甲子夜話卷之二 31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事
2―31 京大佛の巨鐘を動かせし人の事
淇園先生の門人【名忘】、或日一人言ふ。大佛殿の巨鐘も一人にて動すべしと。一人は巨鐘決して動くべからずと云ふ。因て翌日兩人彼處に往く。其一人、朝より掌を以て彼鐘を推す。如ㇾ此くすること良久して晝に及び、遂に未刻にも至れる比、鐘少しづゝ動くと覺えしが、稍々動きて纔人目にかゝる程に動きしが、後は次第に動出て、人力を仮らずして自ら動たり。因て前日動ずと云し人も、閉口して服したりと云ふ。物の積功知るべし。
■やぶちゃんの呟き
「京大佛の巨鐘」この「京」は広義の旧の「京師(けいし)」「みやこ」の意で奈良を指し、「大佛」は東大寺のこと。東大寺の鐘楼は大仏殿から二月堂の方向へ坂道を登った先にある。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼(かいげん)と同年の天平勝宝四(七五二)年の製で、中世以前の梵鐘として現存するものとしては最大のものである。総高三・八六メートル、口径二・七一メートル、重量は実に二十六・三トンもある。古来、東大寺では文字通り、「大鐘(おおがね)」と呼称し、俗では擬人化して「奈良次郎」とも呼んでいる。
「淇園先生」儒学者皆川淇園(みながわきえん 享保一九(一七三五)年~文化四(一八〇七)年)ウィキの「皆川淇園」によれば、『淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある』。『生まれは京都』。東福門院御殿医皆川春洞の『長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれ』、四、五歳頃には『杜甫の詩を覚えていたと』される。『伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学』び、『易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた』。宝暦九(一七五九)年より『京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始め』、『また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こ』してもいる。『絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受け』たという。晩年の文化二(一八〇五)年には『様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた』が、『志半ばにして、翌年』、七十四で没した。門人は三千人に『及んだといわれる。門弟として富士谷成章(実弟)・巖垣龍渓・稲毛屋山・小浜清渚・東条一堂・北条霞亭などがいる』。『京極の阿弥陀寺に葬られ、墓誌は松浦清が文を製し、その書は本多康完が記した。東京国立博物館には「明経先生像」と題された淇園の遺像が残る』(下線やぶちゃん)。静山より二十五歳年長である。
「名忘」「名は忘れたり」。
「動すべし」「うごかすべし」。動かすことが出来る。
「彼處」「かのところ」。
「朝より」「あしたより」。早朝より。
「掌」「てのひら」。
「彼鐘」「かのかね」。
「如ㇾ此く」「かくのごとく」。
「良久して」「ややひさしうして」。
「未刻」「ひつじのこく」。午後二時頃。
「比」「ころ」。
「稍々」「やや」。
「纔」「わづか」。
「人目にかゝる程に動きしが」通常の人が普通に見て、何だか動いていないか? と僅かに視認出来るほどだけ動いたように見ていたが。
「動出て」「うごきいでて」。
「人力を仮らずして」「人力」は「じんりよく」。他の人の助力(じょりょく)を借りることなく、ただ一人の、それも掌だけに加えた力だけで。
「自ら」「おのづから」。自発の意。
「積功」一派には「積功累德(しやくくるいとく(しゃっくるいとく))」で使う仏語で、修行に励み、功徳を積み重ねること。ここは一般的な意味で小さな物の積み重ねが大きな成果を産み出すの謂い。