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2016/10/21

諸國百物語卷之四 一 端井彌三郎幽靈を舟渡しせし事

 

諸國百物語卷之四 目錄

 

一  端井彌三郎ゆうれいを舟渡しせし事

二  ゑい山の源信ぢごくを見て歸られし事

三  酒のいとくにてばけ物をたいらげたる事

四  ゆづるの觀音に兵法をならひし事

五  牡丹堂女のしうしんの事

六  たんば申樂へんげの物につかまれし事

七  筑前の國三太夫と云ふ人幽靈とちぎりし事

八  土佐の國にて女のしうしん蛇になりし事

九  遠江の國にて蛇人の妻をおかす事

十  あさまの社ばけ物の事

十一 氣ちがいの女を幽靈かと思ひし事

十二 蟹をてうあひして命をたすかりし事

十三 嶋津藤四郎が女ばうゆうれいの事

十四 死靈の後妻うち付タリ法花經にて成佛の事

十五 ねこまた伊藤源六が女ばうにばけたる事

十六 狸のしうげん付タリ卒都婆のつえの奇特

十七 熊本主理が下女ぼうこんの事

十八 津のくに布引の瀧の事付タリ詠歌

十九 龍宮のおとひめ五十嵐平右衞門が子にしうしんの事

二十 大野道觀あやしみをみてあやしまざる事

諸國百物語卷之四目錄終

 

 

諸國百物語卷之四

 

    一 端井(はしい)彌(や)三郎幽靈を舟渡(ふなはた)しせし事

Sakasamanoyuurei

 信長公の御家來に端井彌三郎とて文武二道のさぶらひ、有り。のちは備後どのに、ほうこうして、淸州(きよす)にゐられけるが、犬山殿(いぬやまどの)御しそくと男色(なんしよく)のまじはり、あさからずして、三里があいだを、よなよなかよひ給ひけるが、ある夜、よづめすぎ候ひて、犬山へゆかれけるが、折しも、やみにて、雨、しきりにふり、物すごき夜なりしが、みちに、川わたしあり。わたしもりをよびけれども、川しもにねぶりゐて、をともせず。彌三郎は川ばたにたちやすらい、川の上下(かみしも)をながめゐたる所に、川かみより、火、見ゑたり。ぜんぜんにちかづくを、よくよく見れば、女、たけなるかみをさばき、口より、くわゑんをふきいだし、さかさまになり、あたまにて、あるきける。彌三郎、これをみて、刀をぬきくつろげ、

「なに物なるぞ」

とゝいければ、かの女、くるしげなるこゑをいだし、

「われは此川むかい屋村(やむら)の庄屋の女ばうにて候ひしが、夫(をつと)、めかけといひあわせ、われをしめころし、此、川上(かわかみ)にしうしんもまいらぬやうにとて、さかさまにうづめをき申し候ふ。かたきをとりたく候へども、かやうにさまにては川をもわたりがたく候へば、あわれ、ぶへんの人に行きあひ、わたしてもらいたく候ひて、此所わうらいの人々を、つねつね、心がけ候へども、ごへんほど、心がうなる人は、なし。ねがはくは御じひに此川をわたしてたべ」

と申しける。彌三郎、こゝろへたりとて、わたしもりをよび、

「くだんの女を舟にのせ、むかふのきしにわたせ」

と云ふ。わたしもり、此女を見て、ろかいをすてゝにげさりぬ。彌三郎、かいをつとり、かの女を舟にいだきのせ、むかふのきしにわたしければ、女は屋むらをさして、とびゆきける。彌三郎、あとをしたいてゆき、庄屋がかどに、たちぎゝしければ、女のこゑにて、

「あつ」

とさけぶをとしけるが、ほどなく、めかけのくびをひつさげいで、彌三郎にむかい、

「御かげにて、やすやすと、にくしとおもふかたきを、とり申したり。かたじけなし」

とて、あとかたなく、きへうせけり。彌三郎は、それより、犬山へゆき、よあけてかへるさに、屋むらにて、

「ゆうべ、なに事も此ざい所になかりけるか」

と、とひければ、ざいしよのもの、

「此むらの庄やどの、此ごろ、女ばうをむかへ給ふが、こよひいかなるゆへにか、女ばうしうのくびを、なに物かひきぬき、かへり候ふ」

とかたる。彌三郎、いよいよふしぎにおもひ、備後どのへ此むね、かくと物がたり申しあげゝれば、かの川かみをほらせ、御らんずれば、あんのごとく、さかさまにうづめたる女のしがいをほりいだす。ぜんだいみもんの事也とて、かの庄屋をせいばいなされけると也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の右キャプションは、上部が擦れて判読不能乍ら、「(幽)靈(を)舟渡せし事」という推定は出来る。「さかさまの幽霊」というのは、まさに私も面白く読んだ服部幸雄氏に「さかさまの幽霊―「視」の江戸文化論」(一九八九年平凡社刊・イメージ・リーディング叢書)というのがあるくらい、実は江戸初期から頻繁に登場する幽霊の、一つの定番でさえあるのである(同書の抜粋は個人ブログ「ひとでなしの猫」のこちらがよい。実は自分で本篇に触れる同書の要点を纏めたいのであるが、書庫に埋もれて今、現認出来ずにいる。発見次第、追記する)。そのシンボリズムについては当該書を読まれることを強くお薦めするが、ネットでは近世のそれらについて、こちらにかなり詳しい諸家の解釈論が提示されている。基本的には、底なしの無間(むけん)地獄へと真っ逆さまに落下していく恐怖のイメージの表象と考えられるのであるが、しかし、本話のそれは恨みを封じるために逆さに埋葬したという、一読、理屈がつくように書かれてあるのであり、しかもそれが理に落ちて恐怖が減衰するの弊害を持っていない点でも(論理的納得は一般には恐怖征服の致命的な一因であり、出現意図の核心の不可知さ、絶対の意味不明性にこそ、真の「怪奇性の絶対条件」は内包されていると私は考えているが、この場合は寧ろ、その亡者が無間地獄に堕ちるという実際の様態の形象化が「さかさまの幽霊」であるのなら、その亡者は現世へ怨念のために立ち現われることは出来ないはずだと考える人種でもあるのである)、私はすこぶる成功した稀有の「さかさまの幽霊」であると考えていることを附言するに留めおく。

「端井(はしい)彌(や)三郎」不詳。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注でも『実在』の『人物かどうか』と注するのみ。

「舟渡(ふなはた)し」の読みはママ。

「備後どの」不詳。同前「江戸怪談集 下」の脚注でも『不詳』とする。後に出る「淸州」城と関係する人物に、戦国武将で管領斯波氏家臣で織田備後守敏信なる人物がいるが、彼は後に娘が織田信長の父織田信秀の側室となったといわれ、時代(ここは――織田「信長」の「家來」であった「端井彌三郎」なる人物が、後に「備後」殿なる人物に仕えて「淸州」におられたが、その頃――という書き出しであり、話柄内時制は信長暗殺後の、秀吉以降で江戸時代のごく初期と考えねば、若衆道などの面からもおかしい)ならぬゐられけるが、犬山殿が全く合わない。

「ほうこう」「奉公」。

「淸州(きよす)」尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった清洲城の城下町。ウィキの「清州城」によれば、織田信長が約十年に亙って居城とした。天正一〇(一五八二)年の本能寺の変で信長が斃れると、ここで清洲会議が行われ、城は信長の次男信雄が相続したが、小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らったため、除封されて豊臣秀次の所領に組み込まれた後、文禄四(一五九五)年には福島正則の居城となっている。慶長五(一六〇〇)年の『関ヶ原の戦いの折りには、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが、忠吉が関ヶ原の戦傷がもとで病死すると』、慶長一二(一六〇七)年には『家康の九弟徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となった』。慶長一四(一六〇九)年、『徳川家康によって、清須から名古屋への遷府が指令されると』、慶長一五(一六一〇)年より『清須城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清須城も名古屋城築城の際の資材として利用され、特に、名古屋城御深井丸西北隅櫓は清須城天守の資材を転用して作られたため「清須櫓」とも呼ばれる』。慶長一八(一六一三)年、『名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより廃城となった』とある。「備後殿」が架空であるとしても、時制は上記下線部を区切りとする閉区間でなくてはおかしい。

「犬山殿(いぬやまどの)」ウィキの「犬山城」によれば、『本能寺の変後、尾張国を領有した織田信雄配下の中川定成が城主となった』が、天正一二(一五八四)年、『小牧・長久手の戦いでは、信雄方と見られていた大垣城主・池田恒興が突如奇襲をかけ、信雄方から奪取する。これにより、犬山城は尾張国における西軍の橋頭堡となり、さらに羽柴秀吉は本陣を敷いて小牧山城の徳川家康と対峙した』。天正一五(一五八七)年に織田信雄に返還されるも、先に述べた通り、『信雄が改易されると』、『豊臣秀次の領地となり、その実父の三好吉房が城代を務めた』。文禄四(一五九六)年、『豊臣秀次が切腹すると、石川貞清が城主となった』。『関ヶ原の戦いでは稲葉貞通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らが入城した』(但し、東軍に鞍替えした)。慶長六(一六〇一)年には『小笠原吉次が城主』、慶長十二年には『平岩親吉が城主とな』っている。元和三(一六一七)年に親吉が亡くなると、六年間、『親吉甥の吉範が城主を務めたのち、尾張藩付家老の成瀬正成が城主になり』、以後、『江戸時代を通じて成瀬家』九代の『居城となった』とする。私は前の注の推理から、この「犬山殿」とは、時制に合わせるならば、中川定成以降、平岩親吉までの城主の誰かがモデルと考えている。同前「江戸怪談集 下」の脚注では平岩親吉から書き出し、『以後は、成瀬隼人正虎が、犬山城主』と注するのみである。私は、先の理由から、彼らではない、と考えるものである。

「御しそく」「御子息」。

「三里」十一キロ弱。但し、清州城下から犬山城へは地図上の直線距離でも二十キロ近くある。不審。

「よづめすぎ候ひて」「よづめ」は「夜詰め」で宿直(とのい)のこと。しかし、それが「過ぎて御座ったので」ということは、この宿直は二直制で、弥三郎はその一直で深夜近くに交代したものであろう。そう考えないと、後のシチュエーションと齟齬するからである。

「やみ」「闇」。

「たけなるかみをさばき」「丈なる髮を捌き」。この「丈」は身長のこと。身の丈と同等にも伸びた髪を、束ねることもなく、左右に捌いて。これ、通常に立っているなら、必要な描写だが、実は逆立ちしているのであるから、やや奇異な感じではある。しかし、作者は寧ろ、ここで普通の正立像の女の髪をざんばらにした霊を読者に想起させておいて、直ぐに逆立ちさせることに意外性を狙った確信犯の意図があるように私には思われる。

「くわゑん」「火炎」。

「さかさまになり、あたまにて、あるきける」ここが凄い! ここで我々は初めて想起した女の霊を倒立させねばならなくなるのであり、そこでは身長と同じ長さの黒髪の束が、あたかも黒々とした二匹に蛇の如く、いや、頭に附いた二本の大蛸の足のように、前後にのたうちながら、「歩く」のである! これは表現すれば滑稽でも、恐らくは想定外の「恐怖」そのものであると言えるのである。

「刀をぬきくつろげ」鯉口を切って刀身を何時でも抜けるようにして。

「此川むかい屋村(やむら)」「屋村」という地名は不詳で、同前「江戸怪談集 下」の脚注でも『不詳』とするのであるが、現在の地図を見るに、清州から犬山向かう場合、川を渡るとすれば、その川は五条川である可能性が頗る高い。そこで調べてみると、まず手前から、五条川の北に、現在の丹羽郡大口町に「大屋敷」、同じ大口町のその北に「小口城屋敷」という地名を見出せる。或いはこの孰れかかも知れぬと私は思った。

「しうしんもまいらぬやうにとて」「執心も參らぬ樣に」。同前「江戸怪談集 下」の脚注には、『怨念が祟りとして、発現できないようにと』とある。

「さかさまにうづめをき」こうした風俗が現に古えにあったことを、私は確信する。葬送習俗として伝えられていなくても、確かにこうした呪術的封じ手は絶対にあったはずである。

「申し候ふ」「申し」は敬語としては正常な使い方ではないが、語っている相手である弥三郎への重ねた丁寧表現として用いられていると読む。

「かたき」「仇」。

「かやうにさまにては川をもわたりがたく候へば」亡者であるが、逆立ちでは渡渉出来ないということを意味している。この辺りは「さかさまの幽霊」の持つ、何らかの隠れた意味、倒立した亡魂は水によって必ず妨げられるという象徴性があるように思われる。

「あわれ」感動詞。「ああっつ! 何とか!」。

「ぶへんの人」「武邊の人」。心の勇猛な、逆立ちした女の霊をもものともせぬ剛直なる御方。

「わたしてもらいたく」「渡して貰ひたく」。歴史的仮名遣は誤り。

「此所」「このところ」。ここで。

「わうらい」「往來」。

「つねつね」「常々」。

「ごへん」「御邊」。貴方様。

「心がうなる」「心剛なる」。

「御じひに」「御慈悲に」。

「ろかい」「艪櫂」。舟を漕ぐ艪。

「かいをつとり」「櫂を押つ取り」。「押つ取り」は「押し取る」の音便で、「勢いよく、摑み取る」の意。

「いだきのせ」「抱き乘せ」。ここがいい! さかさまに立つおどろおどろしい女の亡者をお姫さま抱っこするのである! これでこそ、男の中の男である!

「女は屋むらをさして、とびゆきける」ここでも映像は倒立した彼女でなくてはならぬ。

「あとをしたいてゆき」その後を追って行き。

「庄屋がかど」庄屋の家の門(もん)、門口。

「たちぎゝ」「立ち聞き」。

「さけぶをと」「叫ぶ聲(をと)」。

「ほどなく、めかけのくびをひつさげいで」「程なく、妾の首を引つ提げ出で」である。前に述べたような情けない仕儀なれば(私の書斎では「さかさまの幽霊」がそれこそ埋もれて出てこないのである)、先に挙げたネット記載から引くと、元禄一二(一六九九)六月に江戸山村座で上演された「一心女雷神(いっしんおんななるかみ)」で、『絶間姫に恋慕する頼豪法師が、計画を練り絶間ゆえに死んで幽霊になったと見せかけて、口説こうとするシーンがある。「きつと思ひ出したり。幽霊の形になり、絶間ゆゑに死にたると謀り、心を引いてくどかん」と、弟子坊主が手に足袋をはかせ足にして、逆様なる形に成つて待ちゐたり。…彼のよろぼひ出て、「ああ苦しや、堪へがたや。…其方を深く思ひそめしが、さすが出家のあからさまには申されず、やる方なさに井戸に逆様に身を投げて死にました』(服部幸雄「さかさまの幽霊」より)とあるのに対し、一方で明和四(一七六七)年板行(リンク先は年号を明治と誤っている)の青本「思案閣女今川(しあんかくおんないまがわ)」には『白糸の滝の中から「さかさまの幽霊」が出現するシーンがある。「みつからは久国にころされ、にはのつき山にうつめしまつよひと申女也。」とあり、これは井戸に逆様に落とされて死んだ幽霊ではない』(同「さかさまの幽霊」より)。『右の二つの物語を比べてみる。前者の逆様の幽霊は、井戸へ逆様に身を投げたので(つまり死んだときに逆様の状態であった)逆様の幽霊として出現している。後者の逆様の幽霊は、無間地獄へまっさかさまに落下していく肉体の、その恐怖のイメージの表裏したものである。それは当時、井戸が冥界との通路と信じられていたからである。つまりは、実際逆様の形で死んだもののみが逆様の幽霊となるのではなく、浮かばれないでいる霊、解脱できない、迷える霊魂が形を与えられたものということである』。『それは、「因果物語」』(鈴木正三(しょうさん 天正七(一五七九)年~明暦元(一六五五)年:曹洞宗の僧侶で仮名草子作家であったが、元は徳川家に仕えた旗本。本姓は穂積)が生前に書き留めてあった怪異譚聴き書きを弟子たちが没後の寛文元(一六六一)年に板行したもの。「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年であるから話柄自体は十六恐らくは少なくとも三十年以上は先行するものと考えてよいであろう)『(巻二ノ一)に収められている』「妬(ねたみ)て殺せし女、主(しゆ)の女房をとり殺す事」と、『「諸国百物語」(巻四ノ一)の「端井弥三郎、幽霊を船渡せし事」を比べてみると分かる。前者は不慮の妬みによって非業の死を遂げた女が、逆様の幽霊のまま復讐を果たす。すると翌日には苦患をまぬかれたため真様の姿になる。つまり、逆様の幽霊は成仏しきれず迷っている苦患の魂の表象であることになる。亡霊自ら、その苦しみに耐えかねて、早く成仏したい「常のごとく真様」になりたいと願っていたのである。一方後者は最後まで真様にならない』(下線やぶちゃん)とするのであるが、私はこの最後の解釈を実は留保したいのである。何故なら、この「ほどなく、めかけのくびをひつさげいで」という箇所を読んだ読者は、映像をどう心内に形成するかという一点に私は着目するからである。この引用のように彼女が先と同じく倒立していたとしたら、「めかけのくびをひつさげいで」ることは、私は出来ないと考えるからである。逆立ちした幽霊が首をその手に持っていたら、首は「ひつさげ」られるのではなくて、空中に一緒に反転して立ち上っていることになる。もし、正立した首だけが倒立した手から提げられているとしたら、これを「ひつさげ」と言い得るだろうか? というより、百歩譲って、この孰れかであったとして、生首をぶら下げた「さかさまの幽霊」というのは、どちらであっても表象し難く、しかも叙述が(特にこの異なった二種のどちらかであるならば、である)不可欠になるはずである。しかし、筆者はすこぶる自然にさらりと「めかけのくびをひつさげいで」と書いているではないか。これはもう――ここでは描出されていないけれども――私なら彼女を、もう、正立した姿の、晴れ晴れとした顔で、首を西瓜のように下に引っ提げた写真で絶対に撮る

「あんのごとく」「案の如く」。弥三郎が伝え、女の亡者の語った通り。

「ぜんだいみもん」「前代未聞」。

「せいばい」「成敗」。処罰。間違いなく死罪である。]

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