谷の響 二の卷 十六 怪蟲
十六 怪蟲
文政年間、千葉某といへる人嶽の温泉に浴(ゆあみ)したる時、同僚(どうやく)の人二三人に促されて筍子(たけのこ)を摘(と)るにとて山に上り、篠叢(さゝむら)の繁みに入りて探れるうち、何やらん※響(ものおと)して竹の葉の搖れ亘(わた)れるに、如何なるものや出來んと倶に足をふみしめ見やりたるに、長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺もあるべき形狀(かたち)芋蠋(いもむし)の如く太く短きものにして、背に金色の鱗を累(かさ)ね頭は小兒の翫ぶ獅子といふに似て、眼口大きく髮を被りていと怕きものなるが、蝹蟉(するする)出來るにすは擊殺せと立蒐(かゝ)らんとするに、一人堅く制する人有りしが、手を下さで見てあればこのもの驚き惶るゝ氣象(けしき)なく、徐(しつか)に路を橫ぎりて傍なる叢箴(やぶ)に入りけるなり。龍にあらず蛇にあらず、いまだ諸史にも見へざる蟲にていといと奇代のものなりと、この千葉氏は語られき。南溪が西遊記に榎の蚺蛇(うはばみ)といふを載せてその形太く短きものといへり。もしくはかゝる物に有ざるか。[やぶちゃん字注:「※」=「月」+「羊」。]
安政四丁巳の年の四月、御藏町の寅次郎といへる者、龍の子とて持來るを見るに長さは三尺許り、環周(まはり)は六寸もあらんか。手足なくして全體千朶(たん)卷といふ鞘に等しく、割片(きざめ)相つらなり硬くして甲の如く、廣さ二分餘厚さ一分も有るべし。體中悉(みな)空虛(うつろ)にして骨なく肉なく、髗骨(あたま)決壞(くだけ)て眼口の痕(あと)見得ず。背と肚(はら)との差(けじめ)も分明(あきらか)ならざれど、首根(もと)二片(ひら)中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處あるを見れば、この方は背なるべし。又中半の六七片は磨(すれ)て割目(きざめ)あざやかならぬは肛と見ゆるなり。尾の端六七寸兩岐(ふたまた)となりたるが、こも中空虛(うつろ)にして擘斷(ちぎれ)たる狀(さま)にて裂けたり。色は淡灰黑(うはべづみ)色に赤身を帶(ふく)めり。未だ好くも乾かぬものなれば腥くして、水に入るれば脂膏(あぶら)浮(あが)れり。この異蟲(むし)一月の下旬(すゑ)の出水にながれ來つるがして、三ツ目内の河の岩に係りてありけるを、石川村の者見當り世に希らしきものなりとて、携へ歸りて土(ところ)のもの老夫と倶に見すれども、更に知るものなくたゞ龍の尾なるべしといへりとぞ。さるに、日を經てこの寅次郎といふものこを酒に換へたりとて己が裡に持來り、これが名を求むれども、己從來(もとより)史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬからかゝる怪しきものは見も及ばねば、そのよしいふて歸したり。如何なる異物(もの)にかあらん、希らしかりしなり。
[やぶちゃん注:「怪蟲」「かいちう」と読んでおく。
「文政年間」一八一八年~一八三〇年。
「嶽の温泉」前条に出た。現在の青森県弘前市の岩木山鳥海山の南西の麓にある嶽(だけ)温泉。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「長さ二尺ばかり匝(まはり)は一尺」全長六十一センチメートル弱、胴回り約三十センチメートル。
「怕き」「こはき」。
「蝹蟉(するする)」二字へのルビ。オノマトペイア(擬音・擬態ともに)。
「出來るに」「いでくるに」。
「すは」「それ!」。感動詞。他の者の注意を促す発語。
「擊殺せ」「うちころせ」。
「立蒐(かゝ)らんとするに」「たちかからん」。よってたかって打ちのめそうとしたところが。
「一人堅く制する人有りしが」「有れば」とすべきところ。
「手を下さで」「てをくださで」。
「見てあれば」傍観していたところ。
「惶るゝ」「おそるる」。
「徐(しつか)に」読みはママ。
「叢箴(やぶ)」二字へのルビ。「箴」は「針」で不審。何か「竹」や「藪」の意の(たけかんむり)の漢字の誤記ではないか?
「南溪が西遊記に榎の蚺蛇(うはばみ)」江戸後期の医師橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)が寛政七(一七九五)年に板行した紀行「西遊記」の「正編卷一」に「榎木の大蛇」の一章がある。以下に引く(岩波新日本古典文学大系版を参考に漢字を正字化して示した)。
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榎木ノ大蛇
肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)壱岐守殿御城下、五日町(いつかまち)といへる所に、知足軒といふ小庵あり。其庵の裏はすなはち求麻川なり。其川端に大(おほき)なる榎木あり。地より上三四間程の所二またに成りたるに、其またの間うつろに成りゐて、其中に年久敷(ひさしく)大蛇すめり。時〻此榎木のまたに出(いづ)るを、城下の人〻は多く見及べり。顏を見合すれば病む事ありて、此木の下を通るものは頭をたれて通る、常の事なり。ふとさ弐三尺まはりにて、惣身色白く、長サは纔(わづか)に三尺餘なり。たとへば犬の足なきがごとく、又、芋蟲によく似たりといふ。所の者、是を壱寸坊蛇(いつすんばうへび)と云(いふ)。昔より人を害する事はなしと也。予も每度其榎木の下にいたりうかゞひ見しかど、折あしくてやついに見ざりき。
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●「肥後國求麻郡(くまごほり)相良(さがら)」は現在の大分県人吉市。●「求麻川」球磨川。●「三四間」五メートル四十五センチから七メートル二十七センチほど。●「弐三尺」六十一センチ弱から九十一センチ弱。
「その形太く短きものといへり」これって、「つちのこ」じゃ、ね? ウィキの「ツチノコ」によれば、同形或いはそれらしいものは、かなり古くからの(後掲するように一説に記紀の頃からの)未確認動物の一つとし知られている。『鎚に似た形態の、胴が太いヘビと形容される。北海道と南西諸島を除く日本全国で“目撃例”があるとされる』。その形状は『普通のヘビと比べて、胴の中央部が膨れている』ことを最大の特徴とし、二『メートルほどのジャンプ力を持』とか、いや、高さ五メートルだとか、いやいや前方へ一気に二メートル以上飛ぶとか、二メートルどころじゃない、十メートルだなどとも言われ、『日本酒が好き』・『「チー」などと鳴き声をあげる』・『非常に素早い』・『尺取虫のように体を屈伸させて進む』・『尾をくわえて体を輪にして転がるなどの手段で移動する』・鼾(いびき)をかく・『味噌、スルメ、頭髪を焼く臭い』を好む、などと言われ、また『猛毒を持っているとされることもある』(但し、私は「つちのこ」に咬まれて死んだとする実例を知らない)。『ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた日本語の方言だった。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約』四十『種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある。』『縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている』。奈良時代の「古事記」「日本書紀には『カヤノヒメ神の別名であり野の神、主と書かれてある』。『江戸時代に出版された百科事典』寺島良安の「和漢三才図会」に『「野槌蛇」の名称でツチノコの解説がある』私の電子テクスト注「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「のつちへび 野槌蛇」の項を是非、参照されたい)。東北地方では『十和田湖付近の山中で、体長約』三十『センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている』。二〇〇七年四月には『山形県最上郡大蔵村の牧場の干草の中から、ツチノコ状のヘビの死骸が発見された。この死骸は写真が撮影され、ツチノコ写真の中でも信憑性が高いとの声もあるが、日本国内のヘビ研究の権威である日本蛇族学術研究所は、干草がオーストラリア産であったことから、この死骸はオーストラリアの毒ヘビであるデスアダー』(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目コブラ科デスアダー属コモンデスアダー Acanthophis antarcticus)『だった可能性を示唆している』。北陸地方では江戸の文化年間頃の随筆「北国奇談巡杖記」に『ツチノコのものとされる話が以下のようにある。石川県金沢市の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、雷のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという。同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集』「聖域怪談録」『にも記述がある』。『新潟県糸魚川市能生地区の山中でツチノコが目撃された』『同地区では「つちのこ探検隊」が結成され』二〇〇六年『以降から毎年ツチノコの捜索が行われ、最大』一『億円の賞金がかけられている』。『新潟県小千谷市に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている』とある(本書のロケーションに繋がる地方のみを採った。他の地方はリンク先を参照されたい)。『正体についての仮説』の項。『新種の未確認動物とする説』の他、『特定種のトカゲ類の誤認とする説』があり、その一つにインドネシア・オーストラリア・パプア=ニューギニアに棲息するアオジタトカゲ類(有鱗目トカゲ亜目 Scincomorpha 下目 Scincoidea 上科トカゲ科アオジタトカゲ属 Tiliqua)を誤認したとする説がある。このトカゲは一九七〇年代から『日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の荒俣宏は、流行の原因となった漫画』(一九七三年、ツチノコに遭遇した経験を持つという漫画家の矢口高雄がツチノコをテーマとした漫画「幻の怪蛇バチヘビ」を発表し、これがツチノコ・ブームの契機となっていた)『の影響で脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある』。『ただし、ツチノコは尾が細いとされるが、アオジタトカゲは尻尾が太い点が異なる』(実際、似ている。ウィキの「アオジタトカゲ」の画像を見られたい。古くからの発見例の説明がつかない)。また、オーストラリア産のマツカサトカゲ(同トカゲ科 Scincidae のマツカサトカゲ属マツカサトカゲ Trachydosaurus rugosus)を『誤認したとする説。このトカゲは岐阜県の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも愛玩動物として飼育されている。このことから、心ない者が山野に捨てたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある』(これも古くからの発見例の説明がつかない)。そうではなく、『胴の短い種類の蛇の誤認とする説』も当然あり、先に出た『デスアダーを誤認したとする説。これは毒蛇で太く短い体型がツチノコに近い。実際に山形の目撃談にも出てくる』(実際、やはり似ている。グーグル画像検索「Acanthophis antarcticus」をリンクしておくが、蛇アレルギーの方はクリックされない方が無難。これも古くからの発見例の説明がつかない)。或いはヒメハブ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科ヤマハブ属ヒメハブ Ovophis okinavensisを『誤認したとする説。これも毒蛇で南西諸島に生息し、ツチノコとの類似も古くから指摘されている。デスアダーとも似ているが』、『胴の短さではデスアダー以上にツチノコに近い』グーグル画像検索「Ovophis okinavensis」をリンクしておくが、注意は同前! しかし、これでは本州での古くからの発見例の説明がつかない)。また、普通の蛇の『腹の膨れた』個体を『誤認したとする説』があり、事実、在来の蛇であるヤマカガシ(有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus。有毒蛇)やニホンマムシ(ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。有毒蛇)などが『妊娠中で腹が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある』『大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説。蛇は顎の間接が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる』。『以上にあげたような複数の目撃証言が一つに複合されたものがツチノコとする仮説もある』とする。私は生存個体はいおろか、死亡個体やその断片もないのに、日本国内の広汎な地域で未発見種が種を保存しているとする非科学的な説は、全くあり得ないと考える人間である。
「有ざるか」「あらざるか」。
「安政四丁巳」一八五七年。「丁巳」は「ひのとみ」。干支は正しい。
「御藏町」既出既注であるが再掲しておく。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここ(goo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。
「環周(まはり)は六寸」二字へのルビ。「六寸」は十八・一八センチメートル。
「千朶(たん)卷」「千手巻」とも書き、「千段巻(せんだんまき)」と同義。刀や槍の柄などを籐(とう)や麻苧(あさお:麻の繊維を原料として作った麻糸)で隙間なく巻き、漆で塗り込めたもの。
「割片(きざめ)相つらなり」これは蛇の背の鱗が逆立った形になったものであろう。私はこれは死んで間もない蛇類の断裂個体の表皮とその下の真皮層と脂肪層の一部だけとなった残骸(頭部が失われ、骨格と筋肉や内臓が総て脱落した)であると考えている。体色からすると、先に注で出したニホンマムシであろう。
「廣さ二分餘厚さ一分」広さ七・六ミリ、厚さは三ミリ。先のひびらいた甲の鱗のサイズであろう。蛇のそれと見て不思議ではない。
「決壞(くだけ)て」二字へのルビ。
「首根(もと)二片(ひら)」これは首のカマの左右に張り出し部分の残痕であろう。
「中半(ころ)の三片に凸(とつ)とて張起(おこ)りたる處ある」これは或いは♂のペニスの残痕かも知れぬ。ただ、損壊で出来た傷とも読めなくはない。
「肛」肛門。蛇の場合、頭の後ろから肛門までが胴体で、肛門よりも後ろが尾である。
「六七寸」二十~二十一センチメートルほど。
「兩岐(ふたまた)となりたるが」尾が二股の異常個体は存在する(次条に出る両頭蛇も実在する)が、これ、裂断が甚だしく、これも単に尾が二股に裂けただけの可能性が高い。
「こも中空虛(うつろ)にして」これも中は空虚であって肉も骨格もない。
「擘斷(ちぎれ)たる」二字へのルビ。「擘」は「つんざ・く」(「劈く」とも書く)と訓読みでき(「つんざく」は「つみさく」の音変化)、「勢いよく突き破る・強く裂き破る」の意。
「淡灰黑(うはべづみ)」三字へのルビ。
「腥くして」「なまぐさくして」。
「異蟲(むし)」二字へのルビ。
「出水」「でみず」。
「ながれ來つるがして」ママ。「ながれ來つる物にして」或いは「ながれ來つるが物にして」。
「三ツ目内」既出既注。再掲する。現在の南津軽郡大野町大鰐町(おおわにまち)三ツ目内(みつめない)。大鰐の南の川に沿った山村地区。ここ(ヤフー地図データ)。
「石川村」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『弘前市石川(いしかわ)。弘前の南六キロ。羽州街道添いの農村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「見當り」発見し。
「希らしき」「めづらしき」。
「老夫」物知りの古老。
「倶に見すれども」皆、一緒になって観察してみたが。
「こを酒に換へたり」この「龍の尾」というものが如何にも珍しいものに見えたので、酒と交換して入手した。
「己が裡」「わがうち」。平尾の屋敷。
「持來り」「もちきたり」。
「これが名を求むれども」この不思議な生物の名(正体)を教えてくれと言ってきたが。
「己」「われ」。
「史籍(ふみ)に渉獵(わたり)ぬから」意味不明。「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ぬから」或いは「史籍(ふみ)に渉獵(わたら)ざるから」。総ての古今の博物書に眼を通したわけではないので、の意でとっておく。
「そのよしいふて」「その由(よし)云ふて」。
「異物(もの)」二字へのルビ。]