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2016/10/31

谷の響 二の卷 十六 怪蟲

 十六 怪蟲

 

 文政年間、千葉某といへる人嶽の温泉に浴(ゆあみ)したる時、同僚(どうやく)の人二三人に促されて筍子(たけのこ)を摘(と)るにとて山に上り、篠叢(さゝむら)の繁みに入りて探れるうち、何やらん響(ものおと)して竹の葉の搖れ亘(わた)れるに、如何なるものや出來んと倶に足をふみしめ見やりたるに、長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺もあるべき形狀(かたち)芋蠋(いもむし)の如く太く短きものにして、背に金色の鱗を累(かさ)ね頭は小兒の翫ぶ獅子といふに似て、眼口大きく髮を被りていと怕きものなるが、(するする)出來るにすは擊殺せと立蒐(かゝ)らんとするに、一人堅く制する人有りしが、手を下さで見てあればこのもの驚き惶るゝ氣象(けしき)なく、徐(しつか)に路を橫ぎりて傍なる叢箴(やぶ)に入りけるなり。龍にあらず蛇にあらず、いまだ諸史にも見へざる蟲にていといと奇代のものなりと、この千葉氏は語られき。南溪が西遊記に榎の蛇(うはばみ)といふを載せてその形太く短きものといへり。もしくはかゝる物に有ざるか。[やぶちゃん字注:「」=「月」+「羊」。

 安政四丁巳の年の四月、御藏町の寅次郎といへる者、龍の子とて持來るを見るに長さは三尺許り、環周(まはり)は六寸もあらんか。手足なくして全體千朶(たん)卷といふ鞘に等しく、割片(きざめ)相つらなり硬くして甲の如く、廣さ二分餘厚さ一分も有るべし。體中悉(みな)空虛(うつろ)にして骨なく肉なく、髗骨(あたま)決壞(くだけ)て眼口の痕(あと)見得ず。背と肚(はら)との差(けじめ)も分明(あきらか)ならざれど、首根(もと)二片(ひら)中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處あるを見れば、この方は背なるべし。又中半の六七片は磨(すれ)て割目(きざめ)あざやかならぬは肛と見ゆるなり。尾の端六七寸兩岐(ふたまた)となりたるが、こも中空虛(うつろ)にして擘斷(ちぎれ)たる狀(さま)にて裂けたり。色は淡灰黑(うはべづみ)色に赤身を帶(ふく)めり。未だ好くも乾かぬものなれば腥くして、水に入るれば脂膏(あぶら)浮(あが)れり。この異蟲(むし)一月の下旬(すゑ)の出水にながれ來つるがして、三ツ目内の河の岩に係りてありけるを、石川村の者見當り世に希らしきものなりとて、携へ歸りて土(ところ)のもの老夫と倶に見すれども、更に知るものなくたゞ龍の尾なるべしといへりとぞ。さるに、日を經てこの寅次郎といふものこを酒に換へたりとて己が裡に持來り、これが名を求むれども、己從來(もとより)史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬからかゝる怪しきものは見も及ばねば、そのよしいふて歸したり。如何なる異物(もの)にかあらん、希らしかりしなり。

 

[やぶちゃん注:「怪蟲」「かいちう」と読んでおく。

「文政年間」一八一八年~一八三〇年。

「嶽の温泉」前条に出た。現在の青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺」全長六十一センチメートル弱、胴回り約三十センチメートル。

「怕き」「こはき」。

蟉(するする)」二字へのルビ。オノマトペイア(擬音・擬態ともに)。

「出來るに」「いでくるに」。

「すは」「それ!」。感動詞。他の者の注意を促す発語。

「擊殺せ」「うちころせ」。

「立蒐(かゝ)らんとするに」「たちかからん」。よってたかって打ちのめそうとしたところが。

「一人堅く制する人有りしが」「有れば」とすべきところ。

「手を下さで」「てをくださで」。

「見てあれば」傍観していたところ。

「惶るゝ」「おそるる」。

「徐(しつか)に」読みはママ。

「叢箴(やぶ)」二字へのルビ。「箴」は「針」で不審。何か「竹」や「藪」の意の(たけかんむり)の漢字の誤記ではないか?

「南溪が西遊記に榎の蛇(うはばみ)」江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)が寛政七(一七九五)年に板行した紀行「西遊記」の「正編卷一」に「榎木の大蛇」の一章がある。以下に引く(岩波新日本古典文学大系版を参考に漢字を正字化して示した)。

   *

 

    榎木ノ大蛇

 

 肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)壱岐守殿御城下、五日町(いつかまち)といへる所に、知足軒といふ小庵あり。其庵の裏はすなはち求麻川なり。其川端に大(おほき)なる榎木あり。地より上三四間程の所二またに成りたるに、其またの間うつろに成りゐて、其中に年久敷(ひさしく)大蛇すめり。時〻此榎木のまたに出(いづ)るを、城下の人〻は多く見及べり。顏を見合すれば病む事ありて、此木の下を通るものは頭をたれて通る、常の事なり。ふとさ弐三尺まはりにて、惣身色白く、長サは纔(わづか)に三尺餘なり。たとへば犬の足なきがごとく、又、芋蟲によく似たりといふ。所の者、是を壱寸坊蛇(いつすんばうへび)と云(いふ)。昔より人を害する事はなしと也。予も每度其榎木の下にいたりうかゞひ見しかど、折あしくてやついに見ざりき。

   *

●「肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)」は現在の大分県人吉市。●「求麻川」球磨川。●「三四間」五メートル四十五センチから七メートル二十七センチほど。●「弐三尺」六十一センチ弱から九十一センチ弱。

「その形太く短きものといへり」これって、「つちのこ」じゃ、ね? ウィキの「ツチノコ」によれば、同形或いはそれらしいものは、かなり古くからの(後掲するように一説に記紀の頃からの)未確認動物の一つとし知られている。『鎚に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で目撃例があるとされる』。その形状は『普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている』ことを最大の特徴とし、二『メートルほどのジャンプ力を持』とか、いや、高さ五メートルだとか、いやいや前方へ一気に二メートル以上飛ぶとか、二メートルどころじゃない、十メートルだなどとも言われ、『日本酒が好き』・『「チー」などと鳴き声をあげる』・『非常に素早い』・『尺取虫のように体を屈伸させて進む』・『尾をくわえて体を輪にして転がるなどの手段で移動する』・鼾(いびき)をかく・『味噌、スルメ、頭髪を焼く臭い』を好む、などと言われ、また『猛毒を持っているとされることもある』(但し、私は「つちのこ」に咬まれて死んだとする実例を知らない)。『ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた日本語の方言だった。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約』四十『種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。』『縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている』。奈良時代の「古事記」「日本書紀には『カヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある』。『江戸時代に出版された百科事典』寺島良安の「和漢三才図会」に『「野槌蛇」の名称でツチノコの解説がある』私の電子テクスト注「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「のつちへび 野槌蛇」の項を是非、参照されたい)。東北地方では『十和田湖付近の山中で、体長約』三十『センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている』。二〇〇七年四月には『山形県最上郡大蔵村の牧場の干草の中から、ツチノコ状のヘビの死骸が発見された。この死骸は写真が撮影され、ツチノコ写真の中でも信憑性が高いとの声もあるが、日本国内のヘビ研究の権威である日本蛇族学術研究所は、干草がオーストラリア産であったことから、この死骸はオーストラリアの毒ヘビであるデスアダー』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科デスアダー属コモンデスアダー Acanthophis antarcticus)『だった可能性を示唆している』。北陸地方では江戸の文化年間頃の随筆「北国奇談巡杖記」に『ツチノコのものとされる話が以下のようにある。石川県金沢市の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、雷のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという。同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集』「聖域怪談録」『にも記述がある』。『新潟県糸魚川市能生地区の山中でツチノコが目撃された』『同地区では「つちのこ探検隊」が結成され』二〇〇六年『以降から毎年ツチノコの捜索が行われ、最大』一『億円の賞金がかけられている』。『新潟県小千谷市に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている』とある(本書のロケーションに繋がる地方のみを採った。他の地方はリンク先を参照されたい)。『正体についての仮説』の項。『新種の未確認動物とする説』の他、『特定種のトカゲ類の誤認とする説』があり、その一つにインドネシア・オーストラリア・パプア=ニューギニアに棲息するアオジタトカゲ類(有鱗目トカゲ亜目 Scincomorpha 下目 Scincoidea 上科トカゲ科アオジタトカゲ属 Tiliqua)を誤認したとする説がある。このトカゲは一九七〇年代から『日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の荒俣宏は、流行の原因となった漫画』(一九七三年、ツチノコに遭遇した経験を持つという漫画家の矢口高雄がツチノコをテーマとした漫画「幻の怪蛇バチヘビ」を発表し、これがツチノコ・ブームの契機となっていた)『の影響で脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある』。『ただし、ツチノコは尾が細いとされるが、アオジタトカゲは尻尾が太い点が異なる』(実際、似ている。ウィキの「アオジタトカゲの画像を見られたい。古くからの発見例の説明がつかない)。また、オーストラリア産のマツカサトカゲ(同トカゲ科 Scincidae のマツカサトカゲ属マツカサトカゲ Trachydosaurus rugosus)を『誤認したとする説。このトカゲは岐阜県の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも愛玩動物として飼育されている。このことから、心ない者が山野に捨てたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある』(これも古くからの発見例の説明がつかない)。そうではなく、『胴の短い種類の蛇の誤認とする説』も当然あり、先に出た『デスアダーを誤認したとする説。これは毒蛇で太く短い体型がツチノコに近い。実際に山形の目撃談にも出てくる』(実際、やはり似ている。グーグル画像検索「Acanthophis antarcticusをリンクしておくが、蛇アレルギーの方はクリックされない方が無難。これも古くからの発見例の説明がつかない)。或いはヒメハブ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科ヤマハブ属ヒメハブ Ovophis okinavensisを『誤認したとする説。これも毒蛇で南西諸島に生息し、ツチノコとの類似も古くから指摘されている。デスアダーとも似ているが』、『胴の短さではデスアダー以上にツチノコに近い』グーグル画像検索「Ovophis okinavensisをリンクしておくが、注意は同前! しかし、これでは本州での古くからの発見例の説明がつかない)。また、普通の蛇の『腹の膨れた』個体を『誤認したとする説』があり、事実、在来の蛇であるヤマカガシ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus。有毒蛇)やニホンマムシ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。有毒蛇)などが『妊娠中で腹が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある』『大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説。蛇は顎の間接が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる』。『以上にあげたような複数の目撃証言が一つに複合されたものがツチノコとする仮説もある』とする。私は生存個体はいおろか、死亡個体やその断片もないのに、日本国内の広汎な地域で未発見種が種を保存しているとする非科学的な説は、全くあり得ないと考える人間である。

「有ざるか」「あらざるか」。

「安政四丁巳」一八五七年。「丁巳」は「ひのとみ」。干支は正しい。

「御藏町」既出既注であるが再掲しておく。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここgoo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。

「環周(まはり)は六寸」二字へのルビ。「六寸」は十八・一八センチメートル。

「千朶(たん)卷」「千手巻」とも書き、「千段巻(せんだんまき)」と同義。刀や槍の柄などを籐(とう)や麻苧(あさお:麻の繊維を原料として作った麻糸)で隙間なく巻き、漆で塗り込めたもの。

「割片(きざめ)相つらなり」これは蛇の背の鱗が逆立った形になったものであろう。私はこれは死んで間もない蛇類の断裂個体の表皮とその下の真皮層と脂肪層の一部だけとなった残骸(頭部が失われ、骨格と筋肉や内臓が総て脱落した)であると考えている。体色からすると、先に注で出したニホンマムシであろう。

「廣さ二分餘厚さ一分」広さ七・六ミリ、厚さは三ミリ。先のひびらいた甲の鱗のサイズであろう。蛇のそれと見て不思議ではない。

「決壞(くだけ)て」二字へのルビ。

「首根(もと)二片(ひら)」これは首のカマの左右に張り出し部分の残痕であろう。

「中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處ある」これは或いはのペニスの残痕かも知れぬ。ただ、損壊で出来た傷とも読めなくはない。

「肛」肛門。蛇の場合、頭の後ろから肛門までが胴体で、肛門よりも後ろが尾である。

「六七寸」二十~二十一センチメートルほど。

「兩岐(ふたまた)となりたるが」尾が二股の異常個体は存在する(次条に出る両頭蛇も実在する)が、これ、裂断が甚だしく、これも単に尾が二股に裂けただけの可能性が高い。

「こも中空虛(うつろ)にして」これも中は空虚であって肉も骨格もない。

「擘斷(ちぎれ)たる」二字へのルビ。「擘」は「つんざ・く」(「劈く」とも書く)と訓読みでき(「つんざく」は「つみさく」の音変化)、「勢いよく突き破る・強く裂き破る」の意。

「淡灰黑(うはべづみ)」三字へのルビ。

「腥くして」「なまぐさくして」。

「異蟲(むし)」二字へのルビ。

「出水」「でみず」。

「ながれ來つるがして」ママ。「ながれ來つる物にして」或いは「ながれ來つるが物にして」。

「三ツ目内」既出既注。再掲する。現在の南津軽郡大野町大鰐町(おおわにまち)三ツ目内(みつめない)。大鰐の南の川に沿った山村地区。ここ(ヤフー地図データ)。

「石川村」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『弘前市石川(いしかわ)。弘前の南六キロ。羽州街道添いの農村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「見當り」発見し。

「希らしき」「めづらしき」。

「老夫」物知りの古老。

「倶に見すれども」皆、一緒になって観察してみたが。

「こを酒に換へたり」この「龍の尾」というものが如何にも珍しいものに見えたので、酒と交換して入手した。

「己が裡」「わがうち」。平尾の屋敷。

「持來り」「もちきたり」。

「これが名を求むれども」この不思議な生物の名(正体)を教えてくれと言ってきたが。

「己」「われ」。

「史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬから」意味不明。「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ぬから」或いは「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ざるから」。総ての古今の博物書に眼を通したわけではないので、の意でとっておく。

「そのよしいふて」「その由(よし)云ふて」。

「異物(もの)」二字へのルビ。]

甲子夜話卷之二 40 田沼氏在職中の有樣幷陪臣驕奢の事

2―40 田沼氏在職中の有樣陪臣驕奢の事

先年、田沼氏老職にて盛なる頃は、予も廿許の頃にて、世の習の雲路の志も有て、屢彼第に往たり。予は大勝手を申込て、主人に逢しが、その間大底三十餘席も敷べき處なりき。他の老職の坐敷は、大方一側に居並び、障子などを後にして居るが通例なるに、田沼の坐敷は兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき。その輩は主人の出ても見えざるほどの所なり。其人の多きこと思ひやるべし。さて主人出て客に逢ときも、外々にては、主人は餘程客と離れて坐し、挨拶することなりしが、田沼は多人席に溢るゝゆへ、ようようと主人出坐の所二三尺許りを明て、客着坐するゆへ、主人出て逢ふときも、主客互に面を接する計なり。繁昌とはいへども、亦不禮とも云べきありさまなり。さて何方も佩刀は坐敷の次に脱て置ことなるが、如ㇾ此きの客ゆへ、坐敷の次には、數十腰か知れず刀を並べて、海波を畫けるが如くなりし。此外にも、今にいかゞと臆中に殘りしは、公用人三浦某と云しを用、賴に約して主人の逢日に往て、取次を以て三浦へ申入ければ、答るには、只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし。陪臣の身として、我等をかく取扱こと世に希なることなるべし。予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし。當年の權勢これにて思ひ知るべし。然ども不義の富貴、信に浮雲如くなりき。

■やぶちゃんの呟き

「田沼氏在職中」遠江相良藩初代藩主で老中として重商主義の「田沼時代」と呼ばれ、権勢を揮った田沼意次(享保四(一七一九)年~天明八(一七八八)年)の老中(格)在職は、明和六(一七六九)年八月に側用人から老中格に異動(側用人兼務・侍従兼任)で、明和九(一七七二)年一月に老中に異動し、天明六(一七八六)年八月二十七日に老中依願御役御免となって失脚(雁之間詰)まで。翌年には蟄居となっている(ウィキの「田沼意次」に拠る)。

「陪臣」直参の旗本・御家人に対して、諸大名の家臣を言う。

「予も廿許の頃にて」「廿許」は「はたちばかり」。静山の生年は宝暦一〇(一七六〇)年であるから、数えなので安永八(一七七九)年頃となる。意次は数え六十一である。

「世の習」「よのならひ」。世の常のことなれば。

「雲路の志も有て」「うんろのこころざしもありて」より高い官職に就いて、出世したいという希望も人並みにあって。

「屢」「しばしば」。

「彼第」「かのだい」。田沼意次の上屋敷。

「大勝手」不詳。辞書類にはない。但し、後の描写を見る限りでは、対面の間、それも大座敷のそれである。

「申込て」「まうしこみて」。

「主人」意次。

「逢し」「あひし」。

「その間」「そのま」。

「大底」凡そ。

「三十餘席も敷べき處」三十人分の座布団をゆったりと「敷べき」(しくべき:敷くことが出来るほどの)座敷の間。

「居るが」「をるが」。座るのが。

「兩側に居並び、夫にても人數餘るゆへ、後は又其中間にいく筋にも並び、夫にても人餘り、又其下に居並び、其餘は坐敷の外通りに幾人も並居ることなりき」異様に座敷が広いことに驚いているのではなく、その広い座敷でも足りずに、座敷の外の廊下にまで一回の来客がはみ出して座るほど、雲霞の如く、対面を望む者らがやって来ているのを静山は驚いたのである。「兩側に居並び」とは、以下に見るように、まず、主人意次の出座する位置のすぐ直近に、左右に一人分ほどの間を空けて座り、その後ろに、その空隙の背後にやはり左右に展開して座り、更にまた、その間隙の後ろに幾「筋」にも並んで、「夫」(それ)でも座れない者がいて、その方々は、なんとまあ、座敷の外廊下にこれまた何名も坐っているという有様だったと呆れているのである。十九歳の凛々しい青年清(きよし)の、素直な驚いた顔が思い浮かぶようだ。

「その輩」「そのともがら」。廊下にはみ出た連中。

「主人の出ても見えざるほどの所なり」主人がその大座敷に対面のために出座しても、それが見えない、それに気づけないほどの、とんでもない遠い場所にいたのである。

「出て」「いでて」。

「逢とき」「あふとき」。

「多人席に溢るゝゆへ」「多く人、席にあふるるゆゑ」。歴史的仮名遣は誤り。

「ようようと」ようやっと。辛うじて。

「二三尺」六十一~九十一センチメートルほど。

「明て」「あけて」。空けて。

「面」「おもて」。

「計なり」「ばかりなり」。

「繁昌とはいへども」人が引きも切らずご機嫌伺いに来て「繁盛している」とは言ってもそれは。

「不禮とも云べきありさまなり」大名や相応の地位の武家の者が対面することを考えた時(静山はこの二十当時、既に従五位下壱岐守で肥前国平戸藩第九代藩主であった)、無礼と言ってもよいほどの呆れた仕儀であった。

「何方も」「どなたも」。

「坐敷の次」「座敷の次の間」。手前の小部屋。

「脱て置こと」「ぬぎておくこと」。

「如ㇾ此きの」「かくのごときの」。前に述べたように異常なほどに多人数の。

「數十腰か知れず」六十本前後とも知れぬほどの多数の。

「海波を畫けるが如くなりし」「海波」は「かいは」。盛り上がったり、下がったりする、巨大な海の波濤を立体に描いたような有様であった。

「此外」「このほか」。

「今にいかゞと臆中に殘りしは」今でも『あんなことは如何なものか』とすこぶる疑問に思うこととして、私の記憶の中に、はっきりと刻み残されてあることは。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月の執筆開始であるから、静山は既に四十二年以上も前の記憶であるから、よほど、以下に書かれたようなやり方が、静山にとっては、武家というよりも人道に悖(もと)る不快にして卑怯なやり口と、今も感じていることがよく判る。

「公用人」「こうようにん」。大名や小名の家で幕府に関する用務を取り扱った役。

「三浦某」三浦庄司(みうらしょうじ 享保九(一七二四)年~?)は相良藩士で「田沼時代」の政策立案に深く関わった人物。備後国福山藩(現在の広島県福山市)領蘆田郡府川村(同府中市)出身。田沼家用人三浦五左衛門の養子となり、田沼意次が老中であった頃の公用人として権勢を振るった。天明六(一七八六)年六月のこと、田沼は全国の農民・町人らから、御用金を取り立て、それを資本として諸大名に貸し付けを行おうとしたが、この立案には三浦が介在していた。ところが、これが諸大名の激しい反発を浴び、撤回を余儀なくされてしまい、これこそが田沼失脚の原因となってしまう。その結果、この三浦は田沼家から暇を出された(この頃、田沼の用人であったことから、彼の兄山本藤右衛門や弟の弁助も福山藩主阿部正倫に重用されていたが、この田沼失脚により追放されている。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「云しを用」「いひしをもちひ」。

「賴に約して」この三浦庄司に依頼し、面会の約束をして。

「逢日」「あふひ」。

「往て」「ゆきて」。

「申入ければ」「まうしいれければ」。用心のために、再度、面会確認の申し入れをしてみると。

「答るには」「こたふるには」。

「只今御目にかゝるべし。然どもそれへ出候ときは、御客の方御とりまきなさるゝゆへ、中々急に謁見叶難く候間、何卒密に別席に御入り有たし迚、予を隱處へ通し、密に逢たりし」「本日、只今(ただいま)より、御出座なされ、お目にかかることとは思われまする。しかしながら、大座敷へお出でなされた時には、瞬時に大勢の御客方が主人を取り巻きなされます故に、なかなかすぐには、これ、謁見は叶(かな)いがたいものにて御座いますればこそ、(貴方様は従五位下壱岐守にて肥前国平戸藩第九代藩主であらせられ、幸いにして意次様のお気に入りで御座いまするよって(ここは私の推定敷衍訳))何卒(なにとぞ)、「密」(ひそか)に別に拵えましたる静かな御座敷にお入りあられたい(「有たし(ありたし)」)「迚」(とて)、私を「隱處」(いんきよ:蔭の別座敷。)へ通し、密(ひそ)かに一対一で親しく、逢う手筈を調えたりした(「逢たりし」(あひたりし))。結果として静山は優遇されたわけだが、それを彼はすこぶる道義に反すると考えたのである。恐らくは、その大広間には清よりも年上で、しかも官位も石高も上の大名がいたからであろう。しかも、順序を守らずに、如何にも優先してやった的な慇懃無礼な特別扱いに、逆に腹を立てているのであると私は思う。それを意次自身ではなく、以下に見る通り(「陪臣の身として、我等をかく取扱」(とりあつかふ)「こと世に希なることなるべし」)、たかが雇われの陪臣風情が独断でやっていると清には推定出来たのである。確かにますます無礼千万な輩(やから)ではある。

「予は大勝手の外は知らず。中勝手、親類勝手、表坐敷等、定めて其體は同じかるべし」私は意次邸の大広間(とこの時の別座敷)しか行ったことはなく、他は知らぬ。しかし、中座敷(中位の大きさの座敷か)・意次が彼の親族や姻族と対面する座敷、或いは表座敷(この場合は玄関に近い方の、主に小人数の急の客と面会する客間・応接間として使う座敷)なども、その状態は恐らくはこの大座敷と似たり寄ったりの有様であったに違いない。

「當年の」当時の。

「權勢」「けんせい」。

「信に」「まことに」。

「浮雲」「うきぐも」。儚いものの譬え。意次の後の失脚の事実を指す。

甲子夜話卷之二 39 旗下の小出氏、家紋の事

2―39 旗下の小出氏、家紋の事

小出龜之助とて【二千石】當時御使番なる人、予も相識にて武邊者なり。此人の家紋、額の中に二八と文字あり。予其故を問に曰。我が先祖、某の處【地名忘】に於て首十六を獲て、其邊なる祠の額に積て實檢に及べり。神祖功勞を賞給ひて、其狀を家紋にせよと命ぜらるゝより、この如しと云へり。

■やぶちゃんの呟き

「旗下」「はたもと」。旗本。

「小出氏、家紋」サイト「戦国大名探究」の小出氏」の本文及び画像を参照のこと。なお、この「額」(がく)の中に「二八」の家紋は小出氏でもその分家の家紋のようである(ウィキの「小出に拠る)。樹堂氏のサイト「古樹紀之房間(こきぎのへや)」の「諏訪神の越後分祀と小出氏」の「2額紋」の項で本条への考察に関わる記事が出る。沼田頼輔著「日本紋章学」で本条について、『沼田博士は、「扁額は神社寺院に掲げる神聖なものだから、あの玉垣・千木堅魚木を紋章に選んだのと同じ意味で用いたもので、これに二八の文字を記したのは、二十八宿の頭文字をとったものらしい」とコメントして、「信仰的意義に基づいたものと考えられる」と推論』し、『額紋を用いた姓氏は』「寛政重修諸家譜」に『藤原為憲系の小出氏と、同じく藤原氏支流に属する小出氏とがある。そして、その同氏同紋であることから推測して、両氏は同じ祖先から出たものであろう」と記され』あてあるとある。『これら沼田博士の記事に拠ると、旗本の小出氏は尾張系の小出氏の後裔となるから、信濃出身で藤原為憲系と称した小出氏は、用いた家紋から、実際には神官系(諏訪の古族後裔)であったことが明らかになって』くるとある。

「小出龜之助」「【二千石】當時御使番」不詳。識者の御教授を乞う。本流のどこで分岐したかだけでも結構。「御使番」(おつかいばん)は江戸幕府(諸藩にもあった)の職名で、古くは「使役(つかいやく)」とも称した。元は戦国時代に戦場に於いて伝令や監察・敵軍への使者などを務めた役職で、これがそのまま、江戸幕府や諸藩に継承されたものである。

「相識」「あひしき」。知れる人物。

「武邊者」勇猛果敢で武道・武術に長けた人物。

「予其故を問に曰」「予、その故(ゆゑ)を問ふに曰はく」。

「我が先祖」家康と関わったとすれば、小出秀政・小出秀家・小出吉英などの名が挙げられよう。

「某の處【地名忘】」「なにがしのところ【地名、忘れたり。】」。

「獲て」「とりて」。

「其邊」「そのあたり」。

「なる」にあった。

「祠」「やしろ」。

「積て」「つみて」。

「實檢」首実検。

「神祖」徳川家康。

「賞給ひて」「ほめたまひて」。

「其狀を」「そのかたちを」。

甲子夜話卷之二 38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事

2―38 某家の家老、吉原町遊女のもとにて政務を辨ずる事

過にし頃、奧州を知れる某侯の家老、新吉原の遊女のもとに通ひ、後は甚しくなりて、用人奉行抔をも皆勸誘して、もし隨はざる者あれば、己が權に據て陵辱しければ、皆畏怖して隨ひ行けり。又甚しきは、一宿のみか居續して、十日にさへ及り。從へる用人奉行の輩も同じく居續ければ、其邸より官に申し出べき願書なども、皆遊宴の所に持來り、かむろ取次てかの家老に達せしとなり。竟に主君の咎めをうけて逼塞せり。これぞ寛政始の事なりけり。總て寛政にて維新の令を下されざりし前は、世上の弊風これに類すること夥しきことなりき。

■やぶちゃんの呟き

「某家」不詳。識者の御教授を乞う。

「過にし」「すぎにし」。

「奧州を」ママ。「奥州の」に読み換える。

「新吉原」当時世界最大の都市であった江戸の膨張の中、幕府は明暦二(一六五六)年十月に幕府は当時、現在の日本橋人形町に当たる当時は海岸に近かった元は葦屋(よしや)町(これが「よしはら」「よしわら」の語源)と呼ばれる地にあった「吉原」の移転を命じ、浅草寺裏の日本堤へ移転していた。

「己が權に據て」「おのがけんによりて」。

「陵辱」「凌辱」に同じい。暴行。

「居續」「ゐつづけ」。「流連」とも書き、遊里で幾日もの間、泊まり続けて遊ぶこと。対語 は「一夜切(いちやぎ)り」。

「及り」「およべり」。

「輩」「やから」。

「其邸」その江戸家老の屋敷。

「申し出べき」「まうしいづべき」。

「持來り」「もちきたり」。

「かむろ」「禿」。「かぶろ」と読むのが本来であるが、近世以後では「かむろ」と清音でも呼んだ。太夫(たゆう)・天神など上位の遊女が、傍に置いて使う一三、四歳くらいまでの遊女見習いの少女。この段階では男はとらない。

「取次て」「とりつぎて」。

「逼塞」「ひつそく(ひっそく)」。武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された。

「寛政始」「かんせいはじめ」。「寛政」は一七八九年から一八〇一年主に倹約を旨とするタイトな経済政策を打ち出した「寛政の改革」は松平定信が、老中在任期間中の一七八七年から一七九三年にかけて、主導して行ったから、まさに「寛政の」初めに相当する。

「寛政にて維新の令を下されざりし前」「寛政の改革」よりも前。一般には賄賂が横行したとされる「田沼時代」。老中の田沼意次が幕政を主導していた明和四(一七六七)年から天明六(一七八六)年までの凡そ二十年間(或いはそれより前の宝暦期(一七五一年から一七六四年)から天明期(一七八一年から一七八九年)ともされる)。田沼意次が幕閣に於いて政権を握ったのは安永八(一七七九)年)のことであり、特に天明元年を契機としたとされる。江戸幕府が重商主義的政策を採った時代である(以上はウィキの「田沼時代に拠った)。「維新」は「維(こ)れ新たなり」の意で、「詩経」「大雅」の文王の「周は旧邦と雖も、其の命、維れ、新たなり」に基づく語で、「総ての事柄が改められ、完全に新しくなることを言う。

「弊風」「へいふう」。悪しき風俗。

譚海 卷之二 信州善光寺公事の事

信州善光寺公事の事

○信州善光寺の御朱印は千石也。且又(かつまた)善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也。そのうへ江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺にて、信州の住持と、江戸の尼寺と兩寺にて持來(もちきた)る事なり。近來靑山の尼寺諸侯の息女うちつゞき住持する事になりたるゆへ、自然と尼寺の威權(いげん)つよき樣になり、終(つひ)に信州の住持と御朱印配分の爭論(さうろん)おこり、公訴に及(および)たる事のありしに、公裁(こうさい)にも是非わかちがたく、千石の御朱印は善光寺如來へ付置(つけおか)れたる事なれば、如來所持の寺、御朱印進退すべきよし仰出(おほせいだ)されし時、兩寺ともに同作の如來所持ある事故、これもわかちがたく、最末(さいまつ)御吟味の所、善光寺眞の祕佛の本尊は、信州の寺にある事に決し、東叡山へ御吟味仰付(おほせつけ)られ、日光御門主より覺樹王院僧正へ祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける。御門主よりも右の次第公儀へ仰上(おほせあげ)られ、いよいよ信州の寺御未印進退すべき事に定(さだま)り、尼寺住持公儀(こうぎ)へ召出(めしいだ)され、御朱印は信州の寺へ下さるゝ間、分米(ぶんまい)の義は兩寺相對(あひたい)に致すべしと仰渡(おほせわた)され、其砌(そのみぎり)直(ただち)に兩寺とも東叡山支配に仰付られし故、宗旨は淨土にて支配は東叡山より沙汰する事に成(なり)たり。右御裁許(ごさいきよ)相濟(あひすみ)たるに、御門主より千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし仰付られけるとぞ。

[やぶちゃん注:「公事」「くじ」と読む。民事訴訟。

「御朱印」将軍が花押(かおう)の代わりに朱印を押して発行した公的文書であるが、ここはそれで公定された寺領の石高。

「善光寺は古來より淨土宗の寺なれども、檀林增上寺等の末寺といふことにもあらず、支配なき寺也……」前条にも少し注(引用で)したが、善光寺はその総体は現在も非常に珍しい無宗派の寺院である。ウィキの「善光寺によれば、『山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と』二十五院、『浄土宗の「大本願」と』十四坊『によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが』、『代々公家出身者から住職を迎えている』、『古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する』。『特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済』『が挙げられる』とある。

「江戸靑山の尼寺本願上人といへるより、善光寺由緒の寺」現在の港区北青山にある南命山(なんみょうさん)善光寺。松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の南命山善光寺|港区北青山にある浄土宗寺院の頁によれば、こちらの青山の善光寺は、永禄元(一五五八)年谷中に創建され、宝永二(一七〇五)年、『光蓮社心誉知善上人明観』(みょうかん)『大和尚の代に当地へ移転、江戸時代には信州善光寺本願上人の東京宿院であったとい』う。以下、「江戸名所圖會」による善光寺の縁起によれば、

   *

 南命山善光寺 同所(靑山)百人町(まち)右側にあり。信州善光寺本願上人の宿院にして、淨土宗尼寺あり。本尊阿彌陀如來は御長(みたけ)一尺五寸、脇士(けふじ)觀音・勢至の二菩薩は、共に一尺づつあり。称德天皇の景雲元年[やぶちゃん注:西暦七六七年。]八月十五日夜、法如尼(はふぢよに)和州當麻(たいま)の紫雲庵にて念佛誦持の頃、信州善光寺の如來、來現ありしを拝し奉り、直ちに一刀三禮(さんらい)にして其の御形を模(うつ)さる、是れ、則ち、當寺の本尊なり。

 當寺は永祿元年[やぶちゃん注:西暦一五五八年。]戊午(つちのえうま)の創建にして始めは谷中(やなか)にありしを、中興光蓮社心譽知善上人明観大和尚の時、宝永二年[やぶちゃん注:西暦一七〇五年。]、臺命(たいめい[やぶちゃん注:ここは将軍の命令。])に依つて、此の地へ遷(うつ)されけるととなり【今、谷中に善光寺坂と號(なづ)くるは、其の舊地なるが故にして、其の旧跡は今の玉林寺の地なりと云ふ】。什寶は中將姫、自(みづか)らの毛髮を以つて製造する所の六時の名號あり。

 觀音堂【本堂の左に並ぶ。堂内觀音百躰を安ず。本尊は聖觀音にして其の丈二尺ばかりあり、惠心僧都の作なり、當寺、むかし、谷中にありし頃、自(みづか)ら火中を遁れ坐給ひし靈像なりといへり。故に字(あざな)をして火除(ひよ)けとも、又は火災の時、榎(えのき)にうつり給ひしにより、榎觀世音とも稱ずるといへり。】。

   *

とある(以上はリンク先のそれと、ちくま文庫版を参考に恣意的に正字化して示した)。

「持來(もちきた)る」運営維持する。

「威權(いげん)」「威嚴」。勢力。

「つよき樣になり」「強きやうに成り」。

「爭論」紛争。

「公裁」公事による民事訴訟の裁定。

「如來所持の寺、御朱印進退すべきよし」本尊である如来を所持する寺が寺領配分を自由決定する権限を行使するのがよいという調停案を示したということを謂うのであろう。

「最末」最終的な、の意であろう。

「東叡山」東叡山寛永寺円頓院。天台宗。

「覺樹王院僧正」不詳であるが、覚樹王院大泉寺(最初は湯島にあったが、明和大火(行人坂火事)により一七七二年に焼失し、深川に移転)という寺はあった(現存はしない模様)。

「祕佛の檢使仰付られ、僧正信州え發向祕佛拜見せられける」ウィキの「善光寺によれば、この像は『三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸』(四十五・四五センチメートル)『の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されて』おり、『その姿は寺の住職ですら』、『目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される』とある。また、同ウィキの年表に、元禄五(一六九二)年に、『秘仏の本尊を検分する使者が幕府から派遣され実測された』とあるが、ここはそれを指すものか(下線やぶちゃん)。

「分米」通常は、検地によって定められた耕地の石高を指すが、ここは全寺領の石高の二寺へに分配配当高を指している。

「義」底本には右に『(儀)』という補正注がある。

「相對」双方が対等の立場にあることをいう。幕府の裁定としては粋な計らいと言うべきであろう。

「千石の御朱印の内六百石は信州の寺へ、四百石は江戸尼寺へ分米すべきよし」折半でないのは、明らかに寺の規模が異なり、従事する僧の絶対数も違うからであろう。部外者の私でも穏当な配分量と見る。]

諸國百物語卷之四 十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事

    十一 氣ちがいの女をみて幽靈かと思ひし事

 

 ある人、あづまより、みやこへのぼるとて、みちにて、日くれ、雨にあひて、とまりはぐれて、かなたこなたとする所に、かしこに、柴のかりや一けんありけるを、たちより、

「一やのやどをかし給はれ」

と云ふ。ていしゆ、たちいで、

「やすき事也」

とて、よびいれ、たき火などにあたらせけるが、夜もやうやう四つじぶんのころ、ていしゆの女ばう、わづらふと見へしが、その夜にむなしくなりにけり。ていしゆ、たび人をたのみ、

「われは寺へまゐり、出家をたのみまいるべし。そのあいだ、るすをたのみ申す」

とて、ていしゆは、たちいでぬ。たび人、すさまじくおもひけれども、ぜひなく、るすしてゐたりけるが、なにとやらん、おそろしく、身のけもよだつばかりにおもひける折ふし、なんどのかたより、としのほど、廿あまりなる女、いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ、たび人を見て、にこにこと、わらふ。たび人、これを見て、氣もたましひも、うせはてゝ、身をすくめてゐたりし所へ、ていしゆ、かへりければ、たび人、うれしくて、

「さてさて、ふしぎの事こそ候へ。御内儀はいまだ御はてなされずと見へたり。たゞ今まで、なんどのくちより、それがしを見て御わらひなされ候ふ」

とかたりければ、ていしゆもおどろき、なんどにいりてみれば、女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり。ふしぎにおもひ、あたりをみれば、となりに氣のちがいたる女、有りしが、いつもきたりて、たゝずみゐけるが、その夜もうらの口にたちゐければ、かのたび人を、まねき、

「これにては、なかりけるか」

とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしなひけると也。

 

[やぶちゃん注:「あづま」「吾妻」。広義の関東の意。

「柴のかりや一けん」「柴の假屋一軒」。粗末な柴で作った掘立小屋が一軒。実際にはこの建物は隣りの家もあるから、二軒あるのだが、背後にでも隠れて見えなかったのであろう。

「四つじぶんのころ」「四ツ時分の頃」。定時法で午後十時頃。

「すさまじくおもひけれども」心気に於いてもの凄い感じではあったけれども。

「るすしてゐたりけるが」「留守(役)をして居たりけるが」。

「なんど」「納戸」(「なん」は唐音)。本来は衣類・家財・道具類を仕舞い置く部屋で屋内の物置部屋を指すが、中世以降は寝室にも用いられた。ここは後者で「寝間(ねま)」である。

「いろしろくかねくろぐとつけたるがいでゝ」「(顏の)色白く、鉄漿(かね)黑々と附けたるが出でて」。「鉄漿(かね)」はお歯黒のこと。

「女ばうはべつの事もなく、しゝてゐたり」「女房は別の事も無く(蘇生したような様子も全くなく)、(さっき看取ったままに)死して居たり」。

「ふしぎにおもひ、あたりをみれば」「不思議に思ひ、邊りを見れば」。

「となりに氣のちがいたる女」「隣りに氣の違ひたる女」。

「いつもきたりて、たゝずみゐけるが」「何時も來りて、(裏口のところで)佇みけるが」。納戸を抜けたすぐ奥にあったのであろう。ここは掘立小屋であるから、これらの配置は我々が想像する以上に狭い空間内にあると考えねばならぬ。そうした閉塞空間なればこそ、その向こうに今一軒の隣家があり、そこに狂人の娘が住んでおり、毎日のように、その裏口に立っては覗き、時に部屋の仲間で入り込んで来るなどという事情は、まず、何も知らぬ旅人には想定外の事実である。さればこそ、「かのたび人を、まねき、/「これにては、なかりけるか」/とて、みせければ、また、たび人、氣をとりうしな」ったというのも頷けるわけだが、本話、貧者の茅屋・その亭主の妻の頓死・死者と留守居をする旅人・隣家の白い亡霊のような狂人娘の恐るべき笑みという暗く悲しい現実の事象の積み重ねなのに、そうして、死者が蘇生したのではなくて実はそれは隣りの気違いの娘だったのだということを亭主が説明なしで見せて確認させてしまった結果、旅人が遂には気絶昏倒してしまうという筋書きが、登場人物全員に失礼乍ら、読者にとっては面白さの際立つショート・ショートの体(てい)を成している。]

2016/10/30

甲子夜話卷之二 37 妖僧、山鹿氏と對接の事

2―37 妖僧、山鹿氏と對接の事

昔、僧に、人の心中を能知り其思ふと所を云ふ者あり。誰人も皆見ぬかれて一言もなし。此時山鹿甚五左衞門【素行先生】未だ若かりし頃なりしが、或人其僧に對面せしむ。山鹿固辭すれども聞かず。止ことを得ず、遂に對面せしに、彼僧、常とかはりて、今日は心中の事云は御免あれと云ふ。山鹿、是非承りたしといへども云はざりしとなり。これを見るもの大に訝り、いかなれば彼僧云得ざるやと山鹿に問へば答には、我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり。若し我が胸中を一言にても口外せば拔打にせんと思切りて居たるを知たると覺て、言出さずして逃返りしなるべしと云しと。

■やぶちゃんの呟き

「山鹿氏」「山鹿甚五左衞門【素行先生】」山鹿素行(やまがそこう 元和八(一六二二)年~貞享二(一六八五)年)は江戸前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖。名は義以(よしもち)。甚五左衛門は通称で、素行は号。ウィキの「山鹿素行」によれば、『陸奥国会津(福島県会津若松市)』で浪人の子として生まれ、寛永五(一六二八)年、六歳で江戸に出た。寛永七年、九歳で、『大学頭を務めていた林羅山の門下に入』って『朱子学を学び』、十五歳からは『小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ』。後、『朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる』。寛文二(一六六二)年頃から朱子学に対する疑問が強まり、『新しい学問体系を研究』、寛文五(一六六五)年、『天地からなる自然は、人間の意識から独立した存在であり、一定の法則性をもって自己運動していると考えた。この考えは、門人によって編集され』「山鹿語類」『などに示されている』。延宝三(一六七五)年になって『許されて江戸へ戻り、その後』十年間は『軍学を教えた。その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている』とある。

「對接」「たいせつ」接対」応接・対面すること。

「能」「よく」。

「誰人」「たれびと」。

「此時未だ若かりし頃なりしが」は以下の「山鹿」の修飾で、位置がおかしい。

「止ことを得ず」「やむことをえず」。止むを得ず。

「彼僧」「かの僧」。

「今日は心中の事云は御免あれ」「今日はその御仁の心中に思わるることを言うは、何卒、御容赦下され。」。

「大に訝り」「おほいにいぶかり」。

「云得ざるや」「いひえざるや」。「言い当てることが出来なかったか?」。

「答」「こたへ」。

「我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり。若し我が胸中を一言にても口外せば拔打にせんと思切りて居たるを知たると覺て、言出さずして逃返りしなるべし」これ全体が山鹿が答えた言葉であるが、少し表記を変えてみる。

「我が心に決したるは、『心中に思ふ所の物有りて(それを)知るは理(り)の當然なり。若し、我が胸中を一言にても口外せば、拔き打ちにせん』と思ひ切りて居たるを、(その心を確かに読んで)知りたると覺えて、言ひ出さずして逃げ返りしなるべし」

敷衍的な補語を加えて意訳してみる。

「拙者が心の中で確かにはっきりと思うたことは、

――所詮、人は同じ人であるからして、人が心底、その心中に、ある決意を以って明確に念じたところの思いは、種々の表情やちょっとした仕草、その人の体全体から発する気配などから、十全に推理して明確に知り、言い当てるなんどということは、妖しいことでも何でもない。理の当然である。さて、もし、そうした私の胸の内を完全に読むことが出来、それをこの場でこれから一言でも口外したならば、ここで拙者は、貴僧を一刀のもとに抜き打ちにしようぞ!――

とのみ、強く念じて御座ったればこそ、その総ての、則ち、私が抜き打ちにして斬り殺すという部分までも総て、かの僧は読心して御座ったと思われ、読み取ったことを言うことなく、逃げ帰ったので御座ろう。」

所謂、ありがちな、二律背反、ジレンマのパラドックスであるが、妙な飾りがない分、非常に清々しい話柄と言える。私は好きだ。なお、ネット上を調べてみると、複数の現代語訳で、「我心に決したるは心中に思ふ所物有て知るは理の當然なり」の箇所を――私が心の中で思ったことを読み取ることが出来たとすれば、あの僧が、あのように尻をからげて逃げ帰ったのは当然のことだ――と言った感じで訳しているのを見かけたが、それは原文に即していない、表現としてそのようには採れない、と私は考える。そして、そんな「屁理屈」を頭に出してしまって山鹿の台詞を訳してしまうと、「如何にも解り易いが、如何にもクソのようにつまらぬ」話柄となってしまう。これはあくまで冷徹な論理の、軍学家らしい、実にのっぴきならない一対一の対決の妙味の面白さなのである

「云し」「いひし」。

谷の響 二の卷 十五 山靈

 十五 山靈

 

 この中村某といへる人、天保九戌の年の荒歳に東濱なる奧内村に勤番して有けるが、百姓ども山に入りて檜樹の皮を剝ぎ取る故、こを制せん爲め山中を見分に巡り、往々(ゆきゆき)てツホケ森と言ふに至れり。この山ことに檜樹多ければ登らんとなしたるに、引路(あない)の者の言へるは、この山に山神の住ませ玉へる故に登る時は必ず風雨起りて人を傷むることままあれば、登る事は停(とゞま)り玉へとありけれども、吾私に登るにあらず、公命なれば山神とても豈(いかで)難を加ふべき、とく導(あない)せよと言へど只(たゞ)に平伏(かしこまり)て、私どもは千乞(どうぞ)おゆるし下さるべしと言へるに、血氣盛んの時なれば以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばらと呵(しか)りちらして辿往(たどりゆ)くに、檜樹森々(いよやか)に繁滋(しげれ)る中、皮を剝たるものもまゝあれば、然(さ)ては渠等(きやつら)犯せる罪のあるからに吾を欺騙(だませ)るものなるべし。さればよく見屆けて縡(こと)を立つべしとて、すでに廿町ばかりも登りしに、海潮(うしほ)の涌が如く響きわたりて一山鳴動し、忽ち暴風(はやて)起りて葉を裂き樹を折り、見る見る大雨盆を傾くるが如く雷鳴地軸に徹し、片時も耐居ることならねば急いでもとの處へかけ下りしに、引路(あない)の者ども途の半に迎へ出て有つるに、これに助けられて三丁ばかり下りしに、雨の痕(あと)も漸々にうすく村近くなりて一滴のあとだになく、粉埃(こなほこり)起(たつ)てありしかば、渠らが欺かぬ由をしりしなりと語りけるとなり。

 又、この人笹子(たけのこ)を取らんとその隣家(となり)なる齋藤某と二個同伴(ふたりつれ)にて、岩木山の裾野なる小杉澤に往きけるに、その頃大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】の兄弟と渾名(あだな)せる山中自在の老人(おやじ)ありて大膽なる人なるが、この日も往きてとある片蔭に憩み煙草を吹て居たりしが、元より知遇(しれ)る人なれば倶に休みて語らひたるに、老父が言ふ、必ず赤倉の澤へは登らざれ、風雨の難のみならずことによれば過傷(けが)する事も間々あるなり。こなたの澤には笋子も多ければ其處にて取るべし。諄々(かへすかへす)赤倉へは登るべからずと示(おしへ)しに、謝儀(れい)を演(のべ)て喩(をしへ)のまゝに辿り行きしに、齋藤が言へるは、かの老父自らよき獲物せんとて吾等を欺騙(だま)せるものならん。いでその赤倉に往きて取るべしとて、路を改(かへ)て登りしに、いかにも大きなる笋子さはなれば、然(さて)こそとて笑ひ合ひつゝすでに一背負も取得たる頃、俄然(にはか)に山中震動して黒雲足下(あしもと)に起りて溪澗(たに)を封(ふさ)ぎ、迅雷(いかづち)宇宙(そら)に轟き驟雨(おほあめ)砂石を流して、その凌然(すさま)じきこと言ふべくもあらず。二個(ふたり)は大に驚惶迷亂(おどろきあはて)、倉卒(にはか)に笋子を荷負(にない)て嶮岨(さかしき)も厭はで十四五丁も脱去(にげ)たりしに、かの老父傍(かたへ)の藪蔭より聲をかけ大にあざみ笑ひ、己が言を聽ずして濡鼠となるは好き氣味なれど吾にまで雨に遇はせたりとて、夫より倶に下りしが二丁許にして雨の痕(あと)更になければ、誠に山戒の守るべく犯すべからざるを知れり。こは天保初年の事なりとてこの中村は語りしなり。

 また小館某の二男なる人、その同伴(とも)五六人と山中投宿にて筍子を取らんと、嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】より鳥海山の方へ登りしが、何地にか迷ひ往きけん亂柴(むづし)を僂洩(くぐ)り嶄絶(なんしよ)を匍匐(はらば)ひ、難を凌いで漸々(ようよう)に坦地(ひらち)に出たるが、その傍なる溪澗(たに)を見れば篠(しの)竹の彌(いや)蕃(しげ)りに茂りたれば、さてはよき地(ところ)なりとて個々(おのおの)篠叢(さゝやぶ)に入り、少々時(わつかのあいだ)にしていとよき筍を多く獲りつれば、卒(いざ)晝飯を喫はんとかの坦地(ひらち)に戾りて憩(やす)らひしが、圍(まはり)二尺二三寸より三四尺なる木の今伐りたりと見ゆるもの、何處ともなく飛來りて礫を打つが如くなれど、人には中らで頭の上僅か一尺ばかり離れて足下(あしもと)一二尺の前に墮ち、又甚しきはこの木の長さ七八尺のものなどは、地に墮る勢ひに二箇三個に折れたるもあれど、人かげもなく木を伐る音も聞えねば、これぞ大人の業(わざ)ならんと咸々(みなみな)怕(おそれ)をなして飯も食ひ得ず、早卒(にはか)に其地(ところ)を立退きしに忽ち雷鳴天地を轟かして大雨盆を傾くるが如くなるに、いよいよ怖れて北(にげ)走りしが、硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】の上に出たれど、猶雨は止まざるに風且(また)起りて吹飛ばさるゝが如くなれば、玆にも耐得で馳(はせ)下り本湯【嵩温泉の涌壺なり。】といふ處に來る頃、風雨しばらく和ぎしに僉々(みなみな)放心(あんど)して徐行(しづか)に嶽に戾りしが、その途中より又雨のあと更になく嵩にては風も吹かずと言へり。山神の掲焉(いちゞるき)こと惶るべきなりと、木村某なる人小館より聞しとて語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「山靈」「さんれい」と読んでおく。ウィキの「山霊」によれば、『山に宿るとされる神霊の総称』で、『古来日本の山の多くは山岳信仰の対象として聖なる山として祀られており、そうして山には様々な神々や霊が宿るとされていた。また山は霊界に最も近いところとも言われ、死者の霊が集うとも言われていた。そうした神々や霊の総称を山霊と呼ぶ』。『山霊は聖地たる山に人が入ることを良しとせず、山中に踏み入る人に対して警告を発する意味で、怪しげな音を立てたり、不気味な声を出したり、笑い声をあげたりする。時には人間への報いとして、怪火を出現させて畏怖を与えることもあるという』私も電子化注を行っている松浦静山の「甲子夜話」にも、『山霊のことが語られている』(「甲子夜話」は膨大で元を点検する暇がない。見付け次第、追加する)。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之六」に載る「相州大山怪異の事」を指していよう。】『その昔、関東のとある山でのこと。麓の茶店に登山途中の』二『人の男が立ち寄り、休憩をとった』。二『人は先を急いでいる様子だったが、足は進んでいないようで、しかも時は既に夕刻だった。このままでは山に登りきる頃には夜更けになってしまう』。『店の主人や客たちは、夜の山に入るのは良くないと、明日改めて山に登ることを勧めたが、男たちは今夜中に頂上をきわめたいと言い張り、彼らの制止を聞かずに店を去って山へ入って行った』。『間もなく凄まじい雷鳴が轟き、大雨が降り始めた。やがて雷雨はやんだが、店の主人たちは何か異変が起きたに違いないと、次の日に男たちを探して山へ入った。すると案の定、頂上へと続く途中の木に、男たちの身につけていた着物などが引っ掛かっていた。男たちの姿は影も形もなかった。一同は、彼らは山霊にやられたに違いないと、畏れながら話し合ったということである』とあって、この「甲子夜話」の話では二人が二人とも殺害され、遺体も消えている。二人とも直近にあって落雷の直撃を同時に受け、肉体が断裂し、獣に食われてしまったとも考えることは可能である。

「この中村某」前話「谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅」の最後の最後に名が出る人物。如何にも前話の採集と本話のそれが共時的であったことを窺わせる書き出しである。

「天保九戌の年の荒歳」天保九年は正しく「戊戌」(つちのえいぬ)で西暦一八三八年。「荒歳」は「こうさい」で凶作の年のことを指す。底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『天保年間、津軽領内は三年から十年まで、五年を除いて七年連続の凶作であった。八年には餓死者四万五千人、隣国秋田への流散者一万人といわれた』とある。

「東濱なる奧内村」同じく森山氏の補註によれば、『青森市奥内(おくない)。青森から北へ十キロ、陸奥湾に臨む。この西方丘陵部がヒバの美林地帯である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「檜樹の皮を剝ぎ取る」檜 の樹皮は「檜皮葺」として屋根に葺 く以外にも、腰壁(主に窓の下端をから床までの室内側の装飾壁)にしたりする高級木材で、火繩の原料の一つともなった。

「ツホケ森」不詳。但し、先の現行の地図を見ると、奥内の西方丘陵部には「源八森」という山、青森寄りには「田沢森」、その南西には「土筆山森山」、その西方の五所川原市には「長者森山」という名称の山や森を見出せる。識者の御教授を乞うものである。

「傷むる」「いたむる」。傷つける。

「吾私に登るにあらず」「われ、わたくしに登るに非ず」。「私は物見遊山に登るのではないぞ。」。

「豈(いかで)難を加ふべき」「どうして私に危害を加えることなんぞが出来ようか、いや、出来ぬ!」。「千乞(どうぞ)」二字へのルビ。

「以將(いで)さらば獨登らん、さりとは言ひ甲斐なき奴ばら」「よし! 分かった! それなら私独りで登るわ! さりながら、何と甲斐性のない臆病者どもがッツ!!」

「森々(いよやか)に」二字へのルビ。何とも豊かに。

「繁滋(しげれ)る」二字へのルビ。

「剝たる」「はぎたる」。

「欺騙(だませ)る」二字へのルビ。

「さればよく見屆けて縡(こと)を立つべし」「そういう魂胆だったのであれば、よくよく状況を見届けて、報告ときゃつらへの処断の方法を厳しく立てずんばならず!」。

「廿町」二キロメートル強。

「涌が如く」「わくがごとく」。山の中であるのだが、あたかも海の大波が押し寄せてくるような地響きを立てて異様な怪音が木霊するのである。

「耐居る」「たへゐる」。

「下りしに」「くだりしに」。

「半」「なかば」。

「迎へ出て有つるに」「むかへいでてありつるに」。

「三丁ばかり」僅か三百二十七メートルばっかし。

「漸々に」「ようように」次第に。

「うすく」「薄く」。小降りとなり。

「渠らが欺かぬ由」「かれら(彼等)があざむかぬよし」。彼らが私を騙したのではなかったこと、山神が実際にいかったのだということ。

をしりしなりと語りけるとなり。

「岩木山の裾野なる小杉澤」現在の弘前市百沢字東岩木山地内に「小杉沢湧水」が現存する。この周辺である(グーグル・マップ・データ)。サイト「おもリ湧水サーベイ」の「小杉沢の湧水」で限定位置と現地の画像が確認出来る。

「大人(おほひと)【深山に住む者 方言大人と云。】」同じく森山氏の補註によれば、『山に住む巨人で怪力をもち超人的垂所業をすると信じられた。津軽では開墾』を『手伝ってくれた話、一夜のうちに薪を運んでくれた話、相撲を好むことなど』、『大人(おおひと)の話が多い、山の神の人格化した伝承と思われる』とある。ウィキの「山男」によれば、『日本各地の山中に伝わる大男の妖怪。中世以降の怪談集、随筆、近代の民俗資料などに記述がある。山人(やまびと)、大人(おおひと)などの呼称もある』とし、かく地方の山人(大人)伝承を載せるが、そこに「青森県・秋田県」の項があい、『青森県の赤倉岳では大人(おおひと)と呼ばれた。相撲の力士よりも背の高いもので、山から里に降りることもあり、これを目にすると病気になるという伝承がある一方、魚や酒を報酬として与えることで農業や山仕事などを手伝ってくれたという』。『弘前市の伝承によれば、かつて大人が弥十郎という男と仲良しになって彼の仕事を手伝い、さらに田畑に灌漑をするなどして村人に喜ばれたが、弥十郎の妻に姿を見られたために村に現れなくなり、大人を追って山に入った弥十郎も大人となったという』。『当時の村人たちはこの大人を鬼と考えており、岩木町鬼沢(現・弘前市)の地名はこれに由来する』(この附近であろう(グーグル・マップ・データ))。『現地にある鬼神社は、村人が彼らの仕事ぶりを喜んで建てたものといわれ、彼らが使ったという大きな鍬が神体として祀られている』。『三戸郡留崎村荒沢の不動という社には、山男がかつて使用したといわれる木臼と杵があり、これで木の実を搗いて山男の食料としたという』。『秋田県北部でも山男を山人(やまびと)または大人といい、津軽との境に住むもので、煙草を与えると木の皮を集める仕事を手伝ってくれたといわれる』と載るのが、森山氏の注の具体例として判る。

「憩み」「やすみ」。

「吹て」「ふきて」或いは「ふかして」。

「赤倉の澤」同じく森山氏の補註によれば、『岩木山中の難所。登山口から北方に当り、気性変化激しく』、『神秘的な場所と考えられ、行者の修行場となっている』とある。先の「小杉沢」の北辺りと思われる。

「登らざれ」「登ってはいかんぞ!」。

「過傷(けが)」二字へのルビ。

「間々」「まま」。

「こなた」この(小杉沢)辺り。

「諄々(かへすかへす)」「返す返(がへ)す」。「諄(くど)いが」。「諄諄」は「諄々(じゅんじゅん)と」で今も生きているように、「相手に解るようによく言い聞かせるさま」を言う。

「大きなる笋子さはなれば」如何にも大きな筍がさわに生えていたので。「さは」は「沢山にある」の意で「澤」の意ではないので注意。

「一背負」「ひとせおひ」。

「取得たる」「とりえたる」。

「迅雷(いかづち)」二字へのルビ。

「驚惶迷亂(おどろきあはて)」四字へのルビ。

「十四五丁」一・六キロメートル前後。

「あざみ笑ひ」「あざむ」は「淺む」でもとは清音「あさむ」。近世以後に「あざむ」と濁音化もした。「意外なことに驚く・呆れ返る」或いは「蔑(さげす)む・侮(あなど)る」の意で、ここは両方の意を掛ける。『言わんこっちゃない、儂(わし)の言ったことを信じず、守らず、或いは、大方、儂が筍を独り占めしようと騙したとでも思ったのであろうが』といった微苦笑である。図星!

「己が言を聽ずして」「われがげんをきかずして」。

「濡鼠」「ぬれねづみ」。

「好き氣味なれど」「よききみなれど」。「いい気味じゃが」。

「吾」「われ」。

「夫より」「それより」。

「二丁許」たった二百十八メートルほど。

「誠に」「まことに」。

「山戒」「さんかい」と音読みしておく。山の戒め・山入りの禁忌(タブー)。

「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。

「小館」「こだて」「おだて」「こたち」と読める。ネット検索で実は「小館」姓が現在、最も多い都道府県はまさに青森県だそうである。

「嵩(だけ)【岩木鳥海山の半腹、温泉のある處、俗に只嵩とのみ稱へり。】」「俗に只嵩とのみ稱へり」とは「当地では俗にただ、「嵩(だけ)」とのみ、呼び習わしている」の意。「岩木鳥海山」の「鳥海山」はかの山形県と秋田県に跨がるあれではないので注意。森山氏の補註によれば、『岩木山の山頂部に三峰があり、中央は岩木山、北は巌鬼山』(がんきさん)、『南を鳥海山と呼ぶ』とある(外輪山の一部)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「温泉」とは次の話柄にも出るが、現在の、青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。(グーグル・マップ・データ)。

「何地」「いづち」(但し、先行例では皆「いつち」と清音)。「何地にか」で「どこかで」。

「亂柴(むづし)」二字へのルビ。前条に「亂柴蕃殖(むづしばら)」(四字へのルビ)と出て注した。再掲すると、底本の森山氏の補註によれば、『津軽方言で雑柴や荊棘』(いばら)『が混茂している原野をいう。本文の文字は表意の当て字である』とある。

「僂洩(くぐ)り」二字へのルビ。「僂」は「屈(かが)む」の意、「洩」は「出る」の意か。

「嶄絶(まんしよ)」二字へのルビ。「嶄」(音「ザン」)は「高く険しい」意。難所。

「篠(しの)竹」小振りの竹類の総称。

「少々時(わつかのあいだ)」三字へのルビ。「わつか」はママ。

「喫はん」「くはん」「食わん」。

「二尺二三寸」六十六・六六~六十六・九九センチ。

「三四尺」九十一センチから一メートル二十一センチ。

「飛來りて」「とびきたりて」。

「中らで」「あたらで」。当たらずに。

「一尺」三十・三センチ。

「一二尺」三十・三~六十・六センチ。

「七八尺」二・一二~二・四二メートル。

「二箇三個」漢字表記の違いはママ。

「大人」「おほひと」。先に山を知り尽くした老人の比喩に出たものが、ここでは真正の変化(へんげ)・妖怪・山霊(やまれい)の意で使われてある。

「其地(ところ)」「そのところ」「ところ」は「地」一字へのルビ。

「北(にげ)走りしが」「北」は、人が背をそむき合って反対方向を向いている象形文字で、原義は「背(そむ)く」。そこか「逃げる」「負ける」の意が生じた。

「硫黃岱【嵩の温泉より二十丁許り上にあり。】」「いわうたい(いおうたい)」と読むか。「岱」は中国の五岳の長、神聖な泰山の別称であるが、ここは「山」「峰」「ピーク」の謂いのようである。現在の所定地は不明であるが、嶽温泉の二十町上(二キロ百八十二メートル程)手とあるから、「湯の沢」北東に登った写真中央(鳥海山南西直近尾根附近か(グーグル・マップの航空写真データ)。

「耐得で」「たへえで」。

「本湯」「もとゆ」か。

「涌壺」「わきつぼ」か。同温泉の古い源泉か。恐らく「湯の沢」のどこかにあるような気はする。

「掲焉(いちゞるき)こと」「掲焉」は音で「ケチエン」或いは「ケツエン」と読み、著しいさま、目立つさま、の意である。

「惶る」「おそる」。]

諸國百物語卷之四 十 淺間の社のばけ物の事

    十 淺間(あさま)の社(やしろ)のばけ物の事


Bunsin

 しなのゝ國に、何がしのさぶらひ、有りけるが、心、がうに、力つよき人なり。あるとき、家來をあつめて申されけるは、

「あさまの社(やしろ)にはばけ物ありと、きゝおよびたり。われ、此所にゐながら、これを見とゞけんもくちをしく、こよひ思ひたち、あさまへゆきて、ばけ物のやうす見んと思ふ也。もし、わがあとに一人にても、つききたらんものは、はらをきらすべし」

とせいし、二尺七寸の正むねの刀に、一尺九寸の吉(よし)みつのわき指をさしそへ、九寸五分のよろひどをしを、ふところにさし、五、六人ほどしてもつ、くろがねの棒をつえにつき、ころは八月中じゆん、月くまなき夜、あさまのやしろをさしてゆき、はいでんにこしをかけ、なに物にてもあれ、たゞ一うちにせんとまちゐける所に、ふもとのかたより、としのほど十七、八なる、うるはしき女、しろきかたびらをきて、三さいばかりなる子をいだききたりて、何がしをみて、云ふやう。

「さても、うれしき事かな。こよひはこのやしろにつやを申すに、よきとぎのおはしますぞや。あまりにくたびれたれば、なんぢはあの殿にいだかれよ」

とて、ふところよりおろしければ、この子、するするとはいのぼるを、何がし、もちたる棒にて、ちやうど、うてば、うたれて、此子、母がもとにかへりけるを、

「いだかれよ、いだかれよ」

とて、ひたと、おひかへす事、五、六どにおよべば、くだんの棒もうちまげゝれば、腰のかたなを、するりと、ぬき、此子を、ふたつに切りたをしける。かたわれに、又、目、はなつきて、此子、ふたりになりて、はいかゝるを、ふたりともに切りたをしければ、又、その手あし、むくろなどに、目、はな、つきて、子となり、ひたと、此子、かずをゝくなるほどに、のちには二、三百ほどになりて、はいでんにみちみち、一どに何がしに、はいかかる、母も、

「今は、それがしも、まいらん」

と云ふ。何がしも、かゝらばきりころさんとは思ひしかども、いづくともなく、うしろさむく、身の毛もよだちておぼへけるが、うしろのかたへ、大石(たいせき)などを、おとしたるほどのおと、しけるほどに、見かへりければ、そのたけ、十丈ばかりの鬼(をに)となり、何がしにとびかゝるを、九寸五分にて、つゞけさまに三刀(かたな)、さし、とつて引きよせ、とゞめをさす、と思ひしが、そのまゝ、心もうせはつるところへ、家來のものども、かけつけみれば、わき指(ざし)をさか手にもち、塔の九りんをつきとをしてぞ、ゐられける。ばけ物は、きへうせけるに、ぜひ一刀(ひとかたな)とおもわれしねんりきにて、九りんをつきとをされけると也。 

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「淺間の社のはけ物の事」。

「淺間の社」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、長野県北佐久郡『軽井沢町追分の浅間神社、または松本市浅間温泉の御射山神社(浅間宮)であろう。追分の浅間神社は鬼神堂ろ呼ばれた時期がある』と記す。因みに、前者は「あさまじんじゃ」と読み、磐長姫神(いわながひめのかみ)を祭神とする。ここは芥川龍之介を始めとした文化人所縁の神社である。後者は調べる限り、現行では「御射(みさ)神社」と呼称しているようである。

「心、がうに」「心、剛に」。

「われ、此所にゐながら、これを見とゞけんもくちをしく」我れ、ここに居ながらにして誰彼をそこに遣わし、その変化(へんげ)のものを、見届けさすると申すも(己(おの)れを安全圏に退(ひ)いておいて、かくすると申すも)、まっこと、口惜しく、自身が許さぬ故。

「こよひ思ひたち」「今宵、思ひ立ち」。

「あさまへゆきて」「淺間へ行きて」。

「つききたらんもの」我らを心配して、こっそりと後をつけて来るような者は。

「はらをきらすべし」「腹を切らすべし」。「切腹、申しつくるであろうぞ!」。

「せいし」「制し」。家来たち全員に随行を禁じたのである。

「二尺七寸」約八十一センチ八ミリメートル。

「正むね」「正宗」。正宗(まさむね 生没年不詳)は鎌倉末から南北朝初期にかけて鎌倉で活動した刀工で、正宗は日本刀の名刀の代名詞となっており、彼が鍛えたとされるそれらには数々の伝承が付随する。

「一尺九寸」五十七センチ六ミリ弱。

「吉(よし)みつ」「吉光」。粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 生没年未詳)は鎌倉中期の刀鍛冶で先の正宗と並ぶ名工とされ、特に短刀作りの名手として知られている。

「わき指」「脇差(わきざし)」。

「九寸五分」二十八センチメートル八ミリ弱。

「よろひどをし」「鎧通(よろひどほ)し」歴史的仮名遣は誤り。組み打ちの際の武器(名称は鎧を貫通させる意)とした短刀。反りがなく、長さはまさに九寸五分前後のものを言う。「馬手(めて)差し」或いは単に「めて」とも称した。

「くろがねの棒」「鐡(くろがね)の棒」。「鬼に金棒(かなぼう)」の鉄製の打撲面に尖った突起を持った総金属製の棒。金砕棒(かなさいぼう)。ウィキの「金砕棒」によれば、『日本の打棒系武器の一種。 南北朝時代に現れたと考えられ、初期のものは、櫟』・栗・樫などの硬い木を』一・五メートルから二メートルほどの『八角棒に整形したものに「星」と呼ばれる正方形あるいは菱形の四角推型の鋲と箍で補強したものであったが、後に「蛭金物(ひるかなもの:帯状の板金)」を巻き付たり長覆輪(ながふくりん:鉄板で覆う)といった鉄板で覆って貼り付け補強した』拵えとなり、『さらに後世、完全な鉄製(時代を経るごとに鋳物製から鍛鉄製の順に移行)となった』とある。

「八月中じゆん」「八月中旬」。旧暦であるから、既に秋で中秋の名月の前後である。

「月くまなき夜」「月、隈無き夜」。皓々たる月光の中というシチュエーションがこの後の奇体な変化(へんげ)の分身術のシークエンスを盛り上げる。

「はいでんにこしをかけ」「拜殿に腰を掛け」。

「うるはしき女」「麗しき・美(うるは)しき女」。

「しろきかたびらをきて」「白き帷子を着て」。他の話にも何度も出てきた、裏を付けていない白い単衣(ひとえ)。

「いだききたりて」「抱き來りて」。

「云ふやう。」句点は底本のママ。

「つや」「通夜」。この場合は、社寺に夜通し籠って祈ることを言う。

「よきとぎのおはしますぞや」「良き伽の御座しますぞや」。「伽」は夜明かしの勤行する際の(時間潰しの話し)相手。通夜の祈禱と言っても、修行僧の勤行のようなものとは違って、ずっとき祈りをささげ続けるわけではない。寧ろ、それを口実に酒食や談話に興じたりすることの方が、実際には多かった。

「するすると」如何にも妖怪じみた機敏にしてキビ悪い動きのオノマトペイア。

「はいのぼる」「這ひ登る」。歴史的仮名遣は誤り。

「ちやうど」「チョウ!」と。打ちこむ際のオノマトペイア。実際、打ち込む際に「ちょうッツ!」叫んだりもする。

「ひたと」直ちに。ただ、ひたすらに。後のも同じ意。

「くだんの棒もうちまげゝれば」「件の棒も打ち枉(ま)げければ」。かの金棒を、この幼児は遂に素手で捻り曲げてしまったのである。それだけでも恐るべき怪力の妖児であるが、これだけでは済まない。

「ふたつに切りたをしける」「二つに切り仆(たふ)しける」。「倒(たふ)し」でもよいが、歴史的仮名遣では「たをし」は誤り。

「かたわれに、又、目、はなつきて、此子、ふたりになりて、はいかゝるを」「片割れに、また、目・鼻附きて、二人に成りて這ひ掛かるを」「はい」は歴史的仮名遣の誤り。挿絵の通り(この挿絵は、その瞬間を文字通り、美事にスカルプティング・イン・タイムしている点に着目!)、切った半身(はんみ)が瞬時に一体に再生するのである。以下、驚異の再勢力を持つ扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目 Tricladida のプラナリア類(Planaria:生物学で「プラナリア」という場合、本邦では、北海道北部を除く日本に普通に産する淡水性のそれ、三岐腸(ウズムシ)亜目サンカクアタマウズムシ科ナミウズムシ属ナミウズムシ(並渦虫)Dugesia japonica を指すと考えてよい)か、「X-MEN  ファイナル・ディシジョン」(X-Men: The Last Stand 二〇〇六年)に出てくる、分身術を操るミュータント「マルチプル・マン(Multiple Man)」みたようなもんだな。

「むくろ」「骸」。ここは特異な用法で、ばらばらに斬られたその妖児の肉片

「此子、かずをゝくなるほどに、のちには二、三百ほどになりて、はいでんにみちみち」「この子、數多(おほ)く成る程に、後には二、三百程(の分身)に成りて、拜殿に滿ち滿ち」(「ををく」の歴史的仮名遣は誤り)。それらの雲霞の如き多数の再生分身が「一どに何がし」(一度にかの主人公何某(なにがし))「に、はいかかる」(「這ひ掛かる」の誤り)というと併せ、ヴィジュアルに実に凄い!

「かゝらばきりころさん」その母なる女の変化(へんげ)が襲いかかってきたら、即座に切り殺してやると。

「いづくともなく」「何處とも無く」。何とも言えず。わけもなく。

「うしろさむく」「後ろ・背後(うし)ろ寒く」。

「うしろのかたへ大石(たいせき)などを、おとしたるほどのおと、しけるほどに」突如、自分の背後の方で、巨大な岩石などを、髙いところから何者かが投げ落としたような音が、したので。

「十丈」三十メートル三十センチ弱。

「九寸五分」前に出た鎧通し。

「とつて引きよせ」「捕つて引き寄せ」。

「とゞめをさす」「止めを刺す」。

「心もうせはつる」「心も失せ果つる」。失神したのである。

「塔の九りん」石製の九輪塔。特に寺院の五重の塔のような建物の描写がないので、これは実際の高い木造塔の頂きに飾られる相輪(塔の最上部にある装飾部分で下から露盤・伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・水煙・竜舎・宝珠の七つから成る)の部分名である「九輪」。露盤上の請花(うけばな)と水煙(すいえん)との間にある九つの金属製の輪で「宝輪」「空輪」などとも呼ぶ)ではない(遙か十数メートル上のその「九輪」に彼の鎧通しが突き刺さっていたなら、これ、私は素敵に雄大で面白くなると思うのだが)。これは所謂、等身大或いは少しそれよりも高い、本来の前の「九輪」のミニチュアである石塔の「九輪」「相輪」である。但し、仏塔の最上部のその「相輪」全体を「九輪」と称することもあり、ここはそれでよい。要は、恐らくは高い確率で宝篋印塔の最上部のとんがったそれである。

「つきとをしてぞ、ゐられける」「突き通(とほ)してぞ、居られける」。石の九輪を鎧通しで貫通させていたというのだから、これ自体が、瞬発的な怪力、神業、まさに「念力」とも言うべき仕儀である。その映像を想像すると、これまた、凄い。上手いコーダと言える。]

2016/10/29

北條九代記 卷第十 甲乙人等印地停止

      ○甲乙人等印地停止

 

同四月二十一日、鎌倉内外(うちと)の甲乙人等(かふおつにんら)數十人、比企谷(ひきがやつ)の山の麓に群集し、未〔の〕刻よりして向飛礫(むかひつぶて)を打ちける程に、所々の溢者(あぶれもの)ども、兩方に行集(ゆきつど)ひ、意恨(いこん)もなく怨(あた)もなくて、分(わか)ち、はじめには只、飛礫(つぶて)を打合(うちあ)ひ、漸々、人衆の重(かさな)るに任せて互(たがひ)に矢を放ち、是(これ)に中(た)りて死傷する者、兩陣に數多(あまた)出來りれば、愈(いよいよ)引退(ひきの)かず。親屬朋友(しんぞくほういう)、その敵(てき)を討たんと構へ、暮方に成りては、武具を帶(たい)し、馬に乘りて、偏(ひとへ)に軍陣(ぐんぢん)に異らず。閧(とき)の聲、矢叫(やさけび)の音、入亂(いりみだ)れて戰ふ。手負(ておひ)、死人(しにん)、おほかりければ、夜𢌞(よまはり)の輩(ともがら)、數百人を率(そつ)して走向(はせむか)ひ、「こはそも何事ぞ。意恨にもあらず怨(あた)にもあらず、見えたる事もなくして兩陣を張り、手柄にもあらぬ武篇(ぶへん)を勵(はげま)し、人を殞(そん)して、騷動せしむる條、亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや。京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)するだに宜(よろ)しからず。鎌倉邊には、古今、未だ此事なし。頗(すこぶ)る狼藉(らうぜき)の至りなり」とて、張本三人を召捕(めしと)りて禁籠(きんろう)せらる。今より以後、關東の事は申すに及ばず、京都にても、堅く禁遏(きんあつ)すべき由を、六波羅に仰遣(おほせつかは)さる。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の記事に基づく。標題の「甲乙人等印地停止」は「かふおつにんら、いんぢ、ちやうじ」と読む。「甲乙人」は、中世日本の頃から使われ始めた語で「年齢や身分を問わない全ての人」の意。そこから転じて、「名を挙げるまでもない一般庶民」のことを指すようになった。現在の民事事務や裁判に於いて複数の当事者を示す場合に「甲」「乙」と使用するのと同じように、参照したウィキの「甲乙人」によれば、もともとは『特定の固有名詞に代わって表現するための記号に相当し』、また、現代に於いて事例例文などで『不特定の人あるいは無関係な第三者を指すために「Aさん」「Bさん」「Cさん」と表現するところを、中世日本では「甲人」「乙人」「丙人」といった表現した』とあり、『そこから、転じて正当な資格や権利を持たず、当該利害関係とは無関係な第三者として排除された人々を指すようになった。特に所領・所職を知行する正当な器量(資格・能力)を持たない人が売買譲与などによって知行することを非難する際に用いられた。例えば、将軍から恩地として与えられた御家人領が御家人役を負担する能力および義務(主従関係)を持たない者が知行した場合、それが公家や寺院であったとしても「非器の甲乙人」による知行であるとして禁止の対象となった。同様に神社の神領が各種の負担義務のない者が知行した場合、それが御家人であったとしても同様の理由によって非難の対象となった』とし、特に「凡下百姓(ぼんげひゃくしょう:鎌倉幕府が御家人を「侍」とし、郎党・郎従を始めとして名主・農民・商人・職人・下人などを一括して「凡下」と呼び、幕府の職員でも雑色(ぞうしき:雑役に当たった下級役人)以下の者は「凡下」として扱われた。但し、有力武士の郎党・郎従の中でも官位を持つ者は例外的に「侍」として扱われることになっていた)」または「雑人雑人(ぞうにん:原義は「身分が低い者」であるが、用法としては「一般庶民」を指す場合と、主家に隷属して雑事に従事して動産として売買・譲渡の対象とされた「賤民」を指す場合とがある。鎌倉時代には「凡下」と同義的になった)に『称せられた一般庶民は、無条件で所領・所職を知行する正当な器量を持たない人々、すなわち「非器の甲乙人」の典型であるとされており、そのため鎌倉時代中期には』「甲乙人」という『言葉は転じて「甲乙人トハ凡下百姓等事也」(『沙汰未練書』)などのように一般庶民を指す呼称としても用いられた。その一方でこうした表現の普及は、庶民――特に商業資本が金銭の力を背景に所領・所職を手中に収めていこうとする現実』――『に対する支配階級(知行・所領を与える側)の警戒感の反映でもあった。また、武士・侍身分においては』、「甲乙人」と『呼ばれることは自己の身分を否定される(=庶民扱いされる)侮辱的行為と考えられるようになり、悪口の罪として告発の対象とされるようになっていった』とある。

「同四月二十一日」前条の冒頭を受ける。文永三(一二六六)年四月二十一日。ユリウス暦では五月二十七日、グレゴリオ暦に換算すると六月三日。谷戸の多い鎌倉ではそろそろ蒸し暑くなってくる時期である。

「比企谷(ひきがやつ)の山の麓」現在の妙本寺のある附近。この一件の起こる六年前の文応元(一二六〇)年に「比企の変」で滅ぼされた比企能員の末子で生き残って僧となり、日蓮に帰依していた比企能本(よしもと 建仁二(一二〇二)年~弘安九(一二八六)年)が父や一族の菩提を弔うため、日蓮に屋敷(妙本寺のある位置は旧比企邸)を献上、かの地に法華堂を建立しているが、これが妙本寺の前身であり、妙本寺はこの年を創建としている。

「未〔の〕刻」午後二時前後。

「向飛礫(むかひつぶて)を打ちける」「石合戦(いしがっせん)」「礫(つぶて)合戦」などと称する恐らく元来は「追儺」「鬼やらい」と同じく、悪霊や疫病(えやみ)などの災いを石に込めた呪力で村落共同体から追い出す、一種の民俗社会に於ける遊技的呪的行事であったものであろう或いは幕末の「ええじゃないか」や、原始社会で時に発生したと思われ、現代の特定の宗教集団の中で或いは未開民族社会や貧困な下級階層の集団内於いてもストレス現象のはけ口としてしばしば見られる集団ヒステリー様の現象と根は同じと見てもよいと私は思う。祭りで事故で死者が出てこそ「祭り」であるとどこかで思っている民族社会的人間は私は結構、多いと思っているウィキの「石合戦」によれば、『武家の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと』現在でも五月五日に『行事として行われる』地域が現存し、本文に出るように「印地」「印地打ち」とも言う(辞書類では、五月五日に大勢の子供が集まって二手に分かれて石を投げ合い、合戦の真似をした遊び。中世では大人が互いに石を投げ合って勝負を競ったが、近世以降は子供の遊びとなったとある)。『かつては、大人達が行い、「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれていた。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かった。そのため、鎌倉幕府』第三代『執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布し』ている。『水の権利・土地争いなどを解決する手段として』、非合法な手荒な解決法として『石合戦が採用されるケースもあった』。後のことであるが、武田信玄は実際の戦闘部隊に『石礫隊(投石衆)を組織しており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わる』ともあり、『逸話としては、一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行った(模擬実戦として最適であった)とも言われている。また、徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てた。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われている』と記す。

「溢者(あぶれもの)ども」社会から脱落して放浪し、徒党をなす悪党染みた連中。乞食や流浪の芸能者、差別された賤民なども含まれる。

「意恨(いこん)」「遺恨」。

「怨(あた)」恨み。怨恨。

「漸々」「ぜんぜん」。だんだん。

「人衆」「にんじゆ」と読んでおく。人数(にんず)。

「重(かさな)る」増えてくる。

「偏(ひとへ)に」ただもう、全く。

「矢叫(やさけび)」原義は和弓に於いて、矢を射当てたと際に射手が声を挙げること。或いは、その叫び声、「やごたえ」「やごえ」などとも言うが、戦場では、戦いの初めなどに於いて、遠矢を射合う際、両軍が互いに発する鬨の声も差す。

「夜𢌞(よまはり)」幕府の公的な夜警の武士。但し、「數百人を率(そつ)して走向(はせむか)」ったとあるからは、かなりの高位の武将である(但し、後に掲げるように「吾妻鏡」には「數百人を率して」とは、ない。現実をよりドラマにする筆者の手技である。

「見えたる事もなくして」これといって憎み、戦い、傷つけて果ては死に至らしめるだけの、動機も原因も全くないのにも拘わらず。

「手柄にもあらぬ」やっても手柄にもなりもしない。しかし、これは「武士」階級ならではの台詞であって、彼らの心の底、心理的な鬱憤やストレスを推し測ろうとする意識が全く以って欠落していると言わざるを得ない。

「武篇(ぶへん)」「武邊」が正しい。意味のない武闘・戦闘。乱闘。

「勵(はげま)し」異様に昂奮し。

「人を殞(そん)して」他者を傷つけ。

「亂(らん)を招く曲者(くせもの)にあらずや」「そもそもが、その何の根拠もない喧嘩による負傷や殺人が遺恨や怨恨の火種となって大きなる紛争や争乱を招くのじゃ! お前らは、まさにそういう、不埒千万な曲者そのものではないかッツ!!」

「京都にして、童部共(わらんべども)の小石を投げて、印地(いんぢ)する」恐らくは私が先に書いた、汚穢を石の打擲によって民俗社会の安全空間から排除する原義が殆んど失われた、下層民の子らの馬鹿遊びであろう。但し、「吾妻鏡」の本文は子供のそれとは書いてない。

「鎌倉邊には、古今、未だ此事なし」狼藉者らを説き伏せるのに、この武士はこんなことを言っているのだけれど、本当にそうかなぁ?

「張本」張本人。最初に石合戦を始めた首謀者。「最初はあいつだ!」みたいなシュプレヒコールの波が三人に集まってゆくその映像が、また、こわいね、私には。

「禁籠(きんろう)」禁錮。牢に押し込めること。意外であるが、余り見かけない熟語である。

「禁遏(きんあつ)」禁じて止めさせること。

 

 以下、「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十一日の条。

 

○原文

廿一日甲申。霽。甲乙人等數十人群集于比企谷山之麓。自未尅至酉尅。向飛礫。爾後帶武具起諍鬪。夜𢌞等馳向其所。生虜張本一兩輩。被禁籠之。所殘悉以逃亡。關東未有此事。京都飛礫猶以爲狼藉之基。固可加禁遏之由。前武州禪室執權之時其沙汰被仰六波羅畢。况於鎌倉中哉。可奇云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲申。霽る。甲乙人等(ら)、數十人、比企谷山の麓于に群(ぐんじゆ)集し、未の尅より酉の尅に至るまで、向ひ飛礫(つぶて)す。爾(しか)る後(のち)、武具を帶び、諍鬪(じやうとう)を起こす。夜𢌞(よまは)り等(ら)、其の所へ馳せ向ひ、張本の一兩輩を生け虜り、之れを禁籠せらる。殘る所、悉く以つて逃亡す。關東に、未だ此の事、有らず。京都の飛礫(つぶて)は猶ほ以つて狼藉の基(もとゐ)たり。固く禁遏(きんあつ)を加へるべきの由、前武州禪室、執權の時、其の沙汰を六波羅へ仰せられ畢んぬ。况んや、鎌倉中に於てをや。奇とすべしと云々。

●「前武州禪室」北条泰時。

●「奇とすべし」しばしば参考にさせて貰っている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注の参考(そこでは原文「可奇」を『奇(あや)しむべし』と訓じておられる)ではここを、『京都から鎌倉へ挑発者が入り込んでるのでは』と訳しておられる。この直後に宗尊親王の更迭が起こる辺りからは、そうしたニュアンスも感じられなくはない。]

甲子夜話卷之二 36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

2―36 殿中にて板倉修理、細川侯を切りしときの實説

延享中、板倉某亂心にて、御城の厠中にて熊本侯細川氏を刃す。此時諸席の人騷亂一方ならず。又かの厠は柳の間に近し。時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず。伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】遂に坐を立給はざりしとなり。此時、本覺君の見られしは、始めは何ごととも知らず人々騷ぎ立しが、厠の中より坊主衆六七人計して、一人を扶て出たるに、其人色靑ざめ、脇指を杖につき、肩衣の前後血流てあけになり、よろぼひ出たる體、忽胸わるく覺て能も見玉はざりしとなり。程經ても食に當られたるとき抔に、不斗思ひ出玉へば、胸あしゝと屢々云給しとなり。夫人佐竹氏の親く御物語を聞れしと淸に語給ひき。

■やぶちゃんの呟き

「殿中にて板倉修理、細川侯を切りし」旗本板倉勝該(かつかね ?~延享四年八月二十三日(一七四七年九月二十七日)が肥後熊本藩第五代藩主細川宗孝(むねたか 正徳六(一七一六)年~延享四年八月十五日(一七四七年九月十九日)を殿中で刃傷に及び、結果、細川を殺害した事件。板倉勝該は旗本板倉重浮(しげゆき)の二男として生まれたが、兄板倉勝丘(「かつおか」か)の養子となり、延享三(一七四六)年に兄の遺領六千石を相続、延享四(一七四七)年三月十九日に第九代将軍徳川家重に拝謁している。ところがそれから五ヶ月後の同年八月十五日、江戸城大広間脇の厠(かわや)付近に於いて、月例拝賀で出仕していた細川宗孝に背後から脇差で斬りつけ、宗孝は同日死亡した(後のウィキの「細川宗孝」の引用を見る限りでは、どうもその場で程なく死んだ(即死)模様である)。まず参照したウィキの「板倉勝該」によれば、『伝えるところによると、勝該は日頃から狂疾の傾向があり、家を治めていける状態ではなかったため、板倉本家当主の板倉勝清』(かつきよ 宝永三(一七〇六)年~安永九(一七八〇)年:当時は遠江相良(さがら)藩主。後に上野(こうずけ)安中藩主で老中となった)『は、勝該を致仕させて自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという。それを耳にした勝該は恨みに思い、勝清を襲撃しようとしたが、板倉家の「九曜巴」紋と細川家の「九曜星」紋が極めて似ていたため、背中の家紋を見間違えて細川宗孝に斬りつけてしまった』誤認殺人とされる。しかし『一方で、人違いではなく勝該は最初から宗孝を殺すつもりであったとする説も存在する。大谷木醇堂』(おおやぎじゅうどう:幕末の漢学者で昌平黌准博士ともなった人物)の「醇堂叢稿」に『よれば、白金台町にあった勝該の屋敷は、熊本藩下屋敷北側の崖下に位置し、大雨が降るたびに下屋敷から汚水が勝該の屋敷へと流れ落ちてきたので、勝該は細川家に排水溝を設置してくれるように懇願したが、無視されたため犯行に及んだという』ものである。『事件後、勝該は水野忠辰』(ただとき:三河国岡崎藩第六代藩主)『宅に預けられ』、同月二十三日に『同所で切腹させられた』とある。一方、殺されてしまった「細川宗孝」のウィキを見ると、前者の誤認殺人と断定してあり、同日、『月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、宗孝が大広間脇の厠に立つと、そこで旗本』寄合席七千石(先の記載とは千石も異なるの板倉勝該に突然、『背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した』。『勝該には日頃から狂気の振る舞いがあり、このときも本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自らを廃するのでないかと勝手に思い込んだ勝該が、これを逆恨みして刃傷に及んだものだった。ところが細川家の「九曜」紋が板倉家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いしたのである』。『宗孝にとってはとんだ災難だったが、これは細川家にとっても一大事だった』。三十一歳『になったばかりの宗孝にはまだ世継ぎがおらず、さりとてまだ若いこともあり、養子は立てていなかったのである。殿中での刃傷には』、ただでさえ、『喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては肥後』五十四『万石細川家は改易必至だった』。『この窮地を救ったのは、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村である。宗村は機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。これを受けて家臣たちは、宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって宗孝は介抱の甲斐なく死去と報告、その頃までには』、『人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た』。この「殿中ウッカリ刃傷事件」の『報はたちまち江戸市中に広がり、口さがない江戸っ子はさっそくこれを川柳にして』、「九つの星が十五の月に消え」「劍先が九曜(くえう)にあたる十五日」など『と詠んでいる。「剣先」は「刀の先の尖った部分」を「身頃と襟と衽の交わる部分(=剣先)」に引っ掛け、また「九曜」は細川家の「九曜」紋を「供養」に引っ掛けた戯れ歌である』(リンク先にそれぞれの家紋が示されているので是非参照されたい。こちらには変更後の紋もある)。『大事件後、細川家では「九曜」の星を小さめに変更した(細川九曜)。さらに、通常は裃の両胸・両袖表・背中の』五ヶ所に『家紋をつける礼服のことを「五つ紋」というが、その「五つ紋」に両袖の裏側にも』一つずつ『付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」』 と呼ばれ、『氏素性を明示する際には』、『よく引き合いに出される例えとなった』とある。私は家紋の誤認というよりも、先の「醇堂叢稿」にあるようなつまらぬ遺恨が元にあり、精神に致命的な変調をきたしていた勝該が、気に食わない隣家の細川、その家紋が板倉本家の家紋とダブって、感情のフラッシュ・バックによって宗孝を襲ったとするのが正しいようには思われるのである。

「柳の間」「やなぎのま」江戸城本丸殿中の居間。「大広間」(江戸城内の広間の中で式日などに国持ち大名や四位以上の外様大名などが列席した部屋)と「白書院」(しろしょいん:大広間の奥隣りに位置し、先の「赤穂事件」の刃傷で知られる「松之廊下」で連結された建物。上段・下段・帝鑑之間・連歌之間の四室が田の字型に並んでおり、大広間に次ぐ格式を持っていた。公式行事で使われ、大掛かりな行事の際には大広間と一体化して使われた)との間にある中庭の東側にあり、四位以下の大名及び表高家(おもてこうけ:官位を持たない高家(伊勢や日光への代参・勅使の接待・朝廷への使い・幕府の儀式・典礼関係などを掌った。足利氏以来の名家の吉良・武田・畠山・織田・六角家などが世襲した。禄高は少なかったが、官位は大名に準じて高かった)。基本、幼年者や事務に未熟な者らであった)の詰め所であった。名は襖(ふすま)に雪と柳の絵があったことに由来する。

「時に此席の諸氏、多く散亂して坐に在らず」これは事件とは無関係に、多くの者がたまたま諸事私用によって座を立っており、在席着座していた者が極めて少なかったことを指しているようである。

「伯父本覺君は【諱、邦。壱岐守】」松浦邦(まつらくにし 享保一七(一七三二)年~宝暦七(一七五七)年)は、平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ)の長男で世嗣。延享元(一七四四)年に徳川吉宗に拝謁し、この事件の前年の延享三(一七四六)年に叙任したが、家督を継ぐことなく宝暦七(一七五七)年に二十六の若さで早世してしまった。代わって弟の政信が嫡子となったもののこれも早世し、結果、政信の子であった清(静山)が祖父誠信の養嗣子となって家督を継いだのである(ここはウィキの「松浦邦」に拠った)。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生れであるから、彼が亡くなった時は三歳、恐らく逢っていたとしても、静山に記憶はなかったであろう。

「遂に坐を立給はざりしとなり」「ついにざをたちたまはざりとなり」。事件当時は数えで十六で、「立たなかった」のではなく、「立てなかった」のである。後の最後の述懐部分を見ても、無理もない。

「坊主衆六七人計して」「坊主」は「茶坊主」(将軍や大名の周囲で茶の湯の手配や給仕・来訪者の案内接待等、城中のあらゆる雑用に従事した。しばしば、時代劇で城内を走るシーンが出るが、殿中にあって日常に走ることが許されていたのは、彼らと奥医師のみであった。なお、刀を帯びず、剃髪していたために「坊主」と呼ばれたが、僧ではなく、武士階級に属する。因みに芥川龍之介はこの末裔であった)。「計」は「ばかり」。

「扶て出たるに」「たすけていでたるに」。

「脇指」「脇差」。

「肩衣」「かたぎぬ」武士の礼服の一つ。袖がなく、小袖の上に肩から背中を覆って着るものをいう。下には半袴(はんばかま)を着した「継上下(つぎかみしも)」とも呼ぶ。

「血流て」「血、ながれて」。

「あけになり」「朱(あけ)に成り」。

「よろぼひ出たる體」「よろぼひいでたるてい」。「よろぼふ」は「蹌踉ふ」「蹣跚ふ」などと漢字を当て、「よろよろと歩く・よろめく」或いは「倒れかかる・崩れかかる」の意で、ここダブルの意味である。

「忽」「たちまち」。

「覺て」「おぼえて」。

「能も見玉はざりし」「よくもみたまはざりし」。正視なさることはことはお出来にならなかった。

「程經ても」その後、かなり経った後でも。

「食に當られたるとき抔に」食事を摂っておられる際などに。

「不斗」「ふと」。

「思ひ出玉へば」その折りの凄惨な様子をお思い出されたりなさると。

「胸あしゝ」「胸惡しし」。気持ちが悪くなった。

「云給しとなり」「いひたまひしとなり」。述懐なさっておられたとのことである。

「夫人佐竹氏」松浦邦の正室であった壽(「ひさ」か)。彼女は出羽久保田藩第五代藩主佐竹義峯(元禄三(一六九〇)年~寛延二(一七四九)年)の娘であった。

「親く」「したしく」。

「聞れし」「きかれし」。

「淸」静山自身の自称。

「語給ひき」「かたりたまひき」。夫人佐竹氏への敬意。

譚海 卷之二 水戸栗田八郎兵衞事

譚海 卷之二

 

水戸栗田八郎兵衞事

○水戸家中に栗田八郎兵衞と云(いふ)人あり。譽田善光(よだぜんこう)の後胤也。黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故、御抱(おかかへ)被ㇾ成(なられ)候。然しながら善光の子孫と云(いふ)斗(ばかり)にて何の藝術もなき家故、五十石俸祿玉(たま)はり、代々無役(むやく)にて水戸にあり。善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也。善光寺開帳など有(ある)時は、詰切(つめきり)子細なしとぞ。元來栗田は信州の在名(ざいめい)なればかく呼來(よびきた)る也。其家にも往古より持傳(もちつた)へたる善光寺如來同作の本尊あり。家に佛間を別に構(かまへ)安置する也。此栗田代々一人づつ出家にする子供出來る、ふしぎの事也。養子或は娘などに遣したるがもどさるゝ事あれば、如來の御奉公人也とて、再(ふたたび)人のもとへ出す事なく、出家尼になし、家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする也と。

[やぶちゃん注:「栗田八郎兵衞」不詳であるが、実は「流れ星」氏のサイト「干潟八万石」の「こぼれ話」の銚子街道大田宿(太田宿の誤りと思われる。本文はそうなっている。現在の千葉県旭市内か。)の中の「水戸黄門一行が宿泊」の条に『徳川光圀が泊まる本陣を八郎兵衛家におき、家老栗田八郎兵衛他』四十『人を四郎兵衛宅に、側用人木村権三右衛門他』十五『人を市郎兵衛宅にというように、身分階級に応じて大田村、成田村の民家に振り分けた』と出る人物と同一人かと思った(しかし、当時、二十八万石の常陸水戸藩の家老で五十石とは少な過ぎるから違うのかなぁ?)。なお、幕末の水戸藩士に栗田八郎兵衛寛剛(天保二(一八三一)年~元治二(一八六五)年)なる者がおり、奥右筆などを勤め、元治元年の天狗党の乱では執政の榊原新左衛門に従い、松平頼徳軍とともに保守派や幕府軍と闘い、投降、下総古河で切腹した人物がいるが(講談社「日本人名大辞典」に拠る)、この人物の末裔かも知れぬ。

「譽田善光」底本の竹内氏注に、『信州善光寺の開創者本田善光、難波の堀江から仏像を拾い、善光寺を開創した話は名高く、戦国期に善光寺の別当として活躍した栗田氏はその末流と伝えていた。栗田は長野市内の地名。なお、善光寺は特定の宗旨に属する寺ではなく、近世は天台宗の大勧進と浄土宗の大本願(尼寺)とが、傘下の僧坊をしたがえて、協同で奉仕し、そのほか寺務に仕える妻戸方の僧坊もあった甲胃師の家名。初代の宗介は名工として名高く、平安末期近衛天皇から明珍の名を賜ったといい、中世を経て近世に及ぶが、特に十代宗安(室町期)や十七代信家(戦国期)が名匠として知られている』とある。「朝日日本歴史人物事典」の「本田善光」によれば、『伝説上の人物』で、欽明一三(五五二)年、百済の聖明王から献上された、天竺の月蓋長者作とされる阿弥陀如来像が悪疫流行のために物部氏によって難波の堀江に流し捨てられたが、都にのぼっていたこの善光が、そこを通ると、阿弥陀仏が水の中から飛び出し、背中におぶさったという。そこで彼は信濃国までそれを背負って行き、自分の屋敷に安置した後、阿弥陀の霊告によって、水内(みのち)郡芋井(いもい)郷(現在の長野市内)に移し、後に如来堂を建立して祭ったと伝えられる。それが長野市善光寺の古来より秘仏とされる本尊である舟形光背の阿弥陀三尊像であるとする。

「黃門光圀卿家系御糺し無ㇾ疑(うたがひなき)事故」水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)自らが、家系を厳正に調査し、本多(誉田)善光の後裔で間違いなし、決したによって。

「藝術」才知や武術の覚え。

「善光寺の事に拘りたる事あれば、いつにても進退自由成(なる)事免許也」善光寺の行事その他の寺務に関わらねばならぬ折には、栗田家の当主は、いつでも水戸を離れてそれに従事すること、お構いなしという免許を光圀公より頂戴しているということ。但し、本「譚海」の著者津村淙庵(元文元(一七三六)年?~文化三(一八〇六)年)の存命年中は、常陸国水戸藩は後の第五代藩主徳川宗翰(むねもと)・第六代徳川治保(はるもり)・第七代徳川治紀(はるとし)の治世であるので注意されたい。

「善光寺開帳」ウィキの「善光寺によれば、『開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた』とあり、『正式名は、善光寺前立本尊御開帳』と言い、現行では七年目ごとに一度(開帳の年を一年目と数えるため、六年間隔の丑年と未年)、『秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ』とあるが、「御開帳の歴史」の項によると、『居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ』、『寺の都合により』、『開催されていた』とある(下線やぶちゃん)。そこにある「居開帳」に限ってみるなら、津村の存命中に行われたのは、寛保二(一七四二)年から文化元(一八〇四)年までの九回で、因みに、文化元年を以って「出開帳」は終わっている。なお、この本文の「善光寺開帳」には「出開帳」も含まれると考えてよいと私は判断する。とすれば、かなりの頻度で水戸外へ彼は自由に出ていたものと思われ、或いは、そうした名目で、この栗田八郎兵衛やその後継者らは、実は密かに幕府や他藩の政情を探っていたのではあるまいかとも考え得るのである。

「詰切子細なしとぞ」開帳の場に開帳の間中、ずっと詰めていても問題ないとのことである。これは藩士としては、破格の扱いであろう。さればこそ、私は前の注の最後のような隠密行動を疑うのである。

「元來栗田は信州の在名(ざいめい)」ウィキの「栗田氏によれば、『信濃栗田氏は、北信地方の武家氏族のひとつ。本姓は清和源氏の一系統の河内源氏頼清流村上氏の支流で、村上為国の子寛覚が顕光寺(延暦寺系山門派)別当となり信濃国水内郡(のち上水内郡)栗田村に住居して栗田氏となった。鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職をも世襲し、犬猿の関係にあった両社を支配下に置く有力国人となる』とあって、『江戸時代には、庄内藩、水戸藩、松本藩とそれぞれに仕えた』と確かにあるのだが、別に「常陸国の栗田氏」を設け、『本姓は平氏。家系は桓武天皇を祖とする桓武平氏で、常陸国那珂郡の名族。川崎氏の支流にあたり、下小瀬の古城主・川崎次郎の後裔と伝える。茨城郡六地蔵過去帳に栗田又次郎の名を載せる。家紋は丸に二つ引き、女紋としては九曜の星を用いる。水戸藩の栗田寛』(ひろし 天保六(一八三五)年~明治三二(一八九九)年:幕末の水戸藩に仕えた国学者で歴史学者で、後に東京帝国大学教授となった)『もこの一族の末裔という』。『なお、佐竹氏の家臣としてもこの栗田氏の名が見える』ともあるのである。ますます怪しいぞ!? 善光寺系の栗田氏と、この水戸藩の栗田氏は実は違うのではないか?

「養子或は娘などに遣したるが」養子としたり、或いは娘で他家へ嫁入りした者。

「もどさるゝ事あれば」何らの理由により、養家から戻されたり、婚家から離縁されたりすることがあった場合には。

「出家尼になし」必ず、男子なら出家させて僧となし、女子なら尼にさせ。

「家の本尊の香花(かうげ)をとらする事にする」実家のその伝来の本尊の香華を供する役で一生を終わらせることとしている。それって、結構、残酷でしょ。或いはそうなるからね、と念を押して養子や嫁に出して、出戻ることがないようにしていたのかもね。]

谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅

 

 十四 蟇の妖魅

 

 成田某と言へる人、炭藏の奉行たりし時、三ツ目内の者炭上納に來りしが、時(をり)から閑暇(ひま)にてありければ何か希らしき話なかりしやと問(たづ)ぬるに、かの者の曰、さればいといと奇怪のものに遇へるなり。そは今年の八月、同侶(どうやく)三人にて炭を焚て居たりしが、一日(あるひ)の下晡(くれ)ころに年甲(としのころ)二十二三とも見ゆる美しき尼來りて、吾は弘前某といふ尼にて大鰐に湯治せるが、今日しも花を採らん爲に山に入り路を失ひてはからず暮に迨(およ)べるなり。女の身のかゝる山中を一個(ひとり)往くこと惶(おそろ)しければ、今宵一夜を明させ玉へと言ふに、三個(にん)のものみな二十三四の若者なれば、互に顏見合せつゝ子細なく了諾(しやうち)して、夕飯などしたゝめさせ道路(みち)の勞(つか)れを慰めつるが、やがて寢(い)ぬる時にもなれば豫て期したることゆゑ、各々替々(かはりかはり)迫りしにいと心よく諾(うべな)ひて交接(まじはり)をなしたりけり。斯て夜も明け旭(ひ)も昇りぬれば尼起出て告辭(いとまごひ)しつるに、握飯(むすび)を持たせ半途に送り、往くべき先の路を委細(つばら)に喩示(ゆし)してやりたるが、奈何(いかゞ)しけんその黃昏(たそがれ)に又來りていと本意(ほい)なげに言ひけるは、又しても道を踏外し里へ出べき便宜(たより)あらで、詮術(せんすべ)なくもと來りし道を來つるなり。千乞(なにとぞ)今宵も宿を賜はれとあるに、皆々好き事にして假屋(こや)に留め、その夜も淫事(いたづら)したりけり。

 さるに、其の翌る日もかくの如く已(すで)に四度に及びぬるに、一人某といふ者、訝(いぶか)しき事のあれば必ず狐狸の屬(たぐひ)なるべしとて二人の者にも語りたるに、奈何にも怪しき處ありとて鉞(まさかり)鉈など硏磨(とぎ)たてゝ彼が來るを待たりしに、果してその薄暮(くれ)にも來りければ、種々(いろいろ)淫蕩話(いたづらばなし)をいひかかるに、かれも媟熟(なれなれ)しく咲(わら)ひ噪(さはぎ)て居たりしが、かねて謀りし事なれば二個(ふたり)は外(はづ)して外へ出たるあとに、淫犯(たはけ)る化粧(けはい)にもてなして、鉈もて肩先より胸のあたりへかけて二擊三擊斬つけしに、欵(ぎやつ)と叫んでそのまゝ奔走(はしり)出けるゆゑ、急に二人を呼よせて血の跡を所緣(しるべ)に追ひ往くに、亂柴蕃殖(むづしばら)にかゝりて見分がたく、日も且(また)沒(くれ)て爲方(せんすべ)なければ其夜はともに休息(やすみ)けるが、明る旦(あさ)とく起出で三人ともに刄もの引提げ血を索(もと)めて探り往くに、二里許にして幽(ふか)き溪(たに)に下りたるに樹木繁(いや)茂(しげり)ていと陰欝(くら)く、葛藟(つた)蔓延(はへわた)りて踏處もなきに杳(はるか)にものの嘹呍(うなる)音聞えしかば、これぞ決(きはめ)てかの妖魅(もの)ならんと、三人もろとも聲を望(めあて)に窺ひ看(み)れば、絕岸(きりきし)の傍に徑(わたり)二尺ばかりの洞穴ありて、其中に鮮血(なまち)を曳いてありけるに、然(さ)てこそとてすかし看れば、四五尺の先に物ありて兩眼鏡の如くなるに、さすが洞穴へ入るべきものもなく鎌に繩を付て投かけて引寄るに、洞穴崩るゝばかりに吼え嘹(うな)りて搖ぎ出でたるものを視るに、三尺ばかりの大蝦蟇にていと怖ろしきものなるが、重傷(ふかで)のために弱れるにや、猛るもやらで有けるを、みなみな立倚り截り殺し留めを刺して棄(すて)けるなり。山に起臥(すまゐ)すれば大きなる蟇を時々見ることあれど、かゝる巨物(もの)は未だ聞かざることなりと語りしを、この成田が親屬中村某の聞つけて語りしなり。

[やぶちゃん注:大蝦蟇の怪異はスタンダードであるが、人間の女、しかも若い美麗な尼に化けて、若者と毎夜乱交を繰り返すという話柄は、少なくとも私は初めて読んだ。但し、蟇蛙(がまがえる)(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)が長い舌で以って虫などを捕える捕食様態が、餌食となるものが距離が離れていて保護色である蟇の存在に気づかないさまを、あたかも蟇の妖術で金縛りにあったかのように見、その驚くほど長い舌で口の中に吸い込まれるのが何か、餌食の対象の精気が引き抜かれるが如くに見えることから、こうした蟇の変化(へんげ)が人の精気を吸うとも考えられたであろうことは想像に難くなく、さすれば、とっかえひっかえ若者を受け入れ、その実、その正に「精気」を吸い取っていたというのは、すこぶる腑に落ちる。それにしても「若い尼」という設定、この話を創作した人物は、タダ者ではない。或いはまた、この怪しい尼は実はニンフォマニアの女性(実際の尼であっても尼でなくてもよいが、尼の方が猟奇性は遙かに増す)で、その異常性欲に恐れをなした若者三人が斬殺し、それを蟇の化け物ということにした「尼僧殺人事件」の偽装だとするなら、これまた、違った猟奇趣味をそそりはする(但し、奉行に語れてしまうのは、残念ながら、そうした事件性はないとも言える。或いはその殺人に相手は「尼」ではなく、「瞽女」のような流浪の門付の女芸人ででもあったのかも知れぬ。そんあなことを考えていると、何だか、もの哀しくなるのを私は常としている)。

「三ツ目内」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『南津軽郡大野町大鰐町』(おおわにまち)『三ツ目内(みつめない)。大鰐の南、川に沿った山村』とある。ここ(ヤフー地図データ)。

「炭上納」「すみ、じやうなふ」。

「希らしき」「めづらしき」。

「曰」「いはく」。

「下晡(くれころ)」二字へのルビ。前に「晡下」で既出既注乍ら、再掲しておく。音は「カホ」で「晡」は申の刻で、その刻「下」(さが)りの謂い。午後四時過ぎ。

「吾は弘前某といふ尼にて」「私は弘前在の○○と申す尼で御座いまして」。

「大鰐」先の「三ツ目内」の直近。ここ(グーグル・マップ・データで左端に三ツ目内。炭焼き小屋は同地区の山間部としても三~四キロメートル圏内である)。ウィキの「大鰐温泉」によれば、『円智上人により建久年間』(一一九〇年から一一九八年)『に発見されたと伝わる。江戸時代には津軽藩の湯治場として津軽氏の歴代藩主も訪れ、御仮屋と呼ばれる館が設置された。また江戸時代には津軽地方の人々の療養の場として広く利用された』。『江戸時代に発行された「諸国温泉功能鑑」(多数作られた温泉番付のうちの一つ)にも、大関、関脇などの番付とは別の行司として熱海温泉とともに掲載されている。また西の前頭として記載されている津軽倉立の湯は大鰐温泉北側の蔵舘町エリアの旧名である』とある。

「互に顏見合せつゝ子細なく了諾(しやうち)して」「子細なく」は「文句なしに・気軽に」で、この若者三人のシーンの目つきや表情に猥雑さが見てとれるように、この語がさりげなく差し挟められてあるのである。平尾、やっぱり、タダ者ではない。

「したゝめさせ」食べさせ。

「豫て期したることゆゑ」「かねてきしたること故」。三人の暗黙の了解と、ここですっぱり示するところにも私は上手いと思う。

「各々替々(かはりかはり)迫りしにいと心よく諾(うべな)ひて交接(まじはり)をなしたりけり」この馬鹿、基(もとい)、若者ども、ここで彼女がまともな者ではないと気づかねばならぬ。――満で二十一、二にしか見えない、初対面の、それも美しい尼が、極めてすんなりと快く笑顔で承知してコイツスに及ばせてくれる、しかも三人すべてに、この山中のむさくるしい炭焼き小屋で――というところで、変化(へんげ)の者と思うのがこれ、風俗社会では、当た前田のクラッカー、だろが!

「斯て」「かくて」。

「起出て」「おきいでて」。

「半途」「はんと」或いは「はんみち」。一里の半分。凡そ二キロ弱。握り飯や帰り道を途中まで送ってやるところなんぞは、この若者らは、ここでは今一つ、憎めない気もしないではない。或いは、私もこのお馬鹿な若者の一人であっておかしくはないとも思うのである。

「委細(つばら)に喩示(ゆし)して」分かり易くこと細かに諭すように教え示して。だからね、それなのにその日暮れにまた道に迷って帰れずに、この、また、八重葎の山の中の炭焼き小屋に戻ってくると言うところで(「詮術(せんすべ)なく」と言っているが、「もと來りし道を來つる」能力と記憶力があれば麓へ辿りつけるだろガ!)、ヘンだと思わなきゃ、あかんて!

「本意(ほい)なげに言ひけるは」ちゃんと言われた通りに歩いたつもり、ここにまた戻って来ようなどとはさらさら思ってもいなかったのに、という如何にもな雰囲気は、逆に艶なるポーズではないカイ?!

「踏外し」「ふみはづし」。迷い。

「便宜(たより)あらで」手立てを失い。

「千乞(なにとぞ)」二字へのルビ。美味い、基、上手い和姦、基、和訓だ。

「好き事にして」そっちの方面は無論、好きなもんだからして。

「淫事(いたづら)」イ「イン」でない、このルビ!

「さるに、其の翌る日もかくの如く已(すで)に四度に及びぬるに」ここは「さるに、其の翌」(あく)「る日もかくの如く、(而してその翌る日までもと)已(すで)に四度に及びぬるに」の謂い。でないと回数が合わぬ。

「一人某といふ者」三人の若者の中の「某(なにがし)」という者が。ということは、話者の炭焼きの若者ではなく、他の二人のうちの孰れかという設定である。ここは逆にリアルである。作話性が強ければ、話者自身がそれを言い出すことにした方が自慢話になるからである。

「鉈」「なた」。

「硏磨(とぎ)」二字へのルビ。

「彼」「かれ」。かの女(の変化(へんげ))。

「來るを」「きたるを」。

「待たりしに」「まちたりしに」。

「薄暮(くれ)」二字へのルビ。

「かれ」女。

「媟熟(なれなれ)しく」二字へのルビ。「媟」(音「セツ・セチ」)は「穢(けが)す・汚れる」の他、「馴れる」の意があり、「熟」は「ある物事に対して十分に馴れ親しむ」の意がある。この語以下「咲(わら)ひ噪(さはぎ)て居たりし」は、この女の真正の淫猥さを示す美事な描写と言える。

「淫犯(たはけ)る化粧(けはい)にもてなして」孰れも二字へのルビ。男は、如何にも前の四日と全く変わらず、卑猥なに戯れる振りをして女が気を緩めるようにさせて。

「斬つけしに」「きりつけしに」。

「欵(ぎやつ)と」これは恐らく「欸」の原文の誤記か、翻刻の誤りである。これでは「約款」の「款」の異体字で、意味が通らない(「親しみ」の意味があるが、それでもおかしい)。「欸」ならば、「ああつ!」で「怒る」「恨む」、或いはその声のオノマトペイアとなるからである。

「呼よせて」「よぼびよせて」。

「亂柴蕃殖(むづしばら)」四字へのルビ。底本の森山氏の補註(ルビの「むづしばら」の註)によれば、『津軽方言で雑柴や荊棘』(いばら)『が混茂している原野をいう。本文の文字は表意の当て字である』とある。しかしこの当て字、美事に痒くなる。

「見分がたく」「みわけ難く」。

「刄もの引提げ」「はものひつさげ(刃物、引っ提げ)」。

「二里許」「にりばかり」。八キロ弱。

「繁(いや)」程度の甚だしいことを示す副詞。「繁茂」をかく分けて訓じたのは、すこぶる面白い。

「陰欝(くら)く」二字へのルビ。

「葛藟(つた)」二字へのルビ。「藟」(音「ルイ・ラ・リュウ」で「蔦蔓(つたかずら)・藤葛(ふじかずら」の意。

「蔓延(はへわた)りて」二字へのルビ。

「踏處」「ふみどころ」暗に人跡未踏の地であることを示している。

「嘹呍(うなる)」二字へのルビ。「嘹」(音「リョウ」)は「よく響く」の意、「呍」(音「ウン」)は「唸(うな)る」の意。

「妖魅(もの)」二字へのルビ。

「二尺」約六十センチ。

「四五尺」一メートル二十二センチ~一メートル五十一センチ。

「兩眼鏡の如くなるに」所謂、現在のような両眼用の眼鏡。その玉のように蟇の両眼が皓々と光っていたのである。

「鎌に繩を付て投かけて引寄るに」「鎌に繩をつけて投げ掛けて引き寄するに」。鎖鎌の要領である。

「搖ぎ出でたる」「ゆらぎいでたる」。

「三尺」約十一センチメートル。異様に巨大である。

「猛るもやらで有けるを」「たけるもやらでありけるを」。はむかってくる様子もなく、凝っとしていたのを。しかし、私は、ここで可哀想な気になってくるのである。畜生とはいえ、四度ばかりとはいえ、情交を結んだ。さればこそ、この蟇、この若者らに虐殺されることを甘んじて受けているともとれはせぬか?

「立倚り截り殺し留めを刺して棄(すて)けるなり」「たちより(よってたかって)、きりころし(ずだづたに斬り殺し)、止(とど)めを刺して棄てけるなり」。ここは、この忌まわしい蟇とセックスしたことをおぞましく嫌悪し、憎悪する若者らの記憶への激しい嫌悪の体現であるが、所謂、人間の激した感情が行う虐殺とは総てこのシークエンスと等価だと知らねばならぬ。何時の時代も、血塗られるのは虐殺された者たちだけではない。寧ろ、その血によって永遠に虐殺者としての自己の汚点を記憶することととなる執行者たち自身とその末裔らである。

「起臥(すまゐ)すれば」二字へのルビ。但し、これは歴史的仮名遣では「すまひ」が正しい。

「巨物(もの)」二字へのルビ。

「この成田が親屬中村某の聞つけて語りしなり」ここで、話柄中の炭焼きの若者の一人(実体験者)→炭蔵奉行成田某→成田の親族である中村某→平尾魯僊という伝聞経路が明らかとなる。]

諸國百物語卷之四 九 遠江の國にて蛇人の妻をおかす事

     九 遠江(とをとをみの國にて蛇人(ひと)の妻をおかす事

Hebidoutoku

 中(なか)ごろ、遠江のくににある山さとに、名ぬし、有りけるが、此女ばう、をつとのるすのまに、ねやに入り、ひるねしてゐけるが、名ぬし、ほかよりかへりて、ねやに入りみれば、たけ五、六尺ばかりのへび、女ばうを二ゑみへにまとい、口とくちとを、さしつけて、ふしたり。名ぬし、みて、つえをもつて、うちはなし、

「なんぢ、ちくしやうなれども、めがたきなれば、うちころすべけれども、ぢひをもつて此たびばかりは、たすくる也。かさねてひが事あらば、いのちをとるべし」

とて、つえにて、すこし、うちなやして、山のかたへ、すてにける。さて、あくるあさ、いつもより、名ぬし、あさねしけるが、家内(かない)の男女(なんによ)、おどろきさわぐ。

「なに事ぞ」

とて、名ぬし、おきあがりみれば、たけ一丈ばかりのへび、にわのまんなかにきたり、一、二尺より五、六尺までのへびをつれ、あき地もなく、なみゐて、かしらをあげ、くれなひのやうなるしたを、うごかしける。名ぬし、へびにむかつていひけるは、

「なんぢら、ちくしやうなれどもよく聞くべし。きのふ、わがめがたきを、ぢひをもつてたすけたるに、かへつて、かようにたゝりをなす事、ちくしやう也とても、物のどうりをもわきまへぬものどもかな、佛神三方天ぢん地ぎ、上はぼん天大しやく、四大の天わう日月せいしゆくも、御しやうらん候へ」

とて、さもあらゝかに道理をつくしていかりければ、大へびをはじめ、のこるへびども、一どにかしらをさげ、大へびのそばに、ゐたり。きのふのへびとおぼしきを、かずのへびどもたかりかゝつてかみころし、みそみそとして、山のかたへ、みな、かへりて、べつの事もなかりしと也。名ぬし、さかしきものにて、ときのなんをのがれ、へびは、ちくしやうなれども、物のどうりをきゝうけゝるこそふしぎなれ。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右上のキャプションは「へひ妻をおかする事」。

「遠江(とをとを)の國」「遠江」は歴史的仮名遣では「とほたうみ」が正しい(これは「遠淡海(とおつおうみ)」の転。これは「琵琶湖」を「近(ちか)つ淡海(おうみ)」というのに対し、都から遠い湖(うみ)の意で「浜名湖」及びそこを含む広域地名としての遠江国)。現在の静岡県の西部に相当。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『「蛇」を神として信仰すること』の『多い土地であった』と記す。必ずしも遠江に限らず、身体を邪神とするのは非出雲系の土着神に広汎に見られ、例えば諏訪大社系のそれや、中世以降の仏教の弁財天信仰に習合した宇賀神などがそれに当たる。ただ、確かに静岡付近には大蛇伝承が、かなり多く見られることは事実のようである。個々の事例はサイト「龍学」の「静岡県の竜蛇」に詳しいので参照されたい。

「中(なか)ごろ」叙述当時から見て、あまり古くない時代の意。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世である延宝五(一六七七)年四月に刊行されているから、中世末期の室町・戦国・安土桃山から江戸時代の前期までが含まれようか。

「をつとのるすのまに、ねやに入り、ひるねしてゐけるが」「夫の留守の間に、閨(ねや)に入り、晝寢して居けるが」。

「ほかよりかへりて」「外より歸りて」。

「五、六尺」一・五~一・八メートル。

「二ゑみへにまとい」「二重三重(にへみへ)に纏ひ」二箇所は歴史的仮名遣の誤り。

「口とくちとをさしつけて、ふしたり」寝ている女房の口に、蛇がおぞましくも自分の口を差し附けて(キスをして)、女房と蛇とが、ともに添い臥して寝ていたのである。

「つえをもつて」「杖を以つて」。「持つて」でもよいが、私は前者で採る。

「うちはなし」「打ち離し」。

「なんぢ」「汝」。

「ちくしやう」「畜生」。

「めがたき」「妻敵・女仇(めがたき)」。江戸の法にあっては、夫の社会的面目が丸潰れとなるゆゆしき事態であり、討ち果たすのが当然の決まりとしてあり、許すことは逆に不作為犯として処罰の対象ともなり、そうでなくても、道義に反することとして夫の方が軽蔑された。

「うちころすべけれども」打ち殺すのが筋であるが。前注参照。

「ぢひ」「慈悲(じひ)」。歴史的仮名遣は誤り。

「たすくる也。」「助くるなり。」。「助けてやるのだ。」。

「かさねてひが事」「重ねて僻事あらば」。再度、このような不埒な行いがあったならば。

「うちなやして」「打ち萎(なや)して」。「萎す」「なやす」は最早、古語化して使われなくなったが(徳田秋声「黴」「十二」末『痛い頭を萎(な)やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨(ぶらぶら)して、また明るい部屋へ戾つて見た。』(明治四四(一九一一)年『読売新聞』初出))、他動詞で、「気力や体力などを失わせてぐったりさせる・萎えるようにさせる」「なよなよとさせる・やわらかにする」の意。打ち叩いて、ぐったりくたくたになるまで弱らせて。

「一丈」約三メートル。

「一、二尺」凡そ三十センチから六十一センチ弱。

「五、六尺」一メートル五十二から一メートル八十二センチ弱。

「あき地もなく」「空き地もなく」。庭の土の表面が全く見えないほどに。

「なみゐて」「並み居て」。庭全面にびっしりと並び居て。

「かしらをあげ」「頭を挙げ」。鎌首を擡(もた)げて。

「くれなひのやうなるした」「紅(くれなゐ)の樣なる舌」。歴史的仮名遣は誤り。

 

「なんぢら、ちくしやうなれどもよく聞くべし。きのふ、わがめがたきを、ぢひをもつてたすけたるに、かへつて、かようにたゝりをなす事、ちくしやう也とても、物のどうりをもわきまへぬものどもかな、佛神三方天ぢん地ぎ、上はぼん天大しやく、四大の天わう日月せいしゆくも、御しやうらん候へ」大方を漢字正字表記に書き変えたもの(一部、平仮名化或いは漢字を正しいものに訂しもし、読みも補った。誤った歴史的仮名遣は正して示してある)を、まず、以下に示す。

「汝等(ら)、畜生なれどもよく聞くべし。昨日、我が妻敵(めがたき)を、慈悲を以つて助けたるに、却つて、斯樣(かやう)に祟りを成す事、畜生なりとても、物の道理(だうり)をも辨(わきま)へぬ者共(ども)かな、佛神三方(寶)(ぶつしんさんぱう)天神地祇(てんじんちぎ)、上(かみ)は梵天(ぼんてん)帝釋(たいしやく)、四大(しだい)の天王(てんわう)日月星宿(じつげつせいしゆく)も、御照覽(しやうらん)候へ」

以下、●で、この名主の台詞(後者の書き変えを見出しとする)内の語釈を施す。

「佛神三方(寶)」から台詞の最後まで総ては、蛇集団への言葉ではなく、神仏に誓文を唱える際の神仏習合の神々の名を言上げする慣用表現。「三方」とは神道の神事に於いて使われる神饌(しんせん)を載せるための台であるが、それは神への奉仕であり、同時に神と対面することと等しい謂いであると同時に、神仏習合であるからして、「三寶」、則ち、仏教に於ける「仏」(ほとけ)・仏の教えである「法」・その教えをひろめる「僧」の神聖にして不可欠な三者「仏法僧(ぶっぽうそう)」をも指している。

●「天神(てんじん)地祇(ちぎ)」神道では天の神と地の神・天つ神と国つ神のことを指し、「あらゆる神々」の謂い。詳しく述べるなら、「高天原(たかまのはら)」で生成又は誕生した神々を「天神」とし、当初より「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(記紀神話に於ける原日本を含む地上世界)に誕生した神を「地祇」とする。これに対して仏教では「天界」に住むとされる「夜叉」・「梵天」・「帝釈天」などを「天神」とし、「地界」に住む「堅牢地神」・「八大竜王」などを「地祇」とする。

●「梵天(ぼんてん)」仏教の守護神である天部十二天の一人。古代インドに於いて「万物の根源」とされた「ブラフマン」を神格化した神「ブラフマー」(ヒンドゥ教では創造神で、ヴィシュヌ(維持神)・シヴァ(破壊神)とともに三大神の一人に数えられる)が仏教にとり入れられたもの。「梵」はその梵語の漢音写。次の帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある(以上はウィキの「梵天」に拠った)。

●「帝釋(たいしやく)」仏教の守護神である天部十二天の一人。本来はバラモン教やヒンドゥー教などの神インドラで、かの知られた阿修羅とも戦闘したという「武勇神」であったが、仏教に取り入れられ、成道(じょうどう)前から釈迦を助けた上、釈迦の説法を聴聞したことによって梵天と並んで仏教の二大護法善神となったとされる神である。彼の東南西北(それは同時に天地の四隅を守護する意味がある)には、かの四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)。本文に出る「四大の天王」はこれ)が仕えるとされることから「四天王天」とも呼ばれる(以上はウィキの「帝釈天に拠った)。

●「日月星宿(じつげつせいしゆく)」天界・宇宙全体の意。「太陽」と「月」と「星宿」。「星宿」は天球上の総ての可視出来る星(それが当時の宇宙全体の大部分を構成していると考えられた)を二十八宿に分けたもの。

 

「さもあらゝかに」如何にも荒々しく厳しい口調で。

「道理をつくしていかりければ」「道理を盡して怒りければ」。

「かずのへびども」「數の蛇ども」。数多(あまた)の蛇どもが。

「たかりかゝつてかみころし」「集(たか)り掛かつて咬み殺し」。ここが意外な展開である。人の執心の化したところの蛇は、なかなか、こうはいかない。正真正銘の蛇族は人間以上に果敢に断罪する道徳性を持っているのであった。

「みそみそとして」如何にも勢いや感情が弱まって静まりかえってしまうさま。落胆して気弱な感じでひっそりと。すごすごと。こそこそと。

「べつの事も」「別の事も」。それ以降、何の怪事も変事も。況や、蛇が妻の閨房に侵入するようなことも、である。

「さかしきもの」「賢しき者」。ここは「まことに賢明な人物」という、いい意味で用いられている。

「ときのなんをのがれ」「時の難を逃れ」。

「へびは、ちくしやうなれども、物のどうりをきゝうけゝるこそふしぎなれ」「蛇は、畜生なれども、ものの道理を聞き請けるこそ不思議なれ」。前の「たかりかゝつてかみころし」の注を参照。]

2016/10/28

甲子夜話卷之二 35 柳澤吉保勤職のとき先公贈物の事

2―35 柳澤吉保勤職のとき先公贈物の事

以前、松平吉保權勢のとき、諸大名等、其ほどほどの贈物あり。吾先世雄香君【壱岐守】、養子【諱、篤信。雄香君の弟】せられて相見を請はれしとき、金銀以て造たる橘を石臺に植たるにて有しとぞ。是は祖母夫人の聞傳て語り給ふなり。此頃の風俗は今とは替りて優美なりき。

■やぶちゃんの呟き

「柳澤吉保勤職」(「勤職」は「きんしよく」と音読みしておく)「松平吉保權勢」老中柳沢(松平)義保(万治元(一六五九)年~正徳四(一七一四)年:元禄七(一六九四)年に重用された第五代将軍徳川綱吉の小姓から川越藩七万石となり、元禄一一(一六九八)年に老中上座に就き、元禄一四(一七〇一)年には松平姓を与えられて美濃守吉保となり、甲府藩十五万石を領した。学問の奨励や荻生徂徠の登用等、文治政治の推進者としては評価されるが、宝永六(一七〇九)年二月の綱吉の死去によって、新将軍家宣とその家臣新井白石が権勢を握ることとなり、同年六月に隠居し、失脚した。ここは「權勢」と言っているところから、元禄一一(一六九八)年から宝永五(一七〇八)年の十年間の間と考えてよいように思う。

「其ほどほどの贈物あり」「贈物」は「ぞうもつ」で合法的な賄賂たる付け届けの品。「其(その)ほどほどの」とは、字面とは異なり、「それはもう、程度を甚だ超えるようなとんでもなく高価な」の謂いである。

「吾先世雄香君【壱岐守】」「わがせんせい、ゆうかくん」と読んでおく。既出既注の肥前平戸藩第五代藩主松浦棟(たかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年)。静山の曽祖父であった第六代藩主篤信の兄である。

「養子【諱、篤信。雄香君の弟】せられて」既出既注なので簡単に済ませる。同平戸藩第六代藩主松浦篤信(貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)。ウィキの「松浦篤信によれば、兄で第五代藩主であった先の松浦棟(たかし)の長男長(ながし)が早くに死去してしまったことから、元禄九(一六九六)年に兄棟(たかし)の養嗣子となった。同年五月二十一日に将軍徳川綱吉に拝謁(本条はその直前のまず側用人柳沢義保(当時は老中格を得、侍従を兼帯していた)に面会した際のエピソードである)、元禄十一年八月に江戸城菊間詰めとなった。

「相見」「さうけん」。側用人柳沢義保との目通り。養嗣子をするには幕府の公的な許可が必要で、そのための形式上の言上のための必須会見。

「請はれしとき」「こはれしとき」。請われた際。

「橘」バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana。ウィキの「タチバナ」の「文化」によれば、『日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた』。「古事記」「日本書紀」には、『垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では』「右近の橘」「左近の桜」として『橘が植えられている』。但し、実際に「古事記」などに『登場する』それ『が橘そのものであるかについてはわかっていない』とある(下線やぶちゃん)。

「造たる」「つくりたる」。

「石臺」「せきだい」。浅い箱或いは植木鉢に草木等を植え、石などを配し、山水の景を模したもの。石盆。盆景。

「植たる」「うゑたる」。

「有し」「ありし」。

「祖母夫人」静山の祖母であるから、平戸藩第八代藩主松浦誠信(さねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)の正室(宮川氏出身)。誠信は長男が亡くなり、後継者を三男であった政信(静山の父)と定めていたものの、その政信も明和八(一七七一)年に誠信自身に先立って亡くなってしまったため、政信の子であった清(静山)を後継者として定められたのである。即ち、静山自身もこの祖父の養嗣子であったのである(以上はウィキの「松浦誠信に拠った)。

「聞傳て」「ききつたへて」。

谷の響 二の卷 十三 犬無形に吼える

 十三 犬無形に吼える

 

 往ぬる丙辰の年の五月、下堤町搗屋四郎左衞門が門に立たる幟の下(もと)に五六疋の犬ありて、この幟を向上(みあげ)先に𢌞り後になりて物あるごとく吼えかゝるを、土(ところ)の人も往來の人もいと怪しみ、何物かあるらんと見望(みやり)たれど目に遮(さへぎ)るものもなく、犬はますく猛り吼えけるを、四郎左衞門が僕(しもべ)これを逐ひ散らして停めしとなり。この縡(こと)は此年より五六年前にも有しよしなり。

 又、同じ事ながら己が邸裏(やしき)の隣境に柿樹一株(ぽん)ありけるが、二疋の犬この柿樹を望みていたく吼えかゝること少時(しばらく)なれば、柿樹を見上ぐれどもあやしきものもあらず。あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありしが、その主に追立てられて歇(や)みたりし。こは文政七八年の頃にて、今思へば幽界(かくりよ)のものゝ爽來るなるべし。平田のうしの妖魅考にも、かくのごとき无形に吼えたることを記して、幽界に神あることを論(あげつら)へり。最もさもあるべき事なりかし。

 

[やぶちゃん注:以下の注では、私は現実にあり得る現象としての可能性を各個的には注した(下線太字部分)……しかし……私の中学・高校時代の友人には、眼の前の夜の浜辺の直近に「誰かいる。」と突然こともなげに静かに言い、数秒後に「ああ、もういなくなった。」と平然としている、所謂、「見鬼(けんき)の性(しょう)」を持つ男がいたし、「小さな頃は家に帰ると、毎日、普通の人の目には見えない狐の子どもたちと一緒に遊んでたわ。」と真顔で言う少女がいた。私のかつての同僚曰く、「赤ん坊を猿島に連れて行ったら、何もいない崖の岩や隧道の闇を見上げて見つめて、ずっと笑っているですよ。何だか、霊でも見えるのかと思うと、気味が悪かったです。」などと言っていた。……そういえば、ついさっき、私の三女のアリスが突如、外で吠えだした(彼女は餌を欲しがる時以外はまず吠えることはない)。出て見ると、誰もいない家の前の寒々とした小径に向かってしきりに吠えていた。……誰も何もいない空間に向かって……こんなことは、彼女と散歩をすると、しばしば体験する。それを不思議に思わなくなっている自分がいる。ある意味、それは「異界」という非日常が半日常化しているアブナい境界に私が棲んでいるということ、なのかも知れない…………

「無形」目に見えない対象物。

「丙辰の年の五月」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年で、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。

「下堤町」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『下土手町の当て字』とある。これは一巻に既出既注で、同じく一巻の森山氏の註で『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。

「搗屋四郎左衞門」底本の森山氏の補註に、『弘前の米穀商、藩の御用達を勤めた富豪であった。竹内氏、屋号搗屋、代々四郎左衛門と称した』とある。

「幟」「のぼり」。恐らくは屋号や新米入荷などを染め抜いた昇り旗であろう。この場合は、たまたま当日の風の具合と、その幟の状態から、犬にとっては聴き慣れぬ、強いバタバタという音が生じて、それに警戒したものともとれぬことはなく、天候がひどく悪くなりかけていたのであったなら、眼には見えない一種の軽い放電現象が起こっていたのを、敏感な犬が察知したとも採れる。

「停めし」「やめし」。吠えかかるのを止めさせた。

「此年より五六年前」嘉永三(一八五〇)年或いは翌嘉永四年。

「有しよしなり」「ありし由なり」。

「柿樹」今までの西尾の書き癖からは、この二字で「かき」と読んでいる可能性が高い。

「あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありし」西尾の屋敷の裏手の墻根の向こうの鄰りの屋敷の垣根と間の、西尾ものでも隣家のものでもない非常に狭い土地(空き地)があって、そこに自然に柿の木が生えており、犬ならば、その垣根と垣根の間の柿の木のある叢に潜り込むことが出来るのであろう。最初は西尾の屋敷内に二匹の野犬が侵入して、その裏庭でその柿の木に向かって盛んに吠えたてたのを、屋敷の外に路地のある、側面の横木戸辺りから追っ払ったところが、野犬らはまた、西尾の屋敷の裏手のそこに潜り込んでゆき、柿の木の直下の叢で吠えたて、その後に隣家の垣根を潜って、隣家の庭に移ってさらに吠えたて続けたのである。ここで犬が一旦、柿の木の根元近くへ行ったにも拘わらず、そこからまた少し離れた隣家の庭に移動した点を考えると、犬らは何かの危険を感じたものかとも思われる。季節が示されていないので、よく判らないが、例えば、これが夏から初秋にかけてであったなら、その柿の木が大木で、その根方や洞などにスズメバチが有意に大きな巣を作っていれば、その翅音を鋭く聴きつけたものか、などという推理も働かし得る。無論、洞の中にいるのは――モモンガ・リス・アナグマ・タヌキ・ハクビシン・イタチ――であっても一向に構わないなるべく臭いの強い動物が相応しいことは言うまでもない。

「文政七八年」一八二四、一八二五年。

「幽界(かくりよ)」一巻に既出既注ながら、平尾の思想を知る上で重要な語であるので、そのまま再掲する。これはいい加減な当て字ではない。平田神学に心酔していた平尾らしい読みである。古神道に於いては、人間世界は目に見える「顕世(うつしよ)」であるのに対し、人間の目に見えない幽冥の世界、神の世界は「幽世(かくりよ)」「隠世(かくりよ)」「幽冥(かくりよ)」と呼称するのである。しかもこの「幽冥」の表記は、その多数の漢字表記のある中でも、最もポピュラーなものなのである。

「平田のうしの妖魅考」平尾が心酔した江戸後期の国学者で神道家の平田篤胤(安永(一七七六一七七六)年~天保一四(一八四三)年:出羽久保田藩(現在の秋田市)出身であるが、成人後は備中松山藩士の兵学者平田篤穏(あつやす)の養子となった。平尾(篤胤より二十八も若い)自身は彼と面識はないと思わるが、篤胤の長女千枝が文政七(一八二四)年に夫とした伊予国新谷(にいや)藩(現在の愛媛県大洲市新谷町)の碧川篤真(みどりかわあつまさ)と結婚、彼が平田家の養嗣子となり、江戸で平田鐵胤(かねたね)を名乗って篤胤の思想を継いだ。平尾は元治元(一八六四)年(明治維新の四年前)になって、友人を介してその鐡胤の弟子として入門している)が文政四(一八二一)年に刊行した「古今妖魅考」全七巻。ウィキの「平田篤胤」によれば、江戸初期の朱子学派の儒者で、かの林家の祖林羅山の書いた「本朝神社考」の中の、「天狗」に関する考証に共鳴して執筆したもので、『天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた』とある。底本の森山氏の補註には、『内容は著撰書目に、「此書は古今の記録物語を探りて、謂ゆる天狗妖魅の種々に世を乱し、或は地獄極楽など云ふを変現して人を惑はし、或は異験をも見せて人に信を起さしむる有趣きを説き、且その物等に三熱の苦みと云ふ事の有る因縁までを具に論じ致されたる書なり」とある。平田神道独特の所論である幽界に神あることを論証しようとしたもの』とある。

「无形」「むけい」で「無形」。]

諸國百物語卷之四 八 土佐の國にて女の執心蛇になりし事

    八 土佐の國にて女の執心蛇(くちなわ)になりし事

 

 土佐のくにゝ獵(かり)をして世をわたる人あり。男は四十、女は四十五、六にてありしが、此をんな、かくれなきりんきふかきものにて、男、かりにいづるにも、ついてあるきける。男あまりのうるさゝに、あるとき、獵にいでけるに、かの女ばう、あとより、れいのごとくついて來たる所を、とつてひきよせ、さしころしければ、かたはらなる大木のねより、大きなる蛇(くちなわ)いでゝ、男のくびにまといつきける。男、わき指をぬき、ずんずんに切りはなせば、また、まといつきまといつき、やむことなし。男、せんかたなく、高野へまいりければ、ふどう坂の中ほどにて、蛇(くちなわ)、くびよりはなれをち、くさむらのうちへ、はいりける。男、うれしくおもひ、高野に、百日あまり、とうりうして、もはや、べつぎもあるまじきとおもひ、山をげかうしければ、ふどう坂の中ほどにて、かの蛇(くちなわ)、くさむらのうちより、はひ出でて、また男のくびに、まといつく。男も、ぜひなくて、これより、くはんとうへしゆぎやうせんとて、すぐにたびたち、大津のうらにてのりあひのふねにのりけるが、をき中にこぎ出だしければ、舟、あとへもさきへも、ゆかず。せんどう、申しけるは、

「のりあひのうちに、なにゝても、おもひあわする事あらば、まつすぐにかたり給へ。一人のわざにて、あまたの人のなんぎなるぞ」

と、いひければ、かの男、ぜひなく、くびの綿をとり、

「さだめて、このゆへなるべし」

とて、蛇(くちなわ)をみせ、はじめをわりをざんげしければ、人々、おどろき、

「はやはや、舟を出で給へ」

と、せめければ、

「今はこれまで也(なり)」

とて、かの男、うみへ身をなげ、はてにけり。そのとき、くちなはゝ、くびをはなれ、大津のかたへ、をよぎゆきけり。ふねもさうなく、やばせにつきぬと、せんどうかたりしを聞きはんべる也。

 

[やぶちゃん注:「蛇(くちなわ)」以下、本文も含め歴史的仮名遣は総て誤り。正しくは「くちなは」。

「かくれなきりんきふかきものにて」「隱無き悋氣深き者にて」。それが誰にもはっきりとわかるほど異常に嫉妬深い者であって。

「かりにいづる」「獵に出ずる」。

「とつてひきよせ」「捕つて引き寄せ」。

「さしころし」「刺し殺し」。

「大木のね」「大木(たいぼく)の根」。

「男のくびにまといつきける」「男の頸(くび)に纏ひ附きける」。私が「首」ではなく、「頸」としたのは、後のシークエンスを考慮してのことである。

「わき指」「脇差(わきざし)」。

「ずんずんに」「寸々(すんずん)に」の意であろう。細かく幾つにも切るさま。ずたずたに。

「高野へまいりければ」「高野」は真言宗総本山高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)のこと。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に古来、『悪行を犯したものでも』、逃げ込むことで、『罪科をまぬかれることがあった』とある。実際的にも高野山は古えより罪人を匿うことをモットーとする治外法権的特権を持ってはいた。但し、徳川幕府創建以降は薄れてしまう。ただ、ここでは弘法大師の強力な呪力によって、邪悪なもの、しかも女人禁制が厳しく守られていた高野山の結界内へは、この蛇は侵入出来なかったという点で、非常に腑に落ちる(論理的な理解は可能)とは言える。しかし、私はこの手の理屈は怪談の怖さを逆に委縮させてしまうものと理解している。

「ふどう坂」「不動坂」。高野山の最も知られた、現行、正規の登り口「不動口(ふどうぐち)」にある坂。その先に女人堂が建てられてあり、そこより上は「女人結界」で女性はその堂までしか立ち入ることが出来なかった(古くは高野山へ登る道は七つあり、「七口(ななくち)」と呼ばれ、それぞれに女人堂があったが、不動坂のそれはその中でも群を抜いて大きいものであったという。因みに高野山の女人禁制は明治五(一八七二)年まで続いた)。

「くびよりはなれをち」「頸より離れ落ち」。

「くさむらのうちへ、はいりける」「叢の中(うち)へ、入りける」。

「とうりう」「逗留」。

「もはや、べつぎもあるまじきとおもひ」「最早、別儀も有るまじきと思ひ」。これだけ時間が経てば、最早、如何なる変事も起ころうはず、これ、あるまいと思い。ただ、女人結界の御蔭であることに気づかぬこの男は、これ、修行の甲斐もない、大たわけであり、結果、命の落とすのは、まさに無智蒙昧からくる自業自得以外の何ものでもないのである。

「げかう」「下向」。

「くさむらのうちより、はひ出でて」「叢の中より、這ひ出でて」。

「くはんとうへしゆぎやうせん」「關東へ修行せん」。何故、高野に戻らないのか。それが私には不思議でしょうがない。

「すぐにたびたち」「直ぐに旅立ち」。

「大津のうら」「大津の浦」。言わずもがな琵琶湖南岸。

「のりあひのふねにのりけるが」「乘り合ひの舟に乘りけるが」。

「をき中」「沖中」。

「こぎ出だしければ」「漕ぎ出だしければ」。漕ぎ出てみたところが。

「あとへもさきへも、ゆかず」「後へも先へも、行くかず」。怪異現象の発現。舟が沖で、船頭(せんどう)が幾ら漕いでも、全く動かなくなってしまったのである。

「おもひあわする事」「思ひ合(あは)すること」。歴史的仮名遣は誤り。心当たりのあること。

「一人のわざにて」「一人の業(わざ)にて」。この「業」は悪業(あくごう)のこと。

「あまたの人のなんぎなるぞ」「數多(あまた)の人の難儀なるぞ」。

「くびの綿をとり」「頸の綿を取り」。頸部に巻き付いて離れぬ蛇を、頸部の病いか疵を隠す繃帯のように擬装して真綿で巻き、蛇が人から見えぬようにしていたのである。

「さだめて、このゆへなるべし」「定めてこの故(ゆゑ)なるべし」。歴史的仮名遣は誤り。

「はじめをわりをざんげしければ」「初め終りを懺悔しければ」。

「はやはや」「さっさと!」

「せめければ」「責めければ」。責め立てたので。

「うみ」「湖」。

「はてにけり」「果てにけり」。

「をよぎゆきけり」「泳(およ)ぎ行きけり」。歴史的仮名遣は誤り。

「さうなく」「左右(双)無く」。原義は「比べるものがない・比類ない・素晴らしい」であるが、怪異としての舟の不思議な停留が解かれ、舟が「漕ぐにまかせて」「順調に」「実に滞りなく」「すみやかに」動き出した、を総て包含した意である。

「やばせ」「矢橋」と書いて「やばせ」と読む。現在の滋賀県南西部の草津市西部の琵琶湖東岸にある地区名。かつての琵琶湖水運の港で、特に江戸時代には東海道の近道(陸路よりも道程を有意に短縮することが出来た)となった対岸の大津と、この矢橋の間の渡船場として栄えた。「近江八景」の一つ「矢橋帰帆」で知られたが、現在は石垣と常夜灯のみが残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2016/10/27

本日一記事にて悪しからず

今日は「諸國百物語」の先を電子化注することに追われ、「諸國百物語」の新規記事一本だけの公開に終わった。ブログで一記事しか出さななかったのは、多分、この数年では(昨年夏の入院や緊急所用以外では)特異点となってしまった。悪しからず。

諸國百物語卷之四 七 筑前の國三太夫と云ふ人幽靈とちぎりし事

     七 筑前の國三太夫(だゆふ)と云ふ人幽靈とちぎりし事

Sandayuu

 ちくぜんの國に三太夫と云ふ、あきんどあり。まいねん、大さかへあきなひ物をもちてのぼるとて、あまが崎へもたちより、あつきやと云ふを宿にしけるが、此あつき屋の下女にさゝといふ女ありしを、ていしゆ、三太夫が夜とぎにおこせけり。かようにする事、數年なりしとき、三太夫、ゆへありてひさしくあまが崎へものぼらず。としへてのち、のぼり、くだんのあつき屋へつきければ、ていしゆ、さまざま、ちさうをし、酒をしいて、

「さゝが、ゐたらば」

などと、たわぶれけるを、つかいにゆきつらんなどゝ思ひゐて、夜もふけゝれば、かやをつりてねにけり。やはんのころ、なに物やらん、かやのうちへはいるを見ればさゝ也。三太夫、うれしくて、

「なにと、久しや。ひるは、いづかたへ、ゆきつるぞ」

とゝふ。さゝ、いひけるは、

「われは今はこゝにもゐ申さず候ふ。こよひ、これまでまいり候ふ事、かならず、かたり給ふな」

と云ふ。三太夫、おもひけるは、さては此家を氣にちがいて出でたるか、又は、えんにつきたるにてあらんとて、さまざまとへども、しさいをいわず。さて、その夜はこしかた行くすへしみじみと物がたりしければ、ほどなく夜もあけがたになるまゝに、

「もはや御いとま申さん」

とて、たちいづる。三太夫もなごりをおしみて、かたみとて、しろきかたびらをとらせければ、

「かたじけなし」

とて、ひきかづき、おもてをさして出でければ、三太夫も心もとなく思ひ、あとをしたいて行きければ、西をさしてゆき、あまが崎をはなれける。さては、にしのみやへゆくらん、とおもひければ、さはなくて、なにはのかたへゆきけるが、つゝみのきはにて、かきけすやうにうせにけり。三太夫、夜あけて、ていしゆに、

「さゝは今ほどいづくにゐ申すぞ」

と、とひければ、

「その事に候ふ。さゝは、過ぎしはる、かりそめにわづらひつき、あひはて候ふが、今はのときは、そなたの御事をのみ申しいだし候ふ」

とかたる。三太夫、おどろき、

「さてさて、ふしぎの事の候ふ」

とて、過ぎし夜のしだいを物がたりしければ、ていしゆもおどろき、

「かのみうしなひたる所へ、つれゆかれよ」

とて、三太夫と同道して、ていしゆ、行きてみければ、さゝをうづめたる墓所にてありしが、くだんのしろきかたびらを、つかのうへにかづけをきたり。兩人ともにふしぎのおもひをなし、ねんごろにとぶらひてとらせけると也。三太夫はそのゝち、をやの名をつぎ、黑田右衞門の守(かみ)樣にほうかうをせられしと也。今にかくれなき事なり。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「三太夫云人幽灵とちきる事」。

「筑前の國」現在の福岡県北西部。

「あまが崎」「尼崎」。現在の兵庫県尼崎市。

「あつきや」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本文は『小豆屋』とする。

「さゝ」笹であろう。

「夜とぎ」夜の閨の相手。宿屋の亭主自身が行っていた女中の売春行為である。江戸時代でも立派な犯罪行為である。

「おこせけり」「おこせ」は「寄越す」の意。

「ちさう」「馳走」。

「しいて」「強いて」。一方的に勧め。

「これまで」此処(あなたさまの寝床)まで。

「氣にちがいて」「氣に違ひて」(歴史的仮名遣は誤り)。店の気風・亭主・同僚・客などと気が合わなくなって。

「えんにつきたるにてあらん」「緣(ゑん)に付きたるにてやあらん」(歴史的仮名遣は誤り)。嫁に行ったのでもあろう。

「かたみ」「形見」。久しぶりに会ったその思い出の品。

「しろきかたびら」「白き帷子」白い裏をつけていない単衣(ひとえ)の着物。

「とらせければ」与えたところ。

「ひきかづき」「引き被(かづ)き、面(おもて)を」。頭からすっぽりと被って。婦人がお忍びで外を行く際に顔を隠す普通の仕草。

「おもてをさして」「表を差して」宿屋の外へ向かって。

「心もとなく思ひ」なんとなく気遣わしく、意味もなく不安な気がしてきたので。

「あとをしたいて」後をつけて。

「にしのみや」「西宮」。現在の兵庫県西宮市。

「なには」「難波」現在の大阪府大阪市。

「つゝみのきは」「堤の際」。

「今ほど」現在は。

「かのみうしなひたる」「彼(か)の見失ひたる」。

「くだんのしろきかたびら」「件の白き帷子」。

「つかのうへにかづけをきたり」「塚の上に被け置(お)きたり」。歴史的仮名遣は誤り。挿絵はこの瞬間をスカルプティング・イン・タイムしたもの。

「黑田右衞門の守(かみ)樣」筑前福岡藩第二代藩主黒田忠之(ただゆき 慶長七(一六〇二)年~承応三(一六五四)年)。ウィキの「黒田忠之によれば、『江戸三大御家騒動の一つ、黒田騒動の原因を作った当主として記録に残る』。福岡藩初代藩主黒田長政と正室栄姫(大涼院・徳川家康養女)の『嫡男として筑前福岡、福岡城内の藩筆頭家老・栗山利安の屋敷にて生まれる。のち駿府城において、長政と共に将軍・徳川家康に拝謁している』。慶長一九(一六一四)年の『大坂冬の陣では長政が幕府から江戸城留守居を命じられた為、代わりに出陣している。この際、長政は忠之に、関ケ原の合戦の折に家康より拝領した金羊歯前立南蛮鉢兜を忠之に与え』、一万の『軍を率いさせている』。元和九(一六二三)年、『徳川家光将軍宣下の先役を仰せつかった長政と京都へ同行したが、長政が報恩寺にて病により死去し、家督を継ぐ。当初、江戸幕府』二代将軍徳川秀忠から偏諱を授かり、『忠長(ただなが)や忠政(ただまさ)を名乗っていたが、この時に忠之に改めた。以後、徳川将軍家は福岡藩の歴代藩主・嫡子に松平の名字と将軍の偏諱を授与していく』。『また、父の遺言で弟の長興に』五万石(秋月藩)、高政に四万石(東蓮寺藩)を分知し、これによって石高は四十三万三千余石となった。『忠之は生まれながらの大藩御曹司であり、祖父や父とは違い、性格も我侭であったという。外見は華美で派手なものを好み、藩の財力でご禁制の大型船舶、鳳凰丸などを建造したり、自らの側近集団を組織し』、倉八正俊姓は「くらはち」で、「倉八家頼」ともする。稚児小姓から忠之に仕えていた人物。忠之は先代からの家老職の家柄で、先勲も甚だしい栗山家出身の家老栗山大膳利章(としあきら:彼の父は栗山善助利安(としやす)で、かの軍師として名高い福岡藩黒田官兵衛(如水)孝高(よしたか)の筆頭家老で直参の家臣であった。官兵衛が有岡城に監禁された際の救出、関ヶ原の戦い前夜には大坂屋敷から孝高と長男長政(彼が後に福岡藩初代藩主となる)の両夫人を脱出させるなど、まさに黒田家の恩人でもあった。その善助の子が栗山大膳利章あった。)を殊更に忌避し、この正俊を寵愛、仕置家老(当代藩主が従来の家老の能力を不十分として、異例として新たに家老に取り立てた、実力主義で選ばれた新参家老)にまで取り立てているこれに大膳が激しく反発、以下に書かれる黒田騒動に発展するのであるが、彼は通称を「倉八十太夫(じゅうだゆう)」と称した。或いは、本作の「三太夫」はこの佞臣の通称がヒントかも知れぬ。なお、この挿入部分では個人サイト「歴史の勉強」の黒田騒動を参考にさせて頂いた)、『郡慶成らを重用した。一方で』「筑前六端城(領内主要六拠点の支城)」城主を『始め、父・長政時代からの重臣たちと対立し、忠之は所領減封や改易などの強硬策をとった。ところが』、寛永九(一六三二)年、六端城の一つであった麻底良城主『栗山利章(大膳)によって幕府に「黒田家、幕府に謀反の疑いあり」と訴えられ、黒田家は改易の危機に立たされた。いわゆる黒田騒動である』。三代将軍徳川家光は寛永一〇(一六三三)年二月、『自ら裁定を下し、栗山の訴えは「精神的に異常であり』、『藩主への逆恨み」と裁断し、のち幕命により倉八は高野山、栗山は盛岡藩南部家へ預けられ追放された。藩主黒田家はお咎めなし(正確には名目上いったん改易後、旧領に再封する形を取った)であったが、このこともあり、長政と懇意の仲であった幕府老中の安藤直次、幕府古老・成瀬正虎らから連署で忠之へ書状が送られ、「御父上のように年寄どもとご相談の上」藩政を進めるように促された。その結果、忠之の側近政治は弱められ、福岡藩の政治は元の重臣を中心とした合議制色が強くなった』。ここに実に十年にも及んだ藩内抗争であった黒田騒動は幕を閉じたのであった。寛永一四(一六三七)年の『島原の乱に出陣し、武功を挙げ』、寛永一八(一六四一)年には『江戸幕府の鎖国令により長崎が幕府直轄地(長崎奉行地)となり、肥前佐賀藩と交代で長崎警備の幕命を受ける。この事により福岡藩は参勤交代に於ける参勤回数、当主の江戸滞在短縮など幕府から優遇を受け』ている。なお黒田騒動後の栗山大膳と倉八十太夫は、ウィキの「福岡藩の「黒田騒動」の条によれば、『大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち』、『上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている』とあり、一方の大膳は、ウィキの「栗山利章によれば、彼は事実上の流罪ではあったものの、百五十人扶持であり、『盛岡藩南部家も手厚く待遇した。盛岡在府中は、同様に対馬藩から盛岡藩預かりとなった規伯玄方』(きはくげんぽう:対馬藩の朝鮮との外交交渉を担当し、朝鮮へ使者として出向いたりもした、筑前国宗像郡出身の臨済僧。柳川一件(やながわいっけん:対馬藩第二代藩主宗義成(そう よしなり)と家老柳川調興(しげおき)が日本と李氏朝鮮の間で交わされた国書の偽造(実際に藩主導で偽造は行われた)を巡って対立した事件。家光の裁定は義成は無罪、調興は津軽に流罪。ウィキの「柳川一件の参照されたい)で国書改竄に関与したとされ、大膳が預かりとなった二年後の寛永一二(一六三五)年に盛岡藩に配流となった。盛岡では学問・文化の指導者として尊敬され、南部鉄器や黄精飴黄精飴(おうせいあめ:薬名を「王竹」「姜蛇」とも呼ぶ漢方薬「黄精」は「甘野老(あまどころ)」(単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum
odoratum
)の地下茎から取りだした煎汁で、胃腸や心肺に良いされるが、この煎汁を砂糖・飴・餅粉に混ぜて仕上げた求肥(ぎゅうひ)状の盛岡の伝統和菓子。岩手県の「黄精飴本舗長沢屋」についての記載を一部で参考にした)の創出などに関わったとされ、、また盛岡藩では南部牛が多く飼育されていたが、玄方は慶安三(一六五〇)年に第三代藩主南部重直に対して牛乳の使用を奨め、これは江戸時代に於ける牛乳の利用についての早い事例として知られる。万治元(一六五八)年に赦免となり、京都の南禅寺に移った。この部分は主にウィキの「規伯玄方に拠った)『とも親交があり、共に盛岡城下の文化振興に寄与した』。栗山大膳利章は承応元(一六五二)年に同地で死去した。墓所は盛岡城下の曹洞宗恩流寺にあり、規伯玄方の手になる忠節を讃えた碑がある、とある。]

2016/10/26

譚海 卷之一 安永五年日光御社參の事

安永五年日光御社參の事

○日光御社參安永五年に有(あり)。十三日に江戸を御發駕(はつが)に付(つき)、十二日暮六つ時より江戸町の辻々木戸(きど)をうち、夜は往來の人を拍子木にて送り、晝も又然り、翌十三日晝八つ時御成(おなり)相濟(あひすみ)たるよしにて、木戸を開き往來常の如し。夫(それ)より毎夜五(いつつ)ときより木戸をとぢ、曉まで往來を拍子木にて送る。町ごとに上下(かみしも)の辻番の外、中番屋(なかばんや)を假(かり)にしつらひ、家主月行事晝夜詰切(つめきり)、火消の人數も不斷(ふだん)火の元用心に徘徊する。廿一日還御也。廿日の宵より木戸をとぢ、辻々をかたむる事御發駕の日の如し。町々木戸なき時は、竹やらひにて小路にてもがりを拵(こしらへ)たり。又よせ馬といふ事あり、房總より召(めさ)れて道中駄荷(だに)の用にあてらるゝ事也。其馬小屋鳥越橋の西の原、淺草かやてうのうしろの原、柳原あたらし橋向ひの馬場、同所天文はら等也。假小屋をしつらひ率(ひ)くる馬を追入々々(おひいれおひいれ)する事、凡(およそ)三萬餘疋に及(および)けるとか。都(すべ)て道中の傳馬(てんま)をかぞへ入(いれ)ては廿三萬疋程也とぞ。

[やぶちゃん注:本条を持って「譚海 卷之一」は終わる。

「安永五年」一七七六年。月が書かれていないが、主に徳川家康の命日である四月十七日に参拝するように実施されたから、これも総て旧暦四月のことである。因みにこれは第十将軍徳川家治の社参で、じつはこの後の第十二代将軍徳川家慶天保一四(一八四三)年の社参が最後の日光社参となった。因みに、旧暦安永五年四月十二日はグレゴリオ暦一七七六年五月二十九日で、還御の二十一日は六月六日に当たる。ウィキの「日光社参」によれば、そのルートは、『江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城』(いわつきじょう:武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁)『に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿』(さってじゅく:現在の埼玉県幸手市中部から北部地区)『近くで日光街道(日光道中)に入り、二日目は古河城』(こがじょう:現在の茨城県古河市の渡良瀬川東岸にあった古河藩の藩庁)『に宿泊、三日目は宇都宮城に宿泊したのち、四日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計』八泊九日にも及ぶ将軍の外遊としては特異的に長い『行程であった』。

「暮六つ時」不定時法でこの時期だと午後七時半近くである。

「夜は往來の人を拍子木にて送り」番屋(消防・自警団の役割をしていた自身番の詰所。木戸番や火の見櫓を併設していることが多く、江戸・大坂・京都などの大都市及び地方の城下町でも見られた。地元住民が交代で役割に従って担当した)の者が住所や名、通行目的を確認した上、認められた特別通行許可を受けた人間であることを示すために、同道して拍子木を打って通ったという意味か。識者の御教授を乞う。

「五とき」不定時法の夜五つ(初更)なら、八時半過ぎ頃で、定時法の「五つ」なら午後八時前後となる。

「上下」必ずしも各町に「上町」「下町」がある訳ではないから、木戸が設置されてあった町の両端の謂いであろう。

「家主月行事晝夜詰切」家主(やぬし)及び月行事担当の者が、交代で昼も夜もずっと番屋につめて。

「不斷」「絶え間なく」の意の副詞。

「かたむる事」「固むる事」。警固すること。

「竹やらひ」「竹矢來」。竹で造った仮囲い。長さ二~三メートルの竹を斜めに組合せ、交差部を棕櫚繩などで結んだもの。時代劇に出て来る刑場のあれ。

「もがり」「虎落(もがり)」。竹を筋違いに組み合わせ、繩などで結い固めた柵。前の竹矢来よりもサイズも小さく、造作も簡便なものであろう。要は、人がこっそり簡単に通り抜けられぬような障碍物として存在すればよいような代物である。

「よせ馬」将軍家日光社参のために必要な荷馬を徴集することであろう。先に引いたウィキの「日光社参」によれば、『日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば』、ここに出る『将軍家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた』。『これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった』。『なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう』とある。リンク先を見て戴くと分かるが、日光社参は江戸時代、十九回行われているが、その内の十回は総て家光のそれである。

「鳥越橋」鳥越川に架かっていた橋(現在は暗渠)。現在の東京都台東区柳橋にある須賀橋交番前。この橋は江戸時代には須賀橋・天王橋・地獄橋などとも呼ばれた。

「淺草かやてう」「淺草茅町」。浅草橋から浅草橋駅付近の旧町名。

「柳原あたらし橋」現在の東神田三丁目から二丁目の、神田川に架かる美倉(みくら)橋。

「同所天文はら」浅草の新堀と三味線堀の間。天明二(一七八二)年に幕府天文方(てんもんかた)がここに移転し、この時、浅草天文台という呼称を初めて用いたが、それ以来、この付近を天文原と呼ぶようになった。

「傳馬」旅中の状況や急務の送受信のための特別逓送(ていそう)用の馬。宿場毎に一定数が配置されてはいたが、これは日光社参のための別用立てのそれである。]

譚海 卷之一 遠州長門御所の事

遠州長門御所の事

○友人某遠州に在番の頃、其所のくもん御所と云(いふ)ことを書記(かきしる)しこしたる書に云(いふ)、遠州秋葉山より南の表山(おもてやま)七八箇村を飯(ゐい)の奧山と唱へ、北東うらの山中六箇村を水久保入(みづくぼいり)と云傳(いひつた)へし事は、そのかみ後醍醐帝都よりむもん御所と申奉(まうしたてまつ)りし御方(おんかた)の、飯の奧山法光寺へおち忍ばせ玉ふに、行良(ゆきなが)親王と申せし君達(きんだち)御所の御行衞(おんゆくゑ)をしたはせ玉ひ、奧の山に尋ねさまよひおはしまし、いのおく山を此奧の山と取(とり)ちがひ、此おく山よりは信濃路へ鄰(となり)しゆへ、信濃路へおもむき玉ひ、信州竝合(なみあひ)といふ所にて薨(こう)じ玉ふ。折からの御辭世のよし、「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」。此(この)故(ゆゑ)によりて遠州奧山六箇村に限りて、莊屋を君門(くんもん)莊屋と唱へ來るよし、今にかくいひ傳へ候。按ずるに此(この)事浪合の記といふ物に委しく記したり。此書狀少しわかりかねたる事あれどもそのままをしるす。

[やぶちゃん注:「竝合(なみあひ)」は特異点の原典のルビ。「世(さ)の」は底本の別校本の補正。「世」を「さ」と読み換えよということであろう。

「くもん御所」不詳。以下の手紙文によるなら、「君門(くんもん)」(この読みは私の推定)「御所」の「ん」の脱落(しばしば起こる)ということなる。こういう呼称の場所は現在の静岡県西部(「遠州」。旧「遠江(とおとうみ)国」)には現認出来ない。

「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。

「飯(ゐい)の奧山」不詳。秋葉山の西直近の天竜川を遡上すると、長野県「飯」田市に突き辺りはする。後の底本の注引用を参照。

「水久保入」不詳。後の底本の注引用を参照。

「むもん御所」不詳。

「飯の奧山法光寺」秋葉山の近くで、現存する同名の寺は静岡県浜松市中区泉にあるにはあるが(日蓮宗)、ここかどうかは不詳。

「行良(ゆきなが)親王」これは尹良親王(ゆきなが(よし)/これなが/ただながしんのう 正平一九/貞治三(一三六四)年?~応永三一(一四二四)年?)か? ウィキの「尹良親王によれば、「浪合記」(後注参照)「信濃宮伝」などの『軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女』『とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在性を疑問視する意見が多い。源尹良とも』。「浪合記」「信濃宮伝」の『間では年紀などに少なからず異同が見られるが』、「南朝編年記略」などを『援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる』。『遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野に移ったが』、天授五/康暦元(一三七九)年、『吉野に参候し、親王宣下を蒙って二品に叙される。後に兵部卿を経て』、元中三/至徳三(一三八六)年、『源姓を賜って臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左近衛大将・征夷大将軍を兼ねた』。元中九/明徳三(一三九二)年の南北朝合一後も、なお、『吉野に隠れ留ま』った。応永四(一三九七)年二月、『伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った』。同五(一三九八)年『春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦。武田信長の館に入って数日逗留した後』、八月、上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いている。同一〇(一四〇三)年、『頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落。次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士』百余騎を『率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った』。同三一(一四二四)年八月、『三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎ら』二百余騎が『阻んだため、浪合にてこれと奮戦した(浪合合戦)。味方は』八十余騎で『あったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下』二十五人が『討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した』。但し、『岐阜県の東濃(中津川市・恵那市)の伝説では、親王は浪合で死なず、従士の逸見左衛門九郎朝彬を召し連れ、柿の衣に笈を掛けた山伏姿に身をやつして美濃笠置山の麓の毛呂窪の郷に落ち延び、松王寺で再起を図った。大河原で敗残した従士達も集まって農耕をしながら』二十年余りを過ごしたが、『やがて足利方の知るところとなって敵兵が来襲したため、従士』四十九人が『討死し、親王もまた自害したという。中津川市蛭川と恵那市笠置町毛呂窪に親王の墓所と伝えられる石塔が残っている』ともある。後の底本の注引用を参照。

「君達」「公達」とも書き、「きんだち」は「きみたち」の転じた読み。親王・摂家・清華(せいがけ:公卿の家格の一つで、摂関家に次ぎ、大臣家の上に位する家柄。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る。転法輪三条・今出川・大炊(おおい)御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家であったが、後に醍醐・広幡を加え、九清華という)など、公家の最上層の者の子弟を指す。

「信州竝合(なみあひ)」現在の長野県下伊那郡の西南部にある浪合村(なみあいむら)。天竜川上流の右岸の山中で、話柄の流れからの位置としては、辻褄は合う。

「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」不詳。失礼乍ら、和歌としても辞世としても、見どころは一つもない。

「君門(くんもん)莊屋」不詳。

「浪合の記」底本の竹内利美氏の注に、『「浪合記」。応永年中南朝の貴種が流離の末、信州伊那の山中、浪合で悲運の最後をとげた次第をしるした歴史伝記で、主人公をユキヨシ親王としている。津島社の社家の手を経た後世の仮托の作らしい。飯の奥山、水久保は遠州側で、天竜川の東に位する。宗良親王の隠住した地方なので、こうした伝説も生じた』とある。]

譚海 卷之一 大坂芝居棧敷の事

 

大坂芝居棧敷の事

○安永四年友人大坂より來書に云(いふ)、上方大和邊も此節開帳何角(なにかと)賑々敷(にぎにぎしく)、伊勢山田も兩芝居繁昌致(いたし)候。當時は參宮人も山城・大和・大坂・京都邊ばかりに御座候。關東道者(もの)はいまだ少(すくな)く存(ぞんぜ)られ候。されど時分柄(がら)ゆへ伊勢海道は格別にぎはひ申(まうし)候。扨(さて)大坂にてけしからぬ事は芝居にて御座候。尾上菊五郞去年顏見せより忠臣藏致候處、總役者衣裝三度まであらたに仕(し)かへ、今に大あたりに御座候。大坂は棧敷幟(さじきのぼり)と申(まうす)ものを、茶屋中(うち)より芝居の向側(むかひがは)へ出(いだ)し申候。三月廿日までに十七本に及(および)申候。棧敷千軒うれ候得(そうらえ)ば、のぼり壹本づつ出し申候。幾日より幾日までと日付をして賣(うり)たる事記(しる)し申事に御座候。棧敷の直段(ねだん)江戶とは違ひ、日々相場を立(たて)高下(かうげ)致候。二月中より鳥目(ちやうもく)六貫四五百文、此間は七貫二百文までに賣申候。けしからぬ事あるものに候。

[やぶちゃん注:私は文楽好きの歌舞伎嫌いであるので、注はそっけない。悪しからず。

「安永四年」一七七五年。

「尾上菊五郞」初代尾上菊五郎(享保二(一七一七)年~天明三(一七八四)年)。ウィキの「尾上菊五郎初代によれば、『屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎』。『京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る』。享保一五(一七三〇)年、『京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台』、同二〇(一七三五)年『からは若女形として舞台に立ち評判を取る』。その後、寛保元(一七四一)年には『大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後』、宝暦二(一七五二)年に立役(たちやく)に転じた。しかし、明和三(一七六六)年に『江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経て』後、再び、『江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した』。彼の当り役はまさにここに出る「仮名手本忠臣蔵」の「大星由良助」、「ひらかな盛衰記」の「延寿」や「畠山重忠」などであった。]

譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事

相州三浦篝堂の事

相州三崎に篝堂(かがりだう)とて、官より建置(たてお)かれたる所あり。海岸高き所に堂有(あり)、晝夜兩人づつ詰居(つめを)る也。晝は風波破船などの遠見(とほみ)をいたし、夜は明(あく)るまでたえずかゞり火を燒(やき)て、海舶往來の目じるしになる樣に掟(さだめ)られし也。篝になる薪は、浦々より役割をもちてよせ來る定數(じやうすう)ある事也。然るに此地七月十三日の夜は、いつも難船橫死の幽靈此堂に現ずるゆへ、人甚(はなはだ)恐怖し、其日に限りては數十人寄合(よりあひ)、奐鐘(かんしよう)大念佛にて通夜(つや)するなり。さるにつけても幽靈必ず現(げん)ず、或は大船にはかに現じて漂ひ來り、巖頭(ぐわんたう)にふれてくだけくづるゝ響(ひびき)おびたゞしく震動して、人の耳を驚(おどろか)し、身の毛立(けだち)、その時忽ち數十人影(ひとかげ)まぼろしの如く水面に充滿し、わつといふて此堂をさして入來(いりきた)る事、年々たがはず、恐しき事(こと)言語同斷也。因て年々施餓鬼會を勤め佛事を營む、ふしぎの事に言傳いひつたは)る也。

[やぶちゃん注:「譚海」では珍しい、「ザ・フォッグ」(The Fog 一九八〇年。監督・脚本ジョン・カーペンター)並みにキョワい舟幽霊(ふなゆうれい)の怪談が途中に挟まっている。

「奐鐘(かんしよう)大念佛」のルビは特異点の原典のもの。これは恐らく、現在の神奈川県横須賀市の浦賀港入口に当たる岬(燈明崎(とうみょうがさき))の先端に江戸時代に築造された和式灯台である燈明堂のことであろう。但し、ここならば火は当初から篝火ではなく、油火であった。ウィキの「燈明堂横須賀市によれば、天正一八(一五九〇年)の『徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた』。慶安元(一六四八)年、『江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設』、『燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた』。『当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている』。『建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが』、元禄五(一六九二年)以降は浦賀港の干鰯問屋(ほいかどいやは:干した鰯(いわし)などの魚肥を扱った問屋)が修復費用も捻出するようになったという。『海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた』とある。引用元にはもっと詳しい歴史記載が載るので参照されたい。

「奐鐘(かんしよう)大念佛」「くわんしよう」が正しいが、この「奐鐘」は「喚鐘」で、法会で人々を呼び集めるための小さな鐘を指し、それを皆で打ち鳴らしながら、念仏を唱える水死者を供養する施餓鬼様のものと思われる。]

譚海 卷之一 豆州大島幷八丈島の事

豆州大島幷八丈島の事

○伊豆國四郡と云は、元來豆州三部に大島一郡を合(あはせ)ていへる事也。豆州より大島へ七里、大島よりにい島ヘ七里、にい島より三宅島ヘ七里、三宅島よりかうづ島へ七里、かうづ島よりとしまへ七里也。としまの先にはだか島と云(いふ)あり、一里四方程ある島也といへり、此(ここ)は行(いき)たる人もなし、里數もしれがたし。扨(さ)て八丈島は大島より東南、はだか島よりは東にあたれる島也。里數國禁(こくきん)にてしれがたし、已上を八島といふ。大島の産物矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ。牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也。しひたけ・かつほぶし等也。にい島にも椎茸を産す。牛もありといへども角はおほく出(いだ)す事なし。椿の油を産す。八丈より出す所の織物は運上(うんじやう)にて米にてかへ納(おさめ)らるゝ也。尤(もつとも)八丈島には官府ありて官船のほか海舶の往來制禁也。

[やぶちゃん注:「幷」は「ならびに」。「矢〆(やしめ)」は特異点の原典のルビ。

「七里」二十七キロ四百七十九メートル。一律、これで揃えているが、後で「里數國禁」と述べているように実測値とは微妙に異なる。というより、三宅島を起点に後の島への距離を示すのは実際の海路から腑に落ちはするが、地図も頭にない読者は皆、江戸に近いところから遠いところとして、

 大島→新島三宅島神津島利島→「はだか島」(御蔵島:後注参照)→八丈島

の順に伊豆諸島は南或いは南東に点在しているとしか読まない。事実は無論、

 大島→利島新島→式根島→神津島三宅島→御蔵島→八丈島

の順である。

「にい島」「新島」。なお大島以下のここに出る伊豆諸島は現在は行政上は総て東京都。

「かうづ島」「神津島」。私が唯一行ったことのある伊豆諸島の島。夜の墓場の美しかったことは生涯、忘れない。二十三の時に訪れた……神津島では誰の墓とも分からなくなった壊(く)えた墓石に至るまで、毎日、美しい色とりどりの花を老婆たちが供えていた……私は深夜に独り、その瑞々しい花々に包まれた墓地を何ども訪ねたのだった……それは……不思議な……あの世の楽園……そのものだった…………

「としま」「利島」。

「はだか島と云あり、一里四方程ある島」順序と「四方」という謂い方からは、ほぼ円形を成し、概ね五キロメートル弱四方に入るところの御蔵島のことと思われるが、このような別名を現認出来ない。「裸島」或いは「波高島」などが考えられ、或いはもっと南の後に出る「八丈島」の記載を、この御蔵島と誤認し、しかもそれを「ハ丈島」(はだかじま)と誤読した可能性もあるように私には思われる。「八」はカタカナ「ハ」と読み違い易く、しかも「丈」は「たか」「だか」と訓じ易いからである。

「里數もしれがたし」御蔵島は江戸の南約二百キロメートル、直近の三宅島からは南南東十九キロメートルの附近に位置する。前者は換算すると約五十一里、後者は五里弱。

「里數國禁(こくきん)にてしれがたし」江戸の南亦二百八十七キロメートル、直近の御蔵島からは南南東方約七十五キロメートル附近に位置する。前者は換算すると約七十三里、後者は十九里ほどとなる。

「矢〆(やしめ)といへる薪(たきぎ)一名(いちめい)島眞木ともいふ」不詳。「島眞木」の読みは「しままき」(島の薪(まき))であろう。識者の御教授を乞う。

「牛の角此は島に放飼(はなしがひ)して角とるばかりにもふけたる事也」前条鰹魚を釣るに用る牛角の事を参照されたい。

「しひたけ」「椎茸」。現在も八丈島の特産品である。

「八丈より出す所の織物」八丈島を本場とする「黄八丈」のこと。ウィキの「黄八丈」より引く。『黄八丈(きはちじょう)は、八丈島に伝わる草木染めの絹織物。 島に自生する植物の煮汁で黄色、鳶色、黒に染められた糸を平織りまたは綾織りに織り、縞模様や格子模様を作ったもの。 まれに無地の物も染められることがあるが、地の黄色がムラになりやすく市場にはほとんど出回らない』。『むろん八丈島が本場だが、秋田県でもハマナス』(バラ目バラ科バラ属 Eurosa 亜属Cinnamomeae節ハマナス Rosa rugosa)『などを原料とした染料を用いた「黄八丈」が織られているため、そちらの八丈を「秋田黄八丈」、八丈島で生産される八丈を「本場黄八丈」と呼んで区別している』。『八丈刈安』(はちじょうかりやす:単子葉植物綱イネ目イネ科コブナグサ属コブナグサ(子鮒草)Arthraxon hispidus)『で染めた明るい黄色の色彩が特徴であり、現在は伝統的工芸品として国の指定を受けている。 鳶色が主体になったものは茶八丈、黒が主体のものは黒八丈と呼ぶことがあるが、黒八丈には同名の別の絹織物が存在するので混同しやすい。 黄八丈という名称は戦後になってからよく使われるようになったものであり、以前は「八丈絹」「丹後」と呼ばれていた』(下線やぶちゃん:本来ならここでも冒頭、「黄八丈」ではなく、それで呼ぶべきではあろう)。『伊豆諸島では八丈島の他に三宅島でも独自の絹織物が製造されている。三宅島のものは三宅丹後と呼ばれている』。『本居宣長は「玉勝間」にて「神鳳抄という書物に、諸国の御厨(神社の領地)より大神宮に奉る物の中に、八丈絹幾疋という表現が多く見える。したがってこの絹はどこの国からも産出したのである。伊豆の沖にある八丈が島というところも、昔この絹を織りだしたので島の名にもなったのに違いない……」と記している事から八丈島の島名の由来になったとされる』。『この島は古くから都からの流人によって絹織物の技術がもたらされていたため絹織物の生産に優れ、室町時代から貢納品として八丈の絹(白紬)を納めていたとされる。寛永年間にはタブノキ(八丈島ではマダミと呼ぶ)』(クスノキ目クスノキ科タブノキ属タブノキ Machilus thunbergii)『の樹皮を使った鳶色の織物が織られるようになり、寛政年間ごろに現在の黄八丈に使われる染色技術が完成されたといわれる。

江戸時代後期に、白子屋お熊の入婿殺人未遂事件を脚本化した浄瑠璃「恋娘昔八丈」(こいむすめむかしはちじょう)で黄八丈の衣装が採用されたことから爆発的な人気を誇った。お熊が処刑に臨んで八丈を着たのは確かだが、江戸時代中期には黄八丈の知名度は低く実際には鳶色か黒地の八丈と思われる』。『黄八丈の印象的な黄色は、ほかの地方では雑草扱いされるコブナグサというイネ科の一年草から取れるもの。ほかの草木に比べて群を抜いて美しい黄金色を染め出すことから、八丈島では本土で古くから黄色の染色に使われるカリヤスにちなんで八丈刈安と呼んで大事に栽培されている。これを用いて秋の初めに糸を染め始め、椿などの灰で「灰汁付け」(媒染)する』。『鳶色はタブノキの樹皮が原料で、何度も染液に漬けては乾燥させて赤みがかった濃い茶色を染める』。『黒色はいわゆる「泥染め」(鉄媒染)で得る。スダジイ』(ブナ目ブナ科シイ属スダジイ Castanopsis sieboldii)『の樹皮で染めた糸を自然の沼で「泥付け」して泥の中の鉄分とスダジイのタンニンを結合させることで黒が得られる。ちなみに泥染めで黒を染めると糸が脆くなり易いため』、『黒染めの古布は現代に伝わりにくい』とある。]

譚海 卷之一 鰹魚を釣るに用る牛角の事

鰹魚を釣るに用る牛角の事

鰹(かつを)を釣るには餌を用ひず牛の角にて釣る也。生(いき)たる牛の角を刄物(はもの)にて段々けづりされば、しんの所鰹ぶしのしんの色のごとく、うつくしくすき通る樣になる、其かふばしき匂ひ、誠にくふて見たき程なり。その角のしんの先へ釣(つり)はりを仕込(しこみ)、(針の際へふぐの皮を付る事也。)その角を繩に付(つけ)海へ投ずれば、かつほ此(この)角の匂ひを慕ひてそのまゝくひつけば、鈎(はり)さきにかゝりてはなるゝ事ならず。それを引あげ引きあげ舟に入(いれ)、ざんじに舟の内(うち)山の如くにとり得らるゝ事也。餘り澤山釣(つり)けるときは、わにざめの鰹をしたひきて呑(のま)んとするゆへ、舟の難儀に及ぶゆへ、見はからひて、澤山に釣(つり)あまる程の時は、鰹を五六本十本程づつ繩にくゝりて海中へなげやり、其まぎれに船をこぎもどすと也。此牛の角伊豆の大島よりくる、百本づつかます入(いれ)にして江戸鐡砲洲(てつぱうず)邊(へん)にある事也。扨(さて)大島にて此牛の角をとる事、元來大島牛多く生産して田畑なき所ゆへ、耕作に遣ふ用なければ、角をとりてかくうりしろなす事也。牛の角をとらんとする時、島の内の人殘らず組合(くみあひ)、流人(るにん)をももよほして一時に牛を追出(おひいだ)す。牛大勢に追はれて段々海邊(うみべ)へ行(ゆき)つまり、行所(ゆきどころ)なくして海岸にたちて居るを、棒を人々もちてねらひよりて牛の角をうち落す、牛(うし)角を落されて悲鳴する事云(いふ)ばかりなし。それを百本づつ俵(たはら)にして送る也。牛角を落されたる跡、しんありてわづかに殘れり。壹寸程高く生出(おひいで)たる跡殘りて有(あり)。月をへて疵(きず)いゆれども、又角を生ずる事なし、されば大島には角のなき牛多しとぞ。

[やぶちゃん注:「(針の際へふぐの皮を付る事也。)」は底本にないものを編者が対校正本によって補ったことを示すもので、割注ではない。果たして、牛の角の芯の性質が、ここに書かれたようなもの(釣りの餌となる)であるかどうかは私は知らない(なってもおかしくはないとは思う)。但し、牛の角は芯の部分は血管も神経も通っているので、後にも出るが、牛は角を強く叩かれたり、切られたりすれば非常に痛がるはずである。ブログ「牛コラム」の導入直後の除角を参照されたい(たいしたことはないが一枚だけ除角直後の映像が有る。クリックは自己責任で)。そもそもこの文章、牛の角を加工して鰹漁の釣針にしたというのなら、腑に落ちるのだが。ここに書いてあるのは、本当に事実なのだろうか? 個人サイト「TROLLING FAQ INDEX」のに本条を引き、私と同様の疑問を呈されつつも、『ここに描かれているのは現代の和角ともうほとんど変わりがないと言えます。ただ、「其香ばしき匂い」というのはあまり合点が行きません。削った人なら分かると思いますが、その臭いは結構きついものがあります。皮加工か獣臭のような臭い、濡れるとさらにきつくなるこの臭いは、あるいは魚にとってはgood smellなのかもしれませんが』と附言してはおられる。

「針の際へふぐの皮を付る事也」このフグの皮は一種のフライの飾りのように思われる。

「わにざめ」サメ類の古くからの総称。

「かます」「叺」。藁莚(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋。

「江戸鐡砲洲(てつぱうず)」現在の東京都中央区東部の湊(みなと)や明石町(あかしちょう)に相当する地名。徳川家康の入府当時、鉄砲の形をした洲の島であったことに由来とも、寛永の頃にこの洲浜で鉄砲の試射をしたことに由るとも伝える。

「壹寸」三センチメートル。

「又角を生ずる事なし」牛の角は骨の上に角質が載っているもので、生え変わったりはしないので、盛り上がって少し伸びることはあっても元通りの角は生えない。]

タルコフスキイを撮る夢

本未明のタルコフスキイを撮る夢――

僕はどこかの国の高台の修道院に匿われているタルコフスキイと面会している。

[やぶちゃん注:後からその修道院が遠景で映し出されるれるが、それは「ノスタルジア」ドメニコが世界の終末のために家族を匿うロケ地とよく似ていた。]

背後の壁は全体を大きなゴブラン織りが覆っていて、その上にルブリョフの「三位一体図」(троица:トローイツァ)が掛かっている。

[やぶちゃん注:ゴブラン織りは「鏡」の「作家」の家のもの、言わずもがな、「三位一体図」は「アンドレイ・ルブリョフ」の最後に映し出されるあれだ。]
タルコフスキイは、
「明日、官憲が私を捕縛に来る。その連行される一切が今回の私の作品のエンディングとなる。君は他の二人とともにそれを撮るのだ。」
と僕に命じながら、右手で絨毯の上に伏せしている犬の頭を撫でる。犬は僕を見て尻尾を振る。犬はシェパードである。

[やぶちゃん注:この犬は言わずもがな、「ノスタルジア」の「ゾイ」である。]

隣りの部屋に後の二人がいる。一人は長机の部屋の奥の端に僧衣を被っており、今一人は、その真反対にある出窓の前で外を見ている。二人とも暗く沈んでいる。

僧衣の男はアナトリー・ソロニーツィン、窓辺の男はトニーノ・グエッラであった。

[やぶちゃん注:前者 Анато́лий Алексе́евич Солони́цын 1934年~1982年)はタルコフスキイ組の私が最も好きなロシア人名優。後者はTonino Guerra 1920年~2012年) はイタリアの脚本家で「ノスタルジア」の脚本やイタリアでのタルコフスキイの複数のドキュメンタリー映像を手掛けた。]

翌日、官憲が修道院へやって来る。百人以上の重装備の機動隊である。彼らがタルコフスキイのいる納屋に近づいてゆく。しかし、その扉が自ずと内からゆっくりと開かれる。暗闇の納屋の中、そこだけスポットが当たるようにしてタルコフスキイが毅然として立っている(ここはモノクロ)。

[やぶちゃん注:この扉は「サクリファイス」の戦闘機音とともに激しく開くそれと同じ扉であり、開いた後のシーンの処理は「鏡」の少年期の「作家」のイメージ部分とよく似ていた。]

官憲に乱暴に引き立てられてゆくタルコフスキイ。

修道院からは徒歩である。その道は地肌も露わな赤土で、昨晩の雨でどろどろにぬかるんでいる。
私は師の捕縛を哀しんでその先導をする修道僧の役となり、ソロニーツィンにカメラを頼む。
下り道の崖側には牧羊の囲いに有刺点線が張られている。
僕は何度もずるずると滑りそうになる。
その都度、僕は右手で囲いを摑む。
その都度、僕の右の掌は甲まで錆びた鋭い有刺鉄線が突き抜けて、飛び出るのであった。
それをソロニーツィンが撮ってくれているのが判る。

[やぶちゃん注:この泥濘の道は「アンドレイ・ルブリョフ」でルブリョフ(ソロニーツィン演)と喧嘩別れした青年「ボリースカ」(ニコライ・ブルリャーエフ演)が鐘に最適な粘土を発見するシークエンスの道を恐ろしく長く高くしたようなものであった。有刺鉄線は「僕の村は戦場だった」で主人公「イワン」(同ブルリャーエフ演)を有刺鉄線でなめるシーンとダブった。なお、このシークエンス全体はタルコフスキイの好んだ、キリストのゴルゴダへの登攀の逆転したシンボライズであるように思われる。]
麓の町につく。

[やぶちゃん注:以下で実は、その町の老婦人と、先の「ゾイ」そっくりの犬が登場し、煉瓦の壁に掛かった三枚のルネサンスの絵画(その時は夢の中でその絵を誰の何としっかり認識していたのに今は失念してしまった)を僕がカメラ映りのよいように何度も掛け変えるシーンなどが挟まるのだが、超常的な現象が多発したりして、説明に時間がかかるので総て涙を呑んで割愛する。]

護送車が待っている。
その横にこちらを向いてグエッラが哀しげな表情で立っている。
僕は師タルコフスキイの先払いの演技をしながらも、
『グエッラって黙って立ってると、美事に「役者」やないけ』
と心の中で思ったことを覚えている。そうして、そうした総てを背後でソロニーツィンが撮っているのを背中に感じながら。
そう。そのグエッラへの感じは一種の嫉妬に近い感情であったことを告白しておく。僕は終始、僧帽を深く被っていて顔が出ないのである。ドキュメント映像には僕の顏は全く出ないのである。
タルコフスキイを載せた護送車が薄い霧の中をだんだんに小さくなってゆく…………

[やぶちゃん注:これも言わずもがな、「サクリファイス」のエンディングで狂人扱いされたアレクサンデルが救急車で運ばれるシークエンスのインスパイアである。出来れば、ここで今の覚醒した僕としては、「タルコフスキイ! また、いつか、どこかで!!」と叫びたかったのだが、夢の僕は、ささくれた唇から血を流してむっとした表情で目を大きく開いてそれを見ているばかりであった。しかしそれは「僕の村は戦場だった」のあの「イワン」の、見上げるきっとした強烈な表情にそっくりだったとは思うのである。]

諸國百物語卷之四 六 丹波申樂へんげの物につかまれし事

     六 丹波申樂(たんばさるがく)へんげの物につかまれし事

 

 たんば申樂、妻子弟子をつれ、廿人ばかりにて、京へのぼりけるが、をりふし、山なかにて日くれければ、ぜひなく、山なかにて一夜をあかしけるが、女ばう、うみ月にて、その夜に、よろこびしけるを、とやかくと、いとなみて、夜のあくるをまちければ、夜のほのぼのあけに、としのころ、廿ばかりの女、そこを、とをりけるを、申樂、見てよびよせ、

「たれ人もぞんせず候へども、よき折から、とをり給ふものかな。ちかごろ、申しかね候へども、此子を、いだき給はらんや」

といへば、

「やすき事」

とて、かの子をいだきゐけるが、人々、すこしねむりたるまに、かの女、この子があたまをそろそろとねぶりけるを、申樂、めをさまし、つくづくとながめゐければ、いつのまにか、その子を、みな、ねぶりけしたり。申樂、をどろき、弟子どもをおこしければ、廿人ばかりのもの、一どに、はつと、をきあがるとひとしく、なにものともしれず、廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる。されども、申樂一人をのこしをきけるが、又、こくうより、しわがれたるこゑにて、

「それにのこりたる男も、とれ」

といへば、かの女、申しけるは、

「この男もとるべきとおもへども、りやうかはの脇指をさしてゐるゆへ、つかまれず」

と云ふ。その時、こくうより、

「つかまれずは、たすけよ、たすけよ」

とよばはりて、かの女も、いづくともなく、きへうせけり。申樂、大きにおどろき、夜のあくるをまちゐければ、ほどなく夜もあくるとおもひければ、ひるの七つじぶんにて有りしと也。

 

[やぶちゃん注:「丹波申樂(たんばさるがく)」中世、丹波亀山(現在の京都府亀岡市)及び綾部(現在の綾部市大島)に本拠を置いた猿楽(軽業(かるわざ)・奇術や滑稽な物真似などの演芸を主とし、奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)を母胎に作り出された芸能。鎌倉時代頃からこれを職業とする者が各地の神社に隷属して祭礼などで興行し、座を結んで一般庶民にも愛好された。室町時代になると、田楽)(平安中期頃から流行した芸能で、農耕行事に伴う歌舞から起こり、後に専業の田楽法師が現れて座も発生した。本来は田楽踊りと散楽系の曲芸が主要芸であったが,鎌倉末期より猿楽能も演じ、独自の田楽能を上演した。室町後期には猿楽におされて衰退した)や曲舞(くせまい:南北朝から室町に流行した白拍子系と考えられる芸能で、少年や女性が立烏帽子(たてえぼし)・水干(すいかん)姿で男装し、男は水干の代わりに直垂(ひたたれ)で舞った。鼓を伴奏とする拍子が主体の謠と、扇を手にした簡単な所作の舞いで、専業者のほか、声聞師(しようもんじ)なども演じた。観阿弥が猿楽に取り入れで現在も曲(くせ)としてその面影が能に残る。後期は幸若舞がその主流となった)などの要素もとり入れ、観阿弥・世阿弥父子により能楽として大成された)集団。丹波に本拠地を置いた矢田猿楽、大島の梅若猿楽、それに加えて本拠地不明の日吉(ひえ)猿楽などが丹波猿楽の有力な猿楽の座であった。矢田猿楽は鎌倉時代から本座と呼ばれていた古い座で、京都法勝(ほっしょう)寺の法会や賀茂社の御土代祭(みとしろまつり)、住吉社の御田植神事などに摂津の榎並(えなみ)座や法成寺座とともに参勤、伏見の御香宮(ごこうのみや:現在の京都市伏見区御香宮御香宮門前町にある御香神社)でもかなり早い時代から永享九(一四三七)年まで楽頭職を保持し、春秋の神事に猿楽を奉仕していた(。ここではその座長を指している。

「うみ月」「産み月」。臨月。

「よろこびしけるを」目出度く出産したので。

「とやかくと、いとなみて」お産の世話や産後の看護などを滞りなく致いて。

「申樂、見てよびよせ」子の誕生を他者によって抱いて貰い、言祝(ことほ)ぎを受けようというのは、当時の通例の民俗習慣である。

「ちかごろ、申しかね候へども」このような早朝の、淋しき山中のこと乍ら。寧ろ、だからこその言祝ぎを求めてのことなのである。

「すこしねむりたるまに」「少し眠りたる間に」。出産の騒ぎで諸人(もろびと)は当然、寝ずの世話で疲れ切っていたから、みなみな、仮眠をとったのである。しかし、この睡魔は実は、変化(へんげ)の物の魔手によるものでもあったのである(最後の覚醒時の現実がそれを物語っている)。

「ねぶりけるを」舐るようにしているのを。

「その子を、みな、ねぶりけしたり」舐め尽くし消した、舐め舐めして、下ろし金(がねのような)舌で赤子をこそいで、総て完全に喰らい尽くしたのである。

「廿人ばかりの人をひつつかみ、こくうをさして、あがる」このシークエンスが美事である。赤子を舐め喰らったばかりか、座長の男を除いた二十人の者どもを皆、一瞬にして虚空に舞い上げて、餌食として掻っ攫ったのである。

「りやうかはの脇指」不詳。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『未詳』としつつ、も『「両(りょう)が刃」とすれば山人の名剣である。あるいは刀剣の名か』とある。両刃の剣は神聖な古剣の形状ではあるが、私が無知なのか、この『山人の名剣』の意がよく判らぬ(単なる山の民伝承の宝剣のいいか。こうした芸能者は海人族や放浪する「ほかいびと」を遠い出自とするから、その謂いなら、分らぬではない)識者の御教授を乞う。

「ひるの七つじぶん」午後四時頃。]

2016/10/25

譚海 卷之一 おぼこ魚の事

おぼこ魚の事

○をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也。川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す。夫より海へ入(いり)てはいなと稱す。又生長してはなよしと稱し、秋末に至りてはぼらと稱するもの也。又わかなごといふ魚漸(ようよう)生長していなだと號す。又長じて鼻しろと號す。又それより長じたるをばわらさと號す。又生大(せいだい)したるをぶりと稱す。又長大したるをば大いをと號す。これはまぐろほどの形に成(なり)たるときの事也と、相州三浦の人かたりし。

[やぶちゃん注:前段(「をぼこ」から「ぼらと稱するもの也」までは出世魚である鯔(ぼら:条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)の呼称の変わり方を示したもので、「わかなご」以下の後段は同じく出世魚である鰤(ぶり:スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata)のそれを述べたものである。

 但し、この呼称は地方によってかなり異なる。まず、ボラの場合、本「譚海」では、

      ヲボコ(オボコ) → スバシリ → イナ →ボラ

であるが、現行では(ウィキの「ボラに拠った)、

●東北 コツブラ→  ツボ  → ミョウゲチ → ボラ

●関東 オボコ → イナッコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド

●関西 ハク  →  オボコ  → スバシリ → イナ → ボラ → トド

●高知 イキナゴ→  コボラ  →  イナ  → ボラ → オオボラ

老成した、がっしりした大型個体を指す「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから、後に「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった。「イナ」は、若い衆の月代(さかやき)の青々とした剃り跡を青年魚の青灰色でざらついた背中に見立て、俠気(きょうき)に富んで身のこなしが粋なさまをいう「鯔背(いなせ)」に基づくとも、若い衆が粋をこれ見よがしに示すために、髷の形をピンと跳ね上げたのを、この青年魚の背鰭の形に譬えたとする説もある。幼年魚の「オボコ」は子供などの幼い様子や「可愛らしい」の意の「おぼこい」の語源とされ、また「未通女」と書いて「おぼこ」と読んで「処女」をも意味した。「イナ」はボラの幼魚で十八~三十センチメートルまでのもの、「名吉(みょうきち・みょうぎち・なよし)」などとも呼ぶ。以上、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」(現在の神奈川県の三浦)と、現行の関東(関西も)の呼称はよく一致する

 一方、ブリは本「譚海」では、

    ワカナゴ→イナダ→ハナシロ→ワラサ→ブリ→オホイヲ(オオイオ)

としているが、現行では、(ウィキの「ブリに拠る)、①稚魚(十センチメートル未満)・②二十センチメートル未満・③三十センチメートル未満・④四十センチメートル未満・⑤六十センチメートル未満・⑥七十センチメートル未満・⑦八十センチメートル未満・⑧八十センチメートル以上で区分すると、

●三陸 ②コズクラ・ショッコ→③フクラギ・フクラゲ→④アオブリ→⑤ハナジロ→⑥ガンド→⑦⑧ブリ

●関東 ③ワカシ→④ワカシ・イナダ→⑤イナダ→⑥ワラサ→⑦ワラサ→⑧ブリ

●北陸 ①ツバス・ツバイソ→②ツバス→③コズクラ→④ハマチ→⑤フクラギ→⑥ガンド・ガンドブリ→⑦⑧ブリ

●関西 ②ワカナ→③ワカナ・ツバス→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦メジロ→⑧ブリ

●和歌山 ②ワカナゴ→③ツバス・イナダ・イナラ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥ブリ→⑦オオイオ→⑧ブリ

●島根 ②モジャッコ→③ショウジンゴ・ツバス・ワカナ→④ハマチ・ヤズ→⑤メジ→⑥マルゴ→⑦⑧ブリ

●香川 ①モジャコ→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦⑧ブリ

●高知 ①モジャッコ→②モジャコ・ワカナゴ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥オオイオ→⑦スズイナ→⑧ブリ

●九州北部 ②ワカナゴ・ヤズ→④ハマチ→⑤メジロ→⑦⑧ブリ

以上やはり、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」と、現行の関東の呼称はよく一致する。なお、流通過程では大きさに関わらず、「養殖もの」を「ハマチ」、「天然もの」を「ブリ」と呼んで区別する場合もあると記す。

「をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也」ボラは河口や内湾の汽水域に多く棲息しており、海水魚であるが、幼魚のうちは、しばしば大群を成して淡水域に遡上する。

「川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す」河口付近の砂洲の浅瀬で勢いよく泳ぐボラの幼魚をよく見かけるので、この名は腑に落ちる。

「生大(せいだい)したる」成魚で成長した個体。

「長大したる」成魚の特に大きくなった個体。

「まぐろ」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus。]

甲子夜話卷之二 34 猫の踊の話

2―34 猫の踊の話

先年角筈村に住給へる伯母夫人に仕る醫、高木伯仙と云るが話しは、我生國は下總の佐倉にて、亡父或夜睡後に枕頭に音あり。寤て見るに、久く畜ひし猫の、首に手巾を被りて立、手をあげて招が如く、そのさま小兒の跳舞が如し。父卽枕刀を取て斬んとす。猫駭走て行所を知らず。それより家に歸らずと。然ば世に猫の踊を謂こと妄言にあらず。

■やぶちゃんの呟き

「角筈村」「つのはずむら」。現在の新宿区西新宿と歌舞伎町及び新宿の一部地域に相当。一部を除き、幕府直轄領であった。ウィキの「角筈によれば、地名の由来は、この『角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈』(矢の末端の弓の弦 (つる)を受けるY字型の部分。矢柄を直接筈形に削ったものと、竹・木・金属などで作って差したものとがある)『にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった』とする説を新宿区教育委員会は有力としている、とある。

「住給へる」「すみたまへる」

「仕る」「つかふる」。

「高木伯仙」不詳。

「云る」「いへる」

「話しは」「はなせしは」。

「我」「わが」。ここから「歸らず」までが高木の直接話法。

「下總の佐倉」「しもふさのさくら」。現在の千葉県佐倉市。

「寤て」「さめて」。眠りから覚めて。

「畜ひし」「かひし」。飼っていた。

「手巾」「てふき」。

「被りて立」「かぶりてたち」。

「招が如く」「まねくがごとく」。

「跳舞が如し」「とびまふがごとし」。

「卽」「すなはち」。

「枕刀」「ちんたう」。

「取て斬んとす」「とりてきらんとす」。

「駭走て」「おどろきはしりて」。

「行所」「ゆくところ」。

「然ば」「しからば」

「猫の踊」「ねこのをどり」。サイト「小猫の部屋」の年をとると猫股になる(ヴィジュアル的にも面白いページである)の「猫股のダンス」の条によれば、『鳥山石燕(とりやませきえん)の「画図百鬼夜行」』(安永五(一七七六)年)『の「猫また」を始め、猫股をモチーフとした絵画や浮世絵では、頭に手拭いを乗せて踊っている姿を多く見かけます。その端緒とでもいうべき逸話は、江戸中期』、宝永五(一七〇八)年刊の『「大和怪異記」の中に早くも登場していました』。『筑後国(現在の福岡県)に暮らすとある侍の家では、夜になると手鞠ほどの大きさもある火の玉が現れ、家人に怪をなしていた。ある日主人が何気なく屋根の上を見ると、一体何年生きているのかわからないようなすさまじい猫が、下女の赤い手拭いを頭にかぶり、しっぽと後ろ足で立ち上がって手をかざして四方を眺めているではないか。すかさず矢を射ると見事に命中し、怪猫は体に刺さった矢を噛み砕きながら死んでしまった。屋根から引き落としてみると、そのしっぽは二つに裂け、体長は五尺』(一・五メートル)『ほどもあった』とあるとし、このように元禄後期から宝永初めの一七〇〇年代初頭の『時点ですでに、「猫股が人間のように立ち上がる」という擬人化が進んでいたと考えられます』と述べられた後、それから百年以上後の本「甲子夜話」の本条の訳が示され、さらに同じく『角筈(現在の東京都新宿区)に暮らしていた光照という女性が体験した「飼っていた黒毛の老猫が侍女の枕元で踊りだしたので布団をかぶって寝た振りをした」といったエピソードが紹介されています』とある(後者は「甲子夜話 卷之七」の24「猫の踊」である)。』こうしたことから、一七〇〇年代初頭に『現れ出した「猫股は踊る」というイメージが』、百年以上『の時を経て徐々に固定化されていった流れを確認することができます』とある(「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年)。

「謂」「いふ」。

甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事

2―33 秋田にて雷獸を食せし士の事

出羽國秋田は、冬は雪殊に降積り、高さ數丈に及て、家を埋み山を沒す。然に雷の鳴こと甚しく、夏に異らず。却て夏は雷鳴あること希にて、其聲も强からず。冬は數々鳴て、聲雪吹(フヾキ)に交りて尤迅し。又挺發すること度々ありて、其墮る每に必獸ありて共に墮つ。形猫のごとしと。これ先年秋田の支封壱岐守の叔父中務の語しなり。又語しは、秋田侯の近習某、性强壯、一日霆激して屋頭に墮。雷獸あり。渠卽これを捕獲煮て食すと。然ば雷獸は無毒のものと見えたり。

 

■やぶちゃんの呟き

「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん。前者は「甲子夜話卷之八」の8の「鳥越袋町に雷震せし時の事」を指す)。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

「數丈」「すじやう」。一丈は三メートル。秋田の現在の年間降雪量二メートル七十一センチで世界でも指折り豪雪地で、一部では世界ランキング第八位とする。しかし、「數丈」は大袈裟過ぎ(私は不定数を示す「数」は一単位の六倍前後と考えているからである)。

「及て」「およびて」。

「埋み」「うづみ」。

「然に」「しかるに」。

「鳴こと」「なること」。

「却て」「かへつて」。

「希」「まれ」。

「數々」「しばしば」。

「鳴て」「なりて」。

「尤迅し」「もつともはやし」。

「挺發」「テイハツ」と音読みしておくが、意味不明。「挺」は「先に抜け出て進む・一群ら抜きん出る」意で、「發」は「爆発」の意で、これは落雷現象のことを指していると私は読む。だからこそ直後で「其墮る毎に」(そのおつるごとに)と続くのである。

「必」「かならず」。

「獸」雷獣。

「秋田の支封壱岐守の叔父中務」「支封」(しふう)とは支藩の意か。秋田藩(久保田藩)の支藩には岩崎藩があり、これは元禄一四(一七〇一)年に久保田藩第三代藩主佐竹義処(よしずみ)が弟の壱岐守義長に新田二万石を蔵米で分知したことに始まる藩で、「甲子夜話」執筆前となると、第五代藩主佐竹義知(よしちか)か、第六代藩主佐竹義純(よしずみ)である。その静山の「叔父」でもある「中務」(なかつかさ)とは、同佐竹家血縁の家臣の系列の人物か。少し後の主家久保田藩の第十代藩主佐竹義厚(よしひろ)の家臣団の中に「佐竹中務」の名を見出せるからである。

「語し」「かたりし」。

「近習」「きんじふ(きんじゅう)」或いは「きんじゆ(きんじゅ)」。主君の傍近くに仕える者。

「霆激」「ていげき」。稲妻が一気に激しく打つこと。

「屋頭」「やがしら」。棟木のことか。

「墮」「おつ」。

「渠」「かれ」。彼。

「卽」「すなはち」。

「捕獲」「とらへ」と訓じておく。

「然ば」「しかれば」。

譚海 卷之一 守宮幷やもりの事

 

守宮幷やもりの事

○守宮(いもり)女の臂(はだ)にぬりて他心(たしん)を試(こころみ)るものは、京都にてやもりと稱する物也。江戸にて山うりの持(もち)ありくは、箱根にある赤(あか)はらといふものにて、漢名龍蟠魚といふもの也。また魚をいもりと覺えあやまりたる人あり、そこつ成(なる)事と人の云(いへ)りし。

[やぶちゃん注:「守宮」本文の「守宮(いもり)」のルビは数少ない底本のルビである。しかし、この当て読み自体が既にして混乱しており、「宮」(屋形・屋敷)を「守」るのは「いもり」ではなく「宮守・屋守」で「やもり」なのである。これについては後にリンクさせる私の膨大な電子テクストと注を参照されたい。まず、ここでは、各個に単なる注を施す。和訓の「いもり」は

脊椎動物亜門両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属 Cynops の両生類である淡水中に棲息するイモリ類

を指す彼等は基本、中華人民共和国及び日本にしか自然分布しないウィキの「イモリ属」によれば、以下の種が挙げられてある。

チェンコンイモリ Cynops chenggongensis(絶滅したか)

アオイモリ Cynops cyanurus

シリケンイモリ Cynops ensicauda

フーディンイモリ Cynops fudingensis

ウーファイイモリ Cynops glaucus

チュウゴクイモリ Cynops orientalis

クァントンイモリ Cynops orphicus

アカハライモリ Cynops pyrrhogaster(後注参照)

ユンナンイモリ Cynops wolterstorffi(絶滅種)

「やもり」先に述べた通り、漢字表記は通常、「守宮」で、

脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属 Gekko の爬虫類のトカゲの仲間である陸上性で好んで人家周辺に棲むヤモリ類

を指す東南アジアを始めとしたアジア各地に広く分布するウィキの「ヤモリ属にその多くの種が列挙されてあるので参照されたい(本邦に棲息せず、和名を持たない種も多い)が、本邦の本土に普通に棲息し、我が家にも永年、一族が棲みついていて、他人とは思えない馴染みのそれは、

ニホンヤモリ Gekko japonicus

である。但し、本種は「ニホンヤモリ」と言う名でありながら、しかし日本固有種ではないので注意されたいウィキの「ニホンヤモリによれば、『江戸時代に来日したシーボルトが新種として報告したため、種小名の japonicus (「日本の」の意)が付けられているが、ユーラシア大陸からの外来種と考えられており、日本固有種ではない。日本に定着した時期については不明だが、平安時代以降と思われる』とある)。

「守宮女の臂にぬりて他心を試る」kの「他心」とは二心(ふたごころ)、他意の意で、ここでは狭義に、婦人で、言い交わした男(夫)以外の間男との実際の密通行為の既遂を指す。中国で古来、「守宮」なる生物を、練丹術や漢方で用いられてきた「朱」(辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。有毒)をある程度希釈したものを入れた中で飼育したものから調剤した薬物を、女性の素肌に塗ると、後にその女が不義の姦淫したかどうかが分かるとされたのである。これについては私の古い電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」に詳しいのでそちらをまずは読んで頂きたいが、その冒頭にも、

   *

『古今図書集成』禽虫典一八四に、『淮南万畢術』を引いていわく、「七月七日、守宮を採り、これを陰乾(かげぼし)し、合わすに井華水をもってし、和(わ)って女身に塗る。文章(もよう)あれば、すなわち丹をもってこれに塗る。去(き)えざる者は淫せず、去ゆる者は奸あり」。晋の張華の『博物志』四には、「蜥蜴、あるいは蝘蜓と名づく。器をもってこれを養うに朱砂をもってすれば、体ことごとく赤し。食うところ七斤に満つれば、治(おさ)め杵(つ)くこと万杵す。女人の支体に点ずれば、終年滅せず。ただ房室のことあればすなわち滅す。故に守宮と号(なづ)く。伝えていわく、東方朔、漢の武帝に語り、これを試みるに験あり、と」。

   *

と引き、熊楠も続けて、『『本草綱目』四三と本邦本草諸家の説を合わせ考うるに、大抵蜥蜴はトカゲ、蝘蜓はヤモリらしいが、古人はこれを混同して、いずれもまた守宮と名づけたらしく、件(くだん)の試験法に、いずれか一つ用いたか、両(ふたつ)ともに用いたか分からぬ』とし、取り敢えず彼は『かくトカゲ、ヤモリ、イモリを混じて同名で呼んだから、むかし女の貞不貞を試みた守宮は何であったか全く判らぬ』と匙を投げているのである。即ち、問題はこれで、この「守宮」が所謂、正しい爬虫類の「ヤモリ」類なのか、はたまた、ルビに振る「やもり」、両生類の「ヤモリ」類なのかが、古い時代より、全く以って錯雑してしまって、最早、その比定が出来なくなっているなのである。而して、それがその昏迷を究めたまま、本邦に伝来してしまい、ことさらに信じられるようになり、そこでは専ら「守宮」を「イモリ」と誤って理解されるようになってしまった傾向が強いのである。例えば、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」に所載する寂蓮法師の和歌に、

ゐもりすむ山下水の秋の色はむすぶ手につく印なりけり 寂蓮

というのがあるが、これはまさに古来、媚薬ともされた(後注の引用下線部を参照)井守(イモリ)の粉末には、それを女性の体に塗ると痣(あざ)となり、その女性が姦淫した時にのみ、その痣が消えるという効果があるとされた、当時信じられたそれに基づく一首であり、

……あの女の変節を即座に当てる媚薬の主である井守(イモリ)が棲んでいる山の下の清水……そこに映るその移ろい易い秋の空の気配……その水を私は両手で汲んでみる……その手にあった井守の痣が消えゆく如く……そこに示されたのは……人の移ろい易い心のそのはかない心変わりを語るシンボルであったのだ……

といった意味であろうが、これはもう平安末期には、秘薬を産み出すその生物は両生類の「イモリ」と一般に認識されてしまって定着していたことを如実に示す好例なのである。これは私の好む論考で多くのいろいろな注で綴ってきたのであるが、それを書き始めると、異様に長い注となってしまう。私が纏めてこの問題を最初に考証したのは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「蠑螈(いもり)」「守宮(やもり)」「避役(大(おほ)いもり)」辺りの注で、これは厖大でここには引けない。されば、先の南方熊楠のそれとそこを併せてお読み戴くことで、私の注にかえたいと思う。悪しからず。

「山うり」「山賣り」であるが、これは山の物を売る行商の意ではないので注意。山師(やまし:投機的な事業で金儲けをたくらむ人の意から、儲け話を持ちかけては他人を欺く人)のようなやり口で、人を騙して怪しい、イカサマ物を売りつける人のことである。

「赤はら」先に掲げた本邦のイモリの単一種で日本固有種であるアカハライモリ Cynops pyrrhogaster ウィキの「アカハライモリより引く。『本州、四国、九州とその周囲の島嶼に分布する日本の固有種で、当該地域に分布するイモリとしては唯一の種でもある。島嶼では佐渡島、隠岐諸島、壱岐島、五島列島、大隅諸島まで分布するが、対馬島には分布していない。大隅諸島では近年、生息の確認は無い。北海道や伊豆諸島などには本来分布していなかったが、人為的に移入されたものが増えており問題となっている』。『なお、奄美大島から沖縄本島にはイモリ属シリケンイモリ(尻剣井守)Cynops ensicauda とイボイモリ(イモリ科イボイモリ属イボイモリ(疣井守) Echinotriton andersoni が分布している(この二種は棲息数が減少しており、特に後者のイボイモリ絶滅危惧類(絶滅の危険が増大している種)に指定されている)。全長は十センチメートル前後で、二対四本の『短い足と長い尾をもつ。サンショウウオ類と異なり皮膚がザラザラしている。背中側は黒-茶褐色で、腹は赤地に黒の斑点模様になっている。赤みや斑点模様は地域差や個体差があり、ほとんど黒いものや全く斑点が無いもの、逆に背中まで赤いものもいる』。『フグと同じテトロドトキシンという毒をもち、腹の赤黒の斑点模様は毒をもつことを他の動物に知らせる警戒色になっていると考えられている。陸上で強い物理刺激を受けると横に倒れて体を反らせ、赤い腹を見せる動作を行う』。『イモリは脊椎動物としては特に再生能力が高いことでも知られている。たとえば尾を切ったとしても本種では完全に骨まで再生する。また四肢を肩の関節より先で切断しても指先まで完全に再生する。さらには目のレンズも再生することができ、この性質は教科書にも記載されている。多くの脊椎動物ではこれらの部位は再生できない。ちなみに、尾を自切し再生することが知られているトカゲでも、尾骨までは再生しない』。『なお、この再生能力の高さは、生態学的研究の立場からは障害になる場合がある。個体識別をするためのマーキングが困難となるためである。一般に小型の両生類や爬虫類では様々なパターンで足指を切ってマーキングしたり個体識別(トークリッピング)を行うが、イモリの場合には簡単に再生してしまう。尾に切れ込みを入れても、傷が浅ければすぐ再生する。さらに札などを縫いつけても、やはり皮膚が切れて外れやすく、その傷もすぐに癒えてしまう』。『水田、池、川の淀みなど流れのない淡水中に生息する。 繁殖期以外は水辺の近くの林や、クズなどの茂る草地の水気の多い枯れ草の下などに潜むことが多い。 日本産サンショウウオ類』(有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea)『は繁殖時期にのみ水辺に留まるものが多いが、本種の成体は繁殖期以外も水中で生活することが多い。ただし雨の日には水から出て移動することもある。冬は水路の落ち葉の下や水辺近くの石の下などで冬眠する』。『幼生も成体も昆虫、ミミズ等の小動物を貪欲に捕食する。他の両生類の卵や幼生の有力な捕食者ともなっており、モリアオガエルやアベサンショウウオなど、希少な両生類の生息地では厄介者とされる』。『和名の「井守」は、野井戸の中にも生息するので「井戸を守る」に由来するという説や、井は田んぼを意味し、水田に生息することから「田を守る」との意味に由来するという説がある』。『名前がヤモリと似ている。しかし、ヤモリは爬虫類であること、人家の外壁などに生息し一生を通じて水中に入ることがないこと、変態をしないことなどが、イモリとの相違点である』。『春になり気温が上昇し始めると、成体が水中に姿を現す。オスがメスの行く先にまわりこみ、紫色の婚姻色を呈した尾を身体の横まで曲げて小刻みにふるわせるなど複雑な求愛行動を行う。このときにオスが分泌するフェロモンであるソデフリン(sodefrin、額田王の短歌にちなむ)が』(「ソデフリン」は私の過去記事クビフリン・ソデフリン・シリフリンを参照されたい)、『脊椎動物初のペプチドフェロモンとして報告されている。メスが受け入れる態勢になると、メスはオスの後ろについて歩き、オスの尾に触れる合図を送ると、オスが精子嚢を落としメスが総排出腔から取り込む。その際にオスの求愛行動に地域差があり、地域が異なる個体間では交配が成立しにくいといわれる』。『メスは、寒天質に包まれた受精卵を水中の水草の葉にくるむように』一つずつ『産卵する。流水に産卵する種類がいるサンショウウオ類に対し、アカハライモリは水たまり、池、川の淀みなど流れの無い止水域で産卵・発生する』。『卵から孵った幼生はアホロートル』(Axolotl:有尾目イモリ上科トラフサンショウウオ科 Ambystomatidae の構成種の中には幼形成熟する個体があり、それらを総称して、かく呼称する。ほれ、昔、流行った「ウーパールーパ」だよ)『のような外鰓(外えら)があり、さらにバランサーという突起をもつ。幼生ははじめのうちは足も生えていないが、やがて前後の脚が生える。ただしカエル(オタマジャクシ)はまず後脚から生えるが、イモリは前脚が先に生える。外鰓があるうちは水中で小動物を食べて成長するが、口に入りそうな動くものには何にでも食いつくため、共食いすることもある』。『幼生は十分成長すると、外鰓が消えて成体と同じような形の幼体となり、上陸する。幼生の皮膚は滑らかだが、幼体の皮膚は成体と同じくざらざらしており、乾燥には幾分抵抗性がある。そのため、上陸した幼体を無理に水に戻すと、皮膚が水をはじいて気泡がまとわりつき、銀色に見えることがある。幼体は、森林内などで小さな昆虫や陸棲貝類、ミミズなどの土壌動物を捕食して』三年から五年かけて『成長し、成熟すると再び水域に戻ってくる『一般的に有尾類は温度変化に弱く、摂餌行動が鈍く、人工環境での長期飼育が困難な種が多い。また、現地で法的に保護されている場合も少なくない。しかし日本のアカハライモリやシリケンイモリは温度変化に強く、きわめて貪欲で、飼育に適し、個体数が多く特に保護されていなかったため、ペットとして日本のみならず欧米でも人気が高まった』。但し、二十一世紀初頭の『時点では先述のように保護地域も設定されるようになった。また、産地不明の飼育個体が逃げだしたり個体を遺棄することによる地域個体群への遺伝子汚染が懸念されている』。『イモリ類は胚発生の実験材料としてもよく用いられる。特に、シュペーマンが胚域の交換移植実験などを通じて、形成体を発見するのにイモリを用いた一連の実験が有名である』。『近年では、その再生力の強さに注目して、再生・分化などの研究に用いられることも多い。一度精子をオスから受け取ると半年以上も体内で保持されメス単独で産卵することや、卵が透明な寒天状物質に包まれており、容易に観察できる点など利点は多い』。『かつて日本では、イモリの黒焼きはほれ薬として有名であった。竹筒のしきりを挟んで両側に雄雌一匹ずつを分けて入れ、これを焼いたもので、しきりの向こうの相手に恋焦がれて心臓まで真っ黒に焼けると伝える。実際の成分よりは、配偶行動などからの想像が主体であると思われるが、元来中国ではヤモリの黒焼きが用いられ、イモリの黒焼きになったのは日本の独自解釈による』とある(下線やぶちゃん)。……因みに、私は自分の分かりもしないことを解ったふりをして引用など、しない人間である。――私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていた。――生物部では、このアカハライモリの四肢を切断し、それを再生させる実験を繰り返していた。――貴方はそんなフランケンシュタイン博士めいた実験に従事したことはあるかね?――私はあるのだよ。――まさに「いもり」の「血」塗られた手で、ね…………

「漢名龍蟠魚」不詳。このソース元が判らない。識者の御教授を乞う。

」これは山椒魚、有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ類(オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus も含まれるが、他の種群は概ね二十センチメートル以下と小型である)のこと。]

譚海 卷之一 關西の國にて牛を焚ころす事

關西の國にて牛を焚ころす事

○亦關西いづれの山中にや、牛を焚(やく)ところあり。其民里の人家にて、年來(としごろ)遣ひ盡して用にたゝざる老牛を買(かひ)とり、深山中に牽(ひき)ゆき牛を入べきほどに大きなる穴をほり、穴の中に大きなるはしらをあまたたて置(おき)、扨(さて)牛を穴の内へ驅入(かけい)れ、此はしらに牛の動かざる樣によくくゝりつけ、牛のはらのあたる所にて堅炭(かたずみ)ををこし、牛の腹をあぶる。火の盛成(さかんなる)にしたがつて牛の口中より津液(しんえき)を吐出(はきいだ)すを、器にてとり盡(つく)しとり盡しすれば、果(はて)は津液とともに肉ながれ盡(つき)て、牛は皮と骨斗(ばかり)に成(なり)て死ぬる也。牛の號吼(がうく)する聲山谷(さんこく)に振(ふる)ひ、悲痛聞(きく)にたへがたき事とぞ。その骨をば婦人のくし・かふがひ・髮なで等の用にひさぎ、小なるはそろばんの目盛板(めもりいた)、小(ちさ)き角(こま)の細工等に用ひ、粉に成(なる)をば婦人のおしろひにまぜ用(もちふ)る事、少しも殘る物なく用に立(たつ)事なりとぞ。忍人のしわざ酸鼻(さんび)するに堪(たへ)たり。

[やぶちゃん注:「亦」前条「同所ほひろひ幷蠟燭の事」を受けた発語の辞。ここまでこれでもかと「酸鼻するに堪」得ぬ(「堪たり」とは「~値する」で「酸鼻する」(痛ましく惨たらしいこととして、ひどく心を痛めて悲しむこと」におぞましくも相応しいの謂いであろう)、おぞましい事実(かどうかは判らぬ)を記すところは、前の条で私が津村には関西人への差別は認められないとした見解を補正すべきかも知れぬ。しかし、寧ろ、「少しも殘る物なく用に立」てる、則ち、役に立たずなった老牛を、その骨の粉まで無駄にせぬことは、やはり、私には一つの人間のプラグマティクな首肯し得る才覚に他ならない、とも感じていることも、述べておくこととはする。

「堅炭」樫(かし)・楢(なら)・栗の木などで作った質が堅く火力の強い木炭。

「津液」漢方医学で「津」(しん:陽気に基づく水分で、清んで粘り気がなく、主として体表を潤し、体温調節に関与し、汗や尿となって体外へ排泄されるものを指す)と「液」(えき:陰期に基づく水分で、粘り気があり、体内をゆっくりと流れ、骨や髄を潤すもの。体表部では目・鼻・口などの粘膜や皮膚に潤いを与えるとされる)で構成される体内の水分の総称。源は飲食物で、胃や腸に入って水様性のものが分離されて作られる。別名を「水液」「水津」「水湿」などとも呼ぶ(以上はウィキの「津液に拠った)。

「くし」「櫛」。

「かふがひ」「笄」。本来は髪を整えるための道具で、毛筋を立てたり、頭の痒いところを掻いたりするための、箸に似た細長いもの。但し、江戸時代には専ら、女性が髷(まげ)などに挿す髪飾りとなった。

「髮なで」ここは前の「くし・かふがひ」を含む整髪用の諸具の謂いで纏めたものであろう。

「ひさぎ」「鬻ぎ」。商品として売り。

「そろばん」「算盤」。

「目盛板(めもりいた)」算盤の枠に当たる縦横の板を指すか。

「小き角」「こま」は私の推定。所謂、算盤の珠(たま)の謂いでとった。

「忍人」前条にも出た。「ニンジン」と音読みしているか。残酷な性質(たち)の人の謂いであろう。]

谷の響 二の卷 十二 神の擁護

 十二 神の擁護

 

 己幼見(おさな)かりしとき、同じ記年(としばへ)なる小兒四五人と嬉戲(あそび)たるに、木の端枌(そげ)の屑など探り集めて、庭の簀墻(すがき)をかたとり一尺四方許(ばかり)に小屋を作りたりしが、一人の兒これに火を放(つけ)て火事の眞似(まね)せんにと言ふに、興ある事に覺えてその兒と倶(とも)に火を取りに往きしが、時(をり)よく厨下(だいどころ)に人のあらぬにより、焠兒(つけぎ)につけて袖にかざし方纔(やうやう)に持來り、巳に火を放けけるが、人在て擊消したるが如くにて小屋も其まゝ潰れければ、再び建て又火を放けたれどはじめの如く打消されたり。斯の如くなること四五囘(たび)になりて、遂に祖母なる人に見咎められいたく呵責られたること有しなり。然(さ)て今これを思ふに、この日は四月の頃とて風いと強き日にあれば、燃興(あが)らんには決定(きはめ)て火事になるべかりしを、かく人ありて擊消したるやうなるは、先祖の神靈(みたま)の救はせ玉ひし故なるべし。されば今吾曹(われら)がかくして居るあたりにも、人の眼にこそ見えね、いかなる神の在(ま)すかは測(し)るべからず。世の狡猾(さかしき)もの、人死して魂魄天地に歸して一物も存(のこ)れるはなければ神も靈もなしとするはいと烏滸(をこ)にて、かの阮膽が無鬼論范鎭が神滅論に泥染(なじむ)ものにて論(と)るに足らず。

 又、己が分家八五郎と言へるものゝ兒女(むすめ)、三四歳の頃にてありけん。爐の邊に嬉遊(あそん)で火中に仆れしが、直に三四尺ばかりの向ふに轉(こ)けかへりて、火の怪我もなかりしなり。八五郎夫婦は愕き怖れ、火を潔めて祭りしなり。こも現(うつゝ)に神在(まし)て助しものなり。さらでは火の心(しん)に仆れたる三四歳の幼兒の、爭(いかで)か身自(みづか)ら轉𢌞(かへる)ことを成し得んや。こは天保十年亥の事なりし。

 又、これに一般(おな)じ話なるが、東長町境屋利助の裡(うち)に於て主と説話(ものかた)れるとき、厨下の爐(いろり)に五六歳の小供二個(ふたり)爐椽(ろふち)に腰掛けながら嬉遊(あそび)居たりしに、いかゞしけん一人の小兒火の燃えたる中に眞傾(まうつむき)に俯せると見るに、忽ち蜻蛉(とんぼ)かへりして向對(むかひ)の板の間に仰けに倒れたり。着物などに火の着(つい)たれど兒には少も火傷(けが)もなし。利助目下(まのあたり)にこれを見て奇異のおもひをなし、倶に現(うつし)に神ある事を語りけり。こは天保九年の頃なるべし。

 

[やぶちゃん注:作者平尾魯僊は終生、熱心な平田神学の信奉者であったことを如実に示す一条である。しかしそれにしても、この最初の彼の実体験のシチュエーション、私は思わずタルコフスキイを思い出さずにはいられなかった「一尺四方許(ばかり)」(三十センチ四方)のミニチュアの「小屋を作り」、「これに火を放(つけ)て火事の眞似(まね)せん」とするというのは、かの遺作「サクリファイス」であり、少年魯僊が「火を取りに往き」「焠兒(つけぎ)」(点け木。火を移したりするための薄く小さな木片)「につけて袖にかざし方纔(やうやう:二字へのルビ。消えそうになるの辛うじて)に持來」るシークエンスは「ノスタルジア」のコーダの湯を抜いた温泉の端から端まで蠟燭を運ぶ奇跡成就のそれではないか!

「記年(としばへ)」「年延(としば)へ」。年恰好。年齢。

「木の端」「このは」。木端(こっぱ)。材木の切れ端。

「枌(そげ)の屑」削(そ)ぎ(材木を薄く挽(ひ)き剝いた板)の破片。

「簀墻(すがき)」普通は竹で作った垣根、竹垣を指す。

「かたとり」「象(かたど)り」。真似て。

「放けけるが」「放(つ)けけるが」。

「人在て擊消したるが如くにて」「ひとありてうちけしたつがごとくにて」。

「呵責られ」「しかられ」と訓じているようである。

「燃興(あが)らんには」「もえあがらんには」。

「烏滸(をこ)」ウィキの「烏滸」によれば(このウィキがあるとは思わなかった)、馬鹿げていて、或いは滑稽で、人の笑いを買うような有様を指す上代からあった古い和語。『記紀に「ヲコ」もしくは「ウコ」として登場し、「袁許」「于古」の字が当てられる。平安時代には「烏滸」「尾籠」「嗚呼」などの当て字が登場した』。『平安時代には散楽、特に物真似や滑稽な仕草を含んだ歌舞やそれを演じる人を指すようになった。後に散楽は「猿楽」として寺社や民間に入り、その中でも多くの烏滸芸が演じられたことが』、「新猿楽記」に描かれており、「今昔物語集」や「古今著聞集」など、『平安・鎌倉時代の説話集には烏滸話と呼ばれる滑稽譚が載せられている。また、嗚呼絵(おこえ)と呼ばれる絵画も盛んに描かれ』、かの快作「鳥獣戯画」や「放屁合戦絵巻」が『その代表的な作品である』。『南北朝・室町時代に入ると、「気楽な、屈託のない、常軌を逸した、行儀の悪い、横柄な」』(「日葡辞書」)『など、より道化的な意味を強め、これに対して単なる愚鈍な者を「バカ(馬鹿)」と称するようになった。江戸時代になると、烏滸という言葉は用いられなくなり、馬鹿という言葉が広く用いられるようになった』とある。

「阮膽が無鬼論」「阮膽」の「膽」は「瞻」の誤りで、「阮膽」(げんせん 生没年未詳)が正しい。陳留群尉氏(いし)県(現在の河南省内)の生まれで清談(この場合は、現実の則らずに、理屈を捏ね回して議論することを指す)を得意とすることで知られた。姓と出身地から判るが、名詩「詠懷詩」の作者、「白眼視」の故事で知られる三国時代の「竹林の七賢」の指導者的人物として知られる阮籍(二一〇年~二六三年)の孫で、父もやはり「竹林の七賢」の一人、阮咸(げんかん)である。この阮膽は三十で亡くなったとされている。この「無鬼論」(鬼神の存在を否定する思想。伝統的な儒家思想では死後の霊魂の存在が肯定されており、人間は死後、鬼神となるとされ、仏教もそれを認めていたから、ある種、かなりの異端思想である)のショート・ブラック・ユーモアは「幽明錄」「列異傳」その他、多くの作品に収録されている私の好きな話で、教師時代はオリジナルの実力テストの問題にしたりしたので、御記憶の方もあろう。四世紀に東晋の干宝が著した志怪小説集「搜神記」の「卷十六 三七六」のそれを以下に引く。

   *

阮瞻、素秉無鬼論、世莫能難。每自謂、理足、可以辨正幽明。忽有一鬼、通姓名作客詣阮。寒温畢、卽談名理。客甚有才情。末及鬼神之事、反覆甚苦、遂屈。乃作色曰、鬼神古今聖賢所共傳、君何獨言無耶。僕便是鬼。於是忽變爲異形、須臾消滅。瞻默然、意色大惡。後年餘、病死。

(阮瞻、素より、無鬼論を秉(と)るに、世に能く難ずる莫し。每(つね)に自(みづか)ら謂ふ、「理、足りて、以つて幽明を辨正すべし。」と。忽ち一鬼(いつき)有り、姓名を通じて客(きやく)作(な)り阮に詣(いた)る。寒溫(かんをん)畢(お)はりて、卽ち、名理を談ず。客、甚だ才情有り。末(すゑ)に鬼神の事に及び、反覆すること甚だ苦しく、遂に屈す。乃(すなは)ち色を作(な)して曰はく、「鬼神は古今(こきん)の聖賢の共に傳ふる所、君、何ぞ獨り無と言はんや。僕は、便ち、是れ、鬼なり。」と。是(ここ)に於いて忽ち變じて異形(いけい)と爲(な)り、須臾(しゆゆ)にして消滅す。瞻、默然として、意色(いしよく)、大いに惡(あ)し。後(のち)、年餘(ねにょ)にして、病みて死す。)

   *

文中、「忽有一鬼」の部分は他の本の「忽有一客」の方がよい。「寒溫」は時候の挨拶。「名理」清談で扱われた事物の「名」称とその道「理」を分析する論理を指す。「反覆」議論の応酬をしたことを指す。「遂に屈す」言わずもがなであるが、鬼神などいないとする阮瞻の勝ちで、鬼神在りとする議論に負けたのは何と、客(実は鬼)の方なのである。「意色」顔色・表情。

「范鎭が神滅論」「范鎭」の「鎭」の「縝」の誤り。「范縝」(はんしん 四五〇年~五一〇年)が正しい。南朝時代の思想家で南郷舞陰(現在の河南省内)の人。「神滅論」を著わし、肉体と霊魂は同一の物であり、肉体の消滅とともに霊魂も消滅すると説き、仏教の因果説や儒教の霊魂永存説を全否定した。唯物主義的な無神論者で、梁の武帝は仏僧らを動員し、この「神滅論」を反駁させている。

「己が」「わが」。

「三四歳」数えであるから、満二、三歳と読み換えねばならぬ。

「爐」後でルビに「いろり」と振られてある。

「仆れしが」「たふれしが」。倒れたが。

「直に」「ぢきに」。直ちに。

「三四尺」九十一~一メートル二十一センチ。

「神在(まし)て」「まし」は「在」一字へのルビ。

「助し」「たすけし」。

「火の心(しん)」真っ赤に燃え盛っていた囲炉裏の芯。

「身自(みづか)ら」二字へのルビ。

「轉𢌞(かへる)」二字へのルビ。

「天保十年亥」天保十年は正しく己亥(つちのとい)。西暦一八三九年。

「東長町」現在も弘前市東長町(ひがしながまち)として残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「主」「あるじ」。ここ以下は西尾の実見談である点に注意。

「説話(ものかた)れる」読みはママ。

「爐椽(ろふち)」「爐緣」。大きな囲炉裏の木枠。

「俯せる」「ふせる」。うつむくように落ち込んだ。

「着(つい)たれど」読みはママ。

「火傷(けが)」二字へのルビ。

「天保九年」一八三八年。]

諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事

 

     五 牡丹堂(ぼたんどう)女のしうしんの事

 

 もろこしに牡丹堂と云ふ所あり。人、しすれば、はこにいれ、そのはこのまわりに牡丹の花をかき、かの堂にもち行きて、かさねをくと也。ある人、つまにおくれ、かなしびのあまりに、よなよな、かの牡丹堂へゆき、夜ねぶつを申す事、日、すでにひさし。ある夜、わかき女、くびにかねをかけ、ねぶつを申し、牡丹堂へきたりければ、かの男ふしぎにおもひ、

「女の身として、なにとて此ところにきたり給ふぞ」

とゝふ。かの女、云ふやう、

「わが身、つまにはなれ候ふゆへ、かくのごとく」

とかたる。さぞあらんとて、なみだをながし、それより、つれだち、あなたこなたの墓所をねんぶつ申しあるく事、每夜なりしが、いつのほどか、たがいにあさからぬちぎりをなし、のちには男のやどへもきたり、夜とゝもにさかもりなどしてあそびけるを、となりの人、ふと、のぞきみければ、女のしやれかうべとさしむかい、さかもりしてゐたり。となりの人、ふしんにおもひ、夜あけて、かの男にかくとかたりけれ。男もをどろき、その日のくるゝをまちければ、かの女、またきたるをみれば、まことにしやれかうベ也。それより物すごくなり、三年。ひきこもり、物いみしてゐけるが、三年すぎて、きばらしにとて、小鳥をおとしにいでけるが、すゞめを一ひきおふてゆくほどに、このすゞめ、牡丹堂のうちへ、にげいりぬ。かの男、この堂のうちまでおひゆくとみへしが、ほどなく、みへず。下人ども、ふしぎにおもひ、はこどものかさねてあるを見れば、血のつきたるはこあり。このはこのうちをみければ、女のしやれかうべ、かのをとこのくびをくわへてゐたりけると也。かの女のしうしん、三ねんすぎたれども、つゐに、男をとりけると也。

[やぶちゃん注:本話は、かの知られた明代に瞿佑(くゆう)によって著された怪異小説集「剪灯新話(せんとうしんわ)」の「卷二」に所収する「牡丹燈記」に基づく翻案怪談で、本「諸國百物語」の中で唯一の中国を舞台とした話である。

 原話は典型的な中国の民俗伝承として今も一部では強く信じられている冥婚譚で、元末(プロローグは至正二〇(一三六〇)年正月十五日元宵節(げんしょうせつ:現行でも「灯節」と呼ぶ。これは本行事の道教に由来する部分で燈籠を飾って吉祥を呼び込んで邪気を払う意味がある)の夜)の明州鎭明嶺下(現在の浙江省寧波市内)の「湖心寺」(本話の牡丹堂の原型)近くを舞台とし、主人公は書生「喬某」、「符麗卿(ふれいけい)」と「金蓮」(実は遺体に添えられた紙人形の女中)が亡霊と侍女の名である。前半は概ね、本話のような展開であるが、後半部があり、そこでは冥婚した二人と金蓮の霊の出現による騒ぎが発生、それを四明山の「鐡冠道人」が調伏し彼らを九幽の獄(所謂、仏教の地獄と同じい)へと送るという展開となっている。

 恐らく同原話の最初の本格的翻訳は「奇異雜談集」(貞享四(一六八七)年)であるが、それ以前に、舞台を本邦に移しながら、かなり忠実な翻案がなされてある浅井了意の「伽婢子(おとぎぼうこ)」の「卷三」の「牡丹燈籠」(寛文六(一六六六)年刊で本書(延宝五(一六七七)年刊)の十年前)があり、「西鶴諸國ばなし」(貞享二(一六八五)年)の「卷三」に載る「紫女」などを始めとして、多くの近世怪談に作り変えられ(その最も自由な換骨奪胎の名品は、私は、私も愛する上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「吉備津(きびつ)の釜」であると信ずる)、近代では三遊亭圓朝の落語の怪談噺「牡丹灯籠」にとどめを刺す。言わば「牡丹燈記」はそうした怪談の「流し燈籠」のようなうねりを持って連綿と続いている流れの、その濫觴であり、私も高校時代の漢文の授業で出逢って以来(厳密には担当の蟹谷徹先生のオリジナル翻案のお話として聴き、サイコーに面白かった記憶が最初である)、今に至るまで激しく偏愛してきている作品である。さしれば、以下の注では変則的に批判染みた文々(もんもん)のあることを最初にお断りしておく。悪しからず。

「牡丹堂(ぼたんどう)」読みはママ。「どう」は「だう」が正しい。これは「牡丹燈記」の「燈」(とう)の発音を単に誤ったもののようにも感じられる。太刀川清「牡丹灯記の系譜」(平成一〇(一九九八)年勉誠社刊)でも聞き誤りとされておられる。

「人、しすれば、はこにいれ」「人、死すれば、箱に入れ」。

「牡丹の花をかき」「牡丹の花(の意匠)を畫き」。

「かさねをくと也」「重ね置(お)くなり」。歴史的仮名遣は誤り。筆者はこの誤認した「牡丹堂」を、棺を仕舞い置く納骨所のような御霊屋(みたまや)と認識しているようである。

「つまにおくれ」「妻に遲れ」。妻に(先立たれて、自分はそれに、死に)遅れて。

「夜ねぶつ」「夜念佛」。これは後の様子から見ても、単に堂に籠って念仏をするのではなく(それならば「源氏物語」の「夕顔」の死の夜の無言念仏のように、普通に古く平安時代からある)、夜間に墓所などを巡りながら念仏を唱える、奇怪な勤行(こんなことを夜間にするのは本邦では呪いのようなもの以外ではあり得ない)のように思われる。

「かね」「鉦」。銅などで作った平たい円盆形の打楽器。ここでのそれは直径十二センチほどの小型の首から掛けるもので、小さな木槌か桴(ばち)状の撞木(しゅもく)で打つ伏せ鉦(がね)。

「つま」「夫(つま)」。

「はなれ」「離れ」。死別し。

「さぞあらん」さぞや、つらいことであろう、と。鰥夫(やもめ)となった我が身の悲しみと重層させての慰みの言葉である。

「あさからぬちぎりをなし」「淺からぬ契りを成し」。もう早速に関係を持ってしまうのである。

「夜とゝもにさかもりなどしてあそびけるを」「夜とともに(夜ともなれば)酒盛りなど(さえ)して(二人しっぽりと楽しく)遊びけるを」。最早、ともに亡き人の供養の思いは失せているのである。

「女のしやれかうべとさしむかい」「女の髑髏と差し向かひ」。「むかい」は歴史的仮名遣の誤り。なお、一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」のここへの脚注には、『男の死んだ妻が、別な女となって現れ、男と歓をつくすことを暗示』とするが、私は従えないこの女は、あくまで別な女――この牡丹堂に葬られた、恐らくは生前、男性と交わりのなかった処女の女の霊――と私は読むし、読みたい人種である

「ふしん」「不審」。

「かの女、またきたるをみれば、まことにしやれかうベ也」ここは叙述が粗く、何をどうしたら、彼女が髑髏(しゃれこうべ)と視認出来たのかをスポイルしてしまったために、話柄としてのリアルな落ち着き(これこそ怪談の要衝である)がなくなってしまっている。厠に行くふりをして、隣人と一緒に隣人の屋敷の塀の隙間なり、或いは戸外から外障子を垣間見するなりの、現実と異界との境界にあるスリット空間による衝撃の実相映像の提示シーンを添えなければ、怪談としては全く以って失格である。

「物すごくなり」「もの凄くなり」。激しい恐怖が襲ってきて。

「物いみ」「物忌み」。

「きばらし」「氣晴らし」。

「小鳥をおとしにいでける」鳥刺し(鳥黐(とりもち)を塗った竿を用いて小鳥を捕らえること。一般庶民の場合は遊興と専ら食に供するためである)に出た。殺生を成す男を描出するところは、筆者が男に応報性を持たせるように設定している臭さを私は感じる。こんなところに小手先の智恵を使うのだったら、もっと他の箇所の描き込みにこそ徹するべきであったと私は思う。

「下人ども」複数形であり、この主人公の男はそれを持てるだけの相応の人物であったことが知れる。

「はこどものかさねてあるを見れば」「箱(棺桶)どもの、重ねてあるを見れば」。

「血のつきたるはこあり。このはこのうちをみければ、女のしやれかうべ、かのをとこのくびをくわへてゐたりけると也。かの女のしうしん、三ねんすぎたれども、つゐに、男をとりけると也。」「血の附きたる箱あり。この箱の内を見ければ、女の髑髏(しやれかうべ)、彼(か)の男の首を銜(くは)へて居たりけるとなり。彼(か)の女の執心、三年過ぎたれども、遂(つひ)に、男を獲(と)りけるとなり。」。幾つかの歴史的仮名遣は誤り。このコーダのシークエンスは実にオリジナリティがあり、素晴らしく映像的である。それだけに中間部をもっと落ち着いて描いて欲しかった。そこが返す返すも残念である。] 

2016/10/24

譚海 卷之一 同所ほひろひ幷蠟燭の事

同所ほひろひ幷蠟燭の事

○大坂は商賣利勘(りかん)の事には、錐毛(すいもう)まで心を用(もちひ)る所なり。蠟燭なども江戸にてつかふ所三分二は大坂より下(ぐだ)す蠟燭にて事足(ことた)り、三分一江戸にてこしらゆるをつかふ事也。價(あたひ)の廉(れん)なるをもちて也。江戸にてこしらゆるろうそくは、漆(うるし)の實(み)を製したるに油等をまぜ遣ふゆへ、價限(かぎり)ありて廉ならず。大坂の下(くだ)りらうそくは、全體生蠟(なまらふ)にてこしらへたる物にあらず、皆魚油獸肉などをさらしかためたる物にてこしらゆる也。甚しきものは人肉をも用る事とぞ。大坂牛馬(ぎうば)の外狗肉(くにく)も多し。それゆへ大坂に犬とりといふもの有(あり)て、非人にもあらず穢多にもあらず、毎日わらにてこしらへたるかますを肩にかけ町をありく。路頭に死たる犬あれば皆取歸りて蠟にす。忍人なるものは死(しに)かかりたる犬などをみれば、打殺(うちころ)してもち歸る故、諸(もろもろ)の犬是(これ)をしりて、かますをかたげたる人をみれば、打殺さるゝ事をしりて、其人を犬ことごとく吠(ほゆ)る也。扨(さて)又竊(ひそか)に刑罪に行(おこな)れたる人の死骸をもとめ、土中に埋(うづ)めをけば、毎朝埋めたる土の上へあぶらの樣なるもの吹出(ふきいだ)しあり。それを竹のへらにて、こそげ取(とり)こそげ取、數日の後あぶら吹出(ふきいで)ざれば、其(その)埋(うづ)みたる死骸を掘出(ほりいだ)し見るに、肉は皆土氣(どき)に吸盡(すひつく)して白骨計(ばか)り殘り有(あり)とぞ。牛馬狗肉などひとつに集め、鍋にてせんじ油のごとく成(なり)たるを、風をあておけば氷(こほり)てかたまる、それを大き成(なる)をしき樣のものの内へくだき入(いれ)て、庭中などへ置(おき)、寒中日にさらし、一日に幾度となく箒(ほうき)に淸水をひたし肉にそゞく、三十日ばかりあればせうふ或はくずの粉のごとく白くされる也。扨(さて)その肉をあつめ釜にてせんじ、匂ひぬきといふ藥をもちて諸肉の腥臊(せいさう)をぬきとり、釜のまゝひやしをけば蠟のごとくかたまる。それをもちてこしらへ出(いだ)す事なれば、價も廉なる事なり。利を競ひ地利(ちのり)をつくし、工(たくみ)を用る事、大坂の人にはなずらふるものなしとぞ。

[やぶちゃん注:「同所」前の「大坂豪富の者、通用金の事」を受けた謂いで、大坂を指す。なお、筆者の津村淙庵は京都生まれで、後に江戸の伝馬町に移り住んで久保田藩(秋田藩)佐竹侯の御用達(ごようたし)を勤めた者で、関西人への差別意識は今までの叙述では私は感じない。この話も今の感覚から言えば、トンデモないことを書いている部分もあるが、私は概ね正しい事実記載と思うし、それが津村の大坂人蔑視を根底とするものとも思わぬ。

「ほひろひ」不詳。隠語や差別用語として近似するものを調べて見たが、出てこない。当初は「ほ」は「死骸」の意味かとも思ったが、そうした意味は見出せなかった。次に頭に浮かんだのは「脯」で「脯肉(ほじし)」であったが、これは「干し肉」の謂いで、この場合に全くそぐわないのでダメ。最後に思いついたのは、要は「歩いて犬の死骸を拾う」のだから『「步拾ひ」ではないか?』で私の中では強引に決着させてしまった。識者の御教授を乞うものである。

「利勘」何事にもまして何より利害得失をまず計算して取り掛かること。損得に敏感で抜け目がないこと。もっとフラットな意味なら、経済的なことを言う。

「錐毛」対象がごくごく小さく僅かなことを言っている。

「廉」安価であること。

「漆(うるし)の實(み)を製したる」これは所謂、「木蠟(もくろう)」「生臘(きろう)」と呼ばれるもので、ムクロジ目ウルシ科Anacardiaceae の櫨(はぜ:ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum)や漆(ウルシ属ウルシ Toxicodendron vernicifluum)の果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蠟を指す。ウィキの「木蝋」によれば、『化学的には狭義の蝋であるワックスエステルではなく、中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分とする』。『搾ってからそのまま冷却して固めたものを「生蝋」(きろう)と呼び、さらに蝋燭の仕上げ用などにはこれを天日にさらすなどして漂白したものを用いる。かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶(つや)出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。このため商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた』。『長崎県では島原藩が藩財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培奨励をしたので、島原半島で盛んにハゼノキの栽培と木蝋製造が行われた。特に昭和になってから選抜された品種、「昭和福櫨」は、果肉に含まれる蝋の含有量が多く、島原半島内で広く栽培された。木蝋製造は島原市の本多木蝋工業所が伝統的な玉絞りによる製造を続け、伝統を守っている』。『愛媛県では南予一体、例えば内子(内子町)や川之石(八幡浜市、旧・西宇和郡保内町)は、ハゼノキの栽培が盛んであった。中でも内子は、木蝋の生産が盛んで、江戸時代、大洲藩』六『万石の経済を支えた柱の一つであった。明治期には一時、海外にも盛んに輸出された』とある。ダブる記載が多いが、ウィキの「蝋」の「木蝋(生蝋)」の部分も引いておく。まず「ハゼ蝋」の項。『ハゼノキの果実から作られる蝋。主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる』。『日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。日本以外では"Japan wax"と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』。二十一『世紀初頭の現在において海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである』。『木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪で』、『主成分はパルミチン酸 CH3(CH2)14COOH のトリグリセリド』。以下、「ウルシ蝋」の項。『ハゼノキと近縁なウルシの果実からもハゼ蝋と性質のよく似た木蝋が得られる』。『江戸時代、東北など東日本が主産地だったが、ハゼ蝋に押され、現在の日本ではほとんど生産されていない』。『主成分はハゼ蝋と同じパルミチン酸グリセリド』である、とある。アカデミストでウィキ嫌いの連中のために、「日本特用林産振興会木蝋」公式サイト内の「未来を拓く産業としての<木蝋>」をリンクさせておく。製造工程が画像で示されておる。また、そこには「木蝋日本地図の実産地と木蝋スポット」「櫨の実の生産量」「木蝋の生産量/輸入量/輸出量/消費量」「木蝋の輸出量と輸出先」(総てPDF)といった学術教信奉者にはこたえられないヴィジュアルな正式資料もある。どうぞ! しかし、ちょっと不思議なのは、このハゼ蠟もウルシ蠟もその原料は西日本が圧倒しているんだけど? ちょっとこの話と合わなくない?

「價限(かぎり)ありて」原材料及びその加工過程等から値段を下げるには限度があって。「魚油獸肉」「魚油(ぎよゆ)・獸肉」。

「かます」漢字では「叺」と書く。藁莚(わらむしろ)を二つ折りにして作った袋。穀物・塩・石灰・肥料などを入れる。

「忍人」「ニンジン」と音読みしているか。その「犬とり」の中でも残酷な性質(たち)の人の謂いであろう。

「かたげたる」「担げたる・肩げたる」で、肩に(かますを)「載せて(担いで・担(にな)って)いる」の意。

「へら」「箆(へら)」。

「氷(こほり)てかたまる」これはゼラチンを含んだそれが煮凝ったものと当初は読んだが、直後の次なる製法中に「寒中」とあるので、実際に見た目、凍る部分もあるようである。

「をしき」「折敷」。へぎ(杉材や檜材を薄く剝いだ板)を折り曲げて縁(ふち)とした角盆或いは隅切りの盆。足を付けたものもある。近世以降は食膳としても用いた。

「くだき」「碎き」。

「せうふ」歴史的仮名遣の誤りであろうと思われ、これは「しやうふ」で、「正麩(しょう ふ)」のこととであると推定する。小麦粉に食塩水を加えて捏ね、それを水洗いして小麦の蛋白質(グルテン)と分離させた小麦の澱粉(でんぷん)。糊などに利用する。

「くず」「葛」。マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ Pueraria lobata

「せんじ」「煎じ」。

「匂ひぬき」「匂ひ拔き」。どのような薬かは不詳。

「腥臊」「腥」は「生臭い臭い」、「臊」は「生臭い」と「脂」の謂いがあるので、むっとした生臭く脂臭い耐えられないような臭いのことと考えてよい。

「地利をつくし、工を用る事」この場合、前述の内容からいうと、犬殺しの対象となるような野犬が多いとか、死人の骸とかを入手し易いとかは、人が集まる都会ならではの「地の利」ではあろう。また、それらの獣の肉を巧みに処理して蠟を精製するのは、確かに巧みなる匠(たくみ)の技とは言えないだろうか? 私は「言える」と思う。

「なずらふるものなし」匹敵し得る者はいない。]

甲子夜話卷之二 32 紀州、奥州の地より象骨出し事

2-32 紀州、奥州の地より象骨出し事

先年多紀安長の話しは、佛氏彌勒の世と云ふことを説く。これ妄言とも謂れず。紀州熊野の山中にて大骨見出せり。全く獸骨なり。一は羽州最上川の水濱より、同き大骨出づ。共に象骨なるべしと評す。奈んとなれば、德廟の時、異邦より御取寄の象、死して後其骨を某の處某寺に納て在り【處、寺、共忘】。此骨全く紀羽の地より出し物と同じ。然ば吾國にも、上古此獸有りて、今は無くなりしものか。

■やぶちゃんの呟き

「多紀安長」「たきやすなが」。奥医師であった多紀元簡(もとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)。ウィキの「多紀元簡」によれば、『名は元簡、字は廉夫、幼名は金松、長じて安清、安長と改め』たとある。医師『多紀元徳(藍渓)の長子として生まれる。儒学を井上金峨に、医学を父について修め』、安永六(一七七七)年に第十代将軍『徳川家治にお目通りが許される』。寛政二(一七九〇)年、『老中の松平定信にその才を信任され奥医師に抜擢、法眼に叙せられ』、第十一代『徳川家斉の侍医となる』。寛政三(一七九一)年に『父の主宰する躋寿館が官立の医学館となると』、『その助教として医官の子弟の教育にあたった』。寛政六(一七九四)年に『御匙見習とな』寛政一一(一七九九)年に父が致仕し、家督を相続、同年八月には『同族の吉田沢庵とともに御匙役となった』が、享和元(一八〇一)年、『医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された』。文化三(一八〇六)年に『医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した』。文化七(一八一〇)年には『再び奥医師として召し出されたが、その年の』十二月に急死した。『考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの伊沢蘭軒・多紀元堅・小島宝素・渋江抽斎・森立之らにみる考証医学を確立した』とある。静山より五歳年上。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年であるから、かなり以前の本人からの聞き書きである。

「話しは」「はなししは」。

「佛氏」仏教。

「彌勒の世と云ふことを説く」「弥勒下生経」などでは、弥勒菩薩は現在、兜率天(とそつてん:欲界六天(天上界の内、未だ欲望に捉われる六つの天界。四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・化楽天・他化自在天)の第四天)にあって説法しており、釈迦入滅後から五十六億七千万年後に我々のいる地上に下生(げしょう)し、釈迦の説法に漏れた無数の衆生を救済するとする。ここはその途方もない未来の時間を過去に敷衍した時間認識を指す。

「紀州熊野の山中にて大骨見出せり。全く獸骨なり」不詳。紀州からは現在、中生代ジュラ紀の放散虫化石などの産出が認められるから(和歌山県立日高高校教諭寺井一夫氏の化石層序(PDF)を参照されたい)、古代恐竜の骨などが見つかってもおかしくはないし、日本にはナウマンゾウ(哺乳綱獣亜綱真獣下綱アフリカ獣上目長鼻目ゾウ科パレオロクソドン属ナウマンゾウPalaeoloxodon naumanni)が棲息していた。ウィキの「ナウマンゾウ」によれば、『はっきりとした年代は不明だが遅くとも』六十五万年~二万年前頃には『すでに出現していたのではないかと思われ』約二万年前頃から衰退し、約一万五千年前の『新生代更新世後期まで』棲息していたとあるから、その化石とも考え得るが、学術上の出土と確認は近代以降で、江戸時代の「紀州熊野の山中」や「最上川の水濱より、同き大骨出づ。共に象骨なるべし」というような事例の実記録は確認出来なかった。但し、同ウィキに『ナウマンゾウなどのように大型の動物の歯や骨の化石は「龍骨」(または「竜骨」)と呼ばれ、古くから収斂薬、鎮静薬などとして用いられてきた。正倉院には「五色龍歯」(ごしきりゅうし)と呼ばれるナウマンゾウの臼歯の化石が宝物として保存されている』とあり、日本各地から大型爬虫類(恐竜)や哺乳類の化石は古くから出土していたことは間違いない。これらの紀伊半島や最上川からの江戸期の化石出土について詳しい知見をお持ちの方の御教授を乞うものである。

「奈んとなれば」「いかんとなれば」。どうしてそう断言出来るかというならば。

「德廟」徳川吉宗。

「異邦より御取寄の象、死して後其骨を某の處某寺に納て在り」この詳細は私の電子テクスト注耳嚢 巻之十 文化十酉年六月廿八日阿蘭陀一番舟渡來象正寫の事で詳細に注してある。是非、読んで頂きたい。

「共忘」「ともにわすれたり」。

「然ば」「しからば」。

「吾國にも、上古此獸有りて、今は無くなりしものか」そうなんですよ、静山先生!

甲子夜話卷之二 31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事

2―31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事

淇園先生の門人【名忘】、或日一人言ふ。大佛殿の巨鐘も一人にて動すべしと。一人は巨鐘決して動くべからずと云ふ。因て翌日兩人彼處に往く。其一人、朝より掌を以て彼鐘を推す。如ㇾ此くすること良久して晝に及び、遂に未刻にも至れる比、鐘少しづゝ動くと覺えしが、稍々動きて纔人目にかゝる程に動きしが、後は次第に動出て、人力を仮らずして自ら動たり。因て前日動ずと云し人も、閉口して服したりと云ふ。物の積功知るべし。

■やぶちゃんの呟き

「京大佛の巨鐘」この「京」は広義の旧の「京師(けいし)」「みやこ」の意で奈良を指し、「大佛」は東大寺のこと。東大寺の鐘楼は大仏殿から二月堂の方向へ坂道を登った先にある。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼(かいげん)と同年の天平勝宝四(七五二)年の製で、中世以前の梵鐘として現存するものとしては最大のものである。総高三・八六メートル、口径二・七一メートル、重量は実に二十六・三トンもある。古来、東大寺では文字通り、「大鐘(おおがね)」と呼称し、俗では擬人化して「奈良次郎」とも呼んでいる。

「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)ウィキの「皆川淇園」によれば、『淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある』。『生まれは京都』。東福門院御殿医皆川春洞の『長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれ』、四、五歳頃には『杜甫の詩を覚えていたと』される。『伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学』び、『易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた』。宝暦九(一七五九)年より『京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始め』、『また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こ』してもいる。『絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受け』たという。晩年の文化二(一八〇五)年には『様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた』が、『志半ばにして、翌年』、七十四で没した。門人は三千人に『及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる』。『京極の阿弥陀寺に葬られ、墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る』(下線やぶちゃん)。静山より二十五歳年長である。

「名忘」「名は忘れたり」。

「動すべし」「うごかすべし」。動かすことが出来る。

「彼處」「かのところ」。

「朝より」「あしたより」。早朝より。

「掌」「てのひら」。

「彼鐘」「かのかね」。

「如ㇾ此く」「かくのごとく」。

「良久して」「ややひさしうして」。

「未刻」「ひつじのこく」。午後二時頃。

「比」「ころ」。

「稍々」「やや」。

「纔」「わづか」。

「人目にかゝる程に動きしが」通常の人が普通に見て、何だか動いていないか? と僅かに視認出来るほどだけ動いたように見ていたが。

「動出て」「うごきいでて」。

「人力を仮らずして」「人力」は「じんりよく」。他の人の助力(じょりょく)を借りることなく、ただ一人の、それも掌だけに加えた力だけで。

「自ら」「おのづから」。自発の意。

「積功」一派には「積功累德(しやくくるいとく(しゃっくるいとく))」で使う仏語で、修行に励み、功徳を積み重ねること。ここは一般的な意味で小さな物の積み重ねが大きな成果を産み出すの謂い。

谷の響 二の卷 十一 夢魂本妻を殺す

 十一 夢魂本妻を殺す

 

 天保年間、三ツ橋某と言へる人靑森勤番の時(をり)、一人の婦人(をんな)と語らひしかど、家婦(つま)ある身にしあれば夫婦にも成りがたく、左右(とかく)するうち任(ばん)も畢りて弘前に上りぬれば、互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける。さるに明る年復勤番にあたりて靑森に往き、いよいよ深く契けるに女も妻のある事を恨み喞(かこ)てるばかりなり。

 一日(あるひ)この女宿(やど)なる嬶に語りけるは、過刻(さき)に轉寢(うたゝね)の夢のうちに三ツ橋氏の家に至りて見れば、主の妻なる人はいと淸艷(きよげ)にて衣服を縫ひてありしかば、あまりに嫉(ねた)たく思はれてかれが咽喉(のんど)へ噉(く)ひつけば、母と小兒(ことも)の起噪(たちさわぐ)にその場を去ると見て覺めたるが、今に口の中惡く胸悶悸(どきつく)は何なる事にやと問(たづ)ぬれば、宿の嬶は冷愁(こさびし)き事を言ふ人とて不應(とりあへ)ず、他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ。然(さ)るにその夜晨(あけ)近くなりて勤番所へ駛步(ひきやく)來りて、三ツ橋氏の妻頓死(とんし)したる事を訃音(しら)するに、三橋氏極太(いたく)愕き官曹(やくしよ)に願て宿に歸り、容子を問(たづ)ぬれば母の言へるは、昨日午下(ひるすぎ)のことなるが何處(いづく)より來りけるにや人魂の如きもの飛來りて、息婦(あね)が縫裁(しごと)して居る邊房(へや)へ入るよと見るに、忽ち呀呵(あゝ)と叫ぶ聲に愕き駈入りて觀れば、無慙(むざん)や息婦(よめ)は咽喉(のど)傷(やぶ)れて絶入りたるに、急(にはか)に騷いで藥用をすれども、命門(きゆうしよ)の重傷(いたで)に效(しるし)なく卽便(そのまゝ)空しくなりしなり。怎(そも)何等の冤魂(うらみ)なるか怪しくも怖ろしきものなりと泪と共に語りければ、三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば、獨すまして跡(あと)懇(ねんごろ)に弔ひけり。是よりして此女を疎厭(うと)み、又勤番も畢(をはり)たれば再び會はずして已(やみ)しとなり。この話は三橋氏の母時(をり)にふれて語り、又かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり。こは同姓なる三ツ橋某なる人の話なり。

 又、これに類する一話あり。そは寛政の年間(ころ)同國修行する二箇(ふたり)の尼ありて、倶に享年(とし)三十にも足らぬ程なるが、板柳村に來りしに一個(ひとり)の尼暑に傷(あて)られたりとて、正休寺と言へる一向宗の寺に寓居(とまり)て藥用してありけるが、院主なる人彼等が髮を薙(おろ)せる本緣(ゆかり)を問(たづ)ぬるに、一人の尼の曰、さればその縡(こと)に侍(さぶら)ふ。是にはいと奇しき因緣ありき。さるは辱しき事なるが又々懺悔して罪を亡(なく)すべし。吾はもと河内の國の者なるが、郎(をつと)と幼兒一個(ひとり)ありて倶に活業(なりはひ)を勤(いそし)みしが、奈何なる因果に有けるにや、親子三人の渡世(よわたり)難(むつかし)くなりて、いといと塞窘(なんぎ)に暮しけるが、ある日夫(をつと)の言へりけるは斯てあらんには何(いつ)の世に出べきも測られねば、吾はしばらく皇都(みやこ)に出で償身(ほうこう)し、些少(すこし)なりとも本錢(もとで)を持て下るべし。汝はそのうち辛抱して小兒を養育(はぐく)めよ。時々(をりをり)は音信(たより)を爲(な)して生業(すぎはひ)を援(たす)くべしといふて出にしが、二年暮れ三年過しても音信(たより)といふ事更にあらざれば、然(さて)は窘迫(まづしき)を厭ひて吾と小兒を棄てたるなるべし。さりとは恨めしき心かなと歎き喞(かこ)てど詮(せん)術(すべ)なければ、たゞ小兒の成長を憑(たのみ)にして遂に七年を暮したりき。左有(さる)に、ある日いたく勞倦(くたびれ)て轉寢(うたゝね)なせる夢の中に、土地(ところ)は何處か分らねどいと好き家の裡(うち)なるが、亭主(あるじ)と見ゆるは吾が郎(をつと)にて、髮結をして髮を結はせて有ける處に、二歳ばかりの嬰子(をさなご)の郎が膝へ這(はひ)上るを女房を呼んで抱きおろさせ、さも睦(むつま)しげに暮せる樣子なるに、いかにも斯くてありつれば吾等親子を忘るゝも理(ことわり)とは言ひながら、さりとは憎き爲業(しわざ)よとはからず怨炎(ほむら)燃起(もえたち)て、髮を結せる夫の咽喉に噉ひつけば、合家(かない)の者の噪ぐと觀て卽便(そのまゝ)夢は覺たるが、傍なる吾子の急(にはか)に泣出して、噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付ると呍(わめ)きたるに愕きて、手して口の邊(あたり)探しみれば、滑々(ぬらぬら)として兩頰ともに鮮血(なまち)に塗れてありければ、吾ながら寠(あさま)しくも怖ろしく惘忙(あきれ)てものも言ひ得ざるが、さりとは只得(ぜひなき)因果よと、忽ち發起(ほつき)の情(こゝろ)出來て菩提寺へ駈け往き、和尚にかくと懺悔してこれの菩提を弔はん爲め、遂に髮を薙(おろし)てかくの如くに修行に出にき。

 さるに殊に奇(あや)しきはこれなる同伴の尼にて侍ふ。そは、去(い)ぬる年其(それ)の國にてこの尼と同じ旅舍(やどや)に宿歇(とまり)けるが、認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ、國地(くにところ)及び尼になれるが由緣(ゆえん)を問(たづ)ぬるに、吾は近江の國の者にて早く兩(ふた)親に喪(わか)れ、親屬の人の扱(せは)にて河内の國より來れるといふ人を贅婿(むこ)にもらひ、親の併習(しにせ)の活業(なりはひ)をして貧しからず暮しけるが、去ぬる年の四月、郎(をつと)なる者子を愛しながら髮を結せて有けるが、女の姿の幻影(まぼろし)の如くに現れて郎の咽喉へ啖(く)ひつきしが、喉管(ふえ)に係りて立地(たちどころ)に失せたりき。こはこれ故郷に妻やありてその怨念のする業か、又馴あひし女の執念か、又生靈(いきりよう)なるか死靈なるか、何にまれ夫はかゝる非業の死を遂げぬれば、未來の追善を營みたくまた此女の怨魂をも鎭めたく、心ひとつに定めなして斯く髮を薙ぎ、諸國の靈佛を拜するなりと語られしに、聞くごとに胸に的中(あた)り、吾が身の上も委曲(つばら)に明して、かく遇ひぬる縡(こと)の奇(あや)しきは偏に亡夫のなす業ならめと、倶に感じあひつゝ同伴(つれだち)て𢌞りしなりと語りけるはいと希(めづ)らしきことなりと、この正休寺の住職の己が外祖父なる人に語れるとて、時々(をりをり)話せることなりけり。こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき。

 

[やぶちゃん注:本「谷の響」初の本格生霊譚である。

「天保年間」一八三〇年から一八四四年。

「靑森勤番」当時の藩庁は弘前であることを再確認されたい。青森は「重要な港湾」であったが、現在のような県庁所在地とは異なり、津軽藩の「地方」であったのである。ウィキの「青森市」などによれば、寛永元(一六二四)年に弘前藩が現在の青森市沿岸に港の建設を始めたという。翌寛永二年五月には弘前藩は津軽から江戸へ廻船を運航する許可を幕府より得、翌寛永三年四月には森山弥七郎なり人物に町作りを命じている。寛文一一(一六七一)年七月には藩の出先施設である「仮屋」が設置され(これは元治元(一八六四)年七月から明治二(一八六九)年十一月まで「陣屋」と称された)、元禄元(一六八八)年には安方(やすかた)町(現在の青森県青森市安方)に湊番所が置かれた。弘前城下に屋敷を持っていた藩士三橋某の青森「勤番」とは、この番所勤務のことであろう。本話より後になるが、幕末の元治二(一八六五)年には幕府より蝦夷地(北海道)への渡海地に指定された。弘前から青森までは直線でも三十四キロ離れている

「任(ばん)」勤「番」の当て読み。

「互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける」「(三ツ橋と情婦(現地妻)は)互ひの戀情(をば)、やるかたなくして(=どうにも処理しようがなくて。思い切ることが出来なくて)、人知れず(=妻や親族には内緒で)音信(おとづれ:手紙の遣り取り)を通はせける」。

「明る年」「あくるとし」。

「復」「また」。

「契ける」「ちぎりける」。

「女も妻のある事を」女も三ツ橋に正式な妻があって弘前にいることを。

「喞(かこ)てる」「かこちたる」の転訛。「託(かこ)つ」と書き、「嘆いてそれを口に出して言う・不平を言う」の謂い。

「宿」女の借りている宿(或いは長屋風の貸家)の女主人。以下の夢の具体を語るところから見ると、相当に親しい仲であることが判る。或いは、こうした「現地妻」を斡旋したり、それに部屋や長屋を貸し与えていた、「やり手婆あの」類いかも知れぬ。

「嬶」「かかあ」。

「過刻(さき)に」二字へのルビ。

「主」「あるじ」。

「淸艷(きよげ)にて」は無論、前の「妻」の形容。

「小兒(ことも)」読みはママ。

「その場を去る」自分(青森の情婦)が主語。

「惡く」「あしく」

「胸悶悸(どきつく)」「どきつく」は「悶悸」の二字へのルビ。胸がドキドキする。

「冷愁(こさびし)き事」なんとも言えず暗い淋しいこと。

「不應(とりあへ)ず」とり合わず。

「他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ」いい加減に無視して、あしらっておいた。この対応からは却って、その言葉の不吉な意味を、この老婆(海千山千の「やり手婆あ」であたならなおのこと)が確かに嗅ぎとっていた可能性の高さを示している感じが私には、する。

「駛步(ひきやく)」「飛脚」。

「頓死(とんし)」急死。

「訃音(しら)するに」二字へのルビ。上手い。

「極太(いたく)」二字へのルビ。

「願て」「ねがひて」。

「宿」この「やど」は弘前の役宅の意。藩士の官舎なのであろう。

「息婦(あね)」読みはママ。直後に「息婦(よめ)」と読んでいるのに、不審。

「縫裁(しごと)」二字への当て読み。

「邊房(へや)」二字へのルビ。

「呀呵(あゝ)」感動詞。「呀」は「ああっ!」の擬音語で、「呵」は「叫ぶ」「怒鳴る」の意。

「駈入りて」「かけいりて」。

「絶入りたるに」「たえいりたるに」。人事不省になっていたので。

「命門(きゆうしよ)」「急所」。

「重傷(いたで)」「痛手」。

「泪」「なみだ」。

「三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば」「言ひ出べき」は「いひいづべき」。「三橋氏(うじ)は、『あの青森の女だ!』と心中、思い当たったものの、とてものことに口に出して言えるようなことでもないので。

「獨」「ひとり」。

「すまして」平静を装って。

「疎厭(うと)み」二字へのルビ。

「三橋氏の母時(をり)にふれて語り」誰彼に語り。平尾にではあるまい。

「かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり」これは三ツ橋の周辺の藩士が勤番で青森の番所に勤めた折り、すげなく縁を切ったことを恨んで、飯盛り女か酌婦にでもなっていた元情婦が恨み混じりに語ったか、或いは「やり手婆あ」は藩士らの話(三ツ橋の妻の奇怪な急死事件)を耳にして、かの夢の話を思い出して、吹聴したものかも知れぬ。三ツ橋自身がかなり経って後に誰かに語ってしまったというのは、奇怪なだけでなく、不名誉な事件なれば考え難い。或いは実母にだけは、隠し仰せずして述べたとしても、である。

「寛政」一七八九年から一八〇一年。

「板柳村」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「暑に傷(あて)られたり」暑気あたり。日射病・熱中症の類い。倒れたのは、後に懺悔する女ではなく、彼女の生霊に殺された夫の後妻の方である。

「正休寺」底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳町にある。板谷山正休寺』。前の「九 蝦蟇の智」に出て注した、弘前の浄土真宗の真教寺の『末寺として、万治二年開基という』とする(万治二年は西暦一六五九年)。青森県北津軽郡板柳町板柳土井で、ここ(グーグル・マップ・データ)。

「藥用してありけるが」二人して仮に宿らせて貰い、薬を以ってその一人を療治致いて御座ったが。

「院主」「ゐんじゆ(いんじゅ)」と読んでおく。

「奇しき」「くしき」と読みたい。

「辱しき」「はづかしき」。

「懺悔」せめて「さんげ」と読んでおく。本邦に於いて過去の罪悪を悔いて神仏の前で告白してその許しを乞う仏教用語。本来は「さんけ」と清音であったが、近世中期以後には既に「ざんげ」の濁るようになってはいた。

「塞窘(なんぎ)」「難儀」。「窘」(音「キン」)はこれで「たしなむ」と訓じるが、その意味は「苦しむ・悩む・辛苦する」の謂いである。八方塞がりとなって辛苦すること。

「斯て」「かくて」。

「何(いつ)の世に出べきも測られねば」何時になっても全うに暮らせるようには、およそなれそうにもないので。

「皇都(みやこ)」二字へのルビ。京。彼が京に向かった(恐らくは北回り廻船に便乗させて貰ったのであろう)ことは、近江の娘と夫婦になったことからも、間違いはないようである。

「償身(ほうこう)」「奉公」。

「出にしが」「いでにしが」。

「過しても」「すぐしても」。

「窘迫(まづしき)を」二字へのルビ。「窘」は前注「塞窘(なんぎ)」を参照。

「喞(かこ)てど」読みはママ。「かこちたれど」の意であろう。前の「喞(かこ)てる」の注を参照。

「憑(たのみ)」この字は「霊がのり移る・とりつく」の意味以前に「寄り掛かる・頼みにする・よりどころ」の意が原義である。

「髮結をして」髪結いを呼んで。

「合家(かない)」「家内」。

「噪ぐ」「さはぐ」(騷ぐ)。

「覺たるが」「さめたるが」。

「泣出して」「なきだして」とここは訓じておく。

「噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付る」「噫(あゝ)! おそろし!母は何を喰ひて、かく口邊(くちばた)に血は付くる」。子の台詞。この視点移動の効果はホラー映画のように絶大であると言える。実に上手い!

「呍(わめ)きたる」「喚(わめ)きたる」。

「寠(あさま)しくも」「寠」は「小さい・寠(やつ)れる」の意であるが、「なんと卑小に、おぞましくも」の意。

「惘忙(あきれ)て」「惘」(音「マウ(モウ)」)はこれで「惘(あき)れる」(呆れる)と訓じ、「好ましくないことの意外さや甚だしさに驚く」或いは「意外なことに出合ってどうしてよいか分からなくなる」の謂いがある。「忙」はここでは「心を失って落ち着かないさま」を意味しよう。

「只得(ぜひなき)」(このような状況下では他に方法がなく)やむなく・やむをえず(~する)・(~するほか)仕方がない・しようがない」の意で、これは現代中国語でもこの文字列で通用し、他にも「只好」「只有」「不能不」などとも使う。

「發起(ほつき)の情(こゝろ)」発心。

「出にき」「いでにき」。

「其(それ)の國」どこそこの国。国名を伏せたのである。

「認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ」さりげないこの印象叙述が凄い! 見知っていたのは、他でもない! かの生霊となって夫の喉笛を嚙み切った時の映像の中で見覚えていたのである!

「扱(せは)」「世話」。

「河内の國より來れるといふ人」男は嘘をついている。そこには無意識の妻への自責の念が働いていると読む。自分の過去を変えることで、それとの関係を截ち切ろうとする意識の底にそれが窺えるのである。

「贅婿(むこ)」二字へのルビ。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。

「併習(しにせ)」「老舗(しにせ)」と同義。実は「しにせ」とは動詞の「仕似(しに)す」の連用形が元であって、「代々、同じ商売を続けている」店、由緒正しい古い店の謂いとなったものであり、「併習」(何度も同じことを繰り返してそれを習いみにつける)の文字列との親和性は強い。

「喉管(ふえ)」二字へのルビ。

「馴あひし女」「なれあひし女」。こっそりと私の目を盗んで馴れ親しんだ愛人。

「怨魂」音読みでは如何にもである。二字で「うらみ」と訓じておく。

「薙ぎ」「そぎ」と訓じておく。

「胸に的中(あた)り」総ての彼女の懺悔が激しく私の胸を打ち。

「委曲(つばら)に」こと細かに総て。

「明して」「あかして」。

「偏」「ひとへ」。

「業」「ごふ(ごふ)」。「夫のなす」なら「わざ」とも読めるが、ここはやはり「夫のな」した不実な行為、殺された「夫の」恨みの「なす」ところの、現世に生き残っている彼女らに与えられた「運命・制約・悪運」(これも「業」の意にある)という謂いであろうと考えるからである。そもそもが――夫の成した忌まわしい業(わざ)による報いの結果である――なんどと考えるようでは、彼女らは「夫」の菩提は到底、弔え得ないからである。

「己が外祖父なる人」筆者平尾魯僊の妻方の祖父。

「こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき」平尾魯僊がこの「谷の響」を如何に実証主義に基づいて書いているかを如実に示す附言である。本書は実は眉唾物キワモノの「怪奇談集」などではなく、平尾が冷徹に論理的に検証し、馬鹿馬鹿しい採るに足らぬ作り話と思われるものは一切排除し、事実或いは事実として認定出来る事件、事実性をその核心部に於いて十全に保持していると判断されるもののみを厳選して収録した、確かな「実録集」なのである。]

諸國百物語卷之四 四 ゆづるの觀音に兵法をならひし事

    四 ゆづるの觀音(くわんをん)に兵法(ひやうはう)をならひし事

Yuduru


 下總(しもふさ)のくに佐野と云ふところに兵法すぐれたる侍あり。同國に、この兵法者(ひやうはうしや)に、いかにもしてすぐれたきとおもふ人ありて、館林といふ所のをくに、ゆづるのくはんをんとて、めいよのりしやう、あらたなる觀音ましますときゝてまいり、通夜をして、この事、いのりければ、三日と云ふ夜(よ)、をくのかたより、十一、二なるかぶろ、そめつけの茶わんに人を一人、のせきたる。此ちやわんなる人のいひけるは、

「なんぢ、此ちごと、すまふを一ばんとり申さば、いのる所をかなへてとらせん」

と云ふ。

「それこそやすき事也」

とて、かのちごと、すまふをとるに、ちご、おもひのほかに力つよくて、まけしほにみへけるが、やうやうとしてひつくみ、とうど、なげつくるとおもへば、かへつてわが身、なげつけられぬ。をきあがりみれば、觀音のまへにてはなくて、いかにもけんそなる、いわがんせきの山也。こはいかにとおどろきて、いわのはな、木のえだなどにとりつきて、やうやうふもとへをり、みちゆき人を見つけ、

「佐野のかたへはいづかたぞ」

とゝへば、みち行人(ゆきひと)きゝて、

「御身はいかなる人にて、なに事をの給ふぞ」

とわらふ。かの人、いよいよふしぎにおもひ、

「こゝはいかなる所ぞ」

ととへば、

「佐渡の國也」

と云ふ。

「さて、御身はいづくより來たれる人ぞ」

と、みち行人、といければ、

「此山のうへよりきたり」

と云ふ。みち行きひと、おどろき、

「この山は、ほくさんかたけとて、人りんたへたる山にて候ふが、なにとて此山よりは、きたり給ふたるぞ。御身は人間(にんげん)にては有るまじ」

とて、みち行人(ゆきひと)もおそれて、にげさりぬ。かの人は、それより、あづまぢへかよふ舟にびんせんして佐野のさとへ歸り、あまりにふしぎにおもひ、又、ゆづるの觀音へさんけいしければ、くだんのちやわんのうちなる人また出でて、

「さてさて、なんぢはきしやうよきしやうぢき者かな。さらば所望をつたえん」

とて、兵法(ひやうはう)一とをりのひじゆつ、のこらずをしへ給ひける。それより、くだんの人、めいよの兵法しやとなり、人に刀をぬかせず。人の刀にてわが手を切らせても、きれざるごとくなるじゆつまでを、えられけると也。ちかきころまで、その子ども、江戸にありけるが、今はそのじゆつもならずと、うけ給はる也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは『觀音(きはんをん)に兵法(ひやうはう)をららひし事』。

「ゆづるの觀音(くわんをん)」「館林といふ所のをくに」ある「ゆづるのくはんをん」「あらたなる觀音」これだけの豊富で具体的なデータが挙げられながら、全く分からない。「ゆづる」は「結弦」であろうとは思うものの、まず、群馬県館林市或いはその奥の足利市の観音の名刹を調べて見たが、この名に近いものは見当たらない。万事休す。識者の御教授を乞うものである。これだけ霊験を讃えるからには東上州三十三観音霊場の中の孰れかであるようには思うのだが。

「下總(しもふさ)のくに佐野」不詳。一つ、旧下総国香取郡千田庄佐野とい地名を探し当てた。ここは推定で現在の千葉県北東部にある匝瑳(そうさ)市八日市場附近に当たるか。

「めいよのりしやう」「名譽の利生」。その利生の名の誉れも高い。

「そめつけ」「染付の茶碗」。磁器の素地(きじ)に呉須(ごす:磁器の染め付けに用いる藍色の顔料の名。主成分は酸化コバルトで、他に鉄・マンガンなどを含む。天然には青緑色を帯びた黒色の粘土(呉須土)として産出する)で下絵付けを施し、その上に透明な釉(うわぐすり)をかけて焼いたもの。青又は紫色がかった青に発色する。中国の元代に始まった製法。「藍染め付け」とも呼ぶ。

「のせきたる」「乘せ來たる」。

「此ちごと」「此(こ)の稚兒(ちご)と」。

「すまふ」「相撲」。

「まけしほにみへけるが」「まけしほ」は不詳。「負けし方(ほう)」かと思ったが、歴史的仮名遣が合わぬ。合わぬが歴史的仮名遣の誤りは本作では日常茶飯ではあるし、分らぬままに続けるのは癪なので、強引にそれでゆく。「負け気味に感じたが」の意でとっておく。「潮・汐」ではないかとも考えたが、しっくりくる意味はそれらにはない。

「やうやうとしてひつくみ」ようやっと相手を投げ飛ばせるような感じで引っ組むことが出来。

「とうど」「どうと」。オノマトペイア(擬態語・擬音語)。

「いかにもけんそなる、いわがんせきの山也」「如何(いか)にも險岨(けんそ)なる、岩巖石の山なり」。

「いわのはな」「岩の鼻」。岩の出っ張った箇所。ホールド(hold)。

「みちゆき人」「みちゆきひ(び)と」と訓じて通行人の意の一単語でとる。既出。

「ほくさんかたけ」現在の新潟県佐渡市の大佐渡山地(佐渡の北側)のほぼ中央の位置にある山。標高千百七十一・九メートルで島内の最高峰。ウィキの「金北山」によれば、古くはただ『北山(ほくさん)と呼ばれていたが、江戸時代初期に佐渡金山が発見されてから現在の名で呼ばれるようになった』とある。佐渡では神霊の宿る山として畏敬された。ここで村人が「ほくさん」と呼称しているとこころからは、本話柄は或いは佐渡金山発見直後以前、安土桃山時代後半を時代設定として置いている可能性が窺える。

「人りんたへたる山」「人倫絶えたる山」。歴史的仮名遣は誤り。人の侵入を阻む、神霊の住まう山。

「あづまぢ」「吾妻路」。

「かよふ舟にびんせんして」「通ふ船に便船して」。

「くだんのちやわんのうちなる人」「件の茶碗の内なる人」。「また」とあるが、ここでは一寸法師のような矮小人が歩いて彼の眼の前に出てきたようである。

「なんぢはきしやうよきしやうぢき者かな」「汝は氣性良き正直者哉」。

「所望をつたえん」「貴殿の所望するところの武芸の秘術を伝授せん。」。

「兵法(ひやうはう)一とをりのひじゆつ」「兵法の一通(とほ)りの祕術」。歴史的仮名遣は誤り。

「めいよの兵法しやとなり」「名譽の兵法者と成り」。その名も誉れ高き兵法(ひょうほう)者となって。

「人に刀をぬかせず。人の刀にてわが手を切らせても、きれざるごとくなるじゆつまでを、えられけると也」まず何より基本の防衛法は「対する相手に刀を抜かせない術」である。相手が隙を狙って卑怯にも刀を抜いて向かって来た場合でも第二の防衛法がある。それは「対する相手の刀で自分の腕を斬らせたかと思わせて、しかも、全く自分の手は創(きず)を負うことないというような術」で、そこまでも、この人物は体得していたということである。

「ちかきころまで、その子ども、江戸にありけるが、今はそのじゆつもならずと、うけ給はる也。」ごく最近まで、その御仁の子どもが江戸にいたということであるが、その時既に、その術をその子は操ることは出来なくなっていたと、話としては承っている。]

2016/10/23

谷の響 二の卷 十 蜘蛛の智

 十 蜘蛛の智

 

 文政の年間のよし、紺屋町の鍛冶工(かじや)金次郎と言へるもの、裡(うら)の木蔭に暑を避てありけるが、大きなる赤蜂一つ飛來りて蜘蛛の圍(かこひ)に係りたるに、蜘蛛も亦大きなるものにて互に挑みあふことしばらくなりしが、蜂竟(つい)に蜘蛛を刺し圍を脱れて飛行けり。さるにこの蜘蛛卽便(そのまゝ)圍を下り地上を這ひ行きしに、見る見る滿身(みうち)脹張(はれあがり)て動きもあへぬ程なりければ、何事すらんと眼も放さで視て居たるに、蜘蛛は苦しげに轉び𢌞る事三四囘にして、芋(いも)の葉に把(と)り着きしが、直ちにその葉を咬み又蔓をも嚙みてその汁を軀(からだ)にすり塗るに、漸々(しだいしだい)に腫(はれ)退(も)けてもとの形になりしかば、やがて糸を傳ひてその巣に歸りにき。金次郎奇異の事に思ひ、且蜘蛛の智に感じける。然(さ)てその後、近き邊(わたり)の兒童蜂に刺(さゝ)れしとていたく啼きけるに、この芋の葉を捼(も)みて摺(す)り着たれば、間(ほど)なくいたみ歇みて癒えたりと、この金次郎の語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「文政」一八一八年~一八三〇年。

「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「赤蜂」限定は出来ないが、これは膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属ケブカスズメバチ亜種キイロスズメバチVespa simillima xanthoptera の地方名としてよく聴くものではある。或いは名前の「赤」に不満を感ずる方は、赤茶色の強い、やはり小型のスズメバチの一種である同属のチャイロスズメバチ Vespa dybowskii を挙げておきてもよい。

「圍(かこひ)」捕食網。

「脱れて飛行けり」「のがれてとびゆけり」。

「いたく啼きけるに」ひどく泣いているのを見かけ。

「捼(も)みて」「捼」には「押す・揉む・摺る」の意がある。

「歇みて」「やみて」。]

谷の響 二の卷 九 蝦蟇の智

 九 蝦蟇の智

 

弘化の頃なるよし、弘府(ひろさき)の一向宗眞教寺の院主庭の中を徜徉(ながめまはり)しに、木蔭に蟇と蛇とありて、蛇蟇を呑んとする勢ひなるを見て、蛇を逐(やら)ひ蟇を援けて互に遠く逐ひやりしに、其明る日復(また)その處に蛇と蟇と相對してありけるに、又々蟇を救ひて蛇を逐(お)ひやりぬ。斯の如きこと已に三四囘、其後二三日過て下僕(けらい)なるもの庭の中を掃除するに、大なる蛇の死して在るを見て住僧に告げければ、住僧來りてこれを視るに、蛇の肚内(はらうち)高く起りて動めく樣子なるに、僕をしてその肚を割(さ)かしむるに嚮(さき)の蟇ありていまだ死にもやらで、其手に一寸ばかりの鐡釘(かなくぎ)の穗先針の如くなるを持てり。僧も僕も蟇の智に感ぜしとなり。こは玄德寺の住僧の譚(ものがたり)にてありし。

 又、これと類(ひと)しきことは知遇(しるひと)なる八木橋某の話に、同じく庭の中に蛇と蟇とありて、蛇蟇を呑んと口を張りて立向へば、蟇手を擧げてその頭を擊(たゝ)くに蛇首を縮め、少時(しばし)して蛇又蟇を呑んとするに蟇も亦その頭をたゝく。斯の如くすること累囘(たびたび)なりしが、蛇の頭遂に血を流せり。八木橋氏甚あやしみ、蛇を逐(やら)ひ蟇を捕へてこれを視るに、手に五六分ばかりの錢釘を持てるが、その釘の先尖りて針のごとくありし。その智あやしむべきものなりと、この八木橋氏語りしなり。

 

[やぶちゃん注:この話、読みながら、比較的近年(二十年以内)の単行本で読んだ(書庫の底に沈んで出てこない)、沖繩でハブを撲滅するために実験された新しい事例で、ヒヨコの脚に、中央で発条(バネ)状に円を描いた針金の両端を動物性物質で出来た結節バンドで閉じ止めたものを附け、そのヒヨコをハブが習性上から丸呑みし、そのハブの腹の中で、そのバンドが溶け、その両端の針金が真っ直ぐに戻って、ハブを腹の中から外へと両側(そく)で突き刺し、それによってハブを弱らせて死に至らしめるというやり方を思わず思い出した。しかし、その後、その方法でハブが撲滅出来たという話も聞かない。実用化は案外、難しかったのだろうか? 必ずしも針金が上手くハブを串刺しにしないのではないか、という疑問は読んだ時に感じはしたのを思い出す。

「弘化」一八四四年から一八四七年。

「眞教寺」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『弘前市新寺町にある法輪山真教寺。浄土真宗東本願寺派に属する。天文十九年』(ユリウス暦一五四九年)『の開基といい、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『弘前に移る、寺禄三十石』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の真宗大谷派 法涼山 円明寺(圓明寺)& 平等山 浄徳寺  法輪山 真教寺(弘前市新寺町)で画像が見られる(因みに、この方の記事はなかなか面白い)。現在、日本庭園があるようである。(グーグル・マップ・データの航空写真)。

「徜徉(ながめまはり)しに」「徜」(ショウ/ジョウ)も「徉」(ヨウ)も「彷徨(さまよ)う」の意で、音も意味も「逍遙」と同系の単語のように見えるが、現代中国語を調べると「逍遥徜徉」という表現があり、訳して「のんびりとぶらつく」とあるから、音の近似性は偶然か。

「一寸」三センチメートル。

「鐡釘(かなくぎ)の穗先」人工の鉄製の釘の尖った方。

「玄德寺」同じく底本の森山氏の補註に『弘前市新寺町にある浄土宗法源寺塔頭であった大会山玄徳寺。文禄四年』(一五九四年)『南津軽郡浪岡に開創、慶安三年』(一六五〇年)『弘前に移転したという。今はない』とある。法源寺は先の真教寺の真西に専徳寺という寺を挟んで現存するから(先のYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」にはこの遍照山法源寺(弘前市新寺町・大浦城の移築門)もある)、周辺(グーグル・マップ・データ)にあったのであろう。それにしても、まさに新寺町というだけに現在も軒並み寺が密集している。

「五六分」一・五~一・八センチ。]

谷の響 二の卷 八 燕繼子を殺す

 八 燕繼子を殺す

 

 嘉永年間のよし、青森の近江屋太作と言ふ者の家に、燕巣を造りて卵を孵(かへし)しけるが、雄(をどり)は猫の爲めにとられたりき。さるに三四日經てこの雌(めとり)、他(ほか)の雄と倶に來りて雛を養ひたるが、鷇(ひな)いまだ巣立たぬうちに後の雄として又卵を孵して倶に養へり。爾して六七日も過(すぎ)つるに、先の鷇ゆゑなく巣より落ちて三箇(みつ)とも死せり。太作の老母いたく不審(いぶか)り、死したる鷇を取上げ口を開て見るに、口の中に砂石(すな)滿ちて有りしとなり。後に産し鷇は事なく成長(なりたつ)て、巣を辭(たち)したりとなり。小鳥と言へどまゝ子を憎めるは、あやしむべき事なり。

 

[やぶちゃん注:「繼子」「ままこ」。親子の関係にはあるが、血の繋がっていない子の謂いであるから、ここでこの先の雛を落して殺したのは、後の夫であった雄の燕ということになるのだが、本当にそうだろうか? ハヌマン・ラングールやライオンの子殺しのケースのように、雌自らが「後の雄とし」(この表現は実に生々しいではないか!)た後に、新しい夫に自身の誠意(というよりハヌマン・ラングールの場合は新たな統率者となった雄に、複数の雌の中でも目を掛けて貰うための追従行為として殺害する)を示すために雌の燕が落したのではあるまいか?

「嘉永年間」一八四八年から一八五四年。]

譚海 卷之一 大坂豪富の者、通用金の事

大坂豪富の者、通用金の事

○大坂豪富の町人、奢侈(しやし)年々甚敷(はなはだしき)に付(つき)て、寶曆十三年の秋、分限に應じ用金を命ぜられ、其外嚴敷(きびしく)せんさくありて、種々の禁を立(たて)られ、是より大坂衰微のはじめとなりたりといへり。夫(それ)までは大坂豪富の者、仲間通用金と云ものをこしらへ融通せしが、是も同時に制止有けり。此仲間金止(とめ)たるは、殊外(ことのほか)大坂の差(さし)つかへに成(なり)たる事とぞ。此通用金といふは、大坂にて爲替金(かはせがね)の仲間、又大名仕送りを取扱ふ者共(ども)、百兩包(づつみ)をこしらへ、上封に銘々名判(めいはん)を連署して、包たる内は銅を小判の形に括(こしら)ひ、重さも富商の斤目(きんめ)にひとしく調置(ととのへおき)て、急に金子(きんす)入用の時は、眞(もこと)の小判にまぜつかひし故、巨萬の金も即時に辨ずる事にて、甚だ融通よろしかりきと。若(もし)右百兩他國へ遣す時は、上封の各判ある方へ持行(もちゆけ)ば、そのまゝ眞金(しんきん)に引(ひき)かえらるゝゆへ、數萬金の通用手つかふ事なし。全體銀札を遣ふよふなるもの也。夫よりは猶(なほ)慥成(たしかなる)物也(なり)。大坂の通用は過判此封金にて自由したるを、制止ありしより奢侈の徒(と)も一時に困窮に及びしとぞ。

[やぶちゃん注:「通用金」これは特殊な謂い方で、ここで説明されているように、一種の為替物件(預金証書や小切手のような機能)を有した、実際の額面の金貨・銀貨が包まれたものではないが、しかし、そこに署名された当該グループの為替金システムに参加している複数の商家・町人の誰かのところにその包を持って行けば、当該額面の通貨に換金してくれるというグループ内で仮通貨を指す。これは正直、私は読むまで知らなかったが、確かに、急に大金の用立てを複数から頼まれた豪商は、手持ち金では不足することも往々にしてあったに違いなく、これはすこぶるよい手立てであったに違いない。大阪では後には完全に紙と化した「銀目手形」(預かり証。現在の預金通帳のようなもので、銀貨は重く大量に持ち歩けないことから、現金を両替商に預けおいて必要に応じて引き出すシステムを採った)が主流ともなったらしい。江戸でもこうした金銀包があったが、これは内容物は正真正銘の等価金銀通貨が厳封されたものであって、それによって気風(きっぷ)のいい江戸商人連は逆に信用を高めたらしい(江戸のそれは山口健次郎氏の論文「江戸包金銀て」(PDF)を参照されたい)。

「寶曆十三年」一七六三年。

「用金」御用金。幕府や諸藩が財政難に対処するため、御用商人などを指名して臨時に募集(事実上は強制)した金銭。幕府では宝暦一一 (一七六一)年から慶応二(一八六六)年まで、実に十七回も賦課しており、償還が建前であったものの、償還されなかった(出来なかった)こともあった。

「せんさく」「穿鑿」。

「種々の禁を立(たて)られ」この「られ」はそうした金銭貸与要請の強制をかけた幕府に対する尊敬語。

「仲間金」「なかまがね」と読むか。

「重さも富商の斤目(きんめ)」実際の豪商が持つ実包む(じっぽう)の金銀包と同じ目方。重かろうにと思うが、確かに、関西人なれば、例えば百両千両とある包が、鞠のように軽いのは、これ、すかんやろ、な。

「數萬金の通用手つかふ事なし」数万両分の実際の金貨銀貨を扱うことはしない。

「銀札」先に書いた後の「銀目手形」のようなものであろう。

「よふ」「様(やう)」。歴史的仮名遣は誤り。]

甲子夜話卷之二 30 以前の大的の事

2―30 以前の大的の事

今大的とて、御旗本御家人などの射る物は、憲廟より前は、人形(ヒトカタ)と云て、五尺ばかりに紙を長く繼て、掛軸の如くし、竹竿にかけて射たりしを、憲廟の御時、治世に人がた射んこと不祥にして且不仁也と有て、これを改められ、竹を曲て輪とし、今の大的の大さに爲て、其中を通りたる箭を中(アタ)りとしけり。然を又德廟の御時、其物に中りて響なきは快からず迚、今の紙に張る的を制して射さしめらる。是よりいづ方も今の的になりしと也。先年同姓忠右衞門【信義】語れり。

■やぶちゃんの呟き

「大的」「おほまと」。現行のそれは和弓の歩射(かちゆみ)に用いる射場(いば)の大きな的を指し、直径は五尺二寸(約一・五八メートル)である。この条はその起源説に相当する。因みに、対する「小的(こまと)」は直径一尺二寸(約三十六センチ)以下のものを指す。

「憲廟」徳川綱吉。

「人形(ヒトカタ)」後で綱吉が不快に思う如く、太平の世に遇って戦場での対人射撃を忘れぬための呼称であろう。

「云て」「いひて」。

「五尺ばかり」一・五メートルほど。江戸時代の男性身長の平均は一五五~一五八センチとされる。なお、ここに出る徳川綱吉は一二四センチの小人症(低身長症)であったという記事がこちらに出る。

「繼て」「つぎて」。

「不祥」「ふしやう(ふしょう)」縁起が悪いこと。不吉。

「且」「かつ」。

「不仁也」「ふじんなり」。無慈悲極まりない行いである。

「有て」「ありて」。

「曲て」「まげて」。

「爲て」「して」。

「其中」其の竹の話の中空内。

「箭」「や」。「矢」に同じい。

「然を」「しかるを」。

「德廟」吉宗。

「其物に中りて」「それ、ものにあたりて」と訓じておく。

「響」「ひびき」。

「迚」「とて」。

「制して」これは「製して」ではない。「規定として定めて」の謂いである。念のため。

「同姓忠右衞門【信義】」自分と同姓の松浦(まつら)信義ということであろうが、不詳。

甲子夜話卷之二 29 松英公、隅田川扇流の御話

2―29 松英公、隅田川扇流の御話

 

天祥寺雄峰和尚の吾松英君の【諱、篤信、肥前守】物語とて語しは、若き頃、中秋月明の時、隅田川の上流に船を浮め、金銀の扇を數枚河水に投じて、月光の映じて流行を觀賞したりと云。今の世とは其韵趣殊なる事見るべし。

■やぶちゃんの呟き

「松英公」「しやうえいこう」。肥前平戸藩第九代藩主であった静山の曽祖父に当たる同藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六(一七五七)年)の法尊号。ウィキの「松浦篤信によれば、『江戸浅草に生まれる。幼名は数馬』。元禄九(一六九六)年、兄で第五代藩主であった松浦棟(まつらたかし)の長男長(ながし)が『早くに死去したため、棟の養嗣子となった』。同年五月に『将軍徳川綱吉に拝謁』、元禄十一年に『江戸城の菊間詰めとな』り、同年中に『従五位下肥前守に叙任』した。宝永元(一七〇四)年、『養父棟とともに初めてお国入りする許可を得』、宝永六年、『養父棟とともに江戸城の柳間詰めに戻され』ている。正徳三(一七一三)年、『養父棟の隠居により、家督を相続する。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果は無かった。養父棟と違って』十一男八女の『子女に恵まれ』、享保一二(一七二七)年閏一月二日、病気を理由に家督を長男有信に譲って隠居した。享年七十四、『法号は松英院殿。墓所は墨田区の天祥寺。後に平戸市の雄香寺に改葬された』とある。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれであるから生まれる三年前に亡くなっている。

「扇流」「あふぎながし」。

「御話」「おんはなし」。

「天祥寺」墨田区吾妻橋にある臨済宗向東山天祥寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏の都内の詳細な寺社案内サイト「猫のあしあと」の同寺記載によれば、現在の台東区松が谷にある臨済宗大雄山海禅寺が兼帯する寺院として寛永元(一六二四)年に創建、当初は向東山嶺松院と号していたとされる。元禄六(一六九三)年、『本所中之郷の下屋敷に隠居していた肥前平戸』藩四代『藩主松浦鎮信が』この寺を『譲り受け、深く帰依した盤珪』禅師を招いて中興開山とし、当地に中興したと伝えている。『近隣に同宗の松嶺寺があり、まぎらわしいということから、中興開基松浦鎮信の法名天祥院殿慶厳徳祐大居士より』、享保元(一七一六)年に「天祥寺」に改号したとされる。

「雄峰和尚」不詳。静山生前当時の天祥寺住持であろう。

「吾松英君」わが先祖松英(しょうえい)公(ぎみ)。

「諱」「いみな」。本名。

「浮め」「うかめ」。

「金銀の扇」金銀の箔で全面を覆った扇を開いたもの。

「流行」「ながれゆく」。

「其」「その」。

「韵趣」「ゐんしゆ(いんしゅ)」(本来は「うんしゆ」が正しい音読みである)「韵」は「趣」と同義で畳語。雅なる興趣。風雅。

「殊なる事」「ことなること」。高雅に在り方の格別に異なること。

甲子夜話卷之二 28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事

2―28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事

岸本應齋が【輪王寺宮の坊官、後罪ありて廢す】話し迚傳聞す。かれ坊官にてありしとき、上野の本坊にて樂あり。其合奏の際、不斗見たるに、書院の上段の床の上に狐あり。樂を聽て歡喜の體なり。人々驚き誰彼と呼びたて、もの騷しくなりたれば逃去ぬ。感心して出たる者なるべしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「上野御本坊」寛永寺。

「岸本應齋」不詳。識者の御教授を乞う。

「輪王寺宮」「りんのうじのみや」と読む。「輪王寺」は現在の栃木県日光市山内にある天台宗日光山輪王寺。但し、江戸時代までは神仏習合で、東照宮・二荒山神社と併せた一体の「日光山」という祭祀総体の一つであった。ウィキの輪王寺の「江戸時代」によれば、『近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進』み、元和三(一六一七)年に『徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた』際、輪王寺本堂は現在、『日光二荒山神社の社務所がある付近に移され』ている。正保四(一六四七)年、第三代『徳川家光によって、大雪で倒壊した本堂が再建され、現在の規模』となり、承応二(一六五三)年には『家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり』、『仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている』。明暦元(一六五五)年、『後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の』第三皇子守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が『入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」』『と称された。親子による世襲ではないが』、『宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う』『輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(下線やぶちゃん)。即ち、「輪王寺宮」とは宮家であり、彼は輪王寺住持・寛永寺門跡・天台座主(これらを纏めて「天台一宗総本寺」と称した)であったのであって、現地、日光の輪王寺にいたわけではなく、江戸に常住していたと考えるべきであろう。

「坊官」門跡家などに仕え、事務に当たった在俗の僧。剃髪して法衣を着たが、肉食妻帯・帯刀を許された。「殿上法師」「房官」とも称する。

「迚」「とて」。

「不斗」「ふと」。

「床」「とこ」。

「聽て」「ききて」。

「誰彼と呼びたて」「たれかれとよびたて」。誰彼(だれかれ)となく驚きの声を挙げて。

「逃去ぬ」「にげさりぬ」。

谷の響 二の卷 七 海仁草 海雲

 七 海仁草 海雲

 

 小泊の大間に海仁草(まくり)多くあり。文化文政の頃までは土地(ところ)にてこの名もしらで、ただ小兒の蚘(むし)下し藥といふて用ひしとなり。また海雲(もずく)といへるもの、深浦の沖にあるものは岩に生え、宇鐡の沖にあるものはホンダハラといふ藻の末に付て生えると也。

 

[やぶちゃん注:「七」は底本のママ。
 
「小泊」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。
の「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。

「海仁草(まくり)」アーケプラスチダ Archaeplastida  界(藻類の一種で、二枚の膜に囲まれた細胞内共生したシアノバクテリアから直接派生したと考えられるプラスチドを持つ一群)紅色植物門紅色植物亜門真正紅藻綱イギス目フジマツモ科マクリ Digenea simplex (一属一種)で、別名「カイニンソウ(海人草)」とも言う(これは海底に立つ藻体が人の形に見えるからではないかと私は昔から思っている)。暖流流域(本邦では和歌山県以南の暖海域)広く分布し、海底や珊瑚礁に生育する。生時は塩辛くて強い海藻臭と粘り気を持つ。マクリという名は「捲(まく)る」(追い払う)に由来し、古く新生児の胎毒を下す薬として用いられたことから、「胎毒を捲る」の意であるとされる。「和漢三才図会」には以下のように載っている(引用は私の電子テクスト「和漢三才図会 巻九十七 藻類 苔類」の掉尾より。詳細注を附してあるので参照されたい)。

   *

まくり  俗に末久利と云ふ。

海人草

ずるに、海人草(かいにんさう)は、琉球の海邊に生ずる藻花なり。多く薩州より出でて四方に販(ひさ)ぐ。黄色。微(かすか)に黯(くろみ)を帶ぶ。長さ一~二寸、岐有り。根髭無くして微(すこ)し毛茸(もうじよう)有り。輕虛。味、甘く、微鹹。能く胎毒を瀉す【一夜浸水し、土砂を去る。】。小兒初生、三日の中、先の海人草・甘草(かんざう)、二味を用ふ【或は蕗の根を加ふ。】。帛(きぬ)に包み、湯に浸して之を吃(の)ましむ。呼んで甜物(あまもの)と曰ふ。此の方、何れの時より始めると云ふことを知らず[やぶちゃん字注:「云」は送り仮名にある。]。本朝、通俗〔の〕必用の藥なり。之を呑みて、兒、涎-沫〔(よだれ)〕を吐く。之を「穢-汁(きたなげ)を吐(は)く」と謂ふ。以て膈上〔の〕胎毒を去るべし。既に乳を吃むに及ばば、則ち吐かず。加味五香湯を用ひて下すべし。

   *

これによって、かなり古い時代から乳児の胎毒を去るのに使用してきたことが窺える。ではこれが虫下しの薬として一般化したのはいつかと調べてみると、「ウチダ漢方和薬株式会社」公式サイト内の「生薬の玉手箱」の「【マクリ】」 (同社情報誌『ウチダの和漢薬情報』の平成九(一九九七)年三月十五日号より転載されたもの)に、私のように「和漢三才図会」を引用した上で、以下のようにあるのが見つかった。

   《引用開始》

 一方、マクリは「鷓鴣菜」の名でも知られますが、鷓鴣菜の名が最初に現れるのは歴代の本草書ではなく、福建省の地方誌である『閩書南産誌』だとされています。そこには「鷓鴣菜は海石の上に生え、(中略)色わずかに黒く、小児の腹中蟲病に炒って食すると能く癒す」とあり、駆虫薬としての効果が記されています。

 わが国におけるマクリ薬用の歴史は古いようですが、駆虫薬としての利用はこの『閩書南産誌』に依るものと考えられ、江戸時代の『大和本草』には、それを引いて「小児の腹中に虫がいるときは少しく(炒っての間違い)食すれば能く癒す」とあります。しかし、引き続いて、「また甘草と一緒に煎じたものを用いれば小児の虫を殺し、さらに初生時にも用いる」とあり、この甘草と一緒に用いるというのは『閩書南産誌』にはないので、この記事は古来わが国で利用されてきた方法が融合したものではないかと考えられます。

   《引用終了》

「大和本草」の記載は「卷之八 草之四」「海草類」の「マクリ、かいにんそう」で、「中倉学園」公式サイトの「貝原益軒アーカイブ」のPDF版で原典画像(42コマ目)が見られる。以下に私の読みで書き下して電子化しておく。但し、前の引用の内の『少しく(炒っての間違い)』という指摘を受けてその部分は訂しておいた。

   *

鷓鴣菜(マクリ) 閩書に曰く、海石の上に生じて、散碎。色、微黑。小兒腹中に蟲病有らば、炒りて食へば能く癒ゆ。〇甘草と同煎し用ゆれば、小兒腹中の蟲を殺す。初生にも用ゆ。

   *

この「散碎」(さんさい)というのは恐らく藻体が細かく分岐していることを言うものと思われる。さて、ここに出る「閩書」とは「閩書南産誌」のことで、明代の何喬遠撰の作であり、貝原益軒の「大和本草」の刊行は宝永六(一七〇九)年であるから、江戸時代前期の終わりぐらいには既に虫下しとしても使用されていたものと考えてよいだろう。薬理成分はアミノ酸の一種であるカイニン酸(昭和二八(一九五三)年に竹本常松らによって古くから虫下しとして用いられていた紅藻のマクリから単離命名された。カイニン酸はカイチュウやギョウチュウの運動をまず興奮させた後に麻痺させる効果を持つ。この作用は、ドウモイ酸同様にカイニン酸がアゴニスト(Agonist:生体内受容体分子に働きかけて神経伝達物質やホルモンなどと同様の機能を示すような作動薬を言う。)としてグルタミン酸受容体に強く結合し、神経を過剰に興奮させることによって起こることが分かっている。このため、現在はカイニン酸は神経科学分野、特に神経細胞死の研究のために天然抽出物及び合成品が使用されているという(ここはウィキの「カイニン酸」その他を参照した)。……小学校時代、チョコレートのように加工して甘みで誤魔化した物がポキールによる回虫検査で卵が見つかった者に配られていたのを鮮明に思い出す。……何故なら、私はあのチョコレートのような奴が欲しくてたまらなかったから。そのために秘かにポキールをする時には(リンク先はグーグル画像検索「ポキール」!……懐かしいぞう!!)、回虫の卵がありますようにと願ったものだった。……遂にその願いは叶わなかったから、私は今も、あのマクリ・チョコレートの味を知らないのである。……(以上は私の電子テクスト「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 36 虫下し 附 やぶちゃんのポキールの思い出」の私の注から一部を抄録しつつ書き直したものである)。

「海雲(もずく)」ここに描写されるものはその植生から見て、不等毛植物門褐藻綱ナガマツモ目モズク科イシモズク属イシモズク Sphaerotrichia divaricata と思われる。本邦では産生が少ないモズク属モズク Nemacystus decipiens に比すと、より食感が堅く、私も最も好む食感のモズクである。因みに種名 Sphaerotrichia は「球+糸」、種小名 decipiens は「二股に分かれた」の意である(以上は、学名の由来も丁寧な私のすこぶる偏愛する海藻図鑑田中次郎氏の解説になる「基本284 日本の海藻」(二〇〇四年平凡社刊)に拠る)。なお「もづく」という古来からの和名は他の褐藻類、例えばまさに後に出るホンダワラのような種群に附着することから「藻付く」という名がついたとされる。

「深浦」「十八 龜恩に謝す」に既出既注。

「宇鐡」底本の森山氏の補註に『東津軽郡三厩村宇鉄(うてつ)。津軽半島北端部にある漁村』とある。現在は青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩(みんまや)地区の海辺に「上宇鉄」「元宇鉄」の名で残る。この附近である(グーグル・マップ・データ)。

「ホンダハラ」不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ホンダワラ Sargassum fulvellum(及び同属の近縁種を含む)。海藻フリークの私としては、この条、エンドレスで語りたくなるところだが、ここで堪えて終りとしよう。]

谷の響 二の卷 七 異花を咲く

 七 異花を咲(ひら)く

 

 嘉永の末年にありけん、松森町高嶋屋半左衞門の花嘆(はたけ)なる槍扇(ひあふぎ)といふ草に燕子花(かきつばた)の花一ふさ咲き、色はいと美しき紫にて形又少しくも異なるなしとなり。されどこの一莖(きやう)のみ餘はみな常の槍扇なりといへり。伊香氏この稿本を見て片紙を附して曰く、このこと吾が家にも八九年前咲き一度兩三年以前に一度ありて、根を分けて別に植直しに繁茂して今にあり。只の槍扇にはきかず、朝鮮檜扇にはまれまれあるよし。八九年前(さき)にありしは白花なり。近年のは紫花なり。又、燕子花にあらず一八(いつぱち)といふものにて、燕子花の種類なれども花も葉も大に似て非なるものなりといへり。實にさることゝもあらめ。

 

[やぶちゃん注:「嘉永の末年」嘉永は七年が最後でグレゴリオ暦では一八五四年。

「松森町」青森県弘前市松森町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「花嘆(はたけ)」この文字列不詳。花壇や花園の意の洒落た当て字なら分かるが、「はたけ」じゃあ、ねぇ。

「槍扇(ひあふぎ)」単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属ヒオウギ Iris domestica。開いた花が宮廷人の持つ檜扇に似ていることから、命名されたという。

「燕子花(かきつばた)」同アヤメ属カキツバタ Iris laevigata。「杜若」とも書くのは御承知の通り。同属であるから、こういう一部の異花発生現象は必ずしも不思議ではないと私には思われる。但し、本種がアヤメ属に編入され、現在の学名となったのは、実はつい最近、二〇〇五年のDNA解析に基づく結果であって、それ以前はヒオウギ属 Belamcandaとされ、Belamcanda chinensisの学名を与えられていたとウィキの「ヒオウギ」にはあるので、実は偉そうなことは言えないのである。

「伊香氏」不詳。

「この稿本を見て片紙を附して曰く」この「谷の響」の手書き草稿を披見して、この条に附箋して以下のように綴っている。以下、「このこと……」から「……似て非なるものなり」までがそれ。

「吾が家にも八九年前咲き一度……」これは「吾が家にも一度八九年前咲き……」の誤記であろう。

「兩三年以前」二、三年前。

「植直しに」「うゑなほしに」植え直したが(それでも元気に)。

「朝鮮檜扇」不詳。ヒオウギ Iris domestica の原産は日本・朝鮮半島・中国・インドとされるから、別種とは思われない。或いは朝鮮半島で品種改良されたものがあるのか。調べたところでは、変種に葉の幅が広く、全体的に寸詰まった草貌のダルマヒオウギ Belamcanda chinensis var. cruenta があり、他に園芸品種として真竜(しんりゅう)・黄竜・緋竜などがあるらしい。

「一八(いつぱち)」アヤメ科アヤメ属イチハツ(一初)Iris tectorum のことであろう。和名はアヤメ類の中でも一番先に咲くことに由来する。なお、ここは注しなくてはならないところで、伊香氏は実は私の家で起った異花開花現象のそこに元々あったのは同じヒオウギでも「朝鮮檜扇」という違う種類の「檜扇」であり、また、そのただ中の一本の「朝鮮檜扇」に咲いた花は「燕子花」ではなくて「一八」=「一初」であった、と記している点である。

「大に」「おほいに」。

「實に」「げに」。]

谷の響 二の卷 六 變化

 六 變化

 

 また、天保五六年の頃のよし、何地(いづれ)の洋中(より)より揚れるにや、大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしものを、ある太夫の邸宅(やしき)へ持ち來れるを見たりしとて、藩中七戸某語れるなり。又、藩中中村某の話に、一年(あるとし)海口(みなと)勤番の人より海帶(あらめ)を贈られしことあり。そを薦に包み庇(ひさし)の片隅に置(おけ)るが、二十日あまりありて啓(ひら)いて見るに、雨の洩りしと見え大概(おほかた)腐りたる樣にて、その中に多くの蛭蠢き居たりけるに、半身はまだ海帶に着て居るもありしなりと語りしなり。

 

[やぶちゃん注:「變化」「へんげ」。超自然的に別生物からある別生物へ変生する化生(けしょう)である。

「天保五六年」一八三四、一八三五年。

「大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしもの」「ソイ」は脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属 Sebastes を指す広域で汎用される通称で青森に限った方言ではない。実際に、私も使うし、富山でもそう呼んでいたし、私の馴染みの江戸前の寿司屋の親爺も普通に使う。というより何より、同属内の種の正式な標準和名に、クロソイ Sebastes schlegeli・ムラソイ Sebastes pachycephalus・オウゴンムラソイ Sebastes mudus さえある。さて、問題は、この頭部がソイで体幹の下半分がガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)とは何か? であるが、まず、安易に考えるなら、たまたま釣り上げられたソイを、単に悪食多食のガマガエルが吞み込んだものの、大き過ぎ、しかも鰭の棘が引っ掛かって吐き出すことも出来ずに、そのまま悶死したものを見たというケースで、これは誰でも思いつくが、如何にもつまらない。私が実は最初に想起したのは、海中でソイをまさに海のガマガエルと称するに相応しいかの旧名「イザリウオ」(現在は差別用語として和名変更されてしまった)、条鰭綱アンコウ目カエルアンコウ科 Antennariidae の一種が半ばまで吞み込みかけたところ、ソイは眼の前に垂れさがってきた釣り餌に苦し紛れに喰いつき、それが釣り上げられたというシチュエーションである。カエルアンコウ類は擬態性が著しく、頭部の形状もはっきりしないから、蝦蟇の下半身に見えたとしても、私は強ちおかしいとは思わない

「太夫」いろいろな職種で当てられる地位名称であるが、ここは「藩士」の話で、しかも「邸宅(やしき)」へ持ち込んだとある以上、神主や禰宜(ねぎ)などの神職の別称ととっておく。

「七戸某」「一の卷」の掉尾十八 龜恩に謝すに登場した藩士「七戸某」と同一人物であろう。私のような海洋生物奇譚好きの情報屋と思われる。

「海帶(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Lessoniaceae 科アラメ属アラメ Eisenia bicyclis 

「蛭」これは恐らく環形動物門ヒル綱 Hirudinea とは思われない。湿気を含んで腐っていることからは腹足綱有肺亜綱柄眼目ナメクジ科 Meghimatium属ナメクジMeghimatium bilineatum 或いはその仲間のナメクジ類であろう。腐ったアラメの茎部に入り込んで内部から蚕食していたと考えれば、別段不思議ではない。但し、アラメは塩分を多量に含んでいるので、ナメクジがそれに堪え得るかは定かではないが。ともかくも、海産の蠕虫類(平尾が「蛭」と言っているのは、実はそういう意味であろう)である可能性は二十日も経っていることから見て、あり得ない。

「着て」「つきて」。]

谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず

 五 蟹羽を生ず

 

 官醫佐々木某なる人、幼弱(ことも)の時湯口村なる菅公庿(てんじんぐう)へ參詣(まゐり)てその歸るさに、小さき澤蟹數十を購(あがな)ひ水鉢に入れて翫弄(もてあそ)びしが、六七日の間に不殘(みな)脱(にげ)出で有處をしらずなりぬ。然るにその年の七月頃、厨下(だいどころ)の床の下より一箇(ひとつ)二箇(ふたつ)或は六箇七箇ばかり日々出たりしを見れば、盡(みな)蟬の如き薄き羽を生じて何處(いづく)ともなく飛去りしが、夾(はさみ)も脚もそのまゝにて有しとぞ。こは天保初年のことなりとて、この佐々木氏語りしなり。住むところによりては、蟹もかく變ずるものにこそあれ。

 

[やぶちゃん注:「幼弱(ことも)」読みはママ。

「湯口村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『中津軽郡相馬村湯口(ゆぐち)。弘前市の西郊二里ばかりの農山村』とある。現在は青森県弘前市湯口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菅公庿(てんじんぐう)」不詳。現在、弘前市湯口には石戸神社 という神社があるが、調べる限りでは菅原道真は祀っていない。

「澤蟹」節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目カニ下目サワガニ上科サワガニ科サワガニ属サワガニ Geothelphusa dehaani。日本固有種で、青森県からトカラ列島(中之島)まで分布するとされる。偶然の配列であるが、前話のヒトの寄生虫症との関連のある生物である。ウィキの「サワガニ」によれば、肺気腫や気胸を引き起こす肺臓ジストマの一種(以下の二種による寄生虫症)の中間宿主で、生食或いは加熱不十分な状態で食用とした場合に発症することがあるので注意が必要である。まず一種は、前話の注に出した、同種に寄生する扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウ(ウェステルマン肺吸虫)Paragonimus westermani)で、「ウェステルマン肺吸虫症」を引き起こす。『成虫は肺に寄生し、血痰と胸部異常陰影が特徴。確定診断には血痰あるいは糞便から虫卵の検出』。なお、同種はやはり、よく食用にされる『モクズガニも中間宿主』であるので、やはり注意が必要である。次に宮崎肺吸虫(同じく Paragonimus 属のミヤザキハイキュウチュウParagonimus miyazakii)による「宮崎肺吸虫症」である。『幼虫は腸壁を突き破って、胸腔あるいは皮下まで移動するが、肺まで到達できない。胸膜炎、自然気胸、皮下腫瘤、好酸球増多などの症状がみられる。虫卵を検出することができないので、血中抗体測定法で診断』する。

「天保初年」天保元年はグレゴリオ暦一八三〇年。]

諸國百物語卷之四 三 酒の威德にてばけ物をたいらげたる事

    三 酒の威德(ゐとく)にてばけ物をたいらげたる事


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 大佛三十三間(げん)どうには、ばけ物ありとて、七つさがれば、人、ゆかず。この事、禁中にきこしめしおよばれ、此ばけ物、たいらげたらんものは、ほうびはのぞみたるべしと、高札(たかふだ)をたてられければ、さる酒のみのらう人ありけるが、禁中へまいり、

「それがし、したがへ申さん」

と、御うけを申し、ひやうたんに酒を入れ、三十三げんどうにゆき、どうのすみにまちゐければ、あんのごとく、夜はんのころ、たけ一丈ほどのぼうず、まなこは日月(じつげつ)ほどひかり、くま手のごとくなる手をさしいだし、かのらうにんを、たゞひとつかみにせんとす。らうにん、やがてかうべを地につけ、

「ひごろ、うけ給はりおよび候ふばけ物さまにて御座候ふか。まづ、しよたいめんの御禮申しあげ候ふ」

と云ふ。ばけ物、きゝて、物すごきこゑにてうちわらひ、

「さてさて、なんぢはおかしき人かな。一くちにせんとおもへども、しばらくゆるす。さて、こゝへは、なにとてきたるぞ」

と云ふ。らう人、きゝて、

「なにとなくまいり候ふが、ばけ物さまはいろいろに御ばけ候ふよし、うけ給はり及び候ふ。ちと、うつくしき上らうに御ばけ候ひて御見せ候へ」

と云ふ。ばけ物、きゝて、

「なんぢは、しやれたる事をいふものかな。のぞみにばけてみせ、そのゝち、一くちにぶくせん」

とて、そのまゝ大なる上らうにばけてみせければ、

「さても、さても、おもしろき事にて候ふ。今一ど、兒(ちご)にばけて御みせ候へ」

といへば、うつしくしき兒(ちご)のすがたになりける。

「さても、しゆうなる事かな、とてもの事に、をにのすかたに御なり候へ」

といへば、たけ一丈ばかりの鬼となり、つのふりたてゝ見せければ、らう人、申すやう、

「ばけ物さまは、さても、げいしや哉、のぞみ申す物に御なりなされ候ふ。されども、むめぼしのごとくなる、ちいさき物に御なりなさるゝ事は、いかゞなり申さずや」

といふ。ばけ物、きゝて、

「むめぼしにならば、もはや、くわれ候ふか」

といへば、

「ぜひにおよばず」

と云ふ。

「さらば、なりて見せん」

とて、いかにもちいさきむめぼしになり、ころりころりと、こけあるきければ、

「さても、きとくに御ばけ候ふものかな、手のうへゝ御あがり候へ」

とて、手をさしいだしければ、手のうちへこけあがりたるを、そのまゝ、口へうちこみ、がりがり、かみわり。ひやうたんなる酒を七八はい、ひつかけのみ、よひのまに、にげてかへり、

「ばけ物たいらげたるよ」

と、さうもん申しければ、禁中、ぎよかん、なゝめならず、くわぶんのちぎやうを下されけると也。ひとへに酒のいとく也。

 

[やぶちゃん注:これは最早、怪談ではなく、狂言そのものである。挿絵の右キャプションは右半分が切れてしまているので判読不能。

「威德(ゐとく)」原義は威厳と徳望で、勢力がありしかも同時に人徳の高いことを言うがここは、酒の霊力・威力の謂いである。ただ、米から醸造する酒は元来、稲玉の霊力の凝ったものとして認識されていたものではあったはずではある(が、ここは猿芝居だからそこまで考える必要は猿の毛ほどもない)。

「大佛三十三間(げん)どう」「どう」は「だう」が正しい。既出既注。「十四 京五條の者佛(ほとけ)の箔(はく)をこそげてむくいし事」の「大ぶつの三十三間(げん)のほとけ」の注を参照のこと。このロケーションとその呼称、そこに化け物が出るというところから考えると、筆者の時代設定は豊臣家滅亡以降(リンク先を参照されたいが、大仏自体はその後も残されたものの、寛文二(一六六二)年の地震で大破し、寛文七(一六六七)年に木造で再興されたが、これも寛政一〇(一七九八)年の落雷に起因する火災で焼失している)のごく江戸初期ではないかと私は推察する。後の浪人の台詞「ぜひにおよばず」が信長のその肉声として、響き合うような時代(それは如何にもな陳腐さを以ってであって、逆にこの創作自体は新しいことを逆に感じさせるわけではあるが)である。

「七つさがれば」定時法の「七つ時を過ぎると」で、現在の午後四時から午後五時頃(七つ半。午後六時は「暮れ六つ」となる)になるとの意。

「禁中にきこしめしおよばれ」その奇怪なる噂が宮中の畏れ多き帝の御耳にまでも達し及んでしもうて御座ったによって。

「たいらげたらんもの」「平らげらん者」。成敗致いた者。しかし、この言葉は結句、「食べつくす」という文字通りの意味とも重なることになる伏線なのである。

「ほうびはのぞみたるべし」「褒美は望みたるべし」。その褒美は、申すがままにとらせよう。

「高札(たかふだ)」お上より告知する内容を人通りの多い場所に高く掲げた札(板)様のもの。室町時代からあったが、江戸時代に最も盛んに行われた。制札(せいさつ)。

「らう人」「浪人」。

「したがへ申さん」「從へ申さん。」。「屹度、平伏退治致いてお見せ申し上げましょうぞ!」。

「御うけ」「御請け」。

「ひやうたん」「瓢簞」。

「どうのすみにまちゐければ」「堂(だう)の隅に待ち居ければ」。前に言った通り、「どう」の歴史的仮名遣は誤り。

「あんのごとく」「案の如く」。世間で噂しているその通りに。

「一丈」三メートル三センチ。

「くま手のごとくなる手」「熊手の如くなる手」。この場合の「熊手」は長い柄の先に鉄の爪数個をつけた武具或いは船道具を指す。戦場では、敵を馬から引き落としたり、盾や塀を引き倒したり、高所に攀じ登る際に用い、また、犯罪者や狼藉者を捕り押さえるのに用いた捕り手道具。水上では舟や浮遊物などを引き寄せるのに用いる。

「しよたいめん」「初對面」。

「一くちにせん」知られた「伊勢物語」第六段(芥川の段)、

   *

 昔、男ありけり。女のえ得(う)まじかりけるを、年を經て呼ばひわたりけるを、からうじて盜み出でて、いと暗きに來けり。芥川といふ河を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。行く先多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる藏に、女をば奥に押し入れて、男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり。はや、夜も明けなむ、と思ひつつゐたりけるに、鬼、はや、一口(ひとくち)に食ひてけり。「あなや」と言ひけれど、神鳴る騷ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て來(こ)し女もなし。足ずりをして泣けども、かひなし。

   *

とあるように、古来、鬼が一口で人を食い殺すことを「鬼一口(おにひとくち)」と呼び慣わした。

「しばらくゆるす」「暫く赦す」。

「うつくしき上らう」「美しき上﨟(じやうらう)」美しい高貴な御婦人。

「しやれたる」「洒落たる」。

「のぞみにばけてみせ」「望み(通りに)化けて見せ」。

「ぶくせん」「服(ぶく)せん」。吞み込んでやろう。

「しゆうなる事かな」「自由(しゆう)なる事かな」「なんとまあ! 変幻自在なることで御座ろう!」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」(同書はこの「しゆう」に「自由」を当てた本文を載せる)の「自由」の脚注によれば、『無制約なこと。「自由」の語の成立は、室町期といわれている』とある。

「とてもの事に」次いでに。

「すかた」ママ。姿。

「げいしや哉」「藝者かな」。「芸達者であられますなあ!」ここまで徹底したヨイショ作戦で、鬼の自己肥大を最高度まで昂めた。「角振り立てて見せけ」るところなんぞは、最早、獅子舞いの大道芸レベルに堕していることに気づかぬのが、この鬼に哀しさである。ここの浪人の機転の利いた台詞は、まさにその笑いの転回点の要(かなめ)となるところである。

「むめぼしのごとくなる」「梅干(むめぼ)しの如くなる」。

「いかゞなり申さずや」「如何成り申さずや」。「どうでしょう? お出来になりますか? 成れませぬか? 成れませぬことは御座いますまいのぅ!」。原文は不可能の方だけを匂わせて、鬼を不満にさせ上手く慫慂した巧みな台詞となっている。

「むめぼしにならば、もはや、くわれ候ふか」「小さな梅干しに変じたら、さて――それを汐にいい加減、遊びは止めて――儂(わし)に食われるか?」この台詞が最後に主客を逆転させる美事な伏線となっている点を見逃してはならぬ

「ぜひにおよばず」「是非に及ばす」。「言うまでも御座らぬ! きっと喰われましょうぞ!」。

「こけあるきければ」「轉(こ)け步きければ」。ころころと転がり回ったので。

「さても、きとくに御ばけ候ふものかな」「さても、奇特に御(おん)化け候ふものかな」。「奇特」は私は「きどく」と濁って読みたい。「神仏の霊験(れいげん)」の意である。「何ともはや! 実に神妙玄妙にお化けになられたことであろうか!」。

「こけあがりたる」「轉(こ)け上がりたる」。この動的なシークエンスが実に笑いを誘う。特撮(SFXやでCGやアニメーションなんぞではなくて、である)で撮りたいなぁ!

「うちこみ」「打ち込み」。ぽいっと投げ込んで。

「かみわり。」句点はママ。ここは読点の編者の誤りだろう。「嚙み割り、」。

「ひつかけのみ」「引つ掛け吞み」グビ! グビグビ! グビ! グビ! グビグビグビグビビッツ! と立て続けにあおって。狂言的勘所である。

「よひのまに」「宵の間に」。「醉ひの間に」(酔いにまかせて)と読みそうになるが、であれば、歴史的仮名遣は「ゑひ」でなくてはならぬ。何より、鬼を吞み込んだその後に変事が危惧されることを考えれば、ともかくも逸早く、内裏へ征服成功(それも鬼を吞み込んで!)報告するのが先決であり、ここはやはり、夜明けを待たず、未だ「宵」の内に、の謂いである。

「さうもん」「奏聞」。帝に申し上げること。但し、歴史的仮名遣は「そうもん」でよい。

「ぎよかんなゝめならず」「御感斜めならず」。「斜めならず」は「なのめならず」の原型。帝の御気分は一通りではなく、格別にお喜びになられ。

「くわぶんのちぎやうを」「過分の知行を」。たかが浪人の分際に過ぎた褒賞としての領地を。

「いとく」標題の「威德」であるが、歴史的仮名遣は誤り。]

2016/10/22

谷の響 二の卷 四 怪蚘

  四 怪蚘

 

 これも文政の年間(ころ)なるが、己(おの)が姻家に田中傳之丞といへる者の子に市太郎といへる男子、その時十二歳の記年(とし)なるが、髖(しりぶた)に疱癤(ねぶと)を出していたく惱み、食も絶ゆるばかりにありしが、旬日(とうか)餘にして其疱髖の壞れ口より白き蚘(むし)二條(ふたつ)出でたり。一隻(ぴき)は長さ三寸ばかり一隻は二寸五分ばかりも有けるが、出て間もなく死せりとなり。又、この兒從來病身にて時々虫を吐出すことありけるが、一日長さ八寸ばかりの蚘一隻吐出せり。眼口なければ首尾は分らねども、五寸ばかりより先は二岐(ふたまた)に分れていと健(たけ)るものなるが、己この時九歳にてあれば好き弄物(もちもの)と思ひ、細き柴もてあちこちと觸(さは)りて見るに、勵(はげ)しく紆曲蠖(くねりまがり)て宛爾(さながら)憤(いか)れる形のごとし。身の色は淡褐(うすちや)と覺えしなり。さてこの親傳之丞は、こを希らしきものとして乾かしてありけるが、その后(のち)いかなりしか知らざるなり。

 又、己が知遇(しれる)外崎某の語りけるは、往ぬる安政二卯の年の三月、女兒(むすめ)なる者腹いたむといふこと四五囘(たび)言けるに、ある日一隻の蚘故なく下れり。その蚘長三寸ばかりにして太き針ほどなるが、尾頭ともに岐(ひだ)ありて肚の兩邊に小さき足すきもなく連り、色薄茶なるものなるがいと猛々しく、僅に觸(さは)るに蟺蜿盤縮(くるひまはり)て蛇の怒れる貌ありしが、日あたりに放ちたるに忽ち死せり。希らしき蚘もあるものなりと語りき。

 又、紺屋町新割に三上某といへる人の妻、享年(とし)三十四五の頃より病身になりて、平素(つね)に腹をあつかひけるが、時々(をりをり)呃逆(からえつき)して蛔蟲を嘔(は)くことありき。ある日己が家に來り何か用を調ひて居たるうち、蟲がつかふといふて椽先に立出けるが、吐嗟(あつ)といふ聲と倶に一塊(かたまり)の蛔蟲を吐出せり。その蚘地に墮ると否(いな)や解開(ほごれ)て、其數大小とも凡十六七疋とも覺しが、其邊(あたり)蠢蜿(うごめき)ありきし中に、一隻螻蛄(けらむし)の形して大さ一寸あまりなるが、遍身(みうち)の色淡茶褐(うすちや)にして四足を具へたり。いと猛(たけ)々しくして他(ほか)の蟲は悉(みな)死せる中に、ひとりこの蚘死もやらで一時ばかりも蠢(うごめき)てありしが、家僕(しもべ)なるものいと希代の物とて、洗足盥(あしたらひ)に微溫(なまぬるき)湯を汲みて其中に入れたるに、復烈しく跋歩行(はひあるき)しが、僕(しもべ)再(また)これに冷水を濺(そゝ)ぐに、漸(よふ)々弱りて遂に死せり。是よりこの人日々塊蟲を吐出せしよしなるが、一年の後身罷(まか)りぬ。蚘の數は萬を以て算ふべしと、この夫なる人語りしとなり。これも文政の年間にて己れ十二三歳の時なりき。

 又、五山の中なるよしなるが、何れの寺の住職にや、固(じ)病の溜飮にて平生(つね)に宿水(みづ)を嘔(はき)たりしに、冉(ぜん)々重(おも)り後には蛄蟖(けらむし)の如き毛の生えたる蚘の、長さ一寸餘りなるもの五七隻又は十隻あまり宿水(みづ)に交りて吐れしかど、遂に差(い)えずして身まかりしとなり。蛔蟲(はらのむし)毛の生えるはなき事とて、看病の人の病人を慰めんとて醫師と謀りて設けたることゝいふ人もありき。然るや否はしらざれども、奇病においては毛のある蚘なしともいふべからず。胎(たい)中を養ふところ萬般(いろいろ)なるべし。

 又、藩中工藤某甲といひし人、晩年に至りて何となく胸𣎅(むね)を惱みけるが、日數經るに隨ひ漸々に強く、後には胸の骨を嚙(かま)るゝが如くに覺えて、其齩(か)める音胎外(そと)へ聞ゆるまてにて、切苦(くる)しきこといふべくもあらず。配劑(くすり)もさらに功をなさゞりき。さるに一日(あるひ)嘔吐の氣味ありとて、喝(かつ)といふ宿水(みづ)を嘔出せるが、其中に一寸餘にして蟬にひとしき六疋の蛔蟲あり。この蚘また烈しく2(はねまはり)しが小半時にして死せり[やぶちゃん字注:「1」=「虫」+「發」。「2」=「虫」+「攴」。]。さるに是より胸の痛み忽ちに癒えてもとに復りたるに、世に希らしき蟲なればとて、厚き紙の袋に内(い)れて陰乾になし、時々(をりをり)人に見せてその怪しきを語りける。爾して後、三十日あまりも過ぎこの蚘を見たしと乞へる人あれば、その袋を披くに封は其まゝにありながら、蚘は何地(いづち)へ出けん脚の一つもあらざればいと怪しく思ひしかど、元來豪毅の人なる故心にも係(か)けず打捨てたるが、五六日を經て復胸の痛むことはじめの如くにして晝夜苦しみ、萬般(いろいろ)方藥(くすり)も傚(しるし)なく施すべき術盡きて、遂に之が爲めにみまかれり。いかなる怪しき蚘にやありけん、封はもとの儘なるに破れもあらで失せぬるは、復この人の胸に入りしにや人々不審(いびか)りあへりしと。こは前件(くだり)なる三上氏が妻の吐たる蚘によく似たり。實に希代の物といふべし。

 

[やぶちゃん注:標題「怪蚘」は「クヱユウ(ケユウ)」(呉音)或いは「クワイカイ(カイカイ)」(漢音)と音読み出来る。但し、本邦では必ずしも同音群で読まれている訳ではないので「クヱカイ」「クワイユウ」でないとは言えず、私などは一見、真っ先には「かいゆう」と読んだ但し、最初の本文を読んだ途端、『この「蚘」は「蛔」だな』と合点し、『或いは、この題名は「怪」しい「蛔蟲」で「かいかい」か?』と思うたことを最初に述べておく。既にお分かりと思うが、以下の注でも述べる通り、この――「怪」しい「蚘」――とは所謂――「腹の蟲」――その代表例は「カイチュウ(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides )であり、それは「蛔蟲」と書き、「蛔」は実に「蚘」の字の異体字だからである。但し、音読みに拘らぬとならば、本文内でも「蚘」を「むし」と訓じているから「あやしきむし」でも構わぬが、どうもそう読んでいるつもりは西尾にはない気がする。

「文政」一八一八年~一八三〇年。

「髖(しりぶた)」この漢語は「尾骶(びてい)骨」を指す。但し、「しりぶた」は「尻蓋」で、私は肛門或いは肛門のごく直近の臀部表面を指しているように思われてならない。以下の「」の注を参照のこと。

「疱癤(ねぶと)」「根太」。背中・大腿部・臀部などにできる腫れ物を指すが、一般には黄色ブドウ球菌の感染による毛包炎の大きくなったもので、膿(う)んで痛むものを指すことが多い。但し、近代以前は、それ以外のアテローム(脂肪瘤)や性感染症によるリンパの腫脹などの広汎な腫れ物に対してもこの語を用いる傾向が私はあったように思っている。

「旬日(とうか)」実際、「旬」は十日間を指す時期単位である。

「疱髖」読みを振っていないから「ハウクワン(ホウカン)」と読むしかないか。尾骶骨の辺りにある腫れ物の謂い。ただ、どうも以下、その腫れ物の壊(く)えた部分、裂けた箇所から回虫が出たという描写から見て、これは所謂、疣(いぼ)痔或いは穴(あな)痔のような症状部分で、そこが穿孔して直腸と繋がってしまっていたことから、その「腫れ物」の中から回虫が出現したように見えただけではないかと思われる。

「三寸」九センチメートル。

「二寸五分」十センチ六ミリメートル。ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoidesは雌雄異体で、は全長十五から三十センチメートル、は二十センチメートルから三十五センチメートルと、の方が大きく、ここと後に出る大きさの違うものは雌雄である可能性があり、さらに言えば、ここの二匹は交尾を行っている最中に体外に出てしまった、彼らにとっては不運な可能性をも示唆しているともいえるかも知れぬ。

「時々虫を吐出すことありける」ここの「虫」の字体はママ。症状であるわけではない。ただ、江戸期の寄生虫の罹患率は極めて高く、多数の個体に寄生されていた者も多かったし、中にはこのように「逆虫(さかむし)」と称して、虫を嘔吐するケースさえ実際にあった。当時の寄生虫理解の一端を知ることが出来るものを一つ示すと、私が現在、電子化注を行っている津村淙庵の「譚海」(寛政七(一七九五)年自序)の「卷の十五」に、『大便の時、白き蟲うどんを延(のば)したるやうなる物、くだる事有。此蟲甚(はなはだ)ながきものなれば、氣短に引出すべからず、箸か竹などに卷付(まきつけ)て、しづかに卷付々々、くるくるとして引出し、内よりはいけみいだすやうにすれば出る也。必(かならず)氣をいらちて引切べからず、半時計(ばかり)にてやうやう出切る物也。この蟲出切(いできり)たらば、水にてよく洗(あらひ)て、黑燒にして貯置(ためおく)べし。せんきに用(もちゐ)て大妙藥也。此蟲せんきの蟲也。めつたにくだる事なし。ひよつとしてくだる人は、一生せんきの根をきり、二たびおこる事なし、長生のしるし也』という下りがある(ここに出るそれは形状から引き出し方から明らかに謂うところの「真田虫」(後掲)である)。これによるならば、「疝気」には寄生虫病が含まれることになる。但し、これは「疝痛」と呼称される下腹部の疼痛の主因として、それを冤罪で特定したものであって、寄生虫病が疝痛の症状であるわけではない。

「八寸」二十五センチ七ミリメートル。長さとしては完全にヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides個体である。

「五寸ばかりより先は二岐(ふたまた)に分れて」後者の巨大一方の先端部分は先の十五センチばかりの箇所で二股に分岐しており。ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoidesにはこのような形状部はない。人によっては頭が裂けてるんだったら、裂頭条虫(所謂、サナダムシ類)っていうのがいるじゃん、とか言ったりする方があるかも知れぬが、あの扁形動物門条虫綱真性条虫亜綱擬葉目裂頭条虫科裂頭条虫属 Diphyllobothrium の頭部は、拡大すると、頭部の尖端が裂けたように見える(但し、私には例えば、代表的なヒトに感染する裂頭条虫科スピロメトラ属マンソンレットウジョウチュウ(マンソン裂頭条虫)Spirometra erinaceieuropaei なんぞの頭部は、おぞましい河童の頭のそのもののような感じに見える私の電子テクスト注生物學講話 丘淺次郎 一 吸著の必要~(3)の図を参照されたい)からああいう名前がついているだけで、こんな二股には分れてなんぞはいないと言っておく。さて、では、この生物は何者か? と言えば、私はヒトの体内寄生虫にはこのようなものはいない、これは市太郎が体内から吐いたり、肛門から出てきた生物ではないと考える。以下でこの生物の「身の色は淡褐(うすちや)」とし、少年の西尾は、何と、それを「弄物(もちもの)」、弄ぶ対象として、柴枝で突っついて、いたぶって遊んだ、とするところからは、私はこれは市太郎とは無関係なもので(或いは少年の西尾を脅そうと、市太郎或いはその親が嘘をついた)、私は色と形状から、まず、これは扁形動物門渦虫(ウズムシ)綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル)亜目 Terricola 或いは同亜目のコウガイビル科コウガイビル属 Bipaliumに属するコウガイビル類である可能性が高いと考える。ウィキの「コウガイビルによれば、『コウガイビルは、陸上の湿ったところに生息する紐状の動物で、頭部は半月形である。「コウガイ」は、昔の女性の髪飾りである笄(こうがい)に頭部の形を見立てたものである。環形動物のヒルに比べて筋肉や神経系の発達が劣るため、運動はゆっくりとしており、ゆるゆると這うだけである。種数は日本に数種以上が生息しているとされるが、詳細は不明である。扁形動物門渦虫綱に属するものは、ヒラムシ、ウズムシ(プラナリア)など、ほとんどが海産または淡水産であり、陸上生活のものはこの仲間以外にはほとんどない』。『コウガイビルは雌雄同体とされ、体の大きさは長さが』十~三十センチメートル、場合によっては位一メートルを『越えるのに対し、幅は大きくても』一センチメートルを越えることはない。厚みも数ミリメートルで、『平たく細長い体をしている。体の端部のうち扇形に広がっている方が頭部で、頭部には肉眼で見えない眼点が多数存在する』。私は山でしばしば、このコウガイビル類の巨大な個体に遭遇したが、それらの多くはまさに「淡褐(うすちや)」薄茶色であった。なお、体色が白かったなら、私は回虫の♂♀二匹の交尾状態のものを候補と挙げたであろうが、回虫は決してこんな色はしていない

「いと健(たけ)る」非常に活発に動いている。

「己この時九歳にてあれば」平尾魯僊の生年は文化五(一八〇八)年であるから、この事例は実は文政ではなく、その前の文化一三(一八一六)年のこととなる。実証主義に平尾が自分のことを、かく誤って書くのは実に珍しいことである。

「安政二卯の年」安政二年は正しく乙卯(きのとう)でグレゴリオ暦では一八五五年。

「言けるに」「いひけるに」。

「故なく」何の前触れもなく、突如、の謂いか。

「尾頭ともに岐(ひだ)ありて肚の兩邊に小さき足すきもなく連り、色薄茶なるものなるがいと猛々しく、僅に觸(さは)るに蟺蜿盤縮(くるひまはり)て蛇の怒れる貌ありしが、日あたりに放ちたるに忽ち死せり」これは色と形状(体節と思しいもの、その周囲に極めて多数の脚を持っている点)からみて、ヒトの内臓寄生虫ではない。恐らくは、少女の糞便の中に多足類(節足動物門多足亜門 Myriapoda)の土中に棲息するヤスデ様の虫類(ヤスデ上綱倍脚(ヤスデ)綱 Diplopoda)が排泄後に潜り込んだのを、誤認したものであろう。腐植食性の彼らは強い直射日光に曝されれば、自己防衛のために身体を丸めて動かなくなるので、それを死んだとやはり誤認したものと考えるとすこぶる腑に落ちる。

「希らしき」「めづらしき」。

「紺屋町新割」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「新割町(弘前市)によれば、明治三(一八七〇)年の地図に同町の東部に紺屋町新割町とある、と載る。

「己が家」筆者西尾の屋敷。

「蟲がつかふといふて」「虫が咽喉へ痞(つか)えますで。」と訴えて。

「椽先」「緣先(ゑんさき)」。

「吐嗟(あつ)」感動詞。「吐嗟」は一派にはこれで「あはや(あわや)」と訓じ、何か事が起きんとする際に驚き危ぶんで発する声を指す。

「蛔蟲」遂にこの語がここで出る。狭義にはこれは、

線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫(カイチュウ)目回虫(カイチュウ)科回虫亜科カイチュウ属ヒトカイチュウ(ヒト回虫)Ascaris lumbricoides

の和名である。但し、当時は、形状の似た、しかし有意に小さな

旋尾線虫亜綱蟯虫(ギョウチュウ)目蟯虫(ギョウチュウ)上科蟯虫(ギョウチュウ)科Enterobius 属ヒトギョウチュウ(ヒト蟯虫)Enterobius vermicularis

も同一視していたと考えてよいから、以上も挙げておく。因みに蟯虫はが二~五ミリメートル程、の場合は八~十三ミリメートルである。

「解開(ほごれ)て」二字へのルビ。

「螻蛄(けらむし)」昆虫綱直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科ケラ科 Gryllotalpa 属ケラ Gryllotalpa orientalis

「一寸」三センチメートル。

「遍身(みうち)の色淡茶褐(うすちや)にして四足を具へたり。いと猛(たけ)々しくして他(ほか)の蟲は悉(みな)死せる中に、ひとりこの蚘死もやらで一時ばかりも蠢(うごめき)てありし」これも先の少女の糞便の虫と同じく、庭先に吐きだした回虫の塊りに、庭にいた肉食性昆虫が臭いを嗅ぎつけて近づいたものであろう。「四足」とあるが、単に脚があることを言っているだけであろうから、昆虫と考えて差支えない。彼がヒトの内臓性寄生虫ではなく、普通の戸外に入る気管呼吸をする外骨格の昆虫に過ぎないことは、以下で西尾の家の下男が「いと希代の物とて、洗足盥(あしたらひ)に微溫(なまぬるき)湯を汲みて其中に入れたるに、復烈しく跋歩行(はひあるき)しが、僕(しもべ)再(また)これに冷水を濺(そゝ)ぐに、漸(よふ)々弱りて遂に死せり」という様態から見ても明らかであると私は思う。

「算ふべし」「かぞふべし」。

「夫」「をつと」。

「これも文政の年間にて己れ十二三歳の時なりき」先に示した平尾の生年から、満十一、十二歳は文政二(一八一九)年か翌三年となるので、ここの「文政の年間」は正しい。

「五山」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『寛永年間に津軽藩では京・鎌倉の寺院五山の制にならって、領内に真言宗の代表的な寺院五山を定めた。岩木山百沢寺・金剛山最勝院・愛宕山橋雲寺・護国山久渡寺・古懸山国上寺で』、みな、『上下の尊崇をあつめた』とある。なお、この内の岩木山百沢寺は廃寺となって現存しない。

「固(じ)病」「痔病」。

「溜飮」「りういん(りゅういん)」。一般には痔とは無関係に、胃の消化作用が不十分なために、胸焼けがしたり、口に酸っぱい液が上ってきたりする症状を指す。

「冉(ぜん)々」次第に進んでいくさま。徐々に侵し広がるさま。

「蛄蟖(けらむし)」先の「螻蛄」に同じ。

「毛の生えたる蚘の、長さ一寸餘りなるもの五七隻又は十隻あまり宿水(みづ)に交りて吐れしかど」同前。これはまさに庭土に胃液を吐き出したのを医師か看護人が庭に捨てたところが、その下の土中にいた正真正銘のケラが苦しくなって這い出てきたものか。或いは、後に西尾が附言しているように、「蛔蟲(はらのむし)毛の生えるはなき事とて、看病の人の病人を慰めんとて醫師と謀りて設けたることゝいふ人もありき」というのも、案外、当たっているかも知れぬ。しかし、これ、「慰め」ることには私はならんと思うが、ね。

「差(い)えず」漢語としての「差」には「病が癒える」の意がある。

「奇病においては毛のある蚘なしともいふべからず」いや、少なくとも本邦のヒトへの体内寄生虫(体表面への寄生をするダニやノミ・シラミ類は除く)には、実寸実体の視認観察で毛のある寄生虫はいないと私は思う。

「胎(たい)中を養ふところ萬般(いろいろ)なるべし」意味不明。「胎中に養ふところ(の蚘は人の知を越えて)萬般(いろいろ)なるべし」の謂いでとっておく。

「某甲」既出。二字で「なにがし」と訓ずる。

「胸𣎅(むね)」二字へのルビ。「𣎅」は胸骨の意。

「後には胸の骨を嚙(かま)るゝが如くに覺えて、其齩(か)める音胎外(そと)へ聞ゆるまてにて、切苦(くる)しきこといふべくもあらず」「胎外(そと)」は二字へのルビ。「まて」はママ。この工藤なる藩士は恐らく進行した労咳(結核)であったのであろう。この胸から聴こえる音と言うのは所謂、「ラッセル音」肺の聴診で聞かれる異常呼吸音(副雑音)のことであろう(「ラッセル」とはドイツ語で“Rasselgeräusch”(ラッセルゲロイシュ:「ガラガラ・カタカタといった雑音」の意)に由来する)。

「喝(かつ)といふ宿水(みづ)を嘔出せるが」底本では「いふ」の右には編者のママ注記が附されてある。確かにここは「喝(かつ)と、宿水(みづ)を嘔出せるが」で腑に落ちるところである。

「蟬にひとしき六疋の蛔蟲あり。この蚘また烈しく2(はねまはり)しが小半時にして死せり」(「1」=「虫」+「發」/「2」=「虫」+「攴」)肉眼での実体視で、蟬の形にそっくりなヒトの体内寄生虫、気管支・肺への寄生虫は、いない。肺吸虫は楕円形をしており、成体が大型になる本邦に棲息する、

扁形動物門吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウチュウ Paragonimus westermaniiの三倍体

ならば視認は可能(最大長十六ミリメートル)であるが、果たしてそれらを「蟬にひとしき」と言い得るかどうかはすこぶる怪しい(私は実物を見たことはないので全否定は避ける。だが、後で陰干しした上で封をしておいたそれがいなくなり、その中には「脚の一つ」もなかったとあるのは、これが蟬のように脚(恐らく三対六脚)を持っていたことを意味している。されば、これも吐物に集った庭の昆虫類と考えるのが自然である)。しかも肺吸虫を喀血などと一緒に吐き出すことがあるかどうかも私には疑わしいことである。但し、顕微鏡で観察するなら、その紡錘形の形状は蟬に全く似ていないとは言えない、とは言っておこう。しかし肉眼で見る限りでは、ただの粒でしかないし、ここにある「一寸」(三センチ)は、いくらなんでも巨大過ぎる。なお、これが肺ではなく、肝臓寄生の吸虫ならば、巨大な種は存在する。名にし負う、

二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属キョダイカンテツ(巨大肝蛭)Fasciola gigantica

である(体長は二・五~七センチメートル、体幅は五ミリから一センチ二ミリに達する)。しかし、本種も肝臓内に寄生し続けるものであって、迷走する可能性は少なく、それを吐き出すなどということは通常、考えられないと私は思う。

「故」「ゆえ」。

「復」「また」。後のも同じ。]

諸國百物語卷之四 二 叡山の源信ぢごくを見て歸られし事

    二 叡山の源信ぢごくを見て歸られし事

 

 一條のゐんのとき、ひゑい山に源信とて、たつときちしき、ましましける。あるとき、みやこへ下山せられしみちにて、にわかに雨ふりけるに、あとより、うつくしき女、はしりきたりて、かの源信にちかづき、さめざめとなきける。源信、しさいをとひ給へば、かのをんな、云ふやう、

「われは羅刹女(らせつによ)と申す、鬼のゆかりにて候ふが、男にはをんなのすがたをなし、女には男のすがたをなして、『人をたぶらかしきたれ』とをしへて、鬼のゑじきとす。『もし、人をもとめゑぬときは、それがしをふくせん』といふ。けふは、人をゑず、さだめてわがいのちを、うしなわるべし。ねがはくは御僧の法力をもつて、じやうぶついたしたく候ふ。たのみ奉る也。わがいふ事、まことしからずおぼしめさば、あとよりきたりてみ給へ」

とて、さきたちてゆくを、源信もしたいゆきて見給へば、とある山ぎはにゆきかゝれば、すでに日くれぬ。なを、山ふかくしたいゆけば、門あり。かの女、門をたゝけば、うちより、おそろしき鬼のこゑにて、門をひらき、かの女のゑ物なき事をいかり、かずの鬼どもあつまり、口より、くわゑんをはきいだし、かの女の手あしをぬき、ひきさき、くらふ有さま、なかなか、おそろしきしだい也。源信、ふびんにおぼしめし、山にかへり、經をよみ、ねんごろにくやうし給へば、源信、その夜のゆめに、かの女、しうんにのりきたりて、よろこばしきがんしよくにて、源信にむかつていひけるは、

「われ師の法力によつて、天上にむまれ、じやうぶつせり」

とて、三度らいはいして、西をさして歸りけると也。

 

[やぶちゃん注:「一條のゐんのとき」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の治世(寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)の意。

「源信」(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)は天台僧。以下、ウィキの「源信(僧侶)に基づく。恵心僧都(えしんそうず)と尊称される。大和国北葛城(かつらぎ)郡当麻(たいま:現在の奈良県葛城市当麻)生まれ。父は卜部(うらべ)正親。七歳(以下、数え)で父と死別し、天暦四(九五〇)年、信仰心の篤い母の影響によって九歳で比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称・元三(がんざん)大師)に入門、天暦九(九五五)年、十四で得度した。翌年、僅か十五にして「称讃浄土経」を講じて、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれている。この時、源信は下賜された布帛(ふはく:高級な織物)などの褒美の品を『故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて』、『その品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選』んだのであった。この時の母の諫言の和歌とされるのが、

 

 後の世を渡す橋とぞ思ひしに世渡る僧となるぞ悲しき

 

である。永観二(九八四)年末に師であった良源が病に冒されると、これを機にかの名作「往生要集」の撰述に入った(永観三(九八五)年一月三日に良源は示寂した)。寛和元(九八五)年三月、「往生要集」を脱稿している。寛弘元(一〇〇四)年には天皇の外戚として権勢を誇っていた藤原道長が帰依し、権少僧都となったが、翌年には母の諫言の通り、その位を辞退している。『臨終にあたって』は『阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅した』とされる。源信は浄土教の濫觴とされる人物であると同時に、「往生要集」(私の偏愛する仏教書の一つである。偏愛する理由は無論、その地獄描写の飽くことなき細密描写とそこから私の内に生ずる猟奇趣味故にである)によって本邦に於ける地獄思想の定着を決定づけた人物でもある。源信はまさにそうした意味で本篇で主人公となるに相応しい人物なのである。

「たつときちしき」「尊き智識」。「智識」は仏道に教え導いてくれる優れた指導者。導師。善知識。

「羅刹女(らせつによ)」ウィキの「羅刹天」より引く。『仏教の天部の一つ十二天に属する西南の護法善神。羅刹(らせつ)とも言う』。『羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳される。また羅刹天は別名涅哩底王(Nirrti-rajaの音写、ラージャは王で、ねいりちおう、にりちおう)ともいわれる。破壊と滅亡を司る神。また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもある。四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕える』。『ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサが仏教に取り入れられたものである。 その起源は夜叉同様、アーリア人のインド侵入以前からの木石水界の精霊と思われ、ヴェーダ神話では財宝の神クヴェーラ(毘沙門天)をその王として、南方の島、ランカー島(現在のスリランカ)を根城としていた。『ラーマーヤナ』ではクヴェーラの異母弟ラーヴァナが島の覇権を握り、ラークシャサを率いて神々に戦いを挑み、コーサラ国の王子ラーマに退治される伝説が語られている。概ねバラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多い』。『仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになる。十二天では「羅刹天」として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれる。図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれる。全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされる』。『中国以東では羅刹の魔物としての性格が強調され、地獄の獄卒と同一視されて恐れられることが多かった』。十世紀の『延暦寺の僧、源信著『往生要集』はその凄惨な地獄描写で有名だが、そこでも羅刹は亡者を責める地獄の怪物として描かれている』。『羅刹の男は醜く、羅刹の女は美しいとされ、男を羅刹娑・羅刹婆(ラクシャーサ、ラークシャサ、ラクシャス、ラクシャサ、ラクササ)、女を羅刹斯・羅刹私(ラークシャシー)・羅刹女(らせつにょ)という。また羅刹女といえば法華経の陀羅尼品に説かれる十羅刹女が知られるが、これとは別の十大羅刹女や八大羅刹女、十二大羅刹女として、それぞれ名称が挙げられており、さらに孔雀経では』七十二『の羅刹女の名前が列記されている』とある。

「ゆかり」「所縁」。一族。

「『人をたぶらかしきたれ』とをしへて」これは後に出る羅刹女を使役する鬼の「をしへ」(命令)と読む。

「ゑじき」「餌食」。

『もし、人をもとめゑぬときは、それがしをふくせん』「若し、人を求め得(え)ぬ時は、某(それがし=汝(なんぢ))を服せん」。「ゑぬ」の歴史的仮名遣は誤り。「服す」は「吞み込む」で「喰らう」の意。これもその鬼の頭目の、羅刹女に対する「脅(おど)し」の言葉である。

「じやうぶついたしたく候ふ」「成佛致し度く候ふ」。

「まことしからずおぼしめさば」「真實(まこと)然らず思し召さば」。本当の事でないようにお疑いなされるのであれば。凡夫の私如きは、「あとよりきたりてみ給へ」まで自体が総て偽りで、まんまと鬼の餌食とされるのではないか、と猜疑するであろう。されば、私は羅刹女を救う宿根を持たない哀れな衆生に過ぎぬのであった。

「したいゆきて」後について行き。

「ゑ物」「得物」「獲物」。孰れでもやはり歴史的仮名遣は誤りである。

「かずの鬼ども」「數の鬼ども」沢山の鬼ども。

「くわゑん」「火炎」。

「かの女の手あしをぬき、ひきさき、くらふ」「彼の女の手足を拔き、引き裂き、喰らふ」。

「有さま」「有樣(ありさま)」。

「しだい」「次第」。一連の凄惨な殺戮と血と肉の饗宴。謂わば、源信の「往生要集」の地獄篇での地獄についての実景検分がこの時に実際に行われたと筆者は謂いたいのであろう。しかしだったら、もっと地獄巡りをして貰いたかったというのが私の猟奇心の本音であると告白しておく。本話柄、余りにも簡潔に短過ぎ、読者への映像化の慫慂が成されていない嫌いがあるのである。

「ふびん」「不憫」。

「ねんごろにくやうし給へば」「懇ろに供養し給へば」。

「しうんにのりきたりて」「紫雲に乘り來たりて」。「紫雲」とは、念仏行者が臨終する際、その人のために仏が乗って来迎(らいごう) するとされる、吉兆とされる紫色の雲のこと。それに載って極楽浄土へと仏とともに向かうのである。羅刹女は「女」とあるが、実際には女ではないから直ちに極楽往生出来るのである(仏教では如何なる徳や修行を積んでも女性は男性に生まれ変わって初めて往生出来るという「変生男子(へんじょうなんし)」説というトンデモない差別思想があることを、お忘れなく)。

「よろこばしきがんしよくにて」「喜ばしき顏色にて」。

「むまれ」「生(む)まれ」。

「らいはい」「禮拜」。

「西」西方浄土。]

2016/10/21

谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す

 三 蛇章魚に化す

 

 文政二三年の頃にて有けん、鯵ケ澤の漁夫(れふし)ども一個(ひとつ)の章魚を捕へしに、その章魚の脚一條(すじ)は俗(よ)に白ナブサと言ふ蛇にして、しかも鱗文(うろこ)も全く倶はり、章魚の頭に附着(つけ)るところは蛇の頸の方にて、眼口は无(な)けれども餘(ほか)七條(ほん)の常の脚と長さもひとしく、三時ばかりの間(ほど)はこの蛇のあしのみ死もやらで動めきてありしとなりと。こは魚の荷を賣る岡田屋傳五郎と言へるものゝ語なりき。

 又、蛸の足の末五六寸或は四五寸ばかり疣のなきものまゝあり。こはもと蛇の化(な)りたるものなれば其脚は切棄べし。萬一喰(くら)ふ時は人を傷ふものなりと、鯵ケ澤の漁夫藤吉と言ふもの語りしとなり。物の變化する、夫れ測るべからず。

 

[やぶちゃん注:民間伝承では蛇が蛸になる化生(けしょう)説は根強くあり、例えば先に電子化した佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事でも述べられている。但し、今回、本条の第一段落の事例を読みながら、「これは、もしや? あれでは?」と思ったものが、第二段落の記載で確信となった。これは所謂、 軟体動物門頭足綱鞘形亜綱八腕形上目八腕(タコ)目 Octopoda のタコ類のに見られる、私が博物学的に大好きな、

交接腕=ヘクトコチルス(Hectocotylus

を誤認したものであるという確信である(私はこれについて何度も書いている。取り敢えず、例えば生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルスを見て戴きたい。

 のタコは交接腕という特化した触手を持ち、交尾の際にはその先端の吸盤のない溝の部分に精子の入った精莢(せいきょう)を挟み込んで、その腕をメスの生殖孔に突き刺すのである(この際、メスはかなり暴れるので相当な痛みがあるものと思われる)。その後、八腕(タコ)目マダコ亜目アミダコ科アミダコ Ocythoe tuberculate  や八腕(タコ)目アオイガイ科アオイガイ属アオイガイ(葵貝/カイダコ) Argonauta argo 及び同じアオイガイ属タコブネ Argonauta hians(別名・フネダコ)などの種では交尾を完全なものとするために、はその先端部を自切する。一八五九年、この交接腕の先端断片をアミダコの解剖中に発見したフランスの博物学者キュビエは、これをタコに寄生する寄生虫の一部と考え、ご丁寧に、

Hectocotylus Octopodis(ヘクトコチルス・オクトポイデス:百疣虫(ひゃくいぼむし))

と学名まで附けてしまった。なお、現在でも生物学では誤認ながらキュビエの交接腕断片の原発見の功績に敬意を表してタコの交接腕のことを「ヘクトコチルス」と呼称している。因みに、私の好きな萩原朔太郎の「死なない蛸」で知られるように、しばしば世間ではタコは自身の足を喰らうと信じられているが、もしかすると漁師たちは経験上、タコの腕の先端の一部が切れている個体があることを知っており(それはこのヘクトコチルスのそれよりもウツボなどの天敵襲われた際の自切現象によるものの方が目立つが)、そこから誤認して彼らが自然界で容易に自分で自分の足を食うと錯覚したのではないか私は考えている(水族館で見られるというタコの自身の足の自食行動(本当にそういう現象が多発しているとは私は実は信じておらず、これも朔太郎の詩辺りからの都市伝説の部類の話と考えている)は現在の知見では狭い水槽で飼育するために生じるストレスから生じた自傷行為と考えられている(軟体動物でもイカ・タコの類はナイーヴで、水族館でも飼育しづらい生物である)。

 この第一段落のそれも、第二段落のそれも、いずれも尖端部分に疣のない足が一本だけあるという異常性を蛇との変生にこじつけたに過ぎないものと私は考えているのである。

 

「文政二三年」一八一九、一八二〇年。

「白ナブサ」八 蛇塚で既出既注。私はそこで爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora の白化個体(アルビノ(albino))に同定した。

「三時ばかりの間(ほど)はこの蛇のあしのみ死もやらで動めきてありしとなり」「三時」は「みとき」で六時間。これはヘクトコチルスだけがぴちぴち跳ねるとするには、ちょっと長過ぎる感じがする。他の部位が完全に運動性能を失っているのに、そこだけというのは、ちょっと説明がつかない。されば、或いはこれは(時間の記録が事実ならば)、何等かの線虫様(よう)の蛸の寄生虫が死んだタコから出て来て、のたくっていたのを誤認したと言う別の可能性を考えてもよいかも知れぬ。

「魚の荷を賣る」魚問屋であろう。

「五六寸或は四五寸ばかり」十二から十五、大きくて、十八センチほど。

「疣」「いぼ」。

「切棄べし」「きりすつべし」。

「萬一喰(くら)ふ時は人を傷ふものなり」私の知っている複数の寿司職人らも、必ずカットして捨てると言っている。]

谷の響 二の卷 二 章魚猿を搦む

 二 章魚猿を搦む

 

 又この席に三浦某なる人ありて語りけるは、知某(しるひと)下舞(したまへ)村に住しとき、海の汀(ほとり)に十四五疋の猿の聚り居たるを見て、何ごとすらんと傍に寄りて見れば、大きなる鮹ありて一疋の猿の骹(すね)に脚を匝給(から)みて洋(うみ)へ曳入れんとする樣子なるに、邊傍(あたり)に居たる猿どもがこを曳かせずとて、搦まれたる猿に取つき力を添えてありけるが、この某を見るより四五匹の猿前に進み膝を折り掌を合せて伏したるに、可憐(ふびん)に思ひ刀を拔て章魚の脚を斬斷(きりはな)して猿を援けたれば、この猿は元より側(そば)に有つる猿どもが不殘(みな)掌(て)を合せて拜したること數囘(あまたゝび)にして、この某の歸るを見送れりしとぞ。さすがに人に近きものなりと語りしなり。又、東なる久栗坂の濱にも此と一般(ひとし)き話あり。こは二々(つぎつぎ)に載くべし。

 

[やぶちゃん注:「下舞(したまへ)村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『北津軽郡小泊村下前(したまへ)。津軽半島の西側に突き出た権現崎の南岸にある漁村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「猿」北限のサル、日本猿(哺乳綱サル目オナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata)というと、下北半島そればかりが有名だが北緯から言えば確かに北限はそっちだが、この津軽半島の一群のそれも、同じ北限のニホンザルの貴重なグループであり、しかも現在でも殆んど調査されいないそうである。川本論文北限のサル考を参照されたい。

「聚り居たる」「あつまりゐたる」。

「鮹」「たこ」。

「骹(すね)」「脛(すね)」。

「匝給(から)みて」二字へのルビ。

「曳入れんとする」「ひきいれんとする」

「こを曳かせずとて」この絡まれた仲間を引きずり込ませまいとして。

「この某」前に併せて「このひと」と訓じておく。

「久栗坂」同じく底本の森山の補註に『青森市久栗坂(くくりざか)。陸奥湾沿岸で浅虫温泉付近』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「こは二々(つぎつぎ)に載(か)くべし」とあるが、ここで挙げた久栗坂の浜での類話というのは後には載ないようである。前にも同じような空振りがあったが、或いは平尾は続編「谷の響」を企図していたのかも知れない。]

谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ

 谷のひゞき 二の卷

 

        弘府 平尾魯僊亮致著

 

 

 一 大章魚屍を攫ふ

 

 文化三四年の頃なるよし、西の海濱(はま)なる澤邊村の者、夜中一箇(ひとり)に騎(のり)眠りながら艫作(へなし)の海汀(はま)を通りしに、馬は脚を停(とゞ)めて嘹呻(うな)る音に目を覺して見やりたれば、いとすさまじく大きなる章魚の、馬の脚にからみてありけるに、卽便(そのまゝ)鎌もて章魚の脚を斬棄て脱退(にげの)きて、村の者共にかゝる事ありしと語りければ、そは偸間(なほざり)の事ならず放下(すて)かんには人をも取るべしとて、數々(しばしば)これを覬觀(うかゞ)へどもそれと見るべき物も見えず。

 爾るに五六日も過て、同國修業の六部のものこの艫作村にて病死したれば、こを葬るとて濱邊の小高き土(ところ)にて火葬に爲してありけるが、まだ片時(かたとき)もあらぬうち十四五丁の先の澳(おき)より、浪を卷いて岸に浮寄(よりくる)ものあれば、これぞかの大章魚ならんと暴卒(にはか)に闔邑(むらちゆう)に徇布(ふれ)て、其浪のあとへ舟を漕ぎ寄せ、大網を張て脱るべき路を絶塞(たちき)り、陸にはみなみな待設けしに、章魚は火を望て眞文字に濱邊に搖り上り、浪をせきて火葬の火を打消し、死人を搦(から)んで囘頭(ひきかへ)さんとするに、豫て期したる邑の者ども鉈鎌などの得ものをもて、萬段(ずたずた)に裁斷屠(きりはふ)りて殺したりき。左有(さる)に此章魚はいと大きなるものにて、頭は六尺にあまり脚の周(まはり)は五六尺もあるべし。長さは三間あまりなるが此(これ)が頭を解(ひらい)るに、人の髑髏(とくほね)五個・馬の髗一個・骸骨・臟腑・尾髮の類いと生々しく、未だ血に塗(まみ)れたる有狀(ありさま)にて目冷(めさま)きこと見るべくもあらず。かくて是等のものを搔あつめて俵に内(い)るゝに、五俵あまりもありければ頓(やが)て土中に埋め葬(をさ)め、且章魚の軀(むくろ)をもその傍に埋め、僧を請うて囘向(えかう)をなせり。土人(ところのひと)こを號(なつけ)て蛸塚といへるとなん。

 却説(さて)是より先、土(ところ)の老父の言ひけるは、世にかゝる大きなる章魚の復(また)と有まじければ、人にも見せ世にも知らすべしとありて、疣(いぼ)一個(ひとつ)截(きり)取りて鰺ケ澤の岡部文吉と言ひしものに贈りしが、こを櫃(ひつ)に盛るに椽(ふち)より餘りければ、見る者悉(みな)興を覺して奇異の思ひを爲せり。又、此疣を解(ひらい)て見るに、二三分ばかりの剃毛(すりけ)のごときもの多くありといへり。この時伊勢屋善藏と言へるもの、鯵ケ澤にありて親しく視たりしとて語りけり。

 又、これと一般(ひと)しき一話(はなし)ありき。さるは往ぬる安政四丁巳の年の四月、醫師(くすし)吉村氏の亭にて小野某の語りけるは、今年(ことし)より二十年ばかり先きにて有けん、越後國にていと巨(おほ)きなる章魚を捕得しことあり。そは、越後某(それの)村の海汀(はま)の山壇(やまて)に荼毘(だび)所ありけり。或時土(ところ)に身罷(みまかれ)るものありてこの地に昇て火葬を爲し、翌日(あくるひ)親屬の者ども遺骨を治(をさむ)るとて往きたりしに、一片(ひら)の骨だになく四邊は悉(みな)箒して掃(はら)へるがごとくなるに、いたく訝(いぶか)り怪しめど詮(せん)術(すべ)なければ只得(ぜひなく)歇止(やみ)ぬ。しかして又二十日あまりにして死人を火葬する事あるに、こも嚮(さき)の如く骨とおぼしきもの更に無し。土人(ところのひと)不審はれやらず、捨置くべきにあらざればとて闔村(むらじゆう)寄りて評議するに一老父の曰、章魚の年を經たるものは陸に上(あが)りて牛馬及び人をも捕噉(くら)ふと言ふ古き傳へもあれば、必ず夫等のなす業にやあらんとありしかば、實に實にさる事もあらめ卒(いざ)や試(ため)し見んとて、其日荼毘所に空(から)火を焚き、數十人の者ども山壇(て)に隱れて闚(うかゞ)ひしに、やがて申(むつ)上ともおぼしき頃、遙(はるか)の沖の面(おもて)より浪を疊んで來るものあり。稍(やゝ)間(ほと)近くなりてこれを見れば、果して巨大(おほき)なる章魚にぞありける。衆(みな)々さればこそとて示し合せて用意を爲(し)つるに、章魚は忽ち浪を卷いて陸に上り、火を打滅(け)して屍を捕らんとすれど一物も無ければ、頭を擎(さゝげ)て四面(あたり)を看眺(みわた)し暫時(しばし)して歸らんとするに、村の者ども速く其歸るべき路に稃(すりぬか)を一面に播散らして置きしかば、この稃章魚の疣に貼着(ひつつ)き苦しむうち、僉々(みなみな)起蒐(たちかゝ)りて散々に斬殺し、その肉をば殘らず噉ひ盡せりとなり。さて、この章魚の脚の圍(まはり)三尺八寸ありしと聞しかど、其他(よ)の尺度(しんしやく)は聞ざりしと語りけり。こは甚類(いとに)たる話説(はなし)なれど、寰宇(よのなか)には事の跡の等しきが多かれば、さして疑ふべきにあらずなむ。

 

[やぶちゃん注:標題「大章魚屍を攫ふ」は「大章魚(おほだこ)、屍(かばね)を攫(さら)ふ」と読む。以下、冒頭の大蛸が馬を襲うという奇譚は、襲った蛸が逆にその馬に陸に拉致されて乗馬状態で捕獲されるという、大爆笑実録譚が先に電子化した「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」としてある。未読の方はゼッタイ、お薦め! なお、流石に蛸が馬を襲うというのは近代以降には聴かぬが、「タコが陸に上がって芋を食う」というのを信じている方は、実は現在でもかなり多い。一読、信じられない話だが、蛸が夜、陸まで上がってきて、じゃが芋や薩摩芋、西瓜やトマトを盗み食いするという話を信じている人は、これ、結構いるのである。近いところでは、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。実際、全国各地で、事実、畠や田圃に蛸が入り込んでいるのを見た明言する人も複数いるのであるが、生態学的には海を遠く離れることは、まず不可能であろう。たとえば岩礁帯の潮上線を越えて岩場に潜む蟹(蛸の好物である)を危険を冒して捕捉しようとするのを見たり、漁獲された後や搬送中に逃げ出した蛸が(個体によるが、一センチ程度の隙間があればかなり巨大な蛸でもバケットなどから脱出することは可能である)、畠や路上で蠢いているのを誤認した可能性が高いと私は考えている。また、タコは雑食性で、なおかつ極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつくことは十分考えられ、その辺が、この話の正体ではないかと思われる。なお、水死体ならば、これはしばしば蛸の格好の餌食になる。これは東京湾で実際にそうした業務に携わっている方の著作で読んで成程と感心したのであるが、その具体的な様態はかなりエグい故に、ここでは割愛することとする。

「文化三四年」西暦一八〇六、一八〇七年。

「西の海濱(はま)なる澤邊村」底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『西津軽郡岩崎村沢辺(さわべ)。日本海に臨んだ部落』とある。現在は合併により西津軽郡深浦町沢辺となった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「艫作(へなし)」同じく森山氏の補註に『西津軽郡の岩崎村と深浦町の境に艫作(へなし)崎があり、小部落がある』とある。現在は合併と表記変更によって西津軽郡深浦町舮作(へなし)となっている。ここ(グーグル・マップ・データ)。近年、ブレイクした「黄金崎不老ふ死温泉」は深浦町大字舮作字下清滝で直近である(私は行ってみたく思ってはいるが、未だ行ったことはない)。

「嘹呻(うな)る」二字へのルビ。「嘹」(音「リョウ」)は「よく透る・よく響く」の意。

「偸間(なほざり)の事ならず」二字へのルビ。等閑(なおざり)。しかし、「偸」の字は不審で、これは「偸(ぬす)む」の意であい、敢えて言うなら、本字の持つ「ぬすむ」の意の中の「わずかの時間をやりくりして、何かをする」の意の、「わずか」を「いいかげん」の意に転じたものか。「おろそかにしておいてよいような事件ではない。」。

「放下(すて)かんには人をも取るべし」「そのまま何の対処せずに捨ておいたら、その蛸は人をも襲うに違いない。」。

「覬觀(うかゞ)へども」二字へのルビ。「覬」(音「キ」)は「窺う・望む」の意。

「六部」六十六部の略。法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者、回国聖。室町時代に始まるとされるが、江戸時代には多くが零落し、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らしては米銭を請い歩いた、一種の僧形(そうぎょう)のホカイビト(乞食)ともなった。

「片時(かたとき)」一時(いっとき)の半分の「半時」と同じい。約一時間であるが、ここは、「ほんのわずかな時間」の意でとってよかろう。

「十四五丁」一キロ五百から六百メートルほど。

「澳(おき)」「沖」。

「闔邑(むらちゆう)」二字へのルビ。「闔」(音「コウ」)は「総て」の意。「邑」(音「ユウ」)は言わずもがな、「むら」(村)の意。

「徇布(ふれ)て」二字へのルビ。「徇」(音「ジュン・シュン)は「遍(あまね)く・唱える」の意。

「其浪のあと」その波しぶきの後。こっそりと蛸の泳ぐ後ろに舟を迂回させたのである。「大網を張て脱るべき路を絶塞(たちき)り」とあるから、最低でも左右に二艘である。

「待設けしに」「まちまうけしに」。待ち受けていたところが。

「望て」「のぞみて」。指して。

「浪をせきて」「波を堰きて」。腕足を以って海波を堰き、それを有意に浜辺から離れた、しかも小高い丘の上の「火葬の火」に、「ザッ! バァッツ!」と押し投げかけ、一瞬にして、それ「を打消(うちけ)」してしまったというのである。その巨大さが判ろうというものだ。

「豫て期したる」「かねてきしたる」。事前に準備万端整えていた。

「鉈鎌」「なた・かま」。

「得もの」「得物」。「武器