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2016/10/17

諸國百物語卷之三 十七 渡部新五郎が娘若宮の兒におもひそめし事

    十七 渡部(わたなべ)新五郎が娘若宮(わかみや)の兒(ちご)におもひそめし事


Sinkuroumusume

 かまくらに渡部新五郎と云ふ人あり。一人のむすめあり。十四さいになりける。あるとき若宮へさんけいして、社僧の兒(ちご)を見そめ、いつしか、戀やみとなり、今はたまのをもたへなんとするとき、母に、かくと、つげしらせければ、父はゝ、いかゞすべきとあんじわづらひけるが、よきたよりをもとめ、兒(ちご)のをやにいひ入れければ、をや、ゆるして、かよわしける。されども、まだ、としたけぬちごなれば、しみじみとしたる心ざしもなく、ちなみもしだいにうとくなりければ、むすめはいよいよあこがれて、つゐに、はかなくなりにけり。親、かなしみて、野べのけぶりとなし、骨(こつ)を、しなのゝぜんくはう寺にをさめんとて、箱にいれ、ひとま所に、いれをきける。そのゝち、かの兒(ちご)、また、わづらひつき、いろいろとかんびやうすれども、しるしもなし。のちには人をあたりへよする事もきらいければ、父母(ちゝはゝ)、ふしぎにおもひ、ものゝひまよりのぞきみれば、大きなる蛇(じや)とむかいゐて、物がたりしける。父母、これを見てなげきかなしび、僧、山ぶしをたのみ、かぢきたうをしけれども、そのしるしもなく、つゐに、むなしくなりければ、わか宮のにしの山にほうむりけるが、棺のうちに大きなる蛇ありて、兒(ちご)のしがいをまといゐたるを、ともにほふむりけると也。そのゝち、かのむすめの骨(こつ)をぜんくはう寺へをさめんとて、母、とりいだし見られければ、骨ども、みな、ちいさき蛇(じや)となり、あるひはなりかゝりてゐるも有りしと也。かのむすめのしうしん、つゐに兒(ちご)をとりころしける事、おそろしき事ども也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは「新五郎が娘ちごこにおもひそめし事」。これは、私は誰にも負けない自信のある独擅場の話柄である。

 結論から先に言うと、これは、鎌倉後期に(弘安二(一二七九)年に起筆、同六(一二八三)年に原型が成立したが、その後も絶えず加筆されている)八宗兼学の学僧無住道暁(むじゅうどうぎょう 嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)によって編纂された仏教説話集「沙石集」がニュース・ソースである。以下、私の「鎌倉攬勝考卷之一」の「蛇ケ谷」の条と私の注を引くに若くはない。太字・下線は私がここで新たに引いた。

   *

蛇ケ谷 鎌倉に蛇ケやつといふ所三ケ所あり。一は鶴ケ岡の東北にある谷をいふとあり。此事は【沙石集】にいえる如く、或者(あるもの)の女が兒(ちご)を戀病して死し、兒もまたやみて是も死けるゆへ、棺に納て山麓へ葬らんとせしに、棺の内に大蛇が兒の軀をまとひ居たる由、昔話にいひ傳ふとなん。又一ケ所は假粧坂の北の谷をいふとぞ。是は小蛇が爲に見入られ、何地へ行ても小蛇慕ひ、終にさらず。臥たる折ふし、陰門へ蛇入て女も死し、蛇もまたうせたりといふ。又一ケ所は釋迦堂谷より名越のかたへ踰る切通の邊なりといふ。其事を語れるを聞に、長明が【發心集】に書たると同じければ、此所の昔話を聞て長明がしるせしにや。其記に地名を忘れたりしとかけり、則爰の事なるべし。其事【發心集】にくわしければ共に略す。鎌倉は海岸の濕地にして、又山々谷々多きゆへ、今も猶蛇多しといふ。

[やぶちゃん注:「【沙石集】にいえる如く、……」以下、「沙石集」の「卷第七」の「七 妄執に依つて女蛇と成る事」を引く。底本は読み易くカタカナを平仮名に直した一九四三年岩波書店刊の岩波文庫版「沙石集 下巻」(筑土鈴寛校訂)を用いた[やぶちゃん2016年10月17日補注:今回の引用に際し、読点と読みをオリジナルに追加し、注の一部を改変した。]。

   ※

 

     七 妄執に依つて女蛇と成る事

 

鎌倉に或(ある)人の女(むすめ)、若宮の僧正坊(そうじやうばう)の兒(ちご)を戀ひて病(やまひ)になりぬ。母に、かくと、つげたりければ、かの兒が父母(ぶも)も、知人なりけるまゝに、この由(よし)申合(まうしあは)せて、時々、兒をもかよはしけれども、志(こころざし)もなかりけるにや。うとく成(なり)ゆく程に、つひに思死(おもひじに)に死にぬ。父母、悲しみて、彼(かの)骨(こつ)を善光寺へ送らんとて、箱に入れて、おきてけり。その後(のち)、此(この)兒、又、病付(やみつ)きて、大事になりて、物狂はしくなりにければ、一間(ひとま)なる所に、をしこめておく。人と物語(ものがた)る聲しけるを、あやしみて、父母、物のひまより見るに、大(おほい)なる蛇とむかひて、物をいひけるなるべし。さて終(つひ)に失(うせ)にければ、入棺して、若宮の西の山にて葬(はふり)するに、棺の中に大なる蛇ありて、兒と、まとはりたり。やがて蛇と共に葬してけり。かの父母、女(むすめ)が骨を善光寺へ送る次(ついで)、取分(とりわけ)けて、鎌倉の或(ある)寺へ送らんとして見けるに、骨、さながら、小蛇に成りたるも有り、なからばかり、なりかかりたるも、有り。此事は、かの父母、或(ある)僧に孝養(けうやう)してたべ、とて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありて、しるさず。此(この)物語は、多く當世(たうせい)の事を記(き)する故に、その所、その名を、はばかりて申さず。不定(ふぢやう)の故には非ず。凡そ一切の萬物は、一心の變ずるいはれ、始めて驚く可(べ)からずといへども、此(この)事、ちかき不思議なれば、まめやかに愛欲のとがと思ひとけば、いと罪深くとこそ覺え侍れ。されば執着愛念ほどに恐るべき事なし。生死に流轉(るてん)すること著欲(ぢやくよく)による。佛神にも祈念し、聖教(しやうげう)の對治(たいぢ)をたづねて、此(この)愛欲をたち、此の情欲をやめて、眞實に解脱(げだつ)の門に入り、自性淸淨(じしやうせいじやう)の躰(てい)を見るべし。愛執(あいしふ)つきざれば、欲網(よこまう)を出でず。無始(むし)の輪𢌞(りんね)、多生(たしやう)の流轉(るてん)、ただ此(この)事を本(ほん)とす。何の國とかや、或(ある)尼公(にこう)、女(むすめ)を我(わが)夫にあはせて、我身は家に居て、女にかかりて侍るが、指の虵(へみ)になりりたるをつつみかくして、當時(たうじ)有りと云へり。昔もかかる事、發心集(ひつしんしふ)に見えたり。かれは懺悔(さんげ)して念を申しけるまゝに、本(もと)の如くなれりと云へり。

□やぶちゃん語注

・「若宮の僧正坊」若宮の別当僧正坊。岩波古典大系「沙石集」頭注には、「若宮」を『鶴岡八幡石階下にあり、仁徳帝を祀る』とするが、如何? この時代に「若宮」と呼ぶのは、本来の勧請地である、もっと離れた由比の若宮であろう。但し、ここは移築した現在の鶴ヶ岡八幡宮自体を呼称しているようには読める。「僧正坊」は二十五坊を指す。

・「骨さながら小蛇に成りたるも有り」「骨の中には完全に小さな蛇に変態していたものもあり、また~」の意。

・「孝養」亡くなった人のために後世(ごぜ)の菩提を弔うこと。供養と同義。但し、「孝」の字があるように、一般には、亡くなった親のために子が供養することに用いる。

・「著欲」は著欲謗法(じゃくよくぼうほう)のこと。五欲(二説あって、色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五境に対して起こす欲望とも、また、財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲(名誉欲)・睡眠欲の五つともいう。五塵とも)に執着して正法(しょうぼう)を求めぬことをいう。

・「聖教」は「しやうげう(しょうぎょう)」と読み、仏法の正しい教えを説いた経典。

・「對治」は「退治」で、煩悩を断ち切るための方途。

・「自性淸淨」は本来の一切の煩悩による穢れから遠く離れた清浄な心の状態をいう。

・「何の國とかや、或尼公、女を我夫にあはせて、……」リンク元の本文に出る「発心集」に載る三つ目の蛇妄執譚。

 なお、「沙石集」の作者無住道暁(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉生まれで、三十七歳まで鎌倉に住んでおり、自称梶原氏末裔を名乗る。されば、その説話集である本作には鎌倉を舞台とする説話が有意に多い。鎌倉の古典を学ばんとするなら、私はまず、この「沙石集」をお勧めする。

   *

以下、注の一部を略した。他の蛇奇譚も細かな注をして示しているので、未読の方は是非、リンク先の当該箇所を読まれたい。

 以下、本文注。

 

「渡部(わたなべ)新五郎」不詳。無住の原話をリアルにするための架空人物である。前にある通り、無住はわざわざ、「此事はかの父母、或僧に孝養してたべとて、ありのまゝに語りけるとて、たしかに聞きて語り侍りき。近き事也。名も承りしかども、はばかりありてしるさず。此物語は、多く當世の事を記する故に、その所その名をはばかりて申さず。不定の故には非ず」と述べて以上の怪異が紛れもない事実であることを請けがっているわけで、その意を汲んだ「諸國百物語」の筆者の隠れた意図と考えてもよかろう。

「若宮」前の引用の私の「若宮の僧正坊」注を参照されたい。鶴岡八幡宮の原型である由比の若宮は規模が小さく、凡そ美童の稚児と娘が後の世の浄瑠璃っぽく出逢って惹かれ合うにはショボ過ぎるのである。

「戀やみ」「戀病み」。

「たまのをもたへなんとするとき」「玉の緒も絶えなん」。歴史的仮名遣は誤り。今にも命の絶えんとするほどに心痛せる時に至って。「玉」は「魂」と同義である。

「よきたよりをもとめ」良い返事(正式な婚姻)を希って。

「かよわしける」「通はしける」。歴史的仮名遣は誤り。彼は八幡宮の稚児であるから、一家を設けることは出来ないので、住まう僧坊から古い婚姻形態である「通い婚」の形を稚児の親は採らせたのである。

「としたけぬちごなれば」未だ年齢(とし)若い、恋の経験もない稚児(物心つく四、五歳ぐらいから寺院の僧の世話をする者として「稚児」はあったが、平安時代の昔から、剃髪しない少年修行僧の中で、凡そ現在の十一歳から十七歳ほどまでをも「稚児」と拡大して呼んでいた。ここは後者の年齢層の少年僧を想起すべきである)であるからして。

「しみじみとしたる心ざしもなく」心の底から深く向き合うような恋情は、稚児の方には生じず。

「ちなみだいにうとくなりければ」「因(ちな)みも次第に疎くなりゆけば」。「ちなみ」とは「ある特定の関係・仏教的な縁・因縁」の他に、特定の二人が「堅い契りを結ぶこと・縁を結ぶこと」、及び、「つき合うこと・親しくすること」を意味する。所謂、専ら、稚児の少年の側に若さ故のしっぽりとした娘だけへの恋に一途になる「縁」がなかっから、「堅い契りを結ぶ」ほどまでは進まず、それどころか「親しく」通ってくることも次第に「疎く」なってゆく、回数が減っていったのである。私はそれ以外に、娘の一途な彼への恋情にビビッた、病的なものを意識的或いは無意識的に感じ取ったからかも知れないとも思うし、或いはまた、彼女に惹かれる思いは十全にあったものの、稚児であるために(寺院の稚児は御承知の通り、その主目的は成人僧の男色・衆道・少年愛の対象であった)、自分の相手の年上の僧から彼女との関係を咎められたり、嫉妬されたりした結果、通いにくくなったとも考え得る。私は実はこの話柄では後者の娘と同性愛相手とに悩む少年僧という三角関係を設定として考える方が自然であり、文学的にも其の方が話に厚みが出ると大真面目に思っている人間である

「しなのゝぜんくはう寺にをさめんとて」「信濃の善光寺(ぜんくわうじ)に納(をさ)めんとて」。「ぜんくはう」は歴史的仮名遣の誤り。何故、定額山(じょうがくさん)善光寺(現在の長野県長野市元善町(もとよしちょう)にある、構成上は天台宗と浄土宗に属する寺であるが、現行でも寺総体は無宗派とし、浄土宗の方の住職である「大本願」は尼僧で、天台宗の住職「大勧進」は男僧である)かというと、本寺が日本に於いて仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院(七世紀初めの創建とされ、本尊は阿弥陀如来)であることから宗派の別なく広汎な衆生済度の霊場とされてきたこと特に女人禁制が一般であった旧来の仏教の中では稀な「女性救済」を掲げ、早くから女人の信仰を集めたことが挙げられよう。

「ひとま所に」「一間所に」。家内の一室に。

「かの兒(ちご)、また、わづらひつき」「かの」稚児の男も娘同様に「また」、心身を「患ひ」始め。これは文脈上は娘の執心によるものであるわけだが、前に注したように、私はそれに加えて、娘が稚児を恋い焦がれた末に亡くなったことや、稚児である彼を取り巻く生々しい若衆道のどろどろした現実が、彼の精神を苛んだものと解釈するものである。

「かんびやう」「看病」。彼の父母が、であろう。

「しるし」「驗」。効果。

「のちには人をあたりへよする事もきらいければ」「よする」は「寄り付かせる」、「きらい」は歴史的仮名遣の誤りで「嫌ひ」、則ち、まさに症状としては重度の鬱病或いは統合失調症を疑わせる厭人癖を見せるようになったのである。

「ものゝひま」「物の隙(ひま)より」。戸などの隙間から。

「なげきかなしび」「嘆き悲しび」。「悲しぶ」(上代はバ行下二段、中古にバ行四段活用に転じた)は「悲しむ」に同じい。

「かぢきたう」「加持祈禱」。

「むなしくなりければ」「むなしくなる」は「死ぬ」の忌み言葉。

「わか宮のにしの山」現在の二十五坊ヶ谷附近であろう。

「ほうむりけるが、棺のうちに大きなる蛇ありて」土葬したが、その際に見ると、棺桶(当時は座棺(坐棺))の中に知らぬ間に大きな蛇が入っていたのである。

「兒(ちご)のしがいをまといゐたるを、ともにほふむりける」「稚兒の死骸を纏ひ居たるを、伴に葬(はふむ)りける」。「まとい」「ほふむり」は歴史的仮名遣の誤り。

「骨ども、みな、ちいさき蛇(じや)となり、あるひはなりかゝりてゐるも有りしと也」「沙石集」の原話を踏襲しているが、こここそが、この哀しい怪奇情話の、稀に見る驚愕のコーダなのである。

「むすめのしうしん」「娘の執心」。私は何故か、この娘を憎めないでいるのである。]

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