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2016/10/03

北條九代記 卷第九 高柳彌次郎縫殿頭文元と訴論

      ○高柳彌次郎縫(ぬひの)殿頭(のかみ)文元(ふんもと)と訴論

同五月上旬、將軍家の御息所(みやすどころ)、御懷孕(くわいよう)の沙汰あり。業昌(なりまさ)朝臣に仰せて、御祈(おんいのり)の爲、天曹地府(てんさうちふ)の祭(まつり)を奉仕(ぶし)す。此所(こ〻)に高柳(たかやなぎ)彌次郎と縫(ぬひ)殿〔の〕頭(かみ)文元(ふんもと)、所領の事に依(よつ)て相論を致せり。彌次郎幹盛(もともり)、訴へ申しけるは、「文元は陰陽師(おんやうじ)の職者(しよくしや)として、その子息等(ら)、太刀を帶(は)き、嚴(いかめ)しく出立ちて、世間を橫行(わうぎやう)す。偏(ひとへ)に武士の行跡(ありさま)に似たり。荒涼の躰裁(ていたらく)、頗(すこぶ)る公儀の格式を蔑(ないがしろ)にするか、誠に側痛(かたはらいた)し。早く先(まづ)、本道の威儀に返されずは、漸々、奢侈(しやし)の所行(しよぎやう)を企て、文武の道、相混(あひこん)じ、貴賤、漫(みだり)に法に違(たが)ひ、亂根(らんこん)の基(もとゐ)たるべし」となり。是に依(よつ)て、奉行、頭人、この事、評議あり。文元が子息、大藏〔の〕少輔文親(ふんちか)、大炊助(おほひのすけ)文幸(ふんゆき)を召して、子細を相尋ねられ、「彼等、陰陽寮(おんやうりやう)の子孫たる事は爭ふべからずといへども、右筆(いうひつ)の職掌を相兼ねたり。七條人道大納言の御時は、幕府に候(こう)じて宿直を勤め、格子上下の役を致し、武州前史(さきのさわん)禪室、最明寺入道二代は、この作法の如く、奉公せしむべきの由、仰せらる。今更、是を改難(あらためがた)し。但し、官途に於ては、本道を相兼ねざるの間、右筆の役(やく)計(ばかり)をもつて奉公を致すの輩(ともがら)、官位の事、雅意(がい)に任せて補任(ふにん)せらる〻の條、然るべからず」となり。是に依(よつ)て、文親(ふんちか)は本道を相兼ね、文幸(ふんゆき)は右筆計(ばかり)を勤めければ、相論の事も自(おのづから)相止みけるとかや。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永二(一二六五)年五月十日(懐妊記事)・二十三日の条に基づく。

「高柳彌次郎」現在の埼玉県加須市上高柳を領した高柳幹盛(もともり)。

「縫(ぬひの)殿頭(のかみ)文元(ふんもと)」「縫殿頭」は本来は律令制の「縫殿寮(ぬいどのりょう)」(中務省管下の裁縫監督機関で多くの女官が勤務していた)の最高責任者。従五位下相当職であった。第四代将軍藤原頼経の下向に従った陰陽師の一人紀文元(きのふんひと)。後の相馬一族の一つとなり、姓は「皆吉(みなよし)」ともするが、元来の本姓は惟宗(これむね)で、後に「惟宗」に復姓もしている。

「將軍家の御息所(みやすどころ)、御懷孕(くわいよう)の沙汰あり」既注の宗尊親王と正室近衛宰子(このえさいし)との間に出来た、長女となることになる掄子(りんし:女王・准三后で後宇多天皇後宮となった)の、宰子の懐妊である。この年の九月二十一日に生まれているから、妊娠後、かなり気づかずに過ぎていたことが判る

「業昌(なりまさ)朝臣」既出。幕府附陰陽師。

「天曹地府(てんさうちふ)の祭(まつり)」陰陽師が修する重要な祭りの一つ。「六道(ろくどう)冥官(みょうかん)祭」「天官地符祭」とも呼び、「曹」は縦の二本棒を一本棒にした特異な画の字「曺」を用いるのが正しい。十一世紀ころから祀られ、安倍氏が鎌倉幕府の陰陽道を支配してから、この祭法は盛んとなった。泰山府君を中心とした十二座の神に金銀幣・素絹・鞍馬を供えて祀る(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「側痛(かたはらいた)し」他人の言動を自分が側で見聞きして、気に入らないと思っている際の実に不快な気持ちを意味する。「大いに腹立たしい・頗る苦々しい・如何にもみっともない」。

「貴賤、漫(みだり)に法に違(たが)ひ」そうした不法をお上がお許しになっている様を貴賤の者がみれば、それでいいわけだ、と思って、皆、むやみやたら、手前勝手に不法を働いて、平然としている状態となり。

「大藏〔の〕少輔文親(ふんちか)」紀文元の長男紀文親。彼は従四位下に叙任され、陰陽師として活動する一方、武士としても幕府に勤仕した。

「大炊助(おほひのすけ)文幸(ふんゆき)」文親の弟。ここでも記されるように彼は専ら、幕府の武士として奉公した。

「陰陽寮(おんやうりやう)」律令制に於いて中務省に属する機関の一つで、占術・天文・暦の編纂を担当する部署。

「右筆(いうひつ)」武家に於いて文書・記録を掌る書記職。

「七條人道大納言の御時」「七條人道大納言」第四代将軍藤原頼経(建保六(一二一八)年~康元元(一二五六)年)。将軍在任は嘉禄二(一二二六)年一月から寛元二(一二四四)年四月。

「候(こう)じて」伺候して。

「宿直」「とのゐ」。

「武州前史(さきのさわん)禪室」第四代執権北条経時。

「最明寺入道」第五代執権北条時頼。

「この作法」陰陽師格でありながら、武士としても実務するという判例法。

「官途に於ては、本道を相兼ねざるの間、右筆の役(やく)計(ばかり)をもつて奉公を致すの輩(ともがら)、官位の事、雅意(がい)に任せて補任(ふにん)せらる〻の條、然るべからず」教育社の増淵氏の訳では、『仕官するにあたっては、本職を兼ねないで右筆の訳だけでもって奉公する者は、(武家なのだから)官位の事をわがままに任せて補任されることはよくないことである』とある。よく判らない部分があるが、どうもこの陰陽師連中は、官位の昇進を、かなり自由にお上に願い上げることが出来た(武士階級は出来なかったのに)現況があったものと読める。

「文親(ふんちか)は本道を相兼ね」紀文元の嫡男であるから、陰陽師を辞めることは出来ないからであろう。特例である。但し、当然、そこには妄りに官位を懇請しないという一札は入れているに違いない。「吾妻鏡」を読むと、原則、官位を受ける場合は陰陽師としての職には勤務しないと言っているように読めるからである。ところが彼は既に「大藏〔の〕少輔」であり、同時に現役の幕府附陰陽師であるからである。

「文幸(ふんゆき)は右筆計(ばかり)を勤めければ」兄を特例で認めた分、弟は武士格で抑えたのである。当然、奢侈に過ぎること、横暴な言動をしないことを、やはり一札、入れさせられたであろう。

「相論の事も自(おのづから)相止みけるとかや」これはしかし、おかしい。この二人の論争は、元は所領争いであるから、これで、カタがつくはずがないからである。或いは所領争いの方は、遙かに文元側に理があり、悔し紛れに、その息子どもに八つ当たりして、訴訟を混乱させただけだったのかも知れぬ。

 

 論争部の「吾妻鏡」を引いておく。

 

○原文

廿三日庚申。高柳彌次郎幹盛與縫殿頭文元。就所領有相論事。幹盛確執之餘。訴申云。文元乍爲陰陽師。其子息等帶太刀等。偏如武士。早可爲本道威儀之由。可被仰下云々。仍今日有評議。彼子息大藏少輔文親。大炊助文幸等雖爲陰陽師子孫。相兼右筆之上。七條入道大納言家御時。就幕府官仕。或勤宿直。或爲格子上下役。武州前史禪室。最明寺禪室二代。以如此作法可令奉公之由被仰畢。今更難改之。但於官途者。不相兼本道。以右筆役計致奉公之輩。限官位。任雅意被任之條不可然。蒙御免可任之旨。被仰出云々。文親者相兼本道。文幸者右筆計也。

○やぶちゃんの書き下し文

廿三日庚申。高柳彌次郎幹盛と縫殿頭文元、所領に就き、相論の事、有り。幹盛、確執の餘り、訴へ申して云はく、

「文元、陰陽師たり乍ら、其の子息等、太刀等を帶し、偏へに武士のごとし。早く本道の威儀たるべきの由、仰せ下さるべし。」

と云々。

仍つて、今日、評議有り。彼の子息、大藏少輔文親・大炊助文幸等、陰陽師の子孫たりと雖も、右筆(いうひつ)を相ひ兼ぬるの上、七條入道大納言家の御時、幕府の官仕に就き、或いは宿直(とのゐ)を勤め、或いは格子(かうし)上げ下ろしの役たり。武州前史禪室・最明寺禪室の二代、かくのごときの作法を以つて奉公せしむべきの由、仰せられ畢んぬ。今更、之れを改め難し。但し、官途に於ては本道を相ひ兼ねず、右筆の役計(ばか)りを以つて奉公致すの輩(やから)、官位に限り、雅意に任せいぇ任ぜらるの條、然るべからず。御免を蒙りて任ずべきの旨、仰せ出ださると云々。

文親は本道を相ひ兼ね、文幸は右筆計りなり。]

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