右に頭とした場合の手前の鰭。背鰭は有意に頭部近い位置から始まって尾鰭の根元まで)の骨を数え易い大型種で、しかも食用だけでなく、大型で単純な釣りとしても人気があり(とすれば、検体個体としても入手し易い)、更にプリマスの位置する北大西洋からドーヴァー海峡を経て北海ドイツ沿岸に多く分布するという点では、この「鰈の一種」とはオヒョウ属タイセイヨウオヒョウ Hippoglossus hippoglossus ではなかったかと推理している。]

 

 斯くの如く縱橫に線を引き、之によつて生物の變異の有樣を現すことは、今日生物測定學で最も普通に用ゐる方法である故、特にその例を示したのであるが、この法によれば生物の變異は何時も一つの弧線によつて現され、その弧線の形狀により變異の多少は素より、一種每の變異の爲樣(しやう)の特異の點までを一見して直に知ることが出來る。

祖父遺品の絵葉書から――「ホロンバイル 蒙古風俗」

M0

[やぶちゃん注:「ホロンバイル」現在の中華人民共和国内モンゴル自治区北東部に位置するフルンボイル市。市名はモンゴル語で、地区に含まれる湖である呼倫湖(フルン・ノール)と貝爾湖(ボイル・ノール)に因む。参照したウィキの「フルンボイル市によれば、『フルンボイル地方は遊牧に好適な草原地域であり、匈奴、鮮卑、室韋、キルギス、契丹、タタルなど、古来様々な遊牧民が興亡した。また、東方の森林地帯からは女真をはじめとするツングース系の民族も入り込んでおり、現在のオロチョン、エヴェンキの先祖となった』。『モンゴル帝国のもとではチンギス・ハーンの末弟テムゲ・オッチギンがこの地方に遊牧し、モンゴル高原東部から遼東にかけて絶大な権勢を誇った。元の北走後も北元にとっての重要な拠点であったが』、一三八八年に『この地でトグス・テムル・ハーンが殺害され、北元は崩壊した』。十七世紀には『バルグ(今日のブリヤート人に近いモンゴル系部族)、ダフール(モンゴル系民族)、エヴェンキ、オロチョンなどが住んでいたこの地方は清の支配下に置かれた。清は領土の北辺にあたるこの地方を支配するに当たり、八旗に準じて諸部族をソロン八旗(ソロンはエヴェンキの満州語名)に編入し、清朝皇帝の隷臣として扱った』。十八世紀には『外モンゴルのハルハの隷属民であったバルグの別派がフルンボイルに移住されてバルグ八旗に編成され、黒竜江将軍の支配下に置かれた』。『清末においてもこの地方は北方の辺境であったために漢族の流入や定住農耕化が比較的遅れ、その後も長い間遊牧生活が保たれた』。一九一二年に『ロシアとモンゴルのボグド・ハーン政権の援助で勝福や貴福らによって分離独立するも』一九一五年に『中国の特別区域となり』、一九一九年には『高度な自治権も解消された。満洲事変が起こると日本の勢力下に入り、満洲国』(一九三二年(昭和七年)三月一日満洲国建国)『に編入されて南のジェリム盟と合併、興安省が置かれた。さらに興安省が分割されるとフルンボイルのうち嶺東地区は「興安東省」、嶺西地区は「興安北省」が設置された。満州国崩壊後、興安北省省長だったエルヘムバトは侵攻してきたソ連とモンゴル人民共和国の連合軍に支援されてフルンボイル地方自治政府を分離独立させる』。一九四八年に『中国共産党のウランフの工作が実り、ホロンバイル盟が設置されて内モンゴル自治区に属すことになった』とある。本絵葉書は年次を示すデータがないが、満洲国に編入されてからのものである。

 冒頭の封筒(画像ファイルm0)の「屆先」の「笠井直一」(なおかず)が私の母方の祖父(私の父母は従兄妹なので母方の祖母の兄でもある)、住所「九州鹿児島県岩川後町」(「後町」は「うしろまち」と読む)、差出人欄「ハルピンにて」「松崎博一」は祖父の友人。]

M1

「(蒙古風俗)頑健なる子供と精悍な親達」(画像ファイルm1

表のキャプション。以下、やや異なるが、英文キャプションが附帯しているが、省略する。


M2

「(蒙古風俗)正裝せる蒙古貴人」(画像ファイルm2


M3

「(蒙古風俗)奇妙な面を覆る羅漢踊り」(画像ファイルm3



M4

「(蒙古風俗)宿營地に於ける食事の用意」(画像ファイルm4



M5

「(蒙古風俗)奇觀を呈する喇嘛僧の讀經」(画像ファイルm5

「喇嘛僧」は「ラマそう」と読む。



M6

「(蒙古風俗)盛裝せる蒙古人の一族」(画像ファイルm6

甲子夜話卷之二 25 荻生氏の藏、玄宗眞蹟の事

2-25 荻生氏の藏、玄宗眞蹟の事

荻生茂卿【徂徠】、唐玄宗の眞蹟を藏む。今に其家傳寶とす。然ども容易く人に觀せず。會(タマ)々需る者あれば、辭してゆるさずと聞く。因て先年、郡山侯に書翰を贈りて、其事を問ふ。答に、抑家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候。然に此書者他江借覽憚候子細候而、先茂卿申置候にて、何方江茂斷申也。巳に脇坂淡州所望有之候所、緣家なれども斷申遣候事にて候と也。かゝる物を祕し置て人に見せざるは、奈なる事にや。

■やぶちゃんの呟き

「荻生茂卿【徂徠】」「をぎふもけい」(名を訓ずると「しげのり」)。「そらい」。知られた儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)。「茂卿」は字及び実名。「徂徠は号。ウィキの「荻生徂徠によれば、彼は元禄九(一六九六)年に第五代将軍綱吉の側近で幕府側用人(後に甲斐甲府藩柳沢家初代藩主)柳沢吉保に抜擢されて、当時の吉保の領地であった川越で十五人扶持を支給されて彼に仕えている。後には五百石取りに『加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元』(一七〇五)年『に甲府藩主となり』、宝永七(一七〇六)年には吉保の命を受けて徂徠は甲斐国を見聞、紀行文「風流使者記」「峡中紀行」として記している。宝永六(一七〇九)年、『綱吉の死去と吉保の失脚に』よって『柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ』。享保七(一七二二)年以後は第八代将軍『徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて』、享年六十三歳で亡くなっている。従って、彼は柳沢家家臣であり、この話柄当時の荻生家もそうだったのである。「郡山侯」の注を参照。

「唐玄宗」(六八五年~七六二年)唐第九代皇帝。諱は隆基。「國立故宮博物館」公式サイト内ので玄宗直筆の「唐玄宗鶺鴒頌卷」(「鶺鴒頌」(せきれいしょう」))を視認出来る。筆致に太々としたセキレイたちの飛び交うようないいリズムがあるように感ずる。嫌いじゃない。

「藏む」「をさむ」。

「然ども」「しかれども」。

「容易く」「たやすく」。

「會(タマ)々」「偶々」。

「需る」「もとむる」。閲覧を希望する。

「郡山侯」郡山藩藩主たる郡山柳沢家。「甲子夜話」執筆開始の文政四(一八二一)年近くと考えるなら、大和郡山藩第四代藩主で郡山藩柳沢家第五代柳沢保泰(やすひろ 天明二(一七八三)年~天保九(一八三八)年)である。享保九(一七二四)年の「享保の改革」による幕府直轄領拡大政策で、甲斐の直轄領化に伴い、柳沢吉保の長男で当時、甲斐甲府藩柳沢家第二代藩主であった柳沢吉里は大和郡山藩主として移封されている。

「抑家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候。然に此書者他江借覽憚候子細候而、先茂卿申置候にて、何方江茂斷申也。巳に脇坂淡州所望有之候所、緣家なれども斷申遺候事にて候」書き下す。

 抑(そもそも)、家臣荻生の玄宗親筆「孝經(こうきやう)」、御覽(ごらん)は易きことに候ふ。然(しかる)に此の書は、他(ほか)え〔→へ〕借覽(しやくらん)、憚り候ふ。子細候ふて、先(さき)に、茂卿、申し置き候ふにて、何方(いづかた)え〔→へ〕も斷り申すなり。巳(すで)に脇坂淡州(わきざかたんしう)、所望、之れ有り候ふ所、緣家(えんか)なれども、斷はり申し遣はし候ふ事にて候ふ。

〔 〕は私の補正。「孝經」中国の経(けい)書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動を記したとされ、「孝」の概説・各階層の「孝」のあるべき姿・「孝」道の必要性を説いたもの。玄宗はこの注釈書「御注孝経(ぎょちゅうこうきょう)」を著わしているから、書写対象としては頗る腑には落ちる。なお、「家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候」の箇所は間違えて読んではいけない。「家臣」である「荻生」家の所蔵になる「玄宗親筆」の「孝經」を藩主である私が披見することは全く問題がなく、何時でも出来る、しかし……というのである。静山(保泰より七つ年上)ならずとも「なんじゃい!」と吐きたくなる如何にも慇懃無礼な謂いではないか! 「脇坂淡州」播磨龍野藩第八代藩主で龍野藩脇坂家十代で寺社奉行から老中となった脇坂安董(やすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)であろう。柳沢家との縁戚関係は不詳。

「奈なる」「奈(何)(いか)なる」。

譚海 卷之一 覺樹王院權僧正の事

○威成院僧正又不思議の事ある驗者(げんざ)也。叡山にて萬の行者といふ人有(あり)。一萬日三塔をはじめ京洛の靈場を拜し苦行する事にて、勇猛の人ならでは成就しがたき行(ぎやう)とぞ。此行中に僧正少し慢心を起されければ、天狗取(とり)て谷へ投(なげ)けるとて、其時の創(きず)の痕(あと)、口の樣に殘(のこり)て有(あり)しとぞ。後に江戶神田明神の傍に寺地を賜り住持有(あり)。覺樹王院權僧正と申(まうし)、晩年本所猿江(さるえ)に退居有(あり)、九十歲にて遷化(せんげ)ありしなり。僧正京(きやう)にありし時、白川の奧へゆかれしに、をとかうと云(いふ)仙人に遇(あひ)て談論あり。仙人護法の約ありし故、其像を造り廚子(ずし)に入(いれ)、平生(へいぜい)の居間へ安置せられ、時々護摩きとうの際、祈念せらるゝ事かなふ事には龕(ぐわん)中に聲有(あり)て答(こたへ)けるよし、その折の願(ぐわん)はきはめて應驗(わうげん)有(あり)けるとぞ。堀田相模守殿執政の願(ねが)ひかなひ、僧正の祈念などしるしありけるより、此仙人の像を懇望有(あり)て僧正より相傳あり。今は此像堀田家にありとぞ。天明六年正月猿江の精舍(しやうじや)囘祿(くわいろく)し、僧正の遺物悉く燒亡(しやうばう)し、其折(そのをり)右最勝王經のまんだらも燒却しぬ、悼むべき事也。

 

[やぶちゃん注:「覺樹王院權僧正」不詳。識者の御教授を乞う。

「威成院僧正」前条末に既出。不詳。但し、「威成院」というのは実在した寺のようで「近世文藝叢書」のこちら(グーグル・ブックス)で『威成院の良昌僧都』と出る。識者の御教授を乞う。ともかくも、この条はその「威成院僧正」なる高僧が実体験した事実を並べてあるようである。これも前話同様、その僧正の語ったことを誰かから津村淙庵が聴き書きしたようなニュアンスで書かれてあるようには感じる。

「萬の行者」不詳。識者の御教授を乞う。

「一萬日三塔をはじめ京洛の靈場を拜し苦行」比叡山延暦寺(言わずもがなであるが、「延暦寺」とは境内地に点在する約百五十ほどから成る堂塔・寺院の総称であって、「延暦寺」という一塔の建造物があるわけではない)はその広大な山内(約五百ヘクタール)を三つに区分し、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」、北を「横川(よかわ)」呼び、この三区を「三塔」と呼ぶ(それぞれに本堂がある)。これは「千日回峰」ならぬ、一万日(単純計算で二十七年五ヶ月程に相当)をかけて、この「三塔」を始めとして京都の寺院を総て行脚礼拝する行のことか? 識者の御教授を乞う。

「僧正」威成院僧正自身。

「天狗取(とり)て谷へ投(なげ)ける」天狗が威成院僧正を、ぐい! と摑んで比叡山の谷底へ投げた。

「口の樣に」口のようにぱっくりと開いて。

「後に江戶神田明神の傍に寺地を賜り住持有(あり)」というのは文脈から見ると、威成院僧正のことのようである。

「覺樹王院權僧正と申(まうし)、晩年本所猿江に退居有(あり)、九十歳にて遷化(せんげ)ありしなり」ここからかなり唐突に「覺樹王院權僧正」の話に変わる。この条、或いは錯簡があるか? 「本所猿江」現在の東京都江東区猿江。ウィキの「猿江によれば、『深川地域東部の中でも数少ない江戸時代以前から陸地が広がるエリアであり、「深川猿江」の名で長く親しまれている町である』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「をとかう」不詳。識者の御教授を乞う。

「仙人」僧正の言う場合は仏語で、外道(げどう)の修行者の中で、世俗と交わりを断って神通力を修めた者を指す。

「仙人護法の約ありし故」この「をとかう」なる外道の修行者と覚樹王院権僧正は「談論」の末に互いを認め合ったものなのであろう、「護法の約」というのは「をとかう」仙人が護法童子(密教の奥義を極めた高僧や修験道の行者・山伏。陰陽師らが使役する神霊・鬼神)の法を以って覚樹王院権僧正を護ると約したのであろう。

「其像」これは護法童子像であろう。

「きとう」「祈禱」。

「祈念せらるゝ事かなふ事には龕(ぐわん)中に聲有(あり)て答(こたへ)けるよし」その祈念なさったことがきっと叶う、成就する場合には「龕」(がん:仏像を納めた厨子)の中から、何者かが必ず応じて声を挙げるとのこと。

「その折の願(ぐわん)はきはめて應驗(わうげん)有(あり)けるとぞ」そうした現象が起こった場合には、その願いの成就のさまは、これ、極めて十全に満足出来るものであったということである。

「堀田相模守殿執政」本「譚海」は寛政七(一七九五)年自序であるから、直近の老中首座、堀田氏で相模守というと、出羽山形藩三代藩主・下総佐倉藩初代藩主で正俊系堀田家第五代の堀田正亮(正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)である。彼は家綱の治世に老中・大老であった堀田正俊(寛永一一(一六三四)年~貞享元(一六八四)年)の四男堀田正武の長男で、正亮が老中首座となったのは寛延二(一七四九)年、吉宗の治世の最後である。家光の治世の老中に正俊の父堀田正盛もいるが、正盛・正俊は二人とも「相模守」ではないから、正亮に同定してよい。

「天明六年」一七八六年。

「精舍(しやうじや)」寺院。

「囘祿(くわいろく)」火災。

「右最勝王經のまんだら」これは前話「官醫池永昌安辨財天信仰の事」にある官医池永昌安が、「最勝王経」の説くところを狩野探信に描かせたという大曼荼羅絵。最後に昌安はこの大幅のしかも数十幅に及ぶ、金泥をふんだんに使った(七千両かかった)それを、威成院権僧正に寄附したと述べてある。]

谷の響 一の卷 十五 猫寸罅を脱る

 十五 猫寸罅を脱る

 

 己れ少年の頃、什麼(いづれ)の猫にや有けん最(いと)大きなるが累夜(よなよな)來りて庋格(ぜんだな)を荒し、食を掠喫(とりくら)ひ器物(どうぐ)を損ふこと人の業かと思はるゝまでなりき。左有(さる)からこを捕獲(とらへ)て苛きめ見せんとすれど、疾(とく)逃去りて奈何とも爲術(せんすべ)なし。一日(あるひ)二個(ふたり)の僕(しもべ)と議(はか)りてその避(のかれ)るべき處の隅々(くまくま)を塞(ふさ)ぎ、當夜(そのよ)は三人ともに寢もやらで覗ひしに、又例(いつも)のごとく來りて厨下(だいどころ)に至れり。僕とも密(ひそか)に燈(あかり)を點し急に起身(おこりたち)、手々(てにてに)に棍(ぼう)を振り𢌞して追ひ詰るに、猫はいたく狼狽(うろたへ)て四邊(あたり)に亂趨(くるひまはり)しが、遂に井(ゐど)の傍(かたへ)なる格子を撞(つ)き貫(ぬ)いて脱走(にげうせ)にき。さるにこの猫は大さ小狗の如き逸物なるから、必然(さだめし)格子を破碎(やぶり)て脱(のがれ)しならんと燈火(ともしび)をよせて見やりたるに、一口(すこし)の殘缺(いたみ)もなく又緩弛(ゆるむ)こともなかりしなり。

 且説(さて)、この格子の僚子(こし)を排序(ならべ)たる空間(すきま)は一寸四五分に過ざるに、その罅(あひだ)よりかかる犬猫の脱(のが)れ出たるはいと怪しき事と言ふべし。僕等をとこども)の言ふ、猫は魔の物としあればこの小間(すき)よりも出るも理(ことわり)ならん。さりとは意慮不安(きみわろし)といふて笑ひしなり。こは妖魔のなす業かはしらぬなれど、又上梓(かみくだり)なる魔の葉貫と言ふに近かる理とも思はる。

  附て言ふ。往にし頃、大蝦蟇の鳥籠の目を

  潛りしことありて、この猫と類する話あれ

  ど、又蟇のことにも同じことあればしばら

  く玆に載げず。

 

[やぶちゃん注:標題「猫寸罅を脱る」は「猫、寸罅(すきま)を脱(のが)る」と訓じておく。「寸罅」は音読みするなら「スンカ・スンケ」であるが、和訓上手の西尾なら本文に照らして「すきま」と読みたい。本文に出る他の「あひだ」や「すき」ではパンチが出ない気がする。

「庋格(ぜんだな)」「膳棚」。「庋」も「格」も孰れも「棚」の意しかなく(「庋」(音「キ」)には他に「置く・仕舞う」の意がある)、特に食膳や食器の意は持たないから、かなり遊んだ当て読みである。

「業」「わざ」。

「左有(さる)から」そんな訳で。そこで。

「苛きめ」「いたき目」と訓じているか。

「僕とも」ママ。複数を示す「ども」であろう。

「大さ」「おほいさ」。

「小狗」「こいぬ」。

「逸物」「いちもつ」ここは普通の猫と比べて群を抜いて大きいことを指す。

「緩弛(ゆるむ)こと」二字へのルビ。

「僚子(こし)」「僚」は「同じ役目をする仲間」であるから、並んで組んである格子の桟(さん)の単位、一本を指しているものと読める。「格子」の略ではなく、「層(こし)」ではないかと推察する。

「一寸四五分」約三センチ二ミリから四センチ五ミリ。

「さりとは」それにしてもそのように平べったくなって抜けたというのは。「さりとも」の方がすんなり読める。

「意慮不安(きみわろし)」四字へのルビ。何とも柴田天馬訳の「聊斎志異」を読んでいるようで面白い和訓である。

「上梓(かみくだり)なる魔の葉貫」「上梓」は「前に掲げた条」の意。これは前の「十四 子(くだ)抒(をさ)を脱れ鷹葉を貫く」(「」=(たけかんむり)+「孚」)の後段【この条は前段の機織りの怪異の箇所が私には一部理解出来ないため、実際の機織りをなさっている知人に問合せ中なので、電子化はしばらくお待ち戴きたい。悪しからず。】、「鷹の葉貫(ぬき)といへるもこれと等しき一奇事なり。こも世の人の知れる如く、鷹を役(つか)ふに其脚に早緒(を)と言ふを附て放ちやれば、その鷹鳥を追ひて樹の間(あはひ)を飛翔るに、いかなる拍子にやあらん、一片(ひら)の葉を貫くことありて、其葉また緒の中間(なか)に係りてその緒の頭(さき)は鷹の脚に着き、後の端は役ふ人の掌中にあり。これも鷹役ふ人にはまゝあることゝて、古川某語りしなり。是等は實に奇(くす)びの中の奇びと言ふべし」という、鷹匠の手と鷹の脚で完全に閉鎖された糸の中間に、中央をその糸で貫かれた木の葉が入るという超常現象(これは実はその前の十三 自串の、生きた雲雀が生木の根と枝葉の間の幹に突き抜かれてばたついている例、西尾の自邸の梨の、木の葉の同様の貫きのケース、また同様の薄の中間の鮒の例をも受けている)を指す

「理」「ことわり」。人知では解明し得ない超自然の「理」ということになるか。

「附て言ふ」「つきていふ」。これについて附言しておく。

「往にし頃」以前に。

「大蝦蟇」「おほがま」。ガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)。

「鳥籠の目を潛りしことありて」この格子なんどよりももっと狭い細かな鳥籠の格子の目をガマガエルが抜け通って(小鳥を食ってしまった)。

「蟇のことにも同じことあればしばらく玆に載げず」「ガマガエルについては、似たような怪異が多く語られているので、暫くはここには掲げない」の謂いでとっておく。ガマガエルが霊気を吐いて外敵を殺したり、液状に変化(へんげ)して姿を消滅させたりするという話は民俗伝承の中で、しばしば聴くものである。]

谷の響 一の卷 十四 筟子杼を脱れ鷹葉を貫く

 十四 子(くだ)杼(をさ)を脱れ鷹葉を貫く

 

 

 

 また世にの杼脱(をさぬけ)といへることありて、いといと奇怪(くす)びなることありき。そは、皆世の人の知れるごとく、機(はた)を織るには子に緯(よこ)糸を卷いて杼の懷穴(ふところ)に内(い)れ、その絲端(はし)を曳て傍(そば)なる小さき穴に通し是を縱(たて)糸に接(まじ)へて織なすなり。然(さ)るに此のの、杼の懷穴と小穴とを脱出て斷切(きれる)ことなく機中(はた)に連接(つづ)けり。こを機神の遊行(あそび)玉へる日なりとて神酒を供えて休息(やすむ)となり。かゝることは機織る人にまゝありて世多く知れり。

 

 又、鷹の葉貫(ぬき)といへるもこれと等しき一奇事なり。こも世の人の知れる如く、鷹を役(つか)ふに其脚に早緒(を)と言ふを附て放ちやれば、その鷹鳥を追ひて樹の間(あはひ)を飛翔るに、いかなる拍子にやあらん、一片(ひら)の葉を貫くことありて、其葉また緒の中間(なか)に係りてその緒の頭(さき)は鷹の脚に着き、後の端は役ふ人の掌中にあり。これも鷹役ふ人にはまゝあることゝて、古川某語りしなり。是等は實に奇(くす)びの中の奇びと言ふべし。

 

 

 

[やぶちゃん注:本条は前の「十三 自串」の不思議、所謂、空間的に両端が閉鎖されている――ようにしか見えない(この「見かけ」こそが本現象を解明し得る一つのミソであろうとは思う)――その間に、ある物体が中央付近を貫かれて存在し、しかもその貫かれている対象物体にはその中央の貫かれた部分へ向かうような切れ目や断裂が一切ないという超常現象の続篇と考えてよい。

 

 さて、標題の「子(くだ)杼(をさ)を脱れ鷹葉を貫く」の、

 

子(くだ)」本文の「」(くだ)と同じで、これは「玉管」「管」とも書き(後の知人の引用を参照されたい)、機織(はたお)りに於いて横糸を巻いて杼(ひ:後述)に入れる道具のことを指す。これは近現代の整理用の糸巻である「ボビン」と同様のものとし考えてよいようである(ウィキの「ボビン (裁縫)によれば、「ボビン」はラテン語の「Balbum」を語源とし、原義は「ごとごと音を立てて回るもの」だとされており、それが西欧各地に伝播して最終的にフランス語の「糸巻き」を表す「Bobine」に変化して現在に至っていると言われている、とある)。

 

●「杼(をさ)」は、前の説明の「ひ」と同義で、「梭」とも書き、現代仮名遣では「おさ」とも呼ぶようではある(但し、別にやはり機織りに於いて、竹又は金属の薄片を櫛の歯のように並べて枠をつけた、縦糸を整えて横糸を打ち込むのに使う道具を「筬(おさ)」と読んでおり、少なくとも現代ではこの「杼」を「おさ」とはあまり呼ばないらしい。後の知人の引用を参照されたい)。これは機織りで横糸を巻いた前の説明の「子(くだ)」=「」=「管(くだ)」を入れて、縦糸の中をくぐらせる小さな舟形の道具で、所謂、細長い紡錘形をした「シャトル」(shuttle)のことである。

 

●「鷹葉を貫く」「たか、はをつらぬく」。鷹(たか)(が鷹匠との間の閉区間であるはずの糸に木の葉を)貫き通す、の意。

 

 私自身、機織りをしたことがないので、上手く説明出来ないのであるが、しかし、どうも私はこの最初の段落で西尾が不思議だと言っている、その「不思議」な部分が、これ、よく判らないのである。

 

 そこで私のミクシィの古い知人で、日本文化でいろいろと判らないことがあると、いつも一方的にお世話になっている大先輩の女性が、機織りをなさっておられるので、この部分を検証して戴いた。すると、やはり、『これは少しも不思議なことが書かれてはいない』という回答を得た。以下、御本人の許諾も得ているので、私に「姐さん」(と私は敬意を込めて彼女をかく呼称させて戴いている)の解説を引用して第一段落の注に代えさせて頂くこととする。

 

   《引用開始》

 

これを書いた人は、
よほどまっさらな子供のような純真な心を持った人のようです(*^^*)。世間ではごく当たり前のことなのに、不思議なことがあるものだとしています(*^^*)。

 

・「」は古くから「玉管」とか「管」と言っているようです。

 

[やぶちゃん注:ここで「稲垣機料株式会社」公式サイト内の「織機用具」の「杼・管」のページが紹介されてあるので、そこをリンクしておく。]

 

・「」は(ひ)または(おさ)ですが、「おさ」は別に「筬(おさ)」という部品があるので「おさ」とはあまり言わないようです。形は、だいたい、こんなものです。

 

[やぶちゃん注:以下、姐さんの写真。]

 

Hi1

 

 

 

・懐穴:この真ん中の大きく刳ってあるところです。

 

Hi2

 

 

 

・傍なる小さき穴:杼の横に空けてある、ちいさな穴のことです。古いでは、この穴はもっと小さいようです。

 

Hi3

 

 

 

で、玉管に糸を巻いて、の懐穴にセットし、糸が懐穴と小穴とを脱出したところが以下です。

 

Hi4

 

 

 

本文にある「斷切(きれる)ことなく機中(はた)に連接(つづ)けり」ですね。「機中」は、これ(*^^*

 

Hi5

 

 

 

糸は勿論、機中を右左と移動し、切れることはありませんね(*^^*

 

Hi6

 

 

 

う〜〜む?? こんなことが不思議なのかな??

 

   《引用終了》

 

愚鈍な私のために写真まで撮って説明して下さった「姐さん」に心から感謝申し上げます!

 

 

 

 さて、ということは、やっぱり、西尾は当たり前のことを「超常現象だ!」と言っていたことになるのである。では、最後にある、

 

「こを機神の遊行(あそび)玉へる日なりとて神酒を供えて休息(やすむ)となり。かゝることは機織る人にまゝありて世多く知れり」

 

とは何か? これは訳そうなら、

 

――こうした超常現象が起こった時には、機織りをしている人々が「機神(はたがみ:機織りの神様。後注参照)が遊行(ゆぎょう)なさってここへ来られた日じゃ!」(この場合は、どこかへ遊びに行ったのではなくて、この機のある場所・部落に来臨されたという意味でとりたい。だからこそ「超常現象」が起こるのである)と呼び慣わし、お神酒(みき)を供えて皆々、機織りを止めて休息の祭日とするという。こうした不思議なることは機を織る人々の間では、ままあることとして、その職に従事する人々の世界では広く知られていることである。――

 

であろう。すると、何か見えて来る気がするのである。機織りは、ものによっては非常に長い時間がかかり、注文によっては休みむことも出来ず、夜も続けねばならぬ根気のいる重労働であった。さればこそ、その主な担い手であった女性たちが、束の間の一日の休息を設ける口実として、

 

「機神の遊行(あそ)び玉へる日」

 

と称し、

 

この「当たり前のこと」を「超常現象」を言い立てた

 

のではあるまいか?

 

 男どもというものは、まさに私のように、やったこともない機織りのシステムには全く以って疎い。

 

「一本の糸が! 全く断ち切れることなく! 織物の中に! あら! 不思議! 繋がっているわ!」

 

と驚く(驚くことを演じている)女たちの言葉に、うまうまと凡愚な男どもはだまされたのではあるまいか? 見かけぬ漢語をお洒落に使う平尾魯僊もその例外ではなかったのではあるまいか? 私はやっぱり、女性は男性より、一枚上手だ! と感心すること頻り……ということで、この冒頭概説注を終えたいと思うのである。

 

 

 

奇怪(くす)びなる」二字へのルビ。「くすび」は「神靈」を当て、「霊妙なこと・不思議なさま」の意の「くしび」(名詞・形容動詞:動詞「くしぶ」の連用形の変化したもの)と同義である。

 

「懷穴(ふところ)」二字へのルビ。先の知人の引用を参照。

 

「絲端(はし)」二字へのルビ。

 

「曳て」「ひきて」。

 

「脱出て」「ぬけいでて」。

 

「斷切(きれる)こと」二字へのルビ。

 

「機中(はた)」二字へのルビ。

 

「連接(つづ)けり」二字へのルビ。

 

「機神」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『むかしの自給自足の暮しでは、機を織ることが女の職分であったので、女が機織りの上達を祈願して祭った神。手作りの素朴な神体を家の神棚に祭り、織り上がるとその布の端を神体に着せて拝んだりした』とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「神酒」これで「おみき」と訓じたい。

 

早緒(を)」「を」は「緒」のみのルビ。「早緒」は、一般に舟の櫓(ろ)を漕ぐ際、櫓を流さぬようにするために一方を船体に固定し、他方を櫓に掛けて用いる櫓綱(ろづな)。或いは、橇(そり)や車の引き綱の意であるが、これらは孰れも結びつける対象物を、元から外れたり、脱したりしないように操る、自由性を保ちながらも保持する繩であり、ここでの謂いも腑に落ちる。現代の鷹匠の用語として生きているかどうかは確認出来なかった。

 

「附て」「つけて」。

 

「飛翔るに」「とびかくるに」。]

「崖」について   梅崎春生

 

 日記というものは、やはり努めて怠けずにつけるべきだと思う。

 終戦後も、気の向いた時だけつけていたが、今それを取出して読み直すと、書きつけた部分だけはぼんやり覚えているが、その他の部分は茫々として、夢の如きものがある。年齢のせいで記憶力がいくらか減退したせいもあるが、昔のことをあまり思い出したくないという力が、私の内ではたらいているためかも知れぬ。

 手元にある大判ノート日記帳、昭和二十一年十一月二十三日の日付けで、「『崖』四※枚まで書く」という記述がある。四※枚の「○」の真中にちょんがついているのは、海軍暗号兵の習慣がまだ抜けていないからで、海軍では零(ぜろ)とローマ字のOを区別するために、零にはチョンをつけていた。[やぶちゃん字注:「※」は「〇」の中央に「ヽ」が入った記号。]

「近代文学」が小説を書け(はがきだったが、名前は誰だったか忘れた)と言って来たのは、だから十一月中旬あたりかと思う。私は独身で、柿ノ木坂の友人宅の三畳間にころがり込んでいて、ひどく貧乏であった。

 同十一月二十七日の分に、

「左は借金表」

 とあり、いろいろ借金の表がある。実にさまざまな人に金を借りている。「自由堂、都書房の使い込み、四六一円」という項もある。当時私は某書店につとめていて、そこで金を使い込んだらしい。(らしいではなく、ちゃんと覚えているけれども、あまり思い出したくない)

 そのあとに「入るあてがあるもの」という項があり、一番最初に「『近代文学』より五百八十五円」と書いている。二十七日にはもう書き上げて、届けたものと見える。

 稿料は一枚十円という約束であった。五百八十五とは解せぬ数字だが、税金をこちらで引いて計算したのである。今逆算して見たら、一割五分引きでは、勘定に合わない。一割引きとすれば、ちゃんと合う。六十五枚。六百五十円。その九割が五百八十五円だ。あの頃源泉課税は一割だったようだが、その実感は今残っていない。

 その稿料は年内には入手出来ず、二十二年になって貰ったように思う。場所もぼんやりとしか覚えてないが、何か掘割に面したうすら寒いような部屋であった。稿料を渡して呉れたのは、本多秋五さんだったような気がする。今でもはっきり覚えているのは、その稿料は五百八十五円でなく、六百五十円であったことだ。私はたいへん儲けものをしたような気がして、うれしかった。今思うと近代文学社は、ちゃんとした企業体の出版社でなかったから、源泉徴収なんかをする必要がなかったのだろう。

「崖」は二十二年「近代文学」二・三月合併号にのった。

 でも、あの頃の六百五十円は、あまり使いでがなかった。同年一月二十五日の日記に「サーカスに行き、かえりお喜代にて二百円消費す」とあり、帰宅して非常にむなしがっている。お喜代というのは当時有楽町マーケットのカストリ屋で、カストリ一杯三十円か四十円だったと思う。つまりカストリ一杯飲むために、原稿を三枚か四枚書かねばならなかった。稿料一枚分でほんとの清酒一合飲めるような時代は来ないかなあ、というのが私の久しい嘆きであった。

 

[やぶちゃん注:昭和三五(一九四〇)年十二月号『近代文学』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。底本解題に初出『誌では「崖について」となっている』とある。ここでは「手元にある」昭和二一(一九四六)年の「日記帳」が引かれているが、底本には同年の抜粋版の同「日記」が載る。短いので、同年総てを以下に示す。梅崎春生が述べている十一月二十三日附のマルチョン記号は「十」にされてあり、十一月二十七日附の「借金表」は編集部がそれを説明しているだけで割愛されている(その編注は除去した)。

   *

 

   昭和二十一年

 

十月十四月

 辰野先生より来信。

 つまらぬ作品を注文者にわたすな。やせても朽(か)れても、片々たる作品を書くな、ということ。ダラダラしていた気持が、これでピンとスジガネ入る。

 行く道は一筋の外なし。此の自明のことが此の暫く判らなかったのだ。

 

十月二十九日

 「新生」の原稿「独楽」三十六枚まで書いた。これで良いような気もするし、またドダイ悪作で、かえされそうな気もする。自信はない。

 

十一月二十三日

 「崖」四十枚まで書く。

 

十一月二十七日

 吉田君より百円うけとる。之が全財産。

 石鹼を買う。

 左は借金表。

 

十二月十二日(木)

 ここには事実だけしかない。善悪はない。

 真実は一つしかない。それは内奥の声だ。

 自分のために生きるのが、真実だ。爾余(じよ)の行動は感傷にすぎない。

 

 皆が修羅である。

 独楽(こま)のようにひとりで廻り、そして廻りつくして倒れる他ない。

 

 勲章がより所である。

 

 俺は目の覚めるようなものを見たかったのだ。ただそれだけだ。

 

 自分が何を考えているか判らなくなった。

 おれは幽鬼のようにさまよい出たのだ。

 

   *

「崖」昭和二二(一九四七)年二・三月合併号『近代文学』に初出、後に単行本「桜島」(昭和二十三年三月大地書房刊)に再録された。近日、電子化する。

『近代文学』昭和二一(一九四六)年一月から昭和三九(一九六四)年八月まで続いた月刊文芸雑誌。第二次世界大戦中に大井広介の『現代文学』に拠っていた人々を中心に、敗戦後の 昭和二十年の秋に結成された近代文学社の機関誌。本多秋五(後注参照)・平野謙・山室静・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄の七人を同人とし、文学者の戦争責任と転向問題、マルクス主義文学運動の批判などを軸に近代的自我の確立を唱え、荒正人「第二の青春」(昭和二一(一九四六)年)、平野謙「島崎藤村」(一九四七年)、本多秋五「小林秀雄論」(一九四八年)、佐々木基一「個性復興」(同年)の評論や、埴谷雄高の小説「死霊(しれい)」(一九四六年~一九四九年:初期部分)などを掲載した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「私は独身で、柿ノ木坂の友人宅の三畳間にころがり込んでいて、ひどく貧乏であった」昭和二一(一九四六)年の底本別巻の年譜を引く。二月、『目黒柿ノ木坂一五七松尾方(八匠衆一)に鬼頭恭而と三人で同宿生活』。三月から『赤坂書店編集部に勤務』(十二月に『退職)』。九月、『「桜島」が浅見淵の紹介によって「素直」創刊号に発表される』とある。

「本多秋五」(ほんだしゅうご 明治四一(一九〇八)年~平成一三(二〇〇一)年)は愛知県西加茂郡(現在の豊田市)出身の文芸評論家。名古屋の第八高等学校を経て、昭和七(一九三二)年、東京帝国大学国文学科卒業。同年、プロレタリア科学研究所に入り、検挙されたのち、『戦争と平和」論』の執筆に没頭した。戦後は先に示した『近代文学』創刊に参加、「芸術・歴史・人間」を発表。以後『「白樺派」の文学』「転向文学論」などで重厚な評論を展開した。明治大学大教授。

「同年一月二十五日の日記」底本の昭和二二(一九四七)年の「日記」には以下の記事は載らない(抜粋版のため)。]

諸國百物語卷之三 十六 下總の國にて繼子をにくみてわが身にむくふ事

     十六 下總(しもふさ)の國にて繼子(まゝこ)をにくみてわが身にむくふ事

 

 下總のくにゝ、松本源八(まつもとげんはち)と云ふ人あり。十二、三になるむすめ有りけるが、母むなしくなりて、源八、また、のちの妻をよびむかへける。繼母、此むすめをにくみて、あるとき、あたりちかき沼へつれゆきて、

「此むすめを沼の主(ぬし)にしんじまいらせ、むこにとり奉らん」

といひてかへり、そのゝち、五、六度も、かくのごとくしけり。あるとき、又、沼のほとりへゆきければ、にわかにそらかきくもり、すさまじく風ふき、大雨しきりにふりければ、おそろしくて、親子ともにたちかゑり、むすめ、父にはじめをはりを物がたりしければ、父源八も、まゝ母の心ざしをにくみ、切りころさんとも、おもひゐける所へ、そのたけ四五町がほどもつゞきつらんとおぼしき大じやきたり、くびをあげ、くれなひのしたをうごかし、此むすめにむかふ。源八これを見て、

「いかに大蛇、此むすめは、わが實子也。たとい、繼母がゆるすとも、それがしがゆるしなくては、此むすめは、かなふまじ。そのかわりに繼母を、なんぢにまかするぞ」

といひければ、そのとき、大じや、繼母のはうにむかつて、したをうごかす。そのまに、源八はむすめをつれて、にげさりぬ。大じやは繼母を七ゑやへにまとい、大あめ、いなびかりして、沼のうちにつれかへりぬ。まゝ子をにくみて、かへつて、その身にむくいしと也。

 

[やぶちゃん注:「此むすめを沼の主(ぬし)にしんじまいらせ、むこにとり奉らん」「此(こ)の娘を沼の主(ぬし)に進(しん)じ參らせ、聟(むこ)に取り奉らん」。「進じ參らせ、聟に取り奉らん」は「生贄として献上し申し上げ、沼の主(ぬし)さまを婿(むこ)として迎え申し上げ、この娘めを嫁として――煮るなり焼くなり八つ裂きにするなりご自由に捌くものとして――差し上げまする」の謂いである。

「むすめ、父にはじめをはりを物がたりしければ」この時、娘は初めて実父に継母がつねづねより何度も何度も「此の娘を沼の主に進じ參らせ、聟に取り奉らん」ことを誓約したことを告白したのである。

「そのたけ四五町がほどもつゞきつらんとおぼしき大じや」その全長が、これ、四百三十七メートルから五百四十五メートルにもなんなんとするかと思われるずるずると長々しい大蛇。

「七ゑやへ」「七重八重(ななへやへ)」。歴史的仮名遣は誤り。同じ「重」と判っていて何故、前を「ゑ」とするのか、よく判らないが、蜷局(とぐろ)を巻いた様子は、「へ」より「ゑ」を(字面も「うぇ」って響きも)感性的には使いたくなる気はしないでも、ない。

「まとい」「纏ひ」。歴史的仮名遣は誤り。

「むくいし」「報ひし」歴史的仮名遣は誤り。]

2016/10/15

谷の響 一の卷 十三 自串

 十三 自串

 

 天保三壬辰年四月のことなりしが、船水村の農夫(ひやくしよう)松助といへるもの希代のものとて持來れるが、そは方言にて山杮といへる柴の幹中(くき)に、一筒(ひとつ)の雲雀(ひばり)肚(はら)より背(せなか)へかけて刺貫(さしぬかれ)たるものなるが、その柴上に枝葉あり下に根株ありて其中心に係りたれど、左右疵裂なくいまだ活(いき)て尾羽を搖かしてありしなり。松助いと奇(あや)しき物として主家藩中(はんちゆう)某甲(なにがし)へ贈りしとあれば、視し人も多かるべし。

 又、己が園中(やしき)に一株(もと)の梨子樹あり。霜の後悉く葉脱(おち)て疎然(まばら)なるに、一片の葉梢に串貫(さしぬか)れ風に隨て囘轉(めぐれ)るが、こも雲雀を串刺(つらぬき)し柴のごとく、其小條の端は三四叉(また)に分り本は幹に着けり。こは文政初年の事なり。

 又、練屋白龍【姓工藤】の選べる俗説選といへる史(もの)に、鵙の草莖(くさくき)蟇(がま)の串刺といふを論(あげつら)ひて、先年御城の堀の中に一莖の薄(すゝき)が風も吹かぬに動くものあり。引拔いて之を見れば、莖の中心(まんなか)に一隻(ひき)の鮒魚(ふな)の貫れて、葉は水中にひろごり根は土中にありと言へり。この三事は一般(おなじ)ことにして、奈何なる理(ことわり)とも更に測りしるべきにあらず。

 

[やぶちゃん注:「自串」音読みなら「ジクヱン(ジケン)」或いは「ジクワン(ジカン)」。ルビを振らないところからは「じぐし」と読んでいる可能性が高いか。

「天保三壬辰年四月」干支は正しく「みづのえたつ」。天保三年四月は小の月で二十九日までで、しかも四月一日は一八三二年五月一日である。

「船水村」底本の森山泰太郎氏の補註に、『弘前市船水(ふなみず)』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。弘前八幡宮の南二キロほどにある。

「山杮」ルビはない。しかし、思うにこの二つ目の字は私は

 

(かき/シ)ではなく、

 

(こけら/ホ・ハイ)ではないかと考える。即ち、この熟語は「山柿(やまがき)」ではなくて「山杮(やまこけら)」と訓じているのではないかと考えるのである。何故かというと、わざわざ西尾が「方言にて」と前振りしていること、これが焚くための「柴」に用いる「幹」の細い枝状の木本類であることに基づく。所謂、ツツジ目カキノキ科カキノキ属カキノキ Diospyros kaki の原種に「ヤマガキ」(学名は「カキノキ」と同じ)なるものはあるのだが、それだったら、わざわざ「方言」とは私は言わないと思うからである。しかも「こけら」とは本来は「杮(こけら)落し」で知られる通り、「材木を細工する際に出る削り屑」を指し、それ自体は火点けの素材としてはもってこいのものである。言わば、自然のある種の生木の小枝であるが、それを乾燥させると柴になり、焚き木や火点け木に相応しいとしたなら、その樹種を「やまこけら」と呼ぶに違いないと私は考えたのである。ただ、編者の森山氏が何の注もつけておられないこと、「やまこけら」で検索してもそのような樹種(方言)を見出せないことが難点ではある。青森の方で、お分かりになる方がおられたら、是非、御教授願いたい。よろしくお願い申し上げる。

「幹中(くき)」二字へのルビ。

「一筒(ひとつ)」二字へのルビ。鳥個体(特にその胴部をイメージすると)は「筒」という表現がしっくりくる気はする。

「雲雀(ひばり)」 スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis Linna 。成体ハ全長十七センチメートルになる。

「己が」「わが」と訓じておく。筆者平尾魯僊の。

「園中(やしき)」屋敷の庭。

「梨子樹」「なし」或いは「なしのき」と読んでいよう。前例に徴すると、「のき」は読まないケースもある。

「文政初年」一八一八年。

「練屋白龍【姓工藤】」森山氏の補註に、『幕末津軽の文人。弘前の油商練屋(ねりや)の四代目。工藤氏、通称藤兵衛、名乗りは常政、字を白竜、東雲舎と称した。和漢の学に通じ』、また、『俳諧をよくした。文化』頃に没した、とある。

「俗説選」森山氏の補註に、『工藤白竜著』になる「津軽俗説選」という書物で、全『五巻、寛政九』(一七九七)年、成立。『津軽領内の神仏・鳥獣・植物等に関する故事・説話をはじめ、民間の習俗・伝説など』二百『項目に及ぶ』とある。

「鵙の草莖(くさくき)蟇(がま)の串刺」森山氏の補註に、『津軽俗説選の虫之部に、「蝦蟇串貫」』(「がまくしぬき」と訓ずるか)『と題し、「野路の柴などに、蝦蟇の自ら貫かれたるあり。里俗之を蝦蟇の串貫といへり。枝繁く、根は土に入りし柴の中半』(なかば)『に、蝦蟇裂』(さけ)『もせずして貫かるゝ事奇々妙々なり。鵙と云ふ鳥にも此事あり」とみえる』とあるが、どうも変だ。私はこの条を読んだ際に、いの一番にモズ(模式種はスズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus。他に本邦にはアカモズ Lanius cristatus superciliosus・シマアカモズ Lanius cristatus lucionensis・チゴモズ Lanius cristatus tigrinus・オオモズ Lanius excubitor がいる)の「速贄(はやにえ)」に違いないと思ったのであるが、この工藤白竜著の「津軽俗説選」の叙述は、ガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)が奇体な「速贄」にされて串刺しなっていることがしばしばあるが、同じ現象が鵙でもあり、鵙が「速贄」にされているケースがある、としか読めないからである私はこれらは殆んどが「鵙の速贄」によって説明がつくように感じている。但し、このモズの奇体な行動は、実は鳥学者も解明していない。一応、ウィキの「モズ」より「速贄」の項を引いておく。『モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む行為を行う。秋に初めての獲物を生け贄として奉げたという言い伝えから「モズのはやにえ(早贄)」といわれた』。『稀に串刺しにされたばかりで生きて動いているものも見つかる。はやにえは本種のみならず、モズ類がおこなう行動である』。『秋に最も頻繁に行われるが、何のために行われるかは、よく分かっていない。ワシやタカとは違いモズの足の力は弱く、獲物を掴んで食べる事ができない。そのため小枝や棘をフォークのように獲物を固定する手段として使用しているためではないかといわれている』。『また、空腹、満腹に関係なく』、『モズは獲物を見つけると本能的に捕える習性があり、獲物を捕らえればとりあえずは突き刺し、空腹ならばそのまま食べ、満腹ならば残すという説もある』。『はやにえにしたものを後でやってきて食べることがあるため、冬の食料確保が目的とも考えられるが、そのまま放置することが多く、はやにえが後になって食べられることは割合少ない。また、はやにえが他の鳥に食べられてしまうこともある。近年の説では、モズの体が小さいために、一度獲物を固定した上で引きちぎって食べているのだが、その最中に敵が近づいてきた等』の不測の事態が生じ、『獲物をそのままにしてしまったのが』「はやにえ」『である、というものもあるが、餌付けされたモズが』、『わざわざ餌をはやにえにしに行くことが確認されているため、本能に基づいた行動であるという見解が一般的である』。『はやにえの位置は冬季の積雪量を占うことができるという風説もある。冬の食糧確保という点から、本能的に積雪量を感知しはやにえを雪に隠れない位置に造る、よって位置が低ければその冬は積雪量が少ない、とされるが、はやにえ自体の理由は不明である』。私も富山の家の近くの山の稜線で、しばしば速贄にされた蜥蜴や蛙を見かけたものだった。

「論(あげつら)ひて」論じて。

「鮒魚(ふな)」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属 Carassius に属するフナ類。

「貫れて」「つらぬかれて」。]

谷の響 一の卷 十二 神靈

 十二 神靈

 

 寛政の年間(ころ)にてあるよし、弘府(ひろさき)の鎭守八幡宮の御神躰を盜みしものありき。この盜賊(ぬすびと)は秋田のものゝ由【又南部のものとも言へり。】これ豫て巧(たくみ)し事にてありけん、土手町にて大澤村より來りし薪賣(たきゝうり)に逢ひて言ひけるは、今宵碇ケ關までの貨苞(にもつ)あり。僅(わつか)の物なれど夜中の行程(みち)なれば駄賃は二十匁取らすべし。承了(しようち)ならば、今日晡下(くれころ)に八幡宮の境内に來るべし、必ず其期外さぬやうにと言ひければ、薪賣はあやしく思へども元より貧しき者なれば、二十匁といふに心蕩(と)られて乃(いまし)了諾(しようち)して去りぬ。

 しかして日も倒景(いりあひ)に向はんとする頃、この薪賣馬を曳(ひい)て八幡宮の境内に往きたるに、かの盜兒(ぬすびと)拜殿の椽に出て衣襟包(ふろしき)を遞與(わた)したれば、これを馬に負はせてとく往きね、吾も後(あと)より追つくべしといふ故、卽便(そのまゝ)馬に駄(おは)せて出けるが奈何(いか)に思ひけんこの薪賣、最勝院の厨下(だいどころ)に入りて、吾は今往くところなるぞ、吾は今往くところなるぞと再び三囘(たび)言ひ捨て出でけるが、時(をりふし)境院(おてら)内の者夕飯について有けるが、什麼(いか)なる奴か可笑(おかし)き者と笑ひ居たるに、忽ち本社のかなたにて勵(はげ)しく太鼓を叩く音の聞えければ、童蒙等(わらわべども)の荒業(いたづら)ごとゝ思へど社前を汚してはならぬ事ゆゑ、院主よりこを咎むるに侍士(さむらひ)を使しけるに、かの盜兒(ぬすびと)赤裸になりて鈴(かね)の緒を犢鼻褌(ふんどし)に締め、汗浸(あせみづ)になりて沒法(やたら)に太鼓を擊てありけるに、膽落地(きもつぶし)て四邊(あたり)を視れば本社の扉開いてあるに、然(さて)こそとて窺ひ視るにかしこくも御神躰おはしまさねば、渠奴(きやつ)が爲業(しわざ)ならんと側なる帶もて急(はや)くこれが兩手をからげ、其まゝ捽(ひきづり)出して寺に來り斯と告げしかば、僉(みな)起噪(たちさわ)ぎて場(には)に壓置(ひきすゑ)いろいろ諾問(せむる)といへども、言語粉亂して狂人の如く更に人事を辨へず。さるにかの薪賣、馬を索いて社の區中(なか)を幾囘(いくど)も往反するからに忽ち見あたり、これも卽便(そのまゝ)捕へ得て馬の上なる包袱(つゝみ)を解開(ひらい)て見るに惶(かしこ)き御神躰にて在(ま)しませば、否(いな)や神司神巫(かんねき)を呼集(つと)へ、汚穢(けがれ)を祓(はら)ひ祝詞(のりと)をあげて本社に内(おさめ)奉りき。

 しかして此馬士(うまかた)を査問(ぎんみ)するに、これも盜兒(ぬすびと)と一般(おなじ)く譫言(たはごと)のみにて採(とり)處なければ、官廰(おかみ)に訴へけるに吏(やく)人來りてこの者共を龜甲町に御預りになりしが、盜兒は某夜井戸に墮(おち)て死せりとなり。薪賣は程なく本心に復(かへ)りて、ありし事どもを委曲(つばら)に上聞(まをしあげ)たるに、させる罪もあらざれば御免許(ゆるし)を得て歸りしとなり。神の冥罰實(まこと)に著明(いちゞる)きものなりと、己が租父なる人豫(かね)々語りし事なりけり。

 又、此事ありし二三年の後にてやありけん、御本社に内(おさめ)まつれる御佩刀(みはかせ)の失(うせ)にしことありて、萬般(いろいろ)搜(たづね)たれどもそれとさすべき手がかりなし。さるに二十日あまりも過たる頃、和德町稻荷宮の社司その本社に御供(ごくう)を奉りしに、其まゝにてありし事囘々(たびたび)なれば、不淨やあらんと淸潔(きよめ)を盡して奉れどもさらに享(うけ)玉ふことあらず。社司いと奇(あや)しみ怕(おそ)れて日々祝詞をあげて和(なご)め奉れるに、一夜の夢に稻荷神現はれ玉ひて宣(のり)玉ひけるは、堂の下の土(ところ)に寶劍ありて、眷屬(けんぞく)の者共僉恐るゝ故に御供(ごく)に着くこと能はず。この御劍はかしこくも八幡宮の御物にて迺頃(このころ)失せにしものにあれば、速(はや)く衙門(やくしよ)に上告(まをし)て本社に返し奉るべしと見て覺めたり。かゝるからに至る朝夙(とく)起出て官舘(やくしよ)に達し、堂の地中を搜るに果して一枚(ひら)の佩刀ありき。されども欛(つか)鞘(さや)ともに无(な)くして裸身なれば、新らたに飾(かさり)を設けて奉りしとなり。こも祖父なる人の譚(ものかた)りなり。

 

[やぶちゃん注:「寛政の年間(ころ)」一七八九年から一八〇一年。

「弘府(ひろさき)の鎭守八幡宮」現在の弘前市八幡町にある弘前八幡神宮。弘前城の鬼門(北東)の押さえとして八幡村(旧岩木地区。原型の創建は、平安初期に坂上田村麻呂が東夷東征の際に岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請、戦勝祈願をしたものとされる)から遷座されたもので、藩政時代は領内の総鎮守として筆頭の神格を持っていた。

「南部」南部地方。現在の青森県の南部と岩手県の北・中部などを総称する広域地域名。これは方位部位の「南部」ではなく、領主の「南部氏」に由来するもので、旧南部藩(中世以来の地の大名南部氏が近世初頭に陸奥国岩手郡盛岡に城を構え、陸奧国北部諸郡(現在の岩手県北上市から青森県下北半島)を領有した)などを含む地域。

「豫て」「かねて」。

「土手町」底本の森山泰太郎氏の補註に、『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。弘前八幡宮の南二キロほどにある。

「大澤村」森山氏補註に、『弘前市石川字大沢(おおさわ)』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「碇ケ關」森山氏補註に、『南津軽郡碇ケ関(いかりがせき)村。秋田県境に接する温泉町。藩政時代に津軽藩の関所があり、町奉行所が支配していた』とある。現在は合併によって平川市碇ヶ関として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「貨苞(にもつ)」二字へのルビ。

「僅(わつか)」ルビはママ。

「行程(みち)」二字へのルビ。

「二十匁」「匁」は「もんめ」。銀目(銀貨単位)。一匁は一両(小判)の六十分の一。当時(江戸後期)の一両を凡そ現在の五万円に換算する説に基づくなら、一万七千円弱で、しがない薪売りにとっては大変な高額賃金である。

「晡下(くれころ)」二字へのルビ。音は「ホカ」で「晡」は申の刻で、その刻「下」(さが)りの謂い。午後四時過ぎ。

「其期」「その期」。その時刻。

「心蕩(と)られて」「と」は「蕩」の字一字の読み。「蕩」には「落ち着きなく揺れ動く・揺らぐ・動かす」の意がある。

「乃(いまし)」「今し」で副詞(「し」は元は強調の副助詞)。丁度、その時。

「了諾(しようち)」二字へのルビ。

「倒景(いりあひ)」「入相」。夕暮れ時。日没時。

「盜兒(ぬすびと)」この「兒」は接尾語で、子どもの意はなく、名詞に附いて、その仕事(ここでは「盗み」)を職としている者の意を表わす。

「椽」縁側。本来は「椽」は「たるき」で庇の下に附くそれを指すが、近代、芥川龍之介などまでも、この字を「緣」の意味で誤って用い、遂に慣用化されてしまう。

「衣襟包(ふろしき)」三字へのルビ。

「遞與(わた)し」二字へのルビ。「遞」は「逓」と同字で「手渡す・送る」の意。

「最勝院」現在の青森県弘前市銅屋町(この話柄の場所とは異なる(後の引用を参照)。この話柄の頃は先の弘前八幡宮境内にあった。明治の神仏分離令でここへ移転した)にある真言宗金剛山最勝院。ウィキの「最勝院によれば、「津軽一統志」によれば、天文元(一五三二)年に『常陸国出身の弘信が、堀越城下(現・弘前市堀越)に堂宇を建立したことに始まる。江戸時代初期に弘前藩』第二代『藩主津軽信枚』(のぶひら)『が弘前城を築城したことに伴い』、慶長一六(一六一一)年、『城の鬼門に当たった現在地より北に三キロメートルほど離れた田町に寺院を移転し、弘前八幡宮の別当寺とされた』(下線やぶちゃん)。十二ヶ寺の『塔頭寺院を従え』、『藩の永世祈願所となった。近世には僧録所として、津軽藩領内の寺社を統轄する立場にあった』とあり、境内には重要文化財に指定されている日本最北に位置する五重塔(寛文七(一六六七)年に完成した旧大円寺の塔。総高三十一・二メートル(相輪含む))がある、ともある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「時(をりふし)」一字へのルビ。

「鈴(かね)の緒」神社参詣の際に鳴らす鈴の下がった紐。森山氏補註に、『神社の拝殿入口上部に』吊るした『大鈴や鰐口などに下げた布をいう』とある。

「膽落地(きもつぶし)て」三字へのルビ。面白い漢語文字列と和訓である。

「御神躰」一般の神社では御神体は鏡であることが多い。

「渠奴(きやつ)」二字へのルビ。

「側」「そば」と訓じておく。

「捽(ひきづり)出して」引きずり出して。

「寺に來り斯と告げしかば」寺の戻って、かくかくしかじかの大事のあった告げために。

「諾問(せむる)といへども」二字へのルビ。

「言語粉亂」話の内容が全く意味不明であることを言っていよう。

「辨へず」「わきまへず」。見当識を全く失っている状態なのである。

「區中(なか)」二字へのルビ。

「往反」「わうはん」。往復。こっちもこっちで、意味不明に神社の境内をこれまた、行ったり来たりしているのである。

「見あたり」見つかってしまい。

「卽便(そのまゝ)」二字へのルビ。

「包袱(つゝみ)」二字へのルビ。「袱」は「ふくさ」で、一枚物又は表裏二枚合わせの方形の絹布で、進物の上に掛けたり、物を包んだりする。

「解開(ひらい)て」二字へのルビ。

「惶(かしこ)き」畏れ多い。

「否(いな)や」感動詞。意外な事態に驚いて、受け入れ難い気持ちで発する語。「これはどうしたことだ!」「何と! まあ!」。

「神司」「かんづかさ」「かむづかさ」「かみづかさ」などと訓ずる。神に仕える神官。神職でも上位の。現行の禰宜(ねぎ)などのグループを指す。

「神巫(かんねき)」ルビはママ。「覡」「巫」(かんなぎ)のこと。古くは「かむなき」で「神(かむ)和(な)ぎ」の意。「かみなき」「こうなぎ」などとも読む。神に仕えることを務めとする人。神を祀る際の雑務、神楽(かぐら)演奏や「神降ろし」などの際の雑多な実務に従事した、「祝(はふり(ほうり))」などと同じく、下級の神職を指す。

「呼集(つと)へ」「つと」はママ。「よいびつどへ」。

「汚穢(けがれ)」二字へのルビ。

「採(とり)處なければ」言っている意味の理解出来る部分が、これ、全く以って、ないので。

「龜甲町」森山氏補註に、『かめのこまち。城の北門外堀に面した町並みで』四神の『北方玄武になぞらえて亀甲を町名にした。この裏通り博労町に藩の牢獄があった』とあるから、「御預りになりしが」と言っても町内預かりなんぞではなくて、ブタ箱に入れられたのである。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の行政地名では「かめのこうまち」と読んでいる。

「御免許(ゆるし)」「ゆるし」は「免許」二字へのルビ。

「冥罰」「みやうばつ(みょうばつ)」と読む。神仏が懲らしめに下(くだ)す罰のこと。

「己が租父なる人」「己が」は「おのが」。筆者平尾魯僊の祖父であった人物。

「御本社」同じ弘前八幡宮。

「内(おさめ)まつれる御佩刀(みはかせ)」「青森県歴史観光案内所」公式サイト内の弘前八幡宮の収蔵文化財を見ると、

 大太刀 慶長六(一六〇一)年 藤原國路作  刃長  百七・八センチメートル

 大太刀 文化元(一八〇四)年 橘繁宗作   刃長 八十二・五センチメートル

 大薙刀 慶長六(一六〇一)年 藤原國路作  刃長 九十一・二センチメートル

の刀剣類が挙げられてある(孰れも弘前市指定文化財)。薙刀を「御佩刀」とは言わないし、文化元年では新し過ぎるから、或いは最初の大太刀がこれかも知れぬ。

「和德町稻荷宮」森山氏補註に、『弘前市和徳(わっとく)町にある和徳稲荷社。津軽氏の津軽統一以前からの古社で、元和』(げんな)年間(一六一五年~一六二四年まで)二代藩主津軽信枚(のぶひら)が『再興し、領内稲荷社の筆頭とした』とある。「和德町」は前の「十一 鬼祭饌を享く」に既出既注であるが、地図で示しておくと、ここ(グーグル・マップ・データ)。稲荷神社は(同前)。

「御供(ごくう)」御供物(おくもつ)。

「其まゝにてありし事囘々(たびたび)なれば」本来ならば、お狐さま(現実には猫か犬か乞食)が食うために銜え去るのである。

「御供(ごく)」ルビはママ。「う」が発音から落ちることはしばしばあるので問題ない。

「御劍」「みつるぎ」と訓じておく。

「迺頃(このころ)」「迺」は漢語では「なんぢ」で二人称であるが、国字としては「この」という指示語にも使える。

「衙門(やくしよ)」音では「ガモン」官衙(かんが)・役所のこと。「衙」は「防ぐ」(柵や垣根を設けて害敵を防ぐ)の意や護衛をおいた天子の前殿天子の護衛兵の意が元であったが、それが広く「つかさ」「官庁」の意となったものである。

「上告(まをし)て」二字へのルビ。

「朝」「あした」。

「一枚(ひら)」薄く平らなものの数詞。

「佩刀」「御」がないからここは音読みして「はいたう(はいとう)」と読んでおく。「はかせ」や「はかし」では私にはサマにならぬ気がするのである。

「裸身」ここは逆に「ぬきみ」と和訓のルビを振りたくなる。]

譚海 卷之一 官醫池永昌安辨財天信仰の事

○官醫(くわんい)池永昌安、浪人の時より富有(ふいう)成(なり)けるが、辨財天を信じ、諸方の靈跡至らぬ所もなく、勇猛に誠心なりしかば、辨財天、夢中に見へ給ふ事、多時(たじ)也。則(すなはち)、託(たく)してのたまはく、我(われ)、三國に遊ぶといへども、敬信いまだ汝がごときものを見ずとて、種々問答に及び、祕訣、ことごとく附屬し玉ふよし、覺(おぼえ)て、後(のち)、記したるもの一卷にして、靑山出泉寺に納め有(あり)。宇賀神の說は權敎(ごんけう)なるよしを糺(ただ)して、直(ただち)に最勝王經の說により辨財天の像を造立(ざうりふ)し、自身の齒をぬきて其腹中に五寶とともにこめ、體髮(たいはつ)をとりて天女のみくしを飾り、夢中相承(そうしやう)の如く拵たりとぞ。五寶のうちにも、珊瑚(さんご)、こはくの類、おほくは、をじめに作りたる穴あるものにて、用(もちゐ)がたきよし、無孔(むこう)の珠(たま)を用(もちゐ)る事也とぞ。瑠璃(るり)は世界になきもののよし、びいどろ(硝子)を用(もちゐ)る事とぞ。其後、無上(むじやう)の願(ぐわん)を發(おこ)し、最勝王經所說を、ことごとく、まんだらにしたて、狩野探信(かのうたんしん)をして畫(かか)しめたり。大幅(だいふく)の懸物(かけもの)數十幅(ふく)に至り、金泥(きんでい)などは擂盆(らいぼん)にてすりて用(もちゐ)たり。七千兩の金(きん)を費(ついへ)するに成(なり)たり。大發願(だいほつぐわん)まんだらの最中(さいちう)、官醫の命も下(くだ)りける事とぞ。後に此(この)曼陀羅、威成院權僧正に寄附しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「池永昌安」不詳。

「富有(ふゆう)」「富裕(ふゆう)」。但し、同義の「富祐」なら「ふいう」。

「辨財天」彼が裕福であるのは弁財天(サラスヴァティー)がもともとは財宝神であることと通ずるし、彼が医師という特異な才能・技能の所持者であることは技芸神であるこことも通ずる。後に出る弁財天の「祕訣」(底本では『訣』の右に『曲』と訂正注するが、私は採らない。「秘訣」でよいと思う。「曲」では字面上では音楽神としての弁財天に限定されしまいそうになるからである)とは、またそうした蓄財の秘訣や医術の技能のそれを指すのである。

「勇猛に誠心なりしかば」「勇猛に」はここでは一種の強調表現で、「一途に弁財天への信仰の誠(まこと)を不断に貫いてきたから」の謂いであろう。

「辨財天、夢中に見へ給ふ事、多時(たじ)也」昌安の睡眠中の夢の中に弁財天が御姿を現わさるること、これ、頻繁であった。

「託(たく)してのたまはく」昌安の夢中に出現した弁財天が彼に昌安して託宣するのである。以下、「我(われ)、三國に遊ぶといへども、敬信いまだ汝がごときものを見ず」がそれである。「三國」仏教では日本・唐土・天竺の三つの国。転じて全世界の意。

「附屬し玉ふ」ここでの「附属」とは「ふしょく」とも読み、本来は、師が弟子に仏教を伝え、その布教を託すことを指す。昌安への弁財天の秘伝伝授に、そのニュアンスを含ませてあるのであろう。底本では『屬』の右に『與』と訂正注するが、これも私は採らない。

「覺(おぼえ)て」昌安は夢の中で伝授された、それらを逐一、記憶して。

「靑山出泉寺」不詳。現存しないか、或いは、原典の誤記かも知れぬ。

「宇賀神の說は權敎(ごんけう)なるよしを糺(ただ)して」ウィキの「弁財天」によれば、弁財天信仰は『中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも言われる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず』、『それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである』。『宇賀弁才天は』八臂(はっぴん)像(八本の腕を持つ像)の『作例が多く、その持物は』「金光明経」に説かれた八臂弁才天の持ち物が『全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている』。『弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある』とあり、こうした得体の知れぬ禍々しい蛇神の習合と信仰を昌安は「權教」(ごんきょう:真実の教えに導くために「方便」として示された、人々が受け入れ易くした仮の教え(対語は「実教」))であるとして敢然と「糺した」のである(「糺す」は「真偽や事実を厳しく問い調べる」の意)。

「直(ただち)に」「ぢきに」と訓じてもよい。そうした権教批判を行ってすぐに、いまわしい蛇なんぞとは違う、自分の見た真の弁財天の形相(けいそう)を、の謂いである。

「最勝王經」四世紀頃に成立したと考えられている仏教経典の一つである「金光明経(こんこうみょうきょう)」を、唐の義浄がインドから持ち込んで新たにオリジナル漢訳した「金光明最勝王経」のことであろう。同経では四天王を始めとして弁才天や吉祥天・堅牢地神などの諸天善神が国を守護すると説いている。ウィキの「弁財天」の「像容」よれば、『原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名である。サラスヴァティーには様々な異名と性質があり、弁才天も音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつ。像容は』八臂像と二臂像の二つに大別され、八臂像は「金光明最勝王経」の「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、八本の手には・弓・矢・刀・矛・斧・長杵・鉄輪・羂索(けんさく:投げ繩)を持つと説かれる。『その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている』。一方、二臂像は『琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え』、「大日経」では『妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える』二臂像は、『後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である』とあるから(下線やぶちゃん)、ここで昌安が造立したそれは八臂弁財天像であったととらねばならぬ。ウィキの画像をリンクさせておく。

「五寶」仏語。五種の代表的な宝。「陀羅尼集経」では金・銀・真珠・珊瑚・琥珀とし、真言宗では金・銀・真珠・瑠璃・水晶又は琥珀とするなど、命数の対象物は微妙に異なる。ここでは以下の叙述を見る限りでは、金・銀は当然として後の三つは珊瑚・琥珀・瑠璃(硝子)と昌安は考えているように読める。なお、他に「四宝(金・銀・瑠璃・玻璃)」や「七宝(金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ:シャコガイ或いは白色系の珊瑚)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)(「無量寿経」)/金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい:不明。赤色系の宝玉とも)(「法華経」)」の命数もある。

「體髮(たいはつ)」自分の頭髪。

「みくし」「御髮(みぐし)」。

「夢中相承(そうしやう)の如く拵たり」夢の中で対面した師弁財天の貴い尊容そのままに、弟子たる昌安がその教えを受け継いだ証しとして造立した、というのであろう。

「おほくは」「多くは」。

「をじめ」「緖締」。携帯用の袋や巾着(きんちゃく)などの口に回した緒を束ねて締めるための器具。多くは球形で玉・石・角・練り物などで作る。緒止(おど)め。

「用(もちゐ)がたきよし、無孔(むこう)の珠(たま)を用(もちゐ)る事也とぞ」「五宝」として用いるには孔(あな)空きのものなど以ての外、孔の開いていない全き物を用いねばならぬ、というのであろう。意図はよく判る。

「瑠璃(るり)」昌安はこの現実「世界になきもの」と言っているが、実在はする。サンスクリット語では「バイドゥーリヤ」で、「吠(べい)瑠璃」とも漢訳され、「青色の宝石」として仏典に頻出するもので、仏教で尊崇する神聖な宝として概ね金・銀に次ぐ第三位のそれとされた。現行ではアフガニスタンのバダクシャーンに産地があったラピスラズリ(lapis lazulilazurite:青金石(せいきんせき):「瑠璃」「ラズライト」とも称し、群青色をした古来より珍重された鉱物。方ソーダ石の一種で十二面体の結晶形が明らかなものも稀れに産するが、普通は緻密な塊を成す。接触変成作用を受けた石灰岩中に黄鉄鉱・透輝石などとともに産する。アフガニスタンのものが昔から有名で、旧ソ連地域・チリ・イタリア・アメリカなどからも産するが、日本からの産出は未だ報告されていない。宝飾品として好まれるものはラピスラズリに黄鉄鉱が混じったもので、磨くと、濃い青地に金色の斑点が輝いて美しい。岩絵の具で昔から使われてきた本来の「群青」はラピスラズリを粉末にしたものである。学名の「ラピス」はラテン語の「石」の意、「ラズリ」は青を意味するペルシア語に由来する。[松原 聰])であろうとされている。西暦紀元以後は「青色のガラス製品」も「瑠璃」と呼ばれるようになった(以上は「青金石」も含めて小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「まんだら」「曼荼羅」。先のウィキの「弁財天」の「像容」には『密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中に』『バチを持って奏する音楽神の形をとっている二臂像は琵琶を抱え』た『その姿が見え』ているとあるが、ここははっきり「最勝王經所說を、ことごとく、まんだらにしたて」と述べている以上、二臂像ではなく、あくまで八臂弁財天像でなくてはならぬ。

「狩野探信」かく号する狩野派画人は実は、かの狩野探幽の長子と、狩野探牧の長子と二人がいるが、本「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記で、後者は天明五(一七八五)年生まれで、寛政七(一七九六)年では未だ十一歳であるから、前者となる。この狩野探信(承応(じょうおう)二(一六五三)年~享保三(一七一八)年)は狩野探幽の長男で、父の跡をうけて鍛冶橋狩野家を継ぎ、御所や江戸城の障壁画の制作に参加、正徳五(一七一五)年には法眼(ほうげん)の位を授かっている。ただ気になるのは、この記事が書き始めの安永五(一七七七)年に書かれたものとしても、探信の死はそれよりも五十九年も前である。一見、本条は昌安なる人物が筆者津村淙庵に直に語ったように書かれてはいるものの、淙庵の生年は元文元(一七三六)年頃であり、末尾の箇所に「官醫の命も下りける事とぞ」という伝聞過去の助動詞「けり」と、連語「とぞ」(格助詞「と」+係助詞「ぞ」。でここは文末に用いて「一般にいわれている」又は「伝聞したことである」の意を表す)から、実は古い事績を掘り起こして書いた内容であることがここに至って判明するのである。

「大幅(だいふく)の懸物(かけもの)數十幅(ふく)」これは、とんでもなく破格に大きな曼荼羅である。しかし、残念なことに次の「覺樹王院權僧正の事」で寄付した寺が焼けて全焼して今に伝わらぬそうである。

「金泥(きんでい)」「こんでい」と読んでもよい(最初に断わってあるのだが、本底本にはルビはなく、総て私が推定した読みである)。金粉を膠(にかわ)の液で泥のように溶かしたもので日本画や装飾、また、写経にも用いた。

「擂盆(らいぼん)」擂鉢。

「七千兩の金(きん)」享保(探信の最晩年と比定)小判一両は現在の凡そ八万円とする換算説があるので、実に五億六千万円相当の金ということにある!

「威成院權僧正」不詳。但し、「威成院」というのは実在した寺のようで「近世文藝叢書」の(グーグル・ブックス)で『威成院の良昌僧都』と出る。識者の御教授を乞う。]

甲子夜話卷之二 24 上野と芝、ものごと違たる評

2-24 上野と芝、ものごと違たる評

或人年始の參拜とて、上野へ詣しに、折しも夕方にて風烈しく寒氣も強かりしに、手水所の石鉢は氷張滿て、その中央に僅計水の見ゆるほどになり。傍に蓋手桶に杓そへ出し置。の蓋を明れば湯氣立登り、人々快く手洗い口そゝぎて拜しぬ。其翌日芝に詣づるに、時は正午計なれど、その日も同じく寒甚し。これも石手水鉢の外に手桶は出したれど、御老中方と云紙札を付たり。されば餘人は手洗ふべきやうもなければ、氷打砕きて、石鉢にて手洗ながら、手桶の中を見れば、朝とく湯や入れけん、みな氷にて有けり。上野は夕方まで幾度か湯を入かへつらん、殊に衆人の爲に公にせし心ざし厚きことなり。芝は晝の比氷張れども、湯を換る心も付ざるか。其上に老中の人に限りて湯を設ると云も、狹き心ならずや。総て兩山の風習高下あること、諸事かくの如しと語りしは、げにもとぞ思はれける。

■やぶちゃんの呟き

「上野」現在の東京都台東区上野桜木(上野公園及びその周縁)にある天台宗東叡山寛永寺。第三代将軍徳川家光を開基(秀忠隠居後の寛永二(一六二五)年に現在の東京国立博物館敷地内に本坊(貫主の住坊)が建立されたのを同寺の創建としている)とし、徳川家康・秀忠・家光の三代の将軍が帰依した天海を開山とする。本尊薬師如来。参照したウィキの「寛永寺の「徳川家と寛永寺」の項によれば、『近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は』第二代『将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし』、第三代『将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後』、第四代将軍家綱の廟、第五代綱吉の廟は孰れも『上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが』、第六代『将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた』。『また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている』。徳川将軍十五人のうち六人(家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉・家定)が眠っている。

「芝」現在の東京都港区芝公園(東京タワー直近。同タワーの敷地の一部は増上寺の元墓地)にある浄土宗三縁山(さんえんざん)広度院増上寺。ウィキの「増上寺によれば、『空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、室町時代の』明徳四(一三九三)年、『酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)の時、真言宗から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる』。『中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では』天正一八(一五九〇年)の徳川家康『江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い』、慶長三(一五九八)年に『家康によって現在地の芝へ移された。『寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる』。『また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった』。増上寺には徳川将軍十五代の内、六人(秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂)が葬られている、とある(家康は日光東照宮、家光は日光の輪王寺、最後の第十五代将軍慶喜は谷中霊園に葬られている)。

「違たる」「たがひたる」。

「手水所」「てうづしよ(ちょうずしょ)」。

「張滿て」「はりみちて」。

「僅計」「わづかばかり」。後の「正午計」の「計」も「ばかり」。

「傍」「かたはら」。

「蓋手桶」「ふたてをけ」。

「杓」「ひしやく」或いは「しやく」。

「そへ出し置」「添へいだしおく」。

「明れば」「あくれば」。

「寒」「かん」。

「御老中方と云紙札を付たり」『御老中(ごろうじゅう)方(がた)』専用と云う札を附けてある。

「朝とく湯や入れけん」朝早くに湯を入れたまま、ほっぽりっぱなしにしているのであろう。

「幾度か湯を入かへつらん」幾度か定期的に湯を入れ替えていたのであろう。

「殊に衆人の爲に公にせし心ざし厚きことなり」ことに庶民大衆のために公平に成しておるその志しの、なんと、誠実なることであろう。

「比」「ころ」。

「湯を換る心も付ざるか」「ゆをかふるこころもつかざるか」。冷めてしまった湯を暖かなものに替えるという誰でも思いつはずのことさえも思い至らぬという為体(ていたらく)なるか。東洋文庫版は「換る」に「かゆる」とルビを振るが、採らない。

「設る」「もうくる」。

「云も」「いふも」。

「総て兩山の風習高下あること、諸事かくの如しと語りしは、げにもとぞ思はれける」「高下」は「かうげ(こうげ)」で「高低(たかひく)」「程度の高さが甚だ異なること」の意。世間で『何事に於いても、寛永寺と増上寺両山は、日常の仕来りやら、行事の習わしやら、その「常識」や「誠意」の程度に、これ、えれえ、差があることは、一から十に至るまで万事万端総てに於いて、ほれ、この通りデエ!』と語っておることは、まっこと、その通りじゃわい、と自然思われたことであったわ。

左手の文学 ――「駅前旅館」論――   梅崎春生

  左手の文学

   ――「駅前旅館」論――

 

 この「駅前旅館」という小説には、筋という筋はない。だからこの小説の面白さは、筋以外のところにある。樹にたとえると、幹の形は大したことはないが、それから派生した枝や梢や葉の形に趣きがあるといったようなものだ。私は「駅前旅館」を雑誌連載中に時折読み、その都度面白かったが、それもこのことと関係があるだろう。雑誌一回分に切り取られても、もともと枝葉の面白さだから、大してそこなわれることはないのだ。

 性格や作風は違うけれども、現在新潮に連載中の「梨の花」もそのタイプだ。つまり前号までの梗概を読まないでも、今月切り取られた分だけで面白いという型の小説。

「駅前旅館」は「私、駅前の柊元(くきもと)旅館の番頭でございます。名前は生野次平と申します。生れは能登の輪島在、早くから在所を離れました」というしゃべり型の文章で始まり、最後までそれで押し通す。駅前旅館の番頭の眼を通した世態人情風俗、それがこの一篇を形成しているが、では生野次平が直接に読者に語りかけて来るかといえば、私のこの度の読後感では、そうではなかった。生野次平がしゃべり、それに耳をかたむけている井伏鱒二という作者の姿勢や風貌が、まなかいにちらついて仕様がなかった。

 これは私がこの作者に面識があるといったせいではなかろう。

 たとえば井上友一郎に「うたよみ」という面白い小説がある。「わたくしは当年五十八歳のうたよみでございますが、二十のころから修業をはじめまして、曲りなりにもこの一筋の所謂(いわゆる)世路の艱難を凌ぎながら好きな道を踏みしめてまいりました。」このうたよみの話しかけは、直接読者に伝わって来るのだ。この作者にも私は面識あるが、うたよみの話はじかに私に伝わって来る。井上友一郎は完全に限界から消去しているのである。消去というより、うたよみの背後にかくれていて、読者はじかにうたよみに対面する仕かけとなっている。

 それに反して「駅前旅館」では、番頭がしゃべり、それに対面して作者が坐っている。読者は作者のうしろに坐って(あるいは立って)番頭の話を聞くという恰好となる。どうしても井伏鱒二の後頭部や丸い肩や背中が、視界にちらついて離れない所以(ゆえん)である。

 つまりこれは井上友一郎の小説が話術でもっているに対し、井伏鱒二の方は話術よりも気質でもっているせいなのだろう。もちろん話術でもとうと気質でもとうと、どちらが上、どちらが下というものではない。作者の資質の違いである。

 私は以前この作者の「白鳥の歌」という短篇の書評を書き、その一節に「著者の節度というか抑制というか、そんなものが題材をとらえて引きしめている。この作者の心情は外にひろがるというより、内へ内へと巻き込んで行くような傾向があって、だからこの十篇に出没する諸人物は、作者の設定した傀儡(かいらい)であっても、微妙な人間的陰翳を帯びているのだろう。単調といえば単調だが、その単調にしてゆるぎないところに魅力がある」と書いた。この感想は「駅前旅館」にもおおむね通じる。井伏鱒二は生野次平と対面して坐り、読者に先んじて耳を傾けているが、ただ耳を傾けているのではない。つまり生野次平にしゃべり放させにはしていない。正面からにらみつけ、無言の圧迫を加え、これをがんじがらめにしている。むだなことや好みに合わぬことを、一言二句も言ったら承知しないぞと、にらみをきかしている。「外にひろがるというより内へ内へと巻き込む」傾向とはそんなことであって、その点この作者はたいへん我がまま者であり、現実に対しては逃避の姿勢を取っているように見えて、その実たいへんに征服的なのである。私より若い世代でいえば、安岡章太郎なんかがそれに当る。現実に対しては逃げの形を取りながら、妙なチャンスをつかんで相手に食いつき、貪食して完全に自分のものにしてしまう。現実は征服されるべきものとして彼の前にあるのだ。それがいいとか悪いとかいうのではない。そういう作家の素質なのである。

 だからこの作品に出て来る人物はすべて、高沢という友人の番頭にしても、万年さんという旅行案内人の万年大学生にしても、その他ちょい役の端役にいたるまで、作者のにらみのきいたところで、生き生きと効いている。にらみのきいた暗だけを、生き生きと動いているのであって、幅の外には出て行こうとしないし、限界で足を踏み外さない。作者と作品の関係は、どの作者の場合でもそうだといえるが、ことにこの作者の場合はそれが強烈なのである。そういうところでこの「駅前旅館」は成立している。

 しがない旅館番頭の眼を通じて見た世態人情風俗が、この一篇を形成していると先に書いたが、ではこの作品は風俗小説か。それは風俗小説とは何かという規定にもよるけれど、この頃あちこちで生産される毒にも薬にもならぬ風俗小説とほ、はっきりと一線を画さねばならぬ。

 靴磨きという職業がある。それが街角で靴を磨く。おおむね磨いて、仕上げに近くなる。靴磨きは右手で刷毛(はけ)をつかみ、ちょいちょいちょいと靴の先をこする。その時空いている左手は、右手の動きに呼応して、ちょいちょいちょいと対称的な動き方をする。

 あの左手は、靴を磨くという作業には、直接には参加していない。何故ならば、左手は何も持っていないし、空気の中をただ小刻みに右往左往しているだけだからだ。

 ではあの左手は、全然無意味に動いているのか。そうではない。もしあの左手の動きを禁じれば、靴磨きの動作は硬直して、右手の動きは難渋を極めるだろう。大きな意味では、あの左手は靴磨きという仕事に、確乎として参加しているのである。

「駅前旅館」に描かれた現実は、みみっちい現実であり、一見毒にも薬にもなりそうになく思えるが、実はこれは靴磨きの左手の動きを果たしているのである。ただ手が無意味に動いているような風俗小説とは、根本的に違う。人生永遠の相を思わしめるような、あるいは人生の深淵をのぞかせて呉れるような、あるいは懦夫(だふ)をして立たしめるような右手の文学と違って、これはさりげなく動く左手の文学である。

 では、この小説はどういう具合に読むべきであるか。答は簡単。面白がって読めばいいのである。それがこの小説を遇する唯一の道である。

 

[やぶちゃん注:昭和三三(一九五八)年三月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「駅前旅館」井伏鱒二(明治三一(一八九八)年~平成五(一九九三)年):広島県安那(やすな)郡加茂村(現在の福山市)生まれ。、早稲田大学文学部仏文学科及び日本美術学校中退。梅崎春生より十七歳年上)のユーモア小説(『新潮』の昭和三一(一九五六)年九月号から翌年九月号まで十三回に亙って連載、連載が始まると同時に話題となった。単行本は一九五七年新潮社刊)。「新潮社公式」サイト内の本作の梗概によれば、昭和三十年代初頭、『東京は上野駅前の団体旅館。子供のころから女中部屋で寝起きし、長じて番頭に納まった主人公が語る宿屋稼業の舞台裏。業界の符牒に始まり、お国による客の性質の違い、呼込みの手練手管……。美人おかみの飲み屋に集まる番頭仲間の奇妙な生態や、修学旅行の学生らが巻き起こす珍騒動を交えつつ、時代の波に飲み込まれていく老舗旅館の番頭たちの哀歓を描いた傑作ユーモア小説』とある。同作を原作として八住利雄の脚本で、豊田四郎監督が同名で昭和三三(一九五八)年七月に東宝で森繁久弥主演で映画化され、後続の『駅前旅館』シリーズの濫觴となった。なお、私は井伏の「山椒魚」(昭和四(一九二九)年『文芸都市』初出。但し、「幽閉」という作品の改作)も、同年の「屋根の上のサワン」(高校時代に教科書で最初に読んだ)も、「黒い雨」(これは高校教師時代に朗読だけはした。授業はしなかった。告白しておくと本格的に授業をしなかったのは単に試験問題が作り難かったという理由のみであった)も皆々、頗る達者に書けているとは感じたが、全く以って感動しなかった。無論、本「駅前旅館」も読んでいない(私は喜劇的小説は嫌いである)。従ってここでの注もそっけなくなる。悪しからず。不満な方は、同作(映画の喜劇駅前シリーズのリストもある)について記しておられる個人サイト内の「喜劇駅前食堂」のこちらこちらを読まれたい。私への不満はそれで解消されるものと思われる。

「梨の花」これはまさに共時制の当該雑誌『新潮』での評であるから仕方ないとしても、現在の読者には、やや不親切な書き方である。「梨の花」は井伏の作品ではなく、中野重治(明治三五(一九〇二)年~昭和五四(一九七九)年)の小説で、昭和三二(一九五七)年から翌年にかけて、同誌に掲載されたものである(単行本は昭和三四(一九五九)年新潮社刊)。ウィキの「梨の花」によれば、作者中野重治と『ほぼ等身大の主人公、高田良平の視点から描いている。主人公の小学校から中学入学のころまでの生活を題材にとり』、二十『世紀初頭の福井県の農村の姿を描き出した。タイトルは、主人公が東京で発行されている雑誌の記事から、身近にあっても今まで気づいていなかった梨の花の美しさを感じた場面からとられ、主人公がそのあと、新しい世界にふみだしていくことの予感となっている』。一九五九年の第十一回読売文学賞を受賞している。私は未読。

「井上友一郎」(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は大阪市生まれ。の小説家。早稲田大学仏文科卒。『都新聞』記者から、昭和一四(一九三九)年『文学者』に「残夢」を発表して作家生活に入って風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、一九七〇年代には既に忘れられた作家となっていた、とウィキの「井上友一郎」にはある。私は彼の作品は一篇も読んだことがない。

「うたよみ」諸アンソロジーの井上友一郎の作品の中に含まれていることから、彼の代表的作品の一つらしいが、初出その他は不詳。

「世路」「せろ」或いは「せいろ」と読む。世の中を渡っていくこと、或いは、渡る世の中の意。

『私は以前この作者の「白鳥の歌」という短篇の書評を書き』底本全集にはこの書評は収録されていない。従って発表誌やその年次も不祥であるが、井伏の単行本「白鳥の歌」は筑摩書房から昭和三〇(一九五五)年に刊行されているから同年中と考えてよかろう。

「懦夫(だふ)」意気地のない男・臆病な男の意。]

谷の響 一の卷 十一 鬼祭饌を享く

 十一 鬼祭饌を享く

 

 商賈龜山伊兵衞と言へるもの、一日(あるひ)來りて話のうち往(い)ぬる文化の末の事なるが、己をはじめ和德町の近江屋久兵衞・越後屋伊三郎・粘屋某の四個(よにん)、導(あない)の僕(をとこ)一人に籩※1(べんとう)を持たして大澤山に栗實(くり)を拾ふとて往きたりしが[やぶちゃん字注:「※1」=「𩙿」+「當」。]、稍々時遷(うつ)りて午上(ひるころ)となりしかば、卒(いざ)や酒を汲まんとて好き場所はあると彼方此方(あなたこなた)と索(たづ)ぬるに、少しく坦然(たひらか)なる土(ところ)に一株(ほん)の杉樹(すぎ)ありて、その下(もと)にいと垢染(あかじみ)たる碟子(こざら)に燈火(ともしび)を點(とも)して、古びたる吉野蒔繪の盆の緣(ふち)少し缺たるに餻※2(だんご)を盛り[やぶちゃん字注:「※2」=「𩙿」+「甘」。]、網の目の文樣(もやう)畫(かい)たる佛茶甌(ちやわん)といふに水を汲みて一枚(ひとひら)の板の上に供へてあれば、こは新たに死せる者の墓ならめと何となく寥凉(ものすご)かりしが、時(をり)から小雨のすさひ來て疾(とく)歇むべき空とも見えぬからに、村舍(むら)に下りて行厨(べんとう)を開くべしとて皆々山を下りて大澤の村に至り、とある家に音信(おとな)ひて雨宿りを賴みけるに、六十有餘(あまり)の老媼(ばゞあ)一人居ていとよく承諾(うべない)ければ、やがて裡(うち)に入りて四邊(あたり)を見やりたるに、近屬(ちかごろ)の不幸と見えて佛壇に位牌を飾れるが、その手向けたるものは垢染たる碟子に燈火を點し、吉野蒔繪の盆の缺たるに餻※2を盛り、網の目の佛茶甑に水を入れたるなど、即ち今山にて見たりしに露も違はねばいと不審(いぶか)しくて、新亡(ふかう)の緣由(ゆかり)を問(たづぬ)るに老媼の曰く、さればとよ、家嫡(むすこ)なる者この何日(いつか)に背樓(うしろ)の山にて馬に胸腷(むね)を蹶(けら)れて、はかなくも其處にて暴(にはか)に終(はて)つるが、今日はその一七日なりとて泪(なみだ)ながらに語りければ、そは眞(まこと)に可憐(ふびん)のことなり、吾曹(われら)過刻(さき)に山を巡(まは)れるとき、坦夷(たひら)なる杉樹の下に目今(いま)佛庿(ぶつだん)に供へたるものと等しきものを賻贈(たむ)けてあるを見て來りしが、必然(さだめし)彼處(かしこ)に埋葬(ほうむれ)るにやと言へば、老媼の曰、いかにも平壤(たひら)なる杉樹の下にて死たれど死體(なきがら)は累世(だいだい)の墳所(はかしよ)に埋納(をさめ)たれば、杉樹の下には何も貺備(たむけ)たることは更になく、また墓所も近邊(ちかく)にあれど其土(そこ)とても燈火(あかし)などは供へず、唯裡(うち)の庿堂(ぶつだん)にのみ斯く手向るまでなりきと語りければ、皆々いたく奇怪(あやし)み失意(こころまどひ)して狐に訛(ばか)されたる如く、其處(そこ)にも居堪へず卒略(そこそこ)に謝儀(れい)を演(の)べて、他の家に憑りて食事をしたゝめ歸りしなり。

 實に世俗(よのひと)の諺に、手向る物は必ず屆くと言へること虛誕(いつはり)ならぬものなりと、此の伊兵衞が語りしなり。

 

[やぶちゃん注:標題「鬼祭饌を享く」は「鬼(き)、祭饌(さいせん)を享(う)く」と訓じておく。「鬼」は死者、「祭饌」は供養のために神仏に捧げる供物のこと。

「商賈」「しやうか(しょうか)」で「賈」「売る・商う」の意であるから商人(あきんど)或いは商家の意。

「一日(あるひ)來りて話のうち往(い)ぬる文化の末の事なるが、……」編者の森山氏には失礼乍ら、この句読点は不親切である。以下、鍵括弧も用いて、

 一日(あるひ)、來りて、話のうち、「往(い)ぬる文化の末の事なるが、……手向る物は必ず屆くと言へること虛誕(いつはり)ならぬものなり」と、此の伊兵衞が語りしなり。

とあるべきである。

「己」「われ」と読んでおく。

「和德町」現在も青森県弘前市の大字名として残る。読みはウィキの「和徳町」によれば、「わとくまち」の他、「わっとくまち」とも読むらしい。青森県道二百六十号石川百田線沿い、Jの字型の広範囲にわたる大字名で、町域の北部は堅田、東部は東和徳町、南部は代官町、東部は野田に接する。元禄九(一六九六)年に行われた『弘前藩家臣の城外移転に伴い、和徳村の一部が転移して弘前城下となる。江戸時代末期には和徳桝形も設けられ、青森に至る街道筋であったため、商家の屋並みも形成されてにぎわいを見せた』とある(本作は幕末の万延元(一八六〇)年の成立)。

「粘屋某」「粘屋」読みも意味(あるとすればだが)も不詳。識者の御教授を乞う。「某」は「なにがし」。原典の「粕屋」の誤記ではあるまいか?

「籩※1(べんとう)」(「※1」=「𩙿」+「當」)弁当。後の「行厨(べんとう)」も同じ。「籩」は高坏(たかつき)のこと。

「大澤山」底本の森山泰太郎氏の補註に、『弘前市石川字大沢部落の付近の山』とある。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「稍々」「やや」。

「時遷(うつ)り」「うつ」は「遷」のみのルビ。

「碟子(こざら)」「小皿」。現代中国語でも同義(「碟」(音「テフ(チョウ)・ジヨウ(デフ)」)単独でも)。

「吉野蒔繪」「よしのまきえ」。近世以降に発達したと思われる吉野塗り(「吉野絵」とも呼ぶ)の、漆工芸技法の一つである蒔絵(漆器の表面に漆で絵や文様・文字などを描き、それが乾かないうちに、金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法)。例えば、このページの上の二枚写真のような盆か。

「餻※2(だんご)」(「※2」=「𩙿」+「甘」)団子。「餻」(音「カウ(コウ)」)は「粉餅」「草餅」の意。

「佛茶甌(ちやわん)」「ほとけちゃわん」と読んでおく。仏前に供える閼伽水を入れる茶碗。「甌」(音「オウ」)は現代中国語でも「湯呑み」の意。

「寥凉(ものすご)かりし」「物凄かりし」そこに新仏(にいぼとけ)の埋っていると思うたこと、また、描写はされていないものの、山中に今さっき供えたばかりとしか思われないそれが忽然とあったこと、しかも辺りに人影もないこと、さらに言い添えれば、周囲に人の踏みしだいた跡なども全くなかったからこそ慄っとしたのである。怪談を真に味わうためには、そこまで映像をリアルに浮かべることが大事である。

「小雨のすさひ來て」「ひ」はママ。「すさひ」は「荒(すさ)ぶ」の連用形。小雨(こさめ)ながらも強く肌を打つように降り来ったのである。

「疾(とく)歇むべき空とも見えぬからに」すぐに「歇」(や)むような空模様には見えなかったので。

「音信(おとな)ひて」「訪(おとな)ひて」。

「いとよく承諾(うべない)ければ」たいそう快く、雨宿りと食事をすることを気軽に請けがって呉れたので。

「近屬(ちかごろ)」「近頃」。

「手向けたる」「たむけたる」。

「違はねば」「たがはねば」。

「新亡(ふかう)」「不幸」。ごく近日中に人の亡くなったことに当て読みをしたのである。

「緣由(ゆかり)」二字へのルビ。

「さればとよ」「それにつきましては」「そのことで御座いまする」といったしみじみとした発語の辞である。

「家嫡(むすこ)」二字へのルビ。父も既に亡くなっており、かく書くからには一人息子であったのであろう。

「何日(いつか)」不定時を示しているわけだが、後で「今日はその一七日」(ひとなぬか)であるとあるから、実は正確に七日前に亡くなっているのである。敢えて話の初めで隠しておき、今日が実は初七日であることを老婆の話の中で明かすことによって、中有(ちゅうう)にいる息子の魂が戻ってくるに相応しい節目であることをそこではっきりと示す絶大な効果を持つことになるのである。怪談としては非常に上手い手法と言える。

「背樓(うしろ)」二字へのルビ。背後に高く聳えるのニュアンスか。

「胸腷(むね)」二字へのルビ。「腷」(音「ヒョウ」)も「胸」の意。

「蹶(けら)れて」「蹴られて」。

「可憐(ふびん)」「不憫」。

「過刻(さき)」二字へのルビ。

「坦夷(たひら)」二字へのルビ。「夷」には「たいらげる」の訓があるように、「たいら」(平たいこと)の意がある。

「目今(いま)」二字へのルビ。ついさっき。

「佛庿(ぶつだん)」二字へのルビ。「庿」は「廟」(祖霊を祀る建物・御霊屋(みたまや)・位牌・神や偉人を祀る建物)に同じい。

「賻贈(たむ)けて」二字へのルビ。「手向けて」。後の「貺備(たむけ)」も同じ。「賻贈」(音「フゾウ」)は香奠の意。「貺」(音「キョウ・コウ」)は「贈」に同じいから、「貺(おく)り備(そな)ふ」で供物の意となる。

「曰」「いはく」。

「死たれど」「しにたれど」。

「唯裡(うち)の庿堂(ぶつだん)にのみ」「ただ(家)裡(うち)の佛壇にのみ」。この瞬間、伊兵衛を始めとする、かの山中の供物を見た者ども全員が、実はこの老婆の家の仏壇と山中の息子が死んだ場所が異界の回路の中で時空を同じくしていたという驚愕の怪異を味わってしまったのである。

「手向る」個人的には「たむくる」と読みたい。最後のそれも同じ。

「失意(こころまどひ)して」「心惑ひして」。恐ろしさにすっかり気が動転してしまって。

「卒略(そこそこ)に」二字へのルビ。

「謝儀(れい)」二字へのルビ。

「憑りて」「よりて」。「寄りて」。

「實に」「げに」と訓じておく。

「手向る物は必ず屆く」神仏に手向けた供物やそこの込めた信心・祈念・真心は、必ずや、死者の魂や神霊や仏に届き、それに応えて呉れる、という謂いであろう。

「虛誕(いつはり)」。「僞(いつはり)」。「誕」には「でたらめを言う・でたらめ・でたらめを言って欺く」の意がある。]

諸國百物語卷之三 十五 備前の國うき田の後家まん氣の事

   十五 備前の國うき田(た)の後家(ごけ)まん氣の事

 

 備前にうき田の後家とて何がしの女ばうありけるが、あるよのつれづれに、舞をまわせてきかれけるが、たかだちをまふとて、べんけいわりたておんまわし、と云ふ所をきゝて、後家、申されけるは、

「べんけい一人にはさやうにはせられまじきものを」

と、わらひて、坪のうちなるせつちんへ行灯(あんどう)をとぼし、用をかなへにゆかれけるに、せつちんの戸をひらきみれば、十二、三なる、かぶろ、よこさまにいねてゐけるが、後家を見てにこにことわらふ。後家、もとより心ふてきなる人なれば、ちつともをくせず、ふみこへ、いかにもゆるゆると用をかなへ、戸のかけがねまでかけ、心しづかに二、三げんほど、たちかへりければ、あとにて、からからと、わらふこゑ、耳につきぬくやうにきこへて、うしろより、ひきたをすとおぼへしが、そのまゝそこに、たをれふしぬ。人々おどろき、はしり出でてみれば、後家はいきたへゐたり。やうやうとして、よびいけければ、氣つきて、有りし事どもかたりけると也。後家、あまりにまんきあるゆへ、天狗、しやうげをなしけると也。

 

[やぶちゃん注:「備前の國うき田(た)」備前国(現在の岡山県東部)の「うきた」と言えば、戦国大名宇喜多直家(享禄二(一五二九)年~天正一〇(一五八二)年)とその嫡男(次男)宇喜多秀家(元亀三(一五七二)年~明暦元(一六五五)年)。直家の継室は円融院(鷹取氏或いは三浦氏の出とも)。秀家の正妻は、かの前田利家の四女秀吉と寧々の養女であった豪姫(天正二(一五七四)年~寛永一一(一六三四)年)であるが、以下の幸若舞(こうわかまい)「高館」の初演記録から考えると、後者がモデルならんか。秀家は「関ヶ原の戦い」で石田三成ら西軍方に属していたために改易となり、秀家は島津氏に匿われて薩摩に潜伏したが、慶長七(一六〇二)年に島津が徳川家康に降ったため、秀家は助命を条件に引き渡され、息子二人とともに慶長一一(一六〇六)年に八丈島に流罪となった(そのまま二十八年後に島で死去)。宇喜多家の没落後、豪は養母寧々に仕えていたが、洗礼(洗礼名マリア)を受けた後の慶長一二(一六〇七)年頃には金沢に引取られ、金沢西町に住んだ(以上、豪の部分はウィキの「豪姫」に拠った)。

「まんき」「慢氣」。傲り昂ぶる心・傲慢なる気性。「思い上がり」や「慢心」の意。

「たかだち」「高館」。幸若舞の曲名であると同時に幸若舞の代表的作品。上演記録の初出は天文一四(一五四五)年(「言継卿記」)。源義経主従が奥州の高館で討手の軍勢を待ち受けながら開いた宴の最中(さなか)、熊野より鈴木三郎が到着、義経より佐藤兄弟の残した鎧を賜った鈴木は、携えた腹巻の由来を物語った上でこれを弟の亀井六郎に譲り、翌日の合戦では兄弟ともに奮戦して果てる。弁慶は舞を一番舞って、敵(かたき)の中を斬って回るが、やがて、痛手を負い、義経と辞世の歌を交わした後、衣川の辺りで立往生するという筋である(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「べんけいわりたておんまわし」東京大学附属図書館蔵の霞亭文庫版「高たち」で影印を見たが、箇所を同定出来ない。弁慶立往生の辺り(この辺)とは思われるのだが(まさにその挿絵が載る)。ここと名指して下さる識者の親切を是非とも冀うものである。

「坪」屋敷内の塀などで囲まれた坪庭。

「せつちん」「雪隱」。厠(かわや)。

「行灯(あんどう)」「あんどん」に同じい。

「とぼし」「點(とぼ)し」。

「用をかなへに」小用をなさんと。

「かぶろ」「禿」。狭義には子供の髪形の一つで、髪の末を切り揃えて、結ばないでものを指すが、その髪形の「子ども」を指す(或いは単に「子ども」の意でも用いる)。

「よこさまにいねてゐけるが」「橫樣に寢ねて居けるが」。

「心ふてきなる人」「心不敵なる人」。私がモデルと考える豪姫は洗礼を受けている。そういう意味でも、イエス・キリスト以外の、超自然のこうした怪異や変化を断じて恐れない「不敵の人」とも言えるのではあるまいか?

「をくせず」「臆せず」。

「ふみこへ」「踏み越え」。歴史的仮名遣は誤り。ふんずけちゃうとこが凄い!

「いかにもゆるゆると用をかなへ、戸のかけがねまでかけ」ここは「戸のかけがねまでかけ」、「いかにもゆるゆると用をかなへ」の順列であろう。

「心しづかに」何事もなかったように、平気な感じで厠を後にし。

「二三げん」「げん」は「間」。廁からの距離。三メートル六十四センチから五メートル四十五センチほど。

「あとにて」後ろの厠の方で。

「耳につきぬくやうにきこへて」「耳に突き拔く樣に聽こえて」。

「ひきたをすとおぼへしが」何者かが、むんずと後ろから摑んで老女を引き倒したかと感じた、その瞬間。

「たをれふしぬ」「倒れ臥しぬ」。

「いきたへゐたり」「息絶え居たり」。歴史的仮名遣は誤り。気絶していた。何度も言うが、「息絶える」とは一般には死ぬことではなく(死ぬことを指すケースもなくはないが、実は稀れ。但し、その状態から重体化して意識が戻らずに結局死ぬというケースは、ままある)、失神・人事不省を指す。

「やうやうとして」ここは「樣々として」でとり、いろいろと介抱しての謂いとする。

「よびいけければ」何度も注した通り、「呼び生け」は「大声で名を呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」。死に瀕した者や、臨終の直後に行う民俗的呪術行為である。

「天狗」ここは山野に跳梁する有力な妖怪といった謂いで用いていよう。

「しやうげ」「障礙」或いは「障碍」。「障害」に同じい。懲らしめのための意想外の「妨げ」の意。]

2016/10/14

谷の響 一の卷 十 虻

 十 虻

 

 又、この木筒淵の上邊(かみかた)に虻いと多くありて、人を見るときは數萬群飛て前後を襲ふと言へり。此善藏、淸水淵に在りし時イハナを釣らんとて獨(ひとり)溪(たに)を登り、釣場を見定め竿を下して居たりしが、忽ち風の吹く音して數萬の虻飛來り善藏が惣身(みうち)に犇々(ひしひし)と群蔟着(むらがりつ)けり。

 善藏、さればこそ音に聞つる虻ならめと慌忙(あはて)て釣具を脩(おさ)めんとすれど、滿體(みうち)に噉(くら)ひ着く故右に拂ひ左に逐ふと言へど拒ぎ得べきことならで、忽ち五體血に塗るゝばかりなれば、釣具を放下(うちす)て、逃たれども猶前後左右より追ひ來りて、笠の内懷の裡に滿(みち)々て幾千萬といふ數を知らず。あまりの楚苦(くるし)さに單衣(ひとへ)を着たるまゝにて川に跳投(はねころげ)たりしが、躰(からだ)に貼(つけ)るは放れたれど頭上を飛ぶものすさまじく、笠の内に込み入れるは悉(みな)首一圓に群る故、急しく笠を※(かなぐ)り棄て水底に潛(くゝ)り沒(い)り、方纔(やうやう)に拂ひ退(の)け辛ふじて淸水淵の假舍(こや)まで歸りしなり。山幽(ふか)き溪間(たにあひ)には處々にある事なれど、かく夥しくあるは他(ほか)にはいまだ聞かざりしと語りしなり。[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+(「索」の「糸」の頭部に横画(「一」)が入った字)。]

 

[やぶちゃん注:「八 蛇塚」「九 木筒淵の靈」に続く善藏を話者とする話柄。

「虻」双翅目アブ科ウシアブ Tabanus trigonus か。体長二・五センチメートル内外の大型種で全体に黒灰色を呈し、腹部の各背板中央に黄白色の大きな三角斑を持つ。単眼を欠き、翅には斑紋がない。成虫は七~九月に出現し、♀は好んでウシ・ウマを襲って吸血、人をも刺す(厳密に言うと、アブ類は「刺す」のではなく「おろしがね」状の口吻をハイ・スピードで動かすことで肌を「擦り上げてそこから滲み出て来た血を吸引する」のである)。私は十数年前、奥日光沢の露天の温泉の露台にて、群来る四十匹以上をテツテ的に叩き殺し、湯守の老人から酒を献杯された思い出がある。

「木筒淵」「九 木筒淵の靈」を参照されたい。

「拒ぎ」「ふせぎ」。

「楚苦(くるし)さに」二字へのルビ。]

北條九代記 卷第十 天變祈禱 付 彗星土を雨す等の勘文

鎌倉北條九代記   卷第十

 

      ○天變祈禱  彗星土を雨す等の勘文

 

文永三年正月十二日、天變の御祈とて、宮寺に仰せて祕法を行はる。去年十二月十四日の曉、彗星(ひきぼし)、東の方に見ゆ。掃部助範元(かもんのすけのりもと)を初(はじめ)として、晴茂(はれもち)、國繼(くにつぐ)、御所にまゐり、「御愼輕(おんつ〻しみかろか)らず」と申しける所に、陰陽師晴平(はれひら)、晴成(はれなり)、既に彗星(けいしやう)の勘文(かもん)を進ず。是(これ)に依(よつ)て同十六日、將軍家は庇御所(ひさしのごしよ)に出御ありて、司天(してん)、曆學(れきがく)の輩を召して、變異の事を相尋ねらる。土御門大納言、左近〔の〕大夫將監公時(きんとき)、伊勢入道行願(ぎやうぐわん)、信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)以下の人々、多く參じて、簀子(すのこ)に候ぜられける所に、司天の輩(ともがら)、樣々申す旨、ありける。猶、愈々(いよいよ)伺ひ見て子細を言上すべき由、太宰〔の〕權〔の〕少貮入道心蓮(しんれん)を以て仰せ下さる。同十八日卯刻計(ばかり)に彗星(けいしやう)出現して、その長(たけ)二尺餘(よ)なり。芒気(はうき)、色、白く、室宿(しつしゆく)を犯して西方に見ゆ。年を越えて消退せざりければ、如何樣、世の變災なるべしとて、御祈禱を致されけり。若宮の別當大僧正隆辨は、金剛童子の法を修(しゆ)せられ、安詳寺(あんしやうじ)の僧正は、如法尊勝王(によほふそんしやうわう)の法を行はる。陰陽師(おんやうじ)業昌(なりまさ)は、天地災變の祭(まつり)を修(しゆ)し、同じき國繼は、屬星(ぞくしやう)の祭(まつり)を行へり。伊達〔の〕蔵人大夫、池(いけ)〔の〕伊賀〔の〕前司、御使として、各(おのおの)肝膽(かんたん)を碎きて、修法(しゆほふ)執行(とりおこな)はる。翌日(つぎのひ)、陰陽少允(おんやうのせうじやう)晴家(はれいへ)を御所の西の壺に召して、如法太山府君(によほふたいさんぶくん)の祭を奉仕(ぶじ)せしめ、將軍家、御壺に出御あり。鞍置馬(くらおきうま)一疋、銀劍(ぎんけん)一腰(ひとこし)、手箱(てばこ)二合に紺の絹を納れて出されけり。誠に重き御愼(おんつ〻しみ)とて、將軍家、殊に恐忌(おそれい)み給ふ。然れば、舊記の載る所、彗星(けいしやう)の出る事、自躰(じたい)には、光なし。日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ。この故に、夕(ゆふべ)には東に指(さ)し、朝(あした)には西にさす。芒(はう)の及ぶ所に、必ず、災變あり。その色靑きは、王侯破れ、天子、卽ち、兵に苦(くるし)む。赤きは、賊兵起(おこ)り、黃なるは、女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり。后妃、その位を奪はる。黑きは、水邊の賊兵、江河(がうが)を塞ぎて、所々に起(おこ)る。今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)なり、と申し沙汰しければ、又、傍に心ある輩は、「古(いにしへ)より以來(このかた)、異域(いゐき)、本朝(ほんてう)の記文を見るに、彗孛(けいはい)の現(あらは)るゝ時に災變ある事もあり。又、何事もなき時もあり。但し、事なきは少(すくな)し。或は災(さい)なき時に出現したるは、記錄に載せざる事もあり。又は他方の災變にして、本朝の事には預(あづか)らざる例(ためし)もあり。夫(それ)、國家の興亡は必ず彗孛(けいはい)の現はるゝには寄(よ)るべからず。或は國家、漫(みだり)に逆威(ぎやくゐ)を振(ふる)ひて、國郡(こくぐん)を制治(せいぢ)し、理非邪正(りひじやしやう)を云(いは)ず、我(われ)に阿順(あじゆん)する者に親(したし)み、意に叶はざれば、賢君子の人といへども疎(うとん)じて近ずけず。小罪(せうざい)を重く罸(ばつ)し、忠なきに賞祿(しやうろく)を與へ、侈(おごり)高く、怒(いかり)多く、賞罸、正しからず。法令、定(さだま)らず、朝(あした)に出(いづ)る事、夕(ゆふべ)には改(あらたま)り、國家の間(あひだ)、賢者(けんしや)、智慮(ちりよ)の人、諸藝堪能(かんのう)の輩(ともがら)、自然に斷絶し、佞奸(ねいかん)の者、多く集りて、主君の眉睫(びぜい)を搯(つま)み、奉行、頭人、邪曲(じやきよく)にして、家々に黨(たう)を結び、臣下、互に威を爭うて、不和なるに於ては、彗孛(けいはい)の災(さい)なくとも、重き國家の愼(つ〻しみ)なり。今の世の中は、なにはに付ても、危(あやふ)し危し」とて、彈指(つまはじき)するも、ありけるとかや。是(これ)をこそ珍事(ちんじ)と思ふ所に、同二月朔日の朝(あした)、日は出でながら、空、曇りて、四方、黑暗(くらやみ)になり、物の色合(いろあひ)、髴(さだか)ならず。巳刻計(ばかり)より、雨、降出でて、小止(をやみ)なし。晩景に及びて、泥の雨、頻(しきり)に降來(ふりきた)り、草木の葉に湛(たま)りては、枝葉、皆、垂臥(たれふし)たり。希代(きだい)の怪異かなと、諸人、色を失ひけり。夫(それ)、太平の世には、五日の風、條(えだ)を鳴さず。十日の雨、塊(つちくれ)を破らず。草木、潤ひ、五穀、豐(ゆたか)なりとこそいふに、是(こ)は、そも、何事の先兆(ぜんてう)なるらんと、怪み申し合ひけるに、主殿助(とのものすけ)業昌、舊記に依(よつ)て勘文(かもん)を進ず。「抑(そもそも)、古(いにしへ)は、垂仁(すゐにん)天皇即位十五年丙午に、星の降ること、雨の脚(あし)の如く、聖武天皇天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)に、洛中に米飯(べいはん)を降(ふら)す事、一日一夜、諸人、是を食(じき)するに、尋常の味(あぢはひ)に替らず。尤(もつとも)飢(うえ)を資(たす)けたり。翌年十一月には陸奥国(みちのくに)に紅(くれなゐ)の雪、降る。光仁天皇寶龜七年九月二十日には、石瓦(いしがはら)の降る事、雨の如し。同八年、旱魃(かんばつ)甚しく、井水(せいすゐ)、皆、絶えて、渇死(かつし)する事、夥(おびたゞ)し。是等の變異は上古一時(じ)の災(さい)なり。然るに、今、泥雨(でいう)の降る事は、極(きはめ)て先例を考ふるに、何の事とも知難(しりがた)し。只、深く御愼(おんつ〻しみ)あるべし」と驚き申しければ、聞く人、皆、手の内に汗を握り、如何なる事か出來(いでこ)んと、後を恐れざるはなかりけり。

 

[やぶちゃん注:標題は「天變祈禱(てんぺんきたう) 付(つけたり) 彗星(けいしやう)土(つち)を雨(ふら)す等(とう)の勘文(かもん)」と読む。「彗星(けいしやう)」は文字通りの彗星(すいせい)のことで、「勘文(かもん)」とは、「かんもん」と読んでもよく、正確には「朝廷」から諮問を依頼された学者などが由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申(かんじん))を行った文章のことを指すが、武家が政権を執った中世に於いては、広く自分が考えたことを文書に纏めたものを一般的に「勘状(かんじょう)」と称したことから、「勘文」もそうした広義の意を持つようにもなったかと思われる。以上は、「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六六)年十二月十四日・十六日・十八日及び翌文永三年の一月十二日・十三日、二月一日・十一日の記事に基づく。

「文永三年正月十二日、天變の御祈とて、宮寺に仰せて祕法を行はる」以下に続くように、異様な彗星出現を中心とした異変は前年末から発生しており、それを不吉な大事の前兆とみたことから、年が明け、年初の行事の一段落したこの日に鶴岡八幡宮寺に於いて修法(ずほう)が執り行われたのである。

「掃部助範元(かもんのすけのりもと)」幕府専属の陰陽師安倍範元。歌才でも知られ、宗尊親王の歌合などにも列座している。

「晴茂(はれもち)」既に「時宗執權 付 御息所御産祈禱」に出たやはり幕府専属の陰陽師。そこでは「はるしげ」とルビがあったが、いか様にも訓じるのは寧ろ、当時でも普通であった。

「國繼(くにつぐ)」同前。後の「晴平(はれひら)」「晴成(はれなり)」も同じ。

「御愼輕(おんつ〻しみかろか)らず」「(かなり不吉な前兆と拝察されますので)物忌みのための御慎みのそれは決して軽いものにては、これ、御座いませぬ。」。相当に程度の厳しい禁忌・謹慎が必要であることを言上(ごんじょう)したのである。

「庇御所(ひさしのごしよ)」「庇の間」を持った鎌倉幕府の公的に正式な、最も大きかったと思われる御所。「庇の間」は母屋 (もや) の外側に張り出して付加された部分で、周囲に妻戸などをたて、外に縁を巡らしたもので、ここに夜間は将軍家がましまさずとも廂番(ひさしばん)が宿直(とのい)をした。

「司天(してん)」天文博士(元は律令制で陰陽寮に属して天文の観測と天文生の教授とに当たった国立大学教授相当職)の唐名。

「曆學(れきがく)」天文博士や陰陽師の観測や占いに基づき、実際の毎年の暦の計算や作成に従事した官人。

「土御門大納言」土御門顕良。元の内大臣土御門定通三男。既出既注。

「左近〔の〕大夫將監公時(きんとき)」北条(名越)公時。北条氏名越流第三代当主。北条時章嫡男。「きみとき」とも読む。既出既注。

「伊勢入道行願(ぎやうぐわん)」二階堂行綱。評定衆。既出既注。

「信濃〔の〕判官入道行一(ぎやういつ)」二階堂行忠(行綱の弟)。政所執事。既出既注。

「簀子(すのこ)」廂の外側を繞る濡れ縁の部分。通路としての役割のほか、廂との境の御簾や几帳を挟んで応接の場としても使われた。

「太宰〔の〕權〔の〕少貮入道心蓮(しんれん)」武藤景頼。評定衆。既出既注。

「卯刻」午前六時頃。

「その長(たけ)二尺餘(よ)」その長さ(彗星核の尖端から尾の終りまでの見かけ上の長さ)は六十一センチ弱。

「芒気(はうき)」その穂先の部分の空気の光り具合。

「室宿(しつしゆく)」和名を「はついぼし」という二十八宿の一つ。北方玄武七宿の第六宿に当たり、現在の「秋の大四辺形」(ペガスス座α星・β星・γ星及びアンドロメダ座α星からつくられる四角形)で知られるペガスス(Pegasus) 座の主星はペガスス座α星で、占星学上の星域はβ星とよって構成される。これを「営室」とも呼ぶ。

「年を越えて消退せざりければ」「年を越えて」も「消退せざりければ」。「吾妻鏡」の文永三 (一二六六)年一月一日の条の最後に「昏黑。彗星見西。壁八度」(昏黑(こんこく)に、彗星、西に見ゆ。壁(へき)の八度)とある。「昏黑」どんより曇った闇夜の謂いであろう。「壁」は「壁宿」で和名を「なまめぼし」と称するやはり二十八宿の一つで北方玄武七宿の第七宿。主星はペガスス座γ星。星域はアンドロメダ座α星とによって構成される。「東壁」とも呼ぶ。注末の引用も参照されたい。

「御祈禱を致されけり」最初に示された一月十二日のそれを指す。

「金剛童子の法」密教で金剛童子)西方無量寿仏の化身とされる忿怒相の童子形をした仏教守護神。胎蔵界曼荼羅の金剛手院に配され、金剛杵を持っている)を本尊として安産・除災・延命などを祈る修法。

「安詳寺(あんしやうじ)の僧正」「安詳寺」という寺は知らないが、これは真言密教の小野流の一流派安詳寺流という古義の流れを汲む僧名か。

「如法尊勝王(によほふそんしやうわう)の法」如意宝珠(にょいほうじゅ:チンターマニ。本邦では一般的に下部が球形で上部が山形(やまなり)に湾曲して尖っている法具で仏や仏の教えの象徴と考えられる。地蔵菩薩・虚空蔵菩薩・如意輪観音などの持物としてよく見かける。無限の価値を持つも仏宝として祈りの対象となる)を本尊とする修法。

「業昌(なりまさ)」既出。やはり幕府専属の陰陽師。

「天地災變の祭(まつり)」陰陽道の天変地異に対する鎮め祭り。既出。

「屬星(ぞくしやう)の祭(まつり)」既出既注であるが、再掲する。陰陽道で生年によって決まり、その人の運命を支配するとする星を属星(ぞくしょう)と稱する。生年の干支を北斗七星の各星に宛てたものであるが、この場合は個人ではないから、総ての属星(午年は破軍星、巳・未年は武曲(ぶごく)星、辰・申年は廉貞(れんてい)星、卯・酉年は文曲(もんごく)星、寅・戌年は祿存(ろくそん)星、子年は貪狼(どんろう)星、丑・亥年は巨門(こもん)星)を祀ったのであろう。

「伊達〔の〕蔵人大夫」不詳。伊達蔵人大夫資宗がいるが、この時には既に亡くなっている。

「池(いけ)〔の〕伊賀〔の〕前司」池(河内守)家系の一人か。

「肝膽(かんたん)を碎きて修法(しゆほふ)執行(とりおこな)はる。」粉骨砕身して修法の執行の諸事務などを奉行した。

「陰陽少允(おんやうのせうじやう)晴家(はれいへ)」「晴家」は「晴宗」の誤り。以下の言上や行った祭からみても、幕府専属の陰陽師の中でも最有力者であったものと思われる。「少允」は陰陽寮の三等官である「允」(判官)の最下級(三等)官。

「如法太山府君(によほふたいさんぶくん)の祭」正式な法式作法に則った(「如法」)泰山府君祭。通常は「ふくん」と濁らない。「太山府君」は中国の五岳の一つである東岳泰山の神で東岳大帝ともいう。山東省泰安県の泰山は古来から霊山で、天神が降誕し、また死者の霊魂が寄り集う冥府があるとされた。この山にあって人間の寿命や生死を司って死者の生前の行為の善悪を裁く最高神の一人として信仰されたのが泰山府君で、それを祀って死者を蘇生させたり、病気平癒や長寿福禄を祈った陰陽道の呪法。元来、この陰陽道の最奥義の修法は病気などの身体に関わる祈願を目的としたものである。

「誠に重き御愼(おんつ〻しみ)とて、將軍家、殊に恐忌(おそれい)み給ふ」これは一連の行事や物忌みが将軍宗尊親王の想像を遙かに超えるものであったことを意味している。

 

「然れば、舊記の載る所、彗星(けいしやう)の出る事、自躰(じたい)には、光なし。日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ。この故に、夕(ゆふべ)には東に指(さ)し、朝(あした)には西にさす。芒(はう)の及ぶ所に、必ず、災變あり。その色靑きは、王侯破れ、天子、卽ち、兵に苦(くるし)む。赤きは、賊兵起(おこ)り、黃なるは、女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり。后妃、その位を奪はる。黑きは、水邊の賊兵、江河(がうが)を塞ぎて、所々に起(おこ)る。今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)なり、と申し沙汰しければ」

 ここは「舊記の載る所……」以下、……瑞(ずゐ)なり」までの部分が、とある、まず一人目の学識自慢(ある意味では知ったかぶりの輩)の誰彼の意見の提示である。

●「自躰(じたい)には、光なし」とは、彗星それ自体は自らは発光しない、の意。

●「日の暉(ひかり)を假(かつ)て現見(あらはれみ)ゆ」太陽の光りを受けて(それを借りて)光り現われたように見えるのである。

●「芒(はう)の及ぶ所」彗星の尖端の光りの到る(即ち、彗星の進行するその先の)方向にある地域。

●「女色(ぢよしき)より權(けん)を害あり」支配している権力者が漁色に耽った結果として、政権全体にひどい乱れが起こり。

●「水邊の賊兵」海賊。

●「江河(がうが)を塞ぎて」海域や内陸水域を大規模に占拠してしまい。

●「所々に起(おこ)る」各所で反乱や騒擾を起こす。

 さて、問題はその後の部分で、

●「今、是(これ)、白色なるものは、將軍逆責(ぎやくせき)の瑞(ずゐ)也」とは、

 「今、まさに、今回のこのケースのように、その光りが白い彗星の場合は、将軍が何者かに反逆し、その結果として将軍が責めらたてられるという、悪しき前兆である。」

と「舊記」には書かれている、というのである。この喋っている男は、実は誰かのマワシモノっぽくは、ないか? だからこそ「傍」(かたはら)でそれを聴いていた「心ある」人物は実に正論でそれに応じているのではあるまいか?

●「異域(いゐき)」「本朝(ほんてう)」に対するので外国。

●「彗孛(けいはい)」彗星。「孛」は「光り輝くさま」以外に、「彗」同様に「ほうきぼし」の意がある。

 

「事なきは少(すくな)し」何事も起こらず、無事に済むことは確かに少なは見える。

「或は災(さき)なき時に出現したるは、記錄に載せざる事もあり」しかし、それは実際には彗星が出現したが、何事も変事の起こらずに過ぎた場合には、彗星の出現事態を全く記録を残さなかったケースもある。

「時に又は他方の災變にして、本朝の事には預(あづか)らざる例(ためし)もあり」それに彗星が出現したが、変事の起こったのが僻地や、とある辺縁的な地方の、或いはそうした所の局所的な地域での異変に過ぎなかったがため、京の朝廷は預かり知らぬこととして記録に残らず、人々の記憶にも残らなかったケースもある。

「寄(よ)るべからず」依るものであるとは限らない。

「漫(みだり)に逆威(ぎやくゐ)を振(ふる)ひて」特に理由もなく、悪逆非道な権威を揮って。

「制治(せいぢ)し」強権によって無理矢理に制圧し、独裁的支配を成し。

「理非邪正(りひじやしやう)を云(いは)ず」それが道理に叶っているか否か、それが邪(よこしま)なものかまことに従った正しいものか否かを問うことなく。

「我(われ)に阿順(あじゆん)する者に親(したし)み」自分(その権力者)に諂(へつら)って服従するふりをする奸悪なる者どものみと親しみ。

「法令、定(さだま)らず、朝(あした)に出(いづ)る事、夕(ゆふべ)には改(あらたま)り」朝令暮改。

「國家の間(あひだ)」一つの大きな国家の中に。

「諸藝堪能(かんのう)の輩(ともがら)」(賢者や知慮に優れた人、そして)諸芸に秀でているような人々。

「佞奸(ねいかん)の者」口先巧みに従順を装いつつ、その実、心の中は悪賢く、拗(ねじ)けている者。

「眉睫(びぜい)を搯(つま)み」「眉睫」は普通は「びせふ(びしょう)」で「まゆとまつげ」で、そこから非常に接近する譬え。「目睫 (もくしょう)の間」、非常に近いの意と同義に用いるが、ここは「気持ちが悪くなるほどに異様なまでに親しんで取り入り」の謂いであろう。

「邪曲(じやきよく)にして」激しい不正を行い。

「家々に黨(たう)を結び」各氏族どもが徒党を組み結び。

「彗孛(けいはい)の災(さい)なくとも、重き國家の愼(つ〻しみ)なり」彗星の禍(わざわ)いなんぞがなくとも、十分に致命的な、国家が重く慎まねばならないほどの危機的な状況ではないか。

「なにはに付ても」何事につけても。

「彈指(つまはじき)するも」前の訳知り顔に論じた輩(やから)を指弾(強く批難)する者も。 

「是をこそ珍事(ちんじ)と思ふ所に」この異様な彗星出現をこそ奇体なる珍事の極みと思うておったところが。

「巳刻」午前十時頃。

「小止(をやみ)なし」一時もやむことなく、蜿蜒と降り続く。

「晩景」夕方。

「泥の雨、頻(しきり)に降來(ふりきた)り、草木の葉に湛(たま)りては、枝葉、皆、垂臥(たれふし)たり」「吾妻鏡」文永三(一二六六)年二月一日の条に以下のようにある。

   *

○原文

一日乙丑。陰。雨降。晩泥交雨降。希代恠異也。粗考舊記。垂仁天皇十五年丙午星如雨降。聖武天皇御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下。同十四年壬午十一月陸奥國丹雪降。光仁天皇御宇寳龜七年丙辰九月廿日石瓦如雨自天降。同八年雨不降井水斷云々。此等變異。雖上古事。時災也。而泥雨始降於此時言語道斷不可説云々。

○やぶちゃんの書き下し文

一日乙丑。陰(くも)り、雨、降る。晩、泥、雨に交ぢりて降る。希代(けだい)の恠異(かいい)なり。粗(ほぼ)、舊記を考ふるに、垂仁天皇十五年丙午(ひのえうま)、星のごとくに、雨、降る。聖武天皇の御宇、天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)、日夜、洛中に、飯(いひ)、下(ふ)る。同十四年壬午(みづのえうま)十一月、陸奥國に、丹雪(たんせつ)、降る。光仁天皇の御宇、寳龜七年丙辰(ひのえたつ)、九月廿日、石・瓦、雨のごとく、天より降る。同八年、雨、降らず、井の水、斷(た)ゆと云々。

此等の變異は、上古の事と雖も、時の災(わざは)ひなり。而るに、泥の雨、此の時、始めて降る。言語道斷・不可説(ふかせつ)と云々。

   *

「先兆(ぜんてう)」ルビはママ。旧事例の年時日の問題点と考証は本文の後に出るので、そこで注する。 

「主殿助(とのものすけ)業昌、舊記に依(よつ)て勘文(かもん)を進ず」上記の通り、「吾妻鏡」では彼が言ったことにはなっていない。それでは叙述し難く、インパクトも弱いので、現実の映像化を図るため、筆者が行った確信犯の改変である。

「垂仁(すゐにん)天皇即位十五年丙午」機械的な西暦への置き換えでは紀元前十五年相当。

「聖武天皇天平十三年辛巳六月戊寅(つちのえとら)」この年(ユリウス暦七七六年)の六月は「乙未(きのとひつじ)」であり、しかもこの旧暦「六月」には「戊寅」の日はない。但し、教育社一九七九年刊の増淵勝一訳「現代語訳 北条九代記」によれば、これは「吾妻鏡」を無批判引いた結果の誤りであり、「天平十四年辛巳六月戊寅」の誤りであるとある(但し、増淵氏は「戊寅」を「つちのととら」と誤って訓じている)。これに従うなら、「天平十四年辛巳六月」五日が「戊寅」で、この日はユリウス暦で七四二年七月十一日に当たる。調べてみると、これは「續日本紀」の条によったものを「吾妻鏡」の筆者が誤写したことが判った。「續日本紀」の原文は確かに、『天平十四年六月戊寅【五】○戊寅。夜、京中徃往雨飯』(本文は「京中、徃往(わうわう)、飯の雨(まめふ)る」と読むか)となっていることが確認出来た。

「光仁天皇寶龜七年九月二十日」ユリウス暦では七七六年十一月九日。

 

 以下、「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六六)年十二月十四日・十六日・十八日の記事を纏めてセットで、次に翌文永三年の一月十二日・十三日、二月一日・十一日の記事を同じくセットで示す。但し、関係のないと思われる箇所を一部、除去してある。まず前者、次に後者。

 

○原文

十四日戊寅。霽。今曉。彗星見東方。爰掃部助範元最前令參御所。客星出見之由申之。次晴茂朝臣彗星之由參申。其後。國繼。晴平。晴成献彗星勘文。

十二月大十六日庚辰。天晴。將軍家出御于庇御所。召司天等數輩。被仰下變異事。土御門大納言。左近大夫將監公時。伊勢入道行願。信濃判官入道行一以下。人々多以候簀子。司天等任位次申之。十三日陰雲之由一同申之。晴隆。十四日曉有近太白之至。數返雖窺見客星彗星不見之由申之。範元申晴耀之由旨。而猶伺見。可申子細之趣被仰下。太宰權少貳入道心蓮奉行之。

大十八日壬午。天晴。卯尅。彗星出見。長二丈餘。

○やぶちゃんの書き下し文

十四日戊寅。霽る。今曉、彗星、東方に見ゆ。爰に掃部助範元、最前に御所へ參ぜしめ、客星(かくせい)出見の由、之れを申す。次いで、晴茂朝臣、彗星の由、參じ申す。其の後、國繼・晴平・晴成、彗星の勘文を献ず。

十六日庚辰。天、晴る。將軍家、庇の御所に出御、司天等、數輩を召し、變異の事を仰せ下さる。土御門大納言・左近大夫將監公時・伊勢入道行願・信濃判官入道行一以下、人々多く以つて簀子に候ず。司天等、位次に任せて、之れを申す。十三日、陰雲の由、一同、之れを申す。晴隆、十四日の曉(あかつき)、太白の至に近づくこと有り。數返、窺(うかが)ひ見ると雖も、客星・彗星、見えざるの由、之れを申す。範元、晴耀の由の旨(むね)、申す。而うして猶ほ伺ひ見て、子細を申すべきの趣き、仰せ下さる。太宰權少貳入道心蓮、之を奉行す。

十八日壬午。天、晴る。卯の尅、彗星、出見(しゆつけん)す。長(たけ)二丈餘。

・「客星」は「きゃくせい」「きゃくしょう」(孰れも現代仮名遣)とも読み、常には見えず、一時的に現れる星を指す。これは広義には時期や明度の違いで普段は見えない恒星から新星や彗星まで含んだ謂いであり、ここでは彗星を除去した、それらの謂いで用いている。

・「陰雲の由、一同、之れを申す」全員が空を暗く厚い雲で星の観測が出来なかった報告し申し上げた、という謂いであろう。

・「太白星」金星。

・「至」不詳。所持する貴志正造訳注「全譯 吾妻鏡 第五巻」(一九七七年新人物往来社刊)ではこの字の右にママ注記があるから、この記載は不審らしい。

・「出見」出現。

 

○原文

十二日丙午。天晴。彗變御祈。金剛童子法大僧正隆辨。如法尊星王法安祥寺僧正。天地災變祭業昌。御使伊達藏人大夫。屬星祭國繼。御使池伊賀前司。

十三日丁未。霽。未尅雨降。酉尅屬晴。戌尅。被行彗變御祈。陰陽少允晴宗於御所西庭。奉仕如法泰山府君祭。雜事左近大夫將監宗政朝臣沙汰。所被奉獻鞍馬一疋。裸馬一疋。銀劔一腰也。此外。手筥二合【納紺絹。】。御雙紙筥。以上自御所被出之。御使常陸前司。將軍家出御其庭。

[やぶちゃん注:以上、一月(原文は「正月」)分。以下、二月。]

一日乙丑。陰。雨降。晩泥交雨降。希代恠異也。粗考舊記。垂仁天皇十五年丙午星如雨降。聖武天皇御宇天平十三年辛巳六月戊寅日夜洛中飯下。同十四年壬午十一月陸奥國丹雪降。光仁天皇御宇寳龜七年丙辰九月廿日石瓦如雨自天降。同八年雨不降井水斷云々。此等變異。雖上古事。時災也。而泥雨始降於此時言語道斷不可説云々。

廿日甲申。霽。寅尅。於御所被行變異等御祈。主殿助業昌。大學助晴長。修理亮晴秀。晴憲。大藏權大輔泰房。晴平。大膳權亮仲光等列座南庭。勤七座泰山府君祭。將軍家御出。縫殿頭師連奉行之。去十月十二日有御夢想。源亞相同時見夢。殊御怖畏云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十二日丙午。天、晴る。彗變の御祈。金剛童子法、大僧正隆辨。如法尊星王法、安祥寺僧正。天地災變祭、業昌。御使、伊達藏人大夫。屬星祭、國繼。御使、池伊賀前司。

十三日丁未。霽れ。未の尅、雨、降る。酉の尅、晴れに屬す。戌の尅、彗變の御祈を行はる。陰陽少允晴宗、御所の西庭に於いて、如法泰山府君祭を奉仕す。雜事は左近大夫將監宗政朝臣、沙汰す。鞍馬一疋・裸馬一疋・銀劔一腰を獻じ奉らるる所なり。此の外、手筥(てばこ)二合【紺絹を納む。】・御雙紙筥(おんそうしばこ)、以上、御所より之れを出ださる。御使は常陸前司。將軍家、其の庭に出御す。

[やぶちゃん注:以下、二月。]

一日乙丑。陰る。雨、降る。晩、泥(どろ)、雨に交りて降る。希代(けだい)の恠異なり。粗(ほぼ)舊記を考ふるに、

垂仁天皇の十五年丙午、星のごとくに、雨、降る。

聖武天皇の御宇、天平十三年辛巳六月戊寅の日の夜(よ)、洛中に飯(いひ)、下(ふ)る。

同十四年壬午十一月、陸奥國に丹(あか)き雪、降る。

光仁天皇の御宇、寳龜七年丙辰九月廿日、石・瓦、雨のごとく、天より降る。

同八年、雨、降らず、井の水、斷ゆ。

と云々。

此等の變異、上古の事と雖も、時の災ひなり。而るに、泥の雨、始めて此の時に降る。言語道斷、不可説と云々。

・「未の尅」午後二時頃。

・「酉の尅、晴れに屬す」午後六時頃。時期的に既にすっかり暗くなっている時間なので「雲がなくなって夜空は晴れた状態になっている」と言っているのであろう。

・「戌の尅」午後八時頃。

・「雙紙筥」草紙を入れる文箱。

・「天平十三年辛巳六月戊寅」注で既に述べた通り、「天平十四年辛巳六月戊寅」の誤り。

 

 最後に、湯浅吉美氏の優れた論文「『吾妻鏡』に見える彗星と客星について─鎌倉天文道の苦闘─」(PDF)からこの文永二年十二月十四日と十六日の記事についての解説を引きたい。なお、筆者は文永二年十二月十四日の記事を【12-1】、十六日のそれを【12-2】として表示されている。なお、注記号は除去した。

   《引用開始》

 まず【12-1】によると、最初に安倍範元が客星と報告した。続いて晴茂が参って彗星と申した。さらに国継・晴平・晴成らが彗星勘文を提出した。つまり現れた異星が、客星なのか彗星なのか、陰陽師らの間で意見の相違が生じたのである。

 次に【12-2】では、将軍宗尊親王自ら出御あって、陰陽師らの意見を徴したところ、結局は客星も彗星も見えないという答えであった。では、1日に範元らが、やれ客星だ、いや彗星だと騒いだのは何だったのか。このとき範元も客星と答申せず、いささか不自然に感じられる。何やら意図的に「将軍を安心させよう」としているようにも思える。しかし将軍親王は安堵せず、さらに観望を続けて報告するよう指示した。天変を畏怖し、それに備えねばならぬとの胸中であろう。

 ところが2日後、無情にも彗星が現れた。尾の長さが20度に及べば、誰もが気付く)。27日夕刻には西天の室宿(ペガスス座西部)に在り、越えて翌年元日の夜にもまだ壁宿(同東部)に見えた。そこで、1213の両日、御祈を行なっている。

 実際にはたしかに彗星が出現していた。太政官の『外記日記』には1211日から正月9日まで毎日のように出現記録があり、1213日から15日の間も続いて見えているから、【12-2】は一層不審である。ただし『一代要記』を見ると、16日より不見とある。南北朝時代の『師守記』(中原師守の日記)に7月5日から見えたとあるのは疑わしいが、ともかく多くの史料に記載されている。ゆえに、ひと月ほど彗星が見られたことは間違いない。『吾妻鏡』の記述は簡単に過ぎるけれども、鎌倉においても彗星の出現は凶兆と受け止められ、とくに将軍の身に悪影響を及ぼすと考えていたことがここでも窺われる。ただし【12-5】の中略部分に拠ると、正月の儀礼である垸飯(おうばん)は滞りなく行なわれたことが知られる。その点、日蝕など他の天変と比べて彗星・客星の変は、政務や行事に日程変更を逼る度合いは、鎌倉では強くなかったようである。

   《引用終了》

最後の【12-5】とは文永三(一二六六)年一月一日の記事。以下に総て示しておく。

 

○原文

一日乙未。天霽風靜。垸飯飯【相州御沙汰】。御簾前大納言。御劔越前前司時廣。御調度右馬助淸時。御行騰秋田城介泰盛。御馬五疋。昏黑。彗星見西。壁八度。

○やぶちゃんの書き下し文

一日乙未。天、霽れ、風、靜かなり。垸飯【相州の御沙汰】。御簾(みす)、前大納言。御劔(ぎよけん)、越前前司時廣。御調度、右馬助淸時。御行騰(おんむかばき)、秋田城介泰盛。御馬五疋。

昏黑(こんこく)、彗星、西に見ゆ。壁(へき)の八度。

・「相州」北条時宗。但し、この時はまだ連署である。

・「御簾」将軍と同じ御簾内にいて控える者の謂いか。

・「前大納言」土御門顕方(生没年未詳)。中院(なかのいん)(土御門)通方の子であるが、土御門定通の養子となった。

・「越前前司時廣」北条時広(貞応元(一二二二)年~建治元(一二七五)年)。北条時房次男北条時村の子で当時は既に評定衆。和歌が得意で将軍の歌席寄人や歌仙結番に選ばれた、北条家一門随一の風流文化人であった(以上はウィキの「北条時広に拠った)。

・「御行騰」本来は旅行や狩猟などの際に足を蔽った布或いは革製の防具を指し、現在も流鏑馬(やぶさめ)の装束に用いる(元は「向か脛(はぎ)」に穿(は)く意)が、ここは将軍の新年の行事としてそれを穿かせる行事があり、それを担当したということか。

・「秋田城介泰盛」幕政を主導する中枢の一人安達安盛。当時は北条(金沢)実時とともに越訴方頭人(おっそかたとうにん:「越訴方」は文永元(一二六四)年に新設された幕府訴訟機関。それまで一次審理を行っていた引付衆が担当していた越訴(主に正規の法手続を省略してなされる再審請求)等を専門に扱う部署。そこの長官)。

 最後の彗星の記事については、前の「年を越えて消退せざりければ」の私の注を参照のこと。]

 

谷の響 一の卷 九 木筒淵の靈

 九 木筒淵の靈

 

 また善藏の話に、この淸水淵の水上(みなかみ)に木筒淵といふ淵ありて、その深さ測るべきにあらず。善藏元來(もとより)水を泳游(およぐ)に妙を得たればこの淵に沒(い)りて見るに、二間ばかりの底に一圍(かゝえ)に餘れる埋(うもれ)木の橫たはれるあり。この木に乘りて底下(そこ)を臨むに、潭々(あおみ)泓々(わたり)て徹底(そこ)を知らず。

 さるから、此淵に鱒の居る事夥しかりしかば、傭(やとひ)の男枯木平村の太七といふ者に網をうてと言へるに太七の言ふ、この淵に網を下ろす時は忽ち風雨起りて怖しき事のあれば已止(やめ)給へといひしかど、萬一(もし)かくあらば疾(と)く脱去(にげ)るべし。かほどある鱒を豈(いかで)よそに見過(みすぐ)べきとて、強(あなが)ちに網をうたせたれば鱒は一尾(ひとつ)も係らず。松代村のやわたと言へるもの、之を見て將(いで)雨の降らぬ先にとて淵に跳(はね)込み、間もなく鱒二尾を捕へて浮び出で去來(いざ)や歸らんとする處に、さしも晴亮(はれやか)なる空の俄然(にはか)にかき曇り、雷鳴山中に轟(とゝろ)き布(わた)り大雨篠(しの)を突くが如くなれば、さてこそ御咎(とがめ)來りしとて僉々(みなみな)怕(おそ)れて卒(にはか)に逃げ歸りしとなり。

 

[やぶちゃん注:「木筒淵」「きづづぶち」と読むか。不詳乍ら、旧弘前藩内に木筒村という村はあった。

「また善藏の話にこの淸水淵」前話八 蛇塚の話者。採話の共時性が強いことが判る。

「二間」三メートル六十四センチ弱。

「枯木平村」「かれきだいら」或いは「かれきひら」か。岩木山南西麓の弘前市常盤野に、まさに「枯木平」の名のバス停が存在する((マピオン・データ))が、読み方が調べて見ても出てこない。識者の御教授を乞う。

「脱去(にげ)る」二字へのルビ。

「松代村」底本の森山泰太郎氏の補註に、『西津軽郡鰺ケ沢町松代(まつだい)。岩木山の西麓の小部落』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「やわた」名であるが、姓なら幾つか浮かぶが、名前だと、漢字がピンとこない。

「將(いで)」感動詞。「さあ!」。

「晴亮(はれや)なる」「亮」には「明らか」「すっきりと透る」「穢れがなくて明るい」「はっきりしている」といった意がある。

「篠(しの)を突く」「篠」は細い群がって生える竹や笹の総称である「篠竹」を指し、その篠竹を束ねて突き下ろすように、細かなものが、集まって飛んでくるさまに使われるが、殆んどは「激しく降る大雨」の形容である。]

私の小説作法   梅崎春生

 

「私の小説作法」を書くことはむずかしい。今から十年前、昭和三十年二月号の「文芸」に、私は「私の小説作法」を書いた。それを読み返すと、その時の考えが今もほとんど変っていない。進歩がないといえるかもしれぬが、基本的態度というものは、そうそう進歩したり変化したりはしないものだ。

 人間の中に泥沼みたいなものがあり、それが現実に相捗(わた)って創り出されるのが、文学であり小説であるとその時書き、その泥沼の定義や分析をこころみている。小説作法が「ラジオの組立て方」や「碁の入門」などと根本的に異なる所以(ゆえん)をせっせと書いている。同じことを今なぞるのは気が進まないので、以下出来るだけ具体的に書く。

 題材がきまると、机の前にすわり鉛筆で一日五枚から十枚程度の早さで書く。下書きはしない。ぶっつけ本番で書く。書きくずしは一〇%くらい。百枚書くと十枚のロスが出る。寡(か)作の上にロスがないので、原稿用紙の使用量はごく少ない。

 題材は経験したこと、人に聞いた話、空想でつくり上げること、いろいろある。その混合型ももちろんある。書き始めて途中でうまくいかない場合、無理には書き続けない。放棄してしまう。全然捨ててしまうわけでなく、あたためておく。十五年ほどあたためて、やっと書いたこともある。長年あたためていると、枝葉が熟してきて、うまくいくような気がする。

 作品を創るに当って、必ずしも初めから順々に書くとはきめていない。全体を三分し、最後の三分の一を先に書き、次に中の部分、最後に初めの三分の一を書くということもやる。しかしこれは素人(しろうと)のやり方かもしれない。小説を書き始めたころ、私はしばしばこの方法をとった。初めから書くと形がつかないような気がしたからだ。初めから書き、流れにしたがって結末に到るのが本筋だろう。でも予定した結末に到らないことが、往々にあるのだ。結末を最初に書くと、中途で強引に筆を曲げねばならぬことが時時出来てくる。しかし余儀ない事情で(たとえば何月何日までに仕上げなければならない時など)この方法を採用することがある。作家としては、不名誉というべし。

 旅行はするが、板材旅行はしない。ただふつうの旅人として旅を楽しみ、その感じを身内に取り入れて戻って来る。あとになってその旅行先を小説に使う時、もー度そこへ行って確かめることはしない。体に残った漠(ばく)たる感じ、漠たる記憶をもとにして、書いてしまう。特別な構えは、作家に必要でない。記録なら正確さが必要だが、小説となると趣きが異なってくる。そう私は思っている。そのせいか、行ったことのある土地よりも、架空の場所(つまり行ったことのない土地だ)の方が、私は書きやすい。人から聞いたり地図で調べたり、それを空想で補って書く作業が、たのしいのである。

 それから手法について、他人が使い古したありふれた手口を、できるだけ使うまいと心がける。たとえば年代記風の書き方、私はこれは昔からいやで、読むのも書くのも退屈だ。だから必ずひっくり返して、順序をばらばらにして書く。小細工といわれれば、それまでだけれど。

「あの人はさすが作家だけあって、ものを見る目がするどい」

 こんなばかな話はない。目のするどさにかけて作家は、刑事や客引き番頭やバーのホステスには遠かに及ばない。現実面では作家はお人好しで、これほどだまされやすい人種はないのである。ただ番頭やホステスと違うところは、そこから虚実をないまぜて、一篇の小説に創り上げるというか、でっち上げるというか、そんな才が多少あるだけの話だ。それ以上でもなく、それ以下の人間でもない。常凡な俗物であるという自覚が、私のかえるべき初心なのである。

 

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年一月三十一日附『毎日新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。なお、本篇は底本の「エッセイ Ⅰ」の掉尾に置かれてある(順序を変更したのは単に底本の編集権を侵害しないために過ぎない)。

『今から十年前、昭和三十年二月号の「文芸」に、私は「私の小説作法」を書いた』既にこちらで電子化注済み。

「書きくずし」「書き崩す」(「書き損なって無駄にする・書き潰す」の意の動詞)の名詞形。書き直しのために原稿用紙を反故にすること。]

病原

私は私が病原であることを全く以って理解してはいない――

諸國百物語卷之三 十四 豐後の國西迎寺の長老金にしう心のこす事

    十四 豐後の國西迎(さいかう)寺の長老金(かね)にしう心のこす事

 

 ぶんごの國、西迎寺と云ふてらの長らう、七十ばかりにてわづらひ、すでにまつごにおよぶとき、

「われ往生せば、七日の内は、そのまゝをき、それすぎ候はゞ、火そうにせよ」

と、いひごんして、あひはてらければ、弟子ども、いひごんのごとくに、もくよくをさせ、棺にいれをきたる所に、三日めの夜半のころ、棺のうち、がさがさとなるおとして、棺のふたをもちあげ、長らう、くろきづきんをかぶり、棺のうちより、はい出で、座敷へあゆみゆかれしを、弟子これをみて、ふしぎに思ひ、やうすをうかゞひ見ければ、ゑんさきへいで、庭のいぬいのすみを、ゆびさす。弟子もおそろしくて、だい所へ、にげいりぬ。そのまに、長らうは、又、もとの棺のうちへはいられける。そのあくる夜も、やはんのころ、さきの夜のごとくせられければ、弟子ども、よりあひ、だんがうして、かの庭のいぬいのすみをほりてみければ、いかにもうつくしきつぼを、ほり出だす。うちをみれば、金子千兩いれをかれたり。さては此かねにしうしんをのこされけるゆへとて、みな人、ひばうしけると也。

 

[やぶちゃん注:「豐後の國西迎(さいかう)寺」不詳。似た名称ならば、現在の大分県速見郡日出町(ひじまち)に浄土真宗の西教(さいきょう)寺という寺はある。話柄が話柄なだけに、ここだと断定する訳では無論、ない。念のため。

「すでにまつごにおよぶとき」「既に末期に及ぶ時」。

「われ往生せば、七日の内は、そのまゝをき、それすぎ候はゞ、火そうにせよ」何故、この長老はこうした「いひごん」(遺言)をしたのだろう? 彼はその七日の間に、死してもその金を何とか出来る思ったのだろうか? とすれば、この後の怪異や「みな人」の「ひばう」(誹謗)したことよりも、もっと救い難い執心ではないか? そこを筆者は確信犯でかく言い添えたのであろうか?

「あひはてらければ」「相ひ果てられければ」。「相ひ」はここでは動詞に付いて語調を調え、意味を強める接頭語に過ぎない。

「もくよく」「沐浴」。清拭。湯灌。

「がさがさとなるおとして」「ガサガサと鳴る音して」。

「くろきづきん」「黑き頭巾」。墨染の僧衣(僧帽)であろう。浄土真宗(一つの同定候補とした先の西教寺は真宗である)では現行でも死出の旅路を認めず、特別の死に装束をしないから、この装束自体は異様なものではない。

「はい出で」「這ひ出で」。歴史的仮名遣は誤り。

「ゑんさきへいで」「緣先へ出で」。

「いぬい」「戌亥(乾)」西北。西方浄土からずれているところが面白い。埋める時に長老の心中に執心への懺悔の無意識が働いたものかも知れぬ。

「だんがう」「談合」。

「金子千兩」時代設定が示されていないが、莫大な額である。相応に危ないことをしない限りは手に入らぬ額である。江戸時代の中後期であっても地方の一寺院の普通の住持(尋常普通の住持だったからこそ、このことの知れて衆人から激しく誹謗されたのである)の秘匿する額としては著しく破格であろう。]

Andrei Tarkovski, poésie et vérité (1999)

これは正直、「ずるい!」と言いながら、涙を禁じ得ない。

2016/10/13

谷の響 一の卷 八 蛇塚



 八 蛇塚

 

 岩木山の腰なる枯木平村の先に淸水淵といふ淵ありて、この淵より十四五町去りて蛇塚といふあり。文政三年の頃御藏町の伊勢屋善藏といへる者、鯵ケ澤の北なる音平の砂壇(はま)より鐡砂を取り、この淸水淵の傍(ほとり)にて鎔造(ふき)たりしが、一日(あるひ)吹士(ふきこ)の者一人この蛇塚といふ土(ところ)に至りて見るに、一株(ほん)の大木ありてその根の側(わき)に徑(わたり)五六寸も有るべき穴あり。その穴より白ナブサ【方言也。漢名白蛇也。】といふ蛇の二隻(ひき)首をさし出して有しかば、蛇塚とは此の穴ならめと思ひ、立倚(より)て柴をもつてその穴を搔き𢌞せしに大小の蛇ども多く出たりしが、此吹士不惕(ふてき)者にて快(きみよ)き慰(なくさみ)とて又その穴を突き廣げしに、蛇いよいよ出來てその數いとすさまじくかの大木の幹に上り枝に這ひ、またたくうちに地上十間四面ばかりに充滿して、其數幾千萬といふを知らず。

 爾してこの蛇、吹士が脛(はぎ)に這ひ上らんとするに愕き(おとろ)き恐れて倉卒(いそぎ)逃歸り、善藏等に斯くと語りければさこそ好き觀(みもの)ならめと假舍(こや)に有あふもの共悉(みな)往(ゆき)て見るに、吹士が言ひしに違はで極太(いたく)多かる蛇どもの或は頭を擡(もた)げて紆々蟠結(なはになり)、或は背を興(は)りて岨蟉透迤(のたれまはり)何さま十四五間の方(あひだ)、隙地(すきま)もなく蠢々緣蔓(うごめきわたれ)る有狀(ありさま)は目冷(さま)しかりし事なりき。されど人を逐ふ事もなく嚙こともなく又異(こと)に大きなるもあらで、僉(みな)三尺足らずのもの而已なり。

 かくて翌る日復(また)此處に至りて見るに、かゝる多かる蛇の何地(いつち)に行けん、又舊(もと)の穴に籠れるにや唯一隻(ひき)もなかりしなりと、この善藏の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「岩木山」「いわきさん」。現在の青森県弘前市及び西津軽郡鰺ヶ沢町に跨る火山で、標高は千六百二十五メートル。青森県の最高峰。古くから信仰の山として知られ、伝説も多い。ウィキの「岩木山」によれば、『岩木山は、古くから山岳信仰の対象とされていて、山頂には岩木山神社奥宮がある。岩木山神社には、五大柱の神である岩木山大神が祀られている』。『丹後国の郎党大江時廉の陰謀によって滅ぼされた岩城正氏の子、安寿と厨子王丸の伝説が残されており、安寿が岩木山に祀られているため、岩木山の神は丹後国の人を忌み嫌うという言い伝えがあった』。『丹後国の人が当地に入ると風雨がうち続く悪天候となり、船の出入りができないとして厳しい吟味が行なわれ、入り込んだ丹後国の人は追い出された』。幕末の安政五(一八五八)年五月二十四日の布令にさえ、「頃日天氣不正に付、御領分へ丹後者入込候哉も難計(はかりがたき)に付、右體(みぎてい)之者見當候者(みあてさふらはば)、早速送返候様(やう)、尚亦、諸勸進等も吟味仕候樣(つかまつりさふらうやう)被仰付候間(おほせつけられさふらふにつき)、御家中竝(ならびに)在町寺社共(とも)不洩候樣(もらさずさふらふやう)、此段(このだん)被申觸候(まうしふれられそあふらふ)以上。御目付」と書かれてある、という(引用元の漢字を恣意的に正字化し、訓読も私が行った)。サイト「龍学」の「竜神の刀」には、まさにこの話柄に強い親和性(竜蛇・鍛冶)を持った、しかもロケーションも近い青森県西津軽郡鰺ヶ沢町湯舟町の「鬼神太夫(きじんだゆう)の刀」の伝承が書かれている。必読!

「腰」麓の謂いであろう。

「枯木平村」底本の森山泰太郎氏の補註には『岩木山の西麓で』、今、『中津軽郡岩木町常盤野字枯木平(かれきたい)。元和年間』(げんな:一六一五年~一六二四年)、『津軽藩の牧場として開かれたところ』とある。の附近(グーグル・マップ・データ)。

「淸水淵」不詳。

「十四五町」千六百メートル前後。

「蛇塚」不詳。

「文政三年」一八二〇年。

「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「伊勢屋善藏」不詳乍ら、本「谷の響」にはこの後も出る、筆者平尾魯僊の情報屋の一人である。

「鯵ケ澤」現在の西津軽郡鰺ヶ沢町(あじがさわまち)。日本海に面し、旧津軽藩の要港で、北前船も寄港し、米の積出し港として繁栄した。

「音平」不詳。識者の御教授を乞う。

「砂壇(はま)」二字へのルビ。浜。

「鐡砂」砂鉄。

「鎔造(ふき)たりしが」鍛冶(たんや)を生業(なりわい)としていたが、の意。

「吹士(ふきこ)」鍛冶作業に於いて、専ら、火を起こしては一定の高温で安定させるために鞴(ふいご)を吹くことを担当した職人のことであろう。

「徑(わたり)五六寸も有るべき穴あり」直径十六センチから十八センチほどもある有意に大きな自然に出来たとは思われない穴があった。

「白ナブサ【方言也。漢名白蛇也。】」小学館「日本国語大辞典」に「なぶさ」の項があり、方言とし、『蛇、あおだいしょう(青大将)』とあって、青森県南部地方・岩手県九戸郡・静岡県磐田郡・愛知県北設楽郡などの採集地を挙げる。橘正一氏の「方言讀本」(昭和一二(一九三七)年厚生閣刊)によれば、青森・信濃・遠江・三河の他、仙台の他、丹波の「ナブソ」、阿波名東郡の「ナブサン」、石見八上村の「ナグサ」、播磨佐用郡の「オーナメソ」「オナグソ」、さらにはまさに本「シロナブサ」に酷似する香川県小豆島の「シロナグサ」「シロナミサ」、そうして遂には秋田県鹿角郡の「シロナブサ」を挙げている(グーグル・ブックスの箇所を視認した。なお同書は同サイトので無料で全文が読める)。即ち、これは爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の白化個体(アルビノ(albino))である。ウィキの「アオダイショウ」によれば、『本種の白化型は「神の遣い」として、信仰の対象とされることもあ』り、特に『山口県岩国市周辺に白化型が多く、これは信仰の対象として駆除されずに残され、アルビノの形質が固定されたからであると考えられている』とある。通常体色は『主に暗黄褐色から』、『くすんだ緑色であるが、個体差が大き』く、『北海道には青みの強い個体が多い』とある。『脱皮前の個体は色みが濃く』、逆に、『脱皮直後の個体は青みが強い』。また、背面に四本の『不明瞭な黒褐色の縦縞が入る個体が多いが、縦縞がない個体もある』。『脱皮前の個体では縦縞が明瞭になる』とある。

「不惕(ふてき)者」前項に既出既注であるが再掲すると、「惕」には「恐れる」の意味があるから、「(大胆)不敵(なる)者」(恐れを知らぬ者)の謂いである。

「快(きみよ)き慰(なくさみ)」面白い楽しみもの。「面白れえじゃねえか!」と。

「十間四面」凡そ十八メートル強四方。

「倉卒(いそぎ)」「倉」には「俄か・慌てる」の意がある。

「好き觀(みもの)」「好(よ)き見物」。

「假舍(こや)」二字へのルビ。

「有あふもの共悉(みな)」居合わせた者ども、皆。

「違はで」「たがはで」。

「極太(いたく)」二字へのルビ。

「紆々蟠結(なはになり)」四字へのルビ。くんずほぐれつなって繩の如くになって。これは蛇の雄雌の一般的な交尾行動である。非常に長時間であることが知られている。

「背を興(は)りて」背の部分を聳らかせて。興奮している状況からも交尾行動であることが知れる。

金史良のこと   梅崎春生

 

 私が保高さんのところにおうかがいしたのは、昭和十三年か十四年のことで、たしか金史良に連れられて行ったのだと思う。

 その金君と知合いになったのは、昭和十一年、大学に入った年で、彼は「堤防」という同人雑誌に属し、私は「寄港地」という同人雑誌に属していた。今「新日本文学」に「沖縄島」を連載している霜多正次が、やはり「寄港地」の同人で、その霜多がどこかで金君と知合いになり、そして私に紹介して呉れた。その頃金君は、まだ本名の金時昌を名乗っていて、金史良の筆名を持つようになったのは、その後のことだ。

 それで私たちはたちまち仲良くなり、金君は自分の下宿を引き払って、霜多が住んでいた本郷の角田館という下宿に引越して来た。私も角田館のすぐ近くに下宿していたので、毎日のように顔を合わせることになった。金君は体格も良く、背丈は五尺八寸ぐらいあり、酒も強かった。よく一緒に飲んだ。

 金君の実家は朝鮮の富豪で、仕送りも充分にあったらしい。こちらはぴいぴいしていたから、どうしてもこちらがたかるという傾向にあったと思う。

 しかし、金君は金持のくせに、妙なところがあった。気前はいいのだが、たとえば彼が外套なんかを質入れする場合に、質屋が三円しか貸せぬと言うのに、五円貸して呉れと一時間でも二時間でもねばるのである。もちろん彼はそれを流すつもりは毛頭なく、また酒代として三円あれば充分なのに、五円を借りるために何時間でもねばるのだ。ついに質屋の親爺や番頭が根負けして、五円出して呉れるまでねばる。

 そういう金君の気持が、私には判らなかった。自分の持物を低く評価されるのを嫌ったのか、あるいは借出しをスポーツのように考えて、それをたのしんでいたのか。

 それで迷惑するのは、質屋の親爺だけでなく、私たちもであった。その金君が借り出す金で、一緒に飲みに行くのは私たちだったから。金君のねばりにつき合って、質屋に一時間も二時間も立って待っているのは、楽なことでなかった。

 牛込の横寺町に飯塚というドブロクを飲ませる酒場があり、そこに私を連れて行ったのも金史良である。

 なんだかどっしりした重々しい古風な建物で、金君はもの慣れた調子でドブロクを注文したが、私はドブロクを飲むのがそれが初めてで、どうも舌になじめなかったから、すぐに清酒に切りかえたが、金君はうまそうにドブロクをおかわりして何本も飲んだ。朝鮮にドブロクがあるから、金君はそれで舌が慣れていたのだろうと思う。

 この飯塚酒場のドブロクの味が私にも判るようになったのは、戦争末期の酒が不足になって来てからで、私は毎晩のようにこの飯塚に行列して、ドブロクを飲んだ。飲みつけるとドブロクというやつはうまいものだが、その時は私にはひどく不味(まず)かった。

 今でも覚えているのだが、その飯塚に初訪問の帰り、タクシーの運転手と料金のことでいざこざが起き、運転手もむしゃくしゃ、私たちもむしゃくしゃして本郷で下車、そして私が自動車のうしろに廻り、腹立ちまぎれに自動車の背中をパタンと殴ったら、

「何をっ!」

 と運転手が顔色をかえ、スパナを片手につかんで、座席から飛び出して来た。

 そこまでは今でも覚えているが、あとの記憶がないところを見ると、別段殴(なぐ)られはしなかったのだろう。一目散に逃げ出したのかも知れないと思う。

 

[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年五月号『文芸首都』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「金史良」(キム・サリャン 一九一四年~昭和二五(一九五〇)年)は朝鮮(現在の北朝鮮)の小説家。本名は金時昌(キム・シチャン)。ウィキの「金史良によれば、日本統治時代の朝鮮平壌府陸路里で生まれた(大正三年)。日本語・朝鮮語両方で創作した「在日朝鮮人文学」の先駆的存在。日本に留学して東京帝国大学文学部独文科を卒業、在日中に書かれた「光の中に」(日本社会の中で自身の居場所を見つけようとして悩む朝鮮出身の学生を主人公とする作品。昭和一四(一九三九)年『文芸首都』初出)は芥川賞候補となってからは、「土城廊」「箕子林」「天馬」「草探し」などの作品を相次いで発表、『一年足らずの間に日本における民族主義作家としての地歩を固めた』。『プロレタリア文学が後退する時勢の中にあって、朝鮮文学は朝鮮語による表記がある程度統治権力の眼をくらませたことから、発展の道は確保されていたように思えたが』、昭和一四(一九三九)年十月二十九日、『朝鮮文人協会は「朝鮮文人報国会」として改編されるなど、金史良を含む朝鮮人作家らは』、『なしくずし的に「内鮮一体」を唱える統治権力への隷従を迫られた』。『日本文壇が朝鮮に対する植民地政策に関与するようになる文芸銃後運動も強くなり、金史良の直面していた状況は非常に厳しいものであった』。『太平洋戦争の開戦の翌日の』昭和一六(一九四一)年十二月九日朝には『鎌倉警察署に検挙され、翌年』一『月末に釈放されている』。『従軍作家になり時局に協力する「文章報国」、あるいは執筆そのものの禁止など、釈放の条件については不明であるが、この釈放の時点で思想的、政治的な後退があったことは否めない』。釈放直後の昭和昭和一七(一九四二)年二月、『金史良は旅費を調達して帰国した』。即ち、『日本における彼の著作活動は、この』一九三九年秋から一九四一年(昭和十四年から昭和十六年)秋までの、わずか二年間であった。『帰国後、金史良は郷里の平壌府仁興町に落ち着いたが、表立った活動は』せず、『沈黙の中で、日本統治下における彼の作品活動の集大成とも言うべき長編「太白山脈」を執筆』、一九四三年(昭和十八年)に発表、『李朝末期の激動期、火田民と呼ばれる最下層民衆が太白山脈に自由の新天地を求めて戦うというこの作品は、民族主義作家としての金史良が時局の中で選択したギリギリの抵抗の所産であった』。『「太白山脈」は『國民文學』に連載され』、一九四三年十月に完結しているが、『細かなエッセイを別とすれば、彼の日本語による最後の小説作品となった』。『バイリンガルの作家であった金史良の、伝奇的、通俗的な武侠小説の面白さをはらんだこの作品は、しかし、日本語で書かれる積極的な意味を見出すことができないとも言える』。『しかしこの作品以降、海軍見学団の一員として派遣が決定され、時局協力は差し迫ったものとなり、ルポルタージュ「海軍行」から長編小説「海への歌」に至るまで、激しい憤りと絶望感を内に秘めながら「宣伝小説」を書き、統治権力への協力の姿勢を強めていった』。『いずれも朝鮮語で書かれ、植民地朝鮮での御用新聞である朝鮮語版の総督府機関紙「毎日申報」にて連載され』ている。『日本語でならともかく、朝鮮語で国策便乗の親日的な文章を書いてしまったという強い挫折感』から、一九四四年(昭和十九年)に『入ると彼は著作活動を中止し、大同工業専門学校に勤めてドイツ語を教えた』。『この沈黙状態は、中国の抗日地区へ脱出する』一九四五年(昭和二十年)六月頃まで続いている。一九四五年二月のこと、『金史良は國民総力朝鮮聯盟兵士後援部から「在支朝鮮出身学徒兵慰問団」の一員として北京に派遣され』て北京のホテルに投宿したが、『ここで抗日解放区への脱出を模索』、五月二十九日『午前に北京駅から南下する列車に乗り彰徳へ向か』い、三十日夕刻、『順徳駅で下車し工作員に手引きされ、日本軍の封鎖線を突破し、徒歩や人力車で』翌未明『に華北朝鮮独立同盟の連絡地点に到着』、『めざした華北朝鮮独立同盟の本拠地、河南店に近い南庄村に到着したのはおよそ』一か月後のこととされる。『このころの作品として、脱出行から抗日陣営に身を投じるまでの経験を書いた』「駑馬万里」のほか、『「胡蝶」「ドボンイとベベンイ」といった徹底抗戦を呼びかけ』、『文化啓蒙と宣伝を目的とした戯曲を書い』ている。『日本の敗戦後、彼は張家口から熱河省承徳を経て京城に』戻り、一九四六年二月頃には『京城から再び平壌に戻った』。『解放後の新しい朝鮮の社会状況の中で、作家的情熱を作品活動に注いだ』。一九五〇年六月、『朝鮮戦争が』始まると、『北の軍隊に従軍』、『この従軍中に』金史良は『死亡した』。この『ことを日本に知らせたのは』、一九五二年三月二十二日附の中華人民共和国の新聞『光明日報』に掲載された『呉邁による記事で、のちに日本で発行されていた朝鮮語紙「解放新聞」に翻訳、転載された』。『この時期にプサンに近づいた記録「海が見える」と「われらかく勝てり」を執筆し、のちに刊行され』ている。『呉邁の記事によると、金史良は朝鮮人民軍の第一次撤退の』一九五〇年十月『に「生涯を絶った」とある』(『この撤退はアメリカ軍の仁川上陸に対応して行われた』もの)。霜多正次(後注参照)の『聞き書きによれば、撤退の途中、持病の心臓病により』『江原道原州付近で』、『落伍し行方不明になっ』たと推定され、以来、『今日まで消息は不明であ』る。三十六歳であった。彼の作品を私は読んだことがない。梅崎春生より一つ年上。

「保高」保高徳蔵(やすたかとくぞう 明治(一八八九)年~昭和四六(一九七一)年)は小説家。ウィキの「保高徳蔵によれば、『大阪市生まれ、早稲田大学英文科卒業。読売新聞記者、博文館編集者などをへて』、大正一〇(一九二一)年に『「棄てられたお豊」を発表し、正宗白鳥に認められる』。昭和八(一九三三)年、『同人誌『文藝首都』を創刊し、ここから半田義之、金史良、芝木好子、大原富枝、北杜夫、田辺聖子、佐藤愛子、なだいなだ、中上健次、勝目梓、林京子など数多くの作家を輩出した』とある。彼の作品を私は読んだことがない。梅崎春生より二十六歳年上。

「霜多正次」(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年)は小説家。ウィキの「霜多正次によれば、元日本共産党員。『沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後』、昭和一五(一九四〇)年に『応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった』昭和二〇(一九四五)年五月、『オーストラリア軍に投降し、捕虜となる』。『復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら』、『小説を書』き、昭和二五(一九五〇)年に雑誌『新日本文学』に『「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようにな』った。『このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めてい』き、昭和二八(一九五三)年、『初めて沖縄本島に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄本島を直接の題材にした作品を発表し始める』。昭和三一(一九五六)年に『新日本文学』に連載を開始した長編「沖縄島」で『毎日出版文化賞を受賞』、翌年には、『西野・窪田・金たちとリアリズム研究会を結成し、「現実変革の立場にたつリアリズム」を追求した。また、新日本文学会のなかでも幹事を歴任していたが、当時の会をリードしていた武井昭夫たちの文学方法との対立が激しくなり』、昭和三九(一九六四)年の第十一回大会に於いて、『幹事会の報告草案が部分的核実験禁止条約の支持を一方的に表明したり、アヴァンギャルドとリアリズムの統一という特定の創作方法を押しつけるようなものになろうとしたことに反対を表明し、同じく幹事であった江口渙と西野辰吉と共同して、相違点を保留して全体が合意できる一致点にしぼった対案を大会の場で提案しようとした。しかし、大会では対案の提出は認められず、大会の秩序を乱したという理由で、その後新日本文学会を除籍された。これは、新日本文学会と日本共産党との核兵器対策での路線対立も関係しており、日本共産党の意見に沿った霜多等は排除された』。昭和四〇(一九六五)年の『日本民主主義文学同盟創立の際には副議長に選出され、新日本文学会に代わる民主主義文学運動の団体として、運動の発展に貢献した』。昭和四六(一九七一)年には、一九六〇年代の『沖縄の現実を描いた長編』「明けもどろ」で日本共産党が設けていた『多喜二・百合子賞を受賞した。この時期を中心にして、多くの長編小説を書き、沖縄県や日本の現実の矛盾を深く追及する作品を書いた』。昭和五〇(一九七五)年には文学同盟議長に就任(昭和五八(一九八三)年まで)、それを『退任したあとは、主として同人誌『葦牙』に拠って活動し』、昭和六二(一九八七)年には『文学同盟も退会した。その後、日本共産党を除籍され、当時の自らの文学活動を省みる回想記』「ちゅらかさ」を発表している。梅崎春生より二歳年上。私は彼の作品なら幾つかを読んでいる。

「五尺八寸」百七十五センチメートル。なお、梅崎春生も身長は高かった。

「牛込の横寺町」現在の東京都新宿区横寺町(よこてらまち)。

「朝鮮にドブロクがある」朝鮮半島の伝統酒で米を主原料とするアルコール発酵飲料マッコリのこと。アルコール度数は六~八%程度。私も大好物である。]

諸國百物語卷之三 十三 慶長年中いがの國ばけ物の事

     十三 慶長年中(ねんぢゆう)いがの國ばけ物の事

 

 慶長のころ、いがの國さるさぶらひのやしきに、ふしぎなる事あり。暮がたになれば、げんくはんのまへを、うつくしき女、ねりのきぬをかづきあるくこともあり。又、くびなくて、どうばかり、あるく事もあり。ある時は、ひるじぶんに、だい所のやねより、女と大きなる坊主と、けぶりだしより、のぞく事もあり。又、やせをとろへたる女、白きかたびらをきて、かみをさばき、四五人づれにて、おどる事も有り。かやうに、いろいろすさまじき事おゝくして、此屋敷に、すむ人なし。今はさやうの事もなけれども、むかしの事きゝつたへて、人すまずと也。

 

[やぶちゃん注:「慶長」一五九六年から一六一五年まで。慶長二年、「慶長の役」(豊臣秀吉の朝鮮・明連合軍との第二次攻防戦)始まるも、翌年八月十八日(グレゴリオ暦一五九八年九月十八日)の豊臣秀吉の死去により二ヶ月後に撤退。慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)、関ヶ原の戦い。慶長八年二月十二日(一六〇三年三月二十四日)、徳川家康が征夷大将軍に就任し開幕、慶長十年、家康が隠居して秀忠が第二代将軍に就任、慶長二十年五月八日(一六一五年六月四日)、豊臣秀頼と淀殿が自刃して「大坂夏の陣」が終結、豊臣氏滅亡。

「いがの國」伊賀国は旧東海道の一国で、現在の三重県北西部に相当。畿内から東海道への出口として重要視され、古代末期より平氏の勢力下にあって、中世には大内・千葉・仁木(にっき)・畠山・滝川・筒井氏らが領有、江戸幕府になって慶長一三(一六〇八)年に藤堂高虎が伊勢津藩藤堂家初代藩主となった。高虎は浅井氏・阿閉氏・磯野氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏と次々と主君を乗り換えた男であり、私はこの怪異の背景にはそうした奸臣への批判も含まれているのではなかろうかなどと邪推したりもする。

「げんくはんのまへ」「玄關の前」。

「ねりのきぬをかづきあるく」「練(ねり)の衣(きぬ)を被(かづ)き步く」。高貴な婦人などが、異例にお忍びで外出する際、顔を見られぬよう、上等な薄絹の着物を頭から被って歩くさま。

「くびなくて、どうばかり、あるく」「首無くて、胴ばかり、步く」。

「ひるじぶんに」「晝時分に」。

「だい所のやねより」「臺所の屋根より」。

「けぶりだし」「煙(けぶ)り出し」。台所の煮炊きの煙や蒸気を外へ出すための屋根に空けた開閉式の窓。

「のぞく」「覗く」。

「白きかたびら」「白き帷子(かたびら)」。裏を付けていない白い単衣(ひとえ)。

「かみをさばき」「髮を捌き」。髪を結わず、しかもわざと手で捌いて散らし、おどろおどろしく広げ。

「おどる」「踊る」。]

2016/10/12

谷の響 一の卷 七 蚺蛇を燔く

 七 蚺蛇を燔く

 

 文化の末にて有けん、目谷の杉野澤村に源助といへる者あり。これが村の山中に蛇塚といふ地(ところ)ありて、そこにはいと古き杉樹一株(ひともと)あり。源助この杉の樹を伐らんことを官舍(おやくしよ)に願はれしに、御許しを蒙りたればやがて伐るべき用意を爲したるに、一夜(あるよ)この源助の夢に人ありて告げて曰、吾はこの山中に住める山神なり、足下(そこもと)今蛇塚の杉樹を伐らんとす。願はくは、雪の消ゆるまで伐ることを停歇(やめ)られよ。雪消えて吾曹(われら)避ぬる時は、又來りて告げ申すべしと見て覺ぬ。

 源助從來(もとより)不惕(ふてき)ものにしてあれば、この夢を物の屑(かず)ともせず。山神と言へばとて蛇塚の杉樹なれば決定(きはめ)て蛇ならんに、山神などと僞るこそ憎けれ。將々(いでいで)今に其杉を伐取るべしと、急に杣士どもを傭(やと)ひてこの杉樹を伐らしむるに、既に一尺づつも切𢌞しけるが、虛洞(うつろ)と見えて鉞(をの)の匁の應(こた)へも无(かな)りしかば、今や倒れんずらんと觀看(みやり)たれば※2蝓(よろよろ)として仆(たを)れず[やぶちゃん字注:「※2」=「虫」+(「榲」-「木」)。]。杣士共不審(いぶか)しく思ひ不圖(ふと)樹上を向上(みあぐ)れば、三尺餘りも匝(まは)るべき蚺蛇(うははみ)の頭に髮の生(は)ひたるが、枝の上に頭首(かうべ)を架擧(かけ)てありしかば、杣士等懼悸(おそれおのの)き慌忙(あはて)亂走(まとひ)て免脱(にげ)かへり、源助に斯(かく)と語りければ源助冷笑(あざわら)ひ、さてさて言ひかひなき奴共(ものども)よ、山を働く者の左ばかりの蛇を怕れて何事か成るべき、將(いで)己も往きてその蛇を擊殺さんと近邊(あたり)の壯夫(をのこ)共を招きよせ、二十四五人連れ立て杉樹のもとに來て見れば、杉樹は五六尺の先より仆(たを)れ虛(うつろ)は根元より土中に通れりと見ゆるが、その穴の中にその蚺蛇蟠曲(わだかまり)て居たりしに、不敵の壯漢(をのこ)等群(むれ)立てそが四面(あたり)に柴を夥しく積累(つみかさ)ね、頓(やが)てこれに火をかけたるに火勢盛んに燃上りて、半時ばかりの間に蚺蛇は空しく燒死したりき。

 此候(とき)は着更着の中旬(なかば)にしあれば、雪未だ解けもやらで餘寒冽(はげ)しかりし故にや、有繫(さすが)の蚺蛇も動き敢ずして容易(たやす)く燎(やか)れぬ。爾して灼殘(やけのこ)りの骨を攫ひ集むるに三斗あまり有しとなむ。かゝれど此の源助には祟(たゝり)といふものなく天然を終へたりしが、その女は火傷して五體を毀(そこ)ね、嗣子(せがれ)は腰を煩ひて起つことあらざりしか間(ほど)なく死失せけるとなり。土人(ところのもの)この二個(ふたり)の有樣を見て、かの蚺蛇の祟なるべしと言ひあへりしとなり。【蟒を燒殺せる事板柳村にもあり。そは次々にあぐべし。】

 

[やぶちゃん注:「蚺蛇」は「うはばみ」(蟒蛇)。

「燔く」「やく」(焼く)或いは「たく」(焚く)であるが、本文から見て「やく」の訓でよかろう。

「文化の末」文化は一八〇四年から一八一八年までで、第十一代徳川家斉の治世。

「目谷の杉野澤村」底本の森山泰太郎氏の補註には『東目屋杉野沢(すぎのさわ)』とあるが、現在の弘前市目屋地区にはそれらしい地名が見当たらない。寧ろ、その地区の西に接する青森県中津軽郡西目屋村に杉ケ沢という地名がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、この附近か?

「杉樹」「すぎのき」。

「山神」「やまのかみ」と訓じておく。「山の神」は「諸國百物語卷之三 八 奧嶋檢校山の神のかけにて官にのぼりし事」の私の注を参照されたい。ここで源助が後で騙りとして怒るのは、所謂、豊饒を齎す「田の神」=「山の神」が、蛇の変化(へんげ)如き禍々しいものであるはずがない、という思いからである。私はこの源助の義憤に同調するものである。

「吾曹(われら)」「曹」には仲間・一族の意があるから複数形のルビは、これ、すこぶるピンくる。

「避ぬる」「のきぬる」或いは「たちのきぬる」と訓じているか。

「覺ぬ」「さめぬ」(醒めぬ)。

「不惕(ふてき)もの」「惕」には「恐れる」の意味があるから、「(大胆)不敵(なる)者」(恐れを知らぬ者)の謂いである。

「屑(かず)」洒落たルビではないか。

「將々(いでいで)」「さあさあ!」。自分が行動を起こすときに発する感動詞。

「伐取る」「きりとる」。

「杣士」先行する「四 河媼」の例(ためし)から「そまこ」と当て読みしておく。樵(きこり)。

「一尺づつも切𢌞しけるが、虛洞(うつろ)と見えて鉞(をの)の匁の應(こた)へも无(かな)りしかば、今や倒れんずらんと觀看(みやり)たれば」周囲を深さ三十センチほども斧で伐り回したところが、中が空洞になっているものとみえて、斧の刃(は)の手応えが全くないので、『これ以上、斧を揮わずとも、今に自然と倒れてしまうに違いあるまい』と、皆々、手を休めて傍観していたところ。

「※2蝓(よろよろ)として仆(たを)れず」(「※2」=「虫」+(「榲」-「木」)如何にも力なくぎにゃりと撓んではいるものの、一向に倒れる気配が、これ、ない。

「三尺餘りも匝(まは)るべき」(頭周りが)九十一センチもあろうかという。

「架擧(かけ)て」二字へのルビ。

「亂走(まとひ)て」読みはママ。「惑ひて」。

「免脱(にげ)かへり」二字へのルビ。

「言ひかひなき」「言ふ甲斐無し」である。情けない。ふがいない。つまらねえ。

「左ばかりの」「さばかりの」。その程度の。

「怕れて」「おそれて」。

「己」「われ」と訓じておく。

「擊殺さん」「うちころさん」。

「五六尺」約一・五~一・八メートル。

「蟠曲(わだかまり)て」二字へのルビ。

「燃上りて」「もえあがりて」。

「半時」約一時間。

「燒死したりき」「やけじにしたりき」と訓じておく。

「此候(とき)」「このとき」。

「着更着」「きさらぎ」で「如月」。陰暦二月の異名のそれは、その頃は寒さが厳しく、着物を更に重ねて着ることから、「着更着(きさらぎ)」とする説が有力とされるが、他にも、気候が陽気になる季節で「気更来(きさらぎ)」、草木が萌え出で始める月で「生更木(きさらぎ)」とする説、やや似た、草木の芽が張り出す月で「草木張り月(くさきはりづき)」が転じたとする説がある。私は「生更木(きさらぎ)」説を支持するものである。

「動き敢ずして」「うごきあへずして」。這い動いて逃げることが上手く出来なかったがために。

「攫ひ」「ひろひ」(拾ひ)。

「三斗」三十升。約五十四リットル。

「天然を終へたりしが」天寿を全うしたは。

「その女」「そのむすめ」。

「嗣子(せがれ)は腰を煩ひて起つことあらざりしか間(ほど)なく死失せけるとなり」「しか」は「しが」に読み換える。後に、息子の方は腰を患って立つことも出来ないほどの障碍を持つに至ったが、程なくして死んでしまったという。

「蟒を燒殺せる事板柳村にもあり。そは次々にあぐべし」「蟒(うわばみ)を焼き殺したといったような事例は板柳村でもあった。そうした類(たぐ)いの話は追々、この後に掲げることとしよう。」の意であろう。「板柳村」後に複数出る村名で、森山氏のそれらへの註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、なぜ「そうした類いの話」と訳したかというと、この後には管見した限りでは板柳村で蟒蛇(大蛇)を焼き殺した類似例の提示は行われていないようだからである(あれば、この最後の一文は除去する)。]

今朝の夢

今朝の夢――
 
僕は母や二人の教え子(男性)とタイを訪れている(実際の私の亡き母は遂に外国に行ったことはなかった)。 
僕と母はホテルの理容室で髪をカットして貰っている。
母が髪を洗いに部屋を出た。
僕をカットしていた青年はそこで仕上げに入って、私の頭を金色――あちらのあの派手な仏像のあのキンキンの色――に染め上げてしまう。
おまけに僕の顔にも褐色の強いファンデーションを万遍なく塗った。
髪を洗った母が戻ってくるが、僕を見ても私と気づかず、私をしきりに探している。正面の大きな鏡の中にある自分の顔を見ると、僕は髪を当たっていた現地の青年と同じ顔になっているのであった…………
 
僕は母とホテルの僕ら以外誰もいないレストランにいる(この時、母は別人になってしまった僕を「僕」として既に認識している)。他に客はいない。
そこに一緒に旅している二人の教え子が食事にやってきて、僕と母のいるテーブルに座るが、僕の顔を見て、怪訝そうな顔をする。
母は悪戯っぽく笑って、一緒のテーブルに座ったまま、黙っている。
 
「エゴイメ」
 
と僕は言う(ギリシャ語で「私だ」の意。テオ・アンゲロプロス監督の「シテール島への船出」の印象的な台詞である)。
しかし、二人の教え子は『何言ってんだ』という顔をして、がらんとしたレストランの中を見回しては――「僕」――を頻りに探している……母は……やっぱり黙っている……少女のような、悪戯っぽい笑みを浮かべて…………
 

 
僕は実はこの夢の僕にとって極めて切実な意味を完全に解読出来た。
しかしそれは、これを読む諸君には退屈極まりない片々たる事実に過ぎない。従って謎解きは示さない。
 
しかし僕はこの夢を見ている最中にその解明を共時的に脳が行っていたことに気づいて、何か、ひどく不思議な気がした、とだけ言い添えておこう。

谷の響 一の卷 六 龍尾

 六 龍尾

 

 天明の末の年間(ころ)、大間越の者四五個(しごにん)してそれが山中に樹を伐りて有けるが、大きなる槻樹(つきのき)の兩岐(ふたまた)に分れたる處に、蟒蛇(うはゞみ)の如きもの係れり。死したるものと覺しく嗅(くさ)き氣(にほひ)もするなれど、最(いと)希(めずら)しきものなればとて樹より搔き落して視るに、骸(むくろ)の半(なかば)より擘斷(ちぎれ)たるものにして、長三間許りに徑(わたり)二尺も有るべきか。尾の方稍(しだい)に窄狹(ほそ)りて、その端に二尺に一尺ばかりまでの刺骨(とげ)を列ねて背甲(せすじ)に蔓(わた)り、鱗(うろこ)嚴(いかめ)しく累布(かさな)りてその端不殘(みな)刺(とげ)を並列(なら)べ、宛然(さながら)繪にかける龍の如くいと恐しげなるものなれば、又世にきかざるものなればと、當時(そのとき)の知縣主(ちぎやう)高瀨某甲(なにがし)なる人に訴へしに、必然(さだめし)頭もあるべしとて、町同心を先立て遍く山中を索(たづぬ)れど、さるものもあらで停(やみ)ぬ。

 この龍(もの)死して久しくありしと見え、皮肉壞腐(くさり)て氣(にほひ)いと惡嗅(わるくさ)ければ、壙(あな)を掘りて埋めしとなり。こはこの高瀨氏の話せるとて千葉某の語りしとなり。

 

[やぶちゃん注:底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡岩崎村大間越(おおまごし)。日本海』側の『海岸の青森・秋田県境の部落。慶長八年』(一六〇三年)『以前は秋田藩領であったが、のち津軽藩領となる。藩境を守るために町奉行所がおかれていた』とある。現在は西津軽郡深浦町(ふかうらまち)大間越。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「天明」一七八一年から一七八九年。天明六(一七八六)年に第十代将軍徳川家治が没しているから、第十一代徳川家斉の治世のとなる前後か。

「槻樹(つきのき)」バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata

「長三間許り」千切れたその下半身の長さは凡そ五メートル四十五センチ強。

「徑(わたり)二尺」残った胴体部の最も太い箇所で直径六十センチ強。確かに蟒蛇級である。

「尾の方稍(しだい)に」「尾の方(かた)、次第に」。

「窄狹(ほそ)りて」二字へのルビ。

「その端に二尺に一尺ばかりまでの刺骨(とげ)を列ねて背甲(せすじ)に蔓(わた)り」その尾の末端に三十から六十センチに達する細い棘状の骨がびっしりと列を成して生えており、それが背の筋まで達していて。

「累布(かさな)りて」二字へのルビ。

「その端不殘(みな)刺(とげ)を並列(なら)べ」密に重なった鱗もその端の部分に皆、棘が並んでおり。

「龍」後で「龍(もの)」とルビを振るが、ここは素直に「りゆう(りゅう)」と読んでよかろう。

「知縣主(ぶぎやう)」「奉行」。先の森山氏の註にある、藩境警備のために置かれた奉行所の長官。

「某甲(なにがし)」二字へのルビ。

「町同心」「町奉行」とか「町同心」というのは一般には幕府での呼称乍ら、藩直属の足軽階級の正式名称を「同心」と呼んでいた藩も少なくなったとウィキの「同心」にはある。

「遍く」「あまねく」。山中を索(たづぬ))れど、さるものもあらで停(やみ)ぬ。

「壞腐(くさり)て」二字へのルビ。

「埋めし」「うづめし」。となり。

「こはこの高瀨氏の話せるとて千葉某の語りしとなり」伝聞の伝聞であるから、胡散臭い噂話の特徴の一つではある。しかし、損壊した半分で全体像が不明、腐敗が進んでいたので、埋めてしまったというのは、如何にも現代の未確認生物の事例を先取りする話柄ではないか。]

野間 宏   梅崎春生

 

 昨年木下順二が家を建てた時、ずいぶんかざりっ気のない無趣味な家を建てたんだってね、と私が言うと、木下はちょっと考えて、うん、無趣味だけれども野間君の家よりもかざりっ気があるよ、と返事した。

 そのかざりっ気のない野間邸に、私は昨日初めて訪問したのだが、なるほどあの家には全くかざりがない。実にさっぱりとして、剛直な感じがするくらいだ。そして家の機能だけは完全にフルに果たしているところが、いかにも野間式らしく、私は感服した。男の中の男という言葉があるが、これはある意味において、家の中の家である。

 家はこのようにして剛直だが、現在この家の主の健康はあまり剛直ではないようだ。

 私が野間君と初めて顔を合わせたのは、九年ほど前になるが、あの頃彼は筋肉質な身体で、むしろほっそりとしていた。ところが今ではずいぶん肥って、むくんでいるようにさえ見える。同じくあの頃ほっそりしていた椎名麟三、中村真一郎の両君もいつの間にか現今はすっかり肥り、肥らないのは私だけのような感じがして淋しい。肥った人と対座すると、私は何だか圧倒されるような気がするのだ。

 野間君は本や紙筆を出して、自分の病気を説明してくれた。現今彼をなやましているのほ、胆石であり、胆囊(たんのう)炎であり、肝臓肥大である。私も時々肝臓を悪くするから知っているが、この病気は身体がだるく、何もしたくない、何をする意欲も出ない、という特徴を持っている。それに胆石、胆囊炎が加わっては、これはたいへんなことだろうと私は同情し、そしてそういう状態で「地の翼」のような大きな作品を、着々と書き続けて行くことに、すっかり感服した。並たいていな精神力ではやれることでなかろう。

 「地の翼」は目下連載中だから論評出来ないけれども、この大作の筆致には、ゆるぎないものを摑(つか)んだという強い自信のようなものが感じられる。全部で七百枚ぐらいの予定で、一週間の間の事件を取り扱うつもりだとのことで、これが完結すると今度は「時計の眼」を書きつづけたいと彼は言う。ここしばらく沈黙していたのは、上述の病気のせいであるが、近頃は摂生によって徐々になおりつつある方向にむかい、目方もひところより一貫目減少した(と言ってもまだまだ肥っているが)というから、ようやく仕事のめどがついて来たのだろう。

 ビールを御馳走になり(彼もー緒に飲んだが、ビールは肝臓によくないのではないか)ゆるやかな坂道を表通りまで送ってくれる時、今度は量的に仕事をして行きたい、と彼は私に語った。これは皆が待ち望むことであるし、期待することでもある。早く健康を回復していい仕事をして貫いたいと、その時口には出さなかったけれども私はそう思い、今でも思っている。

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十二月号『文芸』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「野間 宏」野間宏(大正四(一九一五)年~平成三(一九九一)年)は梅崎春生にとって第一次戦後派の文学的戦友である。私は実質上の文壇デビュー作である「暗い絵」(昭和二一(一九四六)年『黄蜂』)を一番に薦す。春生と同年。

「木下順二」(大正三(一九一四)年~平成一八(二〇〇六)年)は春生より一つ年下であるが、熊本五高三年次を春生が落第したために春生と同級になっており、それ以来であるから、つき合いとしては長い。

「地の翼」は上巻が昭和三一(一九五六)年に河出書房より刊行されたが、書き継がれることなく未完に終わった。私は未読。

「時計の眼」昭和三二(一九五七)年以前の作品であるが、不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國百物語卷之三 十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事

    十一はりまの國池田三左衞門殿わづらひの事

Himejijyou

 はりまを御取りなさるゝ池田三左衞門どの、御わづらひ、すでに大事におよぶとき、ゑい山よりあじやりをしやうじ、天守にて、いろいろのきとう、七日七夜なさるゝとき、七日めの夜半のころ、とし卅ばかりなる女、うすげしやうをして、ねりのきぬをかづき、あじやりにむかつて、

「なにとてさやうに、かぢし給ふぞ。とてもかなわぬ事也。はやはや、やめ給へ」

と云ひて、護摩のだんへあがり、あじやりをにらみて、たちゐければ、あじやり、もとよりたつとき僧にて、

「なに物なれば、女人のかたちにて、それがしにむかつて、ことばをかわす」

と、いろいろもんどうしければ、そのとき、かの女、にわかに、たけ二丈ばかりの鬼神(きじん)となりてみせければ、あじやり、そばなる劍をぬきもつて、すでにつかんとし給へば、かの鬼神、いひけるは、

「われは此くにゝかくれなき、ごんげんなり」

とて、あじやりを、けころし、かきけすやうに、うせ給ふと也。池田の家の侍しう、かたり侍る。

 

[やぶちゃん注:舞台は最大最強の心霊スポットたる姫路城天守閣である。ウィキの「姫路城」の、「伝承」パートだけでもそれは知れる。以下に引いておく。「刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)」の項。『姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られている他に、旧中曲輪の長壁神社や播磨国総社にも祀られている。輝政の時代には城内の八天堂に祀られていた』(ここに『姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪』で『様々な伝説がある』「長壁姫(おさかべひめ)」の項があるが、その詳細解説は別ソースから引き、最後に回す)。「開かずの間」の項。大天守三階から四階へと『続く階段の下にある小部屋』。『本来は倉庫として使われていた可能性が高い』。「にの門の十字紋瓦」の項。『にの門の破風の上には十字架を描いた瓦があり、羽柴秀吉築城時にキリシタンであった黒田孝高を評価して作らせたものであるとされている』。「姥が石(うばがいし)」の項。『羽柴秀吉が姫山に』三層の『天守を築城の折、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。石垣は孕み(脹らみ)や、これが悪化して崩落する事が恐れられているため、「姥=老女=孕まない(妊娠しない)」事にかけた言い伝え。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られるが、この石垣は秀吉時代に構築されたものではない。他にも古代の石棺を石垣として使用している』。「棟梁源兵衛の自害」の項。『築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。この事に責任を感じた棟梁の源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。しかし史実にはそのような記述はなく、清水門そばにある石碑は源兵衛の墓だと伝わっていたが、この石碑は寛永元年に本多忠政が船場川を改修した際に建立された船場川改修の碑である。城が東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことで「昭和の大修理」では実際に城が傾いていることが確認された。原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであった』。御存知、「播州皿屋敷」の項。『浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る』。最後に天守に巣食う最強の女怪「長壁姫」について、ウィキの「長壁姫」によれば、『姫路城に隠れ住むといわれる女性の妖怪である。小刑部姫、刑部姫、小坂部姫とも』書く。『姫路城の天守に隠れ住んでおり、年に』一度だけ『城主と会い、城の運命を告げていたと言う。松浦静山の随筆『甲子夜話』によれば、長壁姫がこのように隠れ住んでいるのは人間を嫌っているためとあり』[やぶちゃん注:「甲子夜話卷之三十」に載る「姫路城中ヲサカベの事」。]、本「諸国百物語」によれば、『天主閣で播磨姫路藩初代藩主池田三左衛門輝政の病気平癒のため、加持祈禱をしていた比叡山の阿闍梨の前に、三十歳ほどの妖しい女が現われ、退散を命じた。逆に阿闍梨が叱咤するや、身の丈』二丈(約六メートル)『もの鬼神に変じ、阿闍梨を蹴り殺して消えたという』この最後の部分はウィキの記述が本原典に忠実でなかったため、私が以上のように書きなおしたものである。言っておくと、私はウィキの投稿(記事修正)も行っている。また、ある伝承では名剣士『宮本武蔵は若いころ、足軽の「滝本又三郎」として木下家定時代の姫路城に奉公していたと』し、『ある夜、天守に住む妖怪退治を命じられた武蔵は灯りを手に上り、妖怪を追い払った。天守最上階では刑部明神が姫の姿で現れ、武蔵に妖怪退治の礼として銘刀・郷義弘を授けたと』も伝えるが、これは後述する「老媼茶話(ろうおうさわ)」を『もとにした話ともいわれる』。『長壁姫の正体は一般には老いたキツネとされるが』、『井上内親王』(聖武天皇第一皇女)『が息子である他戸親王との間に産んだ不義の子』、『伏見天皇が寵愛した女房の霊』、『姫路城のある姫山の神などの説もある』。『姫路城が建つ姫山には「刑部(おさかべ)大神」などの神社があった(豊臣秀吉は築城にあたり刑部大神の社を町外れに移した)。この神社が「おさかべ」の名の由来である。ただし初期の伝説や創作では、「城ばけ物」』(本「諸國百物語」等)などと呼ばれ ており、『名は定まっていなかった』。『この社の祭神が具体的に誰であったかは諸説あり不明だが、やがて、城の神であり、城主の行いによっては祟ると考えられた。これに関しては次のような事件がある。関ヶ原の戦い後に新城主となった池田輝政は城を大規模に改修したのだが』、慶長一三(一六〇八)年に新天守閣が完成する頃になると、さまざまな怪異が起こり、その三年後には遂に『輝政が病に臥してしまった。これが刑部大神の祟りだという噂が流れたため、池田家は城内に刑部神社を建立し刑部大神を遷座した』とある。『この刑部明神が多くの誤伝を生み、稲荷神と習合するなどして、天守閣に住むキツネの妖怪という伝承が生まれたとする説もある』。民俗学研究所編「綜合日本民俗語彙」では、『姫路から備前にかけての地域ではヘビがサカフと呼ばれることから、長壁姫を蛇神とする説が唱えられている』。「老媼茶話」(三坂春編(みさかはるよし)の奇譚集。寛保二(一七四二)年序)では『猪苗代城の妖姫「亀姫」の姉とされ、泉鏡花の戯曲』「天守物語」でもその設定を採用している。本「諸國百物語」等を見ても、どうも『性別もはっきり決まっていなかった(男女含むさまざまな姿で現れた)が、やがて女性と考えられるようになった。これには「姫路」からの連想があったと考えられる』。『前橋市での伝承では』、寛延二(一七四九)年に『姫路藩より前橋藩へ転封した松平朝矩は、姫路城から長壁神社を奉遷し、前橋城の守護神とすべく』。『城内未申の方角(裏鬼門)に建立した。大水害で城が破壊され川越城への移転が決まったところ、朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、川越へ神社も移転するように願ったという。しかし朝矩は、水害から城を守れなかったと長壁姫を詰問し、長壁神社をそのままに川越へ移った。その直後に朝矩が若死にしたのは長壁姫の祟りといわれる。前橋では現在、前橋東照宮に長壁姫が合祀されている』とある。鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」では『「長壁(おさかべ)」とされ、コウモリを従えた老姫の姿で描かれている。一方で』、前掲の「老媼茶話」では『十二単を着た気高い女性とされ、小姓の森田図書が肝試しで天守閣に駆け登ったところで長壁姫と出会い、「何をしに来た」と訊ねられて「肝試しです」と答えると、その度胸と率直さに感心した長壁姫は肝試しの証拠品として錣(しころ:兜につけて首元を守る防具)をくれたという』。井原西鶴の「西鶴諸国ばなし」では、長壁姫は八百匹もの『眷属を操り、自在に人の心を読みすかし、人の心をもてあそんだと、妖怪として人間離れした記述が為されている』。北尾政美による黄表紙「夭怪着到牒」(ばけものちゃくとうちょう:天明八(一七八八)年板行)にも『「刑部姫」の表記で登場しており、同書では刑部姫の顔を見た者は即座に命を失うとある』とある。挿絵の右キャプションは「はりまの國池田わつらひの事」。本挿絵は周囲の枠を恣意的に除去し、汚損を含む一部の外縁(左下の雲形の一部)を恣意的に除去し清拭した。今までもそうした箇所があるが、今回は、刑部姫に敬意を示す(ウィキの記載訂正もその意向に従った仕儀である)とともに、真に百物語の怪異を、この私の電子化注に呼び込まんとする確信犯の仕儀でもある、と述べておこう。

「はりまを御取りなさるゝ」播磨国一国を領地として知行なさっておられる。

「池田三左衞門」「姫路宰相」と称された播磨姫路藩初代藩主池田輝政(永禄七(一五六五)年~慶長十八年一月二十五日(一六一三年三月十六日))。「三左衞門」は通称。ウィキの「池田輝政」によれば、姫路城で急死するが、『死因は中風(『駿府記』)、また好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)も遠因とされる(『当代記』)』。享年五十。『輝政の死は秀吉の呪いとも噂された』とある。

「ゑい山」比叡山。歴史的仮名遣は誤り。

「あじやり」「阿闍梨」。梵語「ācārya」の音写である「阿闍梨耶(あじゃりや)」の略。「教授・軌範・正行」などと訳す。弟子たちの模範となる高僧の敬称であるが、特に密教に於いて、修行を完遂し、伝法灌頂(でんぽうかんじょう:密教を修行した優れた行者にこの「阿闍梨」の位(称号)を許すために行う灌頂。密教灌頂の中で最も重要な秘儀とされる「伝教灌頂」「授職灌頂」とも呼ぶ)を受けた僧及び伝法灌頂の職位を受けた天台・真言の僧のことを指し、ここはただの徳の高い偉い僧なんぞでは、後が「もとより、たつとき僧」の屋上屋で面白くも糞くもない。断じて、後者でとるべきであると私は思う。

「しやうじ」「招じ」。

「きとう」「祈禱(きたう)」。歴史的仮名遣は誤り。

「なさるゝとき」「成さるる時」。休みなく修法(ずほう)した、その最後の七日目の夜の折り。

「うすげしやう」「薄化粧」。

「ねりのきぬをかづき」「練(ねり)の衣(きぬ)を被(かづ)き」。練り絹で織った上等の薄い着物を被(かぶ)って。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。密教の修法。祭壇や護摩壇を設置し、護摩を焚き、真言陀羅尼などを誦して印を結ぶこと。神仏の加護を求める行法を修して病気平癒や災禍の除去・悪霊調伏などの現世利益を祈ることを指す。

「かなわぬ」「叶(かな)はぬ」。歴史的仮名遣は誤り。

「なに物なれば女人のかたちにて、それがしにむかつて、ことばをかわす」変生男子(へんじょうなんし)説に基づき、仏教では女性としての存在そのものが仏法や悟りの障りと理解されたことに基づく、今から見れば甚だしい女性差別に基づく侮蔑の語である。いや、寧ろ、ここにはこの阿闍梨の無意識の女犯(にょぼん)の内実が滲み出てしまっていると読むべきであろう。だからこそ、この阿呆阿闍梨、簡単に蹴り殺されてしまうのだと私は大真面目に思っているのである。

「もんどう」「問答(もんだふ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「つかん」「突かん」。

「ごんげん」「權現」。一般には、仏教に於いて、仏が衆生を救うために神や人などの仮の姿を以ってこの世に顕われること、或いは、実体化することを指し、狭義には、仏教側からの本地垂迹説に基づき、仏が衆生を救うため、神道の神々の姿をとって現れたとする考え方に基づくものを指すことが多い(神道側からの神が仏と成って仮に現われたとする逆本地垂迹説は、ずっと後の言説である)。姫路城の「權現」となれば、やはり先に出た、刑部明神で、ウィキの「長壁神社」によれば、現在の兵庫県姫路市立町及び平目地場内に二社併存する長壁(おさかべ)神社、『刑部親王(光仁天皇の皇子)を主祭神に親王の王女という富姫を配祀する』とするそれを指す。刑部親王は藤原百川の讒言によりその地位を追われると、親王の王女であるという富姫も幼い頃より住んでいた姫山の地で薨去。国司の角野氏がこの』二人を『守護神として姫山に祀って以来、代々の国司や守護職からの厚い保護と庶民からも厚い尊敬を受けた』。天正八(一五八〇)年頃に『羽柴秀吉が姫路城の改築を始めると、縄張り内に位置するために城下に移された後』、『播磨国総社である射楯兵主神社の境内に摂社として祀られたが、江戸時代になって』、『池田輝政が姫路城に入城した際に輝政が病に倒れると、当神社を移祠した祟りであろうと噂され、城内へ戻されて八天堂として再建立された』。寛永一六(一六三九)年に『藩主が松平氏に変わると再度城下へ移され、慶安二(一六四九)年に『榊原氏に変わると』、『城内の社殿を再建し、城内と総社境内の二社併存とな』ったとある。

「侍しう」「侍衆」。「衆」の歴史的仮名遣は「しゆう」「しゆ」が本来は正しい。]

2016/10/11

甲子夜話卷之二 23 寇萊公、崖州竹の事

2―23 寇萊公、崖州竹の事

前人又云ふ。寇萊公、崖州竹の事、不思議なることのやうなれども、あるべきことゝ思はるゝは、一年の夏、眞珠蘭の盆土に小竹幹を插して、其柔條を助しに、やがて竹幹より葉出で、日に隨て繁り行く。その冬に至り枯れたり。拔て見れば少し計根を生じて有けり。枝先の細き所の根を生ずべき理なし。いかなることにや。又庭中の櫻の木の枯れたりしを伐りて、餘木の倒れかゝれるを助くる杭に打しが、翌年その櫻木花を開き葉を生ず。夏月は枯るべしと思しに、遂に生長して今に年々花葉とも榮ゆ。但しさまでには生長せず。いつも同じ樣にてあり。又或人の家にて、門松を取除けたる跡に、松枝を插したりしが、根を生ぜりと云。奇なることもあるものなり。

■やぶちゃんの呟き

「寇萊公」「こうらいこう」。北宋の大臣で厳格な忠臣として知られる寇準(こうじゅん 九六一年~一〇二三年)。ウィキの「寇準より引く。『字は平仲。諡は忠愍。萊公』(らいこう)『と敬称される』(封侯された地名「萊」由来)。華州下邽(陝西省渭南市)の人。『性格は剛直で知られ、『宋名臣言行録』には「寇準上殿、百僚股栗」(寇準が御殿に登ると部下共はふるえあがる)という話が出ているほどである』。九八〇年に『進士に及第。同年の進士に王旦・向敏中・蘇易簡・張咏・晁迥・謝泌・馬亮など北宋初期の名臣と称される者が多い』。九九四年には『参知政事となり、真宗の即位後は工部、刑部、兵部で職を歴任』、一〇〇四年には『同中書門下平章事(宰相)の職に就く。同年冬、契丹が聖宗の親征により軍を南下させ河北の瀛洲などを包囲し、北宋の朝廷は狼狽し』、『王欽若らが南遷を主張する中、寇準は真宗の親征を主張し、親征が実現。澶州で戦線は膠着状態』となり、澶淵(せんえん)の盟(北宋と遼の間で結ばれた盟約。国境の現状維持・不戦・宋が遼を「弟」とすること、宋から遼に対して年間絹二十万疋・銀十万両を送ることなどが決められた)が結ばれる。一〇〇五年に『中書侍朗と工部尚書を兼任』したが、翌年に『王欽若の讒言により罷免され』、一〇一七年に宰相に復職したものの、詐年後にはまたしても『丁謂・銭惟演らの讒言により宰相を追われ、雷州司戸参軍に左遷され、任地で没した』。死後十七年経った一〇三四年に名誉回復されている、とある。

「崖州竹」単子葉植物綱イネ科タケ亜科ホウライチク属ホウライチク変種崖州竹 Bambusa textilis var. gracilis。崖州は現在の海南省三亜(さんあ)市に相当する古くからの広域旧地名。

「前人」前話「狂言の大名を堀田參政評判せる事」の話者である林家第八代林述斎。従って、本話柄はニュース・ソースの明記から、前の話と同時期の聴き取りの可能性が極めて高いことが判る。

「崖州竹の事、不思議なることのやうなれども、あるべきことゝ思はるゝ」寇準についてのサイト(邦文)に(改行で書かれてある引用元を( )で文の後に配し、注記号を除去した)。

   《引用開始》

公が雷州で死ぬと、朝廷は洛陽への帰葬を許した。道すがら公安を過ぎると、民が出迎え、公の喪に哭し、竹を斬って地に植え、紙銭を燃やした。後々、筍が生えて竹林となった。地元ではこれを相公竹とよんだ。こういうことがあって、竹林のそばに公の廟を立て、たいそう丁重に祭ることになった。劉貢父と王楽道の二人は、各々この逸話を文字に書き写し、石に刻んだ。(『麈史』及び『名臣伝』より)

〔異説〕

公は左遷先の雷州に赴く途中、道すがら公安に立ち寄った。竹を斬って神祠の前に指し、祝辞を述べて言うならく、「私の心、もし朝廷に背くことあらば、この竹は必ずや死なん。もし朝廷に背かずんば、この枯竹はまた生き返らん」と。はたして竹は生き返った。(『東軒筆録』より)

   《引用終了》

とあるのを指すか。雷州は現在の広東省雷州市で、竹の産地らしき崖州とは近い。

「一年の夏」。ある年の夏のこと。以下は林の実体験を語る。

「眞珠蘭」これは金栗蘭、モクレン亜綱コショウ目センリョウ科チャラン属チャランChloranthus spicatus のことではなかろうか? 中国南部原産で、本邦へは江戸時代に渡来、高さ三十~六十センチほどになり、葉は厚紙質の楕円状倒卵形で対生する。春に穂状花序を出し、芳香のある淡黄色の花を咲かせる。和名は葉が茶の木の似ていることに由来する。参照した植物図鑑に画像がある。

「盆土」盆栽の土。

「小竹幹」両端を切除した短い竹の幹の加工した小片。

「其柔條」その真珠蘭の撓んでいる草体。

「助しに」「たすけしに」。支えとして添えたところが。

「拔て」「ぬきて」。

「計」「ばかり」。

「枝先の細き所の根を生ずべき理なし」「理」は「ことわり」。林先生、これは別におかしなおことでも何でもない。そんなことを言ったら、挿し木は、これ、みんな、理不尽な現象ということになりますぜ? 林先生、名前の割りに植物学は苦手でござんしたか?

「餘木」「よぎ」か。他の灌木の謂いか。

「杭に打しが」「くひにうちしが」。支えの杭として斜めに添えて地面に打ちこんだところが。

「花葉」「はな・は」

「取除けたる」「とりのけたる」。

譚海 卷之一 下野飯沼弘敎寺狸宗因が事

下野飯沼弘教寺狸宗因が事

○下野飯沼弘敎(ぐきやう)寺の後(うしろ)の山に、狸宗固が墓と云(いふ)物あり。此は往年古だぬき其寺の僧に化(ばけ)て年久しくあり。寺の納所(なつしよ)などを預謹愼につとめて、住持の替る度每(たびごと)にも寺の事しりの僧にて居けり。ある日ひるねせしとき狸のかたちをあらはし、住持に見顯(みあら)はされて人間にあらざる事を知りたれども、年久しく有(あり)て事になれ用事を辨じければ給仕させけるが、死(しに)たる後(のち)葬(はうむり)たる墓なりといへり。住持の望(のぞみ)に依(より)て彌陀の來迎の體(てい)を現(あらは)しみせけることを、いひつとふれども是(ここ)に贅せず。

 

[やぶちゃん注:「狸宗因」「狸宗固」の相違はママ。知る限りでは、「そうこたぬき(宗固狸)」で「固」が正しい。ウィキの「化け狸」でもそうなっているし、諸氏の妖怪データベースでは、ここの化け狸の名は概ね「宗固」であり、少なくとも俳人めいた「宗因」などという名は知らぬ。しかし、この「宗固」という僧名にもかなり疑問がある(次注参照)。

「下野飯沼弘敎寺」底本の竹内利美氏の注に『茨城県結城郡飯沼郷の弘経寺。応永年間開創の浄土宗の大寺』とある。これは現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)のことである。但し、「弘経寺」公式サイト内のこちらを見ると、「来迎杉と化僧・宗雲」の項に以上の見出し(化僧の名を「宗雲」とする)を附しながら、本文ではその狢(むじな)の化けた僧の名を一貫して「宗運」と記してあるのが不審である(そこには本伝承と酷似する「来迎杉」、化け狸(狢)自らが彫ったとされる面の写真も見られる)。ところが、さらに調べると、「板橋区」公式サイト内の第九回櫻井徳太郎賞佳作受賞の論文「2つの宗運伝説を追う―水海道弘経寺に伝わる話の変容を調べる―」(茨城県立伊奈高等学校歴史研究部根日屋文絵・高野紗衣・谷口裕亮・吉原茜共著。1・2・3に分かれる)でも一貫して「宗運」とあるから、この化け狸(狢)の僧名は「宗運」が伝承上は正しいものと私には思われる。ただ、現行の同寺公式サイトにはその墓と称するものは記載がなく、同寺の末寺であった小貝川下流の浄円寺(茨城県つくばみらい市狸淵)に、その宗運に化けた狢の流れ着いた溺死体(杉の上で来迎を演出し、そこで雷に打たれて小貝川に落ちて死んだとする伝承は、これ、私にはすこぶる哀しいものである)を葬った墓がある(上記論文の「1」にその写真がある)。

「納所(なつしよ)」狭義には禅宗寺院に於いて金銭や米穀などの出納を行う所或いはその係の僧を指したが、後には寺院一般で雑務を行う下級の僧やその職務全般を指すようになった。

「謹愼」言動謙虚にして慎み深いこと。

「寺の事しりの僧にて居けり」寺の「事知り」の僧として住もうておった。

「見顯(みあら)はされて」正体を知られて。

「事になれ」「事に馴れ」寺務を頗る習熟し。

「用事を辨じければ」あるとある寺務実務を何事も十二分に務めたので。

「いひつとふれども」「言ひつ、と、振れども」か。「と言われてきた、と、今にその話を伝えてはいるけれども」。

「是に贅せず」必要なこと以外、私の意見などを差し挟むのはやめておく。]

私の創作体験   梅崎春生

 

「創作体験」と題したが、実のところ、何を書けばいいのか、何を書きたいのか、はっきり判らない。作品は作品だけ出すもので、その体験を語るのは、蛇足のような気がする。蛇足を通り過ぎて、マイナスにもなりかねない。出来るだけマイナスにならないように、手探りで、創作体験の内側からでなく、外側から書いて見ようと思う。やはり個々の作品に即した方が書き易いから、まず「日の果て」について。「日の果て」をえらんだのは、外的な状況において、これが私の作品中もっとも有為転変に富んでいるからだ。

 昭和二一年九月、「素直」という季刊誌が発行され、それに私の「桜島」という作品が掲載された。

 その翌月に、「新生」という雑誌から、小説を書けと言ってきた。

「新生」というのは、終戦後まっさきに発行された綜合雑誌で、二年ぐらいで潰れたけれども、当時はたいへんな勢いで、派手な雑誌であった。「中央公論」や「改造」はまだ復刊されていなかったし、まったくラグビーの独走と言った感じの雑誌であった。

 そこで私は一〇日ほどかかって「独楽(こま)」という作品を書いた。この作品が「日の果て」の原型である。枚数は四六枚だ。しかし書き終えて、この作品は私の意にみたなかった。それでも私は「独楽」をたずさえて、「新生」の編集長の桔梗利一を訪い、意にみたないが一応お渡しする、と言って原稿を手渡した。(ここらの心理、今考えても、自分ながら不可解也。)桔梗編集長はそれを一読し、貴方も意にみたないだろうが当方の意にもみたず、と原稿を私に返却した。すなわち私はとぼとぼと帰宅し、「独楽」を机の引出しの底にしまい込んだ。

 その年の末、大地書房(この出版社も今はなし)から発行されている××(名前を今どうしても思い出せない)という雑誌から、小説を書けと言ってきた。それも一〇〇枚程度のものという注文である。

 私は「独楽」を書き直して、引き延ばして一〇〇枚にすることを考えた。そして直ちにその作業にとりかかった。

 

「独楽」のフィリッピン戦場の題材は、フィリッピンからの復員者の話を聞き、三〇分ほどメモを取り、それにいろいろと変形を加えて、小説に仕立てたものである。

 書き直すについては、更に変形を加え、小事件を書き足す必要に迫られた。そうしないと、とても一〇〇枚にはならない。

 今これを書くにあたって、四六枚の旧稿を戸棚から出して読み返して、いろいろ感慨もあり興味も深かった。一〇年も前に書いた旧稿だから、読み返してもそれほど自分にくっついていない。他人の原稿を読んでいるというほどまでには行かないが、半分ぐらいは他人の原稿になりかかっている。私の頭にあるのは「日の果て」の残像だから、旧稿「独楽」はひどく簡略に感じられる。

「独楽」の主人公は、「日の果て」とちがって「私」になっている。「私」が部隊長の命令をうけて、花田軍医を射殺に行く。矢野軍曹というのをつれて行くことになっている。

「日の果て」においては、主人公は途中で自分も逃亡の決意を固めるのだが、「独楽」ではそうでない。射殺しに行くことへの心理や情緒の動揺はあるが、結局花田軍医に追いついて、ピストルを擬し、

「銃殺! 大隊長命令!」

 と叫んで、いきなり射殺してしまう。その揚句、女から射たれる。

「矢野が大声で私の名を呼ぶのを、はるかなもののように聞きながら、私は次第に気が遠くなって行った」

「独楽」の末尾は、こんな文章で終っている。

 一〇〇枚に引き延ばすべく改作するに当って、主人公の逃亡決意を設定することによって、作品のねらいは大きく転換した。(それが成功か不成功かは別として)

 高城伍長(矢野軍曹)が一度主人公と訣別し、また考え直して行動を共にする。そういう設定で、主人公と伍長の心理のからみあいや、そんなところで枚数をかせいだ点が、新旧両作を見比べると、歴然としている。

 文章も「日の果て」の方が、前作よりも、当然のことながら描写がこまかくなっている。あるいはくどくなっている。

 花田軍医のいるニッパ小屋に行きつくと、軍医は東海岸に出発したあとで、そこに狂者がいて讃美歌をうたっている。これは両作とも同じだが、「日の果て」ではその狂者が女であるのに対し、「独楽」では男である。シャツ一枚で下半身は裸の、ぼうぼう髭の男が「見よや十字の旗高し」という歌をうたっている。「日の果て」では、

「狂った女はきょとんとした顔を上げて宇治を眺めたが、ふいにごろりと横になり脚を立てた。裾から見ると股の部分が目にしみるほど白い」

 旧作「独楽」では、

「狂った男はきょとんとした顔付きで私を見ていたが、ふいにごろりと横になり、しきりに毛布の端をむしりながらぶつぶつ呟き出した。日の当った股の部分は鱗をつけたような垢である」

 旧作の方がよかったかも知れない。そのきちがい男を、どうしてきちがい女に書き直したか、その気持やねらいはもう私の記憶にない。技術や操作の関係でそうなったので、あまり高遠な文学精神から出たものではなかろう。ここらで色気をつけてやれと、考えたのかも知れないとも思う。

 二人は途中で司令部を通るのだが、「日の果て」では自分も逃亡の予定だという関係上、司令部には立ち寄らない。伍長にピストルをつきつけながら通過してしまう。

「独楽」では、司令部に厭な性格の副官がいるから、敬遠して立ち寄らないという形になっている。

 まあいろいろそんな具合にして、改変したりつけ加えたりして、旧作「独楽」の四六枚が新作「独楽」の一〇八枚に変貌した。

「独楽」という題名は、主人公が女からピストルでねらわれている短い時間に、独楽の廻っている幻想が瞼のうらにあらわれる、そこから振ったものだ。「日の果て」にはその幻想はない。

 四六枚を一〇八枚に引き延ばして、作品としての質が向上したかどうか、私は今でも疑問に思っている。

 とにかくそれを、大地書房の××誌に持って行った。

 翌年になり、新作「独楽」が掲載される間際になって、××は廃刊となり、ふたたび原稿は私の手に戻ってきた。書き直しても戻ってくるという点において、私は相当に自信を喪失した。

 昭和二二年春、桜井書店(これも今はなし)から『桜島』という単行本を出すことになり、発表した作品だけでは枚数が足りなかったから、この「独楽」を未発表のまま入れることにした。だから原稿はしばらく桜井の編集室に置かれていたが、そのうちに私と桜井書店の間に感情のごたごたがおこり、出版は取り止めになって、また「独楽」は私の手元に戻ってきた。

 それから「独楽」は、鎌倉文庫発行の「人間」の編集部に二カ月ほど預けられた。しかし編集部の誰もこの原稿を読まなかったらしい。「日の果て」発表直後、鎌倉文庫勤務の厳谷大四が賞めて呉れたから、あれはお宅に二カ月ほど預けてあったのだと言うと、彼は意外そうな表情で、そんな原稿見たことない、という意味の答えをした。

 

 六月頃、へんな男が私の家を訪ねてきた。

 新作家の創作シリーズみたいなものを出したい。枚数は一〇〇枚から一五〇枚まで。文庫本形式で出したいが、原稿はあるか?

 それで私は「独楽」の話をした。これは未発表のものであるがよろしいか?

 男曰く。未発表、なおのこと結構なり。

 私曰く。では渡すが、実は今金に因っているから、引換えに印税の半分をよこせ。

 男曰く。OKOK来週の月曜日に金を渡しましょう。

 私は早速鎌倉文庫におもむき、「独楽」を取り返し、その男に渡した。

 次の月曜日、私はその男に電話をかけた。男曰く、今週はちょっと具合が悪いから、来週の月曜日にして呉れ。

 さらに次の月曜日、私はふたたびその男に電話をかけた。男曰く、今週もちょっと金繰りがつかないから、来週にして呉れ。

 さらに次の月曜日、電話をかけた。返事は前と同じ。

 さらに次の月曜日、結果は同じ。

 

 青磁社勤務の那須国雄が私を訪ねてきた。今度「個性」という文芸雑誌を出すことになった。時に聞けば一〇〇枚の原稿が手元にあるそうだが、一応見せて呉れないか、という申し入れである。

 私は早速「独楽」が行っているなんとか出版社におもむき、原稿をとり返して来た。出版社ではすぐに返してくれた。

 例のへんな男は、この出版社につとめているのではなかった。原稿ブローカーであったらしいことが判った。

 私は「独楽」を那須国雄に渡した。

 それから青磁社の内にごたごたがおこり、片山修三、那須国雄は青磁社を離れ、新たに「思索社」というのを超した。私の「独楽」は「個性」ではなく「思索」に掲載されることになった。

 片山修三は私に言った。「独楽」を読んだが、最後の独楽の幻想のところがいかにもまずい。あれは書き改めたがよかろう。

 すなわち私はその部分に手を入れ、削除し、書き直した。書き直したからには、「独楽」という題名は成立しないので、あれこれ考えた揚句「日の果て」という題名にした。

「日の果て」は昭和二二年九月、「思索」秋季号に発表された。初稿を書いて丁度一年目である。

 原稿料はたしか一枚五〇円で、合計五〇〇〇円ばかり貰った記憶がある。

 しかしこの作品はその後、芝居や映画になり、単行本や文庫に入ったりしたので、現在のところ、はっきりした計算ではないが、一枚一万円ぐらいにはついていると思う。よく訓練された泥棒猫のように「日の果て」はあちこちにかけずり廻り、原作料や印税をくわえてはかけ戻ってくるので、その点において私はこの作品を大いに徳としているのである。

 その後、だんだん私は書けなくなってきた。

 行き詰ったと言ってもよろしい。

 その行き詰りの原因の一半は、私の文体にもあった。自分の文体の重さが、私を書けなくした。

 たとえば「日の果て」の文体は、文体のための文体と言ってもいいもので、その規格にあてはめて小説を書くためには、多少とも自己を歪めねばならぬ。

 私は小説を書きながら、どうも自分は本当のことを書いていない、と感じるようになってきた。うそを書いている、デッチ上げをやっている、その意識が私の筆をさらに重くした。

 昭和二四、二五年がその時期に当る。つまり私は、自分流に設定した「小説」というものの枠や形式に、しばられていたわけだ。

 その頃「群像」から長篇を依頼され、「日時計」というのを書き出した。この作品は途中で「殺生石」という題にあらため、二三カ月おきに飛び飛びに掲載して、四回をもってついに中絶の止むなきに到った。「群像」編集部でもこれには難渋したらしいが、私自身も大いに難渋した。

 長篇に失敗したことで、私はますます自信を喪失した。

 昭和二六年になった。この年の夏「新潮」から一〇〇枚程度のものを書けという依頼があった。

 その頃も私はなかなか書けなかったけれども、テーマはいくつか持っていた。テーマがあっても、それが小説の形にならなかったのだ。

 そのテーマの一つをえらんで、私は「新潮」の作品を書き始めた。二人の夜学の教師の心理的葛藤がそのテーマであった。

 私は一〇枚書いては破り、また初めから書き直し、一五枚書いて筆がとまり、暗然としてひっくり返った。

 書くことはちゃんとすみずみまできまっているのに、いざ文章にして見ると、小説にはならないのである。小説家失格だ。

 ひっくり返って、自棄(やけ)になり、そこらにころがっている童話本を開いて、童話をいくつか読んでいるうちに、ひとつこの童話の形式で小説を書いたらどうだろう、ということを考えついた。

 童話という形は非常に自由である。

 童話、説話体、あるいは講談の語り口。

 こういう形式は、たとえば筋を飛躍させるために、在来の私の小説形式では大へんな技術的困難を極めるところを、「さてお話し変りまして」という一行を入れることだけで、簡単にかたがついてしまう。さっと別の話にうつれるわけだ。

 この形式をとって、私は「新潮」の小説を、ほぼ一週間ばかりで、割にらくらくと書き上げた。「山名の場合」という小説だ。書き終えてこの形式が、予想通り柔軟にして使いやすく、どの人物の心理にも入って行けるし、同時に客観的な描写も出来る、便利極まる形式であることを認識した。

 らくらくと書けたということと、割に評判がよかったということで、私はやや自信をとり戻した。

 そしてつづいて「群像」に「Sの背中」という小説を書いた。

 これはも一度その形式を実験するつもりで、題材は間に合わせに猿蟹(さるかに)合戦からとった。猿蟹合戦を現代の話にそっくり置きかえたものだ。

 猿沢佐介という男と、蟹江四郎という男、これがある飲屋の女(柿の種みたいに色が浅黒くて瓜実(うりざね)顔の)をはり合う。結局その飲屋の猿沢の借金を引き受けることによって、蟹江はその女を獲得して女房にする。その女房の死後、女房の日記で、女房と猿沢が姦通していたらしいという疑いにとらわれ、復讐の念を持つにいたる。

 白井(ウス)蜂須賀(ハチ)小栗(クリ)などをかたらって復讐というところまで行かずして、締切りが来たものだから、中途半端なところで打切って、そのまま発表した。この作品も割にすらすらと行った。

 これも割に好評判であったが、これが現代版猿蟹合戦だと読んで呉れたのは一人もなかった。名前の頭文字などで、あきらかにそれと打ち出しているにもかかわらず、誰もそれと読んで呉れなかったことが、私をおどろかせた。私の納得出来ないような批評が多かった。

 こちらが企画し表現した通りには読者は受取らない、ということをおそまきながら私は学んだ。そのことは私の内部にあるものを更に柔軟にした。

 そしてつづいて同じ形式で、「新潮」に「春の月」というのを書いた。筆の速さはますます好調で、この作品の後半の五五枚は一昼夜で書いた。

 同じ形式で三つも書いたものだから、私はこの方法において大いに習熟したが、実のところを言うと少々倦きた。

 それにマンネリズムにおち入る危険性もあった。小出しにするにしくはなし、と思ったが、やはり今でも大出しというほどではないが、中出しぐらいにしている。昔の方法と今の方法とないまぜにして出している。

 もうそろそろ新しい方法をあみ出したいと思うが、思うはやすく行うは難し!

 

 昭和二九年「群像」に「砂時計」という長篇を書き始めた。

 前に「日時計」という長篇で失敗したので、今度は「砂時計」で行こうというわけだ。「日時計」だの「砂時計」だの、どんな小説にもあてはまる巾の広い題名である。時間の経過を示すものと解釈すればいいのだ。

 そんなあやふやな気持で題名をえらぶのかと叱られそうだが、連載長篇というものは書き下し長篇とちがって、書き始めと同時に題をつけねばならない。

 書き始めて、あとあとの筆の進行で、予定がどんなに変るか判らないのに、題名をつけるなんてむちゃな話である。巾の広い、含みの多い題名をつけるにしくはない。

 短篇の場合でも、すっかり書き終えて、さて題は何としようと考え込むことが、私にはしばしばである。

 書き始めると同時に題がきまっているなんて、私の場合には稀有のことである。書き終えて無理矢理にくっつけるものだから、私の題のつけ方はいかにもまずい。自分で見ても苦しまぎれという感じがする。

 作曲家のように、自分の作品に「作品第何番」とつけるのが、一番いいと思うのだが、今までの慣習上、小説には題がないと困ることになっている。

 絵画の方は、題名は割に意味が重く、題名が絵の説明をするという働きを持っている。

 小説は、題があろうとなかろうと、内容がすべてを語っているのだから、どうも蛇足のような気がして仕方がない。

「砂時計」も今までのところ(昭和三〇年一月現在)どうにか書きついで来たが、もう砂が底からぽろぽろ落ちて、残りすくなになってきた。しかしこの作品は今継続中だから、これについて語るのは止めたい。この作品におけるさまざまの失敗、見込み違いは、完成の後に書きたいと思う。

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年二月刊の岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「日の果て」後に出るように、最終的には昭和二二(一九四七)年九月刊の季刊『思索』第七号(思索社発行)に初出し、翌年二月に同社から出た単行本「日の果て」に再録された。フィリピンのミンドロ島の戦い(昭和一九(一九四四)年十二月十三日から二月下旬にかけて日本軍とアメリカ軍によりフィリピン北部のミンドロ島で行われた戦闘)を舞台としたもので、本篇で梅崎春生自身が述べている通り、春生自身の戦争体験(彼自身は外地の戦争体験は皆無)に基づくものではない。完全な創作である。以下、エンディングの相違などは「青空文庫」の「日の果て」(全篇掲載)で比較して戴きたい。

「桜島」私は全篇電子化とマニアック全注釈版『梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注』(ブログ)及び同PDF縦書版を既に公開している。

『「新生」という雑誌』終戦直後の昭和二〇(一九四五)年十一月に新生社から発行された月刊総合雑誌。岩淵辰雄・馬場恒吾・青野季吉・正宗白鳥ら、創刊号は戦時中、不遇だった自由主義者が名を連ねたもので、仮綴・三十二頁・定価一円二十銭であったが、忽ち十三万部を売り尽くした。国民が如何に自由な言論に飢えていたかを如実に物語る出来事であったという。所謂、「大家」を動員して創作も毎号掲載したが、無名の青年青山虎之助が主宰する同社は、敗戦直後に続出した多くの出版社同様、長続きせず、『新生』も二年後の一九四七年二月・三月合併号で挫折、翌年一九四八年一月から復刊号を七冊出したところで廃刊となった(平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説に拠った)。

「新生」というのは、終戦後まっさきに発行された綜合雑誌で、二年ぐらいで潰れたけれども、当時はたいへんな勢いで、派手な雑誌であった。「中央公論」や「改造」はまだ復刊されていなかったし、まったくラグビーの独走と言った感じの雑誌であった。

「桔梗利一」(明治四〇(一九〇七)年~昭和四〇(一九七五)年)漫画家清水崑を世に出したりした、編集者としてはかなり有名な人物らしい。

「その年の末、大地書房(この出版社も今はなし)から発行されている××(名前を今どうしても思い出せない)という雑誌」これは大地書房(後に「日本小説社」)発行の日本初の初の中間小説雑誌とされる月刊文芸雑誌『日本小説(にっぽんしょうせつ)』であろう。昭和二二(一九四七)年三月創刊で二年後の一九四九年終刊・倒産している。詳しくはウィキの「日本小説」を参照されたい。

「花田軍医」「日の果て」でも主人公「宇治中尉」が射殺命令を受けるターゲットの名前は同じである。

「高城伍長(矢野軍曹)」が改稿「独楽」、即ち、決定稿「日の果て」で宇治が連れて行くのが「高城伍長」で、原「独楽」のそれが「矢野軍曹」。

「ニッパ小屋」単子葉植物綱 Monocotyledoneae ヤシ目 Arecales ヤシ科 Arecaceae ニッパヤシ属 Nypa ニッパヤシ Nypa fruticans の葉で葺いた小屋。ウィキの「ニッパヤシ」によれば、『葉は軽く繊維質で丈夫であるため、植生が豊富な地域では屋根材・壁材として利用される。特にフィリピンでは伝統的に、竹を骨組みとして葉を編みこんだもの(nipa shingle)を作り、屋根材や壁材として用い、伝統的家屋(タガログ語:バハイクボ(bahay kubo))、(英語:ニパハット(nipa hut))を建設する』。『ニッパヤシの屋根は風雨に強い上風通しが良く、特に台風の多く湿度が高い熱帯アジアの風土に適している』とある。

『鎌倉文庫発行の「人間」』先と同じく平凡社「世界大百科事典」の海老原光義氏の解説によれば、『人間』は昭和二一(一九四六)年一月に鎌倉文庫から発行された月刊文芸雑誌で、大正期に里見弴や久米正雄らが発刊した同人雑誌『人間』の誌名を踏襲して創刊したものである。戦時中に久米正雄・川端康成・高見順ら、鎌倉在住の作家が蔵書を持ち寄って鎌倉で開業した貸本屋が「鎌倉文庫」の前身で、敗戦後は製紙会社と提携して出版社となり、社を東京に移して一時、活発な出版活動を行った。特に、木村徳三を編集長とする『人間』は多くの新人に舞台を提供し、戦後文学の生誕に大きな役割を果たした。母体の経営破綻によって昭和二五(一九五〇)年一月に発行元が「目黒書店」に移ったが、翌一九五一年の八月号を以って廃刊した。全六十八冊(別冊三冊)。

「厳谷大四」(いわやだいし 大正四(一九一五)年~平成一八(二〇〇六)年)は文芸評論家。童話作家巌谷小波の四男。東京生まれ。早稲田大学英文科卒。戦時中、「日本文学報国会」で事務をとり、戦後、「鎌倉文庫」の編集者から『文藝』や『週刊読書人』の編集長を務め、昭和四〇(一九六五)年から自身も文筆活動に入った。文芸編集者としての経験から文壇の裏面史に詳しく、また、次兄巌谷栄二は児童文学研究家であり、彼の息子(四の甥)は、かのフランス文学者巌谷国士(いわやくにお)である。

「那須国雄」(大正六(一九一七)年~)は作家・編集者・評論家。ウィキの「那須国雄」によれば、『東京生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒。太平洋戦争時中ヴェトナムの日本大使館に勤務。戦後、『個性』『人間』編集次長』。昭和二四(一九四九)年、『「還らざる旅路」で芥川賞候補。フランス語の翻訳などしたのち、アフリカ評論家となる』とある。

「片山修三」(大正四(一九一五)年~昭和五七(一九八二)年)兵庫県西宮市出身。慶応義塾大学文学部中退。戦前は横光利一に師事して『三田文学』に小説を発表、戦後は小説を断念し、昭和二一(一九四六)年『思索』を編集発行、さらに思索社社長となって経営に勤めるとともに『哲学』『個性』といった雑誌を編集した(日本アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「この作品はその後、芝居や映画になり」私は映画しか知らない。八木プロダクション及び青年俳優クラブの昭和二九(一九五四)年の製作で、山本薩夫監督・宇治中尉を鶴田浩二が、高城伍長を原保美が、花田軍医中尉を岡田英次が演じた。

『昭和二四、二五年がその時期に当る。つまり私は、自分流に設定した「小説」というものの枠や形式に、しばられていたわけだ』ここに示された時期、梅崎春生は昭和二四(一九四九)年三月に月曜書房から単行本「桜島」を再刊、五月に「黄色い日々」(『新潮』)、八月に「ルネタの市民兵」(『文芸春秋』)を発表、十月に単行本の短編集『ルネタの市民兵』(月曜書房)を刊行、翌昭和二五(一九五〇)年には、三月に後に出る「日時計」(『群像』)に発表、五月に単行本「限りなき舞踏」(小山書店)を刊行、『群像』七月号に「日時計」の続編を「殺生石」というタイトルで発表した。それが「Ⅲ」まで続き、同作は九月号・十二月号『群像』に隔月連載された。その「殺生石(Ⅲ)」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしいが、続編は春生の逝去に至るまで遂に書かれることはなかった。この七月からは「南風」を『婦人画報』に連載(翌年五月完結)、八月に「無名颱風」を『別冊・文芸春秋』、十一月に「庭の眺め」(『新潮』)に発表、同月、短編集「黒い花」(月曜書房)を刊行している(この年の秋には「黒い花」が松竹で大曾根辰夫監督で映画化され、芸術祭参加作品となっている。以上は底本の別巻年譜に拠った)。

「山名の場合」昭和二六(一九五一)年十一月号『新潮』初出。先に書かれた初期構想の「二人の夜学の教師の心理的葛藤」「のテーマ」そのままに生かされた作である。梅崎春生の成人向け作品でありながら、敬体書かれた確かに「童話」を思わせる文体で書かれてある。

「Sの背中」昭和二七(一九五二)年一月号『群像』初出。「青空文庫」のこちらで全篇を読める。

「春の月」昭和二七(一九五二)年三月号『新潮』初出。佐藤紫寿氏のブログ「文学・まったり・ウェブログ」の「#5 梅崎春生 『春の月』 ~月ニ、化カサレタ?~」のレビューがよく書けている。

「砂時計」昭和二九(一九五四)年八月号から翌年七月号『群像』連載が初出。Otosimono氏のブログ「おしゃべりのあとさき」の『梅崎春生「砂時計」』のレビューがよく書けている。これは連載終了の二ヶ月後の昭和三〇(一九五五)年九月に講談社から単行本化されており、ここでの春生は少し、不安を字背に感じさせているが、構成上の無理は感じられるものの、まずは完結した梅崎春生の数少ない(唯一のと言ってもよいか)長篇小説とは言えるものである。]

谷の響 一の卷 五 怪獸

 五 怪獸

 

 往ぬる嘉永六癸丑の年九月の事なるが、目谷(めや)の澤の勝景を探れる時、此村市の子之丞が家に寄宿(とまり)けるが、そこに川原平村の者のよしにて享年(とし)六十に餘れる老父(おやじ)ありて、その形貌(かたい)いと魁偉(おほき)く筋骨(ほねぶし)逞しき者なるが、希(めつ)らしき話やあると問ぬるに老父の曰く、己盛壯(さかり)の時は山を舍(いへ)とし澗(たに)を棲(すみか)とせるなれば、いかなる幽遠(ふか)き陰地(ところ)といへど歩獵(あるか)ざるはなく經(へ)ざるはなしとて、萬山(やまやま)の嶄嵒(けはし)き千溪(たにだに)の險絶(さかし)き、あるは當地(ところ)の産物(なりもの)に至るまでいと委曲(つはらか)に語りけるに、己言へらく、かく突(ふかき)谷(たに)高(たかき)嶺(みね)を蹊(わた)りて怪(あやしき)物を見ざるやと問れば、さる妖物(まがもの)は見たる事もなく怪異(あや)しきものも知らざれば、畏冽(おそろし)と思ひし事など心に覺えず。只川狩して僅に怪しと思ひしこと囘(ひとたび)りき。[やぶちゃん字注:「嵒」は底本では上下「品」と「山」が逆転(「山」が上で「品」が下)の字体。表記出来ないのでこちらで示した。]

 そは往(い)にし文化初年の四月の事なるが、赤石川の水源(みなもと)サルコ淵といふ澤に至り、網を下して漁(すなと)り行きしうち忽ち波浪(なみ)の激鬪(さやけ)る響(おと)の聞えけるから、網を扣(ひか)えて見眺(みやり)たるに其長(たけ)七尺許りにして一把(ひとつ)の蓑(みの)を懸たる如き物、澗(さは)の眞中に賁然(のつき)と停立(たて)り。朦月(うすつき)にすかし見れど面目(つら)も手足もさらに分たず、たゞ毛のうちに螢火(ほたる)に等しきもの百許もありてそれが滿躰(みうち)に點着(つけ)り。何ものならんと卽便(そのまゝ)進み寄りて摑み蒐(かか)るに、かの怪物身を起して一跳(ひとはね)して、七八間飛退(の)きたるまま水中に沒りて再び見えずなりしが、掌の中に唯一握の毛存(のこ)れり。夜明けて見るに長さ一尺四五寸、太さは馬の鬣(たてがみ)に倍して色紅黑く端(はし)不殘(みな)兩又(ふたまた)なり。如何なる怪物にや、今に二個(ふたり)と見しものありとしも開かず。

 さるにおかしきは、此こと何人か話(はなし)せるにやその時この毛を乞ふ者數十人に及べり。何事に用ると問へば、疫病除の禁厭(まつない)なりと言へり。世の人の物好き笑ふべきことなり。しかして與へ盡して今は一個(ひとつ)も無しと語りき。いかなる怪獸にや有けん、其毛を見ざるは遺憾(ざんねん)なり。

 却説(さて)、この老父【名を聞きたれど忘れたり、未だ存生するや否や。】、希代の稟質(うまれつき)にて、麼什(いか)なる深き淵に沒(い)るとも泳ぐといふことなく、みな徹底(そこ)に草鞋を印(つ)けて陸地の如くに歩き、又いかなる屹(たかき)峰(みね)絶岸(きりきし)なりとも坦々地(ひらち)を駈𢌞るが如くにして、更に餘の人どもの爲し得べき業にあらずとなり。其處に馴るればかかるものも有けるなり。

 

[やぶちゃん注:【 】は底本ではポイント落ち二行割注。

「嘉永六癸丑」グレゴリオ暦一八五三年。干支も正しく「みづのとうし」である。

「目谷(めや)」前条「四 河媼」の「雌野澤(めやのさわ)」の私の注を参照されたい。

「村市」前条「四 河媼」の「村市村」の私の注を参照されたい。

「子之丞」前条「四 河媼」の最後に話者として名が出る人物で、前条の聞き取りとの時間的共時性が高いか。

「川原平村」底本の森山泰太郎氏の補註に『西目屋村川原平(かわらたい)。目屋村の最南端の部落で、弘前市まで三二キロ、秋田県境まで一六キロという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「享年(とし)六十に餘れる老父(おやじ)」この老人は寛政六(一七九四)年以前の生まれということになる。

「希(めつ)らしき」ルビはママ。

「問ぬるに」「とひぬるに」。

「己盛壯(さかり)の時」己は「われ」と読んでおく。儂(わし)が壮年の頃は。無論、ここの「己」はこの老人の一人称である。

「幽遠(ふか)き」二字へのルビ。

「陰地(ところ)」二字へのルビ。

「歩獵(あるか)ざる」二字へのルビ。所謂、「マタギ」のような生活をしていた者らしい。但し、一般に「マタギ」は集団を形成する猟師であるが、この老人は若い時から単独の川漁を専門とする漁師であったようだ(マタギはウィキの「マタギ」を参照されたい)。

「險絶(さかし)き」二字へのルビ。山などが高く険しいさまを謂う形容動詞「嵯峨(さが)」を形容詞化した謂いであろう。

「委曲(つはらか)に」詳(つまび)らかに。

「己言へらく」私が言うたことには。こちらの「己」(われ)は筆者平尾魯僊自身の自称。

「問れば」「とふれば」。

「妖物(まがもの)」禍々(まがまが)しき物。

「怪異(あや)しき」二字へのルビ。

「畏冽(おそろし)」二字へのルビ。

「文化初年」「初年」を文化元年とするなら一八〇四年で四十九年も前で、この老人が満十一歳の少年だった頃の話となる。

「赤石川」同じく森山氏の補註に『西目屋の奥の山中に源を発し、西北』に流れて『西津軽郡鰺ケ沢町赤石で日本海に入る』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「サルコ淵」不詳。識者の御教授を乞う。

「激鬪(さやけ)る」二字へのルビ。「騒ぐ」の意の「さやぐ」の「さやぎける」「さやげる」で「バシャ!」という強い水の跳ね飛ぶ音がし、の意か。

「扣(ひか)えて」大事な網を手繰り引いて漁を止め。

「七尺」約二メートル十二センチ。

「賁然(のつき)と」同じく森山氏の補註に『「のつきと」は津軽方言』で、「のちそりと」『という意をあらわす副詞』とある。

「停立(たて)り」二字へのルビ。佇立しているのである。

「たゞ毛のうちに螢火(ほたる)に等しきもの百許もありてそれが滿躰(みうち)に點着(つけ)り」「許」は「ばかり」と読む。本話の妖しくも美しい幻想的シーンである。

「蒐(かか)る」「蒐」には「春に行う狩猟」の謂いがある。時期は「四月」で、まあ、漁師の彼には相応しい動詞ではある(冬の狩猟は「狩」)。

「七八間」十二・八~十四・五四メートル。かなりの距離である。私はこれは青鷺(脊椎動物亜門鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea の大型個体ではないか? と当初は思ったことを言い添えておく。一つの可能性としては満更、見当違いではないように思われるように今も感じてはいる。但し、彼らの羽の形状が、ここで語られるものと同一かどうかは検証していない。大方の御叱正を俟つものではある。

「水中に沒りて」後の文のルビからは「沒りて」は「もぐりて」ではなく、「いりて」である

「飛退(の)きたるまま」「退」へのルビであって「とびのきたるまま」。

「一尺四五寸」四十二・四~四十五・四五センチメートル。

「禁厭(まつない)」呪(まじな)い。

「却説(さて)」二字へのルビ。

「存生」「ぞんしやう(ぞんしょう)」。

「希代の稟質(うまれつき)」極めて稀にみる生まれつきの特性。「稟」(正式音「ヒン」(「リンは慣用音)には「天から授かった生まれつきの性質(たち)」の意が単漢字で、ある。

「徹底(そこ)」二字へのルビ。川だろうが淵だろうが、水に浮かぶことなく、川底に完全に沈んで、足を水底に完全に押しつけるようにして水中を陸と歩くのと同じように、自在に歩くことが出来るというのである!

「草鞋」「わらぢ(わらじ)」。なお、やったことがない人は意外と思われるだろうが、現在でも山の沢登りは草鞋が最も適しているのである。

「印(つ)けて」履いて。

「餘の」「よの」。他の。]

諸國百物語卷之三 十 加賀の國あを鬼の事

     十 加賀の國あを鬼の事

 

 むかし、加賀の中なごんどの、御死去のとき、かゞ越中能登一ケ國の武士、のこらずひろまにつめゐたる所に、その日のくれがたに、たけ二丈ばかりなるあを鬼、をくよりいでゝひろまへ、きたり。それより、げんくはんへ、ゆき、をもての門をさして出でたれども、三ケ國のしよさぶらひ、みなみな、こうある人なりしかども、ただ

「あつ」

とばかりにて、かの鬼、げんくはんをいづるとき、やうやう腰のかたなに手をかけられけると也。

 

[やぶちゃん注:「加賀の中なごん」前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長十九年五月二十日(グレゴリオ暦一六一四年六月二十七日))加賀藩初代藩主で加賀前田家第二代。藩祖前田利家長男。慶長三(一五九八)年に父より前田家家督と加賀金沢領二十六万七千石を譲られる。関ヶ原の戦いの後、西軍に与みした弟利政の能登の七尾城二十二万五千石と西加賀の小松領十二万石・大聖寺領六万三千石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領されて加賀・越中・能登の三ヶ国合わせて百二十二万五千石を支配する石高日本最大となる加賀藩が成立した。男子がなかったため、異母弟の利常(利家四男)を養嗣子として迎え、慶長一〇(一六〇五)年に十一歳のの利常に家督を譲った。越中国新川郡富山城に隠居し、幼君利常を後見しつつ、富山城を改修、城下町の整備に努めた。慶長一四(一六〇九)年、富山城が焼失したため、一時的に魚津城で生活したが、その後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝られる)を築き、移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。その後、隠居領から十万石を本藩へ返納するなど、自らの政治的存在感を薄くしていく。慶長一八(一六一三)年には豊臣家より織田頼長が訪れ、勧誘を受けるが、利長はこれを拒否している。慶長一九(一六一四)年、病いが重篤化し、京都への隠棲及び高岡城破却などを幕府に願い出て許されたが、五月二十日、高岡城で病死した。服毒自殺ともされる(以上はウィキの「前田利長」に拠った)。私は中学・高校時代を高岡で過ごした。高岡城跡は非常に思い出深い地である。

「ひろま」「廣間」。このシークエンスは金沢城大広間のロケーションと考えられる。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注もそう推定している。

「二丈」六メートル六センチ。

「げんくはん」「玄關」。

「さして」「指して」。~の方向を目指して。

「こうある人」軍功のある人。]

2016/10/10

谷の響 一の卷 四 河媼

 四 河媼

 

 雌野澤(めやのさわ)の杣士(そまこ)ども山に入りて薪樹(たきき)を伐り、川を流して弘前に運送(おくる)ために諸處(ところところ)に塞柵(やらい)といへるを造れることなるが、番館村の川邊にも一處あり。こは此村の出頭(はし)なる河童灣(かつぱとろ)といふ淵を少し避けて造り設くる事、今猶爾(しか)なりとぞ。

 さるに往ぬる弘化四年の年の八月の事なるが、月明(あか)かりし夜に此塞柵の小屋の裡に聲ありて、己が兒童(こども)等(ら)大いに專意(せは)になりて忝なし、皆の衆々(ひとびと)に一禮を演(のべ)ん爲に來れるなりといへるに、杣子(そまこ)ども愕きて誰なるならんと四邊(あたり)を視まわせど、更に其(その)影だにも見得ず。左有(さる)に、その聲全(また)く老女にしていといと蕭然(さびし)かりければ、是なん豫て聞つる河媼といふ者ならんと連切(しきり)に冽凄(ものすご)くなり、寢るに耐ヘずして僉(みな)々起いで、火を焚いて夜を明かせしとなり。

 里老(としより)の話説(はなし)に、この河媼といふもの終古(むかし)より番館村の河童灣(とろ)に住めりといひ傳へて、五六十年以前(さき)までは時々(をりをり)里に出で、右の如く謝儀(れい)をいふこと數囘(たびたび)なるから誰も奇しとせざるに、近きころは村に來らでたゞ杣士の假菴(こや)にのみ五六囘(たび)も來れることありしなり。されど、食を貪(むさぼ)るにも人を惱(なやま)すにもあらず、言(こと)畢ればその儘歸ると見えて、復び來ることなしと語れると、村市村の子之丞といへる者語りしとなり。

 

[やぶちゃん注:「河媼」「かはうば」(読みは以下のウィキに従う)。ウィキの「河媼」は、まさにこの「谷の響」の一条をまるまる訳して解説に当ててある。注も省くとが出来るので、以下に全文を引いておく。『河媼(かわうば)は、青森県中津軽郡西目屋村に伝わる妖怪。安政時代の津軽弘前の郷士・平尾魯遷の著書『谷の響』に記述がある』。弘化四(一八四七)年八月の『ある夜、番館村(現・青森県弘前市)でのこと。岩木川上流の雌野沢の木こりたちが小屋にいたところ、「おらの子供らがいつも世話になっているので礼に来た」と老婆の声がした。驚いた木こりたちが周囲を見回したものの、周囲にはそれらしき者の姿はなく、さびしげな老婆の声の余韻が残っているだけだった。木こりたちは、これが話に聞く「河媼」というものだろうと言い合い、あまりの怖さに眠ることもできず、火を焚いて夜を明かしたという』。『里の古老たちの語りによれば、河媼は番館村の河童灣(かっぱとろ)という淵に住むといわれるもので、このように礼を述べに現れるのみで人に危害を加えるわけでもなく、数十年前までは人里にも現れていたという。また、雌野沢の木こりたちは、山で伐った薪を川に流して弘前に送るため、岩木川のあちこちに塞柵(やらい)と呼ばれる仕掛けを造っていたが、この塞柵は河媼のいる河童灣を避けて造ることが風習として、後に伝えられている』(下線やぶちゃん。注の代わりとなる部分)。

「雌野澤(めやのさわ)」底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。

「杣士(そまこ)」「杣子(そまこ)」樵(きこり)。

「塞柵(やらい)」同じく森山氏の補註に『薪材を流送する際、途中の川中に柵を設けて川水をせき止めると共に、流れ下る薪材を集めておき、水量の増した頃』、『一気に柵を外して下流に運送する仕掛けである』とある。眼から鱗。

「番館村」同じく森山氏の補註に『いま東目屋(弘前市)番館(ばんだて)。むかしの館跡があるという』とある。ウィキの「番館によれば、『青森県弘前市の地名で、旧中津軽郡東目屋村中畑の一部』とあり、『北部を河川が流れ、西は中津軽郡西目屋村に接する。北は中畑、東は米ヶ袋、南は旧中津軽郡相馬村大助・沢田、西は中津軽郡西目屋村田代に接する』この地名は『中世においての城館である番館(館城)跡から。ちなみに番館跡は縄文時代の遺跡ともなっている』。村としての「番館村」は江戸期から明治九(一八七六)年まで存在した、とある。前の地図の東目屋中学校から近くの岩木川を遡った西目屋村との接触地区の相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「出頭(はし)」村の出鼻(でばな)。

「河童灣(とろ)」こういう呼称は本話以外では聴いたことがない。「とろ」は一般的には「瀞」と書き、河川の流れの中で水が深く、流れの緩やかな流域を指す語ではある。但し、「灣」は必ずしも海岸地形のみを指すものではなく、水域(流域)が弓のように湾曲している場所を指すから、不自然とは言えない。

「裡」「うち」。仮小屋の外ではなく、明らかに自分らがいる小屋の中の同一空間からその声はするのである。こここそが、この怪談のキモである。

「專意(せは)」二字へのルビ。世話。

「忝なし」「かたじけなし」。

「全(また)く」ルビはママ。

「豫て」「かねて」。以前から。

「連切(しきり)に」二字へのルビ。「頻りに」。

「冽凄(ものすご)くなり」二字へのルビ。あまりの恐怖にぶるぶる震えて。

寢るに耐ヘずして僉(みな)々起いで、火を焚いて夜を明かせしとなり。

「謝儀(れい)」二字へのルビ。

「村市村」同じく森山氏の補註に『中津軽郡西目屋村村市(むらいち)』とある。(グーグル・マップ・データ)。

「子之丞」「ねのじよう(ねのじょう)」と読むか。]

諸國百物語卷之三 九 道長の御前にて三人の術くらべの事

     九 道長の御前(ごぜん)にて三人の術くらべの事

 

 長德年中の相國ふぢはらの道長の御まへに、ゑい山(ざん)の僧欽朱(きんしゆ)と安倍淸明(あべせいめい)と醫師のしげまさと、三人同座してゐられけるが、菓子に瓜のいでけるを清明見て、

「此うりの内に毒あるうりあり」

と、うらなふ。道長、きこし召し、

「さらば、このかずのうりに、いづれが毒あらんと、かぢし給へ」

と仰せられければ、欽朱、うりにむかつて、印(いん)をむすび、かぢし給へば、たちまち、ひとつのうりをとりいでければ、重正(しげまさ)、ふところより、針をとり出だし、うりをさしければ、此うり、うごきやみぬ。道長、此うりをわりて見られければ、そのなかに、蛇一すぢ、ありしが、蛇のまなこに針あたりて、死してゐたり、三人ともに、その術につうじけるとて道長はなはだかんじ給ひけると也。

 

[やぶちゃん注:ずっと時代が遡った藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)の、しかも超弩級に知られた阿倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)絡みの法術怪談の登場である。

 

 この話、最も知られているのは「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:橘成季(生没年未詳:鎌倉時代の朝廷の吏員。九条道家近習)編の俗説話集で建長六(一二五四)年に初形が成立、後年、増補された)の「卷第七 第九 術道」(岩波日本古典文学大系本第二九五段)に載る「陰陽師晴明、早瓜に毒氣あるを占ふ事」であろう(昭和五八(一九八三)年刊「新潮日本古典集成」の「古今著聞集 上」(西尾光一・小林保治校注)を参考にしたが、読点を増やし、読みなども追加、恣意的に漢字を正字化、直接話法を改行するなどしており、参考底本とは大きく異なる。【 】は底本原文のポイント落ち割注)。

   *

 御堂(みだう)關白殿、御物忌(おんものいみ)に解脱寺(げだつじ)の僧正觀修(くわんしゆ)・陰陽師晴明(はるあき)・醫師忠明(ただあき)・武士義家(よしいへ)朝臣【時代不審也】、參籠して侍りけるに、五月一日、南都より早瓜(はやうり)を奉りたりけるに、

「御物忌の中に、取り入れられん事、いかがあるべき。」

とて、晴明にうらなはせられければ、晴明、うらなひて、

「一つの瓜に毒氣候。」

よしを申して、一つを、とり出(いだ)したり。

「加持(かぢ)せられば、毒氣、あらはれ侍るべし。」

と申しければ、僧正に仰せて加持せらるるに、しばし念誦の間に、その瓜、はたらき動きけり。その時、忠明に、毒氣治すべき由、仰られければ、瓜を取りまはし取りまはし見て、二(ふた)ところに針を立てけり。その後、瓜、はたらかずなりにけり。義家に仰せて、瓜をわらせられければ、腰刀(こしがたな)ぬきてわりたれば、中に小蛇、わだかまりてありけり。針は蛇の左右の眼(まなこ)に立ちたりけり。義家、何となく中をわると見えつれども、蛇の頸(くび)を切りたりけり。名を得たる人々の振舞、かくのごとし。ゆゆしかりける事なり。この事、いづれの日記(にき)に見えたりと云ふことを知らねども、あまねく申し傳へて侍り。

   *

以下、簡単に語注する。

・「御堂關白殿」道長。

・「解脱寺(げだつじ)の僧正觀修」(天慶八(九四五)年~寛弘五(一〇〇八)年)は平安中期の天台宗僧の通称。「勸修」とも記す。諡号は智静。「長谷の大僧正」とも称される。京都生まれ。俗姓、志紀氏。法性寺(ほっしょうじ:現在の京都市東山区にあり、創建時派天台宗であったが中世以後廃絶、明治になって再興され、今は浄土宗)座主(ざす)職を巡る円仁系・円珍系門徒の確執の中、岩倉長谷(ながたに:現在の京都市左京区)の解脱寺(道長の姉詮子の創建になり、この時、彼が再興したが、後に廃絶(室町時代とも江戸時代とも)し、今は遺跡が残るのみ)に移って、長徳二(九九六)年には園城寺長吏となった。有験の僧として知られ、死者を蘇生させた伝説を持つ。長保二(一〇〇〇)年に大僧正となったが、翌年に辞職、藤原道長が深く帰依し、道長建立の木幡浄妙寺(現在の京都市宇治市木幡にある藤原北家の墓所。寺は中世末に廃絶)の別当となった。

・「陰陽師晴明(はるあき)」安倍晴明。

・「醫師忠明(ただあき)」丹波忠明(正暦(しょうりゃく)元(九九〇)年~?)。丹波重雅(天慶(てんぎょう)九(九四六)年~寛弘八(一〇一一)年:権(ごんの)針博士・大舎人頭(おおとねりのかみ)・兵庫頭・掃部(かもんの)頭・穀倉院別当などを務め、長徳四(九九八)年に典薬頭となり、源頼光・藤原行成らの病を治療した。本話の「重正」はこの人物との混同が疑われる)の子。権(ごんの)針博士・医博士・典薬頭(てんやくのかみ)・侍医兼丹波守などを務め、朝臣(あそみ)の姓を授かった名医。万寿五(一〇二八)年には後一条天皇の病いを治療している。

・「武士義家」源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)では割注通り、時代が齟齬する。参考底本の頭注では酒呑童子や土蜘蛛退治で知られた道長の側近源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)の名をモデル参考と思しい感じで掲げてある。

・「南都」大和国。

・「早瓜」参考底本頭注に『暑気をさり、渇きをいやし、酒毒を解くと歓迎された』とある。

・「御物忌の中に、取り入れられん事、いかがあるべき。」「御物忌みの最中に、外部からもたらされた物品・食物を受け取るというのは如何なものか?」。「られん」は尊敬語であるが、道長の自敬表現と見做し、敬意なしで訳した。

・「はたらき動きけり」ゆらりゆらりと生き物の如く、怪しくゆれ動いた。

・「取りまはし取りまはし見て」手でくるりくるりと回転させて全体を観察した上で。

・「腰刀(こしがたな)」腰に差す鍔のない短刀。鞘巻(さやまき:元来は鞘に実際の葛藤(つづらふじ)の蔓を巻いたが、後には漆塗りで蔓を巻いた形を模した)など。

・「わだかまりて」蜷局(とぐろ)を巻いて。

・「ゆゆしかりける」神がかっている。素晴らしい。

・「日記」記録。文書。

・「あまねく申し傳へて侍り」「古今著聞集」が初期成立した鎌倉中期(建長六(一二五四)年)の時点で、広く知られていた事実であることが判る。

 

 次に阿倍晴明以外の登場人物を総て別キャストにした話として、西行に仮託したトンデモ説話集「撰集抄」(建長二(一二五〇)年から遅くとも弘安一〇(一二八七)年頃までに成立したと推定される)の「卷八」の「第三三 祈空也上人手事」(空也上人の手を祈る事)の後半部に以下のように出現するものが挙げられる。そう長くないので全部を引用する(太字部分が本話と酷似する後半)。西尾光一校注一九七〇年岩波文庫刊のそれをほぼ底本として用いたが、一部の記号を排除、踊り字「〱」は正字化し、直接話法は改行、一部に読みと読点を追加した。読みは一部に限った。

   *

さても、平等院僧正の、目驚(おどろき)て人申(まうし)侍りけるは、空也上人と、内にて參りあひけるに、空也上人のひだりの御手のかゞめりけるを、僧正、

「それは、何とて、かゞみたまふにか」

と、問ひたまふに、

「これは幼くて高き所より落ちて打ちおりて侍り」

とのたまふ。

「さらば祈り直して參らせんはいかに」

とのたまはするに、

「さも侍らば、しかるべきことにこそ」

と侍れば、

「さらば」

とて、不空羂索(ふくうけんむじやく)の神呪(しんじゆ)をとなへて祈り給ふ事、三返(べん)いまだ終らざるに、手のかゞみ、直(なを)り給ひにけり。法のしるしも貴(たうと)く、僧正も貴くぞ、おぼえ給ふ。

 しかのみならず、一條院の御位(おんくらい)のとき、やまとより瓜を參らせて侍(はべり)けるに、雅忠と云(いふ)醫師の折節、御前にさふらひけるが、

「此瓜の中に、その一には大なる毒をふくめり。食ひなん物は、やがて失(う)すべし」

と申(まうす)。このよし、みかどに奏し奉るに、

「不思義にこそ。晴明、申(まうす)旨(むね)やある。彼を召せ」

とて、晴明と云(いふ)陰陽師を召(めさ)されて、

「この瓜の中には、いかなる事かある。占ひ申せ」

とおほせくださるるに、晴明ほどなく、

「大なる靈氣あり」

と奏すれば、

「さらば行尊に祈らせよ」

とて召されて、神呪にて祈り給ふに、やゝ時もかへず、おほくの瓜の中、大なる瓜一、いたじきより二三尺ばかりを躍りあがる事たびたびして、はては中より、二にわれて、一尺あまりなる蛇(くちなは)一筋、はひ出て、則(すなはち)、死にけり。いと不思議にぞ侍る。

 上古もかゝることをきかず、末の世にもあるべしともおぼえ侍らぬ事に侍り。雅忠、晴明、行尊の時の面目(めんぼく)、ゆゝしくぞ侍りける。いまの世のくだりて、かゝるめでたき人々もおはせぬこそ、世を背(そむ)きける事なれども、かなしくおぼえて侍れ。

   *

以下、簡単に語注する。

・「平等院僧正」天台僧行尊(ぎょうそん 天喜三(一〇五五)年~長承四(一一三五)年)。「平等院大僧正」の尊称で知られた。参議源基平の子。嘉承二(一一〇七)年に鳥羽天皇即位に伴ってその護持僧となり、加持祈祷によりしばしば霊験を現したことから、公家の崇敬が篤かった。後に園城寺の長吏に任じられ、保安四(一一二三)年には天台座主となったものの、延暦寺と園城寺との対立によって、六日で辞任している。天治二(一一二五)年、大僧正。崇福寺・円勝寺・天王寺(四天王寺)など、諸寺の別当を歴任する一方で、衰退した園城寺をも復興した。歌人としても知られ、「百人一首」にも「もろともにあはれと思へ山櫻花よりほかに知る人もなし」(元は「金葉和歌集」「雜部上」の部(五二一番歌))(以上はウィキの「行尊」に拠った)。

・「空也」(延喜三(九〇三)年~天禄三(九七二)年)知られた口称(くしょう)念仏の祖で浄土教の先駆とされる名僧であるが、ご覧の通り、行尊の生年以前に亡くなっており、二人が逢うこと自体が出来ません! 後の一条天皇・安倍晴明に至っては話になりませんデス!

・「不空羂索(ふくうけんむじやく)の神呪」天台宗の尊崇する六観音の一つである。不空羂索観音の真言。「不空」は「虚(むな)しからざる(真(まこと)の相)」、「羂索」(「けんさく」とも読む)は元は鳥獣などを捕らえる繩の意。「心に念ずる「不空」の索(さく)を以ってあらゆる衆生を洩れなく救済する観音」の意味。天台系の同観音の真言は「オン・アモキャ・ハラチカタ・ウンウン・ハッタ・ソワカ」(ウィキの「不空羂索観音に拠る)。

・「一條院の御位(おんくらい)のとき」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)。言わずもがなであるが、彼の中宮藤原彰子は道長の娘であるから、原話との絡みはある。しかし本話には道長は出ず、一条天皇がホストであることに注意。

・「雅忠」先に出た典薬頭丹波忠明の子に、後冷泉天皇や関白藤原頼通の病いを快癒させた名医丹波雅忠(治安元(一〇二一)年~寛治二(一〇八八)年)がいるが、やはり時代がゼンゼン合わない

「いたじき」「板敷」。

「二三尺」凡そ六十一~九十一センチメートル。この描写は、いい。

「一尺」約三十センチメートル。ここも数値が出るのがリアルに見えるが、ちょっと長過ぎく、ね? でも、それがより怪奇ではある。やっぱり、いい。

「世を背(そむ)きける事」通常、「世をそむく」とは出家遁世することだが、それでは意味が通らぬ。ここは尋常でない、俗人の人知では測り知れぬ超自然な能力の謂いであろう。

 

 而して、今一つ、ある。臨済宗僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年:京都出身)が元亨二(一三二二)年に漢文体で記した日本初の仏教通史「元亨釋書(げんこうしゃくしょ)」(全三十巻)の「四卷」の「園城寺勸修」の条である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を探し、やっと見つけた。視認して以下に原文の漢文白文の当該箇所を示す。但し、一部の漢字を補正(「瓜」は第五画がない)、一部に句読点と記号を恣意的に配した。

   *

術家、白藤府言、「某日、家内有恠。」。至期、相國、閉門謝客。晡時、有叩者。問之對曰、「和州之瓜使也。」。開門納之。于時修在座。大史安晴明、大醫重雅、預焉。相國、顧安大史曰、「家裏有齋祓。不知此瓜可甞不。」。晴明曰、「瓜中有毒。不可輙啖也。」。相國、語修曰、「許多瓜子何爲毒乎。」。修、誦呪加持。忽、一瓜宛轉騰躍。一座驚恠。重雅、乃、袖出一針、針瓜。其動、便、止。割見、中有毒蛇。針、中其眼。蓋、術家之言、是也。都下、嘆三子之精其術矣。

   *

「藤府」はあまり聴かないが、藤原道長の屋敷の意(後の「相國(しやうこく)」は太政大臣の唐名で藤原道長のこと)。「恠」は「怪」と同字。この話は「諸國百物語卷」が元にしたと思われる原型により近いものと私には思う。阿倍晴明に丹波重雅、そこに先の勧修が絡む話柄である。「重正」はもとより、「勸修(くわんしゆ)」も、この「諸國百物語卷」の「欽朱(きんしゆ)」と、これ、何となく音が近いではないか。だいたい意味はとれるが、わからんという人のために、国立国会図書館デジタルコレクションの、同書を恵空が注した「通俗元亨釈書和解」(明治二六(一九〇三)年法蔵館刊)の当該箇所を視認して電子化しておく(完全に手打ちなので読みは一部のみとした。その代り、句読点や濁点を追加、直接話法を改行して読み易くした。踊り字「〱」は正字化した)。

   *

ある日の事なるに、陰陽の術を卜(うらな)ふ人、藤(ふぢ)の相國の舘(たち)に言(まふ)し達しけるハ、

「某日(そのひ)、某(その)折節にもなりなバ、かならず、家の内に恠知(けち)の事あるべし、用心専要(せんえう)たり。」

と告知(つげしら)せたりしかば、その日において、かたく門を閉(とぢ)て、來(きた)れるをも、不逢(あはで)歸されけるに、夕方の七(なゝつ)時分にいたりて、表を叩(たゝく)ものあり。

「誰(たそ)や。」

と問(とひ)ければ、

「和州よりまいりたる、瓜の使(つかひ)にて侍る。」

と答へしゆへ、これハ別義もあるまじき事とて、門をあけて内に納(いれ)たりけるに、その時、勸修も同座に列なれたり。大史(たいし)安部晴明及び大醫重雅も同じく座して居たりけり。其時に相國は晴明が方を見やりていへらく、

「そもそも今日は家内(かない)に齋(いみ)の祓(はらひ)のある碑なりけれども、かゝる瓜は食しても苦敷(くるし)からぬ事なりや。」

と問(とは)れけれバ、晴明は曰、

「瓜の中に毒の侍る事なれば、たやすくまいる事無用なり。」

とありしかば、相國、これをきゝて、勸修に語りて曰、

「かほど數子(あまた)の瓜子(うり)の中にて、何(いづれが毒あるものならん。」

と問(とは)れしにより、勸修、そのまゝ咒(しゆ)を誦(じゆ)して加持せられたりしかば、忽(たちまち)、一(ひとつ)の瓜、しきりにおどり出(いで)て、ふしまろびぶるを、一座の人々、これを見て驚きあやしむ氣色(きそく)なりけり。其時にあたりて、重雅ハ、すなはち、袖よりしも、一(ひとつ)の針を取出(とりいだ)して、其瓜に刺(さし)たりければ、其動ける瓜、たちどころに靜まりてもとのごとくになれり。やがて、これを割剖(さきわり)て見れば、中に一疋の毒蛇あり。其眼(まなこ)を針にて通してぞありし。されば、先の占(うらなひ)を告(つげ)たる人の言(いへ)ることは此蛇の事としられたり。京中の傳へ聞(きく)人々、此三人、何れおそそかなるもなく、皆、其術(じゆつ)に長じたる事を奇特(きどく)の事と嘆じけり。

   *

以下、簡単に語注する。

・「七(なゝつ)時分」午後四時頃。

・「大史(たいし)」読みは「だいし」が普通。は神祇官・太政官(だいじょうかん)の主典(さかん)のうちで「少史」の上に位する職であるが、安倍晴明は「大史」であったことはない。天文博士で陰陽寮の中でも実力は高く評価されていたものの、陰陽寮の長官である陰陽頭(おんみょうのかみ)には就いていない。ウィキの「安倍晴明によれば、『天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し』、『主計権助』(ごんおすけ)『を務めた』。『その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し』、最終的に『位階は従四位下に昇った』とあり、太政官大史は正六位上相当であるから、最後の官位は「大史」より遙かに高位ではあった。

「氣色(きそく)」ママ。気色(けしき)。「氣息」で息を呑んでいるという感じを出したものか。

「奇特(きどく)」ここは所謂、「不思議な効力・霊験」の意。私はこの意の場合、やはり「きとく」ではなく「きどく」と濁りたくなる人間であるから、とても、いい。この恵空の釈文、実に、いい。

 ともかくも、にしても、この毒瓜、明らかに道長(或いは一条天皇)の命を狙った叛逆(大逆)行為であって、これだけが切り離されて、かくも語られ、瓜を持って来た使者の探索と捕縛、黒幕の正体を暴くところまで展開しないのが、やや不満の残るところだが、これはもう、ほれ! かの安倍晴明とライバル関係にあり、同等の恐るべき呪術を持っていたとされ、藤原道長の政敵であった左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされる非官の陰陽師蘆屋道満(あしやどうまん。「道摩(どうま)法師」とも)に決まってる、わけよ。

 

 余り必要を感じないが、取り敢えず「諸國百物語」の本文に必要な点を注しておく。

「長德」九九五年から九九九年。

「ゑい山(ざん)」比叡山。

「欽朱(きんしゆ)」不詳。前に述べた通り、「勸修」の音を聴き違えたか?

「安倍淸明」ママ。こう書かれるようになったのは、鎌倉末から室町初期に書かれた陰陽道書「簠簋(ほき)内伝」以降で、やはり「晴明」が正しい。

「しげまさ」後で「重正」と漢字表記するが、ここはまさに丹波重雅であって何ら、問題ない。

「かぢ」「加持」。加持祈禱。

「道長、此うりをわりて見られければ」本話は瓜の割り役を道長にしているが、大事を考えればあり得ぬ。やはり施術した本人である「しげまさ」が割るのが筋であろう。或いは、最初に不審を述べた責任上から見るなら、「阿倍淸明」である。]

私の小説作法   梅崎春生

 

「小説」というものは、それがつくられるためにいろいろと複雑な個人的(また社会的)な条件があり、また単に技術だけで製作されるものではないから、その「小説作法」なるものは「ラジオの組立て方」とか「ダンス教習法」などとは根本的に異なる。かんたんに伝授出来るわけのものでない。また伝授される側からしても、研鑚(けんさん)これ勉めてついに免許皆伝にいたる、という筋合いのものではない。

 もし「小説」が、剣術あるいは忍術に類するものであれば、世の小説家は絶対に「小説作法」なるものを書かないであろう。その「小説作法」を皆が読み、その奥義を会得することによって、やがて師をしのぐ作品をどしどし書かれては、今度は師の方が上ったりになるからである。それでは困る。私だってそうやすやすと上ったりになりたくはない。しかし小説というものは、現在においてはそういう仕組みのものではなく、伝授不可能なものが大部分を占めているので、私も安心して「私の小説作法」が書ける。

 現在においては、と今書いたが、将来小説はどうなって行くか。それは私も予想出来ないけれども、あるいは将来において、小説の実質がすべて技術的なもので充たされる、ということも考えられないでもない。つまり小説が、創作されるという形から、合成されるという形に変って行き、その小説製造者も個人から集団ということになって行く。現在の映画製作のような機構になって、小説が合成されるだろうということを、私はかつて考えたことがある。

 そうなれば個人の作家というのはなくなって、あいつは筆がなよやかだから濡れ場のところを分担させようとか、こいつは間抜けた才能があるからギャグ効果を受け持たせようとか、それぞれの技術と才能において小説に参加する。もうそうなると小説も「作法」などというなまやさしいものでなくなってくる。そういう大小説になると、個人としての批評は細微の点までつけなくなるので、批評家たちも集団を組んで、批評文の合成をもってこれに対抗する。

 そうなればそんな大小説も大評論も、読者個人個人の鑑賞の手にあまるから、誰も読まなくなってしまう。誰も読まないとなると、小説も評論も企業として成立しなくなり、そこで文学は終焉(しゅうえん)する。文学者たちはみんな失業し、六月間失業保険の支給を受けたのち、それぞれニコヨンなどに転落して行く。寒空の道路工事場でスコップの手を休め、水洟(みずばな)をすすり上げながら、昔日の小説家の幸福をうらやむということになるかも知れない。

 しかし私が生きている間には、まだそんな事態は来ないだろう。来たらたいへんだ。来るということを考えたくない。

 小説というものは大体十九世紀が頂点で、以後徐々に下降して行く傾向にある。小説家の幸福もその線に沿って下降して行く。個人の豊かな結実、その豊かさがだんだん減少し、貧弱になってゆく。他の人間、他の職業人と同じく小説家自身もだんだん細化され分化されて行く。一方社会機構はその細分化された人間を踏み台にして、ますます複雑化されふくれ上って行く。個人としての小説家は、もうその弱々しい触手をもってしては、厖大(ぼうだい)なる社会機構をとらえることは出来ない。機械の中の一本の釘となり、硬直した姿勢で、釘としての役目を果たすことで精いっぱいになってしまうだろう。

 破局的なことばかり書いたが、幸い現在はまだそこまで押しつまっていないので、小説家が自由業として成立する。現在小説家という職業は、身分的に言ってもあやふやなものであるが、仕事の内容もあやふやであって、明確にされていない部分が非常に多い。小説を書こうという衝動、発想、それらと現実との関係、現実を再編成して第二次の現実をつくり出す方法や技術、その間における作家の責任、その他もろもろのことが、ほとんど明確に規定されることなく、作家の個人個人の恣意(しい)(?)に委せられている。だから小説家は自分の方法をもってそれぞれ作品をつくっているわけであるが、自分の方法と言ってもあいまいなもので、精密な設計図として内部にあるのではなく、大ざっばな見積りとしてしかないのである。いや、見積りという程度のものもなくても、小説作製は可能である。自分の内部のものをむりに明確化し図式化することは、往々にしてその作家の小説をだめなものにしてしまう。むりに見積らない方が賢明であるとも言える。自分の内部の深淵、いや、本当は深淵でなく浅い水たまりに過ぎないとしても、それをしょっちゅうかき廻し、どろどろに濁らせて、底が見えない状態に保って置く必要がある。底が見えなければ、それが深淵であるか浅い水たまりであるか、誰にも判りゃしない。自分にすら判らない。自分にも判らない程度に混沌とさせておくべきである。その混沌たる水深が、言わば作家の見栄のよりどころである。作家という職業は虚栄心あるいはうぬっぼれが強烈でなければ成立しない職業であって、それらを支えているものがその深淵であり、あるいは深淵だと自分が信じているところの水たまりなのである。一朝ことあってその水たまりが乾上り、自分が小説を書く技術だけの存在になったと自覚した時、その作家は虚栄心を打ちのめされて絶望するだろう。絶望したとたんに、作家以外のものに変身するだろう。たとえ小説作製は相変らず継続して行くとしても。

 小説家というものは、判らないからこそ小説を書くのである。判ってしまえば小説なんか書かない。小説家は何時もそんな逃げ口上めいた言い訳を持っている。デーモン、いやな言葉であるが、そんなもの持ち出して来る。自分の内部の水たまりに、そんな主が棲息しているかどうか、ひっかき廻しても幸いにどろどろに濁っているので、自分にも判然しない。判然しないけれども、そうだと信じさえすれば、それは棲息しているのと同様である。いてもいなくても、要は信じること。他のことは何も信じないでもいいが、これだけはこの職業では信じなくてはならない。自分は才能は貧しくとも、芸術家としては一流でなくても、ほんものにせものかという点では、断じてほんものであるという自覚、これが大切である。

 この私の考え方はやや古風な考え方であって、私以前の文学者の心得みたいなものなのであるが、まだこれはすぐに廃(すた)る考え方ではないから、今から文学に志そうとする人も、これを一概にしりぞけない方がいいだろう。昭和初年の文学青年たちは、みんなそれを信じることによって生きて来た。あの頃文学に志すことは、現今と違って、ほとんど現在を捨てることと同義であった。自分の水たまりに棲むものが、竜であるか、あるいはドジョウであるかミジンコであるか、一生かかっても判らないことだ。その判らないことの上に、文学者の意識なり生活なりが成立する。その成立の状況もいろいろあやふやなものがあって、内部の水たまりが乾上ったのに、乾上ったという自覚症状がなく、そのまま継続している場合もあれば、水たまりはそのままでも、ドジョウそのものは腹を上にして死んで浮き上っているという場合もある。複雑多岐であって、そこらのかねあいがむずかしい。

 とにかくそういう個々の立場から、小説家たちはそれぞれ自分の方法で、現実の一片を切り取ってそのまま書くとか、すこし変形して書くとか、架空の材を使って書くとか、いろいろのことをやる。れいのドジョウとのかかわりの上において、あるいはかかわったつもりの上において、小説というものが作られる。「私の小説作法」という題で、私は自分の事は語らず、なんだか見当違いの事ばかり書いてしまった。書き直す時日もないのでこのまま出すが、まことにだらしなく申し訳がない。

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年二月号『文芸』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。

「ニコヨン」日雇労働者を指す俗語。昭和二四(一九四九)年に東京都職業安定所が失業対策事業として定めた日雇労働者の定額日給が二百四十円で、それが当時の百円札で二枚(二個)と十円札四枚に相当したことに由来する。現行では放送コードその他により「差別用語」「死後」扱いに近く、由来自体が理解されないことから、「日雇い(労働者)」と言い換えられることが多いようである。

「デーモン」demon。悪鬼・鬼・悪魔。この demon は元来はギリシャ神話で神々と人間との中間にあると考えられた悪魔を指し、後のキリスト教に於ける神に対する悪魔は devil と区別される。

「ドジョウ」泥鰌。狭義の本邦産のそれは動物界 Animalia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 条鰭綱 Actinopterygii 骨鰾上目 Ostariophysiコイ目 Cypriniformes ドジョウ科 Cobitidae ドジョウ属 Misgurnus ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus

「ミジンコ」「微塵子」は単一種を指す種名ではなく、淡水・汽水・海水中でプランクトンとして生活する微小甲殻類の総称俗称で、主に

・鰓脚綱枝角(ミジンコ)目(動物界節足動物門 Arthropoda 甲殻亜門 Crustacea 鰓脚綱 Branchiopoda 葉脚亜綱 Phyllopoda 双殻目 Diplostraca 枝角亜目 Cladocera)に属する異脚下目 Anomopoda・櫛脚下目 Ctenopoda・鉤脚下目 Onychopoda・単脚下目 Haplopodaに分類される多種多様な種群

・甲殻亜門顎脚綱 Maxillopoda 貝虫(かいちゅう)亜綱 Ostracoda ミオドコーパ上目 Myodocopa ミオドーコ目 Myodocopida の、主に淡水産の貝虫類の中でも橈微塵子(カイミジンコ)と呼ばれる多種多様な種群

・甲殻亜門顎脚綱 Maxillopoda カイアシ亜綱 Copepoda キクロプス目 Cyclopoida キクロプス(ケンミジンコ)科 Cyclopidae キクロプス(ケンミジンコ)属 Cyclops に属する剣微塵子(ケンミジンコ)類

・枝角亜目異脚下目ミジンコ科 Daphniidae ミジンコ属 Daphnia のミジンコ Daphnia pulex などに代表される多種多様なミジンコ類

を指すが、概ね、我々が形状としてイメージするそれは最後の名にし負うところの、ミジンコ Daphnia pulex である。]

2016/10/09

本日これにて閉店

本日は町内会役員として市民運動会の手伝いにて、これにて閉店 心朽窩主人敬白

『悪い仲間』 安岡章太郎著   梅崎春生

   『悪い仲間』

     安岡章太郎著

 

 安岡章太郎君とは、今まで二度会ったことがある。初対面のときは日比谷のどこかの店で、四五人のひとと一緒に飲んだり話したりした。どんなことを話し合ったか、今はよく覚えていない。それから十日ほど経って、新宿の某店に私がいると、偶然そこに本誌のK君が入って来た。連れが一人いる。その連れが私ににこにこ笑いかけながら、この間はどうも、などとあいさつをした。ジャンパーを着込んだ、若いような歳とってるような、あまり見覚えのないような人なので、私はうけ答えに困って、あいまいな挨拶でごまかした。後でE君の言で、その人が安岡君だと判り、私はすこしへどもどした。日比谷のときは安岡君とは並んで坐ったので、ついによく貌(かお)を眺める機会がなく、記憶するめどを摑みかねたのであろう。しかし二度目のときはしげしげと眺め、大体のめどは摑んでおいたから、もう失敗することはない。今度この『悪い仲間』を通読し、あの安岡君のふしぎな風貌がちらちらと浮び上ってきて、むしろ困惑したほどである。

 この書に収められた八篇は、大体雑誌ですでに読んだものばかりだが、こうして一書に収められると、どの篇の主人公も「僕」または「私」であることが目立つ。そしてその僕や私は、境遇的に一致しているところをみると、この人は本質的に私小説作家だということが判る。しかしふつうの私小説のように、初めに自我(のようなもの)があり、それが現実と摩擦してじたばたするという形ではなく、安岡君においては主体は最初から刃こぼれがしていて、だから現実に対しては闘いというより、遊びという形で出ているように思う。たしか梶井基次郎の小説の中に、指で片眼を押して風景が二重に歪んで見える、それをたのしむ描写があったと思うが、安岡君のやり方もちょっとそれに似ている。しかし梶井とちがうのは、安岡君は自分自身をもその歪んだ風景の中に押し出し、他の物体や影像と等価値のところに置き、そして作者は自分自身の影像をかなり自由に、そして効果的に操縦しているような趣きがある。梶井基次郎の「悲しい遊戯」が、ここでは悲壮さとか深刻さを失い、柔軟な日常的なものとして描出される。だから安岡君の小説中の人物は、主人公も諸人物も、それを取巻くすべての環境も、すべて関節をごくんと外されてぶらぶらになり、そのぶらぶらの不安定性において一次元をつくっている。その次元を的確な感覚によって造形し得たのは、ひとえに安岡章太郎君の功績であり、つまり彼の個性ということになるだろう。

 最後に平凡なことをつけ加えれば、この一書には発展(あるいは発展の予想や予感)は全然なく、あるのは反復のみである。しかし発展などとは、何と月並みな言葉であることか。

 

[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。冒頭から第四文の「本誌」の後にはポイント落ちで『(「群像」)』という割注が入るが、これは底本全集編者の仕儀と断じて、除去した。

「悪い仲間」この年に文藝春秋新社 から刊行した安岡章太郎(後注)の作品集。

「安岡章太郎」(大正九(一九二〇)年~平成二五(二〇一三)年)。高知県高知市生まれ。慶應義塾大学文学部英文学科卒。ウィキの「安岡章太郎」によれば、昭和一九(一九四四)年慶応在学中に『陸軍に学徒動員で召集され』、『東部第六部隊へ入営』、『満州に送られた。部隊では射撃の最優秀兵であったが「銃の手入れが悪い」と叱責される模範的でない兵隊であった。翌年肺結核により除隊処分となり』、『内地送還された。なお、部隊はその後に全滅』、『数少ない生き残りとな』った。『戦後、復学するも陸軍少将の父は敗戦により失職し、復員後も公職にはつけなかった。そのため、家族は収入のほとんどを失った。結核菌による脊椎カリエス(結核性脊椎炎)を患い、大きな肉体的・精神的苦痛』の中、『コルセットをつけながら、吉行淳之介や阿川弘之と盛り場などを遊び歩いたと』いう。昭和二六(一九五一)年に「ガラスの靴」が『芥川賞の候補作に選ばれ、文壇に注目され』二年後の一九五三年、選考委員の評価が真っ二つに割れながらも』「悪い仲間」及び「陰気な愉しみ」で芥川賞を受賞し、翌年には脊椎カリエスも自然治癒した、とある。梅崎春生より五つ年下。私は「私説聊斎志異」(一九七五年朝日新聞社刊)しか読んだことはなく、その印象も全く残っていない。悪しからず。

 

「たしか梶井基次郎の小説の中に、指で片眼を押して風景が二重に歪んで見える、それをたのしむ描写があったと思う」私は梶井基次郎を偏愛すること人後に落ちぬつもりであるが、この梅崎春生の言う作品を思い出せない。但し、一つ思い出すのは、「眼」ではなく「耳」のケースである。「器樂的幻覺」(昭和三(一九二八)年五月号『近代風景』初出)の中で以下のような記述が出る(底本は昭和四一(一九六六)年筑摩書房刊の旧「梶井基次郎全集第一卷」を用いた)。

   *

 讀者は幼時こんな惡戲をしたことはないか。それは人びとの喧噪のなかに圍まれてゐるとき、兩方の耳に指で栓をしてそれを開けたり閉ぢたりするのである。するとグワウツ――グワウツ――といふ喧噪の斷續とともに人びとの顏がみな無意味に見えてゆく。人びとは誰もそんなことを知らず、またそんななかに陷つてゐる自分に氣がつかない。――丁度それに似た孤獨感が遂に突然の烈しさで私を捕へた。それは演奏者の右手が高いピツチのピアニッシモに細かく觸れてゐるときだつた。人びとは一齊に息を殺してその微妙な音に絶え入つてゐた。ふとその完全な窒息に眼覺めたとき、愕然と私はしたのだ。

   *

もし、梅崎春生の言う通りのものが梶井の作品あるのをご存知の方がおられたら、御教授願いたい

『梶井基次郎の「悲しい遊戯」』この「悲しい遊戯」という言葉は名作「檸檬」の習作「瀨山の話」(リンク先は私の古いテクスト)の中に『そんなことから私は一つの遊戲を發見した。これもその頃の花火やびいどろの悲しい玩具乃至は樣々な悲しい遊戲と同樣に私の悲しい遊戲として一括されるものなのだが、これは此頃に於ても私の眠むれない夜の催眠遊戲である』と実際に主人公の言葉として出現する文字列でもある。]

谷の響 一の卷 三 山婦

 三 山婦(やまおみな)

 

 井筒村の農夫(ひやくしよう)ども、三人連立て羽州田代嶽(たしろだけ)の神に參詣(まうで)けるが、歸りに臨み路を外(はつ)していと嶮(けは)しき溪澗(たに)に出たりき。僉(みな)言ふ、この澗谷(たに)を傳ひて下らんには自ら麓に出べしとて、已に三町許來りしに懸岸(きりきし)百仭(たかく)溪流(たにみづ)瀧となりて、往くべき路を絶てり。

 されども山路に熟(な)れたる者どもなれば、下るべき路やあらんと各嵒頭(いわはな)に抉服(はらば)ひて底下(した)を臨み視るに、一個(ひとり)の婦人(おみな)の長六尺ばかりと覺しきが、肌膚(はだ)いと白く裸體(はたか)にして瀧壺の傍に下坐(すはり)て、いと長やかなる髮を水中に潟浸(ひた)し梳(くしけづ)りてありけるに、衆々(みなみな)太極(いたく)愕(おどろ)き懼(おそ)れ速急(はやく)去脱(にげさら)んとしけるうち、水を彈(は)き揚ること宛爾(さながら)大雨を逆(さかしま)に懸けたるごとく、看る々雲霧澗中(たに)に發布(おこ)り風雨暴(にはか)に生じて山中鳴り動(わた)り、大きさ胡桃(くるみ)ばかりの雹礫(あられ)を打つがごとく、樹々の梢は地を擻(はら)へり。[やぶちゃん字注:「嵒」は底本では上下「品」と「山」が逆転(「山」が上で「品」が下)の字体。表記出来ないのでこちらで示した。]

 三個(にん)は一步一跌(こけつまろびつ)して六七町可(はかり)趨(はせ)下りしが、漸々(しだいしだい)に雨歇み風治まりて淸亮(のどか)なる蒼穹(そら)に復(な)りたるに、はじめて蘇甦(いき)たる心地して路を速めて歸りしとなり。這(こ)は天保十年己亥の七月十七日の事なりしと、山吏(やまやくにん)岡本某親しく聞けること迚(とて)語られけり。

 

[やぶちゃん注:「山婦(やまおみな)」「山姫(やまひめ)」「山女(やまおんな)」などとも呼ばれる女の妖怪である。ウィキの「山姫」より引く。『東北地方、岡山県、四国、九州など、ほぼ全国各地に伝わっている』。『山女の名は民俗資料、中世以降の怪談集、随筆などに記述がある』。『各伝承により性質に差異はあるものの、多くは長い髪を持つ色白の美女とされる。服装は半裸の腰に草の葉の蓑を纏っているともいうが』、『樹皮を編んだ服を着ている』とか、『十二単を着た姿との』話もある。『熊本県下益城郡でいう山女は、地面につくほど長い髪に節を持ち、人を見ると大声で笑いかけるという。あるときに山女に出遭った女性が笑いかけられ、女性が大声を出すと山女は逃げ去ったが、笑われた際に血を吸われたらしく、間もなく死んでしまったという』。『鹿児島県肝属郡牛根村(現・垂水市)では山奥に押し入ってきた男を襲い、生き血を啜るという』。『信州(長野県)の九頭龍山の本性を確かめるために山中に入った男が、山姫に遭って毒気を浴びせられ、命を落としたという逸話もある』。『屋久島では山姫をニイヨメジョとも呼び、伝承が数多く残る。十二単姿で緋の袴を穿いているとも、縦縞の着物を着ているとも、半裸でシダの葉で作った腰蓑を纏っているともいうが、いずれも踵に届くほど長い髪の若い女であることは共通している。山姫に笑いかけられ、思わず笑って返せば血を吸われて殺されるという。山姫をにらみつけるか、草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる。しかし、山姫が笑う前に笑えば身を守れるとの伝承もある』。『かつて屋久島吉田集落の者が、山に麦の初穂を供えるため、旧暦』八月のある日に、十八人で『連れ立って御岳に登った。途中で日が暮れたため、山小屋に泊まった。翌朝の早朝、飯炊きが皆より早く起きて朝食の準備をしていたところ、妙な女が現れ、眠る一同の上にまたがって何かしている。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外の全員が血を吸われて死んでいたという』。『宮崎県西諸県郡真幸町(現・えびの市)の山姫は、洗い髪で山中で綺麗な声で歌を歌っているというが』、『やはり人間の血を吸って死に至らしめるともいう』。『同県東臼杵郡では、ある猟師が猿を撃とうとしたが不憫になってやめたところ、猿が猟師にナメクジを握らせ、後に猟師が山女に出遭ったところ、実は山女はナメクジが苦手なので襲われずにすんだという』。『大分県の黒岳でいう山姫は絶世の美女だという。ある旅人が山姫と知らずに声をかけたところ、山姫の舌が長く伸び、旅人は血を吸い尽くされて死んでしまったという』。『高知県幡多郡奥内村(現・大月町)では山女に出遭うと、血を吸われるどころか出遭っただけで熱病で死んでしまったといわれる』。『岩手県上閉伊郡上郷村(現・遠野市)の山女は性欲に富み、人間の男を連れ去って厚遇するが、男が精力を切らすと殺して食べてしまうという』。『これらのように山姫、山女は妖しげな能力で人を死に至らしめる妖怪とされるが、その正体は人間だとする場合もある』。『例として、明治の末から大正初めにかけ、岡山に山姫が現れた事例がある。荒れた髪で、ギロギロと目を光らせ、服は腰のみぼろ布を纏い、生きたカエルやヘビを食べ、山のみならず民家にも姿を見せた。付近の住民たちによって殺されたが、その正体は近くの村の娘であり、正気を失ってこのような姿に変わり果てたのであった。妖怪探訪家・村上健司は、各地に伝承されている山姫や山女もまたこの事例と同様、人間の女性が正気を失った姿である場合が多いと推測している』。『昭和に入ってからも山女の話はあり』、昭和一〇(一九三五)年頃、『宮城県仙台市青葉区で山仕事に出た女性が』三『歳になる娘を草むらに寝かせて仕事をしていたところ、いつしか娘が姿を消していた。捜索の末、翌朝に隣り部落の山中で娘が発見され「母ちゃんと一緒に寝た」と答えていたことから、人々は山女か狐の仕業と語ったという』。『また、屋久島では昭和初期になっても山姫やニイヨメジョの目撃例がある。「旧正月と』九月十六日には『山姫がバケツをかついで潮汲みに来る」「小学生が筍取りに行ったところ、白装束で髪の長い女に笑いかけられた」「雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。車に乗るよう勧めたが、そのまま行ってしまった」など、現代的な要素を含んだ実話として伝承されている』とある。大事なことがある。「おみな」というルビに騙されて「媼」(おうな)で婆(ばばあ)だと誤読してはいけない。身の丈は異常だが、彼女は、抜けるように白い、若い女、なのである

「井筒村」底本の森山泰太郎氏の「松原村」の補註に『南津軽郡大鰐町居土(いづち)。大鰐町から三ツ目内川を南にさかのぼること二キロメートル』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「田代嶽(たしろだけ)」現在の秋田県大館市の青森県県境近くにある、白神山地の属する田代岳。標高千百七十八メートル。ウィキの「田代岳」によれば、『山頂の田代山神社は円仁(慈覚大師)の創建とも、比内地方の修験道として先駆的地位にあった綴子村の常覚院の開基とも』され、『また「津軽の猟師彦之丞が獲物を追って田代岳山頂まで来たところ、そこで水田を発見する。呆然としているところに白衣白髭白髪の翁が現れる。この翁を白髭大神として祀ったのが、田代山神社の始まり」とも語られている。大館市の旧正月行事であるアメッコ市』(いち)『は、田代岳の白髭大神が飴を買いに来たという設定になっている』。『田代岳は山そのものが神体で、山神、田神、水ノ神、作神など農民の暮らし全ての守り神がいるところとされる』。『田代山山頂の田代山神社は南北朝時代に北畠顕家が建立したとされる。また、江戸時代には秋田藩の御用山師である伊多波武助が長慶金山の開発の成功を願って神社を建立したとも伝えられている』。『田代岳は、古くから水田信仰の山で』、『山頂にある田代山神社には五穀豊穣の神「白髭直日神」が祀られ、毎年、』半夏生(はんげしょう)の日(七月二日頃)には『例祭が催される。例祭の祭事として行われる「作占い」では、池塘を神の田とし、そこに自生するミツガシワやミネハリイを稲に見立てて、その生育具合や池塘の水の張り具合などからその年の稲作の豊凶を占う』。『昔は、九号目から山頂までに生えている細い木を折り小さく束ねて持ち帰り、束のまま神棚に供えて豊作を祈ったとされる。水田の水口に入れると虫除けになったとも言われる。この木の束は、山に登らなかった人への土産として喜ばれたとも言われる』。『田代山神社は天正年間の創建とされる』が、『作占いの神事は、江戸時代半ばには行われていたとの見方もあ』る、とある(但し、同ウィキの「ノート」にはこの記載への疑義と要検証要請が出されているので要注意)。

「外(はつ)して」ルビはママ。

「僉(みな)」「皆」。

「出べし」「いづべし」。

「三町許」「許」は「ばかり」。三百二十七メートル。余りにもしょぼい距離であるが、この時既にして異界への通路が開けている証しかも知れぬ。

「懸岸(きりきし)」崖。

「各」「おのおの」。

「嵒頭(いわはな)」(「嵒」は底本では上下「品」と「山」が逆転(「山」が上で「品」が下)の字体)「巖鼻」。

「抉服(はらば)ひ」「腹這ひ」。但し、この文字列で何故、かく読めるのかは私には判らない。

「底下(した)」二字へのルビ。

「長六尺」背丈が一メートル八十二センチ弱。

「裸體(はたか)」ルビはママ。以下、確信犯の美事な当て読みがバクハツ!

「下坐(すはり)て」二字へのルビ。

「潟浸(ひた)し」二字へのルビ。「潟」の用字は不審。「瀉」(水を注ぎかける)の誤字ではあるまいか?

「太極(いたく)」二字へのルビ。

「速急(はやく)」二字へのルビ。

「去脱(にげさら)ん」二字へのルビ。

「水を彈(は)き揚ること」ここは滝壺に落ちた水が逆に舞い上がってくるのである。実にダイナミックな怪異であるが、実際には、多量の水が滝として落ちる場合には、ごく普通に起こり得る現象ではある。それに場違いな女怪の姿がある種の増幅的怪異認識を生じさせたとも言える。

「宛爾(さながら)」二字へのルビ。

「看る々」「みるみる」。

「澗中(たに)」二字へのルビ。

「發布(おこ)り」二字へのルビ。「大瀑布」の謂いからも腑に落ちる用字である。

「暴(にはか)に」「俄かに」。「暴」は「急」の意がある。

「鳴り動(わた)り」地響きを伴う鳴動が広く発生し。

「雹礫(あられ)」二字へのルビ。ここは「ひよう」(ひょう)と振りたいところ。「霰」(あられ)じゃあ、小粒で面白(おもろ)くないて!

「一步一跌(こけつまろびつ)」「跌」は「躓(つまず)く・足を踏み外す」の意。当て読み、サイコー!

「六七町」六百五十五~七百六十三メートル。

「可(はかり)」ルビはママ。

「趨(はせ)」「馳せ」。「趨」は「目的を目がけて行く・馳せ向かう」の意を持つ。

「雨歇み」「あめ、やみ」。

「淸亮(のどか)なる」「亮」には「穢れがなく明るい・はっきりとしている」の意がある。

「蒼穹(そら)」晴れ渡った青空。

「蘇甦(いき)たる」二字へのルビ。

「這(こ)は」これは。近称の指示代名詞。現代中国語で同様に用いられるが、宋代に「これ」「この」という意味の語を「遮個」「適個」と書いたが、その「遮」や「適」の草書体を誤って「這」と混同して誤認した慣用表現である。

「天保十年己亥の七月十七日」「天保十年」の干支は正しく「己亥」(つちのとい)で、グレゴリオ暦では同年の「七月十七日」は一八三九年八月二十五日に相当する。

「山吏(やまやくにん)」山役人。「山奉行」「山廻(やままわり)役人」とも呼称した。幕藩体制下の藩の直轄林の実務管理や監視及び伐採作業の現場監督をした末端の下役人。]

諸國百物語卷之三 八 奧嶋檢校山の神のかけにて官にのぼりし事

     八 奧嶋檢校(をくしまけんげう)山の神のかけにて官にのぼりし事


Yamanokami

 奧嶋檢校といふ人、そのむかし六十餘(よ)まで官ひとつもせざりしゆへ、ほうぼうかせぎにあるくとて、熊野にて山みちにふみまよひ、大きなる木のかげにたちより、しばし、やすらいゐたる所に、木のそらより大きなるこゑにて、

「座頭、座頭」

とよぶ。奧嶋、おどろき、かうべを地につけ、へんじしければ、

「ひだるくは、これをくへ」

とて、あたゝかなる赤飯をあたへける。奧嶋、なに人なればと、ふしぎにおもひけれども、あまりにうへつかれたれば、

「かたじけなし」

とて、くひければ、又、大きなるこゑにて、

「座頭、さむくは、これをきよ」

とて、木のそらより、ふりそでの小そでを、をろしければ、奧嶋、いたゞき、此小袖を下にきて、上には、わがきる物をきたり。又、木のうへより、

「座頭、里へ出でたくは、みちをおしえてとらせん。わがこへにつきてゆけ」

と云ふ。

「かたじけなし」

とて、あゆみければ、あなたこなたと道をおしへけるが、はじめ、奧嶋ひとりあゆみきたるときは、いわがんせきにて、なかなか、あゆみがたかりしが、此こゑにつきてあゆみければ、たゝみのうへをあるくやうにおぼへて、ほどなく里に出でけるが、

「その家にやどをとれ」

と、をしへ給ふゆへ、をしへの家に宿をとりければ、ていしゆ、いろいろちそうして、まづ、赤飯をふるまひける。奧嶋、またこゝにてもせきはんをふるまふ事のふしぎさよと、おもひければ、ていしゆ、此けしきを見て、

「座頭どのは、なにとやらん、ふしぎなるけしきをし給ふものかな。いかなるゆへぞ」

と、とひければ、

「されば、その事、さきほど、此山みちにふみまよひ候ふ所に、かやうかやうのやうす候ひて、せきはんをたべ候ふが、此あぢわひに、すこしもたがい申さず候ふ」

とて、有りししだいをかたり、下にきたりし小袖をのぎて見せければ、ていしゆ、おどろき、

「さてさて、ふしぎなる事かな、それがしがむすめ、ことし、十五さいになり申すが、此ほど、疱瘡(はうさう)をいたし候ふが、山の神に、りうぐはんしければ、さはりなく、へいゆいたし候ふゆへ、赤はんをむし、むすめがはだにきたる小袖をそへ、山の神にそなへしが、さては座頭どのは山の神の氣に入り給ふ人とみへたり」

とて、ことのほかにちさうして、

「山の神をいのらんとおもふ人は、此座頭どのをちさうせられよ」

と、里中へふれければ、われもわれもと、ちさうしけるほどに、くわぶんに金銀をもうけ、七十三にて檢校になり、十らうのうちまでへあがり、九十までゐきられて、寛永十四年にはてられける也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは頭の汚損がひどいが、「けんけう(或いは「げう」)山神のかけにて官に上事」である。

「奧嶋檢校(をくしまけんげう)」不詳。検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位(「検校」の下に降順で「別当」・「勾当(こうとう)」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」・「市名(いちな)」・「都(はん)」があった)の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座(とうどうざ)を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』七十三の『位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』(下線やぶちゃん)。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある。即ち、この「奥嶋」なる人物は才能や技術等に欠いていたから盲官の官位が上らなかったのではなくて、専ら昇進に必要な金がなかったからなのである。本話柄はそうした盲官の官位は金で買うのが普通であったという事実を理解していないと、よく判らない

「山の神のかけにて」「山の神」ウィキの「山の神」より引く。『実際の神の名称は地域により異なるが、その総称は「山の神」「山神」でほぼ共通している。その性格や祀り方は、山に住む山民と、麓に住む農民とで異なる。どちらの場合も、山の神は一般に女神であるとされており、そこから自分の妻のことを謙遜して「山の神」という表現が生まれた。このような話の原像は『古事記』、『日本書紀』のイザナミノミコトとも一致する』。『農民の間では、春になると山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰がある。すなわち』、一つの神に「山の神」と「田の神」という二つの『霊格を見ていることになる。農民に限らず日本では死者は山中の常世に行って祖霊となり子孫を見守るという信仰があり、農民にとっての山の神の実体は祖霊であるという説が有力である。正月にやってくる年神も山の神と同一視される。ほかに、山は農耕に欠かせない水の源であるということや、豊饒をもたらす神が遠くからやってくるという来訪神(客神・まれびとがみ)の信仰との関連もある』。『猟師・木樵・炭焼きなどの山民にとっての山の神は、自分たちの仕事の場である山を守護する神である。農民の田の神のような去来の観念はなく、常にその山にいるとされる。この山の神は一年に』十二人の『子を産むとされるなど、非常に生殖能力の強い神とされる。これは、山の神が山民にとっての産土神でもあったためであると考えられる。山民の山の神は禁忌に厳しいとされ、例えば祭の日』(一般に十二月十二日、一月十二日など十二にまつわる日)『は山の神が木の数を数えるとして、山に入ることが禁止されており、この日に山に入ると木の下敷きになって死んでしまうという。長野県南佐久郡では大晦日に山に入ることを忌まれており、これを破ると「ミソカヨー」または「ミソカヨーイ」という何者かの叫び声が聞こえ、何者か確かめようとして振り返ろうとしても首が回らないといい、山の神や鬼の仕業と伝えられている』。『また、女神であることから出産や月経の穢れを特に嫌うとされるほか、祭の日には女性の参加は許されてこなかった。山の神は醜女であるとする伝承もあり、自分より醜いものがあれば喜ぶとして、顔が醜いオコゼを山の神に供える習慣もある。なお、山岳神がなぜ海産魚のオコゼとむすびつくのかは不明で、「やまおこぜ」といって、魚類のほかに貝類などをさす場合もある。マタギは古来より「やまおこぜ」の干物をお守りとして携帯したり、家に祀るなどしてきた。「Y」のような三又の樹木には神が宿っているとして伐採を禁じ、その木を御神体として祭る風習もある。三又の木が女性の下半身を連想させるからともいわれるが、三又の木はそもそもバランスが悪いために伐採時には事故を起こすことが多く、注意を喚起するためともいわれている』とある。この山の神がオコゼを好むという伝承についての考証は私の古い電子テクスト、南方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」を参照されたい。「かけにて」は「お蔭で」の意。

「ほうぼうかせぎにあるくとて」「方々稼ぎに步くとて」。前々注末尾を、必ず、参照。

「木のそら」「そら」は「空」で天辺(てっぺん)の意。

「かうべを地につけ」目が見えないけれども、尋常ならざる位置から声が聴こえたので反射的に超自然の神聖を無意識に感じた故の拝跪であろう。この意識が続かなかったのは、彼が盲人であったこと、与えられたものが現実の食品や衣類であったからである。

「ひだるくは」「饑(ひだる)くは」。空腹であるなら。飢えてひもじいならば。「は」は係助詞で順接の仮定条件を示す。「ば」の濁音が落ちたものととってもよい。

「うへつかれたれば」「餓ゑ疲れたれば」。歴史的仮名遣は誤り。

「さむくは」「寒くは」。「は」は同前。

「はじめ、奧嶋ひとりあゆみきたるときは」この謎の人物に逢う前、奥嶋が独りで山中を踏み迷っていた折りには。

「いわがんせきにて、なかなか、あゆみがたかりしが」「巖(いは)岩石(ぐわんせき)にて、なかなか、步み難かりしが」。歴史的仮名遣は誤り。

「ちそう」馳走。饗応。後の出て来る里人の「ちそう」は酒食のそれではなく、金品の贈与で、それも「馳走」と一般に呼んだ。

「座頭どのは、なにとやらん、ふしぎなるけしきをし給ふものかな。いかなるゆへぞ」本「諸國百物語」の面白さはある意味、極めて近代的な戯曲的映像的表現手法にあると私は思う。ここでも「亭主、いろいろ馳走して、まづ、赤飯を振舞ひける」でフィルムがカットされ、「奧嶋、また此處にても赤飯を振舞ふ事の不思議さよと、思ひければ」で奥嶋の頭を傾げて不思議そうにするアップでカット、「亭主、此の氣色(表情)を見て」で亭主のアップ、そうしてこの台詞と続くのは、これ、実に映画的なモンタージュなのである。くどいように思える叙述が少しも五月蠅くないのは、それらが脳内で映像として分かり易く再現されるように書かれてあるからに他ならない

「のぎて」「脱ぐ」の方言として、今もかなりの広域で用いられている。

「疱瘡」天然痘(痘瘡(とうそう))。天然痘ウィルス(第一群 Group I(二本鎖DNA dsDNA viruses)ポックスウイルス科 Poxviridae チョルドポックウイルス亜科 Chordopoxvirinae オルソポックスウイルス属 Orthopoxvirus 天然痘ウイルス Variola virus )を病原体とする感染症の一つで、非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。歴史的に世界中で「不治の病い」「悪魔の病気」と恐れられてきたが、世界で初めて撲滅に成功(WHOによる地球上からの天然痘根絶宣言は一九八〇年五月八日)した感染症である。

「りうぐはん」「立願(りふぐわん(りゅうがん))」。歴史的仮名遣は誤り。神仏に願(がん)かけをすること。

「さはりなく、へいゆいたし候ふ故」「障り無く、平癒致し候ふ故(ゆゑ)」。歴史的仮名遣は誤り。天然痘は、致死率が四十%前後と高く、治癒しても全身性の瘢痕(はんこん:あばた)を残すことが多く、それが顔面に残った女性は人生が変えられてしまったのである。ここはそうした「あばた」も残らずに軽症で済んだことを言っているのである。

「むすめがはだにきたる小袖」奥嶋が肌身につけたそれ。言っておくが、奥嶋が天然痘に罹患しなかったことは幸いであったウィキの「天然痘」によれば、『天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたが落下したものでも』一『年以上も感染させる力を持続する』とあるからである。

「くわぶん」「過分」。

「十らう」検校の中の最高位は「総録検校」と称し、その下に「一」から「十」までの十老検校がいた。この場合はその「総録検校」の下位の「十老検校」の地位層全体を指している。言わば、ナンバー2まで昇進した、というのである。

「うちまでへあがり」「内までへ昇り」「へ」は動作・作用の帰着点を示す格助詞か。或いは「内まで經昇(へあがり)り」官位を順にとんとん拍子で昇進したという謂いかも知れぬ。

「九十までゐきられて、寛永十四年にはてられける」「寛永十四年」一六三七年であるから、この奥嶋、天文七(一五三八)年、何と、室町時代の生まれである。冒頭に「六十餘」とあるから、本話柄内時制は慶長三(一五九八)年(豊臣秀吉死去)以降、まさに江戸幕府創成前後(徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府が開府するのは慶長八年二月十二日)と考えられる。十老検校にまで昇った者で、ここまで生没年がはっきりいているのなら、実在し、ネット検索でもかかってくるのが当たり前なのであるが、それが全く不詳であるということは、やはり奥嶋検校なる者は作者によって創成された架空の人物と見るべきであろう。]

2016/10/08

母方の祖父の遺品より「新京」バス乗車券附絵葉書

旧満洲国の首都、新京特別市(しんきょうとくべつし:現在の吉林省長春市)の観光バス乗車券(使用済)の接合絵葉書。

(裏)

Sinkyoubasu1

(表)

Sinkyoubasu2

母方の祖父の遺品より「滿鐡繪葉書」

祖父は歯科医師として鹿児島の田舎でその人生を全うした。彼は文人趣味でもあって、診察室には「リーダーズ・ダイジェスト」しか置いていなかった。彼は絵葉書の蒐集などもしていた。亡き母の遺品の中にそれがあり、僕の手元に残る。それを少し紹介しよう。満州鉄道の絵葉書四種と表及び袋である。――

Mantetu1

Mantetu2

Mantetuehagakihukuro



谷の響 一の卷 二 地中の管弦

 二 地中の管弦

 

 赤石組松原村の地中に同じく管弦の音ありて、往來の人間(まま)きくことありてその音韻(おと)いと妙なりといへり。左有(され)どこの村の區(うち)に至れば聞えずして、村を去ればもとの如く聞ゆると言ふ事、土人(ところのひと)の口碑(くち)に存(のこ)れり。

 されど、近くは慥に聞きたりといふ者もあらず。或人の曰、こはこの地中に空穴(あな)ありて、其中に金石絲竹の音律(ね)を出すべきものあるを、風氣の往來に觸れて自ら聲を發(おこ)せるものなるべし。かの浪鼓葦笛(らうこいてき)の類にして、籟聲(かぜ)の爾らしむるものなり。怪しむべきにあらずと言へり。然るや否や。

 附(ついて)言(いふ)、俚人の怪しき事として徇流(いひふら)すもののうち、虛言(うそ)僞説(いつはり)も多からめ。それはかの釋氏三水の見の如く、餓鬼は火を火と見、人は水を水と見、天人は水を甘露と見る比喩(たとひ)あり。不殘(みな)己々が見る處に迷ひより起りて、事もなき狐狸の弄戲(たはむれ)などを眞領(まにうけ)て、實しかありと思ひとれるを、巫女(みこ)僧侶の儕(ともがら)が鬣尾(をひれ)を添へて幽冥(かくりよ)の縡(こと)などを託(かこつ)け、甚しきは有らぬ食言(そらごと)までも作り設けて實しげに譚(かたれ)るからに、愚朴(おろか)なる里人どもが眞(まこと)に信(うべな)ひ、そをいひ繼ぎ語りつぎて、終古(むかし)はさることの實にありしとするも多かるべし。こは、かの一犬虛を吼えて萬犬實を傳ふると言ぬる如くなれば、己も亦その罪責(せめ)を脱れ得ず。されど天地(あめつち)の間廣莫(ひろらか)なる、奇(け)しく怪しき事なしといかで言ふべき。左傳に申生の靈あり、家語(けご)に鯰の怪ありて、目下(まのあたり)に奇しきことの有をば何とか言はん。

 斯有(かか)るから、平素(つね)に理もて一概に誣へきことにあらず。左有(さあれ)少しきことまても亦不殘(みな)異(い)として、鬼神に託するも愚痴なり。そは奇といひ怪といふは常に異(かは)れるものにして、人の智惠(さとり)の測り知られぬをいふなれど、大概(おほかた)は己にありて物にあらぬも多かるべし。妖(えう)は心に由りて起り、又怪を觀て怪と爲さざれば、怪自ら壞(やぶ)るとも言へり。かの汝南の韋叔賢が養ひたる狗の、人の如く立て行くを見て、家人等怪しみ惡(にく)みてこを殺さんことを乞はれしに、叔賢が曰く、犬馬は君子に譬へたるものなれば、こは狗が人の行を觀てこれに倣(なら)へり。何とて傷(そこな)ふことの有らんやと奇怪(あやし)む心无(なか)りしかば、其狗日ならずして自ら死せりといふ事實(こと)もありて、これに類する事實(こと)ども史(ふみ)に載(あぐ)るもいと多かり。こは不殘(みな)妖魅(ばけもの)をさしたるにて、彼妖は德に克(かた)ざるの言なり。然(さて)、前(まへの)條(くだり)の説話(はなし)は、人以て妖魅とするときは妖魅なるべく、幽靈とするときは幽靈なるべく、籟聲とするときは籟聲なるべし。所謂三水の見にして、各々心意によるものなり。

 

[やぶちゃん注:「赤石組松原村」底本の森山泰太郎氏の「松原村」の補註に『西津軽郡深浦町松原。西海岸追良瀬から山手に約一里入った山間の十数戸の小部落』とある。この附近か(グーグル・マップ・データ)。「赤石組」は不詳。識者の御教授を乞う。

「間(まま)」副詞の「間間」頻度が多くはないものの、少なくもないさま。時々。時たま。

「妙なり」「たへなり」と訓じておく。

「近くは」近年では。

「慥に」「たしかに」。

「空穴(あな)」二字へのルビ。

「金石絲竹」「きんせきしちく」。楽器の総称。具体的には「金」は「鐘」を、「石」は石を吊るして叩く打楽器の「磬(けい)」を、「絲」は「琴」を、「竹」は細い竹の笛を並べて括った「簫(しょう)」の笛のことを指す。無論、ここはそういう楽器が地下空洞にあるというのではなく、その自然空洞の構造や洞の内壁を構成している鉱物の質や形状がそうしたものと酷似した音を偶然出すのであろうと推理して言っているのである。

「音律(ね)」二字に「ね」のルビ。

「風氣」「かざけ」と読んでおく。

「自ら」「おのづから」。自発の意。

「かの浪鼓葦笛(らうこいてき)」「一 沼中の管弦」に記された内容を指す。

「籟聲(かぜ)」二字へのルビ。「一 沼中の管弦」の私の注を参照。

「爾らしむる」「しからしむる」。

ものなり。怪しむべきにあらずと言へり。然るや否や。

「俚人」「りじん」田舎の民。

「徇流(いひふら)す」「言ひ觸らす」。「徇」は「となふ」と訓じ、「広く告げ知らせる・広く行き渡らせる」の意がある。流言飛語させる。

「釋氏三水の見」「釈氏」は仏教のこと。これは「唯識(ゆいしき:個人及び個人にとってのあらゆる諸存在が「唯」(ただ)、八種類の「識(しき)」によって成り立っているに過ぎないとする大乗仏教の瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派による見解の一つ。八種の「識」とは「五種の感覚」(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)及び「意識」と「二層から成る無意識」を指す)」の物の見方を指す、一般には「一水四見(いっすいしけん)」と呼ぶものを指している。認識の主体が変われば、認識の対象も変化することの譬えである。ウィキの「一水四見によれば、『人間にとっての河(=水)』は、『天人にとっては歩くことができる水晶の床』であり、『魚にとっては己の住みか』であり、『餓鬼にとっては炎の燃え上がる膿の流れ』である。この『ように、見る者によって全く違ったものとして』現象は立ち現われるものであるという謂いで、同ウィキには以下の古歌を載せ、

 手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る女中茶を持つ猿澤の池

『猿沢池のほとりの興福寺は唯識を研究する法相宗の本山でもある』と記す。「釋氏」と呼び、中途半端にいい加減な「餓鬼は火を火と見、人は水を水と見、天人は水を甘露と見る比喩(たとひ)」などと記すのは、筆者西尾魯僊がガチガチの平田神学の信望者であったからである。

「不殘(みな)」二字へのルビ。最後の方のも同じ。

「己々」「おのおの」。

「實しかあり」「まこと(「に」或いは「、」)しかあり」。後の単独で出る複数の「實」も「まこと」と読んでおく。

「儕(ともがら)」「儕」(音は「サイ」或いは「セイ」)は「儕輩(さいはい・せいはい)」と同義。仲間。同輩。

「鬣尾(をひれ)」二字へのルビ。「鬣」はよく「たてがみ」と訓ずるが、音は「リョウ」で「髪の靡くさま」や、「魚の胸鰭」などの意もあるから、この当て読みは悪くない。

「幽冥(かくりよ)」「一 沼中の管弦」で既注。

「縡(こと)」「事」と同義。よく「死ぬこと」を「縡切(ことき)れる」と言うが、この場合の「縡」は「息」の意であるものの、それにこの漢字を当てるのは国字としての用法であって、漢語にはそんな意味はないので注意が必要である。

「食言(そらごと)」「しよくげん(しょくげん)」の当て読み。一度口から出した言葉を、また口に入れてしまうことを「食う」と擬えた意。前に言ったことと違うことを言ったりしたりすること。約束を破ること。噓をつくこと。

「一犬虛を吼えて萬犬實を傳ふる」後漢の二世紀中頃に王符の書いた「潜夫論」に基づく「一犬影に吠(ほ)ゆれば百犬聲に吠ゆ」という故事成語の異形の一つ「一犬虛を吠ゆれば萬犬實を傳ふ」の表記違い。一匹の犬が何でもない物影に向かって吠え出すと、その声に釣られて百匹の犬が盛んに吠え出すように、一人がいい加減な事を言い出すと、世間の人がそれを本当だと思い込み、尾ひれが附いて次々に言い広められてしまうことの譬え。「影」は「形」とも、「百犬」は「千犬」「萬犬」ともする。

「己も」「おのれも」。このような怪奇談集をいまからものさんとしている自分自身も。西尾の自戒のポーズではあるが、直後に「奇(け)しく怪しき事なしといかで言ふべき」「目下(まのあたり)に奇」(け)「しきことの有」(ある)「をば何とか言はん」と逆に反論挑発しているところにこそ着目されたい。彼の本書に対する確信犯の自負が現われているところである。

「脱れ」「のがれ」。

「天地(あめつち)の間」「間」は「かん」。

「廣莫(ひろらか)」二字へのルビ。

「左傳」「春秋左氏伝」のこと。孔子の編纂と伝えられる歴史書で四書の一つ「春秋」の代表的な補完的注釈書の一つで、紀元前七〇〇年頃から約二百五十年間に亙る歴史が記されている。「春秋」の注釈書は他に「春秋公羊(くよう)伝」と「春秋穀梁(こくりょう)伝」があるが、左伝は特に名文をもって鳴る。

「申生の靈」「春秋左氏伝」の「巻第五 僖公」の「十年」の条で(引用はこちらのデータ(PDF)を参考にした)、

   *

晉侯、共大子(杜注:共大子は申生なり。)を改葬す。秋、孤突、下國(國都に対して地方の都邑を言う。ここでは曲沃の新城を指す)に適(ゆ)き、大子に遇ふ(大子は申生。その霊に出会ったことを指す)。

   *

とあるのを指すか。「孤突」は晋の名臣。申生は晋の献公の太子で、優れた才人であり、誰もが申生が晋の時期の王となると思っていたが、献公が美姫驪姫(りき)を得、奚斉(けいせい)を生むと、驪姫は自分の子を後継ぎさせようと工作を始め、献公も寵愛する驪姫にほだされてしまい、ついに申生を廃嫡したばかりか、献公暗殺の罪を着て自殺させてしまったのであった(事実関係は個人サイト「中国的こころ」の「申生自殺の真相」などを参考にした。但し、献公の没後一ヶ月で献公の部下が反乱を起こし、驪姫や奚斉は一族ともども殺害されてしまい、追放された第三皇子夷吾(いご)に国主の座を奪われてしまう。なお、夷吾(恵公)の死後、彼の兄の第二皇子が晋の君主となったが、それがかの名君主重耳(ちょうじ:文公)なのである)。

「家語(けご)」「孔子家語」のこと。「論語」に漏れた孔子一門の説話を蒐集したとされる古書。全十巻。

「鯰の怪」不詳。中文の全文サイトで「孔子家語」を「鮎」や「怪」で検索したが、出てこない。識者の御教授を乞う

「誣へき」「しふべき」。「誣(し)ふ」とは「誣(し)いる」で、これは「強いる」と同語源であって、「事実を枉(ま)げて言う・作りごとを騙(かた)る」の意。

「少しきことまても亦不殘(みな)異(い)として」ちょとした何でもない(ちょっと考えれば自然な現象である)ことまでも皆、「怪奇奇異な現象だ!」とことさらに騒ぎ立て。

「鬼神に託する」「託」は先に訓じられた「かこつけ」である。「鬼神」は「目に見えず耳に聞こえぬが、超人的な力をもつ魔的な神」、或いは「死者の霊」の意。

「己にありて物にあらぬも多かるべし」そういう神異・怪異とするものの真の原因は、実はそう名指したり、無暗にそれを怖れたり或いは奉ったりするところの「己」(おのれ)の内部に「在って」、「外界」のそのような一見、神異・怪異とする「対象物」に「在るものではない」ケースも多いことであろう。

「汝南の韋叔賢」これは「李叔堅」の誤りである。「太平御覽」の「狗」の「下」に(中文サイトを参考にした)、

   *

桂陽太守汝南李叔堅、少時爲從事。在家、狗如人立行。家人言、

「當殺犬。」

叔堅云、

「犬馬君子。狗見人行、效之、何傷。」

叔堅見縣令還、解冠榻上、狗戴持走。家大驚、堅、復云、

「誤觸冠、冠纓掛著之耳。」

狗於灶前畜火。家益怪、堅、復云、

「兒婢皆在田中、狗助畜火。狗何能作怪。」

遂不肯殺。後數日、狗自暴死、卒無纖芥之異。叔堅、辟太尉掾・固陵長・原武令、終享大位。

   *

のエピソードを指す。以下、我流で訓読してみる。

   *

桂陽の太守、汝南の李叔堅、少(わか)き時、從事たり。家に在りし、狗(いぬ)、人のごとく立ち行く。家人、

「當(まさ)に犬を殺すべし。」

と言へば、叔堅、云はく、

「犬馬は君子に喩(たと)ふ。狗は人の行くを見、之れに效(なら)へば、何ぞ傷つけんや。」

と。叔堅、縣令に見(まみ)えて還り、冠を榻(たふ)の上に解(ほど)けば、狗、戴きて、持ち走る。家のもの、大きに驚くも、堅、復た、云はく、

「誤りて冠に觸れしものにして、冠の纓(ゑい)、之れに掛かり著(つ)きしのみ。」

と。狗、灶(かまど)の前に火を畜(やしな)ふ。家のもの、益(ますます)怪しむも、堅、復た、云はく、

「兒・婢、皆、田中に在れば、狗、助けて火を畜へり。狗、何ぞ能く怪を作(な)さんや。」

と。遂に殺すことを肯(がへん)ぜず。後(のち)、數日、狗、自(みづか)ら暴死(ばくし)するも、卒(つい)に纖芥(せんかい)の異、無し。叔堅、太尉掾・固陵長・原武令に辟(め)され、終(つひ)に大位を享(う)く。

   *

簡単に必要と思われるものにのみ、語注しておく。「汝南」河南省の駐馬店市汝南県。「從事」は下級官吏となったことを指すのであろう。「犬馬は君子に喩(たと)ふ」犬や馬は人間の君子に譬えられる。「榻」現代仮名遣は「とう」。長椅子或いは寝台のこと。「纓(ゑい)」冠の後ろに尾のようにつける装飾の具、また、冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐もかく言う。「灶(かまど)」竈と同字。「畜(やしな)ふ」火を起して見守っている。「田中に在れば」畑で忙しくしていたので。「暴死(ばくし)」頓死。急死。「纖芥(せんかい)」非常に細かい芥(ごみの意から転じて「ごくわずかなこと」に使う。

「奇怪(あやし)む」二字へのルビ。

「事實(こと)」二字へのルビ。以下も同じ。

「史(ふみ)」古くからの公的な歴史記録。

「妖魅(ばけもの)」二字へのルビ。

「彼妖」「彼(か)の妖(あやかし)」と訓じておく。

「德」人間の仁徳。

「克(かた)ざるの言なり」「言」は「いひ」と訓じておく。「所詮、うち勝つことは出来ないという謂いである。」。

「前(まへの)條(くだり)の説話(はなし)」本条の松原村の地中から管絃の聴こえる奇現象。

「心意」「しんい」。こころ。]

月の大小

自白しておくと、私は二月を除いて、「新暦の何月は何日まであるか?」を考える時、母が教えてくれた、左手を握って指の付け根の山と谷を数えるのを、今も常としている。

諸國百物語卷之三 七 まよひの物二月堂の牛王にをそれし事

     七 まよひの物二月堂の牛王(ごわう)にをそれし事

 

 ある墓所(むしよ)にて死人のつか、夜のうちには三度づゝもへあがり、つかのうちより女のこゑにて、

「人こひしや人こひしや」

といふ。なかなかすさまじくして、みとゞくる人なし。さるわか者ども三人よりあひ、是れを見とゞけんとて、ある夜、やはんのころ、つれだちゆきけるが、中にもがうなる男、このつかにこしをかけいたりしが、あんのごとく、つかのうちより、いかにもしうたんなるこゑにて、

「人こいしや人こいしや」

と、いふかと思へば、氷のごとくなる手にて、うしろより、くだんの男のこしを、むずと、しめたり。この男、もとより、がうの者なれば、すこしもさわがず、二人のつれをよびよせ、わがこしをさぐらせければ、二人のものは大におどろき、あとをも見せず、にげかへりぬ。さて、くだんの男、

「なに物なれば、わがこしをしむるぞ、やうすをかたれ」

といひければ、つかのうちよりいふやう、

「さてさて、今までごへんほどのぶへんしやもなし。われは三條むろ町のかぢ屋の女ばうなるが、となりの女に毒がいせられて、むなしくなりたり。あまつさへ三七日もたゝざるに、となりの女、わが夫とふうふになり、おもひのまゝなるふるまい、おもへばおもへば、むねんさに、夜な夜な、門ぐちまではゆけども、二月堂の牛王を門におしたれば、おそれ、はいる事あたわず。かようにしうしんのやみにまよひ候ふ也。ねがわくは、かのかぢが門なる牛王をめくり取りて給はらば、此よのほむらも、はれ申すべき」

と申しければ、此おとこもふびんとおもひ、かのかぢ屋が家にゆきみれば、あんのごとく牛王あり。やがて引きまくり、かたはらへたちよりて事のやうすをうかゞひければ、にわかにくろ雲一むらまひさがり、そのうちに、ちやうちんほどなるひかり物みへて、かぢ屋がやかたのうへより、とび入るやうにみへしが、

「わつ」

と云ふこゑ、ふた聲すると、そのまゝかのもうじや、かぢふうふがくびをもちきたり、くだんのをとこにむかつて、

「さてさて、とし月のしうしん、御かげゆへに、はらし、かたじけなく候ふ」

とて、袋をひとつ、とり出だし、

「是れは心ざしの御禮也。心はづかしく候ふ」

とて、けすがごとくに、うせにけり。かの男も、ふしんにおもひ、袋をひらき見ければ、黄金十枚ありけると也。これにて、そとばをたてかへ、くやうして、ねんごろにとむらいければ、そのゝちは此つか、なにのふしぎもなかりしとなり。

 

[やぶちゃん注:「二月堂」奈良県奈良市雑司町(ぞうしちょう)の東大寺にある東大寺二月堂。東大寺金堂(大仏殿)の東方、坂道を上り詰めた丘陵部にあって、十一面観音を本尊とする仏堂で、旧暦一月に行われる奈良早春の風物詩「お水取り」(正式には修二会(しゅにえ)と呼ぶ)の儀式で知られる。現存するそれは寛文九(一六六九)年の再建。本書の成立は延宝五(一六七七)年であるから、本話の時制が共時的であったとすれば、その直後となる。以上はウィキの「東大寺二月堂を参考にした。なお、寛文七年に二月堂は焼失したのであるが、本尊を始め、この牛王の印は全く損なわれなかったと伝える。

「牛王」神仏習合神である牛頭天王(ごずてんのう:釈迦の生誕地祇園精舎の守護神とされる。また、薬師如来の垂迹、素戔嗚の本地ともされ、そのためか、蘇民将来説話の素戔嗚と同一視される武塔(むとう)天神とも同一視された)の護符。最も知られるものは熊野三山で配られている熊野牛王符で、この牛王符は門口に祀って邪気の侵入を防いだり、盗難除けとしたりする(私も三社三種総てを書斎に置いている)。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注にはこの二月堂で配られたものは、『当時、著名な護符で、弘法大師空海の作った霊符を、刷って宝印を押したもの。魔除けとして、京摂あたりでは、東大寺関係の勧進人が配布した』とある。「二月堂の牛王」として辞書にも載り、そこには「病災除け」とするとある。絵本作家仁科幸子氏のブログ「Dorops of Life」の「二月堂の牛王様のお札」で現行配布されているそれの画像(東大寺の解説文も)を見られる。

「ある墓所(むしよ)」場所は不明であるが、「二月堂の牛王」符が出てくるからには、このロケーションは京の市中或いはその周辺と考えてよい。前記「江戸怪談集 下」の脚注でも同じく述べてある。

「もへあがり」「燃え上がり」。歴史的仮名遣は誤り。

「人こひしや」「人戀しや」。前記「江戸怪談集 下」の脚注に『淋しさ悲しさを訴える』言葉とある。話の展開から言えば、この女の亡者はこれによって人を脅かすというのではなく、実は自分の頼みを聴き入れて呉れる、豪胆の人物を言葉通りに乞うていたのであった。

「みとゞくる人」「見屆くる人」。

「がうなる男」「剛なる男」。

「しうたんなる」「愁嘆なる」。

「しめたり」「締めたり」。抱きしめた。

「大に」「おほきに」と訓じておく。

「やうすをかたれ」「樣子を語れ」。「訳を申せ。」。

「ごへん」「御邊」。御前様。

「ぶへんしや」「武邊者」。蛮勇の者とか、糞度胸のある人物といった意味。必ずしも武士である必要はない。

「三條むろ町」「三條室町」。現在の京都市中京区役行者町(えんのぎょうじゃちょう)附近。

「かぢ屋」「鍛冶屋」。

「毒がい」「毒害」。毒殺。

「あまつさへ」「剩へ」。そればかりか。

「三七日」三七日忌。亡くなって二十一日目の供養日。

「たゝざるに」「經(た)たざるに」。たたないうちの。

「わが夫とふうふになり」「妾(わ)が夫(おつと)と夫婦になり」。

「おもへばおもへば」「思へば思へば」。彼女の「むねんさ」(無念さ)をよく強調するリフレインである。

「門ぐち」元の自分の家、鍛冶屋の門口。

「おしたれば」(護符を)押し貼ってあるので。

「かようにしうしんのやみにまよひ候ふ也」「斯樣(かやう)に執心の闇に迷ひ候(さふら)ふなり」。歴史的仮名遣は誤り。前記「江戸怪談集 下」の本文「執心の闇」の脚注に『相手憎さの心の闇。「闇」は成仏できないことの比喩』とある。

「かのかぢが門」「彼(か)の鍛冶(屋)が門」。

「此よのほむら」「此(こ)の世の焰(ほむら)」。妬心と殺害された恨みのないまぜになったものであるから、それは強烈である。

「ふびん」「不憫」。

「あんのごとく」「案の如く」。言った通り。

「かたはらへたちよりて事のやうすをうかゞひければ」「傍(かたは)らへ立ち寄りて事の樣子を窺ひければ」。

「にわかにくろ雲一むらまひさがり」「俄かに黑雲(くろくも)一群(むら)舞ひ下がり」。

「ちやうちん」「提灯」。

「ひかり物みへて」「光り物見えて」。歴史的仮名遣は誤り。

「かぢ屋がやかたのうへより」「鍛冶屋が館(やかた)の上より」。

「かのもうじや」「彼(か)の亡者」。

「かぢふうふがくびをもちきたり」「鍛冶夫婦が首を持ち來たり」。

「くだんのをとこに」「件の男」。

「とし月のしうしん」「歳月の執心」。永年の恨み。

「御かげゆへに」貴殿のお蔭にて。

「心ざしの御禮」謝意の気持ちを表わすお礼の贈り物。

「心はづかしく候ふ」「お恥ずかしいばかりの粗品にて御座いまするが。」。

「ふしん」「不審」。

「そとばをたてかへ」「卒塔婆を建て替へ」。]

チャップリン、コクトオ、ディズニイ   梅崎春生

 

 活動大写真と呼ばれた昔から、名も映画とかわり、字幕が消えて音が加わり、色彩がつき、近頃では三次元映画だの立体映画だの、たいへんな騒ぎである。しかし映画が、活動大写真時代の見世物式あるいは実写的傾向から、数多の映画関係者の努力によって、芸術の名を克ち取ったことは疑うべくもなく、あるいは今世紀の代表的芸術形式として映画の名を挙げることも、さほど不自然ではなかろう。総合芸術としての映画の強みは、様式や器械の進歩にともない、今後ますます発揮せられて行くだろう。

 そういう映画芸術の過去や現在を眺めて、存分に腕をふるって芸術の進歩につくした人は数多いるが、それぞれの特徴に際立った三人として、チャップリン、ディズニイ、それにジャン・コクトオの名を挙げたいと思う。この三人の特徴はそれぞれ異なっているが、映画というものの本質を見極め、そこにおいて完全に自己を表現し得たという点では、三人は同一である。

 ことにその点においては、チャップリンの存在は際立っている。映画芸一術家としての生命の長さにおいても、この人は異例である。私は小学校入学以前にチャップリンの映画を見たことがある位だから驚く。その時代に活躍していた喜劇俳優たちで、今も活躍中のは一人もいない。これはチャップリンの芸術家としての性根の強さを物語るものであり、自己を語ることの根強さからも来る。映画というものの機能や効果を、チャップリンははっきりと見届け、存分にそれを駆使している。技法的にはむしろ保守的で、あとに触れるジャン・コクトオとは対照的であるが、新奇な手法を弄さないでも、チャップリンは自己を完璧に語る自信があるからであろう。

「キッド」や「黄金狂時代」から近作「ライムライト」にいたるまで、自己や社会を語る点において、だんだん深化はされて来るが、手法においてはそう変化はない。大衆の判り易さということが第一にされているようだ。事実、彼の作品は、上はうるさい知識層から、下はミーハー族にいたるまで、容易に理解され、しかも感動させる。世界中の何億というファンが、彼を支持する。これは芸術としては、稀有のことだ。今までのどんな芸術が、そんな広さを持ち得ただろうか。

 それと同じことが、ウォルト・ディズニイにも言えるだろう。ディズニイの描くものはもっぱら漫画であるが、これは対象が子供の世界に止まらず、大人の観衆をもその世界に引きずりこみ感動させる。漫画映画初期の、あのぎくしゃくした線画の動きから、たとえばこの頃の「ピノキオ」「シンデレラ姫」などの線や色彩や音響を思うと、その発達ぶりは瞠目(どうもく)に価する。その発達の大部分は、このディズニイの力によるものだ。

 しかも劇映画と違って、ディズニイが動物や植物や人間に与えた形象や性格は、全くの創造なのである。俳優というものがいないのであるから、彼はそれを創造しなければならない。彼はその創造を巧妙になし遂げたし、今後もなし遂げて行くだろう。芸術の世界において、古今独歩という感じのする少数の一人が、このディズニイである。自分の夢を語るにおいて、漫画映画に眼を着けたということが、彼の第一の勝利であり、そして卓抜した才能の駆使が、彼の勝利を完全なものにした。

 夢を語り、あるいは思想や感覚を新しい形で映画に持ちこんだ芸術家として、ジャン・コクトオが挙げられる。型にはまった在来の形式をぶちこわし、そのぶちこわしたところにおいて、コクトオは自己を語ろうとしている。最も期待のおける前衛芸術家と言えるだろう。まだ制作本数は少ないが、将来の展望の中でこの人が大きな位置を占めるだろうことは、その少数の制作の中から、充分に予見出来るのである。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十月号『朝日グラフ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「チャップリン」チャールズ・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin 一八八九年~一九七七年:イギリス・ロンドン出身)。前の『チャップリンの「殺人狂時代」』という映画評からも、辛口のそれを交えながらも、梅崎春生が本質的には彼と彼の作品を高く評価し愛していることが窺える。に拠った。彼の詳細な事蹟はウィキの「チャールズ・チャップリン」で確認されたい。前に申し上げた通り、私はチャップリンの作品中、迷いながらも、「殺人狂時代」(Monsieur Verdoux:製作・監督・脚本・主演チャールズ・チャップリン)を第一に挙げる。

「コクトオ」フランスの詩人で映画監督、いやさ、総合的芸術家とも言うべきジャン・コクトー(Jean Cocteau 一八八九年~一九六三年)。この一九五三年までなら、原作や脚本をも含めると、「詩人の血」(Le Sang d'un poète 一九三二年)・「悲恋」(L'éternel retour 一九四三年:原作/脚本)・「美女と野獣」(La Belle et la bête 一九四六年)・「ルイ・ブラス」(Ruy Blas 一九四八年/脚本)・「アモーレ」(L'amore 一九四八年/原作)・「双頭の鷲」(L'Aigle à Deux Têtes 一九四八年)・「恐るべき親達」(Les Parents terribles 一九四八年)・「オルフェ」(Orphée 一九五〇年)・「恐るべき子供たち」(Les Enfants Terribles 一九五〇年:原作/脚本)があり、監督作を数えても五本はある(但し、本評発表当時で六十四歳だから確かに寡作ではある。以上はウィキの「ジャン・コクトー」に拠った。彼の詳細な事蹟もそちらで確認されたい)。私は中でも「詩人の血」「悲恋」「オルフェ」を薦すが、一つ選べと言われれば、エンディングの忘れ難い「悲恋」(監督ジャン・ドラノワ(Jean Delannoy 一九〇八年~二〇〇八年))である。

「ディズニイ」言わずと知れたアメリカのアニメーター・プロデューサー・映画監督にして多角的実業家であったウォルト・ディズニー(Walt Disney 一九〇一年~一九六六年)。私はアニメーションに殆んど興味がないが、一つ挙げろと言われるなら、小さな頃、母が連れて行ってくれた「百一匹わんちゃん大行進」(One Hundred and One Dalmatians 製作ウォルト・ディズニー・プロダクション。一九六一年公開。日本初公開は一九六一年一月)である。日本での初公開時のタイトルはであなお、彼が「赤狩り」時代の密告者にして反共主義者であったこと、確信犯の人種・性差別主義者であったことはあまり知られているとは思われないので一言付け加えておく。詳しくはウィキの「ウォルト・ディズニー」の「反共姿勢」「人種・性差別姿勢」を参照されたい。

「三次元映画」「立体映画」現在の3D映画。ウィキの「立体映画」によれば、『左眼用と右眼用の映像を同時に撮影したものなどを、スクリーンに映写機で投影し、専用の眼鏡を観客がかけることなどにより、左眼には左眼用の映像のみを、右眼には右眼用の映像のみを観客に見せることで立体視を実現する。立体映画の方式には様々なものが存在する』。『専用眼鏡 Stereoscopy などを用いた立体写真は』十九『世紀前半にはすでにあった。このため』、十九『世紀末に発明された映画においても、映画史のごく初期から立体映画が撮影・上映されてきた』。一九五二年から一九五四年が「黄金時代」と呼ばれ、実験的』に幾つかの作品が『製作された』が、『本格的な劇映画として3Dになったものとしては』一九五四年のアルフレッド・ヒッチコック監督(Alfred Joseph Hitchcock 一八九九年~一九八〇年)のイギリス映画は「ダイヤルMを廻せ!」(Dial M for Murder)とされる。私は3D映像に全く興味がなく、数多の映画は見て来たが、その手のモノ(私はキワモノとしてしか認識していない)は一本も見たことがなく、今後も見ようとは思わない。そもそも奇体な眼鏡や装置の装着を強制させられて見るというのは、知らないうちに何か意識を操作されるサブリミナルのような危険性を強く感じるからでもある。

「キッド」(The Kid)チャップリン監督・脚本・主演の一九二一年公開のサイレント映画のの名作。本邦でも同年公開。

「黄金狂時代」(The Gold Rush)一九二五年に公開されたチャップリン監督・脚本・主演の喜劇サイレント映画。彼の喜劇映画中、最高傑作ともされる。本邦公開も同年。

「ライムライト」(Limelight)チャップリン監督になる一九五二年公開のトーキーの悲恋映画の名品。日本ではこの一九五三年に公開された。チャップリンが長編映画で初めて素顔を出した作品であると同時に、この公開直後に「赤狩り」で追放されスイスに入国、アメリカでの最後の作品ともなった。本邦公開は翌年。

「ピノキオ」(Pinocchio)イタリアの作家カルロ・コッローディ(Carlo Collodi 一八二六年~一八九〇年)作の童話「ピノッキオの冒険」を原作とする、一九四〇年に公開されたディズニーによるアニメーション映画。日本初公開は昭和二八(一九五二)年。

「シンデレラ姫」「シンデレラ」(Cinderella)は十七世紀後半のフランスの詩人にして童話集の作家としても知られる(但し、この童話集は彼の息子の作とする説もある)シャルル・ペロー(Charles Perrault 一六二八年~一七〇三年)の童話「シンデレラ」を原作とする、一九五〇年公開のウォルト・ディズニー・プロダクション製作によるアニメーション映画。日本初公開は昭和二八(一九五二)年。]

2016/10/07

谷の響 一の卷 一 沼中の管弦

 次の怪談集の電子化注は、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷(たに)の響(ひびき)」とする。

 平尾魯僊は陸奥弘前の魚商の家に生まれ、幼少期より画才を讃えられ、明治以後はその門流が弘前を席巻するまでに至り、尊皇思想家・俳人としても知られる。後半生は平田国学の研究に打ち込んでもいる。かの地の文化に多大の影響を与えた博覧強記の文人であった。著書に「幽府新論」「鬼神論」などがある。

 底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の森山泰太郎氏校訂の「谷の響」を用いる。読みはかなり難読の当て読みや和訓が多いことから、底本のルビを総て拾った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。筆者によるポイント落ち割注は【 】で本文と同ポイントで示した。

 序文と目録は一括して最後に示す。

 

 

谷の響

 

 

谷のひひき 一の卷

 

          弘府 平尾魯僊亮致著

 

[やぶちゃん注:「弘府」「こうふ」或いは本文冒頭からこれで「ひろさき」と訓じたのかも知れぬ。弘前(城下)の意。

「亮致」「すけむね」。平尾魯僊の本名。]

 

 

 一 沼中の管弦

 

 寛政の年間(ころ)、弘府(ひろさき)の商賈(あきびと)近江屋某甲(なにがし)といへるもの、其家族相内村の儀兵衞といひし者を訪らひしに、一日(あるひ)儀兵衞此近江屋を慰めんとて、兩三箇(にさんにん)を伴なひ小舟に上(のり)て田光沼(たつぴのぬま)に釣に出けるが、獲(え)もの多きに時を遷(うつ)し既に日も反照(かたむき)たればとて漕歸らんとする時から、傍邊(かたはら)なる蘆(あし)の中に笙を調(すら)ぶる音の聞えけり。

 こは奇(あや)しきと言ふうち、琵琶(びわ)・和琴(わこん)・鞨鼓(かちこ)・篳篥(ひつりき)の音など耳辺(みみもと)に聞えて、その妖韻(ひびき)綏々(すずしく)さやかにして、塵界(よ)のものと聞えず。愛(めで)たきこと言はん方なく衆(みな)々耳をすまして聞居たる中に、其韻律(おと)漸々(しだい)に遠しと覺えけるが頻に悽愴(ものすご)く悄然(ぞくぞく)として、満體(みうち)に水を濯(そそ)くが如くなりて少時(しばし)も居るに耐得ず。早卒(にはか)に舟を漕ぎ戾して歸りしなり。

 左有(さる)にこの儀兵衞のいへるは、往古(むかし)より此沼の中に、管弦の音の時々聞えたりといふ傳へもあり。且(また)、三四年以前は同村の與助といへる者も聞きたりとて話説(かたれ)ることもあれど、そは風の蘆を吹く音ならめと今に實(まこと)しからず思ひしが、今般(このたび)のことをもて察(み)れば、古人の傳(つたへ)の僞妄(いつはり)ならぬを知りたるなりと語りしとなり。

 或ひとの曰く、蘆中(ろちう)に風亙(わた)るときは自ら絲竹の音を發し、浪岸(きし)を叩く時は自然(しぜん)金鼓の響を爲すことは麼什(いづれ)にもあるものにて、俗に言ふ蘆の笛浪の皷(つつみ)など是なり。豈(いかで)樂器の正しき音律なるべき。僉(みな)これ籟聲(かぜのこゑ)といふものにて、さらさら奇(あや)しと爲べきにあらずといへり。

 左有(され)どこの沼古くは最々(いと)曠(ひろ)く周際(まはり)三里あまりにして、宛爾(さながら)鏡の如く寒光(ひかり)宇宙(おほぞら)に衝沖(つきい)り、環汀(みぎは)には蘆葦(あし)蕃(いや)叢(しげ)りて凄風(すずかぜ)肌骨に徹(とほ)り、實(げ)に凄冽(ものすご)き幽地(へきち)に在れば幽冥(かくりよ)の神の在(おはし)しかも測(し)るべからず。目下(まのあたり)の理(ことわり)をもて物を決定(さたむ)るはいと狹量(せま)きわざなり。凡(すべ)てこの沼に限らず平瀧沼などは特(こと)に怪しき事多かり。そは二々(つぎ)に擧ぐべし。

 

[やぶちゃん注:「寛政の年間(ころ)」「年間」で「ころ」とルビする。一七八九年から一八〇一年。

「相内村」五所川原市(ごしょがわらし)は、青森県西部、津軽半島の中南部に位置する五所川原(ごしょがわら)市の市浦(但し、この地区は合併により誕生した五所川原市の北の飛地(間に有意に大きな中泊町が挟まる)である)にあった村。

「田光沼(たつぴのぬま)」青森県つがる市にある堰止湖田光(たっぴ)沼。相内からは南方に十三湖を越えた、直線で十五キロ弱の位置にある。ウィキの「田光沼」によれば、『縄文海進期から平安時代後期までは古十三湖の一部だったと考えられる、平野西部の三角州性低地に残存した沼沢地である。陸地化後も萱に覆われた湿地帯であったが、津軽藩が着手した上流側からの新田開発と用排水路整備は近代以降も続けられ、現在はほぼ水田に囲まれている。東北の広域伝承では、「津軽一統志」弘前藩第五代藩主津軽信寿(のぶひさ 寛文九(一六六九)年~延享三(一七四六)年が編纂させた藩史)に『高倉明神と岩木権現の争いによる洪水と津波(白鬚水』(しろひげすい)『)によって田光沼が生じたとする』。『多都比姫は岩木山神社の祭神の一つである』『が、これに関連して「岩木山縁起」』(一八一一年)『に田光の竜女の岩木山入りに関する伝承がある』とし、竜宮とここで聴こえてくる雅楽ならまさにマッチする気はする。因みに太宰治はかの代表作「津軽」で『春の山上からみた湖面を「古代の鏡」と形容している』ともある。この表現、或いは太宰は本篇の「宛爾(さながら)鏡の如く寒光(ひかり)宇宙(おほぞら)に衝沖(つきい)り」を読んで記憶してのではあるまいか?

「綏々(すずしく)」「スイスイ」で、原義は如何にも落ち着いた、或いは安らかに指せる雰囲気を指し、また相手を求めるような如何にもしっとりとした様子をも意味する。

「塵界(よ)」「塵界」の二字に「よ」一字でルビする。

「早卒(にはか)」「早卒」の二字に「にはか」とルビする。

に舟を漕ぎ戾して歸りしなり。

「今に」今までは。

「實(まこと)しからず」事実ではない。

「浪岸(きし)を叩く時は」「浪」は「なみ」。

「自然(しぜん)」自ずと。自発の意。

「麼什(いづれ)」禅語で普通は「什麼」の語順(「恁麼」とも書く)で、「いんも」と音読みし、「に」を伴った形で副詞的に「このように・かくのごとく」の意の指示を表す。この表記と読みは一般的ではないと私は思う。

「籟聲」「籟」は風が物にあたって発する音。現代では使用されるのは「松籟」ぐらいなものか。

 

「三里」十一・七八キロメートル。現在の田光沼は新田開発と干拓によって周囲五・七キロメートルまで縮小してしまっている。

「蕃(いや)」盛んに。

「凄風(すずかぜ)」「凄風」は「せいふう」で「強くすさまじい風・ものすごい風」の意である。それを涼しい風と訓じておいて耳には優しい表現ながら、以下の「肌骨」へと意味では真逆を確信犯で狙っている。但し、ちょっと技巧に過ぎ、逆に厭味な感じもしなくはない。

「肌骨」「きこつ」。全身。「肌骨を驚かす」というのは「恐怖でふるえ上がらせる・ぞっとさせる」の常套句である。

「幽地(へきち)」僻地。この「幽」は奥深いの意であるから、おかしくはない。

「幽冥(かくりよ)」これはいい加減な当て字ではない。平田神学に心酔していた平尾らしい読みである。古神道に於いては、人間世界は目に見える「顕世(うつしよ)」であるのに対し、人間の目に見えない幽冥の世界、神の世界は「幽世(かくりよ)」「隠世(かくりよ)」「幽冥(かくりよ)」と呼称するのである。しかもこの「幽冥」の表記は、その多数の漢字表記のある中でも、最もポピュラーなものなのである。

「平瀧沼」田光沼の西南凡そ六キロメートルの位置、現在のつがる市木造館岡(きづくりたておか)にある平滝(ひらたき)沼。地図上で見る限りでは、現在の平滝沼は現在の田光沼の半分以下の大きさである。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬

Semi

せみ    蜩   齋女

      【和名世美】

【音禪】

チヱン

本綱蟬者總名而有數種皆自蠐螬腹蜟變而爲蟬亦蜣

蜋所轉丸久而化成蟬皆三十日而死俱方首廣額兩翼

六足以脇而鳴或小兒畜之雖數日亦不飮食但吸風飮

露故溺而不糞

一說云蟬有五德頭有緌文也飮露淸也應候有常信也

黍稷不享廉也處不巣穴儉也實舎卑穢趨髙潔者也

       夏山の峯の梢の高けれは空にそ蟬の聲はきこゆる人丸

△按凡蟬方首露目噤口而似無口者故不能飮食唯可

 吸露當足下腹有裂番而振羽鳴也試抑其處則不鳴

 緌下垂着腹今稱蟬者淺褐色羽薄如紗肖蜻蛉之羽

 五月始鳴聲如言世美世美甚喧而有序破急似讀經

 人家亦有喬木則來鳴輙飛去

せみ    蜩〔(てう)〕   齋女〔(せいぢよ)〕

      【和名、「世美」。】

【音、禪。】

チヱン

「本綱」、蟬は總名にして、數種有り。皆、蠐螬(すくもむし)・腹蜟(にしどち)より變じて蟬と爲る。亦、蜣蜋(せんちむし)、轉ずる所の丸〔(ぐわん)〕、久〔しく〕して化して蟬と成る。皆、三十日にして死す。俱に方〔(はう〕)なる首、廣き額、兩翼、六足、脇を以つて鳴く。或いは、小兒、之れを畜〔(か)ひ〕て、數日と雖も、亦、飮食せず。但し、風を吸ひ、露を飮む。故に溺(ゆばり)はしても糞せず。

一說に云ふ、『蟬に五德有り。頭に緌〔(おいかけ)〕有るは、「文」なり。露を飮むは「淸」なり。候に應じて常に有るは「信」なり。黍稷〔(しよしよく)を〕享〔(う)〕けざるは「廉」なり。處(をるところ)、巣穴せざるは「儉」なり。實〔(じつ)〕に卑穢〔(ひわい〕)に舎(やど)るを髙潔に趨〔(はし)〕る者なり。』〔と〕。

       夏山の峯の梢の高ければ空にぞ蟬の聲はきこゆる 人丸

△按ずるに、凡そ蟬は、方なる首、露(あらは)なる目、口を噤(つま)へて無口なる者に似たり。故に能く飮食せず。唯、露を吸ふべき〔のみ〕。足の下(しもつかた)〔の〕腹に當つて、「裂番(つがい)」有りて、羽を振つて鳴くなり。試みに其の處を抑(をさ)ふれば、則ち、鳴かず。緌〔(おいかけ)〕、下り垂れて腹に着く。腹に、今、「蟬」と稱する者、淺褐色〔(せんかつしよく)〕、羽、薄く、紗〔(しや)〕のごとく、蜻蛉〔(とんぼ)〕の羽に肖(に)たり。五月、始めて鳴きて、聲、「世美、世美。」と言ふがごとく、甚だ喧(かまびす)しく、「序・破・急」有りて、讀經〔(どきやう)〕に似たり。人家にも亦、喬木〔(けうぼく)〕有れば、則ち、來り鳴きて輙〔(すなは)〕ち、飛び去る。

[やぶちゃん注:半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea に属するセミ類の総論。

「蜩〔(てう)〕」現代仮名遣では「ちょう」。この単漢字は中国ではあくまで「蟬」の総称であり、本邦のように「蜩(ひぐらし)」(セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis を限定比定する意味は持たないので注意。

「齋女〔(せいぢよ)〕」これは物忌みして身を潔斎した女の意である。こうした意味は中国語に元々あるあるもので、本邦の専売特許ではない。まことに美しい別名ではないか!

「蠐螬(すくもむし)」先行する「蠐螬 乳蟲」を参照のこと。そこで私はこれを、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫

に同定した。前の「腹蜟」では「きりうじ(伐蛆・切蛆・錐蛆)」と読んでいるが、木質を食害する同じ生物群(必ずしも上記の種群のみを限定するものでは実は、ない)の和訓である。

「腹蜟(にしどち)」前の「腹蜟」を参照。そこで私はこれを、

半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫

と規定した。「本草綱目」は結局、大雑把で、蟬でない種の幼虫も一緒くたにして述べていて、厳密ではない。これはこの記述に限らぬことで、これを問題にし出したら、古い博物書は皆、現代科学では誤りだらけで読むに値しない、とする如何にも痩せ細った血の気のない極論に達してしまう。

「蜣蜋(せんちむし)」これは後に独立項として出るが、所謂、「糞転がし」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea に属する糞虫(ふんちゅう)、食糞性のコガネムシ類を指す。

「轉ずる所の丸〔(ぐわん)〕」転がして丸くして作ったところの動物の糞混じりの土の丸薬状(球状)になったもの。

「皆、三十日にして死す」最近まで、まことしやかに、セミ類の成虫の寿命は一~二週間程度とされ、成虫になってからは短命な生物の一つとされきたが、ウィキの「セミによれば、『これは成虫の飼育が困難ですぐ死んでしまうことからきた俗説で、野外では1ヶ月ほどとも言われている』とあるから(他のデータでは三週間から一ヶ月、捕食されなければ二ヶ月程度まで生きるともされる、とあった)、この記載は驚くべき正確さを持っていると言える。無論、『さらに、幼虫として地下生活する期間は』三年から長いものでは十七年(北アメリカの中部・東部に分布ジュウシチネンゼミ Magicicada sp.。北部に分布するものは十七年に一度、南部に分布するものは十三年に一度大発生を起こす)にも『達し、短命どころか昆虫類でも上位に入る寿命の長さをもつ』ことは言うまでもない。

「方なる首」角ばった首。

「脇を以つて鳴く」脇腹を使って鳴く。セミ類は翅で腹部を擦って鳴らす摩擦音の他、腹部の内側に空気が入った共鳴室を持っており、そこで「鼓膜」という筋肉を振動させることで共鳴室の空気が共鳴し、音が鳴り響くようになっている。

「溺(ゆばり)」小便。

「緌〔(おいかけ)〕」東洋文庫版現代語訳では『かんむりのひも』とルビする。「おいかけ」は「老懸」とも書き、武官の正装の冠につけて、顔の左右を覆う飾り。馬の尾の毛で扇形に作ったものを掛緒(かけお)でつける。「冠(こうぶり)の緒」「ほおすけ」などとも呼ぶ。まあ、ほれ、馬の遮眼帯見たようなもんさ。

『「文」なり』朝廷の武官の正装だから、有職故実に通じていることで「文」なんだろうが、だったら序でに武官のそれなのだからね、「文」と「武」と両方を掛けりゃいいいんじゃね?

「候に應じて常に有るは」季節に応じて必ず決まった時に姿を見せ、鳴くのは。

「黍稷〔(しよしよく)」原義はモチキビとウルチキビ(孰れも単子葉植物綱イネ目イネ科キビ属キビ Panicum miliaceum)であるが、転じて「五穀」を指す。

「廉」極めて慎ましやかなこと。清廉。

「儉」極めて堅実なる倹約を旨とすること。

「卑穢」「卑猥」と同義で「鄙猥」「鄙穢」とも書く。ここは環境が劣悪で汚いの謂いであるが、寧ろ「野卑」、如何にも鄙(ひな)びた自然の多い場所の意でとってよかろう。

「趨〔(はし)〕る」そちらへ向かってしっかりと進んでゆく。

「夏山の峯の梢の高ければ空にぞ蟬の聲はきこゆる 人丸」本歌は「和漢朗詠集」の「卷上」の「夏」の「蟬」の部にあるが、「人丸」(柿本人麻呂)とあるのは誤りで、作者未詳である。また一部、表記が異なる

 夏山の峯の梢(こづゑ)し高ければ空にぞ蟬の聲もきこゆる

が正しい。「し」は強調の副助詞。

「噤(つま)へて」噤(つぐ)んで。

『足の下(しもつかた)〔の〕腹に當つて、「裂番(つがい)」有りて、羽を振つて鳴くなり。試みに其の處を抑(をさ)ふれば、則ち、鳴かず』「裂番(つがい)」「番目(つがいめ)」の略で組み合った所・関節の意。鼓膜の外壁に当たる腹弁を指しているのであろう。「和漢三才図会」の成立は正徳二(一七一二)年頃で、今から三百四年も前であることを考えると、良安の自然科学的な実証観察と実験はすこぶる鋭いと私は思う。

「紗」薄絹。

「肖(に)たり」「似たり」と同義。

『五月、始めて鳴きて、聲、「世美、世美。」と言ふがごとく、甚だ喧(かまびす)しく』本邦で一年の最初に鳴くのは、セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua である(四月末から六月にかけて発生する。本文の「五月」は旧暦であるから一致する)。『「序・破・急」有りて、讀經〔(どきやう)〕に似たり』というのもハルゼミの鳴き声に私は相応しいと思う。「序破急」は元来は雅楽用語で、雅楽の楽曲を構成する三つの楽章を指す。初部を「序」(緩慢としていて拍子に敢えて合わさない)・中間部を「破」(緩やかであるが、拍子に合わせる)・終部を「急」(急速で拍子に合わせる)という。それが芸能全般に広がった広義のそれは一般に速度の三区分を指し、「序」は「ゆっくり」、「破」は中間のスピード、「急」は「速く」である。ここは両義的な比喩と見ておかしくない。

「喬木〔(けうぼく)〕」現代仮名遣では「きょうぼく」。丈の高い木。樹木の便宜的な分類に於いては通常、高さが約二メートル以上になる木で、幹が太くて直立し、枝を張って他の植物を覆うものを指す。]

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 腹蜟(にしどち)


Nisidoti

にしどち

      【俗云尒之止知】

腹蜟

ホツヨツ

 

本綱王充論衡云蠐螬化腹蜟腹蜟拆背出而爲蟬則是

腹蜟者育于腹也

△按腹蜟在土中大一二寸其形色似櫟實而長又帶

 螬蝎之形而褐色皮堅厚如漆噐然有曲尾亦堅而似

 銅鈕一身不能動惟爲頸之處蠢動乃覺生類也小兒

 捕之問西何地東何地則旋頸彷彿答東西者此蟲出

 土中升高處拆背殻而爲蟬出去也

 

 

にしどち

      【俗に「尒之止知〔(にしどち)〕」と云ふ。】

腹蜟

ホツヨツ

 

「本綱」、王充が「論衡〔(ろんこう)〕」に云ふ、『蠐螬(きりうぢ)、腹蜟(にしどち)に化し、腹蜟、背を拆(くじ)き出て、蟬と爲る。則ち、是れ、腹蜟とは、腹に育(そだ)つなり。』〔と。〕

△按ずるに、腹蜟は土中に在り。大いさ、一、二寸。其の形・色、櫟〔(くぬぎ)〕の實〔(み)〕に似て長し。又、蠐螬(きりうじ)・蝎(きくいむし)の形を帶びて、褐(きぐろ)色。皮、堅く厚く、漆噐のごとく然〔(しか)〕り。曲れる尾、有り。亦た、堅くして、銅の鈕(つまみ)に似て、一身、動くこと能はず。惟だ頸(くびすぢ)と爲(おも)ふの處、蠢動(うごめ)く。乃〔(すなは)〕ち、生類たるを覺ふなり。小兒、之れを捕へて、「西(にし)、何地(どち)、東〔(ひんが)し〕何地。」と問へば、則ち、頸を旋(めぐ)らして東西を答ふる者に彷彿(さすに)たり。此の蟲、土中を出て、高き處に升(のぼ)り、背殻〔(はいかく)〕を拆きて、蟬と爲り出で去るなり。

 

[やぶちゃん注:中文サイトを見ても、これは、

半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫

かと思われる。挿絵は蛹のように見えるが、不完全変態のセミ類は蛹化しない。

「王充」(二七年~一〇〇年頃)後漢の思想家。会稽郡(現在の浙江省紹興市附近)生まれ。一生不遇の属吏生活を送った。旧伝などの非合理を批判し、合理的なものを追求、儒教に対しても厳しい批判を行なったことから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかったが、一九七〇年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では孔子批判の先駆者として評価されたりもした(以上は主にウィキの「王充に拠る)。

「論衡」実証主義の立場に立った王充の全三十巻八十五篇(但し、内一篇は篇名のみで散佚)から成る思想書。自然主義論・天論・人間論・歴史観など、多岐に亙る事柄を説き、一方で非合理的な伝統的思想(先哲論・陰陽五行説・俗信など)を迷信と断じて徹底的に批判・否定して、天地は物質の「気」で構成されており、万物の生成生滅は「気」の離合集散によるとする唯物的思想と、過度の人為的干渉を排した道家的な「無為自然」に立って、万物は必然的な命運によって支配されており、それに則るべきとする「命定(めいてい)論」を主張した(以上は複数の辞書記載をオリジナルに綜合した)。

「蠐螬(きりうぢ)」(底本画像では「キリウチ」)「きりうぢ」は「伐蛆・切蛆・錐蛆」の謂い。先行する蠐螬 乳蟲を参照のこと。そこで私はこれを、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫

に同定したが、実はこの挿絵のそれは、正直、セミ類の幼虫よりも、コガネムシ類の幼虫に似ているように思われて仕方がない。「蠐螬(きりうぢ)」が「腹蜟(にしどち)に化し」ちゃあ、いけませんよ、良安先生!

「拆(くじ)き」「拆」は訓では「さく・ひらく」が一般的でここもそう訓じた方が判りがよい。

「腹に育(そだ)つ」腹の中で蟬へと育つ。謂いは現象的には腑に落ちる。

「一、二寸」約三~六センチメートル。

「櫟〔(くぬぎ)〕」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima。実は他のブナ科Fagaceaeの樹種の実とともに「どんぐり」と総称されるが、「どんぐり」の中では直径が約二センチメートルと大きいこと、ほぼ球形であること、実の半分が椀型をした「椀(わん)」、殻斗(かくと:包葉が集って癒合して形成する椀状或いは毬状の器官。栗(ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)の「いが」もそれで、ブナ科の植物に見られるものである)に包まれている点で容易に判別出来る。

「蠐螬(きりうじ)」「じ」(底本画像では「ジ」)はママ。

「蝎(きくいむし)」先行するを参照のこと。そこで私はこれを、

鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ(髪切虫・天牛)科 Cerambycidae の幼虫

に同定した。終齢期幼虫はこの絵の形に若干、似ては、いる。

「褐(きぐろ)色」読みの「きぐろ」は「黄黒」のこと。

「漆噐のごとく然〔(しか)〕り」言い得て妙なる比喩である。確かにそう見える。

「鈕(つまみ)」ボタン。取っ手。

「生類たるを覺ふなり」鉱物やその他ではなく、生物であることが判るのである。

「何地(どち)」「どっち?」。

「頸を旋(めぐ)らして東西を答ふる者に彷彿(さすに)たり」「さすに」の訓はママ。良安は「彷彿」を「はうふつ」で音読みした訓読で最初に訓点を打ったものの、読み下す際に思わず分かり易い意訓をここに附したがために、最終的に書き下すとかくも変なものになってしまったのである。

「升(のぼ)り」「升」には「ます」以外に「のぼる・上方へ移る」の意がある。納得出来ない方は「上昇」の「昇る」を考えて見られればよい。]

『ケイン号の叛乱』ハーマン・ウォーク著   梅崎春生

   『ケイン号の叛乱』

      ハーマン・ウォーク著

 

 ケイン号というのは、米海軍の老朽した一掃海駆逐艦の名。この小説はその艦内の事件や乗組員の動きを通して、今次大戦の様相を描いたものである。一九五二年度ピュリッツァ賞。ベストセラーの首位を占めた作品だという。構成もしっかりしているし、乗組各員の性質もかなり的確にかき分けられている。深刻な様相を取扱いながら、暗さがなく、向日的な色彩が多いのは、戦勝国側の作品であるせいか。あるいは父親が主人公に与えた手続の一節「お前はこの国(アメリカのこと)にそっくり似ているように思う……若くて、無邪気で、富と幸運のためにスポイルされ、柔弱にはなっているが、健全な家系から生れた内面的なたくましさがある」。そのようなアメリカの性格のためか。

「ケイン疲れ」という言葉があるそうであるが、この作品には読者を疲れさせるような本質的な重さや難解さは皆無である。行文流暢(りゅうちょう)にして軽く読めるから、ついうかうかと読みすごして疲れるといったようなものだろう。

 その点で『風と共に去りぬ』などと共通点があり、ベストセラーとなり得る性格を充分にそなえている。たとえばケイン号のド・ヴリース艦長を描くにあたっても、作者の目はそこに強いて怪物を求めようとしていない。人間の中のゆがみや偏執を、作者は深く探ることなく、一種の現象としてのみとらえているようだ。その点でこの作者は健康である。言わば映画的な健康さがある。

 しかし米海軍の形式主義や軍人同士の確執など、日本のそれにくらべて、いろいろと興味があった。

 主人公ウィリー・キースは暗号係の青年士官だ。訳語の点で、自国の暗号を平文に直す作業を、暗号解読というのはおかしい。暗号翻訳とすべきだろう。解読というのは、敵の暗号を解くことを意味するのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年七月二十六日附『読売新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。最後の一段落の指摘は流石、旧海軍暗号特技兵(後に下士官として二等兵曹で終戦を迎えた)であった梅崎春生にして、鋭い指摘である。

「ケイン号の叛乱」アメリカの小説家ハーマン・ウォーク(Herman Wouk 一九一五年~)が一九五一年に書いたThe Caine Mutiny。この評の出た年に光文社から新庄哲夫訳が刊行されている。これを原作とした同名の大ヒット作となったアメリカ映画(監督エドワード・ドミトリク(Edward Dmytryk 一九〇八年~一九九九年:カナダ生まれ)はこの翌一九五四年製作・公開である(日本も同年公開)。シノプシスは映画のそれであるが、ウィキの「ケイン号の叛乱」から推測されたい(私は映画は見たが、原作は未読である)。

「ピュリッツァ賞」ピューリッツァー賞(Pulitzer Prize)は一九一七年にアメリカで始まった新聞等の印刷報道・文学・作曲に与えられる同国でも最も権威ある文化賞。コロンビア大学ジャーナリズム大学院が運営を行っている。日本人では昭和三六(一九六一)年の写真部門で『毎日新聞』の長尾靖氏が「浅沼社会党委員長の暗殺」で、昭和四一(一九六六)年の写真部門でUPI通信社の沢田教一氏がベトナム戦争記録写真「安全への逃避」で、昭和四三(一九六八)年の写真部門で同じUPI通信社の酒井淑夫氏がやはりベトナム戦争記録写真「より良きころの夢」で受賞している。

「ド・ヴリース艦長」ウィリアム・デヴリース少佐(Lieutenant Commander William H. De Vriess)は前艦長。彼の代わりに新任艦長となるフィリップ・クイーグ少佐(Lieutenant Commander Philip Francis Queeg)は映画では私の好きなハンフリー・ボガート(Humphrey Bogart 一八九九年~一九五七年)が演じた。無論、映画ではボガートが事実上の主役であるが、後で梅崎春生が述べるように、原作の主人公は彼ではなく、「暗号係の青年士官」「ウィリー・キース」ウィリー・キース(Willis Seward "Willie" Keith)少尉であるらしい。]

諸國百物語卷之三 六 ばけ物に骨をぬかれし人の事

    六 ばけ物に骨をぬかれし人の事


Thomas

 京七條がはらの墓所にばけ物ある、と、いひつたへければ、わかきものども、よりあひ、賭(かけ)づくにして、あるもの、一人、かの墓所へ、夜はんじぶんにゆき、くいをうち、かみをつけてかへらん、と、しければ、としのころ、八十ばかりなる老人、しらがをいたゞき、そのたけ、八尺ばかりなるが、かほは夕がほのごとくすゝけ、まなこは手のうちにひとつありて、まへ齒ふたつを、くい出だし、この男をめがけて、おいかくる。男、きもたましいもうせて、あたりちかき寺へにげこみ、御僧をたのむよし、申しければ、僧、長もちをあけ、入れをきければ、くだんのばけ物、この寺へ、をひかけきたりて、つくづくと見入れて、かへりけるとみへしが、かの長持のほとり、なにともしれず、犬の、骨をかぶりけるをとして、うめくこゑきこへけれども、僧も、あまりのをそろしさに、かゞみてゐられけるが、はや、ばけ物もかへりつらん。さらば、長もちより出ださん、と、ふたをあけみれば、くだんの男は骨をぬかれ、皮ばかりになりてゐけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「はけ物に骨をむぬかるゝ事」。滑稽(話柄自体は超弩級に残酷)な割に汚損がかなりひどいので、かなり清拭処理をした。この挿絵、絵師の茶目っ気が出ている。よくみると、左端に描かれてある五輪塔の水輪が「機関車トーマス」やないカイ!

「京七條がはら」「京七條河原」。処刑場としては少し北の六条河原が知られるが、一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注によれば、こちらの七条河原(鴨川の七条大路の東、三十三間堂の西方)は『古代、死体の遺棄地であり、のち、時宗の僧によって、庶民の墓地とされた時代があった』とある。

「賭(かけ)づく」何かを賭けにすることの意(「日本国語大辞典」は「賭けをすること」とし、「ずく」は接尾語とのみ記す)。三省堂の「大辞林」の「賭け徳(かけどく)」の項には「勝負事に賭ける金品」また、「賭け事」と解説し、「どく」は「ろく(禄)」の転とも「づく」の転ともいう、という解説が附されてある。

「くいをうち、かみをつけてかへらん」「杭を打ち、髪を附けて歸らん」。確かにそこに行ったことの証しである。翌日、昼間に皆して行って確認した上で、彼らから賭け物の金品を貰うための仕儀である。

「八尺」約二メートル四十二センチ。以上に巨大な爺の化け物である。

「かほは夕がほのごとくすゝけ」「顏は夕顏の如く煤け」。この場合の夕顔は夕顔の白い花で、「煤け」は窶(やつ)れた、の謂いであろう。顔は夕顔の花のように蒼白く窶れ。

「まなこは手のうちにひとつありて」「眼は手の内に一つありて」。挿絵を見て戴きたい。男に突き出している左手の掌に――目が――ある!

「まへ齒ふたつを、くい出だし」「前齒二つを、喰い出だし」。上額から前歯二本を牙のように剝き出しにしているのである!

「きもたましい」「膽魂」。

「御僧をたのむよし、申しければ」住持の僧を呼んで「助けてお呉んなせぇ!」と頼んだのである。

「長もち」「長持」。

「つくづくと見入れて」凝っと、何やらん、見回し、見回しして。

「かぶりけるをとして」齧り喰らう音がして。

「かゞみてゐられけるが」自然、ひたすら、しゃがみ込んで震えていたが。]

2016/10/06

譚海 卷之一 朝士太田源藏・こたは三四郎の事

朝士太田源藏・こたは三四郎の事

〇宮家の徒士(かち)衆に、太田源藏とて本所に住(すめ)る人あり。劍術絶技を究め勇力も又有(あり)、安永の比(ころ)俠客(きやうかく)のかしら也。又小從人(こじふにん)にてこたは三四郎と云(いふ)人下谷に有、是も俠遊を好み、下谷の俠客のかしら也。其(その)徒(と)動(ややも)すれば相あらそふ事絶(たえ)ず。ある日淺草の酒家に兩人のかしら行過(ゆきすぎ)たる事有。座敷を隔て居たり、何れも數十人の徒を隨へ豪飮(がういん)の體(てい)成(なり)しが、三四郎鄰(となり)座敷に源藏有(ある)事をきゝ、座敷のふすまをひらき、島臺をもち源藏方に來り、久敷(ひさしく)高名を承り及び、今日はからず一所に會(くわい)するまゝ、舊識(きうしき)に成申度(なりまうしたき)由をいひ聞(きき)て、一盃をつくし源蔵へさし、御肴(おんさかな)に是(これ)をとて、脇差を拔き臺に置(おき)返盃を乞(こひ)ける、源藏も心得候とて返盃して同じく白刄(はくじん)を添(そへ)て出(いだ)しける。此上承知にて忝(かたじけな)し、日を約し度(たき)由を云(いふ)、源藏日を期(き)するまでもなし、今日願(ねがふ)由也。さらば何方(いづかた)にて立合(たちあひ)申(まうす)べきやと。源藏何方までもなし此所(ここ)にて勝負を試みべしと云。既に匁傷(にんじやう)に及(およば)んとするをみて、亭主大(おほき)に驚き、何共(なんとも)我等亭にて御互に怪我等も有之(これあり)ては、上の御咎め鄰里(となれるさと)の難義も迷惑に候へば、御用捨(ようしや)下さるべしと詫(わび)ければ、源藏尤(もつとも)也(なり)、さらば何方にても御望(おのぞみ)にまかせ立合申んと云(いふ)。三四郎悦び、然らば拙者が宅へ來らるべしやと。源藏尤宜(よろしき)事也とてゆかんとす。其徒も同道せんと云(いふ)を源藏止(とど)め、全く是は兩人斗(ばかり)の事にて他人にあづからず。若(もし)各(おのおの)を同道せば、いかなるまきぞへの罪をえられんも氣の毒、必ず無用なりとて押止(おしとどめ)、一人三四郎が宅へ行(ゆき)たり。門を入(い)るとそのまゝ錠をおろし、逃出(にげいださ)んやうなきにかまへ、扨(さて)座敷へ招じ逢(あひ)けるに、源藏いよいよ詞氣(しき)たはまず、傍若無人恐るゝ色もなかりしかば、三四郎殊の外感伏し、高名聞(きき)しにたがはず、不測の地に臨(のぞみ)て益(ますます)恐るゝ氣色(けしき)なし、我等が及(およぶ)所にあらず、今より巳後(いご)は何とぞ眞知(しんち)のまじはりをゆるされ下され、生死をもともにし、兄弟同樣に思ひ給はれと願ひければ、源藏も承引(しやういん)し、扨其跡にて盃盤珍羞(はいばんちんしう)を勸め、歡を盡(つく)し深更迄ありて別れけり。

 源藏三枚橋迄歸る時、十人斗(ばかり)拔身(ぬきみ)にて左右より突來(つききた)る。傘にて三四人みぞの中へうちたふし、其餘は縱橫ににげ行(ゆき)ける。一人をとらへみるに彼(かの)三四郎が徒也。源蔵甚(はなはだ)怒り、三四郎甚(はなはだ)此興(ひきやう)也、其座にて勝負に及ばず、かくだましうちにせんとする言語同斷臆病也と云(いふ)。此者顏色(がんしよく)藍の色の如し、全く左樣の次第にあらず、三四郎感服の體(てい)を旁觀(ばうかん)致しぬれど、まだ君(くん)の手際(てぎは)を存ぜねば試み侍らんとて、仲間のものどもかくせし事也(なり)、ゆるし給はれといへば、さらば手際をみよとて引つらるゝに、鳥越のあたりまで行(ゆき)て一向にあるき得ず、魂消(たまげ)て地にふしうごかざれば、今は益なしとて、豆腐屋の大桶の水をうちあけ、此男に引かぶせ歸りけるとぞ。此源藏本所の惣若年(すべてのじやくねん)を悉く從へ、或は人の急に赴き難をすくひ、又は氣をつかひぬす人をふせぎなどせしかば、源藏が有(ある)所は靜謐(せいひつ)にして、行人(かうじん)も夜の妨(さまたげ)なく、本所の人倚賴(よりだのみ)して尊(たつと)みけり。ある夜源藏同道ありて娼家に遊びしに、同道の男は名妓の客也。源藏はその妓の新造に會たり。既に枕席を催して寢(いね)んとせし時、名妓たびだび來りて使用のために新造を二三度おこしつかひけり。源藏閑話を妨(さまたげ)られ怒(いかり)をおこし、此妓をよびて云(いひ)けるは、いかに汝が新造なればとて、かく度々よびおこして歡(くわん)をさまたぐる事をなす、我も太田源藏とて人にしられたるもの、かくまであなづられたる事なしといひければ、此妓大(おほき)に驚き罪を謝し退(しりぞき)しが、しばらくありて此妓新たに衣裳を着かへ、再び入來り源藏に申(まうし)けるは、君こゝに來り給ふ事をしらずして失禮の罪のがれがたし、深くこゝろにとゞめ玉(たま)はるべからず、ねがはくば一盃をすゝめ奉らんとて、手づから酌をとり、扨(さて)新造にいひけるは、源藏ぬしはわが客にもらひ侍るまま、まげて得心(とくしん)してくれよと云(いひ)て、みづからがざしきへ御出(おいで)下されよと云(いふ)。源藏はなはだ迷惑におもひけれども、既に同道の客へもことはり[やぶちゃん注:ママ。]をいひ、歸したるよしなれば、源藏思案に及ぶところなく、其夜は名妓の閨(ねや)に一宿し、いんぎんに飽(あき)て歸りぬ。其後此妓源藏をまねく事三度に及び、藝者人形上るり酒飯まで華麗をきはめ、一席の饗應此妓悉く辨(べん)ぜり。數十金の費(つひへ)に及べる事とぞ。源藏深く妓の志(こころざし)を感じ、何とぞ一囘盛筵(せいえん)を設(まうけ)て此(この)報(むくひ)をなさんと思ふに、黃金(こがね)調(ととのふ)る才覺なければ、御くら前のくらやどに至り、官俸(くわんはう)の先納(せんなう)を借受(かりうけ)ん事を乞(こひ)けるに、伴當(ばんたう)承引せず口論に及び、源藏佩刀にて伴當をむねうちにせし所、刀ぬけて伴當を匁傷(にんじやう)し公裁(おほやけのさばき)に及び、源藏囚牢(しふらう)せられたり。其上年來(としごろ)の舊惡種々露顯し、死刑を免(めん)され、終(つひ)に玄界島へ流罪に處せられぬ。任俠無賴のあやまち成(なり)といへども、意氣の感ずるために身をあやまてる事惜(おし)むべし。後(のち)三四郎も惡行(あくぎやう)つのり、又遠流(おんる)に處せられけるとぞ。

[やぶちゃん注:「譚海」始まって以来の長尺物語風実録記事である。

「朝士」「宮家の徒士(かち)衆」永続的に江戸に居住した皇族やそれに準じた家柄の人物はいないと思われるからこれは所謂、「武家伝奏役」や「寺社伝奏」などの勅使・院使・仙洞使の任にあたった公家が任務のために短期的に滞在した伝奏屋敷に雇用されていた「徒士(かち)」と考えてよいか。但し、実在した太田源蔵は以下に示す通り、小十人組の武士である。

「太田源藏」(生没年未詳)は実在した江戸中期の侠客(「強きを挫き、弱きを助ける事」を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称であるが、多くの場合は市井無頼の徒としての「やくざ者」に対する幻想的な美称でしかなかった)。西丸の小十人組(後注参照)に属する幕臣であったが、仲間と「本所組」を組織して親分となった。江戸市中で乱暴を働いたり、偽造した贋証文で借金をしたりして、安永元(一七七二)年に捕らえられ、死罪を宣せられたが、獄舎の火災の際、緊急避難で「お解き放ち」となった。しかし、正直に帰牢したため、減刑となり、玄界島(げんかいじま:現在の福岡県福岡市西区に属する島か)に流された。名は時勝。以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

「安永」一七七二年から一七八〇年まで第十代徳川家治の治世。

「小從人(こじふにん)」底本では「從」の右に編者による訂正注として『十』が附されてある。「小十人組」は江戸幕府の職名。将軍外出の際に扈従(こしょう)して前駆(まえがけ)を勤めた足軽の組で、一組二十人、十組で構成され、小十人頭の指揮下、本番・御供番・詰番・御供加番の四手に分れた。若年寄支配、詰所は檜の間であった。

「こたは三四郎」モデルは太田源蔵と同時代の侠客小幡三四郎(おばたさんしろう 生没年不詳)。太田と同じく講談社「日本人名大辞典」を調べると、幕臣だが、明和(一七六四年~一七七二)の頃、江戸で仲間とともに「下谷組」を組織して親分となった。「本所組」の太田源蔵に決闘を求めたが、逆に相手の度胸に惚れ込んで、謝罪して止めたという。後に事件を起こして捕縛され、遠島となったという。

「島臺」婚礼などの祝儀の宴席などで用いる飾り台。州浜(すはま:海に突き出た州のある浜辺)を象った台の上に松・竹・梅・鶴・などの縁起物を配したもの。蓬莱山を模したものとされる。浅草辺りなら、子分走らせれば、簡単に手に入ったものと思われるし、大きな酒家ならば、だけなら用意があったであろう。或いは、事実、それ用の台だけで可能性が私は高いようにさえ思う。

「舊識(きうしき)」故人。旧知となるような友人。

「脇差を拔き臺に置(おき)返盃を乞(こひ)ける」このポーズが当時の侠客同士の果し合いの合図であったのであろう。

「白刄(はくぢん)」抜身の短刀或いは脇差。

「鄰里(となれるさと)」読みは私の推測。隣近所。「りんり」は戴けない。

「用捨(ようしや)」中止する。止める。

「詞氣(しき)」読みは推測。「士氣」の当て字ととった。戦いに臨む意気込み。或いは「言葉の語気」の強さかも知れぬが、このシークエンスでごちゃごちゃと喋って吠える太田というのは如何にも空元気っぽくて考えにくく、いただけぬ。

「たはまず」「撓まず」であろう。但し、だとすれば「たわまず」が正しい。ねじけたり、力なくなったりすることもなく。

「眞知(しんち)」まことの無二の知己(ちき)。

「給はれと願ひければ、源藏も承引(しやういん)し、扨其跡にて盃盤」この箇所は前後に丸括弧が附されてあり、編者が底本とした以外から、挿入したものと思われる(その注記は解題にはなく、書誌学的には問題がある)。

「珍羞(ちんしう)」「羞」は「食べ物」の意で、珍しい食べ物。珍しい料理。珍肴(ちんこう)。

「三枚橋」下谷三枚橋。現在の御徒町駅直近の位置を同定候補しておくが、ごく近くの仲御徒町通の板橋や和泉橋通の石橋も同じく「三枚橋」と呼称していたので限定比定は出来ない。

「源蔵甚(はなはだ)怒り」以下の叙述から、ここで源蔵はとって返して三四郎に直談判したとしか思われない。

「此興(ひきやう)」「卑怯」が正しい。

「藍の色の如し」すっかり蒼白になって。

「旁觀(ばうかん)」「傍觀」。

「君(くん)」貴殿。

「引つらるゝに」襟首摑んで引っ張って無理矢理歩かせて引きずっていったところが。

「鳥越」現在の東京都台東区鳥越か。源蔵の住居と想定し得る隅田川を渡った本所に近い。

「惣若年((すべてのじやくねん)」読みは私の勝手な類推。

「倚賴(よりだのみ)」同前。

「新造」「しんぞ」「しんぞう」とも読む。吉原で御職女郎(おしょくじょろう・吉原限定の最高位の女郎)に付添った若い見習いの遊女。「振袖新造」・「留袖新造」・「番頭新造」の三種があった。男をとらない少女の禿(かむろ)が成長し、十三~十四歳になると「振袖新造」と称した。

「汝」この娘。源蔵が相手として選んだ新造。

「歡(くわん)をさまたぐる」儂(わし)とこの新造との歓談を妨げる。

「あなづられたる」「侮られたる」。馬鹿にされた。彼への侮蔑よりも、まだ男を殆んど(或いは高い確率で全く知らぬ)新造の気持ちや苦労を不憫の思った源蔵の意気に感じたところの方が強い。

「此妓大(おほき)に驚き」彼女は自分が禿から新造になった辛い昔を思い出したのに違いない。だからこそ、以下のシークエンスに続くのである。

「いんぎん」「慇懃」。

「飽(あき)て」十全にしっぽりと楽しんで。通常の最上に花魁級は初対面の客とは一夜を共にしないのが掟であるから、これは異例中の異例である。

「三度」数多いことの表現。

「人形上るり」人形浄瑠璃。但し、通常は置屋の亭主の許可なしには花魁でも遊廓外の劇場に行くことは原則、許されなかった(はずである)。

「辨(べん)ぜり」用意し賄った。

「數十金」数十両であるから六十両は下るまい。

「何とぞ一囘盛筵(せいえん)を設(まうけ)て」何とかして、この名妓の心意気に、一度は応えてやって、盛大な宴会を自分自身の主宰出費で設定して。

「御くら前のくらやど」「御蔵前の藏宿」。公事宿(亭主は役所に提出する願書や証文・訴状など諸々の書類の作成や清書、手続きの代行や弁護人的役割もこなした宿)であろう。

「官俸(くわんはう)の先納(せんなう)」公務員俸給(通常は米の現物支給)の現金による前借りであろう。

「伴當(ばんたう)」底本には編者による訂正注が右に『(番頭)』とある。

「むねうち」「棟打ち・刀背打ち」。しかも以下の叙述から鞘のままであったので源蔵はただ、懲らしめるためであって実際の傷を与える確信犯ではなかったことが判る。しかし言っておくが、たとえそれでも、非解放性の単純骨折であったとしても、内臓破裂や損傷を伴う甚大な致命的骨折も十全に発生し得た。しかもこの場合は、「刀ぬけて」その番頭に実際の刃傷を加えたというのであるから、これは単なる暴行罪ではなく、立派な傷害罪であり、当時の裁きでは最悪の重刑である殺人未遂罪であるところの、確信犯の刃傷(にんじょう)として処理されたのである。

「公裁(おほやけのさばき)」読みは流れからの私の趣味。

「其上年來(としごろ)の舊惡種々露顯し、死刑を免(めん)され」かたりがおかしい。「其上年來の舊惡種々露顯(すれども)、死刑を免され」であろう。ここで筆者津村が事実とされる、獄舎の火災の際に解き放たれたが、命ぜられた通りに帰牢したために減刑となって流刑とされた事実を語らないのは、理屈が通ぜず、かなり不満である。]

甲子夜話卷之二 22 狂言の大名を堀田參政評判せる事

2―22 狂言の大名を堀田參政評判せる事

林公鑑云。堀田攝州【正敦、堅田侯、參政】あるときの話に、能狂言の大名と云ものは、貴人を諷する爲に拵たるものと思はる。太郎冠者にだまさるゝと云がおもしろきこと也。今の大名は、人にだまされまじきだまされまじきと斗思ふ心より、其末は善事までも、何ぞ心ありてだますかと思ふやうに成り行くものなり。人君は元より也。高官の人など、だまされぬと云念慮の害甚多し。凡てよき事を以て人よりだますは、だまさるべきことよと申されし。實に鄭子産、放魚の遺意を得たる言葉なり。此人氣勁(つよ)くして才秀。量ありてよく人を容る。寛政名臣の一なり。和哥を好み和文に長ぜり。騎法尤すぐれたりと云。仙臺中將宗村の五男なり。

■やぶちゃんの呟き

「堀田參政」「堀田攝州【正敦、堅田侯、參政】」近江堅田藩第六代藩主(天明七(一七八七)就任。文政九(一八二六)年十月十日下野佐野藩に移封)・下野佐野藩藩主(再興)・幕府若年寄(「參政」はその別称。就任は寛政二(一七九〇)年で没した年の一月二十九に致仕(家督は五男正衡(まさひら)が継ぐ)、同年六月に逝去)であった堀田摂津守正敦(ほったせっつのかみまさあつ 宝暦五(一七五五)年~天保三(一八三二)年)。陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男。「甲子夜話」執筆開始は文政四(一八二一)年であるから、当時は正敦はまだ「堅田侯」であった。彼は本条の最後に「仙臺中將宗村の五男なり」とあるが、正しくは陸奥仙台藩第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の八男である。この違いは兄の内、三人が早世していることから本人がかく称していたからかも知れない(以上はウィキの「堀田正敦他に拠った)。

「林公鑑」江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)の字(あざな)。一応、「はやしこうかん」と字は音読みしておく。既出既注であるが、再掲する。ウィキの「林述斎」によれば、父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、寛政五(一七九三)年、『林錦峯の養子となって林家を継ぎ、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。文化年間における朝鮮通信使の応接を対馬国で行う聘礼の改革にもかかわった。柴野栗山・古賀精里・尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新にも力を尽くし、昌平坂学問所(昌平黌)の幕府直轄化を推進した(寛政の改革)』。『述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうもんほうこう)』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。別荘に錫秋園(小石川)・賜春園(谷中)を持つ。岩村藩時代に「百姓身持之覚書」を発見し、幕府の「慶安御触書」として出版した』とある。因みに彼の三男は江戸庶民から「蝮の耀蔵」「妖怪」(「耀蔵」の「耀(よう)」に掛けた)と呼ばれて忌み嫌われた南町奉行鳥居耀蔵である。

「能狂言の大名」能の狂言に登場する大名(殿様)。

「諷」諷刺。諷喩。

「拵たるもの」「こしらへたる者(役)」。

「斗」「ばかり」。

「より、其末は」結果、遂には。

「善事までも、何ぞ心ありてだますかと思ふやうに成り行く」誰かがよかれと思って善意ずくでして呉れたことに対してまでも、『何か下心があって私を騙そうとしてるのではないか?』と疑心暗鬼に陥るようになっていってっしまっている。

「人君」君主(天皇・将軍・大名)。

「だまされぬと云念慮の害甚多し」「云」は「いふ」。「甚」は「はなはだ」。『騙されてなるものか!』という被害念慮による猜疑に基づく誤った判断に基づく処断を起因とした甚大な弊害の方がすこぶる多い。

「凡てよき事を以て人よりだますは、だまさるべきことよ」「何事もうまいことを言って人を騙すよりは、人の誠意を信じ、たまに人に騙されるぐらいの方がよいことじゃて!」。

「鄭子産」春秋時代の鄭に仕えた政治家子産(しさん ?~紀元前五二二年)。「公孫僑」とも呼ばれる。弱小国であった鄭を安定させる善政を行い、世界史上初の成文法を定めた(ウィキの「に拠る)。

「放魚の遺意」「孟子」の「萬章章句 上」に出るエピソード。

   *

昔者有饋生魚於鄭子産、子産使校人畜之池、校人烹之、反命曰、始舎之、圉圉焉、少則洋洋焉、攸然而逝、子産曰、得其所哉、校人出曰、孰謂子産智、予既烹而食之、曰得其所哉、得其所哉。

〇やぶちゃんの書き下し文

昔者(むかし)、鄭の子産に生魚(せいぎよ)を饋(おく)る有り。子産、校人(かうじん)をして之れを池に畜(やしな)はしむ。校人、之れを烹(に)る。反命(へんめい)して曰く、

「始め、之れを舎(はな)つに、圉圉焉(ぎよぎよえん)たり。少(しばら)くして則ち、洋洋焉(やうやうえん)たり。攸然(いうぜん)として逝(ゆ)く。」

と。子産、曰く、

「其の所を得たるかな。」

と。

校人、出でて曰く、

「孰(なん)ぞ子産の智たらんと謂ふか。予、既に烹て之れを食(くら)ふに、曰く、『其の所を得たるかな、其の所を得たるかな。』と。」

と。

   *

簡単に語釈する。「饋(おく)る」は「贈る」。「校人」は官邸内の池沼を管理する下役人。「烹(に)る」煮て食ってしまった。「反命(へんめい)」報告。「舎(はな)つに」池に放ったところ。「圉圉焉(ぎよぎよえん)たり」おとなしくしていた。「洋洋焉(やうやうえん)たり」如何にも溌剌と元気になって。「攸然(いうぜん)」悠然。「逝(ゆ)く」(池の水路口を楽々と飛び越えて)泳ぎ去った。「其の所を得たるかな」「その居(おる)べきところを(得たことで生気を取り戻し)得たのでなぁ!」。「孰(なん)ぞ子産の智たらんと謂ふか」「いったい、世間では小産を賢者だなどと褒めた讃えているが、どこが智恵者なもんか!」。無論、小産はこの最下級の階層の小役人が自らの職掌をも顧みず、あろうことか、魚を喰らったことを知っていると読むべきである。彼は校人が嘘をついていることを承知の上で、この程度のことで、家内にて口を荒ららげ、この下劣な輩を厳罰を処することを敢えて避けたのである。これぞまさに堀田の言った騙す人間であるより騙される人間であることの方が遙かによい、という理に基づいているのである。

「量」度量。

「人を容る」他者に対して寛大である。

「和哥を好み和文に長ぜり」ウィキの「堀田正敦は、『和漢の学識に富み、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めている。また蘭学者を保護するなど学者を厚遇し、自らも鳥類図鑑『禽譜』と解説書『観文禽譜』(後述)を編纂するとともに、『観文獣譜』(東京国立博物館所蔵)、『観文介譜』(貝の博物書、写本を東洋文庫が所蔵)も執筆している』とし、『正敦は幕府の若年寄として松平定信の主導する寛政の改革を推進し、その一環として和歌を中心とした文教新興策を行っている。正敦は定信をはじめ、屋代弘賢や北村季文、塙保己一など、好学大名や学者・文人ら文化愛好集団の繋がりから古典を収集し、同時代の学知を反映させた写本を編纂している。正敦の収集資料には「堀田文庫」の蔵書印が押印されており、禽譜・観文禽譜や七十一番職人歌合(山梨県立博物館所蔵)などがあり、また、『寛政重修諸家譜』の発案も行っている』。『堀田文庫の代表的資料である『禽譜』(きんぷ、堀田禽譜、写本を宮城県図書館などが所蔵)・『観文禽譜』(かんぶんきんぷ、宮城県図書館所蔵)は鳥類分類図鑑で、鳥類の生物学的記載のみならず、関係する和歌や漢詩などの考証も記載した総合学術辞典としての性格を有する。堀田禽譜には、同時期に編纂された解説書の解説に対応する鳥類の図が収録されており、『観文禽譜』から抜粋された解説が付けられていることから、『観文禽譜』の図譜部であるとも考えられている』という博物学者としての資質を記載している。

佐渡怪談藻鹽草 序 目錄 / 佐渡怪談藻鹽草全電子化注 了

 

 佐渡怪談 

 

 怪談藻汐草(もしおぐさ)序

 怪力亂神を語らずとは、其(その)場其人に對して、例に機變の敎(おしへ)あれば、虛實は常の扱(あつかい)ならんか。爰(こゝ)に此(この)書あるは、古人夜話老仙の、筆まめなる反古(ほご)にして、兒童をすかす一助にもと、此國にて古老の言傳へしとまのあたり見聞し證跡慥(たしか)なる怪談を、公務の寸(すん)隙に書(かき)、何くれの事繁きに取忘れて、はや十とせ餘りを過(すぎ)ぬれば、其人もむかし語(かたり)となり給ひぬ。今はかたみの藻汐草(もしおぐさ)、書(かき)集たる蜑ならねば、爰は惠美須(えみす)の浦住居、つれづれなるまゝ硯に向ひ、そこはかとなく書つゞれば、是もまたあやしくこそ物狂しからん。彼吉田の何某が文ならねば、勸善懲惡の沙汰にもあらず。たゞ庚申(こうしん)の夜に、人事言んよりは、眠(ねむり)を防ぐ茶吞噺(ちやのみばなし)ともならば、古人の本意にも叶(かなひ)ぬらんと、『怪談藻鹽草(もしおぐさ)』と題して安永七年の冬の日、圓阿彌(えんあみ)精舍(しようじや)、假の役館書寫※

              梅光主人

  戊霜月             太庚 

 

[やぶちゃん注:最後の部分の字配の一部はブラウザでの不具合を意識して上げてある。

」は「己」(上)+「十」の字体。これは「卆」「卒」と同字であって、「終」と同義。

「藻汐草(もしおぐさ)」「藻鹽草(もしおぐさ)」「もしお」はママ。藻塩をとるために使う海藻。藻塩とは海藻から精製した塩のことで海水を十分に含んだ生(なま)の海藻(不等毛植物門 Heterokontophyta 褐藻綱 Phaeophyceae ヒバマタ目 Fucales ホンダワラ科 Sargassaceae ホンダワラ属 Sargassum ホンダワラ Sargassum fulvellum やホンダワラ属アカモク Sargassum horneri など。孰れも佐渡の海中に植生し、食用にも供する。私は大好物である)を簀(す)の上に積み、更に幾度も潮水を注ぎかけて塩分を更に多く含ませた上で天日で乾燥させ、それを焼いて、次に水に溶かし、その上澄みを煮つめて製する。海中の藻を掻き集めて潮水を注ぐことから、和歌では多く、「書く」「書き集(つ)む」に掛けて用い、そこから、随筆や筆記などをも指す語として機能した。

「怪力亂神を語らず」「論語」の「述而篇」の「子不語怪力亂神」(子、怪力亂神(かいりきらんしん)を語らず)に基づく語。「怪」は尋常でない事例を、「力」は粗野な力の強さを専ら問題とする話を、「乱」は道理に背いて社会を乱すような言動を、「神」は神妙不可思議、超自然的な人知では解明出来ず、理性を以ってしても説明不能の現象や事物を指す。孔子は仁に満ちた真の君子というものは怪奇談を口にはしない、口にすべきではない、と諭すのである。しかし、この言葉は実は逆に古代から中国人が怪奇現象をすこぶる好む強い嗜好を持っていたことの裏返しの表現であることに気づかねばならぬ。

「例に機變の敎(おしへ)」「例」は「ためし」昔からの一般的事例或いはその扱い方の意。一般に(一概にあり得ない話として捨て去るのではなく)臨機応変に処理すべしという教訓。

「虛實は常の扱(あつかい)ならんか」その現象や話が、虚偽であるか真実であるかという判断は、冷静にして公平な扱いの中で行われるべきものであって、孰れかに偏るべきではあるまい、というのである。すこぶる首肯出来る謂いである。

「古人夜話老仙の」ここは「古人、夜話老仙の」ととりたい。即ち、とあるこの怪談集を記録した「古人」(後で「其人もむかし語(かたり)となり給ひぬ」というから「故人」である)の意として、「夜話老仙」は「老いて仙人染みた夜話好きの「古人」という形容と読みたいのである。この人物は本文の内容から佐渡奉行の地役人であると推定出来る。それをかく編した人物である「梅光主人」「太庚」(「たいこう」?)なる人物も、最後に住居を「假の役館」と述べている以上、やはり同じような地役人であったと考えてよかろう。

「反古(ほご)」書き損なったりした、不要のメモ。自書への謙遜の辞。

「すかす」「賺す」言葉で機嫌をとったり、宥(なだ)めたり、興味を引かせたり(ひいては驚かしたり)する。

「まのあたり」「目の當たり」。

「見聞し」「みききし」。

「證跡」事実であったという証拠。

「書(かき)集たる蜑ならねば」先の藻塩に書けた。私自身は「蜑」(海人・海士)でない、だから搔き集めた藻塩、いやさ、怪談ではないのであるが。「ならねども」との言いであるが、そう表現すると如何にもお洒落ではない。

「惠美須(えみす)の浦住居」「蜑」ではないものの、漁師の神である「えみす」(夷(えびす))の名を冠した、漁師が沢山住もうておる浦にある住まい。この「夷」は恐らく高い確率で現在の新潟県佐渡市両津夷(りょうつえびす)の一帯を指していると私は読むのである。

「人事言んよりは」尋常のこまごまとしたつまらぬ世間一般(人間社会)の出来事を語るよりも。

「古人」原著者。

「安永七年」グレゴリオ暦一七七八年。第十代将軍徳川家治の治世。

「圓阿彌(えんあみ)精舍(しようじや)」不詳。近くの現在の佐渡市湊町の八幡若宮社の境内には時宗の円阿弥寺があったが、明治維新で廃寺となったとブログ「佐渡広場」の本間氏の投稿鬼太鼓18:湊まつりと子供鬼太鼓にあるが、夷町とは少し離れるものの、この寺の境内に以下の官舎があったものか?

「假の役館」仮住まいの官舎。

「書寫※」(「※」=「己」(上)+「十」)「書き寫(うつ)し※(おは)んぬ」。] 

 

怪談藻汐草目錄

[やぶちゃん注:以下、本文で振ってあるので読みは一切を省略した。但し、標題表記は本文のそれとかなり異なっているので注意されたい。]

 

眞木五郞鰐に乘事

菅沼何某金北山の神影拜事

梶太郞右衞門怪異の物と組事

安田何某廣言して突倒さるゝ事

蛇蛸に變せし事

荻野何某怪異の火を追事

宿根木村臼負婆々の事

上山田村安右衞門鰐を手捕にせし事

鶴子の三郞兵衞狸の行列を見し事

山仕秋田權右衞門愛宕杜參籠事

大章魚馬に乘し事

小川村の牛犀と戰ふ事

靈山寺山大蜈蚣の事

高下村次郞右衞門狸を捕し事

窪田松慶ニツ岩へ療治に行し事

寺田彌三郞怪異に逢事

仁木與三兵衞大浦野にて狢をおびやかす事

神鳴の銚子の事

高田何某狸の火を見る事

名畫奇瑞ある事

高田某怪敷聲を聞事

小川權助河童と組事

眞木庄兵衞が事

枕返しの事

髭坊主再生の事

仁木何某賭ものに行事

百地何某狸の諷を聞事

河原田止宿の衆人怪異に逢事

井口何某小判所怪異の事

仁木何某妻懷胎怪異の事

淺村何某矢の根石造を見る事

仁木妻幽鬼を叱る事

小林淸兵衞狢に謀られし事

井坪村頰つり姥の事

專念寺にて幽靈の出る事

堂の釜崩の事

法螺貝の出しを見る事

千疊敷怪異の事

井口何某家幼子夜泣の事

 

目錄※[やぶちゃん字注:前「序」の「※」と同じ。]

佐渡怪談藻鹽草 井口氏何某幼子夜泣の事

      井口氏何某(なにがし)幼子夜泣(なき)の事

 

 いつの頃にか有けん。井口祖兵衞【寶曆の頃の井口文政より四代以前】上相川の番所役たりし時、彼(かの)所の役館に住(じゆう)しけるが、ある時よりふと幼少の夜泣を仕出して止(やま)ず。五日十日の程は、等閑に打過(うちすぎ)しが、月を重ねて、猶更烈しく、夜半の頃より物におそわるゝやうにおびへたまぎりて、半時斗(ばかり)は、性根を失ふ程に有(あり)ければ、家内の人々、あぐみて、僧の加持・驗もの、祈(いのり)など手を盡したれ共、あへて止(やま)ず。爰(こゝ)に祖兵衞、心付(つく)事ありて、例の刻限、小兒の居ける處を少し退(しりぞき)て、臥(ふし)たる體(てい)をなし、爰彼(こゝかの)所、眼を配(くばり)て、見居たる向(むかひ)の方、竹根有(あり)て、外は障子さし込(こめ)、内もまた、障子の敷(しき)りたるに、其(その)内障子の一間破れたる所より、何かわしらね共、怪異のもの、顏をさし入て、小兒の方を守り居ければ、俄(にはか)に泣(なき)まどひ、あつき茶五七ふく呑(のむ)斗(ばかり)居て、曲(くせ)もの退ければ、小兒も忽(たちまち)、泣きやみけり。祖兵衞、

「病根は見定(さだめ)たり」

とて、其夜は打(うち)ふし、明(あけ)るやいな、手覺のさすがをとぎすまし、竹の柄をゆひ添(そへ)、

「是にて、今宵は仕留(とめ)ん物を」

と、障子の際近く、居所を敷(しき)り、宵より忍び居て、刻限おそしと待(まち)かけたり。兎角して、夜半の頃にいたれば、前のごとく、曲もののぞきたるを、彼(かの)柄物にて物際よりしたゝか突(つく)。つかれて手答(こたへ)せしが、ふりもぎつて、外障子を押(おし)破り、飛失(とびうせ)ぬ。すわや、人々おり合(あひ)、其邊さがせども、怪敷(あやしき)ものなし。是(これ)に寄(より)て、今宵夜泣の止(やみ)ぬるを幸ひに、心安く臥(ふし)けり。明日朝、能(よく)々見れば、外障子へかけて血引(ひき)たり。其血をしたひて行(ゆき)ければ、北山道才の神塚へひき入(いり)たり。四五尺も、石を取除(とりのぞき)見れば、絶(たえ)て血の跡なし。夫(それ)より夜泣は止(やみ)にけり。其頃の老人に其事を語るに、

「正しく鼬(いたち)の所爲ならん」

と言(いひ)けるよしなり。

 

[やぶちゃん注:本話を以って「佐渡怪談藻鹽草」は終わる。久しぶりにすこぶる附きで楽しかった電子化注であった。ありがとう! 文春! 基! 佐渡怪談藻鹽草!

「井口祖兵衞」「井口文政」孰れも不詳。ずっと後年の幕末の頃であるが、本「佐渡怪談藻鹽草」でよくお世話になったサイト「佐渡人名録」のこちらで、「佐渡年代記」中巻に佐渡奉行所広間役井口茂十郎なる人物が天保三年(一八三二年)、『出精相勤候に付、銀七枚を与えられて賞された』と載るとある(牧田利平編「越佐人物誌」(昭和四七(一九七二)年野島出版刊)より)。或いはこの先祖か古い縁戚かも知れぬ。

「寶曆より四代以前」宝暦年間はグレゴリオ暦で一七五一年から一七六四年で、第九代徳川家重及び第十代徳川家治の治世である。一代を仮に幸若舞「敦盛」に擬えて五十年とするならば一七〇一年から一七一四年となり、元禄十四年から宝永を挟んで正徳四年の時期に当たる。第五代綱吉及び第六代家宣の治世。それ以前とも考え得る。

「等閑に」「なほざり」と訓じておく。気にもせず、放っておく。

「たまぎりて」「魂消(たまぎ)りて」。何かに非常に驚き、びくついて。

「半時」現在の約一時間。

「性根を失ふ」「性根」は「しやうね(しょうね)」で(「しやうこん(しょうこん)」では「覚悟した気力・根気・根性」の意で合わないので注意!)、「正気を失う」の意

「あぐみて」「倦(あぐ)みて」マ行四段活用。ある事をし続けても、一向に良い結果が得られないため、最早、どうしたら良いのか判らなくなって、ほとほと困る。完全にもて余す、の意。

「驗もの」前が「僧の加持」で後が神道っぽい「祈(いのり)」であるから、ここは「驗物(げんもの)」と読んでおき、修験道の山伏などの成す呪法ととっておく。

「心付(つく)事」何とはなしに気になること。

「竹根有(あり)て」直後に「外は障子さし込(こめ)、内もまた、障子の敷(しき)りたるに、其(その)内障子の一間破れたる所より」とある以上、この「竹根」は室内に見えるものである。所謂、床下から畳の縁などから突き出て生えた竹のことか。「たけのね」と訓じておく。

「外は障子さし込(こめ)、内もまた、障子の敷(しき)りたるに、其(その)内障子の一間破れたる所より」「外」「障子」は縁を隔てた戸外との家屋の一番外側の障子、その内側に廂(ひさし)の間(或いは内廊下)があって、さらにその内側に「内」「障子」が「敷(しき)」って、仕切っていたのでのである。官舎としては相応に良い作りと見える(佐渡は冬の寒さが厳しいからこうした二重構造を持っているのかも知れぬ)。「一間」は「ひとま」で、障子の縦子(たてこ)と横子(よここ)に区切られた一区画の組子(くみこ)を指していよう。

「何かわしらね共」「わ」はママ。「何かは」。

「守り居ければ」凝っと見詰めていたので。

「俄(にはか)に泣(なき)まどひ」無論、赤子が、である。

「あつき茶五七ふく呑(のむ)斗(ばかり)」これは実際に熱い御茶を飲んでいるのではない。熱い茶を五度から七度も吹き冷ましながら飲むくらいの相応の時間を指す。個人差はあろうが、最低でも三分、概ね五~六分と踏む。「ふく」を「服くす」の意でとっては畳語となり、面白味もない。非常にオリジナルな、怪異体験時間の特異表現で、実に興味深いではないか。

「退ければ」本作の「退」の訓読特性からここは「しりぞければ」である。顔を障子から引いて去ったので。

「明るやいな」翌日、夜が明けるやいなや。

「手覺の」愛用して馴染んでいる自慢の。

「さすが」ここは腰に差す短刀。腰刀。

「とぎすまし」妖怪との戦いのために実際に砥石で研ぎ澄ましているのである。

「竹の柄をゆひ添(そへ)」短刀である以上、それほど柄の太く長い物ではない。障子から顔を突き出すだけの変化の物を突き刺すには、ある程度の長さが必要と考え、柄の手前に竹を接ぎ足して添えたものと思われる。柄を持った時の滑り止めなら、竹では不適と私は思うからであるし、私なら確かにそのように長く拵えるからである。

「是にて、今宵は仕留(とめ)ん物を」「物を」は感動・詠嘆の終助詞「ものを」の当て字。「これで以って! 今宵(こよい)は必ずや、仕留めてやるぞッツ!」

「柄物」「えもの」、これは「得物」で先に「柄」のことを言ったことから、はずみでかく書いてしまったに違いない。「得意とする武器」或いは単に「武器」の意である。

「物際」「ものぎは(ものぎわ)」物蔭。

「したゝか突(つく)」強く深く確かに突く。

「つかれて」「突かれて」。

「手答(こたへ)せしが」手応えが確かにあったのだが。

「ふりもぎつて」「振り捥ぎつて」。グッと刺し押さえ祖兵衛の「さすが」を振り切って。

「すわや」感動詞。「すは」に同じい。「あっつ!」のオノマトペイア(擬音語)。

「おり合(あひ)」「降り合ひ」であろう。家中の者(番役であるから中間や下男はいる)、皆々、庭に飛び降りて。

「寄(より)て」「依りて」。

「明日朝」「あくるひ、あさ」と訓じておく。

「北山道才の神塚」これは思うに「北山(へ向かう)道(にある)才(さい)の神塚(かみづか)」の意ではなかろうか? 「北山」は「金北山(きんぽくざん)」、現在の新潟県佐渡市の大佐渡山地(佐渡の北側)のほぼ中央に位置する標高千百七十一・九メートルで島内の最高峰の古い時代の呼称。しかも調べてみると、現在、佐渡市三宮(さんぐう)に才ノ神という旧地名があり、ここには何らかの遺跡があり、それはまさに「才の神塚」と呼ばれていることが判明した(「たんきゅうドットコム」の運営するサイト「遺跡ウォーカー」のを参照されたい)。この三宮地区には実は北西に順徳天皇皇子三宮御墓所が現存する。それを考えると、この「才(さい)の神塚」は「三(さん)の「神」(皇子であるから「かみ」でおかしくはない)の塚(墓)」の訛ったものかも知れぬと当初は思ったのであるが、それより遙かに、「才の神」とは「塞(さい)の神」の訛りと考えた方がずっと腑に落ちるのである。「塞の神」なら「道」の路傍にある「塚」であって頗る自然だからである。さても、私の推理は一応、ここに落ち着いたのであるが、但し、ここに痛い矛盾が一つだけあるのである。現在の地図で見てみると、佐渡市三宮地区は真野湾湾奥の少し内陸にあって、ここから北山(金北山)までは北へ直線で十三キロメートルもあり、この三宮を「北山(へ向かう)道」とは逆立ちしても呼べないことである。佐渡の郷土史家の方の御教授を最後に切に乞うものである。

「四五尺」一メートル三十センチから一メートル五十一センチ強。

「鼬(いたち)」実在する鼬(脊椎動物亜門 Vertebrata 哺乳綱 Mammalia 食肉(ネコ)目Carnivora イヌ亜目 Caniformia イタチ科 Mustelidae イタチ亜科 Mustelinae イタチ属 Mustelaニホンイタチ Mustela itatsi (或いは、シベリアイタチ亜種ニホンイタチ Mustela sibirica itatsi )は古くから妖怪としても認識されていた。大入道に化けるとか、管狐(くだぎつね:宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法の「飯綱の法」の私の注を参照)と同一視されたり、鼬が老成して貂(てん:イタチ亜科テン属 Martesテン Martes melampus ホンドテンMartes martes melampus。但し、佐渡への本種の移入は人為的に行われたもの本話の時期にホンドテンが棲息していたかどうかは未確認である)となって妖怪化する(鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」では『「鼬」と題した絵が描かれているが、読みは「いたち」ではなく「てん」であり』、『イタチが数百歳を経て魔力を持つ妖怪となったものがテンとされている』とウィキの「テンにある)などともされた。]

佐渡怪談藻鹽草 千疊敷怪異の事

      千疊敷怪異の事

 

 濁川(にごりかわ)町に、藤四郎といへるもの、家業の暇には釣を好(このむ)。享保の末にか有(あり)けん。或時、近所の伊左衞門といへるものを誘ひて、五月の始、千疊敷へ夜釣に行けるが、月宵の程に入(いり)ぬ。空は曇(くもり)て、折々梅雨降(ふり)ければ、外に釣(つり)する人もなし。伊左衞門は、北の方沖に出て釣し、赫十四五も有(あり)、またも釣(つる)べきやうなれば、歸る心もせでありぬ。藤四郎は磯の方南に有(あり)て釣し、是も赫十斗釣(つり)て、心いさみ、猶竿垂(たれ)て居けるに、頃は子の刻ばかりならん、沖の方を見れば、晴夜の事なるに、細き光氣數十丈立(たち)登りたり。

「怪しや、伊左衞門」

はと、すかして見れば、釣垂て居る影あり。其上より立(たつ)光氣也。伊左衞門も、藤四郎が居ける方を見れば、藤四郎が上にわたり三四丈ばかりの輪光立(たち)たり。

「扨(さて)もけしからぬ事哉(かな)。藤四郎はいかゞぞ」

と名を呼(よべ)ば、即(すなはち)、答ふ。伊左衞門云(いひ)けるは、

「もはや魚も喰ねば、いざ歸り候わん」

といへば、

「いかさま、最早歸り可申(まうすべし)」

とて、取(とる)物もとりあへず、磯の方へ來る内、輪光は消(きえ)たり。互に心に祕して、濱を經て、百姓町に出て、藤四郎に言(いひ)けるは、

「先刻、沖の方に釣して、居給ふ時、そなたの上に立たる光氣を、定(さだめ)て見給ふらん、あれは何とゆふ事にや、あまりあやしき、おそろしふて、歸らんと思ふ處へ、そなたより聲を掛られ候。必定(ひつじよう)見給ふらん」

とゆへば、

「それは夢にもしり候わず。そなた磯の方にて釣し給ふ上に渡り、三四丈の輪光立(たち)たるを見たり。定めて見給ふらん、我夫故に、聲掛たり」

とゆふに、手を打(うち)て、驚きあへり。それより此兩人釣にゆけども、千疊敷の夜釣はふつと止(やみ)けるとなん。あやしき限りの事とも也。是非を辨(わきまへ)がたし。後入考べし。

 

[やぶちゃん注:前半の二人の目撃事実と後半の二人の会話が妙に逆転しているのは筆者の錯誤であろうなお、この二人の頭上に生じたそれは所謂、「セントエルモの火」(St. Elmo's fire)であろう。天候不良の際に(本文には空は曇っていて、折々、梅雨(つゆ)も降った、とある)船のマストや教会の塔のように上部に向かって長く尖った物体の先端で微かに燃えるように見える青紫色の光が見える現象である。地中海で船のマストに現れたのを見て、船乗りの守護聖人「聖エルモ」の火だとしたことに由来する。ウィキの「セントエルモの火」によれば、物理学的には『尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こしている。先端が負極の場合と正極の場合とでは、形状が異なる。雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることがある』と解説されてある。但し、伊左衛門が見た際の藤四郎の上に発生したと見えた大きな輪光状のそれは、或いは実は何らかの光りが見ている伊左衛門の背後に存在し、伊左衛門自身の影が、藤四郎の居る辺りに小さくブロッケン現象(Brocken spectre)を起こしたともとれぬことはない気もする。しかし……とすると……月もとっくに沈んいるのに……伊左衛門の背後の光源とは?……ぶるぶるぶるッ!……

「千疊敷」相川町市街地の北端、下相川の西の端の海岸にある岩礁地帯。平坦な広い形状からかく呼ばれ、古くからの名勝地である。

「濁川(にごりかわ)町」既出既注。再掲しておくと、現在の佐渡市相川濁川町。相川中央北側の川の河口近くの両岸で、佐渡奉行所の西北の隣接地に当たる。

「赫」既出既注。「あかえ」と読む。私は赤鱏(あかえい:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ Dasyatis akajei)に同定している。

「またも釣(つる)べきやうなれば」まだまだ釣れそうなので。

「赫十斗釣て」赫(あかえ)を十匹斗(ばか)りも釣って。

「心いさみ」気合いが入ってしまい。

「子の刻」午前零時。

「光氣」「くわうき(こうき)」。

「數十丈」百八十メートルほど。

「三四丈」九~十二メートルほど。

「輪光」「りんくわう(りんこう)」。

「扨(さて)もけしからぬ事哉(かな)。藤四郎はいかゞぞ」前部は伊左衛門のモノローグで、後半が大声での呼びかけ。

「百姓町」既出既注。再掲する。寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃の「町役銀取調書」には相川村を「羽田百姓町」「海府百姓町」と記しており、この前後には「下相川」の呼称が生まれたのではないかと考えられている。相川は元和三(一六一七)年の「屋敷検地帳」で百姓屋五十六軒、「佐渡国雑志」では家数七十棟とし、相川の南側を通称「百姓町」北側を「石切町」と称した(「新潟県」公式サイト内の「相川漁港(第1種 佐渡市管理)」(当該頁はリンクが許されていないので御自分で探されたい)に拠った)。下相川は相川地区の北で、しかもこの千畳敷はその西の端だから、ここは相川地区の通用総称として「百姓町」と呼んだのかも知れない。

「藤四郎に言ひけるは」ここは「藤四郎の言ひけるは」でないと光の様態が齟齬する。

「必定(ひつじよう)見給ふらん」「二つ返事で帰ろうと貴殿が申したによって、きっと自分の頭の上に高く立ち登るまがまがしい光の気に気がつかれたからであろうと思うたのじゃが?」

「後入考べし」「のち、かんがえいるべし」。後にじっくりと考察している価値はありそうだ、の意でとっておく。]

戦争のもつ悪に反抗   レマルク著『生命の火花』   梅崎春生

   戦争のもつ悪に反抗

     レマルク著『生命の火花』

 

 この小説の舞台は、ドイツのメレルン強制収容所。時はナチス・ドイツ敗退期から崩壊期まで。収容所の内部のみを描くことによって、戦争の悪や不合理や非人間性、そしてそれに抵抗して立ち上る人間の生命を描こうとしている。題名の「生命の火花」はそういう意味である。一九四六年に発表された『凱旋門』から六年を経て、昨年(一九五二)一月発表されたものである。

 主人公は「五〇九号」と呼ばれる五十歳の男。物語は大体この男を中心として動いて行く。収容所の囚人たちはほとんど生に望みを失い、生きる希望から離れているが、収容所の市が爆撃され始めたことから、ナチスの崩壊の間近きを知り、初めて生への可能性を知り、立ち上ろうとする。立ち上って最後の闘いの用意をする。この点において「五〇九号」は『凱旋門』のラヴィックと異なり、自らを行動の場に置こうとする決意がある。これはこの六年間の世界情勢の変転が、作者レマルクにもたらした必然的な変化なのであろう。すなわちラヴィック的な生き方は敗北主義に過ぎないといったようなことだ。

 しかし作の効果という点から見れば、たとえば私利保身をはかる親衛隊連隊長など、しごく類型的な摑み方であるし、収容所の日常性(どんな苛烈な環境にも日常性はある)がほとんどとらえられていない。そのことがこの作家に、一本の現実的な筋金を通していないように感じられる。これは『西部戦線異状なし』などにくらべて、この題材を得るために作者が生身の犠牲を払っていない、その点にかかるかとも思う。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年四月三十日号『社会タイムズ』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「レマルク」後に出る第一次世界大戦を舞台とした名作「西部戦線異状なし」(Im Westen nichts Neues 一九二九年:翌一九三〇年(日本公開も同年)にはアメリカでルイス・マイルストン(Lewis Milestone 一八九五年~一九八〇年)監督によって映画化され(英語原題“All Quiet on the Western Front”)て大ヒットした)で知られるドイツの小説家エーリヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque 一八九八年~一九七〇年)。

『生命の火花』(Der Funke Leben)はレマルクが一九五二年に発表した作品。本評が発表された同年に山西英一訳で潮書房から刊行されている。私は未読。

「メレルン強制収容所」調べてみると、固有名詞の「メレルン」は原文では“Mellern”のようだが、こうした名の強制収容所を当時のドイツ国内に見出せない。或いは小説上の架空のそれかも知れぬ。識者の御教授を乞う。

「ナチス」ドイツ語“Nazis”。第一次大戦後、ヒトラーを党首としてドイツに台頭したファシズム政党“Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei”(国家社会主義ドイツ労働者党)の 略称“Nazi”(ナチ)の通称複数形。一九一九年に結成され、大恐慌下、大ドイツ樹立・ベルサイユ条約破棄・ユダヤ人排斥などをスローガンに支持を拡大、一九三三年に政権を掌握、統制経済・再軍備・ユダヤ人及び共産主義者らへの虐待殺戮といった独裁政治を断行、ヨーロッパ征服を目指して軍備拡張を行い、第二次大戦を起こしたが、敗れ、一九四五年六月五日に消滅確認がなされた。

「凱旋門」(Arc de Triomphe)はマルクが一九四六年に発表した作品。第二次世界大戦中のパリを舞台とし、一九四八年にアメリカで「西部戦線異状なし」と同じルイス・マイルストン監督によってシャルル・ボワイエ(Charles Boyer 一八九九年~一九七八年)とイングリッド・バーグマン(イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman 一九一五年~一九八二年)の名コンビの共演でヒットした映画「凱旋門」(Arch of Triumph:日本公開は昭和二七(一九五二)年)の原作。

「ラヴィック」Ravic。「凱旋門」の主人公の名。ナチスを逃れてフランスに不法入国したオーストリアの医師。]

諸國百物語卷之三 五 安部宗兵衞が妻の怨靈が事

     五 安部宗兵衞(そうびやうへ)が妻の怨靈が事


Jyakennni

 ぶぜんの國速水(はやみ)のこほりに、安部宗兵衞といふものあり。つねづね、女ばうにじやけんにあたりて、食(しよく)物もくわせず。女ばう、これをくちをしくおもひて、わづらひつきけれども、くすりも、のませず。なをなを、つらくあたりけるが、女ばう、十九といふはる、つゐに、はかなくなりにける。すでに、まつごと云ふとき、宗兵へにむかつて、とし月、つらかりしうらみをいひ、

「いつの世にかは、わすれ申さん。やがておもひしり給へ」

とて、あひはてけるが、しがいを山にすて、とぶらひをもせざりしが、しゝて七日めの夜半のころ、かの女ばう、こしよりしもは、ちしをにそまり、たけなるかみをさばき、かほはろくしやうのごとく、かね、くろくつけ、すゞのごとくなるまなこを見ひらき、口は鰐(わに)のごとくにて、宗兵へがねまにきたり、こほりのごとくなる手にて宗兵衞がねたるかほをなでければ、宗兵衞も身をすくめゐたりければ、女ばう、からからとうちわらひ、宗びやうへがそばにねたる女ばうを七つ八つにひきさき、したをぬき、ふところへ入れ、

「もはや、かへり候ふ。また明晩まいり、とし月のうらみ申さん」

とて、けすがごとくに、うせにけり。宗びやうへ、おどろき、貴僧高僧をたのみ、大はんにやをよみ、きたうをし、あくる夜は、弓、てつほうを口々にかまへ、ようがいしてまちければ、夜はんのころ、かの女ばう、いつのまに、きたりけん。宗びやうへがうしろへきたり、つくづくとながめゐたり、宗びやうへ、なにとやらん、うしろ、さむくおぼへ、見かゑりみれば、かの女ばう、きつと見て、

「さてもさても、ようじん、きびしき事かな」

といひて、宗びやうへがかほをなづるとみへしが、にわかにすさまじきすがたとなり、宗びやうへをふたつにひきさき、あたりにゐたる下女どもをけころし、天井をけやぶり、こくうにあがりけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「安部の宗兵衞つま事」か。一部、字が潰れて読み難い。

「ぶぜんの國速水(はやみ)のこほり」現在、旧豊後国である大分県速見(はやみ)郡(日出町(ひじまち)を一町を含む)が行政郡として現存するが、旧郡域は遙かに広く、現在の別府市の大部分及び杵築市の大部分、宇佐市の一部と由布市の一部を含んでいた。

「じやけん」「邪險」「邪慳」。意地が悪く、人に対して思いやりのないさま。薄情。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本文は「邪見」とするが、とらない(当該書はひらがなを編者が漢字化している)。この「邪見」は仏教用語で、「五見」(教義に反する五つの誤った考え。自己の実在を考える「我見」及び周囲の物(者)が自己に所属すると考える「我所見」を合わせた「身見」、自己の死後の永続を信じる「常見」及び死後の断絶を信ずる「断見」を合わせた「辺見」、因果の道理を否定する「邪見」、誤った見解を信じる「見取見(けんじゅけん)」、誤った宗教的行為を信じる「戒取見(かいじゅけん」を指す)・「十惑」(「貪(とん)」・「瞋(しん)」・「痴(ち)」・「慢」・「疑」・「見(けん)」の「六煩悩」の中の「見」を、さらに「有身見」・「辺執見」・「邪見」・「見取見」・「戒禁(かいきん)取見」の五つに分け、合わせて十とした十煩悩)の一つとされる、「因果の理法を否定する誤った考え」を意味し、一般語としても、正しくない見解・よこしまな考えの意しかないからである。

「はかなくなりにける」「死ぬ」の忌み言葉。

「まつご」「末期」。と云ふとき、宗兵へにむかつて、とし月、つらかりしうらみをいひ、

「いつの世にかは、わすれ申さん。やがておもひしり給へ」

「こしよりしもは、ちしをにそまり」下半身が血染めというのは所謂、妊婦の妖怪とされる「産女(姑獲鳥)(うぶめ)」に特徴的なものである。ウィキの「産女」によれば、『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。妖怪としての「産女」についてはリンク先を読んでもらいたいが、或いはこの苛め抜かれた若き女房は、安部の子を妊娠していたのではなかったか? 栄養不良のために、発育せず、胎内で死に、しかもそれによって母体も衰弱した結果、彼女は死んだのではなかったか?! 少なくとも、筆者はそうした措定をこの少女妻にしているように、私には思われるのである。

「たけなるかみをさばき」「丈なる髮を捌き」。この「丈なる」は単に長いの意、「捌き」はざんばら髪にしての意。

「かほはろくしやうのごとく」「顏は綠靑の如く」銅が錆びた青緑色であるが、蒼白い霊の肌(はだえ)の色の表現としては最適である。

「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。

「すゞのごとくなるまなこ」「鈴の如くなる眼(まなこ)」まんまるの鬼灯(ほおずき)の如き真っ赤な目玉であろう。

「鰐(わに)」ここは「鮫」でもよいが、仏具の鐘鼓を二つ合わせた形状、鈴(すず)を扁平にしたような形をしている「鰐口(わにぐち)」の、その下側半分の縁に沿って細く開いている口をイメージする方がわかりがよい。要は「口裂け女」である。

「宗兵へがねまにきたり」「宗兵衞が寢間に來たり」。

「こほりのごとくなる手」「氷の如くなる手」。

「宗兵衞がねたるかほをなでければ」「宗兵衞が寢たる顏を撫でければ」。

「身をすくめゐたり」「身を竦め居たり」。 

「宗びやうへがそばにねたる女ばう」「宗兵衞が傍(そば)に寢たる女房」。宗兵衛の妾(めかけ)か後妻。

「したをぬき、ふところへ入れ」この仕儀がダメ押しにキョワい!

「大はんにや」「大般若」。「大般若波羅蜜多経」略して「大般若経」とも称する。一切の大魔の念を降伏(調伏)させる功徳を持つとされる仏教の中でもとびっきりの経典であるが、如何せん、全十六部六百巻に及ぶ。まあ、ぱらぱらやる転読をしたのであろが、いい加減なそんなんより、亡くなった少女妻の方が恨みは遙かに真実骨髄まで染み亙るものだったことであろう。

「きたうをし」「祈禱をし」。

「てつほう」「鐡砲」。「てつはう」か「てつぱう」で歴史的仮名遣は誤り。

「口々に」門・戸口・窓口という、ありとある閉鎖した家屋内の内側からの隙間に。

「ようがい」「要害」。防備・警固。

「うしろ、さむくおぼへ」「後ろ、寒く覺え」。「おぼへ」の歴史的仮名遣は誤り。

「見かゑりみれば」「見返(かへ)り見れば」、歴史的仮名遣の誤り。

みれば、かの女ばう、きつと見て、

「さてもさても、ようじんきびしき事かな」

「にわかにすさまじきすがたとなり宗びやうへをふたつにひきさき、あたりにゐたる下女どもをけころし、天井をけやぶり、こくうにあがりけると也」「俄かに、凄まじき姿となり、宗兵衞を二つに引き裂き、邊りに居たる下女どもを蹴殺し、天井を蹴破り、虛空に揚がりけるとなり」。「にわかに」は歴史的仮名遣の誤り。]

2016/10/05

譚海 卷之一 筑紫琴由來の事

筑紫琴由來の事

〇筑紫琴(つくしごと)の最上の祕曲とて傳授にするものは、平調の越天樂(えてんらく)と云(いふ)物也。是(これ)樂(らく)の平調の柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る也。ある座頭つくし琴の最上の傳授まで濟(すみ)たるもの、伶人の箏(そう)を彈る時、平調の柱にて初學のものに樂ををしふるをきゝ、初て驚き、只今まで俗琴の傳授とて、嚴重に申(まうし)ならはし、祕曲に致候事は、樂家(がくけ)にては平生の事に有ㇾ之(これある)事也と申せしとぞ。元來筑紫ごとは樂の越天樂をくづして、女のうたふやう成(なる)詞(ことば)にふしつけひろめたる事ゆへさもあるべし。又らうさいといふは、昔のらうさいぶしにあはする柱立(はしらだて)也。昔は平日うたひしものなれども、らうさいぶし絶(たえ)て琴のくみにばかり殘りたる故、傳授のやうにたいそふに覺(おぼえ)たる也。五さいなどと云(いふ)も同じうたひものなり。りんせつと云(いふ)は林實と書(かく)也(なり)、このみの落(おつ)るやう成(なる)彈(ひき)かた故かく云(いふ)也。

[やぶちゃん注:本条は前条「伶人家幷きんの傳來の事」との連関性が強い。そちらの本文と私の注も参照されたい。なお、私の妻はごく幼少の時から琴(生田(いくた)流)を習っているけれども、彼女でも以上の条文を完全には理解することが出来なかった。彼女に理解出来ないものに私が注をつけられようはずもない。以下は邦楽に貧しい私が判る範囲で附したものと御理解戴きたい。悪しからず。なお、不明な箇所には是非とも識者の御教授を乞うものである。

「筑紫琴(つくしごと)」筑紫流箏曲(そうきょく)の一流派。室町末期に九州久留米の善導寺の僧であった賢順が創始し、主として佐賀藩に伝承され、江戸時代以後の俗箏(ぞくそう:八橋流や、その分派である生田流・山田流などの近代箏曲の源流及びそれ)の母体となった。現在は廃絶に近い。

「平調」「ひやうじやう(ひょうじょう)」と読む。雅楽の唐楽に用いる六つの旋法名(他に太食(たいしき)調・壱越(いちこつ)調・双調(そうじょう)・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調)の一つ。日本音楽の十二律の一つである基音の壱越(いちこつ)よりも二律高い音、洋楽のホ音に相當するを主音としたもの。

「越天樂(えてんらく)」雅楽の演目でも最も知られた一つ。ウィキの「越天楽」によれば、『舞は絶えて曲のみ現存している』。『楽器は主に』八種類で、『管楽器、弦楽器、打楽器に分かれている』。『「越殿楽」とも記述される。原曲は中国・前漢の皇帝文帝の作品と伝えられている。しかし高祖・劉邦の軍師張良の作曲であるという説や、日本での作曲である説などもあり、実際の所はよくわかっていない。また、現在伝わっている平調越天楽は、旋律が他の唐楽に比べ独特であること等から、原曲ではなく、盤渉調に渡されていた(別の調子に合わせて編曲された)ものを、原曲が絶えたため』、『平調に渡しなおされたものであるともいわれている』。『越天楽に歌詞をつけたのが『越天楽今様』であり、中で最も有名なのが『黒田節』で、日本では結婚式などで演奏されることが多い』とある。なお、妻によれば、彼女は演奏したことはないけれども、現代でも八橋検校作曲の箏組歌十三曲名観の筆頭の曲として、「菜蕗(ふき)」という曲名で、生田流・山田流で演奏されているとのことであった。

「樂(らく)の平調の柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る也」不詳。妻は琴柱(ことじ)の置き方を「柱のたて樣(ざま)」が「つくし琴の最上の傳授まで濟(すみ)たる」「ある座頭」の知っている、これが唯一正統とされる配置とその「平調の柱にて初學のものに樂ををしふる」「伶人」が「箏(そう)を彈」く際に配した琴柱位置と異なっていたのを知って、「初」め「て驚き」、それ以来、「只今まで俗琴の傳授とて、嚴重に申(まうし)ならはし、祕曲に致候事は、樂家にては平生の事」(ごく当たり前の事実)である「と申せしとぞ」の意味でとった。私は「柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る」の部分がそう解釈することにやや無理があるようには思うが、彼女が述べたままに記しおくこととする。

「らうさい」「昔のらうさいぶし」漢字では「弄齋」。日本の近世歌謡の一種で、「癆療」「朗細」「朗催」「籠濟」などとも書く。弄斎という僧侶が隆達(りゅうたつ)節:近世初期の歌謡の一つで文禄・慶長(一五九二年~一六一五年)頃、堺の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が創始、扇拍子や尺八の一種である一節切(ひとよぎり)などの伴奏で流行。近世小歌の祖という)を変化させて始めたところからかく呼称するという。京都の遊里で発生し、後に江戸でも流行、流行り歌の三味線伴奏と七七七五の詞形の確立を促し、地歌・箏曲にも影響を与えた。現在、近世初期に流行した歌謡の中では、詞章を明らかにし得る最古の歌謡である。元のそれは元禄期(一六八八年から一七〇四年:「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記)には既に廃れたとされるが、筝曲や三味線にとり入れられて様々な新たな「弄斎物」が生まれた(以上は諸辞書及び平野他監修になる一九八九年平凡社刊「日本音楽大辞典」などを参照した)。

「琴のくみ」筝曲の「組歌」組唄」のこと。箏曲の曲種の分類で、独立した短編歌謡数首を連ねた(組み合わせた)歌詞を持つ曲。最も古典的基本的曲種として重視される。

「たいそふ」「大層」。

「覺(おぼえ)たる也」誤認しているに過ぎない。

「五さい」不詳。

「りんせつと云(いふ)は林實と書(かく)」前掲の平凡社刊「日本音楽大辞典」によれば、『弦楽器の奏法・演出法ないし曲名。本来は雅楽の箏において「残楽」』(のこりがく:雅楽のなかでの管弦で行われる変奏の一種で、合奏楽器の中で普段は目立たない存在である箏の特別の技巧を聴かせるため、打楽器と笙と笛は曲の途中で次第に演奏を止め、さらに曲を反復し、その間に篳篥(ひちりき)と琵琶もなるべく旋律の断片を奏することによって箏の細かい弾奏を引き立てる演奏法)『の演出の場合に、「輪説」という』種々の『やや複雑な奏法が混在する特殊な演奏をいう。普通の説』(せつ)『(手)に対して』『「輪(わ)の説」という特殊な手をいったものと思われる』とあるが、他の箇所を調べても、ここで津村が述べるような「林実」(「このみの落(おつ)るやう成(なる)彈(ひき)かた」と、如何にも尤もらしく聴こえるのだが)という表記は発見出来なかった。]

甲子夜話卷之二 21 神祖御遺跡を松前氏追崇せし事

2―21 神祖御遺跡を松前氏追崇せし事

十餘年前、松前氏の領知せし蝦夷の地御手入、東西の地より奧迄を追々に召上られ、松前氏には新に奧州の梁川を賜へり。是時、松前氏思ようは、祖先の傳領かく成行くは、全く神祖御恩澤の滅盡したるなれば、神祖尊靈の御怒にやとて、所在の神祖の御遺跡に代拜の人を遣し、又敬賽のこと抔ありて殊に崇重し奉り、其罪を謝せしと云。此こと世に知者も無かりしが、此冬、舊領の地方悉く故の如く下し賜との大命ありて舊知に復せり。此に至りて神祖を敬禮し奉りしことを人々知れりと云。或人の語しままを記す。

■やぶちゃんの呟き

「神祖」家康。

「御遺跡」日光東照宮であろう。

「松前氏」静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのが文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であり、松前藩が東蝦夷地を幕府に一時的に没収された最初は寛政一一(一七九九)年三月二十一日で、当時の藩主は第九代松前章広(あきひろ 安永四(一七七五)年~天保四(一八三三)年)。この時は代わりに武蔵国埼玉郡内に五千石が与えられたが、享和元(一八〇一)年七月二十一日に幕府は東蝦夷地支配の永続化を決定、武蔵国内の領地五千石も収公された上、文化四(一八〇七)年三月十二日には章広はその所領を西蝦夷地から陸奥国伊達郡梁川藩(やながわはん:現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いたに九千石で移封されてしまう(ここはウィキの「松前章広に拠る)。ここはその文化四年のそれを指し、十四年前で「十餘年前」は自然である。なお、ウィキの「松前藩によれば、この移封はの淵源は、十八世紀半ばに『ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた』ことに発し、『松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は』、天明五(一七八五)年『から調査の人員をしばしば派遣し』、寛政一一(一七九九)年『に藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち』一月十六日『に東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを』七年間の限定で上知(あげち:大名や旗本が領知である知行地を官に返還すこと)『することを決め』、八月十二日『には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に』五千石『を与え、各年に若干の金を給付することとした』。享和二(一八〇二)年五月二十四日に七年とした『上知の期限を迎えたが、蝦夷地の返還は行われな』われず、逆に上記の通り、文化四年に『西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に』転封されたのである。『なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が原因に挙げられているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)』とある(下線やぶちゃん)。ここに書かれた内容のブラックな裏が透けて見える。

「追崇」「ついすう」。「ついそう」とも読む。ある人物を死後に崇(あが)めること。

「御手入」「おていれ」。天領として召し上げられ。

「追々に」順々に。前に示した通り、正しい表現である。

「新に」「あらたに」。

「思ようは」「おもふよ(や)うは」。歴史的仮名遣は誤り。

「成行くは」「なりゆくは」。

「滅盡したるなれば」「滅盡」は「めつじん」。悉く消滅し尽くしたのであるから。

「御怒」「おんいかり」。

「敬賽」「けいさい」。神仏を敬い祀ること。

「崇重」「すうちよう」。尊び重んじること。

「知者」「しるもの」。

「此冬、舊領の地方悉く故の如く下し賜との大命ありて舊知に復せり」「故」は「もと」。松前藩は梁川藩移封の僅か九ヶ月後の同年十二月四日に旧領に復している。ウィキの「松前章広によれば、『復領は、ロシアからの脅威が低くなったという名目で行われたが、内実は父・道広の伝手から将軍徳川家斉の父・一橋治済に接近、老中水野忠成への莫大な賄賂攻勢を行い、家斉に請願した結果であることが、「水戸烈公上書」や「藤田東湖見聞偶筆」に記されている』とある(下線やぶちゃん)。ここでも、ここに書かれた内容のよりブラックな裏が透けて見えるではないか。

「此に至りて神祖を敬禮し奉りしことを人々知れり」この復領劇によって松前藩主松前章広殿が神君家康公を心から敬い奉つられた(その結果としてこのような短期の驚くべき幕府の処置が行われた)ことを庶民は知ったのである。

「語し」「かたりし」。

諸國百物語卷之三 四 江州白井助三郞が娘の執心大蛇になりし事

 

    四 江州白井助(すけ)三郞が娘の執心大蛇になりし事



Musumesyuusin

 

 江州喜多の郡とちう村りうげ峠と云ふ所に、高橋新五郞といふ大(をゝ)百姓あり。五さいになる男子を一人もてり。そのむかいに白井介(すけ)三郞とて、これもおとらぬ百しやうなるが、三さいになるむすめをもてり。たがいのをや、ねんごろのあまりに、のちのちはふうふにもせんとて、いひなづけのさかづきをさせ、とし月をおくる所に、ほどなく、男子(なんし)十さいになりしころ、新五郞、かりそめにわづらひつきて、むなしくなりけるが、そのあとぜんぜんにをとろへければ、介三郞、はじめのけいやくをちがへ、むすめ十五になるとき、となりざいしよの、うとくなる百しやうとえんぐみして、すでにしうげんの當日にもなりければ、此むすめ、思ふやう、われはいとけなきころより、むかいの男子と、いひなづけをもいたしをき、今、しんだいのおとろへたりとて、よそへゑんにつく事、道ならぬことなり、と、おもひ、下女をたのみ、ひそかに、むかいの男子をよびよせ、

「さてさて、そのはうさまとわれわれ、いとけなきときよりも、たがいのをやのはからいにて、ふうふのけいやくいたし候ふに、今、それがしを、ほかへゑんにつけ申され候ふ事、かへすかへすも、くちをしきしだい也。しうげんもこよひにきはまり候ふ也。われをいづかたへも、つれてのき給はれ」

と云ふ。男子(なんし)きゝて、

「御しんていのほど、かたじけなくは候へども、われはかやうになりはて候ふ身なれば、ゆめゆめうらみは候はず。ときにゑんづき候へ」

といへば、むすめきゝて、

「此うへはちからなし」

とて、すでに、じがいをせんとする所を、男子(なんし)、おどろき、おしとゞめ、

「さほどにおぼしめさば、いづかたへもともなひ申さん」

とて、むすめとゝもに、夜にまぎれ、たちのきぬ。されども、いづくをたのみとさだめねば、とある所にやすらい、とほうにくれてゐたりしが、むすめいひけるは、

「此世にてそひ申す事は、とかくに、かなひ申すまじ。是れなるふちに身をなげて、ながきらいせにて、同じはちすのうてなにて、そひ申さん」

といへば、男子(なんし)も、

「尤(もつとも)」

とて、ふうふ、もろとも、手をとりくみ、そこのみくづとなりけるが、なにとかしたりけん、男子(なんし)は木のえだにかゝりて、ゑしづまず。その間(ま)にみちゆき人、見つけて、すくひあげゝれば、男子(なんし)はたすかりぬ。男子、つくづくとおもひけるは、われ、ふりよに木のえだにかゝる事、定業(ぢやうごう)いまだきたらぬゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下二箇所も同じ。]なるべし。此うへは、さまをもかへ、むすめのぼだいをもとはんと思ひ、わが家に歸りぬ。さて男子(なんし)の母は、しゆく願の事ありて、石山のくわんをんへ、まいられけるが、せたの橋のほとりに、十四五なるむすめ、さめざめと、なきゐたり。母たちより、事のやうすをたづねければ、此むすめいひけるは、

「われは、これより北ざいしよのものなるが、まゝ母にかゝり候ひて、いろいろとさいなまれ申すにより、あまりにたへかね、宿をたちいで、此所にて身をなげ申さんとぞんじ候ふ」

と、かたりければ、母もふびんにをもわれて、

「さいわい、われ一人の男子(なんし)をもつ、これとふうふにいたすべし」

との給へば、むすめよろこび、

「よろづたのみあぐる」

といへば、母もよろこび、これ、ひとへに、くわんをんのひきあわせとて、此むすめを、ともなひかへり、男子(なんし)とふうふになしけるが、男子も過ぎにしかなしみも、うちわすれ、今はひよくのかたらひ、ふかくして、男子(なんし)一人、もうけたりしが、はや、三さいになりにける。あるとき、夫(をつと)、ほかへゆきたるまに、女ばう、へやに入り、ひるねしてゐけるが、この子、母のヘやに入りて、母を見て、わつとなきてはいで、わつとなきてはいで、かくのごとくする事、三度にをよべり。夫、かへりて、此ありさまを見て、ふしぎにおもひ、へやにゆきみれば、女ばう、たけ一丈あまりの大じやとなりて、よねんもなく、ふしゐたり。夫、おそろしくおもひ、よびをこしければ、また、もとの女のすがたとなりて、夫にむかい、

「さてさて今まではふかくつゝしみ候ひしが、今は、わがすがたを見へまいらせ候ひて、御はづかしく候ふ。われはそのむかしの新五郞がむすめ也。そのはうさまにそひ申したきしうしん、死しても、はれやらず。今また、女にさまをかへ、としごろ、あひなれ申したり。今はこれまで也。御なごりをしく候ふ」[やぶちゃん字注:妻の台詞中の「新五郞」はママ。底本にもママ注記がある。ここは「介三郞」でなくてはおかしい。]

とて、かきけすやうに、うせにけり。そのゝち、此子、母をしきりにたづねけるゆへ、夫もあまりの物うきにかの池につれゆきて、

「あまりに此子、こひこがれ申すあいだ、今一度、すがたをあらはし、みへ給へ」

といへば、池のうちより、たちまち、女のすがたあらわれいで、子をうけとり、しばしがほど乳をのませ、いとまごひして池にいりぬ。そのゝち、此子、なをなを、母をこひしがり候ふゆへ、又くだんの池につれゆきて、又、よび出だしければ、此たびは池のうちより、大蛇のすがたとなり、あらわれいで、くれなひの舌をふりまはし、此子をのまんとして、うせければ、そのゝちは、ふつと、母をば、こがれざると也。夫も、このありさまのかなしさに、そのゝち、親子もろともに、かの池に身をなげて、つゐにむなしくなりけると、所の人、かたり侍る。

 

[やぶちゃん注:標題「白井助三郞」はママ。挿絵の右キャプションは「白井の娘のしうしん大蛇に爲事」か(「爲」は「なる」)。何ともこれ、最後の最後まで哀しい話ではないか。

「江州喜多の郡とちう村りうげ峠」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『現滋賀県高島郡朽木村栃生(とちう)。「竜華峠」は「途中峠」ともいい、高島郡から、京都大原へ出る若狭街道の途中にある峠』とある。これは所謂、「途中越(とちゅうごえ)」と呼ばれる峠で、現在は京都市左京区大原小出石町と滋賀県大津市伊香立途中町の境に位置する峠である。ウィキの「途中越」によれば、「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」又は『途中峠とも呼ばれる。なお、広義には峠前後の道の名称としても呼称され』、標高は三百八十二メートルとある。『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)がそれぞれ開山した無道寺』(八六五年開山。延暦寺山内にある)『と、葛川明王院』(八五九年開山)『の中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』「途中」越と『呼ばれるようになったと伝えられて』おり、『また、龍華越または橡生越』『とも称されたほか、朽木にあった橡生村と区別するため』『に龍華橡生とも称された』ともあるのでここと考えてよい。「喜多郡」は不詳。旧近江国にはこれに近似した郡名はない。実はさらに注意する必要があるのは、同じ滋賀県内に同じく昔は「竜華峠」と呼ばれていた全く別な「鞍掛峠(くらかけとうげ)」があることである。こちらは三重県いなべ市と滋賀県犬上郡多賀町を結ぶ峠で、前の「竜華峠」とは琵琶湖を挟んだ対称位置にあるウィキの「鞍掛峠」を参照されたい)。

「ねんごろのあまりに」あまりにも極めて親しくしていた結果として。

「うとくなる」「有德なる」。裕福な。

「しうげん」「祝言」。

「しんだい」「身代」。

「よそへゑんにつく事」「他所へ緣に就く事」。

「道ならぬこと」節操のないこと。

「そのはうさまとわれわれ」「その方樣」(新五郎の息子)と「われわれ」(私。一人称単数で用いた場合は遜った謂い方になる)。

「つれてのき給はれ」「連れて退き給はれ」。駆け落ちである。

「御しんてい」「御心底」「御」は「ご」と読んでおく。

「ときに」時(とき)恰(あたかも)も心お静かに。

「じがい」「自害」。

「とかくに」多くの場合は。

「ながきらいせ」「永き來世」。

「同じはちすのうてな」「同じ蓮(はちす)の臺(うてな)」。「蓮の臺」は極楽浄土で佛が座るとされる蓮の花で出来た台(だい)のこと。

「そこのみくづ」淵の「底の水屑(みくづ)」。

「ゑしつまず」「え沈まず」。歴史的仮名遣は誤り。

「みちゆき人」「みちゆきびと」と訓じて通行人の意の一単語でとる。

「ふりよに」「不慮に」思わずも。

「定業(ぢやうごう)」前世からの因縁によって定まっている善悪の業報(ごうほう)。決定業(けつじょうごう)。但し、ここは単にそれによって定められた「寿命」の意でよい。

「さまをもかへ」「樣を變へ」。剃髪して出家し。

「むすめのぼだいをもとはん」「娘の菩提をも訪(と)はん」。「訪ふ」は「弔う」に同じい。

「しゆく願」「宿願」。かねてよりの願い事。流れから考えれば、傾きかけた家運の再興とそれに繋がるはずの跡取りである息子への良き縁談という連動した願いであろう。

「石山のくわんをん」現在の滋賀県大津市石山寺(いしやまでら)にある真言宗石光山石山寺(いしやまでら)。本尊は如意輪観音。京都の清水寺・奈良の長谷寺と並ぶ。日本有数の観音霊場。

「せたの橋」「瀨田の橋」滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる瀬田の唐橋(からはし)。現在の全長は二百六十メートル。藤原俵藤太秀郷の三上山(みかみやま)の百足退治で、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れるように、橋の下にある淵が竜宮に繫がっているとする伝承があり、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)もある。

「かゝり」仕組んだものにはめられ。

「さいなまれ」苛められ。

「よろづたのみあぐる」「何もかも! どうぞ! お頼み申し上げまする!」。

「くわんをんのひきあわせ」「觀音の引き合(あは)せ」。「あわせ」は歴史的仮名遣の誤り。

「ひよくのかたらひ」「比翼の語らひ」。「比翼」は「比翼鳥」で雌雄それぞれが目と翼を一つずつもち、二羽が常に一体となって飛ぶとされる中国の伝説上の鳥。夫婦の仲が親密なことの譬え。

「一丈あまりの」三メートルもある。

「よねんもなく」「餘念も無く」。完全に深い眠りに落ちていることを表現。

「そのはうさまにそひ申したきしうしん」「その方樣に添ひ申したき執心」。大事なことはその忌まわしき妄執故に、遂にはおぞましき大蛇と変じてしまったという最も捨てがたき愛欲という煩悩の悪因という点である。ここが筆者が、この怪談に仕組んだ辛気臭い教訓性なのである。しかし、私はそんなものはつまらんことだと思うている。

「あひなれ」「相ひ馴れ」。

「物うきに」「もの憂きに」。なんとも言えず、悲しく、つらいので。

「のまんとして」「吞まんとして」。人口にて呑み込まんとするような動きを見せて。先に引いた高田衛編・校注の「江戸怪談集 下」の脚注には、『吞みこむふりをして。しかし、ここに本来の蛇性を表現しているのかもしれない』と記しておられる。高田氏には、私の愛読書でもある「女と蛇 表徴の江戸文学誌」(一九九九年筑摩書房刊)という作品もある。

「ふつと」ふっつりと。それっきり。]

不当の犠牲者達 ――『あれから七年』 『壁あつき部屋』――   梅崎春生

   不当の犠牲者達

 ――『あれから七年』 『壁あつき部屋』――

 

 この二書は、今次大戦のBC級戦犯者の手記や記録を集めたものである。『あれから七年』は「学徒戦犯の獄中からの手紙」、『壁あつき部屋』は「巣鴨BC級戦犯の人生記」と、それぞれ副題が附してある。その叫びや訴えの内容は、ほぼ両書において共通であるが、共に人間的な迫力をもって我々の胸を搏(う)つ。

 戦争が内包するところの悪や不義、それに対する口先だけのプロテストではなく、この人々は、身をもってそれらを語り抗議する。迫力を生ずる所以(ゆえん)である。

 BC級戦犯者は、A級戦犯者とは違い、戦争犯罪者というよりは戦場犯罪者である。戦争を企図し推進した罪ではない。欲せずして軍隊機構に引きずりこまれ、機構の動くままに行動を強いられ、その結果戦犯の名をかぶせられたケースが相当に多いことは、この両書の手記によっても想像できる。

 更に、裁判の不備や、旧軍隊権力者の陰謀や押しつけによって、無実の罪を着せられたり、不当の刑を宣せられたりした例も、少なからずあるらしい。BC級戦犯者の、全部とは言わぬが、その相当数の人々は、確かに、戦争や戦場の悪や不合理の結果を一身に引受けて、不当の刑に処せられた犠牲者だと言ってもいいだろう。

 両書に収められた個々のケースに、自分の身を置いて考えた時、俺は戦犯者にならなかっただろうと言い切る自信は私にはない。ああいう専制的な悪機構にあっては、個々の力はほとんど無力なのである。

 だから編者の言葉に、これは「えらい人の『獄中記』でもなく、悲愴(ひそう)な死生観を唱えるものでもありません。一歩あやまれば、この人たちの立場に、あなたが立たねばならなかったのです」とある。戦争や軍隊機構の悪や不合理を具体的に知るためにも、それから平和への道を考えるためにも、この二書は広く読まれた方がいい。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年三月二十日号『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「あれから七年」は飯塚浩二編で昭和二八(一九五三)年光文社刊。副題は梅崎春生の示した通り、「学徒戦犯の獄中からの手紙」。編者飯塚浩二(明治(一九〇六)年~昭和四五(一九七〇)年)は二十世紀の日本を代表する人文地理学者であるが、文化学や総合科学の領域で幅広く活躍した。私は未読。

「壁あつき部屋」理論社理論編集部編で昭和二八(一九五三)年理論社刊。副題は春生の示した通り、「巣鴨BC級戦犯の人生記」。私は未読。なお、本書を元にしたドラマ映画「壁あつき部屋」が三年後の昭和三一(一九五六)年に小村正樹監督、脚色阿部公房で製作されている。「Movie Walker」の同作をリンクしておく(私は未見)。

「BC級戦犯者」第二次世界大戦後の国際軍事裁判の憲章第六条B項「通例の戦争犯罪」及びC項「人道に対する罪」によって定める戦争犯罪者の総称。上官の指揮命令に従った殺人や虐待などの行為がBC級戦犯に当たる。「B級戦犯」とはA級戦犯(後注参照)と異なり、通例の戦争犯罪を犯したとして裁判に付された戦争犯罪人のこと。極東国際軍事裁判所条例の第五条は、通例の戦争犯罪をB級と称し、戦争法規違反の行為、則ち、毒ガス等禁止された兵器の使用、降伏者に対する殺傷、捕虜虐待、非戦闘員の殺傷、暴行略奪、無防備都市の攻撃及び教育・宗教・病院等の施設の破壊、スパイ、サボタージュ、正当な交戦権をもたない者の戦闘行為などを含めた。「C級戦犯」は人道に反して殺人や虐殺を行なったものとして裁判に付された戦争犯罪人。BC級戦犯のそれは極東国際軍事裁判(東京裁判)では行わず、各国が設けた軍事裁判で個別的に裁決された(諸辞書を参照した)。詳細はウィキの「BC級戦犯者」を参照されたい。

「プロテスト」protest。抗議。異議。

「A級戦犯者」第二次世界大戦後の国際軍事裁判で「侵略戦争の遂行によって平和に対する罪を犯した者」、極東国際軍事裁判所に於いて憲章第六条A項が規定する「平和に対する罪」に違反した戦争犯罪者を指す。「平和に対する罪」とは、侵略戦争において戦争の計画や準備、そして実行などに主導的な立場で取り組む行為を指す。昭和二一(一九四六)年に開廷された東京裁判では、A級戦犯の容疑で逮捕された百人以上のうち、政治家や軍関係者など計二十八名が起訴された。二年半にわたる審理の結果、太平洋戦争開戦時に首相と陸軍相・内務相を兼任していた東条英機など七名の死刑、十六名の終身刑といった判決が下った。七名の死刑囚は昭和二三(一九四八)年十二月に絞首刑によって処刑された。国の戦争などで死亡した戦没者を祀っている靖国神社は昭和五三(一九七八)年に刑死したA級戦犯を合祀した。そのため、首相の靖国神社への参拝がA級戦犯の名誉回復に繋がるとの見方を生み、戦後七十年以上を経過した現在でさえ、禍根を残している(以上はネットの「時事用語のABC」に拠った)。詳細はウィキの「A級戦犯者」を参照されたい。]

佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事

 

      法螺(ほら)貝の出(いで)しを見る事

 

 眞如院文教法印、物語に、

「予八九才の頃、下黑山村に伯母の侍りて、折々遊びに罷りし。或年の五月ころ、明の氣色も、曇がちにて、外へも出ず。夕方より何とやらん、物音噪がしかりしに、翌日の朝、まだ日の闇(くら)きに、前なる稻場へ出て見れば、山などのかたぶきし所に、大き成(なる)割れの見へし。其あたりに、見なれぬ鷄の、二つつれ立(たち)て、あるき侍れば、珍(めづ)ら敷(しく)おぼへ、走り寄(よせ)て見れば、さはなくて、山伏のもてる、ほらの貝の中より、身の出て這(はひ)𢌞りしなん有ける。人にも見せなんとおもひて、急ぎ伯母にかくと語りいへば、人々いざなひ、かけ來りし。物音にや驚きけんやらん、二つともに、地の割(われ)たる所へ落入(おちいり)、二度出ざりし。此(この)所は海邊より三里斗りも侍(はべる)らん。山にもかゝる物の住(すみ)侍るにこそ、珍ら敷(しき)事に覺(おぼえ)し。其後、貝の出たる事も聞(きゝ)侍らず」

と語られし。 

[やぶちゃん注:山に棲む法螺貝の怪は前条「堂の釜崩れの事」で詳しく注しておいた。そちらを必ず参照されたい。

「眞如院」「しんによゐん」。現在の佐渡市相川下寺町に現存する真言宗の医王山真如院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「文教法印」不詳。

「下黑山村」現在の佐渡市下黒山は小佐渡の南の半島部の中央の殆んど平地のない山稜一帯の完全な内陸にある。後に「海邊より三里斗り」とあるように、現在の同地区の中心部から直線で計測すると、本土側の海岸線までは七キロ以上、真野湾方向の最短距離でも四・五キロを越える。

「明」「あけ」。曙。

「噪がしかり」「さはがしかり」。

「稻場」「いなば」。稲を刈り取った後に干すための場所。稲架(はざ/はさ)が普及以前に用いた。

「鷄」「とり」。鳥。

「二つつれ立(たち)て」二羽連れ立って。

「さはなくて」そうではなくて。鳥ではなくて。

「ほらの貝の中より、身の出て這(はひ)𢌞りしなん有ける」これは前後の描写から、完全に軟体部が抜け出たのではなくて、螺口から外套膜を張り出して貝殻をおっ立てるようにして、極めて活動的に移動していたことを示す。だからこそ鳥の地を歩くように見えたのである。]

2016/10/04

北條九代記 卷第九 山内御山莊に於いて喧嘩

これを以って「北條九代記 卷第九」は終る。



      ○山内御山莊に於いて喧嘩

同七月四日、山内御山莊に於いて、大屋(おほやの)二郎と笠木(かさきの)平内と口論を仕出(しだ)し、兩方互に太刀を拔いて、散々に切合ひければ、折節、有合ひける人々、是を取支(とりさ)へんとする程に、太刀鋭(さき)に當りて血を流し、或は腕頸(うでくび)を打落(うちおと)され、殿中、大に騷立(さはぎた)ちて、兩人が召使ひける郎從共、この由を聞付けて、御山莊に走來(はしりきた)り、左右に別れて打合ひければ、手負(ておひ)、死人、多く出で來り、親類、與力の輩(ともがら)、贔屓(ひいき)々々に方人(かたうど)して、事夥(ことおびただしく)しくなりければ、すはや、大事に及ぶぞ、とて、百姓等、周章狼狽(あはてうろた)へ、資財を取除(とりの)け、子を倒(さかさま)に負ふて、騷逃(さはぎにぐ)る間(あひだ)、鎌倉中の御家人等(ら)、何事とは知らず、甲冑を帶(たい)し、馬に策(むちう)つて、將軍家へ集(あつま)るもあり、相州の亭に來るもあり。その間に、かの兩人は雌雄を決して、相互(あひたがひ)に切死(きりし)にければ、手負は自身の過(あやまち)になり、方人(かたうど)は時の扱(あつかひ)の爲(ため)と稱して、殊故(ことゆゑ)なく靜(しづま)りけり。相州、仰せられけるは、「大屋、笠木の兩人、共に弓馬の藝に於いては、隨分に嗜みて、物の用に立つべき者と思ひける所に、この比に至つて大に奢(おごり)を起(おこ)し、兩人ながら家作(いへづくり)壯麗(きらびやか)に、身の出立も分際(ぶんさい)に過ぎたり。奢付(おごりつ)きぬれば、邪欲になり、後暗(うしろぐら)き覺悟も出來(いでき)ぬらん。奉公の躰(てい)、更に心の外に見えて、物云ふ事、首尾、調(と〻の)はず、他を慢(まん)じて無禮を行ひ、見苦しき有樣、多かりき。斯(か〻)る行跡(かうせき)のある故に、思(おもひ)の外の口論を仕出し、一時に身命(しんみやう)を失へり。凡そ知行俸祿(ほうろく)を與へて、此身に限らず、妻子に至るまで、朝夕(てうせき)の養(やしなひ)を心易くせさする事は、國家の一大事に臨む時に、その身命を召されんが爲なり。然るを、私(わたくし)の遺恨を仕出(しいだ)して、我人共(われひととも)に打果(うちはた)す事、是(これ)、偏(ひとへ)に、不忠不義の惡者、主君を取倒(とりたふ)す盜賊に非ずや、惣じて、誰人(たれひと)に依らず、君を蔑如(べつじよ)し、他を侮り、邪説を行ひ、侈(おごり)を起(おこ)し、主(しゆ)を謗り、僞(いつはり)を構へ、世に名ある輩を刺(そし)りて、その短を擧げ、法を破り、爭(あらそひ)を生じ、仁を忘れて人を妬(ねた)むは、是、則ち、國家を亂す根(ね)となり、世間を損(そん)ざす基(もとゐ)となる。佞奸(ねいかん)の甚しき、誠に大盜賊の張本なり。誡めずはあるべからず。是に依て、大屋、笠木が跡に於いては、假令(たちひ)、器量の子ありとも、立つべからず、他國に追放すべし」とぞ仰せ出されける。諸將諸親、是を聞きて、道理に伏して一言を申出す人もなく、彼(かの)兩人が一跡(せき)、悉く沒收(もつしゆ)して、妻子郎從殘なく他国へ追放(おひはなた)れけり。一朝(てう)の怒(いかり)を忍(しのび)ずして、其身命を失ふのみに非ず、科(とが)なき妻子まで禍(わざはひ)に罹(か〻り)て家門を滅亡せし事、諸人の誡(いましめ)、是にあり。前車(ぜんしや)の覆(くつがへ)るを見て、愼(つつしみ)を思はざらんや。忍(にん)の一字は、上世後代(じやうせいこうだい)不易の行(おこなひ)たるべき事、貴賤、能く守るべし、是、身を持(たも)つの大要なり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六五)年七月四日の条に基づくが、「吾妻鏡」には争った二人の姓名は記されていない。というより、『四日庚子。未尅。於山内御山庄。侍二人起鬪亂決雌雄。相互死畢。依之鎌倉中騷動。御家人等馳參。』(四日庚子。未の尅、山内の御山庄に於いて、侍二人、鬪亂を起して雌雄を決し、相互に死に畢んぬ。之れに依つて、鎌倉中騷動し、御家人等、馳せ參ず)という、ごくごく短い、一見、つまらぬ記事である。

「山内御山莊」場所は定かではないが、この時、執権北条時宗の山内泉亭なるものがあった。父時頼の最明寺(廃寺)御亭の敷地内か、或いは「泉」という名からは、泉ヶ谷、浄智寺山門附近を想起は出来る。孰れにしても時宗の本宅ではあるまい。

「有合ひける人々」傍(そば)にいた人々。

「取支(とりさ)へん」引き分けて静かに治めんと。

「殿中」その「山内御山莊」の意。以下の処罰から見ても、得宗家たる時宗の正式な本邸、或いは別邸である。従って、彼らは身内人かそれに準ずる人物である。だから最後に非常に厳しい処断が下されるのである。

「方人(かたうど)」助太刀。加勢。

「事夥(ことおびただしく)しくなりければ」事件が、ただの私的な喧嘩を越えて、重大な事件に発展しかけた(「すはや、大事に及ぶぞ」!)のである。

「相州」北条時宗。

「手負は自身の過(あやまち)になり」これは少しひどい。止めに入って怪我を負った者は勝手に当該人が行った結果の、自己責任というのである。だったら、皆で、始めっから、二人に決闘させればよいと言うのかい?! このクソ時宗が! しかも、助太刀の「方人(かたうど)」は「時の扱(あつかひ)の爲(ため)と稱して、殊故(ことゆゑ)なく靜(しづま)りけり」(事態の経過の中で止むを得ない仕儀であったということで、特にお咎めもなく鎮静化した)ったあ! なんじゃい! クソ時宗!! どうも前の陰陽師もいかすかねえ!! 時宗よ! お前は、執権に向いてねえんじゃねえか!?!

「この比」「このごろ」。

「身の出立も分際(ぶんさい)に過ぎたり」その服装や振る舞いも、頗る度を過ぎた奢侈なものであった。われ! こら! そう、思うておったら、こんなことになる前に何とかするんが、手前の義務だろうがッツ! クソ時宗がッツ!!

「後暗(うしろぐら)き覺悟も出來(いでき)ぬらん」今年(二〇一六年)の有象無象の富山県の議員(あいつらが二度と浮かばれることのないように富山県民は奴(きゃつ)らの名をよく覚えておけ!)のように、領収書の前に一字数字を加えたり、偽造の領収書を作ったりするような、後ろ暗いこと(悪いこととして実は内心、確かに思っていることという意味の「覺悟」)も、自ずと生じてきたに違いない、という意味。

「更に心の外に見えて」極めてそうした軽薄無慚な不誠実さが心の外、実際の言動によく見えており。――だったら! さっさと! 馘首するのがお前の義務だろ!! このクソ得宗時宗がッツ!

「他を慢(まん)じて」須らく他者に対して慢心して。

「蔑如(べつじよ)」蔑視。さげすむこと。

「主(しゆ)を謗り」ダブって五月蠅い。筆の滑り過ぎ。

「刺(そし)り」「謗(そし)り」。

「佞奸(ねいかん)」口先巧みに従順を装いながら、心の中は悪賢く、致命的に拗(ねじ)けていること。また、そうした人物。

「大屋、笠木が跡」大屋と笠木の後継ぎ。

「諸親」親族。

「彼(かの)兩人が一跡(せき)」大屋と笠木の一族全部。

「一朝(てう)の怒(いかり)を忍(しのび)ずして、其身命を失ふのみに非ず」実質上の主君である北条時宗の憤怒を、その当事者が死を以って失っただけに留まることなく。

「前車(ぜんしや)の覆(くつがへ)るを見て、愼(つつしみ)を思はざらんや」眼の前を行く車が引っ繰り返って牽く者や乗る者が惨たらしく事故死するのを見ても、用心しない馬鹿というのは、これ、いるだろうか? いや、いない!

「忍(にん)の一字「忍の一字」何事を成し遂げるにも忍耐することが一番大切だという諺。ここは時宗の厳しい事件への処断を緩和・正当化するために配されてあるのであるが、私はすこぶるつきで、「イヤナカンジ」である。]

佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事

 

      堂の釜崩れの事

 正德三四年の頃、仁木彥右衞門、龜脇(かめわき)浦目付にて有(あり)しが、ならびの村、堂の釜といふ處、大きに崩(くずれ)たる跡見へければ、

「けしからぬ事哉(かな)」

と尋(たづね)侍りしに、德左衞門といふ祖父の語りしは、

――あの崩(くづれ)は、五十年餘りにや成侍(なりはべ)らん。我等、今年七十一に成(なり)候。二十斗(ばかり)の時成(なり)しに、此處は、田畑抔(など)も少(すくな)ければ、苫を織(おり)て、營(いとなみ)とし侍る也。堂釜村言(いふ)浜と申(まうす)は、居村の一里拾丁程也。そこに苫毛と申(まうし)て、茅などの多く生出(いきいで)候を取(とり)て、某(それがし)が如きもの、常の營(いとなみ)にいたし、小木湊へ持行(もちゆき)、茶煙草酒などと引替(ひきかへ)、用を足す事に候。然るに、五月半頃、日は忘れぬ。弐三人連にて、小木へ例の如く替物(かへもの)いたし、酒など打(うち)のみ歸りしに、小比叡境にて、日も早くれかゝり候得ば、道も急といへど、女連(づれ)も有(あり)て、笑ひ罵(のゝし)り、

「假令(たとひ)暮たりとて、いつもの道也(なり)。」

など言て、堂の釜の上へ來れば、物のあいろも見へず。いつも通る道に巾弐三尺もやあらん、長は何百間か有けん、くろき物の見へければ、そつとどうてんして、弐三間も跡へとびのき、

「外の道より行(ゆき)なんか、是は世にいふなるうはゞみなん。」

とおもひて、能(よく)々すかし見れば、嵩のひきく侍れば、ふしんにおもひ、手にて探り見れば、道の破さけたるなり。

「こはいかに。」

と、まろび落(おち)て、たゞ一息に龜脇まで逃着(にげつ)き斯(かく)なん。」

と語れば、皆人驚き侍りし。其夜丑みつ頃よりして、震動して、夥敷(おびたゞしき)音しければ、

「扨(さて)こそ、堂の釜の崩(くず)るならん。」

と胸をひやしぬ。

「夜明(あけ)るやおそろし。」

と、立出(たちいで)見れば、堂の釜の方は、黑雲覆ひて闇夜のごとくなり。扨晝方になりて震動も止(やみ)ければ、人々誘ひ、堂の釜へ行(ゆき)しに、元家の有(あり)し所も、崩(くづれ)返り、四五軒有し家、いづくへか行(ゆき)けん。海の方へ五町斗(ばかり)も築出(つきいだ)し、巾は三丁もや侍らん。中程に大なる池出來て、

「何ものか有(あら)ん。」

と恐しく、村境の方は、別事なし。扨、人々、

「つゝがなしや。」

と呼べば、家々より、人、出て、

「こなたへ。」

と振けば、走り行(ゆき)て見るに、崩れたる處に住(すみ)たるもの共(ども)、子供までも、恙なく侍り。

「扨、何として、助り給へる。」

といへば、

「夕邊冷(すゞ)しく、山の鳴(なり)候得ば、夜起(おき)て、飯などたき、庭を見れば破裂候故、是(これ)わとぞんじ、飯など鍋ながら持出(もちいで)、諸道具持出し、子ども引連(ひきつれ)、逃(にげ)歸る跡、たゞ一崩(くづれ)に崩(くづれ)て、家もいづちへ行(ゆき)けん、哀、命ひろいしこそ。」

と、嬉しがりき。扨、二三日も過(すぎ)て、所の童部など、崩跡へゆき、池の水も澄(すみ)候得(さうらへ)て、小き海魚とて多く見へければ、瓢など持(もち)て漉手にてとらへけるに、深き處には大きなる魚見へければ、近き里々にも、聞(きゝ)及び、某(なにがし)もまかりて、件(くだん)の魚、いくらともなくとり、持返りぬ。

「扨山の築出(つきいだ)したるは、何程にか。」

と見れば、海の深き事、二十尋程もありし所は浪打際(うちぎは)となり、海の底は山となり、高く揚(あが)りしなり。扨海の底なる□高き所へあがり、日輪のさしければ、皆元々の出て、こ□の糸をさげたるやうに見べし。一兩日も過(すぎ)て、皆々腐(くさり)て近所へ寄られず、鼻をかゝへけるとなん。其跡の地は、田地となりて四五反もや侍らん。魚取(とり)し事も、汐は返りて常の水と成(なり)しとなん、其魚どもを持來て、あぶり煮て、喰(くひ)けれ共、土臭て喰(くは)れず。皆々捨しとなり。

「ほら貝大蛇など出(いで)しや。」

と、所の(も)のにとへば、

「何か出(いで)けるやらん、怖しさにわけは見ざりし。」

と語り侍りし。

 

[やぶちゃん注:□は判読不能字。本件は最早、怪談としてよりも、大規模な山崩れ(堂の釜地区の地表近くで発生した断層型地震か。ただの山崩れで、五キロも離れた亀脇で体感振動するというのは、ちょっと考え難いように私には思われる)の貴重な実録記録として心して読むべきものである(リンク先はグーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。一部に記号を用いた。

「堂の釜」現在の佐渡市小木堂釜(どうのかま)。先に出た佐渡市井坪の北隣り(真野湾寄り)。現在の航空写真を見ても平地がほとんどなく、山襞が大半を占めている。

「正德三四年」一七一二~一七一五年。

「仁木彦右衞門」既出既注。佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝。目付役で治部流の書をよくし、槍術に長じた。享保一六(一七三一)年没。

「龜脇(かめわき)」現在の佐渡市羽茂亀脇。小木堂釜から海岸線で三キロメートルほど、真野湾寄り。

「ならびの村」現在の小木堂釜と羽茂亀脇の間には、北に接して小比叡(こびえ:本文に出る)、その先に羽茂村山という地区が挟まっている。

「けしからぬ事哉(かな)」「不思議な場所だなあ。」。

「德左衞門」叙述から仁木彦右衛門秀勝の祖父ということになる。「今年七十一に成」るとあるから、この徳左衛門は一六四二(寛永十九)年から一六四五(正保二)年の間の生まれとなる。第三代将軍家光の治世である。

「五十年餘り」上記の正徳三・四年から五十余年前となると、一六六二(寛文元・二)年以前から一六六五(寛文五)年ぐらいまでとなる。第四代将軍徳川家綱の治世。

「苫」「とま」。菅(すげ) や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「營(いとなみ)」生計(たつき)。

「堂釜村言(いふ)浜」「言浜」(いふはま)で砂浜の固有名詞か。現在の小木堂釜の北の部分から隣りの小比叡にかけては、島内有数の約四キロメートルにも及ぶ美しい砂浜海岸で素浜(すはま)海水浴場となっているから、この「言」は「素」の誤字のようにも見えるが、「いふ」とルビがあるから、或いはこの当時はこの現在の「素浜」の堂釜地区の砂浜を限定して「言浜」と呼称していたのかも知れない。

「居村の一里拾丁」「一里拾丁」五キロ十八メートルである。ここに「居村」とあるのは仁木の家からという謂いであろう。仁木彦右衛門秀勝が海上警備監視を担当する浦目付であったとすれば、現在の亀脇の瓜生崎辺り(国土地理院図)に住んでいたと考えると自然な気がし、そこからこの浜までは、現在の地図上の実測でも五キロ弱あるから、謂いとしては腑に落ちる。

「苫毛」このような地名は現存しない。

「某(それがし)が如きもの」この謂いからは仁木徳左衛門は農民か町人であったものと考えられる。

「茶煙草酒」「茶・煙草・酒」。

「五月半頃」「半」は「なかば」。

「小比叡境」堂釜(現在の小木堂釜)と「こびえ(の)さかひ」。ただ、小木から亀脇(現在の加茂亀脇)へ戻るルートでここに来てしまうと、堂釜は過ぎたことになる。不審。或いは後の「堂の釜の上」というのは、この小比叡との境の山の尾根のピークの謂いか

「日も早くれかゝり」「ひも、はや、暮れかかり」。

「急」「きふ」。

「罵(のゝし)り」大声で楽しく騒ぎ合い。

「あいろ」「文色」「あやいろ」の転で、様子・区別・文目(あやめ)。

「巾弐三尺」幅が約六十一~九十一センチメートル。

「長は何百間」長さは一キロメートル以上。

「そつと」「慄(ぞ)つと」でとっておく。

「どうてん」「動顚」「動轉」。

「弐三間」約三・七~五・四五メートル。

「跡」「あと」。後ろ。

『外の道より行(ゆき)なんか、是は世にいふなるうはゞみなん』「……外(ほか)の道を通って行こうか……こ、これは……世に言うところの「蟒蛇(うわばみ)」に違いないぞ!……」。心内語。

「嵩のひきく侍れば」「嵩」は「かさ」で対象物の大きさ・量。特に体積を指す。「ひきく」は「低(ひき)く」で、物体にしては質感がなく、「地面より低く下にあるように判断されたので」の意。要は暗くて錯覚、則ち、逆転認識して、地面の上に長々とした物体が寝そべってているもの、と誤認したのである。

「破さけたるなり」「やぶれ裂けたるなり」。

「まろび落(おち)て」裂け目に落ちた、のではない。皆して転がるように、堂の釜の尾ねを走り下った、というのである。

「丑みつ」「丑滿つ」午前二時(過ぎ)頃。

「黑雲覆ひて闇夜のごとくなり」五月半ばであるから、本来なら晴れていれば、満月に近かったはずなのに、のニュアンスである。

「元家の」「もと、いへの」。

「五町」五百四十五・四五メートル。

「三丁」三百二十七・二七メートル。

「村境」堂釜と小比叡の村境(むらざかい)。この付近にも集落があったらしい。

「振けば」底本には「振」の右に編者注で『(招)』とある。

「破裂」「はりさけ」。

「童部」「わらはべ」と訓じておく。

「崩跡」「くづれあと」。海に押し出されて砂洲状に土砂が流出した部分。

「小き」「ちさき」と訓じておく。

「海魚」「うみざかな」と訓じておく。

「瓢」「ふすべ」。瓢簞。ヒョウタンを割って汲み取る柄杓にしたものであろう。

「漉手」「こして」或いは「すきて」。ヒョウタンの柄杓を静かに沈めて、紙を漉(す)くように掬(すく)いあげる漁法の意であろう。

「某(なにがし)」大人の男たちの謂いであろう。

もまかりて、件(くだん)の魚、いくらともなくとり、持返りぬ。

「二十尋」約三十~三十六メートルほどか。かなりの量の土砂流出があったことが判る。

「皆元々の出て」この「元」は編者の補ったものであるが、ない方が意味が通ると思うのだが?

「こ□の糸をさげたるやうに見べし」不詳。子どもも大人も皆して、この流失して出来た場所の中央の池に釣り糸を垂らして、魚を盛んに釣り上げていたようだ、の謂いか?

「鼻をかゝへける」鼻を抓むほどの腐敗臭が池の周辺に漂っていたというのである。恐らくはその溜まり水は陸から流れ出した真水で、池が出来た当時は、前の海岸のそこに棲息していた根付きの海水魚や無脊椎動物が辛うじて生きていたものの、真水であることから、直ぐに死滅し、腐敗したものであろう。

「四五反」「反」は「たん」。三千九百六十七~四千九百五十九平方メートル。一反は三百坪で畳六百畳である。

「ほら貝」海産の大型巻貝である軟体動物門 Mollusca 腹足綱 Gastropoda 吸腔目 Sorbeoconcha フジツガイ科 Ranellidae ホラガイ属 Charonia ホラガイ Charonia tritonis のことである。山に年経た海の法螺貝が住んでおり、それが神通力を得て、龍となって昇天するという「出世螺(しゅっせぼら)」伝承は、実はかなりメジャーで日本各地に残っている。ウィキの「出世螺によれば、妖怪としての「出世螺」は天保一二(一八四一)年刊の奇談集桃山人(とうさんじん)著「絵本百物語」で知られ、『ホラガイが数千年を経て龍となったものとされる』。それに『よれば、深い山に住むホラガイが山に三千年、里に三千年、海に三千年住んだ末に龍に化身したものであり、山からこの出世螺が抜けた跡を「出世のほら」と呼び、静岡県湖西市の遠州今切れの渡しも法螺の抜けた跡とされている』。『江戸時代の外科医・武井周作の著書』「魚鑑」(うおかがみ:天保二(一八三一)刊)『によれば、深山の土中には巨大なホラガイが棲んでおり、これが山中に三千年住んだ末、大規模な山崩れと共に土の中から抜け出し、さらに里に三千年、海に三千年住んだ法螺が龍に化身したものが出世螺だという』。また、「絵本百物語」によれば、『螺の肉を食べると長生きをするといわれるが、実際にはそのようにして長生きした人の話は確認されていないため、これが由来となって嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう』。『ホラガイが龍に化身して山から抜け出すという話は、ほかの古典の文献や』近代の民間伝承にもある。「東京近郊名所図会」によると、明治五(一八七二)年八月二十五日午後に激しい雷雨があり、道灌山(現・荒川区西日暮里)の北川の崖が崩壊して穴跡ができ、山に千年住んだ法螺が抜けて昇天した跡だと評判になったという』。『この抜けた穴は明治末期まで残っており、付近にはほかにも抜け穴が多く、地面が急に陥没することもあったという』。『また日暮里の花見寺でも明治初期の夏、轟音とともに真っ黒いホラガイが土を蹴散らして空へ飛び去ったという伝承がある』。『しかしこの日暮里近辺の怪異の正体は、彰義隊が残した火薬、弾丸、地雷などの自然発火や、彼らが隠れ家として掘ってあった大穴の陥没といった現象がホラガイによるものと見なされたとの説もある』。松浦静山の「甲子夜話」(静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年(十一月十七日甲子の夜)。因みに私は同書正字電子化ってい)によれば、『ホラガイは蛟の一種であり、山腹の土中に住んでいるものとの記述がある、山が震えて激しい雷雨が起きたときには山から飛び出すことがあり、これを法螺抜けといい、正体を見た者はいないが、地中から蛟が現れるものとされている』[やぶちゃん注:捜してみたが、この記載、どうしても見当たらない。ただ、正規論文にも引用されてはある。不審。]。『牟婁郡(現・和歌山県)の民俗誌』である雑賀貞次郎(さいがていじろう)著「牟婁口碑集」(昭和二(一九二七)年刊)に『よれば、かつて和歌山県西牟婁郡西富田村(現・白浜町)では村の大池から法螺が現れたとある。大水が発生した年、濁流の中に大きな黒い物体が流れて行くのを目撃した者がおり、その跡には池に洞窟ができていた。土地の口承ではホラガイは海、川、山でそれぞれ千年、』計三千年の『歳月を経た末、神通力を持つ大蛇と化すといい、そうしたホラガイが抜け出たものだといわれた』(下線やぶちゃん。実はこの徳左衛門の言葉の「ほら貝大蛇」という語の並びの親和性がよく判る)。『江戸時代には山岳を観察しながら暮していた山伏たちが、こうした山中の法螺抜けの伝説を広め、崖などに自然にできている穴を「洞(ほら)」と呼ぶのも法螺(ほら)が抜けた穴という意味であり、そこから抜けた法螺が龍となって昇天するなどと話して回ったが、その途方もない話を当時の人々は嘲笑し、このことから嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう』。『このような俗信はもとは中国から伝わったものらしく』、十七世紀初頭の明の謝肇淛(しゃちょうせい)撰の考証書「五雑組」には、『福建省で暴風のために洪水が起きた際、人々は蛟が出現したのだろうと語ったという記述がある』とある。また、本「佐渡怪談藻鹽草」の次の「法螺(ほら)貝の出(いで)しを見る事」も参考になる。

「わけ」「譯」。ある対象の状態や様子。]

憤りと抗議の長詩――許南麒著『巨済島』――   梅崎春生

   憤りと抗議の長詩

    ――許南麒著『巨済島』――

 

 これは、朝鮮の巨済(コゼ)島における捕虜収容所を題材とした、二百頁にあまる長篇叙事詩である。北鮮・中共軍捕虜に対する米国監視隊の協定を無視した不法や暴虐、そういうものへの烈しい怒りや抗議がこの長詩の中心をつらぬいている。

 我々国民に「巨済島」の名がひろがったのは、捕虜収容所長ドッド代将が、収容捕虜によって逆に捕虜にされたという、あの奇怪な、見ようによってははなはだ滑稽(こっけい)な事件以来である。そのくせ我々は巨済島の実状や事件のなり行きにたいして、ほとんど知らされていない。新聞やラジオも、表面的に断片的に、時折つたえるだけで、この島でどういうことが行われているか、その実体を伝えることはなかった。

 この長詩は六章より成り、その第二章と第五章は、散文の形をとっている。許南麒はここではもっぱらうたうことを止めて、世界各国の新聞や冊子の記事などを集録し、そのデータによる訴えを試みている。作者はこの両章を「わたくしのつもりでは詩に近い散文、むしろ詩の一つの形としての散文として、読んでもらうつもりで書いた」と後記にしるしているが、私個人の読後感で言えば、他の章よりもこの両章の方が、はるかに感銘が強かった。

 もちろん、詩の形をとった他の章も、作者の胸から自らみなぎりあふれたような勁(つよ)さがあり、それが独特のリズムになって読者の胸を打つが、いくらかそれが過剰な傾きもあり、部分的には叙事詩というよりは叙情詩に近い印象を受ける。巨済島の実状が、たとえばヒットラーの暴虐のように、我々にまだ周知のことでない限りは、我々が接したいのは、作者の憤怒や抗議より前に、巨済島における暴虐や不法の実状や実体なのである。無論この両章を、他の章と独立させて考えるのは、正確な鑑賞ではなく、渾然(こんぜん)とした全章として読むべきだとは思うが、ある微妙な乖離(かいり)がそこに感じられるのは否めない。しかしこれは、長詩「巨済島」そのものが持つ欠陥ではなく、この今日的な課題における作者の発言の仕方と、それを受取る読者の側の、余儀ない乖離かも知れない。

 最後に、この「巨済島」に示された不法の実状と、それについての米側あるいは日本政府側の発表とを並べて、どちらを真実とするかと問われれば、私は躊躇なく前者をとる。常識を持つ人間なら、ちょっと考えられないような不法が存在することを、なぜ私が単にこの一書によって信じるか。それはこの数年間の私の見聞や体験が、私にそう教えて呉れるのだ。これは如何にもあり得ることであり、その小規模な形としては、特に国外に例を求むるまでもなく、我々の周囲にも沢山見出されるだろう。そういう不津に対する許南麒の憤怒ほ、そういう意味でも、我々と無縁のものではない。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十月二十日号『日本読書新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「許南麒」(ホ・ナムギ きょ なんき 一九一八年(大正七年)~昭和六三(一九八八)年十一月)は慶尚南道(けいしょうなんどう/キョンサンナムド:大韓民国南東部に位置する行政区)東莱(とうらい/ドンル)生まれの詩人。昭和一四(一九三九)年来日。中央大学法科卒業。解放直後より朝鮮語と日本語の詩作を並行した。昭和二四(一九四九)年、日本語による詩集「朝鮮冬物語」で注目された。代表作「火縄銃のうた」(日本語)、「祖国にささげる」(朝鮮語)など、両国の言葉で抵抗と叙情を詠い、日本と朝鮮の関係や在日朝鮮人の問題を問い続けた。在日本朝鮮文学芸術家同盟委員長・朝鮮総聯中央副議長・朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員。

「巨済島」地理としての島、巨済島(コジェド きょさいとう)は大韓民国の慶尚南道巨済市に属する同市の大部分を占める島で釜山(プサン)広域市の南西に位置する。面積は約 四百平方キロメートルで、韓国では済州島(チェジュド)に次いで二番目に大きな島である。参照したウィキの「巨済島によれば、『巨済島と日本の対馬との間は朝鮮海峡(対馬海峡西水道)が最も狭隘になる場所で、日本との関係も深い』。許南麒著の「巨済島」は「世界の良心に訴える」という副題を持ち、昭和二七(一九五二)年に理論社から刊行されている(私は未読)。ここに出る、朝鮮戦争当時(一九五〇年六月二十五日~一九五三年七月二十七日休戦)、ここにあった捕虜収容所とそこで発生した暴動事件については、ネット上のフラット(中立的)な日本語記載が少ない。ストイックに短いのはウィキの「巨済市で、「歴史」の項に『朝鮮戦争が勃発すると島は後方基地となり、兵士の訓練所や避難民収容施設が設置された。島内にはアメリカ軍が設置した巨済島捕虜収容所(英語版)があり』、一九五二年五月七日の『巨済島事件(韓国語版)では共産主義者による暴動の舞台となった』とあり、また「文化・観光」の「巨済島捕虜収容所遺跡公園」の項に『巨済島捕虜収容所は朝鮮戦争中に米軍によって設置された朝鮮最大の捕虜収容所で、朝鮮人民軍・中国人民義勇軍の捕虜を最大時』十万名以上『収容した。捕虜となっても北朝鮮に忠誠を誓う「親共派」と、自ら進んで降伏した「反共派」との間の捕虜の対立は流血事件に拡大』、一九五二年五月には『収容所長を拘束する事件が発生している(巨済島事件)。休戦後に一部を残して建物は撤去されたが』、一九九七年に『公園が整備され、朝鮮戦争を記憶する記念館兼テーマパークとなっている』とある。比較的安心して(思想的な偏りを感じさせずにという意味でである)読めるものとして、個人サイト「釜山でお昼を」の捕虜収容所の巨済島の暴動 朝鮮戦争13、「巨済島捕虜収容所遺跡公園」の写真を豊富に揚げてあるminey氏のブログ「be happy」の巨済島の旅 【巨済島捕虜収容所遺跡公園】をリンクさせておく(検索をかけると、かなりの詳しく書いたページを発見は出来るが、左右極偏向の強いものが多いように感じる)。

「捕虜収容所長ドッド代将」(「代将」(だいしょう:英語:Commodore:海軍の階級又は職位の一つで本来は将官の階級にない「艦長」或いは「大佐」が艦隊・戦隊等の司令官の任に当たる場合、当該期間のみに与えられる職位を指したが、国によっては階級ともなっている)はママ。ドットはアメリカ「陸軍」であるから、梅崎春生のこの表現はおかしい。しかも彼は当時、既に「准将」でもあったから、こういう表現をするとは思われない。識者の御意見を乞う)国連軍の収容所長(アメリカ陸軍准将)フランシス・ドッド(Francis Townsend Dodd 一八九九年~一九七三年)。彼は先に示した通り、一九五二年五月七日に暴動を起こした捕虜に拉致監禁された。国連軍は、アメリカ軍二個連隊を送り、火炎放射器・戦車まで投入して鎮圧した。ドットは四日後の五月十日に解放されている(「国連軍は」以下はあるブログ記事を参照にしたが、その方の記載は頗る偏向している(右に)と私には判断されるので敢えてリンクは張らない。但し、データ量は多く、論理的な中立性に基づく正不正は不明ながら、非常に参考にはなる。「巨済島事件」で検索するとトップ・ページに出る)。]

諸國百物語卷之三 三 大石又之丞地神の惠にあひし事

     三 大石又之丞(をゝいしまたのぜう)地神(ちじん)の惠(めぐみ)にあひし事


Disinnomegumi

 關原(せきがはら)しゆつぢんのころ、大石又之丞と云ふ牢人(らうにん)ありけるが、武道はのこる所もなく、ことに文道(ぶんどう)に達し、じゆがくをもつはらとし、詩歌を心がけ、よく物の理(り)をわきまへしりたる、さぶらひ也。出雲へ、しんだいあひすみて、殿より屋敷を下されしが、此屋敷には、ばけ物、むかしよりすみて、いづれの人も一夜(や)もゐる事なし。たまたま居る人あれば、いづくとなくつかみゆく事あり。さるによつてほうばいしう、

「とかく此屋敷を御じたい候ひて、屋敷がへを御のぞみ候へ」

と申されければ、大石、申さるゝは、

「侍の身としてばけ物をおそれて、屋敷がへをのぞみがたし。さやうの屋敷へは、このみてもまいるこそ、侍の本意(ほんい)にて候へ」

とて、下々をつれ、かの屋敷へゆきて、さうぢをさせ、普請(ふしん)などして、吉日をえらび、屋うつりせん、と、もよほされけるが、まづこゝろみに、こよひ一夜それがしとまりて、ばけ物のやうだい見とゞけて、さて、そのゝち、妻子をうつさんとおもひ、その夜は大石一人(にん)、屋敷にうつり、門戸(もんこ)をかため、弓、鐵砲(てうはう)、鑓(やり)、長刀(なぎなた)のさやをはづし、ようじんして見臺(けんだい)にしよもつをひろげ、きんがくしてゐられけるに、夜半のころ、をもての門をたゝく。大石、あやしくおもひ、たちいでみれば、そのたけ、二丈ばかりなる大ぼうずなるが、

「こゝをあけよ」

と云ふ。さては、くだんのばけ物よ、と、おもひ、

「こゝをあけよと云ふはいかなる物ぞ。名をなのれ。さなくは、あくること、なるまじ」

と云ふ。ぼうず、きゝて、

「何ものにもせよ、あけよといわば、あけよ。あけずは、ふみやぶりて、はいるぞ。なんぢ、われを一うちにせんとおもふとも、太刀(たち)、かたなの、たつ身にては、なし。はやくあけよ」

と云ふ。大石、心もとなくおもへども、へんげの物ならば、あけずとも入るべきが、ふしぎなる事かな、と、おもひ、門をひらきてあけければ、十八、九なる小ぼうずとなり、をくにいり、

「なんぢ、われをへんげの物か、と、きづかいすると見へたり。かまへて、きづかふ事なかれ。われは此屋敷のいぬゐのすみ、しよえんさきにすむ地神(ちじん)也。いにしへより、此屋敷にすむもの、われをそまつにして、とりのけんとす。われ、これをにくみてたゝりをなせり。なんぢ、此屋敷に、はじめてきたり。まづ、われに禮拜(らいはい)をなし、遊々すへながく鎭主(ちんしゆ)とまもらん、とのしゆくぐはんをかけたるゆへ、うれしくおもひて、われ是れまで、きたりたり。今よりのちは、すへずへはんじやうにまもるべし。なかんづく丸が宮、大(たい)はにおよびたり。なんぢ、こんりういたすべし。わが宮のまへに松竹あり。これをほりかへ候はゞ、土の中にわう金(ごん)あるべし」

と、ねんごろにをしえて、けすがごとくにうせにけり。大石、ありがたくおもひ、三度らいはいし、程なくその夜もあけゝれば、下々、ほうばいしうまで見まいにゆきければ、別のしさいなしとて、ありのまゝにかたりければ、殿にもきこしめされ、神慮(しんりよ)にかなふ侍なりとて、はじめ三百石にて有りしを、五千石になし下され、家中(かちう)ならびなきしゆつとうにんとなりけると也。そのゝち、かの所をほりて見ければ、黃金百枚ありけるを、是れにて宮をこんりうし、いよいようやまひ奉りければ、家もはんじやういたしけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「地神の惠あひし事」。

 

「大石又之丞(をゝいしまたのぜう)」不詳。松江藩を支えた知られた家老の中に「大橋」なら、いる。「おおいし」と「おおはし」は一音違いではある。

「地神(ちじん)」地主神。私は体系化された記紀神話以前から存在したその地域を守護する古代神と考えている。

「關原(せきがはら)しゆつぢん」「關が原出陣」慶長五年九月十五日(西暦一六〇〇年十月二十一日)に東軍(徳川方)についた出雲国の元浪人であろう。ウィキの「松江藩」によれば、『豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲及び隠岐の』二国支配していたが、『関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門』の二国に『減封となり、吉川広家も岩国に移された。これにより』遠江国浜松で十二万石を『領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に』五万石の『隠居料を得ていた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐』二国二十四万石で『入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩した』。忠氏は慶長九一六〇四)年に二十七歳で『早世、後を継いだ忠晴はまだ』五歳の『幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲いた。吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため』、慶長一二(一六〇七)年から足かけ五年を『かけて松江城を築城するとともにその城下町の建設を行った』。慶長一六(一六一一)年に『吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立したが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去した。忠晴は成人したものの男子に恵まれず』、寛永一〇(一六三三)年に三十三歳で『死去すると堀尾家は無嗣改易となったが、堀尾氏が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っている。ちなみに、忠晴が死亡し堀尾氏の無嗣改易が明確化した時、その後釜として美作津山藩主・森忠政の許に出雲・石見・隠岐の』三ヶ国への『加増転封の話が浮上』、『津山藩では藩士を巡検させて検討するも、肥沃でない土地も多く含まれていたことから、忠政も当初乗り気ではなかったが、老中・酒井忠勝より御内証が届けられたことによりこの話を受けた。しかし翌』寛永一一(一六三四)年七月七日に『忠政が京都で急死したため、将軍家との正式な会談が持たれる前でもあったことから』、この三ヶ国『加増の話は立ち消えとなった』とある。関ヶ原出陣から始まる以上、ここで登場する「殿」と呼ばれる人物は堀尾吉晴(天文一三(一五四四)年~慶長一六(一六一一)年)ととるのが自然である。

「じゆがくをもつはらとし」「儒學を專らとし」。

「しんだいあひすみて」「身代相住みて」か。当初、「親代」(親の代から)の意かとも思ったが、それでは「牢人」齟齬する感じがする。「身代」ならば、そこで相応の地位と仕事に就いて、則ち、「士官が叶って」そこに住まうようになり、の意でとれ、以下の「殿より屋敷を下されし」ともスムースに繋がる。

「いづくとなくつかみゆく事あり」「何處(いづく)(へ)と(も)なく、摑(つか)みゆくことあり」。何ものか目に見えないものによって摑まれた上、とんでもないところへ放り投げられるといった怪異などがあった。

「ほうばいしう」「朋輩衆」。

「御じたい」「御辭退」。

「屋敷がへ」「屋敷替へ」。

「このみてもまいるこそ」「好みても參るこそ」。

「さうぢ」「掃除」。

「普請」ここは家屋の修繕。

「屋うつり」「屋移り」。転居。

「もよほされけるが」「催されけるが」。準備をなさったが。

「やうだい」「樣態」或いは「容體」。姿形やその容貌風体(ふうてい)。

「きんがく」「勤學」。

「二丈」六メートル六センチ。

「さなくは」さもなくば。

「太刀(たち)、かたな」正しく飾った際、刃を下にするものを「太刀」と言い、刃を上にするものを刀、打刀(うちがたな)と称する。本来、太刀は馬上戦で使用するために作られたもの(従って一般的な後の刀(打刀)よりは長めとはなる)で腰から吊るして身体から離して「佩(は)く」もの(「佩刀」するもの)であり、室町時代以降に登場する打刀は徒戦(かちいく)さの白兵戦のため作られたもので、何時でも容易に抜いて、即、斬り込むことが出来るように腰の帯に「差し」た(「帯刀」した)刀を言う。原則的には長さや太さによる違いではないことに注意されたい。

「心もとなくおもへども」少し気掛かりには思ったけれども。

「へんげの物ならば、あけずとも入るべきが、ふしぎなる事かな、と、おもひ」ここがミソである。ここにはこの怪しい存在が必ずしも悪しきものではなく、尋常に語り合おうとしているのではないかと、大石は微かに感じているのである。

「いぬゐ」「戌亥」。乾。北西。

「しよえんさき」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本話の本文では『書院さき』(書院の前・近く)とある。

「なんぢ、此屋敷に、はじめてきたり。まづ、われに禮拜(らいはい)をなし、遊々すへながく鎭主(ちんしゆ)とまもらん、とのしゆくぐはんをかけたるゆへ、うれしくおもひて、われ是れまで、きたりたり」「はじめてきたり。」の句点は読点とすべきところである。「遊々」「悠悠」の当て字。遙かにずっと先まで。「鎭主(ちんしゆ)とまもらん」は「鎮守として私めがお祀り申そう。」の意。「しゆくぐはん」は「宿願」。この叙述によって、この屋敷の乾の角には朽ちた社が存在していたのを大石は見出し、それに向かってこのような祈願をしたことが明らかにされるのである。

「すへずへ」「末々(すゑずゑ)」。歴史的仮名遣としては誤り。

「はんじやうにまもるべし」「繁盛に護るべし」。「家運の栄えるよう、しっかりと守ってやろう。」。

「なかんづく」「就中」。多くの物事の中から特に一つを取り立てるさま。「とりわけ」「中でも」「特に」の意。「中(なか)に就(つ)く」の転で漢文訓読に由来する。

「丸が宮」「まろがみや」。「麻呂が宮」。私の住まう祠(やしろ)。

「大(たい)は」「大破」。

「こんりう」「建立」。一から新しい社(やしろ)を建てること。

「これをほりかへ候はゞ」この木の根元を掘り返してて御座ったならば。

「わう金(ごん)」「黃金」。

「しゆつとうにん」「出頭人」。主君の寵愛を得て権勢を揮う者。狭義には室町から江戸初期にかけて幕府や大名家に於いて、主君の側にあって政務に参与した奉行や老臣などをも指した。

「うやまひ」「敬ひ」。]

2016/10/03

北條九代記 卷第九 無量壽院法會 付 大雨洪水

      ○無量壽院法會  大雨洪水

 

同六月三日、故秋田城介義景が十三年忌の佛事執行ひ、無量壽院に於いて経營す。去ぬる朔日より、今日に至るまで、三夜三日の中、十種供養あり。今正日を迎へて、多賽塔一基を供養せらる。導師は若宮別當僧正隆辨なり。説法の聲、空界に滿ちて、諸天も是に感じ、賢聖(けんしやう)、眼邊(まのあたり)、此座に影向(やうがう)し給ふらんと、参詣の貴賤、隨喜の涙を流さぬはなし。伊勢入道行願、武藤少卿(せうけい)人道心蓮、信濃〔の〕判官入道行一以下の數輩(すはい)、結緣(けちえん)の爲に法場(ほふぢやう)に列(つらな)り、往昔(そのかみ)の面影、二度(たび)此所に見渡(みえわた)る心地して、坐(そゞろ)に悲淚を拭ひける所に、説法の最中に、大雨、降出でつ〻、車軸を流して夥(おびたゞ)し。四方、打覆(うちおほ)ひ暗み掛(かゝ)りて、小止(こやみ)なく潟(うつ)すが如く降る雨に、物音も聞難(きこえがた)く、山上に構へたる聽聞所(ちやうもんじよ)の平張(ひらばり)、一同に崩倒(くづれたふ)れしかば、或は手足を打損(うちそん)じ、或は頸(くび)の骨を推折(おしを)られ、諸人、臥轉(ふしまろ)び、希有にして逃出(にげい)づる。山の嶺より路(みち)の北に滑落(すべりお)ちて半死半生に成りつ〻、前後を知らぬも多かりけり。さしも貴(たふと)かりける大法會、一時に打醒(うちさ)めて、匍々(はふはふ)下向する者も、雨に霑(ぬ)れ、泥に塗(まみ)れ、最(いと)見苦しき有樣なり。同十日、いとゞ、雨、降續(ふりつゞ)き、今日は、殊更、垂籠(たれこめ)て、暗(くらやみ)の如くにして、物間(ものあひ)も定(さだか)ならず、午刻(うまのこく)計(ばかり)に龜谷(かめがやつ)を初(はじめ)として、泉谷(いづみがやつ)の間(あひだ)、所々の山々、崩れければ、其邊(あたり)に住みける大家(け)小家(け)、或は大石の轉來(まろびく)るに打破(うちやぶ)られ、或は、山、裂落(さけおち)ちて土中に埋(うづも)れ、男女老少、逃惑(にげまど)ひ、啼叫(なきさけ)ぶ聲、雨の足に和(くわ)して響渡(ひゞきわた)り、世は早(はや)滅して、鎌倉は只今、泥の海になるべきなりと、貴賤上下、色を失(うしな)うて、足(あし)を空にぞ成(な)りたりける。夜に入りて、雨少しつゞ晴に成て、次の日は白日靑天なりければ、埋(うづ)まれたる者共の一門親族、淚と共に鋤鍬(すきくは)を用意して、土を掘りのけ、死骸を取出(とりいだ)す。或は資材雜具に堰(せか)れて未だ死(しに)もやらず、片息(かたいき)になりたる者もあり。或は柱、棟(むなぎ)の下に打倒(うちたふ)れて、平(ひら)に匾(ひし)げて死するもあり。歎悲(なげきかなし)む聲、洋々として物の哀(あはれ)を止(とゞめ)たり。空しき尸(かばね)を寺々に送りて、泣く泣く泉下(せんか)の客として、一堆(たい)の塚の主(ぬし)となし、經、讀(よみ)、佛事を營むも思寄(おもひよ)らざる憂(うれへ)を受け、俄(にはか)に無常を身に知りて世を厭ふ心より、尼、法師となりて、後世を求(もとむ)る人も多かりけり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二に文永二(一二六五)年六月三日・十日の条に基づく。私はこうした自然災害に対する権威の無力さを語ったシークエンスがすこぶる好きである。福島原発を言うまでもなく、である。

「無量壽院」廃寺。「新編鎌倉志卷之五」に以下のようにあり、以下のように私は注した。

   *

◯無量寺谷 無量寺谷(むりやうじがやつ)は、興禪寺の西の方の谷(やつ)なり。昔し此處に無量寺と云寺有。泉涌寺の末寺也しと云。今は亡し。按ずるに【東鑑】に、文永二年六月三日、故秋田の城の介義景が十三年の佛事を無量壽院にて修すとあり。義景は、藤九郎盛長が子にて、居宅甘繩(あまなは)なり。此邊まで甘繩の内なれば、此の寺歟。後に無量寺と云傳る歟。又【鎌倉九代記】に、禪秀亂の時、持氏方より、無量寺口(くち)へは上杉藏人憲長、百七十騎にて向へらるとあるは此所なり。今鍛冶(たんや/カヂ)綱廣が宅有。

[やぶちゃん注:底本では最後の「鍛冶」の左側に「カヂ」のルビが附く。現在の鎌倉駅から北西に向かったところに佐助隧道があるが、その手前の崖下に旧岩崎邸跡地があり、扇ヶ谷一丁目この辺り一帯を「無量寺跡」と通称する。二〇〇三年に、この旧岩崎邸跡地から比較的規模の大きい寺院庭園の遺構が発見されたことから、この辺りに比定してよいであろう。この庭園発掘調査により、庭園内の池が一気に埋められていること、埋めた土の中より一三二五年から一三五〇年頃の土器片が大量に出土していること、園内建物遺構の安山岩の礎石に焼けた跡があること等から、庭園の造成年代は永仁元(一二九三)年の大震災以後、幕府が滅亡した元弘三・正慶二(一三三三)年前後に火災があり、庭園は人為的に埋められたと推定されている。私には一気に庭園を埋めている点から、同時に廃寺となったと考えても不自然ではないように思われる(庭園発掘調査のデータはゆみ氏の「発掘された鎌倉末期の寺院庭園遺構を見る」を参照させて頂いた)。

「秋田の城の介義景」は安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)のこと。執権北条泰時・経時・時頼に仕え、評定衆の一人として幕政に大きな影響力を持った御家人。

「義景は、藤九郎盛長が子にて」は誤りで、安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)は義景の祖父。彼の父は安達景盛(?~宝治二(一二四八)年)で、彼と義景が安達氏の磐石の権勢を創り上げた。

「上杉藏人憲長」は系図から見ると、上杉禅秀の乱の際の関東管領であった上杉憲基の祖父憲方の弟である上杉憲英の孫に当たる。

「鍛冶綱廣」現在も相州正宗第二十四代刀匠として御成町の山村綱廣氏に継承されている。]

   *

「十種供養」「法華経」の「法師品」に説かれてある十種類の供養。すなわち華・香・瓔珞 (ようらく) ・抹香・塗香(ずこう)・焼香・繒蓋幢幡(そうがいどうばん:絹製の傘及び幟旗(のぼりばた))・衣服・伎楽(ぎがく)・合掌の十種によって仏に供養することを指す。

「多賽塔一基」現存しない。

「諸天も是に感じ、賢聖(けんしやう)、眼邊(まのあたり)、此座に影向(やうがう)し給ふらん」が「参詣の貴賤」が思ったこと、「隨喜の涙を流」した感動的場面である。「天上の諸神仏も皆、この荘厳なる説法に感動し、賢くも神聖なるそのお姿を眼前に顕現なさるに違いない」の謂いである(「影向(ようごう)」とは仏菩薩や神などが仮の姿をとって人々の眼前に現れることを指す)。この高揚感が、一転、修羅場へと変ずるシークエンスにこそ筆者は作家として惹かれたのである。私もそうである。

「伊勢入道行願」二階堂行綱。評定衆。

「武藤少卿(せうけい)人道心蓮」武藤景頼。評定衆。

「信濃〔の〕判官入道行一」二階堂行忠(行綱の弟)。政所執事。

「結緣(けちえん)」原義は仏菩薩が世の人を救うために手を差し延べて縁を結ぶことであるが、ここは世の人が仏法と縁を結ぶこと、仏法に触れることによって未来の成仏・得道の可能性を得ることを指す。

「法場(ほふぢやう)」法会の場。

「往昔(そのかみ)の面影、二度(たび)此所に見渡(みえわた)る心地して」死したる安達義景の面影が再び、この玄妙なる法会によって再びこの場所に再臨するかのような心持ちがして。

「坐(そゞろ)に」無暗に。殊更に。

「潟(うつ)すが如く」時間が全く以って変わらぬように。

「山上に構へたる聽聞所(ちやうもんじよ)の平張(ひらばり)」この法会のために、庶民がその法会を拝むために設置された臨時の聴聞所に設置されていた簡易の平台。安手に、確認もなく、作られた、不安定な桟敷席であろう。

「匍々(はふはふ)」やっとのことで窮地を遁れ。

「最(いと)見苦しき有樣なり」私は言っておくと、このシークエンスに、にんまりするタイプの人間である。

「午刻」正午。

「泉谷(いづみがやつ)」亀ヶ谷坂を下った浄光明寺の附近。

「世は早(はや)滅して、鎌倉は只今、泥の海になるべきなり」が「貴賤上下、色を失(うしな)う」た連中の末法思想的認識の心内語である。

「足(あし)を空に」足が地につかないほどに慌て急ぐさま。

「平(ひら)に匾(ひし)げて死するもあり」ぺしゃんこに完全に潰されて死んでいる者もあtった。

「洋々として」広く激しいさま。

「泉下(せんか)の客」黄泉(よみのくに)へと死出の旅に旅立った者。

「一堆(たい)の塚」一つの仮に埋めた土饅頭。

 

 以下、「吾妻鏡」。

 

○原文

三日己巳。日中夕立。故秋田城介義景十三年佛事也。於無量壽院。自朔日至今日。或十種供養。或一切經供養也。而今迎正日。供養多寳塔一基。導師若宮別當僧正隆辨。布施被物十重。太刀一。南廷五。砂金卅兩。錢百貫文。伊勢入道行願。武藤少卿入道心蓮。信濃判官入道行一以下數輩。爲結緣詣其場。説法最中。降雨如車軸于時山上所搆之聽聞假屋顚倒。諸人希有而迯去。其中男女二人。自山嶺落于路之北。半死半生云々。

○やぶちゃんの書き下し文

三日己巳。日中、夕立す。故秋田城介義景が十三年の佛事なり。無量壽院に於いて、朔日より今日に至り、或ひは十種の供養、或ひは一切經の供養なり。而るに今、正日を迎へ、多寳塔一基供養す。導師は若宮別當僧正隆辨。布施、被物(かづけもの)十重・太刀一・南廷五・砂金卅兩・錢百貫文。伊勢入道行願・武藤少卿入道心蓮・信濃判官入道行一以下數輩、結縁緣の爲め、其の場に詣(まう)ず。説法の最中、降雨、車軸のごし。時に、山上に搆ふる所の聽聞の假屋、顚倒す。諸人、希有にして迯れ(に)げ去る。其の中、男女二人、山の嶺より路の北に落ち、半死半生と云々。]

北條九代記 卷第九 高柳彌次郎縫殿頭文元と訴論

      ○高柳彌次郎縫(ぬひの)殿頭(のかみ)文元(ふんもと)と訴論

同五月上旬、將軍家の御息所(みやすどころ)、御懷孕(くわいよう)の沙汰あり。業昌(なりまさ)朝臣に仰せて、御祈(おんいのり)の爲、天曹地府(てんさうちふ)の祭(まつり)を奉仕(ぶし)す。此所(こ〻)に高柳(たかやなぎ)彌次郎と縫(ぬひ)殿〔の〕頭(かみ)文元(ふんもと)、所領の事に依(よつ)て相論を致せり。彌次郎幹盛(もともり)、訴へ申しけるは、「文元は陰陽師(おんやうじ)の職者(しよくしや)として、その子息等(ら)、太刀を帶(は)き、嚴(いかめ)しく出立ちて、世間を橫行(わうぎやう)す。偏(ひとへ)に武士の行跡(ありさま)に似たり。荒涼の躰裁(ていたらく)、頗(すこぶ)る公儀の格式を蔑(ないがしろ)にするか、誠に側痛(かたはらいた)し。早く先(まづ)、本道の威儀に返されずは、漸々、奢侈(しやし)の所行(しよぎやう)を企て、文武の道、相混(あひこん)じ、貴賤、漫(みだり)に法に違(たが)ひ、亂根(らんこん)の基(もとゐ)たるべし」となり。是に依(よつ)て、奉行、頭人、この事、評議あり。文元が子息、大藏〔の〕少輔文親(ふんちか)、大炊助(おほひのすけ)文幸(ふんゆき)を召して、子細を相尋ねられ、「彼等、陰陽寮(おんやうりやう)の子孫たる事は爭ふべからずといへども、右筆(いうひつ)の職掌を相兼ねたり。七條人道大納言の御時は、幕府に候(こう)じて宿直を勤め、格子上下の役を致し、武州前史(さきのさわん)禪室、最明寺入道二代は、この作法の如く、奉公せしむべきの由、仰せらる。今更、是を改難(あらためがた)し。但し、官途に於ては、本道を相兼ねざるの間、右筆の役(やく)計(ばかり)をもつて奉公を致すの輩(ともがら)、官位の事、雅意(がい)に任せて補任(ふにん)せらる〻の條、然るべからず」となり。是に依(よつ)て、文親(ふんちか)は本道を相兼ね、文幸(ふんゆき)は右筆計(ばかり)を勤めければ、相論の事も自(おのづから)相止みけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六五)年五月十日(懐妊記事)・二十三日の条に基づく。

「高柳彌次郎」現在の埼玉県加須市上高柳を領した高柳幹盛(もともり)。

「縫(ぬひの)殿頭(のかみ)文元(ふんもと)」「縫殿頭」は本来は律令制の「縫殿寮(ぬいどのりょう)」(中務省管下の裁縫監督機関で多くの女官が勤務していた)の最高責任者。従五位下相当職であった。第四代将軍藤原頼経の下向に従った陰陽師の一人紀文元(きのふんひと)。後の相馬一族の一つとなり、姓は「皆吉(みなよし)」ともするが、元来の本姓は惟宗(これむね)で、後に「惟宗」に復姓もしている。

「將軍家の御息所(みやすどころ)、御懷孕(くわいよう)の沙汰あり」既注の宗尊親王と正室近衛宰子(このえさいし)との間に出来た、長女となることになる掄子(りんし:女王・准三后で後宇多天皇後宮となった)の、宰子の懐妊である。この年の九月二十一日に生まれているから、妊娠後、かなり気づかずに過ぎていたことが判る

「業昌(なりまさ)朝臣」既出。幕府附陰陽師。

「天曹地府(てんさうちふ)の祭(まつり)」陰陽師が修する重要な祭りの一つ。「六道(ろくどう)冥官(みょうかん)祭」「天官地符祭」とも呼び、「曹」は縦の二本棒を一本棒にした特異な画の字「曺」を用いるのが正しい。十一世紀ころから祀られ、安倍氏が鎌倉幕府の陰陽道を支配してから、この祭法は盛んとなった。泰山府君を中心とした十二座の神に金銀幣・素絹・鞍馬を供えて祀る(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「側痛(かたはらいた)し」他人の言動を自分が側で見聞きして、気に入らないと思っている際の実に不快な気持ちを意味する。「大いに腹立たしい・頗る苦々しい・如何にもみっともない」。

「貴賤、漫(みだり)に法に違(たが)ひ」そうした不法をお上がお許しになっている様を貴賤の者がみれば、それでいいわけだ、と思って、皆、むやみやたら、手前勝手に不法を働いて、平然としている状態となり。

「大藏〔の〕少輔文親(ふんちか)」紀文元の長男紀文親。彼は従四位下に叙任され、陰陽師として活動する一方、武士としても幕府に勤仕した。

「大炊助(おほひのすけ)文幸(ふんゆき)」文親の弟。ここでも記されるように彼は専ら、幕府の武士として奉公した。

「陰陽寮(おんやうりやう)」律令制に於いて中務省に属する機関の一つで、占術・天文・暦の編纂を担当する部署。

「右筆(いうひつ)」武家に於いて文書・記録を掌る書記職。

「七條人道大納言の御時」「七條人道大納言」第四代将軍藤原頼経(建保六(一二一八)年~康元元(一二五六)年)。将軍在任は嘉禄二(一二二六)年一月から寛元二(一二四四)年四月。

「候(こう)じて」伺候して。

「宿直」「とのゐ」。

「武州前史(さきのさわん)禪室」第四代執権北条経時。

「最明寺入道」第五代執権北条時頼。

「この作法」陰陽師格でありながら、武士としても実務するという判例法。

「官途に於ては、本道を相兼ねざるの間、右筆の役(やく)計(ばかり)をもつて奉公を致すの輩(ともがら)、官位の事、雅意(がい)に任せて補任(ふにん)せらる〻の條、然るべからず」教育社の増淵氏の訳では、『仕官するにあたっては、本職を兼ねないで右筆の訳だけでもって奉公する者は、(武家なのだから)官位の事をわがままに任せて補任されることはよくないことである』とある。よく判らない部分があるが、どうもこの陰陽師連中は、官位の昇進を、かなり自由にお上に願い上げることが出来た(武士階級は出来なかったのに)現況があったものと読める。

「文親(ふんちか)は本道を相兼ね」紀文元の嫡男であるから、陰陽師を辞めることは出来ないからであろう。特例である。但し、当然、そこには妄りに官位を懇請しないという一札は入れているに違いない。「吾妻鏡」を読むと、原則、官位を受ける場合は陰陽師としての職には勤務しないと言っているように読めるからである。ところが彼は既に「大藏〔の〕少輔」であり、同時に現役の幕府附陰陽師であるからである。

「文幸(ふんゆき)は右筆計(ばかり)を勤めければ」兄を特例で認めた分、弟は武士格で抑えたのである。当然、奢侈に過ぎること、横暴な言動をしないことを、やはり一札、入れさせられたであろう。

「相論の事も自(おのづから)相止みけるとかや」これはしかし、おかしい。この二人の論争は、元は所領争いであるから、これで、カタがつくはずがないからである。或いは所領争いの方は、遙かに文元側に理があり、悔し紛れに、その息子どもに八つ当たりして、訴訟を混乱させただけだったのかも知れぬ。

 

 論争部の「吾妻鏡」を引いておく。

 

○原文

廿三日庚申。高柳彌次郎幹盛與縫殿頭文元。就所領有相論事。幹盛確執之餘。訴申云。文元乍爲陰陽師。其子息等帶太刀等。偏如武士。早可爲本道威儀之由。可被仰下云々。仍今日有評議。彼子息大藏少輔文親。大炊助文幸等雖爲陰陽師子孫。相兼右筆之上。七條入道大納言家御時。就幕府官仕。或勤宿直。或爲格子上下役。武州前史禪室。最明寺禪室二代。以如此作法可令奉公之由被仰畢。今更難改之。但於官途者。不相兼本道。以右筆役計致奉公之輩。限官位。任雅意被任之條不可然。蒙御免可任之旨。被仰出云々。文親者相兼本道。文幸者右筆計也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日庚申。高柳彌次郎幹盛と縫殿頭文元、所領に就き、相論の事、有り。幹盛、確執の餘り、訴へ申して云はく、

「文元、陰陽師たり乍ら、其の子息等、太刀等を帶し、偏へに武士のごとし。早く本道の威儀たるべきの由、仰せ下さるべし。」

と云々。

仍つて、今日、評議有り。彼の子息、大藏少輔文親・大炊助文幸等、陰陽師の子孫たりと雖も、右筆(いうひつ)を相ひ兼ぬるの上、七條入道大納言家の御時、幕府の官仕に就き、或いは宿直(とのゐ)を勤め、或いは格子(かうし)上げ下ろしの役たり。武州前史禪室・最明寺禪室の二代、かくのごときの作法を以つて奉公せしむべきの由、仰せられ畢んぬ。今更、之れを改め難し。但し、官途に於ては本道を相ひ兼ねず、右筆の役計(ばか)りを以つて奉公致すの輩(やから)、官位に限り、雅意に任せいぇ任ぜらるの條、然るべからず。御免を蒙りて任ずべきの旨、仰せ出ださると云々。

文親は本道を相ひ兼ね、文幸は右筆計りなり。]

北條九代記 卷第九 將軍家童舞御覽

      ○將軍家童舞(どうぶ)御覽(ごらん)

 

同二年二月二日、御息所、既に相摸守時宗の亭に入御(じゆぎよ)あり。是、將軍家二所(しよ)の御精進に依(よつ)てなり。翌日、將軍親王、御濱出(おんはまいで)まします。供奉(ぐぶ)の人は豫(かね)てより定められしかば、難澁せしむる義もなく、三日御逗留ありて、還御なりけり。同三月四日、御所の御鞠(おんまり)の壼(つぼ)にして、童舞を御覽あり。鶴岡法會の舞樂を引移され、舞童等(ら)を南北に分けらる。土御門大納言、花山〔の〕院大納言は簾中に候ぜられ、從二位顯氏(あきうぢの)卿、從三位基輔〔の〕卿、一條中將能基(よしもと)、八條中將信通(のぶみち)、六條少將顯名(あきな)、唐橋(からはしの)少將具忠(ともただ)等(ら)、伺候の輩(ともがら)、位階に隨つて著座(ちやくざ)あり。左の樂(がく)には、三臺(だい)、泔州(かんしう)、太平樂(たいへいらく)、散手(さんしゆ)、羅陵王(らりようわう)、右の樂には長保樂(ちやうはうらく)、林歌(りんか)、狛桙(こまほこ)、貴德(きとく)、納蘇利(なそり)と定めらる、伶人、舞童等(ら)、今日を晴(はれ)と出立(いでた)ち、色を盡して花を飾り、堂上堂下さざめきて、東國の聞物(もんぶつ)、何事か是(これ)に勝るべきとぞ思合(おもひあは)れける。夫(それ)、樂(がく)は、天地純粹の元氣を延(の)べて、性理靈昧(せいりれいまい)の峻德(しゆんとく)に法(のつと)る。凶惡邪穢(きようあくじやゑ)の路(みち)を塞ぎ、風(ふう)を移し、俗を變へ、君臣和して、上下契(かな)ひ、貴賤、敬(けい)に基き、長幼、順に軌(のり)とす。節(せつ)を合せて奏すれば、萬民、徳に歸し、曲を守りて調(しら)ぶれば、庶品(しよひん)、樂みに返る。この故に先王(せんわう)、樂を立つるの原(もと)、五聲(せい)、八音(おん)、律に應じ、鬼神感じ、道義治(おさま)る。手の舞(まひ)、足の蹈(ふ)む所、天文(てんもん)、生成(せいじやう)し、地理、長育す。誠に是(これ)、神(しん)、是、聖(せい)、既に、人、その德の施す所を蒙(かうぶ)る。抑々(そもそも)、大平の儀表(ぎへう)なり。松若、禪王、乙鶴(おとづる)、竹王(たけわう)等(ら)、童舞の祕曲を盡しければ、上下、感じ給ひける所に、又、左の方より管頭(くわんとう)、一越(いちこつ)に吹出(ふきいで)たる聲、遙(はるか)に雲外に響き、山海(さんかい)に亙る。色音、比和(ひわ)してめでたく調(とゝのほ)りける時、右近〔の〕將監中原光氏、賀殿(かてん)の祕曲を舞ひけるに、花の袂(たもと)は風に薰(かを)り、雪の袖は雲に翻(ひるがへ)る心地して、簾中(れんちう[やぶちゃん注:ママ。])も庭上(ていじやう)も感に堪へたる殊勝さは、心も詞(ことば)も及ばれず。一條中將能基朝臣、仰せに依(よつ)て、祿物(ろくもつ)を光氏に賜(たまは)る。天下安泰の德を表(あらは)し、當座の眉目、奇世(きせい)の伶人(れいじん)かな、と思はぬ人はなかりけり。

 

 

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六五)年二月二日・三日、三月四日に基づく。

 

「童舞(どうぶ)」元服以前の子どもが社頭や貴人の前で舞う舞楽。「童舞(わらわまい)」と訓ずるのが一般的。元は公卿の子弟が天皇らの前で順に舞楽を舞って見せる儀式に基づく。但し、調べた限りでは、童舞のための決まった曲目が特にあるわけではないようである。

 

「將軍家二所(しよ)の御精進」源頼朝によって始められた、走湯山(現在の伊豆山神社)及び箱根山(現在の箱根神社)の二所権現と三嶋社へ参詣することを「二所詣(にしょもうで)」と呼ぶが、その精進潔斎(女性を遠ざける)、及び形式的な禊(みそぎ)のための「濱出」である。ただ遊んでいるのではない。

 

「三日御逗留ありて、還御なりけり」「吾妻鏡」によれば、出立は浜出の三日から四日後の二月七日で、還御は同月十二日である。延べ六日間であるが、前後と途中に移動行程から考えれば、必ずしも矛盾とは言えないし、「二所」は実は三ヶ所であるから「三日逗留」は自然とさえ言える。

 

「御所の御鞠(おんまり)の壼(つぼ)」御所の中の蹴鞠をする坪庭のことらしい。なお、確認であるが、幕府(御所)はこの四十年も前の泰時が執権であった嘉禄二(一二二六)年に、大倉幕府から若宮大路東側(小町大路西側の現在の一の鳥居近く。現在、「宇都宮辻子(つじ)幕府」などとも呼称される)へと移転、さらに嘉禎二(一二三六)年に恐らく同地区内に於いて新たに、現在は「若宮大路幕府」と呼称されているものに、建て替え移転されている。

 

「土御門大納言」土御門顕良。元の内大臣土御門定通三男。

 

「花山〔の〕院大納言」花山院(かざんいん)師継。花山院右大臣忠経四男。

 

「從二位顯氏(あきうぢの)卿」藤原顕氏。藤原顕家の子。内蔵頭(くらのかみ)。鎌倉幕府の行事にしばしば参加し、六条家の歌人(号・紙屋河)としても知られ、鎌倉歌壇でも活躍した。

 

「從三位基輔〔の〕卿」坊門基輔。左近衛中将坊門(藤原)清親の子。

 

「一條中將能基(よしもと)」一条頼氏長男。母は北条時房の娘。

 

「八條中將信通(のぶみち)」坊門信通か。ウィキの「坊門家」に、『基輔や忠信の子の有信の子である信通らは、九条道家に近侍し九条家一門との数代に渡る姻戚関係を築いていた一方で、関東祗候の廷臣として鎌倉幕府の将軍にも仕えるなどして一定の権勢を保っていた』とある。

 

「六條少將顯名(あきな)」藤原顕名。先の藤原顕氏の子。

 

「唐橋(からはしの)少將具忠(ともただ)」関東伺候廷臣。

 

「左の樂」左方。通常は中国・天竺・林邑(りんゆう:ベトナム)系の「唐楽(とうがく)」を奏する。

 

「三臺(だい)」は雅楽の曲名(以下同様)で、正しくは「庶人三台(そにんさんだい/しょにんさんだい)」。唐楽。ウィキの「庶人三台」によれば、「三臺」とは『古代中国の後宮の殿閣の名前に由来するらしい』。この曲は相撲(すまい)の節会(せちえ)の『際に奏されたが、舞は廃絶して現存しない』とある。

 

「泔州(かんしう)」。唐楽。六人又は四人の舞い。玄宗皇帝作とも、シルクロードの要衝であった甘州(現在の甘粛省張掖市)の風俗舞いともされる。

 

「太平樂(たいへいらく)」唐楽。「朝小子 (ちょうこし)」・「武昌楽」・「合歓塩 (がっかえん)」からなる長い合成曲。四人舞い。即位の大礼の後などで演じられる。「太平楽を決め込む」などの謂いはこの曲がすこぶる悠長な曲であることから、「勝手なことを言って呑気にしていること・勝手気ままにふるまうこと」の意となったものである。

 

「散手(さんしゆ)」唐楽。一人舞いの武舞 (ぶのまい) で、番子 (ばんこ:舞楽で舞い人の下役。これと「貴徳(きとく)」に登場し、舞人に鉾(ほこ)を渡したりする) 二人を従える。

 

「羅陵王(らりようわう)」一般には「蘭陵王」と書き、「らんりょうおう」と読み、別名「蘭陵王入陣曲」、短縮して「陵王」とも呼ぶ。唐楽の一人舞い。以下、ウィキの「蘭陵王 (雅楽)」から引く。『華麗に装飾された仮面を被る勇壮な走り舞』い。『林邑の僧である仏哲が日本にもたらしたものと言われ』、『中国風の感じが残ると言われる美しい曲』である。『北斉の蘭陵武王・高長恭の逸話にちなんだ曲目で、眉目秀麗な名将であった蘭陵王が優しげな美貌を獰猛な仮面に隠して戦に挑み見事大勝したため、兵たちが喜んでその勇士を歌に歌ったのが曲の由来とされている』。『武人の舞らしい勇壮さの中に、絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つ』。『この曲の由来となった伝説によると、高長恭はわずか五百騎で敵の大軍を破り洛陽を包囲するほどの名将であったが、「音容兼美」と言われるほど美しい声と優れた美貌であったため、兵達が見惚れて士気が上がらず、敵に侮られるのを恐れ、必ず獰猛な仮面をかぶって出陣したと言うもの』。『男性がこの舞を舞うときは伝説に則して竜頭を模した仮面を用いるが、女性や子供が舞う場合は優しい顔立ちであった高長恭になぞらえてか』、『化粧を施しただけの素顔で舞うこともある』とある。『この伝説に対応する史実としては、北周が兵を発して洛陽を包囲した時、援軍を率い城門の前に到着したものの城内の人間が敵の策謀を疑って門を開けなかったため、高長恭が兜を脱ぎ顔を晒したところ、類いまれな美貌にその正体を悟った門兵が扉を開き、無事に包囲を破って洛陽の解放に貢献したという記述が『北斉書』などの史書に見える』。『龍頭を模した舞楽面を着け、金色の桴(ばち/細い棒のこと)を携える』。『緋色の紗地に窠紋の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、金帯を締める』。『女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに桜の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合がある』とある。

 

「右の樂」右方。通常は朝鮮半島・渤海系の「高麗楽(こまがく)」を奏する。

 

「長保樂(ちやうはうらく)」「長浦楽」「長宝楽」とも書き、「ちょうぼらく」とも読む。高麗楽。四人又は六人舞い。襲装束を着て舞う。

 

「林歌(りんか)」「臨河」とも書く。高麗楽。四人舞い。

 

「狛桙(こまほこ)」「狛鉾」とも書き、「こまぼこ」とも読む。高麗楽。四人舞い。参照した「楽曲解説(高麗楽の部・高麗壱越調)」によれば、『朝鮮の貢ぎ物を運ぶ舟が五色に彩られた棹をあやつって港に入る様子を舞にしたものという。舞人は、近衛役人の乗馬の装束であった錦のへりのついた裲襠装束に巻纓(けんえい)・老懸(おいかけ)をつけた末額冠(まつこうのかんむり)を身につけ』、四人の『舞人が五色にいろどられた棹を持って舞う。舞の途中で,棹をあやつって船をこぐ振りがある』とある。

 

「貴德(きとく)」「帰徳」とも書く。高麗楽。一人舞い。前注で示した「楽曲解説」によれば、『黒竜江の沿岸にある粛慎国の帰徳侯の舞であるという。中国漢の宣帝の神爵年間』(紀元前六一~紀元前五八)『に匈奴の日逐王が漢に降伏して貴徳侯になった(別資料には、漢を封じた匈奴の王が凱旋して帰徳侯になった)という故事によっている。毛べりの裲襠装束に竜甲(たつかぶと)、威厳のある面をつけ、太刀と鉾を持って舞う。面には鯉口と人面の二種があり、貴徳鯉口の面をつけたときは「鯉口吐気、嘯万歳政、天下太平、世和世理」の鎮詞を唱えるというが、今は唱えない。ときとして、番子(ばんこ)という従者が』二人、『鉾を持って舞台の下で舞人に受け渡しをすることもあるが、いま宮内庁楽部ではこの番子の作法は用いていない』とある。

 

「納蘇利(なそり)」「納曽利」とも書く。高麗楽。二人舞い或いは一人舞い。ウィキの「納曽利」によれば、左方の「蘭陵王」の番舞(つがいまい:舞姿の似た演目同士を組み合わせる演目の構成を言う語。雅楽ではこの概ねどの曲も番舞が決まっている)。『紺青色の龍頭を模した舞楽面を着け、銀色の桴(ばち/細い棒のこと)を携える』。『黄色系統の色の紗地に窠紋の刺繍をした袍を用い、その上に毛縁の裲襠 (りょうとう)と呼ばれる袖の無い貫頭衣を着装し、銀帯を締める』。『女性や少年少女が舞う場合もあり、その場合は、舞楽面を着けずに山吹の挿頭花を挿した前天冠を着け、歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧をする場合がある』とある。

 

「伶人」楽人(がくにん)。演奏家。

 

「聞物(もんぶつ)」見聞きべき物。見逃してはならないもの。

 

「天地純粹の元氣」宇宙全体に満ち満ちているところの、ありとあらゆるものを産み出すところの純粋にして玄妙なる精気。

 

「延(の)べて」述べて。人に感得出来るものに変えたもので。

 

「性理靈昧(せいりれいまい)の峻德(しゆんとく)に法(のつと)る」本来の人の性質の原理であるところの霊性の非常に高邁なる徳の法(カルマ)に基づいているものである。

 

「風(ふう)を移し、俗を變へ、」世の風俗を、より良く、より高次なものへと遷移変容させ。

 

「契(かな)ひ」関係性がごく自然で好ましい状態で安定し。

 

「敬(けい)に基き」互いが相手を尊敬すという人倫の道に基づき。

 

「長幼、順に軌(のり)とす」長幼の序は極めて普通に自然に正しく規範として遵守される。

 

「節(せつ)を合せて奏すれば」私はここは「ふし」と振りたい。ここ以下は「鼓腹撃壌」を念頭において文を綴っている。

 

「庶品(しよひん)、樂みに返る」この世の総ての人々は、一切の曇りも翳りもない、原初の心からの楽しみの世界へと帰ることが出来る。

 

「五聲(せい)」「五音・五韻(ごいん)」に同じい。中国及び日本の音楽の理論用語で、音階や旋法の基本となる五つの音。各音は低い方から順に「宮(きゅう)」・「商(しょう)」・「角(かく)」・「徴(ち)」・「羽(う)」と呼び、基本型としては、洋楽の「ド」・「レ」・「ミ」・「ソ」・「ラ」と同様の音程関係になる。

 

「八音(おん)」古代中国の楽器分類法で、材質により「金(きん:鐘)」・「石(せき:磬(けい))」・「糸(し:弦楽器)」・「竹(ちく:管楽器)」・「匏(ほう:笙(しよう)・竽(う))」・「土(ど:壎(けん))」・「革(かく:鼓)」・「木(もく:柷(しゆく)・敔(ぎよ))」の八種に分類する。転じて「各種楽器」又は「音楽」を指す(なお、これとは別に仏教用語として(その場合は「はっとん」とも呼ぶ)如来の音声が具備しているとされる、八つの良い特徴をも指す。それは「極好音」・「柔輭(にゆうなん)音」・「和適音」・「尊慧音」・「不女音」・「不誤音」・「深遠(じんのん)音」・「不竭(ふけつ)音」とされ、「八種清浄音」「八種梵音声(ぼんのんじょう)」などとも呼ばれるが、ここではそれは考えなくてよい)。

 

「律」中国や日本の音楽で音程の単位を指す。十二律(一オクターブ内に半音刻みに一二の音があるので、この称がある。日本では古代に中国の理論を輸入したが、後に日本独自の名称を生じ、主として雅楽・声明(しょうみょう)・平曲・箏曲(そうきよく)などで用いられている)の一段階の差を示し、洋楽の半音(短二度)に相当する。

 

「天文(てんもん)、生成(せいじやう)し」(小さな掌はひらりと舞えば、そこには直ちに)天空、則ち、象徴としての一つの宇宙が生成(せいせい)し。

 

「地理、長育す」(わずかな蹠(あうら)がとんと大地を踏んだだけで、そこには直ちに)広大な大地が誕生し、豊饒の平野や峨々たる山脈と成るのである。

 

「神(しん)、是、聖(せい)」唯一無二の神聖にして不可侵なる存在。

 

「儀表(ぎへう)」模範。手本。

 

「松若、禪王、乙鶴(おとづる)、竹王(たけわう)」孰れも舞いを舞う童子らの名。

 

「童舞の祕曲」童舞いとして伝授されている門外不出の秘曲の舞い。

 

「左の方より管頭(くわんとう)」唐楽方の「竹(ちく)」(管楽器方)のコンサート・マスター。

 

「一越(いちこつ)」演奏の基準音で洋楽の「レ」に近い。呂旋法を使う一(壱)越調のこと。個人サイト「ガクテン」の「extra.2 もっと音階でこれや呂旋法を子細に確認出来る。要必聴!

 

「右近〔の〕將監中原光氏」鶴岡八幡宮楽所の伶人。知られる鶴岡八幡宮蔵の琵琶を弾く「木造弁才天座像」には、何と、「文永三年丙寅九月廿九日/始造立之奉安置舞樂院/從五位下行左近衞將監中原朝臣光氏」と刻銘がある。即ち、あの像の願主こそが彼なのである。参照した「鶴岡八幡宮」公式サイト内の宝物のパートの解説によれば、この像がまさにこの記事の翌年、文永三(一二六六)年九月二十九日に『舞楽院に安置されたこと、その際の願主が中原光氏であることがわかる』とし、まさにこのシーンの「吾妻鏡」の記事を概説した後、『なお、中原光氏の事跡は、ほかに『鶴岡八幡宮寺社務職次第』・『鶴岡八幡宮遷宮記』などにもみえ、逗子市神武寺の石造弥勒菩薩像の光背銘には』「大唐高麗舞師/本朝神樂博士/從五位上行/左近衞將監/中原光氏行年七十三/正應三年庚寅/九月五日」とある。正応三(一二九〇)年に七十三歳で『歿したことからすると、弁才天坐像造立は』四十九歳の折りのことであった、とある。これらから、光氏の生年は建保六(一二一八)年であることが判る。

 

「賀殿(かてん)」雅楽の舞曲。唐楽。一越調。本来は四人舞いの曲。曲は承和年間(八三四年~八四八年)に伝来、舞は林真倉(はやしのまくら)なる人物の作ともいう。

 

「庭上(ていじやう)」庭に控えている者たち。

 

「殊勝さ」特に優れている様子。

 

「當座の眉目」この時、この光氏の玄妙なる舞い姿を見た人々。

 

「奇世(きせい)の伶人(れいじん)かな」「何と、まあ! 世にも稀なる惚れ惚れする楽人(らくじん)であることよ!」。]

佐渡怪談藻鹽草 專念寺にて幽靈怪異をなす事

     專念寺にて幽靈怪異をなす事

 

 元祿年中、世上豐(ゆたか)なる頃、五七輩上相川専念寺に遊(あそび)て、酒肴を運び賄(まかなひ)、碁双六など翫(もてあそ)び、秋の日のもの足(たり)し頃とて、夜陰まで興じ、

「いざや歸らん」

とて刻限をとへば、

「頓(やが)て丑の刻ならん」

といへば、

「さらば爰(こゝ)に寢て、夜明(あけ)て歸らん」

といふ。住僧も、ひたすらとめければ、皆々泊りぬ。猶殘酒くみかわして、咄も數(かず)盡ければ、

「休まん」

といへば、住僧夜のものなど持出(もちいで)、

「麁末なれども、是をめし候へ。やがて夜の明(あけ)なん、暫く休み給へ」

とて、六杖折の屏風一雙引(ひき)廻し、行燈は、其内にてらし、

「風ばし引給ふな」

と挨拶して、庫裏へ引(ひき)ぬ。其跡にて、皆々件(くだん)の夜具引掛臥(ひきかけふし)ぬ。其内には、夜着、ふとん、小袖やうのもの品々ありて、當り果報に主付(つく)事にぞ暫(しばらく)は互に咄などして寢ざりしが、次第に咄もやみ、行燈の火も、或は曇(くもり)、或は照り、定かならず程に、客殿に夥敷(おびたゞしき)物の崩るゝ音しぬ。人々

「是は」

とあきれながら、息をのんで居けるが、暫(しばらく)して客殿の内を歩行(ありきゆく)音して、爰(こゝ)かしこ極らず、やゝありて、庫裏の方をさして來る音也。何(いづ)れも寢て居るは、客殿と庫裏の間なりけるが、頓(やが)て其(その)間の口の三尺戸をさらりと明(あけ)たり。

「あわや、爰へ來りぬるか」

と、安き心もなきに、すでに其間へ來りて、屛風の裏を撫で、二三度往來したりしが、中程の屛風を開きたる處より、椽(たるき)の障子に月の移りてすかしみれば、髮をみだしたる女の影にて、暫く立(たち)ながら寢たる人々を詠め、其内へつと入て端に寢たる人より、壱人壱人裾へ手をかけて、算へるやうにして、三人は過(すぎ)ぬ。四人目の人の着たる小袖をつと剝取(はぎとり)たり。其時は人々夢見る樣に覺(おぼえ)しが、今來りしものは、居るやらん、往(ゆき)たるやらん、跡を見る心も付(つき)ず、たゞすくみくて居たり。

「はやく夜の明(あけ)よ」

と祈(いのり)ぬる時、住僧聲して、

「皆樣御休惡(あし)くや」

とゝひけるとて來れば、地藏菩薩にあふ心して、

「いざいざこれは來り給へ。寢馴(なじま)ぬ所故か、皆々寢入兼(かね)たり。いゝつぞ起(おき)て、御噺可申(おはなしまうすべし)」

といへば、

「如何樣にも寺院なれば、御氣も休むまじ、御伽(おとぎ)に御噺(おはなし)候わん」

とて、燈をともし付(つけ)て、噺ける。客の内より和尚に問(とひ)けるは、

「今爰へ來り給ふ時は、屛風は開(ひらき)て有(あり)し哉(や)、否(いな)」

ととふ。僧のいわく、

「屛風は先程建(たて)たる儘にて有し」

といふ。皆々怪有に思ひて、四番目の着物を見ればなし。かゝる内に、夜明(あけ)たる程に、夜中の事共、亭住に噺して、客殿へ伴ひ行(ゆき)て見れば、近き頃葬人と覺しく、位牌を飾(かざり)、花を供して有(あり)。前にぼけ色にせいかひ浪を染めたる紅裏の女小袖をたゝみて供へたり。何れもそら恐しく、

「何方の人の牌ぞ」

ととへば、

「是(これ)は上相川鍛冶町の何某(なにがし)が妻、久しく煩ひて居たるが、生前に着し小袖とて常に靈前に置き呉(くれ)よと遺言のよしにて、斯(かく)ははからひ侍る」

と答ふ。聞(きく)人舌を卷て歸りぬ。後程過(すぎ)て、右のつれ中の内、噺しけりとかや。

 

[やぶちゃん注:「相川專念寺」現存しない。浄土宗光明山専念寺。当時の相川鍛冶町にあった。現在の佐渡金山の東南直近である。慶長元(一五九六)年創建、明治元(一八六七)年に廃寺。

「元祿年中」一六八八年から一七〇四年。

「秋の日のもの足(たり)し頃」「日」はここは「夜」、秋の「夜長」で、その夜遊びの時間が十分にある(足りてある)頃のこととて、の謂いであろう。

「丑の刻ならん」午前二時頃。

「ひたすらとめければ」帰ろうとする者をしきりに止(と)めて、泊まってゆくように慫慂したので。

「夜のもの」夜着・夜具の類い。

「麁末」「そまつ」。粗末。

「風ばし引給ふな」「ばし」は強調の副助詞(係助詞「は」+副助詞「し」が付いたものが「ばし」と濁音化して一語となったたもの。会話文に多出)。~なんど。~なんぞ。

「庫裏」「くり」。

「當り果報に主付(つく)事にぞ」不詳。それぞれに夜着として選んだことを「主付」く「事」と謂い、前の「當り果報に」とは、その選んだ品によって寒かったり暑かったり、ごわついていたりしてハズレもある一方、温みも丁度良く、柔らかく気持ちがよいという「果報」に「當」ることもあり、という意味か? そうした様子を「果報は寝て待て」の諺に文字通り、洒落た謂いかも知れぬ。トンデモ解釈であれば、御指摘戴きたい。

「行燈の火も、或は曇(くもり)、或は照り、定かならず程に」室内奥(後で「寢て居るは、客殿と庫裏の間」でありしかも「其間の口には「戸」もあって閉められているとある)で屏風の蔭に置かれているにも拘わらず、灯が怪しく点滅するのは既にして怪異出来(しゅったい)の兆しである。

「爰(こゝ)かしこ極らず」その足音はそこかしこどこへ向かっていると定まらずに、かなり激しく動いているのである。この動き自体が、その何者かが、特定の何かを焦って探していることを読者に伏線として伝えているのである。

「三尺戸」九十一センチ弱。戸の横幅であろう。

「屛風の裏を撫で」実際に手で撫でているともとれなくもないが、ここはその者の着衣が屏風にふれてさらさらと音を立てていると読みたい。

「中程の屏風を開きたる處」開いた屏風の中央の蝶番の附いているその縦の隙間であろう。

「椽(たるき)の障子」縁側と室内を隔てる障子。

「月」月光。

「移りて」「映りて」。

「暫く立(たち)ながら寢たる人々を詠め」この描写からすると、屏風はそれほど大きくはないものであるよう思われる(住持が一人で軽く持てる程度のそれである)。少なくとも、女(の亡霊)が屏風の裏から寝ている者らを眺め渡すことが普通に出来る程度には低い

「其時は人々夢見る樣に覺(おぼえ)しが、今來りしものは、居るやらん、往(ゆき)たるやらん、跡を見る心も付(つき)ず、たゞすくみくて居たり」見えているが、それに応じた能動的対処行動が起こせないという怪奇現象、所謂、「金縛り」である。

「御休惡(あし)くや」「お眠りになれぬか?」

「地藏菩薩にあふ心して」この時代の地蔵信仰の一般的感覚がよく伝わってくるではないか。

「いゝつぞ」不詳。副詞の「一層(いつそ(いっそ))」でとっておく。

「御氣も休むまじ」「辛気臭ければこそ、お気持ちも安んずることがないので御座ろう。」。

「御伽」話し相手をつとめることの丁寧表現。

『「今爰へ來り給ふ時は、屛風は開(ひらき)て有(あり)し哉(や)、否(いな)」ととふ。僧のいわく、「屛風は先程建(たて)たる儘にて有し」といふ。皆々怪有に思ひて』おのシーンは実は、先の女の亡霊は開いてあった屏風(その左右にはそこを廻り抜けられるほどのスペースはないと措定する)の向こう側から、者どもの寝ている側に入る際、屏風を透過して(者どもは倒して、或いは片側へ閉じて、と認識した)真っ直ぐに入ってきたと見ていた。だのに屏風が彼らが寝る前の状態と変わっていなかったから、「怪有」(「かいある」と訓じておく)事「に思」うたのである。前の女怪出来のシークエンス(そこもある種の描写不全がある)との照応の悪さが感じられる。

「四番目の着物」引っ被っていた物を女怪が剝ぎ取ったように見えた先の「四人目の」男の夜着。

「亭住」亭主。「亭」主である「住」持。しかしこんな語は私は今まで見たことがない。単なる原本の「亭主」の誤りではないか。

「葬人」音読みしているか。しかし私は「はうふりしひと」と訓じたい。

「ぼけ色」「木瓜色」。被子植物門 Magnoliophyta 双子葉植物綱 Magnoliopsida バラ目 Rosalesバラ科 Rosaceae サクラ亜科 Amygdaloideae リンゴ連 Maleae ボケ属 Chaenomelesボケ Chaenomeles speciosa の花は淡紅・緋紅・白と紅の斑・白などがあるが、私はあとの染め模様からみて、地の「木瓜色」とはまさに薄くぼけた淡紅ととりたい。

「せいかひ浪」「青海波(せいがいは)」のことで、そう読んでもいるものであろう。グーグル画像検索「青海波 文様」をリンクしておく。

「上相川鍛冶町」現在の佐渡金山の東南直近。

「中の内」「なかのうち」。]

チャップリンの「殺人狂時代」   梅崎春生

 

 ついに、ヴェルドゥ氏は捕えられ、法廷に引っばり出される。そこで彼は立って、抗言する。今、世界は、人類抹殺を奨励している。大量殺害の武器が、競争的に製造されているではないか。しかるに、自分の人類抹殺業は、ごく小規模の事業であり、自分のやり方は、ほんのアマチュアに過ぎない。大物を罪せずに、この自分を罰するのは、不合理というものではないか。

 暑い日の午後、「ムッシュウ・ヴェルドゥ」を観た。いろいろ問題はあるとしても、久しぶりのチャップリンの作品であるし、とにかく面白かった。

 ヴェルドゥ氏は、殺人者である。小金を持った独身女に、色仕掛けで取り入り、機会を見つけて殺害し、その財をうばうことによって生きている。それが彼の事業(ビジネス)なのである。そしてそれで、彼は、可愛い妻子を養っている。チャップリンの言によれば、十九世紀初めの殺人鬼トマス・ウェインライトと、青髯(ひげ)ランドリュの二人の性格ややり口をモデルにして、このヴェルドゥ氏をつくり上げたと言う。殺人者を喜劇に仕立てたところに、「奇妙な味」が出てきている。こういう「奇妙な味」は、むしろ、現代アメリカの好尚であろうと思われるが(現代アメリカの文学や演劇を通じて見て)、しかしこの映画は、米国では、極度に不評であったと伝えられる。

 また、獄舎で、インタービューに来た新聞記者に、彼は語る。数人を殺せば悪漢となり、百万人を殺戮(さつりく)すれば、英雄と呼ばれる。大量殺人が、戦争という名目で赦(ゆる)されているのは、可笑(おか)しな話ではないか。

 しかし、ヴェルドゥ氏は、死刑を宣告される。彼は法廷の人々に言う。

「極めて近いうちに、あの世で皆さんと、お目にかかりましょう」

 そして、いつものチャップリン映画と同じように、看守たちにはさまれた彼の後姿は、断頭台に向って、だんだんと遠くなってゆく。そこで、終り。

 以上で判るように、今までのチャップリンの映画と、かなり趣きを異にしている。またチャップリンの扮装にしても、れいの髭(ひげ)とドタ靴を捨てて、新しいチャップリンとして出て来ているし、トーキーだから、今までみたいに黙劇でなく、自由にしゃべりまくる。観念の骨格が初めにあって、そこから喜劇が展開されるところは、アメリカ伝統の喜劇というよりは、ルネ・クレエルのある種の作品に近似している。もちろん、その主題は、戦争や原爆というものに対する、強い抗議。

 この映画が、アメリカで不評であったのは、大半はそんな主題のせいなのだろう。そういうものを産み出さざるを得ない資本主義を、この映画ははげしく批難し、攻撃しているから。しかし、不評の因は、それだけではなかろう。

 かつてのチャップリンのオールドファンが、この映画におけるチャップリンの変貌に、ついて行けなかったのではないか、とも思われる。つまり、素朴な涙と哀傷と笑いと、それに始まり、それに終ったかつてのチャップリンは、この映画の中にはいない。ヴュルドゥ氏の中にある社会文明風刺は、彼の自然の演技から、自然に出て来たものではない。最初からはっきりと意図された、観念的骨組をもった風刺なのである。「偉大なる独裁者」は見ていないが、「ヴェルドゥ氏」は、それ以前の彼の作品とは、歴然と異質的なものであるように思われる。

 しかし、そんな観念的な意図というものは、映画の視覚的な実体と、しばしば遊離し勝ちなものである。その点で、この映画は、も一歩すすめば、映画としてはバラバラになってしまう危険性をはらんでいる。限界すれすれのところで、やっとまとめ上げられたような作品だ。同じ主題に関する限りでは、英国映画の「戦慄の七日間」の方が、見ていてムリがなかったように思う。「ヴェルドゥ氏」においては、そういう大上段的な主題と、チャップリンのミミックな演技が、時として、水と油のような不融和を感じさせるようだ。観る人によって、その印象は異なるだろうが、私は観ながら、しばしばそれを感じた。

 それにも拘らず「ヴェルドゥ氏」におけるチャップリンの演技は、今までの彼のどの作品よりも見事であり、洗練されている。俳優として、ほとんど最高の完成を感じさせる。その演技の、主題との微妙な食違いは、もうこれは余儀ないことだろう。完全に一致させるためには、チャップリンは、もうチャップリンでなくならねばならないだろうから。

 

 いろいろ文句はあるとしても、この映画は、チャップリンが自ら歩み、そこに打ち立てた大きな里程標であり、そういう意味でも、「一見に価する力作」とでも言うべきか。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年十月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「殺人狂時代」(Monsieur Verdoux)はチャールズ・チャップリン(Charles Spencer "Charlie" Chaplin 一八八九年~一九七七年:イギリス・ロンドン出身)製作・監督・脚本・主演になる一九四七年のアメリカ映画(作中の舞台設定はフランス)。日本での公開はこの一ヶ月前の九月二日。シノプシスはウィキの「殺人狂時代(1947年の映画)」などを参照されたい。同記載に本作を『生前、チャップリン自身がこの映画を最高傑作と評価していた』とあるが、私も後に「偉大なる独裁者」と出るヒットラーとナチズムをテツテ的にコケ下ろした「独裁者」(The Great Dictator 一九四〇年:アメリカ映画。やはりチャップリンの製作・監督・脚本・主演で、チャップリン映画初の完全トーキー作品。梅崎春生は『「偉大なる独裁者」は見ていないが』と述べているが、実は日本で「独裁者」が公開されたのはこの記事の八年も後の昭和三五(一九六〇)年十月二十二日であった)とどっちが好きか? と聴かれたら、ちょっと迷った末に「ムッシュ・ヴェルドゥ」を挙げるであろう。私は芝居も映画も本来、喜劇は好きでないからである。なお、主人公の名“Verdoux”であるが、私は後に出る「青髯」(フランス語: Barbe Bleue/英語:Bluebeard)のアナグラムと勝手に思っていたが、これについて、てん氏のブログ「Dancing the Dream 」の『今じゃ笑えない「殺人狂時代」~チャップリンの痛烈な皮肉』に、『「Verdoux」って、「Ver」+「doux」じゃないかしら?』『現代フランス語の ver」は、「蛆虫」「幼虫」などを意味する男性名詞』で、『「doux」は、「温和な、穏やかな、やさしい、おとなしい、柔和な」という意味』とあり、これはすこぶる首肯出来るものであった。則ち、“Monsieur Verdoux”とは――見た目は、車椅子の妻と可愛い息子の面倒をみる「優しいおじさん」、しかし、実は平気で女を騙しては殺害し、焼いて抹消する「人でなしの蛆虫オヤジ」――という謂いという説である。なお、ウィキによれば、『一方で、この作品がきっかけとなり、赤狩りによるチャップリン排斥の動きがますます加速』し、一九五二年の『アメリカ追放へとつながった』とある。撮影が終了して『後は公開するだけとなった段階で、チャップリンに対する非難は手の付けられないレベルに達していた。在郷軍人団体やカトリック団体などが猛烈な上映反対運動を繰り返し、上映を予定していた映画館などに脅迫を繰り返して上映をやめさせる動きを盛んに行った。こうした妨害を何とか排除しつつ』一九四七年四月十一日に『ニューヨークで封切られたが、興行成績は悲惨なもので』、『チャップリン映画で唯一純損失が出た映画でもあった』。『アメリカでこの作品が正当に評価されるようになったのは、ベトナム戦争に対する反戦運動が高まった』一九七〇年代になってからであった、とある。

「トマス・ウェインライト」十九世紀イギリスの文学者にして主に保険金目当ての連続殺人鬼トーマス・グリフェス・ウェインライト(Thomas Griffiths Wainewright  一七九四年~ 一八四七年)。AKIRA氏のブログ「殺人鬼資料館」の「トーマス・グリフェス・ウェインライト」によれば、一八二九年に『自らの祖父を保険金と遺産目的に毒殺。その後も義母、さらに妻の連れ子にも保険金をかけたうえで毒殺したディケンスやド・クインシーの友人でもあった文学者』。『彼は教養人ではあったが遊び好きで、財産を使い果たして保険金殺人を計画した。しかし続けて三人もの身内が急死したことで死因に不審を抱いた保険会社が支払いを拒否。裁判で争ううちに警察も動き出し、ストリキニーネによる毒殺が明るみになって逮捕された』。『彼は保険金目的の他に、妻の連れ子を毒殺した動機について「たしかに悪いとは思ったけど、あの娘は足首が太かったから仕方なかったんだ」などと理解しがたい供述をし、この話をオスカー・ワイルドが「芸術と犯罪」という本に殺人エッセイとして紹介したりもした』。『当時の法律により、流刑を言い渡されたウェインライトはその後、絵画を描いたりして余生を過ごしたという』とある。

「青髯(ひげ)ランドリュ」女性十人と少年一人を殺害したフランス人アンリ・デジレ・ランドリュー(Henri Désiré Landru  一八六九 年~一九二二年)。サイト「殺人博物館」の「アンリ・デジレ・ランドリュー」が詳しい。ストーブで殺人遺体を焼くというMonsieur Verdouxの死体処理設定は明らかに彼の犯行事実と一致する。なお、映画の主人公の姓名も“Henri Verdoux”である。

「数人を殺せば悪漢となり、百万人を殺戮(さつりく)すれば、英雄と呼ばれる。」"Wars, conflict, it's all business. "One murder makes a villain. Millions a hero". Numbers sanctify."(「戦争・紛争、それはすべてビジネスである。『一人の殺人は一人の悪役を創り出す。何百万人ものそれは英雄を産む。』数が殺人を神聖なものにする。」。この引用部分はウィキの「殺人狂時代(1947年の映画)」によれば、『元は英国国教会牧師で奴隷廃止論者であったベイルビー・ポーテューズ』(Beilby Porteus (or Porteous) 一七三一年~一八〇九年)の言葉であるとする。

「ルネ・クレエルのある種の作品」「ルネ・クレエル」はフランスの映画監督ルネ・クレール(René Clair 本名:ルネ=ルシアン・ショメット René-Lucien Chomette 一八九八年~一九八一年)。「ある種の作品」は「自由を我等に」(À nous la liberté 一九三一年作で本邦での公開は昭和七(一九三二)年)辺りか。

「不評の因は、それだけではなかろう」この時期、チャップリンは完全に共産主義者のレッテルを貼られていた。

「戦慄の七日間」ジョン・ブールティング(John Edward Boulting 一九一三年~一九八五年)監督の一九五〇年のイギリス映画Seven Days to Noon。調べて見たところでは、核兵器絡みのパニック・サスペンス映画らしい。私は未見。

「ミミック」mimic。ここは「笑わせるために(チャップリン的な特定の門切的喜劇的仕草を)繰り返す」の謂いであろう。]

諸國百物語卷之三 二 近江の國笠鞠と云ふ所せつちんのばけ物の事

     二 近江(あふみ)の國笠鞠(かさまり)と云ふ所せつちんのばけ物の事

 

 近江のくにこんせと云ふ所に笠鞠と云ふ、ざいしよあり。このざい所の、さる人の家のせつちんに、ばけ物ありとて、人、ゆく事なし。風ふくときは毛のある手にて、しりをなづると云ふ。さるもの、これをきゝて、ばけ物のやうすを見とゞけんとて、せつちんにはいり、まちかまへゐければ、風ざつとふくとひとしく、あんのごとくくだんのばけ物、毛のはへたる手にて、しりを、しきりに、なでけるほどに、やがて手をさしおろし、しかととらへてみければ、薄の穗にてありけると也。在郷(ざいごう)にての事なれば、せつちんの下に薄のはへのびたるが、風ふくときは薄の穗風になびきて、尻にさはりたるが、毛のある手にてなづると、みな人おもひけると也。そのゝちすゝきを苅(か)りてすてければ、ばけ物もやみける也。

 

[やぶちゃん注:今までにない、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」そのまんまの実録物で特異点。なお、この知られた諺は、一般には横井也有(やゆう 元禄一五(一七〇二)年~天明三(一七八三)年)の俳文集「鶉衣」(うずらごろも:作者の死後に大田南畝により前編が天明七(一七八七)年、後編が翌天明八年に出版され、さらにその後に石井垂穂により続編と拾遺が文政六(一八二三)年に出版された)にある「化物の正體見たり枯れ尾花」が変化したものとされるが、しかし「諸國百物語」はそれに先立つ十年前の延宝五(一六七七)年の成立である。無論、ここでは「幽霊」ではなく「ばけ物」であり、「枯れ尾花」ではなく枯れかける前の「薄の穗」ではある。しかし、寧ろ、この話柄自体が野有の「化物の正體見たり枯れ尾花」の長歌のようにも読める。そこがまた、面白い。

「近江(あふみ)の國笠鞠(かさまり)」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本話の脚注に、『正しくは上山依(かさまわり)村。金勢荘に属していた』とある。次の「こんせ」の注も参照のこと。

「こんせ」同前の脚注に、『金勢(こんぜ)荘。現滋賀県栗田郡栗東町』とある。同地区は滋賀県の南西部に位置し、現在は滋賀県栗東(りっとう)市となっている。但し、ネット検索では「金勢」の「こんぜ」は見当たらず、「金勝中村(こんぜなかむら」という村名なら見出せる。「栗東歴史民俗博物館」公式サイト内の「小地域展 御園の歴史と文化」の解説に、『栗東市御園(みその)地区は、金勝川と細川の流域に広がる平野部とその周辺の丘陵地に位置し』、同地区内は明治』七(一八七四)年に『成立した旧御園村域に相当する古くからの集落がある地域と、昭和』四四(一九六九)年に『開場した栗東トレーニングセンターの敷地にあたる地域の二つにわけることができ』、『旧御園村域には、中村、山入、蔵町、辻越、上田、御園の』六つの『集落があり、江戸時代は金勝中村(こんぜなかむら:中村、山入、蔵町)と上山依村(かざまわりむら:辻越、上田、御園)の二村に分かれてい』た。『御園村はこの二村が明治』七年に『合併して成立し』たとある。

「在郷(ざいごう)にての事なれば」田舎にてのことであるから。言わずもがなであるが、当時の雪隠(厠)は居住家屋とは別に外に建てられるのが当たり前で、ごく在所の場合は、野に掘った糞壺の穴に跨ってするのも一般的で、糞壺に薄も生えたし、遮蔽などもお粗末なものであったから、薄の穂が風に吹かれて糞をする人の尻を撫でることは幾らもあったのである。]

2016/10/02

佐渡怪談藻鹽草 頰つり姥が事

     頰(ほゝ)つり姥が事

 

 井坪(いつぼ)村に年老たる女の有(あり)しが、左の頰は落(おち)くぼみ、目のむけかへりて、いとあやしき顏付に侍れば、

「珍敷(めづらしき)顏かな」

と處のものに尋(たづね)しに、

「其事に侍れ。生れ付の顏にも候わず。あのばゝ若き時、此(この)所に薪のなき處にて、草を刈置(かりおき)て、冬より春迄の焚ものにし侍る。夏の間に刈置て、にほふといふ物にいたす也。其草をかりしに誤(あやまり)て、眞蟲(まむし)の草の中に居るをしらず、鎌にて首を切(きり)しよりあさましくおもひて、そこら尋(たづね)見れども、首はいづくへか飛けん、見えざりければ、すべきよふなくて歸りしに、其年もくれて春の頃、彼(かの)柴をとりに行(ゆき)しに、柴の中より去年切(きり)し蛇の首と覺しくて、目を見張(はり)て飛かゝり、頰に喰付(くひつき)しかば、

『あ、いたし』

とて、蛇の頭をとらへ、我頰ともに鎌にて切(きる)。頓(やが)て蛇顏共に打(うち)碎き捨(すて)、其跡に草など付侍(つきはべり)しかば、次第にいへたりしかど、あの如くかたわに成り侍(はべり)し。されど、蛇は毒氣の強きものなるに、我身を惜しく侍らば、腐入(くさりいり)て、命もあやうく侍らん、いと健にけなげなる女にこそ」

とかたりし。

 

[やぶちゃん注:「井坪(いつぼ)村」佐渡市井坪。小佐渡南の真野湾側の沢崎寄り。航空写真を見ると、現在の同地区は海岸部から内陸にかけて細長く、中央に平地があるが、その左右は山で谷も多い感じである。マムシの棲息しそうな感じはする。

「目のむけかへりて」目が飛び出たようになっており、の意か。

「焚もの」「たきもの」。燃料。

「にほふ」不詳。いろいろな表記い変えて調べて見たが判らぬ。ともかくも焚き物の燃料とする干し草の謂いであることだけは判る。佐渡の地の方、或いは井坪にお住いの方、御教授戴けると助かる。

「眞蟲(まむし)」脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 爬虫綱 Reptilia 有鱗目 Squamata ヘビ亜目 Serpentes クサリヘビ科 Viperidae マムシ亜科 Crotalinae マムシ属 Gloydius ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。佐渡にも棲息する。ブログ「上横山自然公園をつくる会」の「佐渡カケスの瓦版 佐渡のヘビ」に、『「マムシ」にも、佐渡には、見掛けがちがうパターンレス個体や黒型が大佐渡山間を中心に多く存在するので、紛らわしい』とし、『このマムシのパターンレス個体には、ヤマカガシの短系関西型個体に似たものがおり、見分けが厄介で』あるとある。

「其跡に草など付侍(つきはべり)しかば、次第にいへたりしかど、あの如くかたわに成り侍(はべり)し」この部分、意味がとりにくい。

――其跡に草など」が附着していたので、その草の薬効で「次第にいへた」けれども、「あの」ように障碍者「に成」ってしまったので御座る。――

ともとれるし、逆に、

――「其跡に草など」が附着していたのをほおっておいたために、その草のせいで(草に毒性があったか、或いは草に腐敗菌が付着していたかして)時間が経つうちに死には至らず「いへた」けれども、「あの」ような障碍者「に成」ってしまったので御座る。――

ともとれる。説明者の意図はどちらかであろうが、真相は孰れともとれるとは思う。眼球が腫れあがっているのは恐らく、マムシの毒がすでに眼の方には廻っていたものかも知れぬし、或いは鎌に細菌が附着していた可能性もあり、二次感染によって眼疾患が発生したとも考え得る。

「健に」「すこやかに」と訓じておく。]

佐渡怪談藻鹽草 小林淸兵衞狢に謀られし事

     小林淸兵衞(せいべえ)狢(むじな)に謀られし事

 

 元祿年中の事にや有(あり)けん。小林淸兵衞といへる役人【當時は上川と改】有けるが、澤崎(さわさき)浦目付にて侍りしに、九月中頃、磯に出て魚を釣(つら)んとて、釣竿うちかたげ、いつも行(ゆく)所へ濱傳ひに行(ゆき)ぬ。折しも秋の日の定(さだめ)なく、小雨降(ふり)ていとしめやかなる、蓑笠着たるものの行(ゆく)先に、釣り竿たれて居たるに、

「何と魚を釣(つり)たるや」

と聲をかけしに、答もせで打(うち)うつむきて居たりしかば、重(かさね)て

「いかにや」

ととへば、何のいらへもせで、向ふなる岩へ飛越(とびこえ)、見れば人にはあらで、狸の竿をもてるなり。

「惡きやつかな、海の中へ追入(おひいり)なん」

と思ひて、陸の上方より、手揚(あげ)て、追(おひ)ければ、あはや海へ落入(おちいり)なんと見へしが、山の方に葬禮の音して、泣聲など聞えければ、ふりあをぎし間に、件(くだん)の狸は、いづちへ行(ゆき)けんか、ひけちて失(うせ)し。また葬送もなく、

「さてさてはかられし事のくやしかりし」

と語られけり。畜類ながらも、いとかしこき事にこそ。

 

[やぶちゃん注:「小林淸兵衞」改姓後の「上川」でも不詳。

「元祿年中」一六八八年から一七〇四年。

「澤崎(さわさき)浦」現在の小佐渡の最西端の佐渡市沢崎。小木海岸。]

三好十郎   梅崎春生

 

 三好十郎について、何か書けと、「群像」子が言う。私じゃなくても、他に適当な人がいるだろうと断ると、適当な人が全然いないのだという答え。つまりそれほど、文壇附合いのない人なのである。そこで、近所に住んでいるだけの故をもって、私が素描を試みねばならないことになった。麻生三郎氏の素描は、まことに三好さんの全貌を適確にとらえているが、それほどの附合いもない私が、うまく行くかどうか。現実の人間をとらえるのは、私は全く不得手なのである。

 

 三好さんの姿を京王線下高井戸駅附近で、私は時折見かける。背は高くないが、しごく厚味のある体つきで、時には現場監督みたいな感じを受けることもある。ベレー帽、マドロスパイプ。これらがまたそういう風貌にぴったりしているのは不思議である。そして三好さんは、空気を押し分けるようにして、のっしのっしと歩く。

 十日ほど前も、駅前のパチンコ屋で、パイプを横ぐわえにして、せっせと玉を弾いている三好さんの姿を見た。玉の行方を一々見守るような素人(しろうと)芸ではなく、入れては弾き入れては弾く、あのクロっぽいやり方である。受皿をのぞくと、相当玉がたまっていたところを見ると、相当の手練だと思われた。パチンコ台の前でも、三好さんの姿はゆるぎはない。ぴったりしている。

 

 強さ、がある。鋼鉄のような強さではなく、自然物の強さ。精練されて出来た強靭(きょうじん)さと言ったようなもの。一徹という感じ。

 九州佐賀というところは、ムツゴロウだのガンヅケだの、他県では食べないようなものを名物とするほど、貧しい土地であるが、こういう土地からは、妙に強靭で頑固な性格の型が出る。三好的強さが、すべてそこから発しているとは思わないけれど、もっと複雑な後天的要素が加わっているとは思うけれども、いくらかはそこにも、関わりがあるだろう。

 都会的な青白さと、正反対のもの。澄み渡ろうとするより、進んで濁りに赴くことで、自分の生を確かめようとする型。

 そういう強さは、自らをとざす方向にも進むが、また強い影響で他をもとらえる。

 三好さんの門弟(?)が組織している劇団がある。その舞台稽古を、下高井戸附近の某寺の本堂で、三好さんと共に見たことがある。その時の若い演出者の態度や姿勢や口ぶりに、私は三好的なものの影響を強く感じた。動作のはしばしにまで、影響顕著なのである。

 どうもその時、稽古の若い女優さんたちに、元気がなかった。演出者がいろいろ注意するのだが、何だか銷沈してはっきりしない。演出者は躍気になる。

 その時、鬱然とそれを見ていた三好さんが、ぐいと立ち上った。

「どうして元気がないんだい。え。何か訳でもあるのか。ひとう、体操をやろう、体操を」

 そして三好さんは、自ら腰に手を当て、踵(かかと)を上げ膝を極度に深く曲げる体操を、大きな掛声をかけてやり始めた。この体操は、若い女性には、割に不向きなのである。自然と動作が中途半端になるのを、三好さんは叱咤した。

「だめだ。もっとぐつと曲げて。恥かしがって、何が出来るもんか。一、二、一、二」

 気の弱い私などは、体操中の女優さんの恰好を正視することが出来ず、本堂の奥の仏像を眺めたり、扁額の文字を読むふりをしたり、そんなことばかりしていた。

 

 三好十郎は、今まで自分流だけで進んで来たし、また死ぬまで、自分以外の流儀では歩かないだろう。その流儀の是非は別として、その行き方は、現代においては珍重すべきものであるだろう。現代には、あまりにも右顧左眄(うこさべん)の型が、多過ぎるのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年八月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「三好十郎」(明治三五(一九〇二)年~昭和三三(一九五八)年)は小説家・劇作家。佐賀県佐賀市生まれ。早稲田大学英文科卒。ウィキの「三好十郎」によれば、『早稲田大学在学中から試作を発表し、プロレタリア劇の作家として活動を始めた。その後、左翼的な活動に疑問を覚えたとして組織を離脱』、『戦後は、近代の既成文学全般への批判を貫き、無頼派の一人といわれる』。代表作は「炎の人」(昭和二六(一九五一)年九月『群像』)。私は彼の舞台作品を幾つも見たが、遺憾ながら、感動したことは一度もない。従って、以下、注にもやる気が出ない。「三好さんの門弟(?)が組織している劇団」というのも、あそこかな? という気はするが、調べる気もさらに起こらない。悪しからず。

「麻生三郎氏の素描」底本ではこの後に全集編者による『この文章は「顔」という連載エッセイのために書かれたもので、この欄には毎号、著名画家による似顔絵が添えられていた。』とある。「麻生三郎」(大正二(一九一三)年~平成一二(二〇〇〇)年)は洋画家・武蔵野美術大学名誉教授。彼の絵にも私は心動かされたことはない。

「ムツゴロウ」条鰭綱 Actinopterygii スズキ目 Perciformes ハゼ亜目 Gobioidei ハゼ科 Gobiidae オキスデルシス亜科 Oxudercinae ムツゴロウ属 Boleophthalmus ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris。日本・朝鮮半島・中国・台湾に分布するが、日本での分布域は有明海と八代海に限られている。ウィキの「ムツゴロウ」によれば、『旬は晩春から初夏で、漁は引き潮の間に行われる。逃げるときはカエルのように素早く連続ジャンプするので、捕えるのは意外と難しい。巣穴に竹筒などで作った罠を仕掛けて巣穴から出てきたところを捕獲する「タカッポ」や、巧みにムツゴロウをひっかける「むつかけ」などの伝統漁法で漁獲される』。『肉は柔らかくて脂肪が多い。新鮮なうちに蒲焼にするのが一般的で、死ぬと味も落ちる。ムツゴロウの蒲焼は佐賀県の郷土料理の一つである』。罐詰のそれを食ったことがあるが、美味いとは思わなかった。

「ガンヅケ」甲殻亜門 Crustacea軟甲綱 Malacostraca 真軟甲亜綱 Eumalacostraca ホンエビ上目 Eucarida 十脚(エビ)目 Decapoda 抱卵(エビ)亜目 Pleocyemata 短尾(カニ)下目 Brachyura スナガニ上科 Ocypodoidea スナガニ科 Ocypodidae スナガニ亜科 Ocypodinae シオマネキ属 Uca シオマネキ Uca arcuata の肥大した鋏脚を塩漬けにした有明海沿岸地方の珍味。但し、現在は同種は本邦では絶滅危惧II類(VU)となり、販売されている「がん漬(づけ)」の原材料は総て中国産である。それでも結構、酒の肴としては、いける。

「右顧左眄」右を見たり、左を見たり、周囲の情勢を窺ってばかりで決断しないこと。]

伊藤 整   梅崎春生

 

「その性格は円満にして大度、その認識は透徹して明晰、その理想は堅固にして緻密、その学識は深くして広く、温容は玉のような伊藤整氏云々」

「伊藤整氏の生活と意見」その九の冒頭に、そういうことが書いてある。誠にそうだろう。玉と言っても、宝玉からパチンコ玉まで色々あるが、軟かそうに見えてもその実はかたい、たとえばしっとりと光をたたえた古い勾玉(まがたま)のような玉を、私は伊藤整氏の風貌に連想する。このふしぎな勾玉は、どこかに置けばぴったりするに違いないが、今のところはどんな周囲ともぴったりしない。そういう奇妙な色と光を伊藤整氏はもっている。

 私は彼の姿を、時々あちこちで見かける。街のなかで、建物のなかで、みすぼらしい飲屋のなかで。どんな場所に置いても、伊藤整氏はそこの空気と調和していない。まるで鋏で切り抜かれてはめこまれた人物のように見えるのだ。おそらく法廷においても、伊藤整氏の姿はことにそうだろう。全身をもって法廷の不法に抗議し反抗はしていても、あの眼鏡の向うに柔かく光っている眼は、ただひたすら、自らの雪明りの路だけを眺めているに違いあるまい。彼に「伊藤整氏の生活と意見」を書かせるものは、彼にひそむ孤独の悲しみであり、彼生来の詩人的な資質の故であろう。そして、詩人がああいう戯文を書かねばならぬということは、伊藤整氏の不幸というよりは、むしろ現代の不幸なのである。

 こういう人物の風貌を描くことは、まことにむつかしい。

 私は一昨年の本誌にある小説を書き、その中で二瓶(にへい)という人物をこう描いた。

「……小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出て行くような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような皺(しわ)をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他と完全に意識したような、そしてそれがぴったりと身についた、擬似の典雅や柔軟さがあった。身体や顔が全体に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛型かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は老獪な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。……」

 この二瓶という人物を描く時に、ほんのちょっぴりではあるが、私は伊藤整氏の風貌を、思い浮べていなかったわけではない。しかし伊藤整氏にあっては、本当の意味で、韜晦しているのは彼の方ではなく、彼を取巻く周囲の現実なのであろう。それに対する憤りや悲しみが、彼に自然とミミックの形をとらせる。もしも彼に、たとえば戦車(タンク)のような資質があれば、それを破砕して進むだろうが、彼にはそんな野蛮な強さはない。彼は光線を内側に折れ曲がらせては吸い込む、一箇のしずかな孤独な勾玉なのである。彼の眼は、現実に対しながら、現実の彼方にあるものを、常にある感じをもって眺めている。

 彼の『冬夜』というすぐれた詩集の中に、「もう一度」という詩がある。

 

  みんながあの日の服装で

  あの日の顔つきで 落葉松(からまつ)の緑が萌えている道を

  笑いながらもう一度やって来ないかな

  そのときこそは間違いなく

  本当に生き直したい

  過ちをすべてとりかえしたい

 

 こういう柔軟な魂が、法廷に立たねばならなかったということ。これが現代日本の歪みでなくて何であろうか。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年三月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇には特異的に底本編者による割注が三ヶ所も入る。本文では除去したが、必要な注ではあるので以下の注で示し、補足した。なお、最後に引く伊藤整の詩の題は底本では実は「もう一集」となっている。私は実は詩人としての伊藤が小学生の時から好きなのであるが、これは「もう一度」の誤りである。特異的に訂した。以下、梅崎春生の引く「もう一度」を私の所持する正字版の新潮文庫「伊藤整詩集」から引いておく。春生の引用には最終行に致命的な脱落があるからである。

 

  もう一度

 

みんながあの日の服裝で

あの日の顏つきで 落葉松の綠が萌えてゐる道を

笑ひながらもう一度やつて來ないかな。

そのときこそは間違ひなく

本當に生き直したい

あの過ちをすべて とりかへしたい。

 

「伊藤整」(明治三八(一九〇五)年~昭和四四(一九六九)年)北海道松前郡炭焼沢村(現在の松前町)生まれ。梅崎春生より十歳年上であるが、親しかった。彼の逝去時、私は中学一年であるが、何故か、その年の大晦日の新聞に掲載された著名人の最期の言葉に、彼は何かを貰ったことに対して「もったいない」と言った、とあったのをずっと忘れないでいる。

「伊藤整氏の生活と意見」一九五三年河出書房刊。私は当該書を所持しない(ということは未読である)ので確認不能。

「おそらく法廷においても」の「法廷」の後には、底本では底本編者による『D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で伊藤整が猥褻文書頒布罪に問われたことを指す。』という割注が入る。以下、ウィキの「チャタレイ事件」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。イギリスの作家デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence 一八八五年~一九三〇年)の作品「チャタレイ夫人の恋人」(Lady Chatterley's Lover 一九二八年:ウィキの「チャタレイ夫人の恋人」からシノプシスを引く。『炭坑の村を領地に持つ貴族の妻となったコンスタンス・チャタレイ(コニー)だったが、蜜月もわずかなままに、夫のクリフォード・チャタレイ准男爵は陸軍将校として第一次世界大戦に出征、クリフォードは戦傷により下半身不随となり、復員後は』二人の『間に性の関係が望めなくなる。その後、クリフォードはラグビー邸で暮らしながら』、『作家としてある程度の名声を得るが、コニーは日々の生活に閉塞感を強めていった』。『クリフォードは跡継ぎを作るため、コニーに男性と関係を持つよう勧める。その相手の条件とは、同じ社会階級で、子供ができたら』、『すぐに身を引くことができる人物であることだった。コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆く。そんな彼女が恋に落ち男女の仲になったのは、労働者階級出身で、妻に裏切られ別れ、かつて陸軍中尉にまで上り詰めたが上流中流階級の周りになじめず退役し、現在はチャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズだった』。『メラーズとの秘密の逢瀬を重ね、性による人間性の開放に触れたコニーは、クリフォードとの離婚を望むようになり、姉のヒルダと共にヴェニスを旅行中、メラーズの子供を妊娠していることに気がつく。一方領地では、戻ってきたメラーズの妻が、メラーズとコニーが通じていることに感づき、世間に吹聴して回っていた。メラーズは森番を解雇され、田舎の農場で働くようになる。帰ってきたコニーはクリフォードと面談するが、クリフォードは離婚を承知せず、コニーはラグビーを去ることになった』)を『日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第百七十五条の』猥褻『物頒布罪が問われた事件で、日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた、占領下の一九五一年(昭和二十六年)に始まり、一九五七年(昭和三十二年)の上告棄却で終結した』。猥褻と『表現の自由の関係が問われた』。『「チャタレイ夫人の恋人」には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。六月二十六日、当該作品は押収され、七月八日、発禁となり、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品には』猥褻な『描写があることを知りながら共謀して販売したとして、九月十三日、刑法第百七十五条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和二十七年一月十八日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金二十五万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和二十七年十二月十日判決)では被告人小山久二郎を罰金二十五万円に、同伊藤整を罰金十万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和三十二年三月十三日に上告を棄却し、有罪判決が確定した』。『被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して、論点についての無罪を主張した』。『最高裁判所昭和三十二年三月十三日大法廷判決は、以下の』「猥褻の三要素」『を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した』。「猥褻の三要素」の項(私が一部に言葉を附加した)。

1 『徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ』ること。

2 1に加える絶対条件として『且つ普通人の正常な性的羞恥心を害』すること。

3 1・2に加える絶対条件として『善良な性的道義観念に反する』こと。

1・2・3が同時に絶対普遍の属性として当該果物に永久に内在すると裁判官が判断するもの。

『(なお、これは最高裁判所昭和二十六年五月十日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)』。猥褻の『判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである』。「公共の福祉」の項。『「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」』。「事件の意義」の項。猥褻の『意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所が』猥褻『の判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった』。『公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが』、猥褻『の規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い』。「補記」から。『出版された本のタイトルは「チャタレイ夫人の恋人」だが、判決文では「チャタレー夫人の恋人」となっている。憲法学界における表記も「チャタレー事件」「チャタレイ事件」の二通りがある』。『宮本百合子は『「チャタレー夫人の恋人」の起訴につよく抗議する』を発表した』。『この裁判の結果、「チャタレイ夫人の恋人」は問題とされた部分に伏字を用いて一九六四年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。一九九六年に新潮文庫で、伊藤整の息子伊藤礼が削除部分を補った完全版を刊行した』。『伊藤は、当事者として体験ノンフィクション「裁判」を書いた。「チャタレイ夫人の恋人」は、一九七三年に羽矢謙一』(はやけんいち 昭和四(一九二九)年~:英文学者。明治大学名誉教授)『が講談社文庫で完訳を刊行し』ている。『一九六〇年にはイギリスでも同旨の訴訟が起こっている。結果は陪審員の満場一致で無罪』となっている。以下、「裁判主旨」の項。

1 猥褻とは『徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう』。

2 『芸術作品であっても、それだけで』猥褻性を『否定することはできない』。

3 猥褻『物頒布罪で被告人を処罰しても憲法二十一条に反しない』。

「一昨年の本誌」この後には底本では底本編者による『「群像」』という割注が入る。

なお、私は、羽矢謙一の完訳で大学時分に読んだが、最後まで退屈だった。今、手元にさえない。因みに、読書中、私は一度として勃起もしなかった。私が生涯で勃起した小説は熱愛するルイ・フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline 一八九四年~一九六一年)の(Mort à credit 邦題「なしくずしの死」。一九三六年)のただ一冊だけであることを、ここに告白しておく。

「ある小説を書き」この後には底本では底本編者による『昭和二十五年四月号の「日時計」』という割注が入る。なお、本篇は冒頭に記した通り、昭和二七(一九五二)年三月号『群像』の発表である。「日時計」はこの引用部が「日時計」で、後の部分は「殺生石」というタイトルになり、それが「」まで続き、(同作は『群像』の同年の四月号・七月号・九月号・十二月号に隔月連載された)その「殺生石()」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしい。但し、続編は、遂に書かれなかった。以下の引用部は、その作品最初の「日時計」のほぼ中間部に出る。以下に引用する。主人公は梅崎春生然とした小説家小野六郎(妻はテツ(春生の奥さんは「恵津」))。彼は友人鍋島に頼まれて、彼の飼っている猿を預かっている。それが書き出しで、その猿に勝手に「カマド」と命名するのが小野の友人「二瓶」である。

   *

「これはたしかにおれの猿だ」

 ある日突然、六郎はそんなことを考えた。それは言葉としてでなく、ある実感として彼に落ちてきた。もしそれが言葉としてだったなら、その言葉は無意味な筈であった。猿の保管料や食餌費はまだ鍋島の手から出ていたし、その鍋島も月に二三度は、この猿の成長を見廻りにきていたのだから、自分の猿だと言い切る根拠は、現実にはどこにもなかった。だからそれは、六郎の漠然たる気持」だけなのであった。しかし彼のその気持の中には、嘘や錯覚の感じは全然なかった。それはぴったりと彼に粘着していた。

「とにかくこいつは、おれの猿なんだ」

この猿に、カマドという名をつけたのは、近所に住む二瓶という男である。二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃で、神田かどこかにある学校の、講師か教師かをやっていた。小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出てゆくような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような淑をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い邪悪な翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為(ため)だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他を完全に意識したような、そしてそれがぴったり身についた、疑似の典雅さや柔軟さがあった。身体や顔が全休に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛形(ひながた)かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は、老獪(ろうかい)な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。二瓶は学校の講義を受持っている他に、変名で子供雑誌に童話をしきりに書いていた。彼の童話は相当に金になるらしく、二瓶は割に裕福な生活をしていた。二瓶と知合うようになってから、この男の慫慂(しょうよう)で、六郎もいくつかの童話を書いて、その中の二篇ほど金に換えて貰ったことがあった。しかしこの二つの童話も、二瓶の口ききだから金になったので、雑誌社側で歓迎するほどの作品でもないようであった。むしろお情けで載せてもらったような具合であった。もともと六郎には自信もなかったし、情熱もあまりなかった。金にしてやるという二瓶のすすめで、暇々に書いたにすぎなかった。二瓶にはそういう世話やきの一面があって、言わば六郎はそれに無抵抗で応じただけである。しかし書くことは別に苦痛ではなかった。と言って喜びも別段なかった。だからその作品も、とても二瓶のそれのように、うまく行く筈もなかったのだが。

「君のこの童話は、うまいことはうまいんだけれどもねえ――

 ある日の夕方、庭の入口に立って、二瓶は原稿を六郎に手渡しながら、いつもの物柔らかな調子で言った。その原稿も、ずい分前に二瓶を通じて、ある少年雑誌に行っていた筈の童話であった。それをやっと六郎は思い出していた。

「ちかごろの子供には、ああしたものはぴったりしないと、雑誌社じゃ言うんだよ。戦争前の感じとは、子供たちだって、ちょっとはずれてきているんだよ」

「そうかな。そんなものだろうな」

 受取った原稿をかるく巻きながら、六郎は気のない受け答えをした。別に何の感情もなかった。この原稿のことはすっかり忘れていたのだし、実は自分で書いたものでありながら、その内容も彼はまだ思い出せないでいたのだから。しかしこちらを見詰めている二瓶の視線を感じると、六郎は義務のようにして言葉を継いだ。

「そう言えば、近頃の子供というのは、よく判らないなあ。もっとも大人たちのことだって、僕にはてんで判りやしないけれどね」

「そうでもないだろう」

「いや。どうもそうなんだよ。僕の中には、どこかしら足りないものがあるんだ。童話など書けるような柄じゃないんだね、つまり僕は」

「そうでもないよ。うまいよ、君は」

「そんな言い方はないよ」と六郎はちょつとわらった。

「でも大変なことだなあ。金になるならないは、別としてもね。あんたはよくそこをやって行くね」

 眼尻にれいの笑みをたたえたまま、かすかに顎(あご)でうなずいたりしながら、二瓶は洋傘の尖端で庭土にいたずらをしていた。その二瓶の姿を、見るだけの意味しか持たぬ視線で六郎はちらちらと眺めていた。それから暫(しばら)く、そんな風(ふう)な雑談をした。二瓶は庭土に眼をおとしたり、猿の檻を眺めたりしながら、何時ものようになめらかなしゃべり方をした。そしてふと語調を変えて、こんなことを言った。ぼんやり受け答えをしていたので、それまでの会話とどう繋(つなが)りがあるのか、六郎はちょっと戸惑った。

「君はねえ、とにかく安定してるよ。確かなんだよ。いろんなものがね」

「そんなものかねえ」と六郎はあやふやに相槌(あいづち)を打った。しかし二瓶のその言葉は、繋りが知れないままに、突然心に妙にからまってくるのを、六郎は感じた。

「ちょっと脇へ寄ればいいんだけれどねえ。そこで少し違うんだよ」

 その言い方もよく判らなかった。そこでどう違うのか。何と違うのか。しかしその問いはちらと頭の遠くを走っただけで、言葉にする程の気力も、けだるく六郎の胸からずり落ちて行った。猿を眺めている二瓶の眼尻の笑みから、六郎はなんとなく視線を外(そ)らした。そしてしばらく黙っていた。するとそのけだるさの底から、内臓の一部を収縮させるようなへんな笑いが、沼の底から浮いてくる気泡のように、ぽつぽつと不規則に六郎の頰にものぼってきた。二人はそれぞれに頰の筋肉をゆるめ、それぞれの顔形に応じて声なき笑みを含みながら、檻の中の猿の動きをしばらく眺めていた。やがて二瓶は手をあげて、檻の中を指さした。

「ねえ。やはりカマドにちょっと似てるだろう。あの形がさ」

 猿はその時椅子に腰かけ、大仰に肢をひらいて、しきりに蚤を探していた。その猿の姿勢は、強いて眺めれば、竈(かまど)の形に似ていないことはなかった。しかしそれよりも六郎はその二瓶の言葉の外らし方に、ある常套的な韜晦(とうかい)を瞬間に感じていた。六郎は黙った。彼が黙ったのを見ると、二瓶はふいに照れたような、なにか弁解がましい口調になって、すこしあわてた風(ふう)に言葉を継いだ。

「実ほこの猿を始めて見たとき、こいつは丁度(ちょうど)今と同じ恰好(かっこう)をしてたんだよ。その印象が僕にはつよく残ってるんだ。つまりそのせいなんだな。僕はそれで、お猿のカマドという話を書いたりしたんだがね」

「ああ、それは読んだよ」自然と皮肉な調子になるのを自分でも意識しながら六郎は答えた。「お説の通り、カマドに似てるよ。だから僕もこいつを、カマドと呼んでいるんだ。ちかごろは、テツまでもね」

 六郎の家の竈(かまど)と二瓶の家の竈とは、同じ土質で同じ形をしていた。大きさも全く同じであった。それは偶然でも不思議なことでもない。六郎の家と二瓶の家は、同じ家主が設計し同じ大工や左官(さかん)がこしらえたものだったから。ちょっと変った形の、使いにくい竈であった。火つきが悪く、ともすればくすぶりたがる性質があった。二瓶が似ているというのは、この竈のことである。

「でも、もうすっかり、人間に馴れたようだな、こいつも」二瓶のその言い方は、急に六郎のその答えから遠ざかったが、独白めいた調子に変った。「早いようなもんだな。まだ君にも馴れてなかったのにね、あの頃はさ」

「ああ、そんな具合だったね」蚤をとらえて口に持ってゆく猿の手付きに、六郎はふと視線をうばわれていた。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

「ミミック」mimic。笑わせるために真似る・真似して馬鹿にする・擬態する。「擬態」がこの場合は最もしっくりくる。

「冬夜」昭和一二(一九三七)年六月二十五日インテリゲンチヤ社刊。]

佐渡怪談藻鹽草 仁木氏妻幽鬼を叱る事

     仁木氏妻幽鬼を叱る事

 

 仁木家元祖、與三左衞門妻は、彼(かの)家にて、二日の祖母といへば、女性ながら勇名高き事、人の知る處也。年號は、いづれの頃、住居は何方の事にか聞(きゝ)忘れぬ。はる女といへる女童を年季に抱へて、遣ひけるが、日頃異見して、

「必(かならず)よ、我召仕ふ年季の内は、身持を愼(つゝしみ)て能(よく)武家につかふ本意を忘れざれ。左あらば、年季濟(すみ)なば、身をも持(もた)せて、まさかの用をも見繼(つぐ)べし」

など、言(いひ)教へければ、畏(おそれ)て居たりしが、いつの頃よりか、心それそれ敷(しく)成(なり)て、異見をもそこそこに聞捨(きゝすて)ける樣に見へ、猶出入の古老などが、耳にも身持よからぬ事ども聞えければ、或時妻の側に呼(よび)て、

「己は惡敷(あしき)女哉(かな)。身持をおもひて、年比(としごろ)申聞(まうしきか)せし事どもを用ひず。此程は、あらぬよふに見なしたる。若哉(もしや)懷胎などいたすならば、傍輩合(あひ)て不埒、主人を甚だ輕んずるなれば、急度仕方こそあれ」

と、嚴敷(きびし)くたゝめければ、面を赤めて居たり。其後、いたわる事ありとて、五七日引籠り、養生の體(てい)也(なり)しが、急に消産(せうさん)して死しけり。則(すなはち)、召仕の中間それなれば、責問(せめとふ)に、

「懷胎の事、殊の外苦勞になし、墮胎の藥を密(ひそか)に用ひて、此仕合に候」

と白狀しければ、

「今更すべきよふなし」

とて、葬送の事など、取計ひけりとぞ。其後三四日十日も過(すぎ)て、夜半過(よはすぎ)に、女腹痛しければ、丸劑など用ひ、漸く快く成(なり)て、廁へ行けるに、用を足して立(たゝ)んとする時、後より兩の肩をひしと捕へて、立(たち)あがらせず。されど、したゝかなる女性なれば、靜(しづま)りて消(きえ)なんとする紙燭を振上(ふりあげ)て、寄向(よりむかひ)見れば、召仕(めしつかは)しける女也。妻目を見張(はり)、大(おほき)に叱(しかり)て、

「己は顏の皮の厚き奴哉(かな)。既に少年の頃より、我手に入れて、第一の女の身持の事は、耳のすふなるほど、言聞(いひきか)せしをさらに用ひずして、あられん身になりしより、己が身より身を責(せめ)て、我しらぬ事どもをして命を失ひぬ。義理をしらぬ奴ならば、死(しゝ)ても生(いき)ても、面は合(あは)されぬ筈なるを、却(かへつ)て恩を仇にて報(むくひ)んとて、何の恨を以て、我に尾籠なる振舞をばなしけるぞや。かへすかへすも惡(にく)き奴哉(かな)。七生迄勘當するぞ」

と、烈しく叱られ、次第に手を跡へ引(ひき)ければ、

「いまだそこに居(ゐる)か」

と叱られ、廁を出(で)て、開戸の際(きは)へかくれぬ。良(おつと)、用足して出(いで)て、寢所へ來れば連合目覺(さめ)て、

「何方へ行(ゆか)れけるぞ」

と問ふ。

「心地惡敷(あしく)腹いたみ候程に、廁へ行(ゆき)し」

と答ふ。いまだ不勝(まさらぬ)故か、顏色あしき程に、

「藥呑(のみ)給へ」

といへば、妻のいへる、

「珍敷(めづらしき)ものを見せ申さん、此(この)方へ御出候得」

とて、手燭燈して先に立(たち)、廁の方へゆく程に、亭主も何ぞと行(ゆき)ければ、内障子明(あけ)て、燭をふりあげ、

「あれ見給へ。恩しらずのはるめが來(きた)り。わらわに恨(うらみ)を申(まうす)程に、大(おほい)に叱りしかば、面目なきにや、あれへ隱れ候」

と、開戸の蔭へさし上けるに、能々(よくよく)見れば、全體はかくれて、花色に藤流し紅染裏の袷の小づまひらひらと、風に吹(ふか)るゝさま見たり。

「まだ居るか」

と叱られて、何とも見へずなりぬ。彼(かの)妻女は、長命にて有(あり)しが、末期に至り、看病の人々に語りけるは、

「我(わが)命終に近付(づき)ぬ。死後に見て、怪しみ給わんも罪深ければ、是(これ)見給へ」

とて、兩肩をぬげば、兩の肩に指の痕と覺しく、黑くしみ入(いり)て有(あり)。

「是は先年遣ひしはるめが、恩を仇にて振舞(ふるまひ)しときの手の跡ぞ」

と語られければ、病床にて聞(きゝ)し人々、奇異の思ひをなしけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:「仁木家元祖、與三左衞門妻」先の「仁木何某懷胎怪異の事」に登場。胎内を貸しただけの烈女ではなかった! 凄いぞ!

「二日の祖母」不詳乍ら、この呼称自体に何か、独特の背景がありそうな意味深長な通称である。

「年號は、いづれの頃、住居は何方の事にか聞(きゝ)忘れぬ」先の「仁木何某懷胎怪異の事」は「承應二年の事ならん」(「承應二年」は一六五三年)とあったのは参考になる。

「はる女」「春」という名の女。

「女童」「めのわらは」と訓じておく。

「年季に」年季奉公として。年季(奉公人を雇う際に相手やその親と約定した年限。一年を一季とし、普通は十年を限度とする)を定めて雇われて働くこと。

「異見」説教。

「我召仕ふ年季の内は、身持を愼(つゝしみ)て能(よく)武家につかふ本意を忘れざれ」

「我」「われ」であろう。「身持を愼て能武家につかふ本意をこそ忘れざれ」が本来は正しい。

「身をも持(もた)せて」相応にそなたの満足出来る夫を探して娶(めあ)わせて。

「まさかの用」そなたやそなたの家族に万一の不幸や不測の事態が起こったとしても。

「見繼(つぐ)べし」必ず、すっと見守って、支援もしてやろう。

「それそれ敷(しく)成(なり)て、」空々しく。いかにも真実(まこと)がない、はすっぱな感じになってしまい。

「猶出入の古老などが、耳にも身持よからぬ事ども聞えければ」この読点は位置が悪い。「なほ、出入りの古老などが(=「の」)耳にも、身持ち(の)よからぬ事ども(の)聞えければ」。それをその古老が彼女に「女童」の不純異性交遊を注進に及んだのである。

「身持をおもひて」女として身持ち(貞節)なるを第一と常々思い。

「あらぬよふに見なしたる」「あるべきでない、おぞましき様(よう)なることを聴き届けた!」

「若哉(もしや)」「若哉」に「もしや」のルビ。

「傍輩合(あひ)て不埒」「奉公人同士の忌まわしき睦び合いを成して、不埒極まりない!」。調べ上げた結果、既に彼女の相手が後に出る通り、家で召し使っていた中間(ちゅうげん)であることが妻には判っていたのであろう。

「急度仕方こそあれ」「きつとしかたこそあれ」。「必ずや、厳しい処分を致す! よう、そう心得おきゃれ!!」

「嚴敷(きびし)くたゝめければ」厳しく何度も重ねて叱りつけたので。

「いたわる」病いに罹った。

「消産(せうさん)」流産。

「仕合」こうした次第。このような運命。

「今更すべきよふなし」「いまさら、どうしようもない。」。

「女腹痛しければ」「女(をんな:妻)、腹痛(はらいた)しければ」。

「丸劑」「がんやく」(丸薬)と読んでおく。

「後より」「うしろより」。

「靜(しづま)りて」気を落ち着けて。

「寄向(よりむかひ)見れば、」肩越しに後ろを見たことを指すのであろう。顔と顔が、その瞬間に向き合うのである。

「己」「おのれ」。

「顏の皮の厚き奴」厚顔無恥の馬鹿者・間抜け。鉄面皮(おたんちん)。

「少年の頃」幼い頃。

「耳のすふなるほど」「すふ」は「すう」で「据う」(押しつける)、耳に胼胝が出来るほどの謂いか? 或いは何度も繰り返して注意する様子を言う、今の「口が酸っぱくなるほど」であって、形容詞「酸(す)し」を動詞化させた「酸う」であろうか。

「あられん身」「在(あ)られざる身」「在(あ)られぬ身」か。

「我しらぬ事ども」自分で何がどうなるかも知らぬ(危険な堕胎薬を飲むこと)こと。

「義理」これは多重の意味を掛けている。まずは本義の、「物事の正しい筋道。人として守るべき正しい「道理」、次に「社会生活を営む上に於いて道義として他人に対し、務めたり報いたりしなければならない当然の「道義」であるが、それに加えてこの妻と亡くなった奉公人の少女との「血族でない者が結ぶところの血族と同じ、或いは、それに準じた、血は繫がらないが、信頼し合った親しい者同士の関係の意もある。この最後の謂いが実は強いと私はとる。でなくてどうしてこの後に、「死(しゝ)ても生(いき)ても、面は合(あは)されぬ筈なるを、却(かへつ)て恩を仇にて報(むくひ)んとて、何の恨を以て、我に尾籠なる振舞をばなしけるぞや。かへすかへすも惡(にく)き奴哉(かな)」という捨て台詞が出よう。

「七生」「しちしやう(しちしょう)」この世に七度生まれ変わることであるが、ここは「永遠」と同義。「七勢まで勘当する」はしばしば使われる呪詛である。

「勘當」「かんだう(かんどう)」。本来は江戸時代に公的に認められていた、民事的な親子関係の断絶制度を指す。親が子の所業を懲らしめるために親子の縁を絶つことで、武士は管轄の奉行所、町人は町奉行所で登録した。これは広義に、公的私的に主従や師弟関係を絶つことにも用いられ、ここでは主人と奉公人の関係上から、お門違いの亡霊出現に、腹立ち紛れとなって、かく言ったに過ぎない。

「烈しく叱られ、次第に手を跡へ引(ひき)ければ」幽鬼が身を退くほどの苛烈な怒り方なのである。やっぱ、凄いぞ!!!

「開戸の際(きは)」「ひらきど」(厠の扉)の蔭。端っこ。

「良(おつと)、用足して出(いで)て、寢所へ來れば」ここは「良(おつと)、(連れ合いである妻が)用足して出(いで)て、寢所へ來れば、連合(つれあひ)(である夫がその戻った音で)目覺めて」と読んでおく。

「何方」「いづかた(いずかた)」。

「いまだ不勝(まさらぬ)故か」未だ腹の具合が収まらぬからか。或いは、女童の亡霊に対する鬱憤が収まらぬことも原因していよう。

「手燭燈して」「てしよく、ともして」。

「内障子」「うちしやうじ(うちしょうじ)」。外にある厠(後の手燭を掲げて光りが届くところから見るとどうも母屋から相当近い位置にあるようである)の見える母屋の縁の内にある障子。「はるが」「春の奴(やつ「め」)が」。

「來(きた)り。」この句点は読点の方がよい。

「面目」「めんぼく」。

「花色に藤流し紅染裏の袷の小づまひらひらと、風に吹(ふか)るゝさま見たり」「袷」は「あはせ(あわせ)」裏をつけて仕立てた和服で単衣(ひとえ)・綿入れに対して言い、季語としては夏である。この作品内時節もそうとってよかろう「小づま」は「小褄」で「褄」と同義。着物の裾の左右両端の部分。このシーン、私は何か少し、この少女のことが哀れな気がしてならないのである。

「末期」「まつご」。

『「我(わが)命終に近付(づき)ぬ。死後に見て、怪しみ給わんも罪深ければ、是(これ)見給へ」/とて、兩肩をぬげば、兩の肩に指の痕と覺しく、黑くしみ入(いり)て有(あり)。/「是は先年遣ひしはるめが、恩を仇にて振舞(ふるまひ)しときの手の跡ぞ」/と語られければ、病床にて聞(きゝ)し人々、奇異の思ひをなしけるとぞ』このまさに最期の最後に添えたシーケンスは、本ホラーの真骨頂と言える。そうして私は直ちに、後の根岸鎭衞(彼は本作成立(安永七(一七七八)年)直後に佐渡奉行(天明四(一七八四)年から同七(一七八七)年まで)であったこともあるから、この「佐渡怪談藻鹽草」を読んでいたかも知れぬ)の「耳囊」中の名品中の名ホラーたる、私がしばしばオリジナル授業でやった「卷之九 不思議の尼懴解(さんげ)物語の事」の後半部を鮮やかに想起するのである(私の当時のオリジナル授業案の方はこちら)。]

佐渡怪談藻鹽草 淺村何某矢の根石造るを見る事

     淺村何某(なにがし)矢の根石造るを見る事

 

 淺村太左衞門(たざえもん)が老父、享保のはじめ、勤仕せしころ、早春の事なるに、のんきに出て、彈誓(たんせい)寺の邊り徘徊し、夫(それ)より馬町川にそふて谷へ入(い)るに、流水の聲、鳥の囀(さへづ)るならでは外に物音もなく、心すみて、一僕をよんで、笹筒やうの物開き、氈(せん)打敷(うちしき)て世懷をわすれ居けるに、忽然として、鋸を以て石切る音の聞(きこえ)ければ、

「此谷にも石切の來りて、石切るやらん、何方に居るぞ」

と見𢌞し、僕にもとへど、目にあたり見へわかりて、人はさらになし。

「さてわ」

と心を澄(すま)して聞(きく)に、猶前のごとく、其音する方は、四五間も脇より發(はつす)る音也。人なし。甚だあやしみ、主從其邊り尋(たづね)あへるに、北の方の山手にて、太左衞門行先二間程に三尺斗りの平めなる石ありて、其上に見事成(なる)石の小きもの數多(おほく)有(あり)。取(とり)て見れば、王石を割(わり)、矢の板石の形に半削りたる也。脇に切屑(きりくず)とりちらしたるありて、今迄、細工せし所と見るに、怪しくけしからぬ。されど、世に矢の根石あるを見れば、人作にあらざる事は顯然たり。怪しむ時は、奇異の事どもなり。

 

[やぶちゃん注:「矢の根石」鏃(やじり)の形をしている石。一般には石器時代に鏃として用いられ、本邦では縄文・弥生時代に於いて主に狩猟具として使われたものを指す。石鏃(せきぞく)。

「淺村太左衞門」不詳。

「享保のはじめ」「享保」は一七一六年から一七三五年。始めの頃であるから、一七二二年ぐらいまでか。

「勤仕」私は「ごんし」と読むことにしている。役人として務めること。

「彈誓(たんせい)寺」佐渡市相川四町目に現存する天台宗の寺院。開山は木食長音で寛永一三(一六三六)年。

「馬町川」現在の弾誓寺のある相川四丁目は南出相川馬町に接し、その間(八十メートル圏内の直近)を川が流れている。ここから確かに川は北に折れて、谷に入っている。

にそふて谷へ入(い)るに、流水の聲、鳥の囀(さへづ)るならでは外に物音もなく、心「笹筒」これは「小筒・竹筒」と書いて「ささえ」で、「提(さ)げ重箱」手に提げて持ち歩けるように作られた組み重箱のことであろう。

「氈(せん)」毛氈(もうせん)であろう。獣毛に湿気や熱、圧力や摩擦を加えて繊維を密着させて織物のようにしたもの。幅広で敷物に用いる。

「世懷」「よのおもひ」と訓じておく。世俗のつまらぬことども。

「何方」「いづかた(いずかた)」。

「目にあたり見へわかりて」周囲三百六十をずっと見渡してしっかり観察し、確認してみても。

「さてわ」「さては」。歴史的仮名遣は誤り。

「四五間」七・三~九・一メートル。

「脇」そば。ごく近く。

「太左衞門行先二間程に」「太左衞門、行く先(さき)」(進んだ先)、「二間程に」(三メートル六十四センチ弱)の場所に。

「三尺」約九十一センチ。

「平めなる」「たいらめなる」或いは「ひらめなる」。平たくなった。

「王石」親石という謂いか? 或いはこれ、原本の「玉石」(ぎよくせき)の誤記ではあるまいか? 古代の石鏃ならば黒曜石で、あの輝きからは「玉石」と呼んでも全くおかしくはないからでもある。

「半」「なかば」。

「怪しくけしからぬ」「けしからぬ」(正しくは「異/怪(け)しからず」)には「怪しい」の意があるが、ここは前に「怪しく」が被っているから、重語、或いは、「しかし、その鏃たるや、鋭く、すばらしい、相当なものであった」の意を含むものかも知れぬ。

「世に矢の根石あるを見れば、人作にあらざる事は顯然たり」「人作」人工。恐らく、縄文・弥生の遺跡から出土した石鏃を当時の人々は、古代人の作ったそれではなく、玄妙なる自然の造形物と見做していたのであろう。

「怪しむ時は、奇異の事どもなり」意味がとれない。怪しむ今この事態は、奇異のことどもではあるが、確かな事実であったのである、という意味か?]

佐渡怪談藻鹽草 仁木何某懷胎怪異の事

      仁木何某(なにがし)懷胎(かいたい)怪異の事

 

 承應二年の事ならん。仁木氏何其の妻、或日、黃昏の事なるに、連合(つれあひ)は、親しき友の方へまかりて、留主(るす)には、其身と召遣の女而巳(のみ)居寄(より)て、物淋敷(さみしき)世上の噺など相語(かたら)ふ折から、門に物もふと乞(こふ)人有(あり)。件(くだん)の下女、立出(たちいで)て見れば、若き僧のいやしからぬが立寄(たちより)て、

「爰(こゝ)元は、仁木與三左衞門殿の御居宅にや」

ととふ。

「左樣」

と答ければ、

「拙僧は、寺町本典寺の使僧にて候。そと御見參に入候わん」

と乞(こふ)。下女此由告(つげ)ければ、主の答へしは、

「連合何某は、所用に付(つき)て他へ出(いで)ぬる旨、答へよ」

とて、かくと告ければ、

「左あらば、御内室樣へ申置候半(まうしおきさうらはん)」

と言(いふ)に、

「さらば」

とて、請(せう)じ入(いれ)對面あれば、憚入(はゞかりいり)たる風情にて、手を束(たば)ね、

「愚僧は、最前申(まうす)如く、本典寺使僧にて候。當住何某申入(まうしいれ)候は、近頃の懇望に候得共、御手前樣の胎内を御かし被下候得(くだされさうらへ)と達て御賴申(おたのみまうし)候條(じよう)、宜(よろしく)御答被下(くだされ)かし」

と言舌さわやかに演(えんじ)ければ、女主答へて、

「惡穢不淨の某(わらは)に、折入て御賴(おたのみ)、先(まづ)は忝(かたじけなく)存(ぞんじ)候へ。去(さり)ながら、夫(をつと)何某他行候得ば、歸りの節、得斗申聞(とくとまうしきか)せてこそ、□□出御返事申さん」

と也。使僧不興氣にて、

「さあらば、かわる子細も候はゞ、聖人方へ御筆談あるべし。又かわる事なきならば、御答に不及(およばぬ)」

旨、しかしか言(いひ)て歸りぬ。無程(ほどなく)、與三左衞門歸りければ、有(あり)し事ども語りけるに、

「夫(それ)は必定(ひつじよう)、轉寢の夢にこそ」

と大きに一笑して、下女に

「かゝる事ありや」

と尋ければ、去(さる)事一向存(ぞんじ)候へず。暫く臺所に居眠り候内、夢現(うつつ)ともなく、僧の一人、門より入(いり)來れば、今更思ひあたり候樣答(こたえ)ける。夫(それ)より二三日過(すぎ)て、

「寺町本典寺の住持身まかりけり」

と、人々沙汰しあへれば、

「扨(さて)わ」

と各(おのおの)驚きあひぬ。其月より懷胎して一子を生む。幼名竹藏といふ。後に與三兵衞といひ、天晴(あつぱれ)力量ありて、氣剛に、書を讀(よむ)事、終日飽(あか)ず、□字に眼をさらし、神邊に御裔川の編集を□□、筆は御家流を明(あきら)めて、其世に能書と名しられ、彼(かの)本典寺の住持在世の時、法華經を書寫せしに、一部滿(みた)ずして終(をはり)しが、其後與三兵衞書繼(かきつぎ)ければ、同筆のやうになんありしとぞ。

「正しく其僧の生をかへしにこそ」

と、世こぞつて言(いひ)はやせしとなん。

 

[やぶちゃん注:□は底本自体の判読不能字である。孰れの箇所も私には仮措定すら出来ない。

「仁木何某」本書に多出する佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝の一族の誰かであろう。

「承應二年」一六五三年。

「寺町」現在の佐渡市相川下寺町。この一帯は台地で寺院が密集している。

「本典寺」上記の同地区に日蓮宗栄光山本典寺として現存。元和九(一六二三)年に本山である京都要法寺の第二十一世日躰が佐渡へ来てここに草庵を結んで布教を開始し、寺は寛永六(一六二九)に建立された(例の旧相川地区の「寺社調査」(PDF)に拠る)。

「そと」少し。或いは「内密に」の意も有あり、ここは後の奇体(まさに奇胎)な話柄から両意を含むと読んでおく。

「憚入(はゞかりいり)たる風情」ここは内儀にひどく遠慮している様子ではなくて、話を誰かに聴かれはしないかといった感じでしきりに周囲を憚っている様子を指す。

「手を束(たば)ね」掌を組んで挨拶をする。僧の礼式。

「御かし」「お貸し」。

「達て」「たつて(たって)」。副詞。漢字では他に「強つて」などとも表記するが、「達」も「強」当て字で、本来は「理(ことわり)を斷つて」の意である。「どうしても実現しようと強く要求したり、切実に希望したりするさま」「無理に」「強(し)いて」「如何にしても」「どうしても」の意。

「演(えんじ)ければ」説き、要請したところ。

「惡穢不淨」「あくゑふじやう」。

「折入て」「おりいつて」。

「不興氣にて」如何にも不機嫌な感じを露わにして。

「かわる子細」「變(かは)る子細」。歴史的仮名遣は誤り。お貸し下さることについて変わるお心(変心。胎内を貸さないとする考えに変わること)があったならば。

「聖人」「しやうにん」。本典寺住持。

「又かわる事なきならば、御答に不及(およばぬ)」変わることがないとならば(胎内をお貸し下さるとならば)、その確認の御返事は必要ではない、の意。懇請・要求する側にとって一番、面倒がなく、しかもかなり強引な答え方(対処法)である。私なら、『やられた!』って感じ。但し、この若い僧の説明は、冒頭、仁木與三左衛門にはこの話は既に通してある、という謂い口であるから、女房としては、奇体奇胎の奇怪なる懇請乍ら、即座には断れないのである。

「轉寢」「うたたね」。

「去(さる)事一向存(ぞんじ)候へず。暫く臺所に居眠り候内、夢現(うつつ)ともなく、僧の一人、門より入(いり)來れば、今更思ひあたり候樣答(こたえ)ける」妻の証言と下女のそれが食い違っている。これは下女の記憶の方を操作する幻術をかけたものととるべきではあろう。

「扨(さて)わ」「さては」! 歴史的仮名遣は誤り。

「氣剛」「きがう(きごう)」「剛毅・豪毅」(ごうき)と同じ。意志がしっかりしていて物事に怯(ひる)まぬこと。

「神邊に御裔川の編集を□□」「神邊」(「しんぺん」?)も「御裔川」(「みすゑがは」?)も不詳。但し、「御裔」は「御裔(みすえ)の大田命(おおたのみこと)」を連想させ、この神はかの天孫降臨の際に天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神猿田彦神の子孫神とも、或いは猿田彦神自身の別名とする説もある神の名を連想させはする。この竹蔵、神仏習合の当時、本地垂迹説辺りで「神」道系の周「辺」資料を調べ、「御裔」の大田命に関わる研究を行い、「御裔川」という文献を編集したとでも言うのであろうか? にしても「御裔川」という書は知らぬ。識者の御教授を乞う。

「御家流」「おいへりう(おいえりゅう)」書道に於いては主に武家の公式文書に使われた尊円(そんえん)流の流れを指す。尊円流は伏見天皇の第六皇子で、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗青蓮院第十七世門跡であった尊円法親王(永仁六(一二九八)年~正平一一(一三五六)年)尊円流(そんえんりゅう)が起こした書の流派。「青蓮院流(しょうれんいんりゅう)」「粟田流(あわたりゅう)」などとも呼ばれる。ウィキの「尊円流」によれば、『派生流派が多く、一見隆盛を極めている流派のように見えるが、とくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流を使用しているのがわずかに目立つのみとされる)』。『ただし、武家の公式文書は多く御家流草書で書かれたため、次第に全国のあらゆる階層に普及した。江戸時代には教育熱の高まりとともに、寺子屋などで庶民が学ぶ往来物などの教科書でも御家流の書が用いられていたことから、爆発的に普及。明治に活字文化が普及するまでは、日本の標準書体であったといえる。そのため、江戸時代以前の古文書を読むためには、御家流のくずし字を学ぶことは必須となっている』とある。

「明(あきら)めて」学んで修得し、或いは免許皆伝を得。]

佐渡怪談藻鹽草 井口祖兵衞小判所にて怪異を見る事

     井口祖兵衞(そへえ)小判所にて怪異を見る事

 

 寶曆以前の小判所は、往古よりのまゝにて、年久敷(ひさしき)場所なれば、折にふれて種々の怪異などある中に、其むかし、井口祖兵衞、右場所の役人たりし時、吹(ふく)も無之(これなく)、晝番をして只壱人、草雙紙など見て、雨の日の閑をわすれ居たりしが、何處ともなく、弐三人噺(はなし)あへる聲しければ、締の口に、我斯(かく)てあれば、外より誰か入(いる)かとも覺へず、

「あやし」

とて、聞(きゝ)居たるに、暫くして、二階の上より、夥敷(おびただゝしき)物の落(おち)かゝる音して、登り口の三尺戸に落かゝりければ、

「すわ」

とて戸を明(あけ)て見るに、古き澁色の衣着たる老僧、階子を這ひ登りける。仰天して、暫く只見居ければ、僧は、二階へ登りける時、跡に續(つゞき)て登り見れば、一物もなし。窓も戸ざしてあれば、洩出(もれいづ)るべき處なし。

「是ぞ聞及(きゝおよび)ぬ、狸の怪ならん」

と其世の人に語りあへりとぞ。

 

[やぶちゃん注:「井口祖兵衞(そへえ)」不詳。「佐渡人名録」のこちらで、ずっと後の天保年間の佐渡奉行所広間役に「井口」茂十郎なる人物は見出せる。

「小判所」佐渡国内で小判を鋳造する金座、「小判所」は元和七(一六二一)年に佐渡奉行所内に設置されていた。これは、それまでの、金塊を佐渡から江戸へ輸送すること、或いは、佐渡で用いる小判を江戸から佐渡へ纏めて輸送することが、防犯上、極めて高いリスクを持っていたことに由来する。この小判所設置によって、鉱石採掘から小判製造に至る工程を一貫して相川で行える体制が確立されたのであった(佐渡小判所が廃止されるのは文政二(一八一九)年。こちら(PDF)のデータに拠った)。

「寶曆以前」宝暦(ほうりゃく)は一七五一年から一七六四年までであるから。一七六四年以前。

「吹(ふく)も無之(これなく)」「小判を吹く」の「吹く」で「鞴(ふいご)などで風を送って金属を精錬する」の意で、ここはそうした職人を呼ぶ名詞的表現であろう。小判を吹く鋳造職人も休憩して、皆で払っており、小判所には警備役であった井口以外に誰も居なかったのである。小判鋳造の金座である。内部は点検して、皆、出たことはチェック済みなのである。そこがこの怪異の肝心な部分である。

「草雙紙」絵双紙。江戸中期以降に流行した大衆的な絵入り小説本の総称。各頁に挿絵があり、多くは平仮名で書かれた。普通、大半紙半截(はんせつ)二つ折りで一巻一冊五丁(十頁)で数冊を一部とする。表紙の色によって「赤本」・「黒本」・「青本」・「黄表紙」と区別し、長編で合冊したものを合巻(ごうかん)と称した。狭義には合巻だけをいうこともある(小学館「大辞泉」に拠る)。

「閑」「かん」。暇。

「締の口に、我斯(かく)てあれば、外より誰か入(いる)かとも覺へず」「締の口」「しめのくち」と訓じておく。金座は管理が厳重であるから入口は一つで完全に分厚い扉で閉鎖する(だから「締」なのであろう)形になっており、その扉を閉めた状態でその扉の内側に身を寄せる形で井口は坐って警備しているのである。従って、外から誰かが侵入すれば、それは絶対に判る。誰も入った様子は微塵もないのである。密室設定による、誰もいないはずなのに……の怪異なのである。そこを非常に丁寧に書いている点で、やはり、本「佐渡怪談藻鹽草」の作者は上手い。

「三尺戸」閉鎖されて外へは通じていない誰もいない二階へ向かう階段の下にある閉鎖された約九十一センチメートル弱四方(であろう)の実に狭い小さな扉。

「階子」「はしご」と訓ずる。階段の意もあるが、これは文字通りの梯子状のものと採りたい。そうでないと僧が「這ひ登」るというシーンがさまにならぬ。

「一物もなし」影も形もない。

「洩出(もれいづ)るべき處なし」二階から抜け出ることの出来る隙(すき)も全くない。

「狸の怪」密室の怪異から見て、団三郎辺りでないと出来ぬ芸当である。]

諸國百物語卷之三 一 伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事

 

 諸國百物語卷之三 目錄

 

一  伊賀の國にて天狗座頭にばけたる事

二  近江の國笠鞠(かさまり)と云ふ所せつちんのばけ物の事

三  大石又之丞地神(ぢしん)のめぐみにあひし事

四  江州(がうしう)白井介(しらいすけ)三郎が娘の執心大じやになりし事

五  安部(あべ)宗(そう)びやうへが妻の怨靈の事

六  ばけものに骨をぬかれし事

七  まよひの物二月堂の牛王(ごわう)にをそれし事

八  奧嶋檢校(をくしまけんげう)山の神のかけにて官にのぼりし事

九  道長の御前にて三人の術くらべの事

十  加賀の國あを鬼の事

十一 はりまの國池田三左衞門どの煩(わづらひ)の事

十二 古狸さぶらひの女ばうにばけたる事

十三 慶長年中いがの國ばけ物の事

十四 ぶんごの國西迎寺(さいかうじ)の長老金(かね)に執心をのこす事

十五 備前の國うき田の後家まんきの事

十六 下總の國にて繼子(まゝこ)を惡(にく)みてわが身にむくふ事

十七 渡部新五郎が娘若宮の兒(ちご)に思ひそめし事

十八 いがの國名張にて狸老母にばけし事

十九 艷書(ゑんしよ)のしうしん鬼(に)をとなりし事

二十 賭(かけ)づくをしてわが子の首を切られし事

 

諸國百物語卷之三

 

    一 伊賀の國にて天狗座頭(ざとう)にばけたる事


Tanguzatou

 伊賀の國に里とをき山に堂あり。このどうに、ばけ物ありて、七つすぐれば、人、ゆくことなし。わかきさぶらひ四、五人、よりあひて、

「たれか、此うちに、かのどうへ行きて、一夜をあかすもの、あらんや。もし、ゆくものあらば、われわれが腰の物をやらん」

といふ。そのなかに、とし、三十二、三なるわかもの一人、すくといでゝ、

「それがし、參らん」

と云ふ。さらばとて、たがいに腰の物をかけづくにして、さて、くだんのわか者は家につたわりたる大小に、九寸五分のよろいどをしを、ふところにさし、かのどうへゆき、なに物にてもきたらば、たゞ一うちにせんとて、錢箱(ぜにばこ)にこしをかけ、あたりをにらんで、まちゐけるに、その夜、もはや四つすぎとおぼしきころ、よろぼいたるあしもとにて、つえをつききたるをと、しけるが、ほどなくどうの上へあがり、しやうじをあけて、はいらんとす。そのとき。かのわか者、聲をかけて、

「なに物なれば、夜ふけてこゝにきたるぞ。われは、ようじんするものなれば、あたりへよりたらば、たゞ一うちにせん」

とて、刀に手をかけゐたりければ、かのもの云やう、

「さては此どうのうちに人の御座候ふや。御めんなされ候へ。われは此あたりちかきざいしよにすまいする座頭にて候ふが、さるしゆくぐわんの候ひて、よなよな、此どうへ、こもり申す也。すこしも御きづかいなさるゝ者にては、なく候ふ。さて、そのはうさまには、いかなる人にてましますぞ。心もとなく候ふ」

といふ。

「われは上野あたりのものなるが、さるしさいありて、こよい、此どうに一夜をあかす也。いかほど座頭にさまをかへ、われをたぶらかさんとするとも、たやすくあざむかるゝものにてはなし。ちかふよりて、けがするな」

と、いよいよ心をゆるす事なし。座頭きゝて、

「御ようじんは御尤にて候ふ。しからば、われはゑんに出でゝ、へいけなりとも、かたり申すべし。夜あけて、まことの人か、へんげの物か、御らん候へ」

とて、琵琶ばこより琵琶をとりいだし、よきこゑにて、へいけをかたりける。をもしろさ、たとへんかたなし。かのわか者も、おもしろくおもひ、いつとなく心うちとけて、

「われもさびしきに、よきとぎをもうけたり。さらばこれへ、はいれ」

とて、しやうじをあけてうちにいれ、いろいろ物がたりなどして、たがいに心をかずに、はなしける。

「さらば今一ふし、へいけを、しよもういたさん」

といへば、座頭、

「かたじけなし」

とよろこび、びわをとりあげ、なにかはしらず琵琶ばこより松やにのいろしたる、手まりのごとくなる物をとり出だし、びわのいとにひきけるを、かのわか者みて、

「それはなにぞ」

とゝふ。

「これは、いとのほどけたるとき、引き申すもの也」

と云ふ。

「そと、みたき」

といへば、

「やすき御事」

とて、さしいだす。わか者、これを手にとりければ、手にとりつきて、はなれず。かた手にてはらいをとさんとすれば、兩の手にとりつき、のちには兩の指ひとつにとぢあひて、はなれず。さては、かのばけ物にあざむかれたる事のくちをしさよと、はがみをなしてくやめども、かいなし。あまりの事に、

「此玉をはなしてかやせ」

といへば、座頭からからとうちわらひ、

「さてさて、われをたいらげんとて、ぶへんをいわるゝ御侍のありさまのおかしさよ。それにてゆるゆると夜をあかし給へ」

とて、大小に、ふところなる小脇指までひつたくり、ゆくゑもしらず、きへうせけり。さてさて、むねんのしだいかな。此うへは舌をくいきり死なん、と、をもふ所へ、四、五人のこゑにて、どうへあがるをとしけるが、そのとき、手あしも一度にはなれ、玉(たま)もうせぬ。さて、くだんの人をみれば、みなみな、かけづくしたる侍ども也。人々、おどろき、

「さて、ばけ物のありさま、いかゞぞ。あまりに心もとなくて見まいにきたり」

と云ふ。かくさんとおもへども、大小をとられたれば、かくすべきやうもなく、はじめをはりをかたりければ、人々おどろき、

「さてさて、それはすさまじき事かな。去(さり)ながら腰の物をとられたるは、おかしや」

と、いちどに、どつとわらひて、かの四、五人の侍ども、かのわか者が顏を、ひとりひとり、なでゝ、かきけすやうに、うせにけり。そのとき、かのわか者も氣をうしなひて死にいりけるが、夜もやうやうあけがたになりければ、かの賭したるまことのさぶらいども、かの堂へゆきみれば、丸ごしになり死してゐたり。やがてよびいけ、氣つけをのませなどして、やうやうよみがへり、さて事のやうすをたづねければ、うつらうつらと物がたりして、みなみな、つれだち歸る所に、くだんの腰の物、三腰(みこし)ながら、五、六町ほどかたはらの杉の木のえだに、かけをきたり。かのわか者、あまりにぶへんにかうまんせしゆへに、天狗のなすわざにてありしと也。そのゝち、かのわか者も心うつけて、氣ちがいのやうになりしと、その所の人、かたり侍る。

 

[やぶちゃん注:「曾呂利物語」巻三の「六 をんじやくの事」(温石の事)に基づく(本来、「温石」とは火で焼いて熱くした石を布に包んだ携帯用の暖房具であるが、原話ではそれを以って糸に塗る仕草をする)。原典では「信濃國末木(すゑき)の觀音」(一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 中」の「曾呂利物語」の方の「をんじやくの事」の同寺の脚注に、現在の『長野県北佐久郡にある釈尊寺か』とするとする(現在は同寺の住所は長野県小諸市大久保に行政変更されている)。また、原話では座頭が巨大な角をはやした鬼となるシーンがあり(本話ではない)、本話の方のエンディングの、座頭が若者の三刀を持ち去って後にそれが杉の木の枝にかけられていたというシークエンス、若者の傲慢ゆえに天狗が災いをなしたものとし、後に若者が狂人と化したとする人の話(教訓的因縁譚)はなく、原話の方がややポジティヴである。

「七つ」午後四時頃。

「かのどう」「彼の堂」。

「すくといでゝ」すっくと立ち上がって。

「かけづく」「賭づく(かけずく)」で、何かを賭けにすることの意(「日本国語大辞典」は「賭けをすること」とし、「ずく」は接尾語とのみ記す)。三省堂の「大辞林」の「賭け徳(かけどく)」の項には「勝負事に賭ける金品」また、「賭け事」と解説し、「どく」は「ろく(禄)」の転とも「づく」の転とも言うという解説が附されてある。

「九寸五分のよろいどをし」そもそもが、刃の部分の長さが九寸五分(約二十九センチ)の短刀を「鎧通し」と呼称する。身幅が狭い割に重ねが極端に厚い、極めて頑丈な造り込みの反りのない短刀の総称で、白兵戦での組み打ちに際し、敵の武士の鎧の隙間から致命的な刺傷を加えたことからこの呼称がある。このシーンのように左腰に大小を差した場合は、佩刀の煩わしさを避けることを主として、多くは「右手差(めてざし)の拵え」(右腰に逆差しに佩用して瞬時の使用に有効性を持つように製刀に配慮がなされること)であったとも言われる。ここでは「ふところにさし」とあるから、懐の、やはり反対の右の帯の内側部分にそれを差したと考えてよい。

「四つ」午後十時頃。

「しゆくぐわん」「宿願」。

「そのはうさまには」「其の方樣には」。

「心もとなく候ふ」(かえって目の見えぬ我らが方が)不安で仕方がなく、気掛かりにて御座いまする。

「上野」「うへの」。伊賀上野(うえの)。現在の三重県伊賀市の旧上野市を指す別称。俳聖芭蕉の出身地として知られる。

「ゑん」「緣」。

「へいけ」「平家物語」。

「琵琶ばこ」「琵琶箱」。琵琶を収納するケース。

「よきとぎをもうけたり」「良き伽(とぎ)を儲けたり」。願ってもないよい夜伽の相手を得た。

「たがいに心をかずに」互いに遠慮をすることもなく親しく。

「しよもういたさん」「所望致さん」。

「松やにのいろしたる」「松脂の色したる」。

「手まり」「手毬」。

「びわのいとにひきける」「琵琶の糸に引きけるに」。この「引く」は「糸の上に塗る」の意。以下の「座頭」の説明からは、それによって糸巻で締めた糸が緩み難くなるものを指すようである。

「そと」一寸(ちょっと)。

「手にとりつきて、はなれず。かた手にてはらいをとさんとすれば、兩の手にとりつき、のちには兩の指ひとつにとぢあひて、はなれず」となると、若者が最初に見かけた際の松脂に酷似した性質のものとして、多くの読者には認識されるよう、筆者は予め伏線を張っていたということが判明する。

「かやせ」「返(かや)せ」。「返(かへ)せ」という命令形の発音が転じたもの。

「たいらげん」「平らげん」。

「ぶへんをいわるゝ」「武邊を言はるる」。歴史的仮名遣は誤り。勇猛果敢をご自慢なさる。

「きへうせけり」「消え失せにけり」。歴史的仮名遣は誤り。

「さてさて、むねんのしだいかな。此うへは舌をくいきり死なん」若侍の心内語。

「をもふ」「思ふ」。歴史的仮名遣の誤り。

「手あしも一度にはなれ」描写されていないが、両手がくっついてしまった若侍は、恐らくそれを足で引き剝がそうとして、遂には四肢がヨガのポーズのようにくっついてしまっていたことが判る。この話は、原話のように実は映像的にはかなり滑稽で面白いものなのである。

「見まい」「見舞ひ」。様子見(み)。歴史的仮名遣は誤り。

「かくさん」「隱さん」。名折れの恥じもいいとこだから、変化に化かされたことを隠そうとしたのである。

とおもへども、大小をとられたれば、かくすべきやうもなく、はじめをはりをかたりければ、人々おどろき、

「すさまじき事かな」「何とも。もの凄くも酷(ひど)いことじゃ!」

去(さり)ながら腰の物をとられたるは、おかしや」

「かのわか者が顏を、ひとりひとり、なでゝ、かきけすやうに、うせにけり」この思いがけないダメ押しの幻術部分がこれ、またまた、面白く出来ている。但し、これは「曾呂利物語」の原話由来である。

「よびいけ」「呼び生け」で、「大声で呼んで生き返らせる」意の動詞「呼び生く」の名詞化したもの。「卷之二 二 相模の國小野寺村のばけ物の事」で詳細に既注。

「うつらうつらと」如何にも呆然とした感じで。

「五、六町」五百四十六~六百五十五メートルほど。

「かたはらの」ここは「近くの」の意。]

『コンティキ号漂流記』   梅崎春生

 

「太平洋に散在する島々の土人たちが、ほぼ白い皮膚と赤毛からブロンドにわたる髪の毛を持ち、顔貌が白人に酷似しているのが多いのは、彼等の祖先が太古、ペルーから移住してきたためである」

 この本の著者ヘイエルダールはこういう仮説を立てる。そしてその可能性を証明するために、バルサ材をつかって、古代インディアンの筏(いかだ)と寸分違わぬ複製をつくり、貿易風と赤道海流にのって、機械力なしの航海をこころみる。これはその航海記である。コンティキ号という筏の上の、夢と冒険にあふれた、たのしく魅惑的な記録である。

 読者がこの本にひき入れられるのは、その原始性に対してではなく、原始と文明の微妙な調和からくる、ふしぎな現実性と夢幻性のためである。全巻を通じて、著者の着実にしてユーモアをたたえた眼が、四周(まわり)の狂いなき叙述をくりひろげているが、その圧巻はやはり大洋における航海の部分であろう。ここでは限りなく広い海と、筏の四辺にあらわれる魚や海獣、そして空と日と星辰が、その主人公としてあらわれてくる。読者は筏の上のヘイエルダール等と共に、大海の中で木の葉のように揺られ、魚類たちと隔てなき親近な交渉をもつ。

 著者が言うように、エンジンとピストンでごうごうと航海する人々があずかり知らぬような、大洋のそのままの姿が、ここでは即物的にとらえられている。一夜の耽読に値する所以(ゆえん)である。

 

[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月十五日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「コンティキ号漂流記」これは恐らく、昭和二六(一九五一)年月曜書房刊の水口志計夫(みずぐちしげお)訳の「コンティキ号漂流記」である。水口志計夫(大正一五(一九二六)年~平成一七(二〇〇五)年)は英文学者で立教大学名誉教授。本作の全訳初訳で知られる。なお、本作の執筆・翻訳の経緯については、機構設計コンサルタント業「からくり工房」公式サイト内の「コン・ティキ号漂流記 THE KON-TIKI EXPEDITIONの記載が詳しい。

「ヘイエルダール」トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl 一九一四年~二〇〇二年)はノルウェーの人類学者・海洋生物学者で探検家。自説の証明のため、筏船の「コンティキ」号でペルーから南太平洋のトゥアモトゥ島まで実に約八千キロメートル弱の実験航海を行ったことで知られる。ウィキの「トール・ヘイエルダール」によれば、『当時はポリネシアの島々の住人(ポリネシア人)の起源は謎とされており、ヘイエルダール自身も調査を行った。その結果、南米ペルーにある石の像とポリネシアにある石の像が類似していること、植物の呼び方が似ていることなどを踏まえ、ポリネシアの住人の起源は南米にあると論文で発表。しかしこの説は学会からの反対にあう。当時の技術では船で行き来することなど不可能であるというのがその理由だった』。一九四七年、『ヘイエルダールとそのチームは、南米のバルサ材およびその他の地元の材料を用い、インカ時代の船を模したコンティキ号を建造。ペルーからイースター島への航海に挑戦した。巨石文化がインカ帝国から海を渡ってイースター島に伝えられ、同島に残るモアイ像が作られたことを実証しようとしたのである。コンティキはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名。いかだは、インカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面を元に設計された』。『コンティキ号は』一九四七年四月二十八日に五人の仲間と一羽のオウムと『共に出航し、曳航船によってフンボルト海流を越えた後は漂流しながらイースター島を目指した。出港から』百二日後の一九四七年八月七日にトゥアモトゥ諸島の『ラロイア環礁で座礁。彼らの航海を描いた長編ドキュメンタリー映画『Kon-Tiki』は、1951年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞している』。この漂流実験では一九四〇年代当時の現代の『航法機器やボートなども使用していた。 またアマチュア無線により、ノルウェーを含む世界各国との交信を行っていた』。『食料に関しては、実験を名目にアメリカ軍から提供された保存食の他は、海中から得た。ヘイエルダールは、「インディオの航海技術を立証するのが目的で、我々がインディオになる必要は無い」と述べていて、最初は保存食を用意して航海に臨むつもりだったようである。「筏のロープが波で擦り切れる」とか「バルサが水を吸って沈没するはず」など、航海前に出された否定的な意見を見事に覆したことで評判を呼んだ』。但し、建造を急いだことから、『乾燥していないバルサを使ったのが偶然に吉と出て、乾燥したバルサを使っていれば、海水の吸収が早くて沈没していた可能性があるとヘイエルダールは認めている』。また、一九六九年には『「アステカ文明はエジプト文明と類似しており、エジプトからの移民が作った文明ではないか」と考え、古代エジプトの葦製の船に大西洋を渡る能力があることを証明するため、パピルスと呼ばれる葦で作った船「ラー号」で、モロッコからカリブ海を目指した。ラー号は』五千キロメートルを『航海したところで破損したが、一年後の再挑戦では、見事にカリブ海のバルバドス島まで到達し』、一九七七年には『葦船「チグリス号」でインド洋を航海して成功している』。『この航海によって、南米からポリネシアへの移住が技術的に不可能ではなかったことが実証されたと一般には思われているが、南米大陸の太平洋側にはフンボルト海流という強力な海流が流れており、風上への航走能力を持たない』筏『ではフンボルト海流を越えてポリネシアへの貿易風に乗ることは困難である。実際、コンティキ号は軍艦に曳航されてフンボルト海流を越えた海域』(陸地から凡そ八十キロメートル)『から漂流実験を開始しており、この点をもって実験航海としての価値はさほど高くないと指摘されている』。『現在、人類学者・考古学者・歴史学者・遺伝学者などほとんどの研究者は、考古学・言語学・自然人類学・文化人類学的知見、および遺伝子分析の結果を根拠に、南米からの殖民は無かったとしている。ポリネシアへの植民はポリネシア人が考案した風上への航走能力を持つ航海カヌーを用いて、東南アジア島嶼部からメラネシア、西ポリネシア、東ポリネシアという順序で行われたと考えており、風上への航走技術を持たなかった南米の人々が自力でポリネシアに渡った証拠は無いと考えている』。『その一方で、本当にフンボルト海流を筏で乗り越えられないかどうかは不明だ』、『としてヘイエルダール説を擁護する意見も存在している。特にコロンブス以前に既に、オセアニア一帯で中南米原産のサツマイモが栽培されていたことから』、『南米からポリネシア方面への文化的影響は皆無ではなかったとする意見である。だが、この点についても』、『南米先住民がポリネシアに航海したと考えるよりは、ポリネシア人が南米大陸に来航してサツマイモを持ち帰ったと考える方が自然であり、現在のところ研究者の大半はそちらの仮説を支持している』。『また最近になって、カリフォルニア大学バークレー校の言語学者キャサリン・クラーらは、北米先住民チュマッシュ族とポリネシア系言語の語彙比較および出土物の放射性炭素年代測定から、ポリネシア人と北米先住民の文化接触の可能性を指摘した論文をCurrent Anthropology誌とAmerican Antiquity誌に投稿し、いずれの雑誌でも査読者の意見は割れたが、最終的にAmerican Antiquity誌に受領され』、二〇〇五年七月号に掲載された。但し、『この論文ではポリネシア側からの文化接触の可能性は示唆できても、南米側からの能動的な接触の証拠にはならない』。『また、「アステカ文明とエジプト文明との類似」についても、それぞれの文明が発生した年代が離れすぎており、「類似は偶然にすぎない」という説がほぼ主流である。特にピラミッドに関しては、技術が未発達な段階において、そこまで巨大な石造建造物を建設するには、どうしてもこの形にならざるを得ない(垂直に切り立った石壁とするには、ピラミッドよりも高い建築技術が必要である)ための類似であると考えられる』。但し、『ミトコンドリアDNAハプログループXおよびY染色体ハプログループR1の不可解な分布は、エジプト・ヨーロッパからアメリカへの移住が存在したとする、彼の説を支持する可能性がある』。『このようにヘイエルダールの学説には否定的見解が優勢であるが、自説を実証するために冒険を行ったヘイエルダールの業績自体は高く評価されている。ポリネシア人の東南アジア起源説を主張する学者たちからも尊敬の対象となっており、例えばこれまで唯一、オリジナルの古代ポリネシアの航海カヌーを発掘するなどの業績を持つ篠遠喜彦』(しのとおよしひこ 一九二四年~:ハワイ州ホノルルのバーニス・P・ビショップ博物館所属の日本生まれのアメリカの人類学者。ハワイ諸島やフランス領ポリネシアを始め、太平洋全域に及んだ人類学的探険調査によって知られる。ここはウィキの「篠遠喜彦」に拠った)も彼への敬意を明言している、とある。

「コンティキ号」前注で十分と思われるが、ウィキの「コンティキ号」からも一部を引く。同号はヘイエルダールらによって一九四七年に『建造されたマストとキャビンを持つ大型の筏』。『ヘイエルダールらは』『インカを征服したスペイン人たちが描いた図面を元にして、バルサや松、竹、マングローブ、麻など、古代でも入手が容易な材料のみを用いて一隻のいかだを建造した。図面に忠実に製作されたが、航海の終り頃まで機能がわからないパーツもあった』、『とヘイエルダールは語っている』。『コンティキ号は現在』、『ヘイエルダールの母国ノルウェーのオスロにあるコンティキ・ミュージアム(Kon-Tiki Museum)に展示されている』。Kon-Tiki Museumの公式サイトをリンクしておく。当時の実験航海の動画なども視聴出来る(但し、記載はノルウェー語)。]

2016/10/01

佐渡怪談藻鹽草 河原田町止宿の旅人怪異に逢事

     河原田(かわはらだ)町止宿(しじゆく)の旅人怪異に逢(あふ)事

 

 小木町に住(すみ)ける、海老原何某(なにがし)といへる町人は、相川御家人の中にも、所緣の方ありて、折節の贈答も有(あり)ける。享保のはじめ、内用ありて相川に出(いで)、用事仕舞ければ、晝八ツ頃に相川を立出(たちいで)、一僕を連れて河原田町まで歸りける。折節空荒(あらく)、日も暮れかゝりければ、夜に入(いり)、荒增(あらさます)らんも覺束なく不圖(ふと)思ひ出て、

「此(この)所に、先年見かわせし人もあれば、此程の疎遠を詫(わび)て、一夜明(あか)さん」

とおもひ、何某が門に至りければ、亭主早くも見付(つけ)て、

「是は客人御尋(おたづね)、いざいざ御入候得」

とて、無音の情も語りければ、此(この)方よりも疎遠を詫て、

「一夜明させ給へ」

とゆへば、

「いかでか賴(たより)にや及べき。某(それがし)も近頃は、不仕合のみ打續(うちつゞき)、萬端不都合のみ候わんが、何卒宿り給へ」

といひけるに、心とけて洗足して上り、土間になして手狹く住(すみ)なせり。

「御連合(つれあひ)」

と尋ければ、

「一兩年病に臥(ふし)て、過(すぎ)し頃世を去り、今は壱人住(すみ)にて候」

といふ。

「然らば、萬(よろづ)御世話のみにてあらん、必(かならず)、心遣ひし給ふな」

といへば、

「心得候」

とて、背戸畑の芋などを掘て、夕飯とりしたゝめ、振舞、

「急ぎ給ふ事なきならば、二三日ゆるゆると語り給へ」

などいひければ、

「内用の事にて出ぬれば、明日はとく歸り、又春禮の頃、立寄(たちより)候わん」

と約し、世の中の事ども咄し合(あひ)て、亥の刻斗(ばかり)に、

「いざ休み給へ」

とて、土間の向ひなる一間の座敷に案内して、夜の物など運び、六枚折の屛風、かたかた枕元に立て、脇に燈も置(おき)、

「用あらば呼び給へ。勝手の用心もあしければ、某は勝手に寢候なり」

とて、供のものも勝手に寢させける。旅人は突き倒すごとく、眠く有けるが、床(とこ)付くより目冴(さへ)て、寢られず。何やらん、心地あしく、すごき樣にて、さまざまの事どもおもひつゞけ、猶も寢られざるに、夜も早、子の刻過(すぎ)候わんとおもふ頃、枕の燈もねむり出(いで)、消(けし)つ燈(ともし)つ、

「いとゞ心細きにぞ、かゝげん」

とて、延(のび)あがるあふり風にて、燈はきへぬ。

「いとゝよる方なき心地して、早く夜の明(あけ)よ」

とおもふに、勝手ははるかに鼾聞え、物淋しき。最早、丑の刻斗りぞとおもふ頃、内井戸の中に何やらん、ざつぶと庭へ踏上る音して、勝手の方へ呼び行(ゆく)やふなれば、

「怪しや」

とおもふ内、又旅人の臥たる座敷の方へ、歩行(ありゆき)きければ、肝魂も身に添(そへ)ず居けるに、三尺の唐紙をさらりと明(あけ)て、ずつしりずつしりと歩み來る程に、汲(くみ)流す汗は、夜具をひたして、生(いき)たる心地もなきに、彼(かの)旅人の臥(ふし)たる枕なる屛風の外迄きたりて、何音もなし。旅人はいとゞ心地まよひて、いきをつめ居ければ、暫しありて、元(もと)來りたる方へ、歩み行(ゆく)にぞ、あらゆる佛神に誓ひをかけて、祈り居けるに、暫くありて、井戸の中、始(はじめ)のごとき音して、入(いり)ぬと覺へ、はじめて生(いき)たる心地しぬ。やゝありて、亭主咳(せき)わらひして來たり。

「是は燈も消たり。御目は覺(さめ)てか」

といへば、

「いざいざ是へ」

と亭主を招き、兎角明朝は早立を賴みて、夫(それ)より直(ただち)に起居(おきゐ)、明七ツ頃立出(たちいで)たり。小木へ着(つく)や否(いな)、手寄の人に尋(たづね)ければ、彼(かの)家は、此程の取沙汰を聞(きく)に、井へ身を投し、女房の亡魂、怪をなして、雇わるゝ人さへなきよしを聞(きゝ)、今更びつくりして後悔しぬ。

 

[やぶちゃん注:「河原田(かわはらだ)町」現在の佐渡市河原田本町附近か。

「享保のはじめ」「享保」は一七一六年から一七三五年であるから、一七二二年ぐらいまでか。

「内用」ごく私的な内々の用事。

「晝八ツ」午後二時頃。

「見かわせし人」相知る人。

「無音の情」「無音」は「ぶいん」と読み、長い間、音沙汰(おとさた)のないこと。永く無沙汰であったことへの忸怩たる思い。

「いかでか賴(たより)にや及べき」やや訳し難い。この「賴(たより)」は海老原が自分の無沙汰を詫びた結果、立ち位置としてはこの河原田町の何某の方が、恰も「賴」り甲斐のある人間のように持ち上げられてしまったことを受けての反語表現で、「いや! 私の方こそ、あなた以上にあなたに御無沙汰を致し、まっこと、相済まぬことにて御座いました。」という謙遜のニュアンスであろう。

「不仕合のみ打續(うちつゞき)」やることなすこと、これ、孰れも上手くゆかぬことが続きに続き。

「萬端不都合のみ候わんが」何もかも不都合にて御座いますが。とても十分なおもてなしを出来ませぬけれども。

「心とけて」ほっとして。海老原は無沙汰が永かったので、下僕も一緒なれば、止宿を断わられる可能性を考えていたものであろう。

「土間になして」屋内で床板を張らず、地面のままか、或いは三和土(たたき)にしてあることを「土間」という。家内が総てそうなのでは無論ない。後に「土間の向ひなる一間の座敷」とあるように、この男の家は話の終りに「雇わるゝ人さへなきよし」と出るように、このやや広めにとった土間を以って、何かの商売をしているものと思われる。他にはその向かい(奥)に板敷の一間があるだけなのであろう。だから「手狹く住(すみ)なせり」と添えているのである。

「御連合(つれあひ)」「奥方さまは?」。

「一兩年」一、二年ほど。

「過し頃」何年前と示さないのは、実は近年のこと乍ら、後に出るような怪異が起こると広まっている故に、そこを殊更に避けて述べているもののように感ずる。但し、この怪異、後半のシークエンスでの主人の様子を見るに、どうも夫本人は全く経験していないか、或いはそれに鈍感なのか、又は、その怪奇現象に慣れて日常化してしまっているのか(自身の気の病いとでも思っているのかも知れぬ)、何とも、海老原の怪異体験に対して、不思議な応対をしている。但し、そこがまた、この怪談の他に類を見ない、面白い部分であるとも言えるように思う。

「萬(よろづ)御世話のみにてあらん」「万事、最小限の御手数だけをお掛け下さればそれで宜しゅう御座いまする。」。

「夕飯とりしたゝめ」夕食の準備など成し。

「春禮」「しゆんれい」と読んでおく。新年の祝詞を述べるために正月に親戚・知人・近隣を訪問すること。

「亥の刻」午後十時頃。

「かたかた」(枕元の)傍ら。

「勝手の用心もあしければ、某は勝手に寢候なり」この唯一の部屋は、裏に抜けていない土間(勝手(台所兼用))からのみ入室出来る塗籠(ぬりごめ)のような構造なのであろう。だからこそ「勝手の用心もあし」(「惡し」)よろしくないので、と述べているのである。或いは、この男は土間の井戸から怪異が出来することは知っていて(自分では体験出来ずとも雇い人が辞める際に理由を述べたり、町の噂から知ることが出来る)、自分が勝手、敷地内の井戸の近くに寝れば、その怪異は他者に対しては起こらぬかも知れぬと考え、勝手に寝ることにしたのかも知れぬ。嘗て妻と同居していた以上、その海老原が寝た部屋は、主人も一緒に寝るだけのスペース上の余裕はあったと考えられるからである。

「突き倒すごとく」今にも昏倒しそうなほど。悪天候の中の強行軍で肉体的には勿論のこと、しかも無沙汰している何某の家に図々しくも泊めて貰うことへの気遣いなどから、精神的にも疲弊していた。

「床(とこ)付くより目冴(さへ)て、寢られず」疲弊しているのに眼が冴える、既に怪異は始まっているのである。

「何やらん、心地あしく、すごき樣にて、さまざまの事どもおもひつゞけ、猶も寢られざる」この全く内的な精神変調を描出するところ、筆者、これ、怪談の手練れ、という気を強くさせる箇所である。

「子の刻」午前零時。

「枕の燈もねむり出(いで)、消(けし)つ燈(ともし)つ」枕元に置かれた灯芯の火が、急に細く小さくなって、消えたかと思うと、またぽっと灯ったり、また、すぅーと細く萎むことを繰り返し。

「いとゞ心細きにぞ、かゝげん」『これじゃ、ひどく心細いことじゃて、灯芯を搔き立てて明るくせねば、これ、ならんて。』

「とて」と思うた、その瞬間。

「延(のび)あがるあふり風にて、燈はきへぬ」下から煽るような風が吹き上げたかと思うと、フッ! と灯は消えてしまった。これは夜着の中の海老原が風を体感したのではなく、全くの視覚印象で叙述しているところが実に映像的で上手い。

「いとゝよる方なき心地して、早く夜の明(あけ)よ」「いとゝ」はママ。「いとど」。『なんともまあ、訳は分からぬが、ひどく頼りないもの凄い心持ちのすることじゃて、早(はよ)う、夜の明けて呉れよ!』という切実な海老原の心内語である。

「勝手は」勝手からは。

「はるかに」何か遠く。五月蠅く聴こえているのではない。それでは怪異が形無しとなってしまう。

「鼾」「いびき」。

「物淋しき」訳もなくもの淋しい感じがしてくる。

「丑の刻」午前二時。

「内井戸の中に何やらん、ざつぶと庭へ踏上る音して、」「内井戸」とあるが、土間の中に井戸がある(実際、そうした井戸も多くある)のではなく、「庭」とあるから、恐らくは土間の勝手口のすぐ脇辺りの庇の下、庭の隅に井戸が併設されているのであろう。「中に」中から。「ざつぶと」ザンブと。擬音語。

「呼び行(ゆく)やふなれば」こちら(勝手イコール海老原の寝ている部屋)の方へ向かって行く様(よう)なので。「やふ」の歴史的仮名遣は誤り。

「肝魂も身に添(そへ)ず居けるに」「肝魂」は「きもたま」。臓腑も魂(たましい)も身体から抜け出るほどに恐ろしくなって蹲っていたところが。

「三尺」九十一センチ弱。

「唐紙」「からかみ」。襖(ふすま)。

「何音」「なんのおと」と訓じておく。

「咳(せき)わらひ」「咳拂(せきはら)ひ」。歴史的仮名遣の誤り。

「いざいざ是へ」「ち、ち、ちょっと! こ、こちらへ! 来ておくんなさい!」。但し、怪異を語るのではなく、口実として亭主に、「ちょっと別な急いで成さねばならぬ用件を思い出しましたによって、明朝は早立ちせねばなりませぬ。これより直ぐに起きて用意致さんと思いまする。下僕も起こして下され。」とでも言うたのであろう。

「明七ツ」定時法では午前四時頃であるが、「明」(あけ)とは附さず、不定時法では「明」ではなく、「曉(あけ)七ツ」である。不定時法の可能性が高いが、季節が判らない。全体の印象からは盛夏や厳冬の頃とは思われず、天候不順なのは秋の台風シーズンとも読めるから、それだと暁七つは午前三時半頃となり、時間の流れ、早々に立ち去りたい海老原の気持ちともよく合う時刻と思う。

「手寄の人」「たよりのひと」と訓じておく。「手寄」(たより)は縁故で、小木の海老原の知人で河原田町のその男或いは河原田町に縁故のある者。

「此程の取沙汰」近頃取沙汰されている噂。

「井へ身を投し、女房の亡魂」この読点はいらない。]

映画「硫黄島の砂」をみて   梅崎春生

 

 この映画は、アメリカ海軍陸戦隊の一分隊をとおして、タラワ、硫黄島攻略戦を描いている。物語の中心人物は、その分隊長、いわゆる鬼軍曹とでもいったような性格の人物で、これをジョン・ウェインが演じる。一応柄にはまった演技だ。こういう性格は、軍隊にはよく見られる型で、「北西への道」のスペンサー・トレイシーが演ずる主人公も、同じ型である。非情で、頑固で、全く戦闘向きの性格だが、こういう性格を設定することが、戦争映画、軍隊映画の、ひとつの定石なのであろう。

「硫黄島の砂」の構成方法は、日本の戦時中の映画「麦と兵隊」と同一である。つまり、一分隊を描くことによって、戦争そのものを描こうというやり方だ。米国版「鉄と兵隊」とでもいうところか。

 戦闘の描写は、私が今まで見た映画の中で、最も大がかりであり、また迫力をも持っている。実写とロケーションを巧妙に使いまぜて、実戦の凄惨さを髣髴(ほうふつ)とさせる。タラワのもそうだが、硫黄島のそれはことにいちじるしく、戦争というものは、巨大なる物量の費消だということを、はつきりと感じさせる。

 第一次大戦に取材した戦争映画にくらべて、ここには、戦争のロマンティシズムといったようなものはない。描かれているのは、非情な鉄の世界であり、大量的殺戮(さつりく)の状況である。私はこの映画を観ながら、楽しさというものを全然感じなかった。感じたのは、むしろ、生理的な苦痛のようなもの。

 ただし、この映画では、日本兵の姿は全然現われない。原版にはあるそうであるが、日本での封切にさいして削除した由である。そのせいで、この大がかりな攻撃も、単に一方的に力んでいるという印象は免れ難い。トーチカの中からひらめく日本軍の機関銃火、そういうものはあるけれども。

 分隊長の部下には、いろんな型の兵隊がいる。かつての日本製戦争映画みたいに、尽忠報国の人間ばかりではない。そういう点は、アメリカらしいがやはりそれらも型どおり、ひとつにまとめられている。だからこの映画は、見る人によって、いろいろ印象が異なるだろう。戦争の惨禍をまざまざとくみとる人もあろうし、その道の場合、つまり米海兵隊の勇猛さに感激して、戦意(?)を高揚する人もあるだろう。ある意味においては、よき反戦映画であり、別の意味においては、危険な映画である。後者のような観方は、厳に警戒さるべきである。

 

[やぶちゃん注:初出未詳。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。底本解題には執筆を昭和二五(一九五〇)年とするが、私はこれはおかしいと思う。何故なら如何に示すように「硫黄島の砂」の日本公開は昭和三七(一九六二)年だからである。同底本では「エッセイⅠ」の巻頭に本篇が配されてある。

「硫黄島の砂」Sands of Iwo Jimaは一九四九年(昭和二十四年)製作のアメリカ映画(公開も同年十二月十四日。日本公開は恐らくは敗戦した日本国民を考慮し、また梅崎春生の言っているような大幅な再編集作業もあって、大幅に遅れ、昭和三七(一九六二)年六月十九日であった。複数資料で確認済み)。監督はアメリカの映画監督で脚本家・映画プロデューサーでもあったアラン・ドワン(Allan Dwan 一八八五年~一九八一年:サイレント時代以来、実に四百三十本を超える作家的キャリアを持つ、アメリカ映画のパイオニアの一人(ウィキの「アラン・ドワン」に拠る)。原案はハリー・ブラウン(Harry Brown 一九一七年~一九八六年)。なお、残念なことに私はこの「硫黄島の砂」を含め、彼の作品は一本も見たことがない)。主人公軍曹ジョン・M・ストライカー(Sgt. John M. Stryker)を四十二歳のジョン・ウェイン(John Wayne 一九〇七年~一九七九年)が演じた。ウィキの「硫黄島の砂」によれば、『太平洋戦争末期の』「硫黄島の戦い」(太平洋戦争末期の昭和二〇(一九四五)年二月十九日から同年三月二十六日)に東京都小笠原諸島の硫黄島に於いて行われた日本軍とアメリカ軍と戦闘。アメリカ軍側の作戦名は「デタッチメント作戦」(Operation Detachment)。日本軍は二万百二十九名が戦死(或いは戦闘中行方不明)、アメリカ軍は戦死六千八百二十一名で大東亜戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計人数)実数が日本軍を上回った稀有な戦いで、この硫黄島上陸後わずか三日間に行われたヨーロッパ西部戦線に於ける対ドイツ戦「史上最大の上陸作戦」こと「ノルマンディー上陸作戦」(「オーバー・ロード」作戦)における戦死傷者数を上回るなど、第二次世界大戦最激戦地の一つである。以上はウィキの「硫黄島の戦い」に拠る)『を題材としている。硫黄島の星条旗を実際に立てた兵士たちが出演していることでも有名。また、硫黄島の戦いで』第三海兵師団(3rd Marine Division)団長であったグレーブス・アースキングレーブス・ブランチャード・アースキン(Graves Blanchard Erskine 一八九七年~一九七三年)将軍が『アドバイザーとして撮影に参加している』。『ロケーション撮影は、カリフォルニア州ロサンゼルスのCBSスタジオセンター、同州サンディエゴ郡オーシャンサイドのアメリカ海兵隊キャンプペンドルトン基地、同州サウザンドオークス、同州サンタカタリナ島で行われた』。『主演のジョン・ウェインはアカデミー賞主演男優賞にノミネートされ、他にも脚色賞、編集賞、音響賞にノミネートされたが、いずれも受賞はしていない。ウェインは本作で、米国の雑誌『フォトプレイ』のフォトプレイ映画賞男優賞を受賞した』。以下、ウィキの「梗概」。『アメリカ海兵隊の軍曹であるストライカーは、ニュージーランドのパエカカリキ基地で部下たちを厳しく訓練していた。やがて、ストライカーの隊も前線への移動が決まり、タラワの戦い、次いで硫黄島の戦いに参加することとなる。しかし、日本軍の抵抗の前に1人また1人と隊の仲間たちは倒れていく。そして硫黄島で摺鉢山山頂への偵察を行った時、ついにストライカーも撃たれてしまい、仲間が駆け寄ったときには既に息が無かった。悲しみに暮れる仲間たちの後ろでは今まさに星条旗が掲げられようとしていた』。サイト「Movie Walker」の同映画のそれのほうがよい。以下に引く。一九四三(昭和十八)年、『ニュージーランドの基地で戦争訓練を行なっている米海兵隊のジョン・ストライカー軍曹(ジョン・ウェイン)は、その過酷さの故に鬼分隊長として部下の反感を買っていた。新兵のピーター・コンウェイ(ジョン・エイガー)は、戦死した父大佐のことを元部下のストライカーが誉めるだけ、一層彼を敬遠していた。コンウェイがストライカーの反対を押し切ってアリスン・ブロムウェイ(アデイル・メラ)と結婚する頃、分隊はタラワ上陸作戦に参加することになった。この戦闘で分隊は兵数名を失い、トーマス伍長は橋頭堡でコーヒーを飲んでいるうちに、戦友を日本兵に刺し殺される失策を演じた。そしてストライカーは、親友のベス(ジェームズ・ブラウン)が重傷を負って呻いているのにも耳を貸さず、コンウェイらを憤激させた。分隊はハワイへ帰り、ストライカーは街の女メリー(ジュリー・ビショップ)と知り合ったが、彼女に子供のあることを知って何事もなく別れた。ついで分隊は硫黄島作戦に参加、摺鉢山に星条旗を押し立てたが、一息ついたストライカーは日本兵に狙撃されて即死した。彼のポケットに残されていたのは、故国のいとし子に送るやさしい手紙であった』とある。

「タラワ」「タラワの戦い」。太平洋戦争に於いて昭和一八(一九四三)年十一月二十一日から同年十一月二十三日にかけて、当時、日本軍が占領していたギルバート諸島(Gilbert Islands)タラワ(Tarawa)環礁ベシオ(Betio)島(現在のキリバス共和国(Republic of Kiribati))で行われた日本軍守備隊とアメリカ海兵隊との戦闘。米軍は「ガルヴァニック作戦」(Operation Galvanic)の一環として実施した作戦で、近代戦史初の正面からの水陸両用強襲作戦とされる。参照したウィキの「タラワの戦い」によれば、『この戦いでアメリカ軍は少なからずの損害を出したため、恐怖のタラワterrible Tarawa)もしくは悲劇のタラワtragic Tarawa)と呼ばれた』とある。日本軍戦死者 四千七百十三名、米軍戦死者千九名。

「北西への道」(Northwest Passage)は、一九四〇年にアメリカで製作・公開された、私の好きなスペンサー・トレイシー(Spencer Tracy 一九〇〇年~一九六七年)主演の映画。勘違いしてはいけないのは、一七五〇年頃の英国統治下にあったアメリカを舞台とした開拓時代の戦争映画であることである。サイト「KINENOTE」の同作データにあるシノプシスを引く。当時、『新大陸に領土拡張を企図するフランスが凶悪なインディアンを手先として、英人開拓者に残虐な妨害を企てていたため紛争が絶えなかった。血の気の多い造船業者の息子の青年画家ランドン・タウン(ロバート・ヤング)はハーバード大学に在って教師を風刺したため放校されメイン州キタリイの我が家に帰ったが、婚約者エリザベス(ルース・ハッシー)の父のブロウン牧師と前途の職業のことで衝突し、婚約破棄を申渡され、憤懣の余り酒に勢をかりて植民地監察官ジョンスン卿の悪口をいい危うく逮捕されそうになった。ランドンはジョンスン卿を悪罵して捕らえられていた奮友のハンク・マリナア(ウォルタア・ブレナン)と街をのがれる途中の街道で、ロバート・ロジャース少佐(スペンサア・トレイシイ)と知り合った。フランス側のインデアンの根拠地の急襲を計画中のロジャース少佐は二人を説いて、自分の討伐隊に参加させる。討伐隊の目的地は聖フランシスのインデアン集落であったが、途中行程は言語に絶する困難なものであった。彼らは仏軍に発見されぬ様、夜間だけ水路を進んで行ったが、途中で道案内のインデアンの裏切りのため、負傷した四分の一の隊員を後送し、僅か200名足らずの部隊となったが、ロジャース少佐の強い意志の指揮よろしきを得、22日の行軍の末、ついに目的地に到着した。部隊は暁と共に聖フランシスの集落を奇襲し、イギリス人に暴虐行為をふるったインデアンを殲滅した。しかし、彼らが当にしていた食糧は焼けており、帰路は往路に勝る苦難なものとなった。戦闘で腹部に重傷を負ったランドンは幾度か落伍しかけたが、ロジャース少佐の激励と、集落で救われた白人の女ジエニー(イザベル・ジュウェル)に介抱されながら隊列を追って行った。食糧の欠乏のため、ロジャース少佐の指揮も徹底せず、食料を求めるため途中で四隊に分かれて分進し、集結点のウェントワースの砦に着いたのはロジャース少佐の率いる一隊のみであった。瀕死の隊員はようやく救援隊の到着に生気をとり戻し、喚起をあびてポーツマスに帰った。ロジャース少佐の指揮する討伐隊は英国王の新たなる命令により、北西の路を太平洋岸まで開拓するため、再び出発しなければならなくなった。エリザベスと結婚し、英国に絵画修業に行くことになったランドンは、一行を感慨ぶかく見送った』。

「麦と兵隊」火野葦平が昭和一三(一九三八)年に『改造』に発表した戦記小説。ウィキの「麦と兵隊」によれば、『本作品は火野の弁によると小説ではなく従軍記録であり、日中戦争開始翌年』、昭和十三年五月の『徐州会戦に於ける進軍中の旧日本軍の実情を、従軍民間マスコミの高慢な態度などとも併せて活写している』。『前年末の南京攻略戦参加(杭州湾に敵前上陸)の後、火野は招集直前に脱稿した政治的寓意小説『糞尿譚』によって3月に第六回芥川賞を受賞し、4月に中支那派遣軍報道部に転属されている3月、杭州で文芸評論家小林秀雄による陣中授与式が行われた。本作品の山場である孫圩(そんかん)』『での中国軍の強襲の最中、極限状況に陥る場面で、火野が小林との哲学的対話を想起しながら走馬燈体験をする箇所がある。この日の記述には、私は、今、廟の前の穴から出て来て、再び廟の中に入り、この日記を書きつけて居る。私は昨日まで一日終わって、その一日の日記を書きつける習慣であったけれども、今、私は、既に、一日終る迄私の生命があるかどうか判らなくなった。今は午後六時二〇分である。というような箇所があるように、『麦と兵隊』は「どんなに疲れていても遺書のつもりで書く」(本人談)という火野の強い意志の結実であると言える』。『小林は本作品を戦場における日本人の自然な心情の発露として賞賛している。抛棄された民家に残る現地中国人の生活感、進軍中果てることなく続く麦畑等自然の風物、戦闘で負傷し遺棄されて憔悴して草をはむ軍馬の姿などが印象的である』。『戦後、火野は当局に削除されていた捕虜の殺傷場面などを記憶を頼りに補筆し、これを以って「最終稿」とした』。「麦と兵隊」は、『捕虜の支那兵を日本軍の軍人が斬首するのを火野が反射的に目を背け、火野が自分自身のその当たり前の人間としての反応に自ら安堵する感想で終わる。前年末の南京攻略戦の折の百人斬り競争が本土および海外の紙面を賑わせた結果、国内では問題視されなかったが、海外では虐殺行為が国際的非難を呼び起こして軍部が対応に苦慮していた時期である』。『本作品は、発表翌年』に早くも英訳され、現在まで約二十ヶ国語に翻訳されており、『日本国内における記憶の低下に反して現在でも評価は高い』。『火野は本作品によって、いわば帝国軍人の規範としての役割を担わされ、戦時中は除隊帰還後も各地で講演などを行った。このため敗戦後間もなく』、『復員兵から罵声を浴びるなどもし』、昭和二二(一九四七)年の『「黄金部落」には戦後の希望に満ちた内容とは裏腹に、既に復員兵の戦時中の上官への復讐心を書いた逸話も見える』。翌一九四八年にはGHQによって『文筆家としての追放処分を受けた。これらのことは』、昭和三三(一九六〇)年の『新安保条約締結直後の自裁に至る戦後の火野の足取りに、暗い影を落としていると見られる』とある。なお、私は火野葦平の「河童曼陀羅」電子化注を手掛けている。未見の方は、御笑覧あれ。

『米国版「鉄と兵隊」』「麦と兵隊」を皮肉った謂いであって(「鉄」は物量戦で勝ったアメリカ、或いはアメリカ兵を鉄製の交換部品に「非情」に擬えたものでもあろう)、このような小説が実際にアメリカにある訳ではない。なお、ウィキの「麦と兵隊」の注に、六十年安保闘争『直後の火野の自裁後、間もなく米作家ジェームズ・ジョーンズ』(James Jones 一九二一年~一九七七年:第二次世界大戦とその戦後について探求した作品で知られ、私も好きな真珠湾攻撃前後を舞台とした兵隊映画「地上(ここ)より永遠(とわ)に」(From Here to Eternity)の原作者である)が上梓した小説「シン・レッド・ライン」(The Thin Red Line  一九六二年)は火野の「麦と兵隊」の『ガダルカナル戦における米兵視点からの書き直しとでも言うべきものである。テレンス・マリック』(Terrence Malick 一九四三年~)による同作の一九九八年の『映画化作品では、火野の原作を連想させる光景が頻出する』とある。]

諸國百物語卷之二 二十 越前の國にて亡者よみがへりし事

     二十 越前の國にて亡者(もうじや)よみがへりし事

 

 ゑちぜんの府中に法花寺(ほけでら)あり。あるとき、死人をつれきたりて、寺にてもくよくをさせ、髮をそりけるに、聖人(しやうにん)、手に腫物(しゆもつ)できたるゆへ、弟子にすらせければ、死人(しにん)の髮、にわかに鹿の毛のごとく、こわくなり、なかなか、そりあたらず。そろそろ、かみながくなりければ、弟子ぼうず、かみそりをすて、にげんとする所に、聖人、亡者にむかい、

「なんぢ、つねづね、心もちあしき故、死しても、まよふ、と見へたり」

とて、きやうくんし、經をよまれければ、死人の髮、しだいにやわらぎ、みじかくなりけると也。きく人、みな、聖人のしゆしやうなる事をかんじけると也。

 

[やぶちゃん注:底本のページ末には「諸國召物語卷之二終」とある。

「ゑちぜんの府中」福井県嶺北地方の中南部に位置する市越前市内か(国府遺構は発見されていない)。

「法花寺」これは天台宗の別称である天台法華宗である。日蓮宗ではない。後の「すらせければ」の注を必ず参照のこと。

「もくよく」「沐浴」。この場合は、清拭(せいしき)のための湯灌(ゆかん)・湯洗のこと。仏葬に於いて死体を棺に納める前に湯水で拭き清めること。

「聖人(しやうにん)」高僧の尊称。ここは当寺の住持と読み換えてよい。

「腫物(しゆもつ)」腫(は)れ物。

「すらせければ」「剃(す)らせければ」。「する」は「剃(そ)る」の音変化。死者の頭髪をこの弟子に剃らせているのである。通常、江戸時代までの浄土真宗及び日蓮宗を除く仏式葬儀に於いては、故人は死後になって「僧」になったと見做し、それを示す証(あかし)として、遺体の髪を完全に剃ったり、或いは一部を切ったりして埋葬する習慣が普通に行われていた。但し、浄土真宗と日蓮宗に於いては教義上の理由から、この儀式は行わなかった(と私は認識している)。されば、冒頭、「法花寺」とはあるものの、ここではこれは「日蓮宗」ではあり得ないことになるのである。

「こわくなり」「強(こは)くなり」。歴史的仮名遣は誤り。

「そりあたらず」「剃り當らず」。剃刀の刃が立たず、一向に髪が剃れず。

「そろそろ、かみながくなりければ」剃れないどころか、逆に妄執の蛇のように、みるみる、ぞろぞろと生き物の如くに髪が延びて長くなってくるのである。だから(「ば」)、弟子の僧が逃げ出すのである。

「心もちあしき故」心掛けが悪かった、現世へ未練を過剰に残しているから。

「きやうくん」「教訓」。

「しゆしやう」「殊勝」。神々しいまでに優れていること。]

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