譚海 卷之一 筑紫琴由來の事
筑紫琴由來の事
〇筑紫琴(つくしごと)の最上の祕曲とて傳授にするものは、平調の越天樂(えてんらく)と云(いふ)物也。是(これ)樂(らく)の平調の柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る也。ある座頭つくし琴の最上の傳授まで濟(すみ)たるもの、伶人の箏(そう)を彈る時、平調の柱にて初學のものに樂ををしふるをきゝ、初て驚き、只今まで俗琴の傳授とて、嚴重に申(まうし)ならはし、祕曲に致候事は、樂家(がくけ)にては平生の事に有ㇾ之(これある)事也と申せしとぞ。元來筑紫ごとは樂の越天樂をくづして、女のうたふやう成(なる)詞(ことば)にふしつけひろめたる事ゆへさもあるべし。又らうさいといふは、昔のらうさいぶしにあはする柱立(はしらだて)也。昔は平日うたひしものなれども、らうさいぶし絶(たえ)て琴のくみにばかり殘りたる故、傳授のやうにたいそふに覺(おぼえ)たる也。五さいなどと云(いふ)も同じうたひものなり。りんせつと云(いふ)は林實と書(かく)也(なり)、このみの落(おつ)るやう成(なる)彈(ひき)かた故かく云(いふ)也。
[やぶちゃん注:本条は前条「伶人家幷きんの傳來の事」との連関性が強い。そちらの本文と私の注も参照されたい。なお、私の妻はごく幼少の時から琴(生田(いくた)流)を習っているけれども、彼女でも以上の条文を完全には理解することが出来なかった。彼女に理解出来ないものに私が注をつけられようはずもない。以下は邦楽に貧しい私が判る範囲で附したものと御理解戴きたい。悪しからず。なお、不明な箇所には是非とも識者の御教授を乞うものである。
「筑紫琴(つくしごと)」筑紫流箏曲(そうきょく)の一流派。室町末期に九州久留米の善導寺の僧であった賢順が創始し、主として佐賀藩に伝承され、江戸時代以後の俗箏(ぞくそう:八橋流や、その分派である生田流・山田流などの近代箏曲の源流及びそれ)の母体となった。現在は廃絶に近い。
「平調」「ひやうじやう(ひょうじょう)」と読む。雅楽の唐楽に用いる六つの旋法名(他に太食(たいしき)調・壱越(いちこつ)調・双調(そうじょう)・黄鐘(おうしき)調・盤渉(ばんしき)調)の一つ。日本音楽の十二律の一つである基音の壱越(いちこつ)よりも二律高い音、洋楽のホ音に相當するを主音としたもの。
「越天樂(えてんらく)」雅楽の演目でも最も知られた一つ。ウィキの「越天楽」によれば、『舞は絶えて曲のみ現存している』。『楽器は主に』八種類で、『管楽器、弦楽器、打楽器に分かれている』。『「越殿楽」とも記述される。原曲は中国・前漢の皇帝文帝の作品と伝えられている。しかし高祖・劉邦の軍師張良の作曲であるという説や、日本での作曲である説などもあり、実際の所はよくわかっていない。また、現在伝わっている平調越天楽は、旋律が他の唐楽に比べ独特であること等から、原曲ではなく、盤渉調に渡されていた(別の調子に合わせて編曲された)ものを、原曲が絶えたため』、『平調に渡しなおされたものであるともいわれている』。『越天楽に歌詞をつけたのが『越天楽今様』であり、中で最も有名なのが『黒田節』で、日本では結婚式などで演奏されることが多い』とある。なお、妻によれば、彼女は演奏したことはないけれども、現代でも八橋検校作曲の箏組歌十三曲名観の筆頭の曲として、「菜蕗(ふき)」という曲名で、生田流・山田流で演奏されているとのことであった。
「樂(らく)の平調の柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る也」不詳。妻は琴柱(ことじ)の置き方を「柱のたて樣(ざま)」が「つくし琴の最上の傳授まで濟(すみ)たる」「ある座頭」の知っている、これが唯一正統とされる配置とその「平調の柱にて初學のものに樂ををしふる」「伶人」が「箏(そう)を彈」く際に配した琴柱位置と異なっていたのを知って、「初」め「て驚き」、それ以来、「只今まで俗琴の傳授とて、嚴重に申(まうし)ならはし、祕曲に致候事は、樂家にては平生の事」(ごく当たり前の事実)である「と申せしとぞ」の意味でとった。私は「柱のたて樣(ざま)にして彈(ひけ)る」の部分がそう解釈することにやや無理があるようには思うが、彼女が述べたままに記しおくこととする。
「らうさい」「昔のらうさいぶし」漢字では「弄齋」。日本の近世歌謡の一種で、「癆療」「朗細」「朗催」「籠濟」などとも書く。弄斎という僧侶が隆達(りゅうたつ)節:近世初期の歌謡の一つで文禄・慶長(一五九二年~一六一五年)頃、堺の高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が創始、扇拍子や尺八の一種である一節切(ひとよぎり)などの伴奏で流行。近世小歌の祖という)を変化させて始めたところからかく呼称するという。京都の遊里で発生し、後に江戸でも流行、流行り歌の三味線伴奏と七七七五の詞形の確立を促し、地歌・箏曲にも影響を与えた。現在、近世初期に流行した歌謡の中では、詞章を明らかにし得る最古の歌謡である。元のそれは元禄期(一六八八年から一七〇四年:「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記)には既に廃れたとされるが、筝曲や三味線にとり入れられて様々な新たな「弄斎物」が生まれた(以上は諸辞書及び平野他監修になる一九八九年平凡社刊「日本音楽大辞典」などを参照した)。
「琴のくみ」筝曲の「組歌」組唄」のこと。箏曲の曲種の分類で、独立した短編歌謡数首を連ねた(組み合わせた)歌詞を持つ曲。最も古典的基本的曲種として重視される。
「たいそふ」「大層」。
「覺(おぼえ)たる也」誤認しているに過ぎない。
「五さい」不詳。
「りんせつと云(いふ)は林實と書(かく)」前掲の平凡社刊「日本音楽大辞典」によれば、『弦楽器の奏法・演出法ないし曲名。本来は雅楽の箏において「残楽」』(のこりがく:雅楽のなかでの管弦で行われる変奏の一種で、合奏楽器の中で普段は目立たない存在である箏の特別の技巧を聴かせるため、打楽器と笙と笛は曲の途中で次第に演奏を止め、さらに曲を反復し、その間に篳篥(ひちりき)と琵琶もなるべく旋律の断片を奏することによって箏の細かい弾奏を引き立てる演奏法)『の演出の場合に、「輪説」という』種々の『やや複雑な奏法が混在する特殊な演奏をいう。普通の説』(せつ)『(手)に対して』『「輪(わ)の説」という特殊な手をいったものと思われる』とあるが、他の箇所を調べても、ここで津村が述べるような「林実」(「このみの落(おつ)るやう成(なる)彈(ひき)かた」と、如何にも尤もらしく聴こえるのだが)という表記は発見出来なかった。]
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