譚海 卷之一 紀州侯奸臣を刑戮し給ふ事
紀州侯奸臣を刑戮し給ふ事
○紀州家の領所勢州に十萬石あり。松坂もその内なり。松坂豪富の者おほく、人々江戸に肆廛(してん[やぶちゃん字注:商店・店舗の意。実は底本は「肆塵」となっているが、これでは意味不明である。原本の誤記と断じて、特異的に本文を訂した。]をひらき贏利(えいり)を得て渡世す。江戸に大家の聞え有(ある)主人は、古く松坂所住の者也。然る所紀州に收斂(しうれん)の臣出來て、此歳(このとし)領所の町人に用金を命じ收納する事と成(なり)しに、松坂の商人いつもその内に有(あり)。たとへ領地をさり他邦に土着し商賣するものも、子孫に至るまで所帶のある限りは責(せめ)とらるゝ事と成(なり)たるゆへ、生國を祕し姓名をかえて他邦にあれども、露顯に及ぶ時は用金を出(いだ)さする。強(しい)て命に應ぜざれば、そのところの領主代官等に斷(ことわり)、當人を紀州に呼(よび)よせ、數年禁錮等に所せられ、はたりとらるゝゆへ難儀にたへず。悪敷(あしく)しては産を破り、妻子離散路頭に號泣する程(てい)云(いふ)斗(ばかり)なし。三井(みつゐ)成(なる)ものは松坂本宅にして、京都・江戸所々にも呉服みせ有(あり)。富有なれば年々用金を命ぜられし事數度に及べり。明和五年冬三井を紀州へ召され、登城目見得(めみえ)の上(うへ)羽織をり賜(たまひ)、膳菜丁寧成(なる)事にて饗應ありし後、又用金を命ぜられければ、松坂へ還り卽時に五萬兩奉り謝しける。又翌年春命を奉じて吏(り)來(きたり)て十五萬兩、其年の師走までに奉るべきよしを催す。三井命にたへず、逐に門戸をとぢ病氣と稱し、吏再三來(きた)れ共(ども)あはざりけり。是等の事やうやう君公の聽(てう)に達し、嚴敷(きびしく)せんさくありて、姦臣の慘刻なる事をしろし召(めし)、大勘定の奉行松本甚五兵衞といふ者を手づから殺戮し給ひ、其餘切腹追放等連座によぶもの數十人、はじめて淸廉(せいれん)に復(ふく)しけり。扨(さて)松本が家を籍沒(せきぼつ)せられしに、臟金四萬兩餘あり。其外松坂の商人に貸置(かりおき)たる金子(きんす)の證文おびたゞしくあり。私慾顯然(けんぜん)なりければ、其證文をば松坂の莊屋年寄をもちて、當人に返し給(たまは)りぬるよし。莊屋紀州にて證文を受取(うけとり)、荷にこしらへて松坂へ持參申(まうし)けるが、馬四疋にあまりたりとぞ。
[やぶちゃん注:この話柄、極めてに細部まで詳細に語られており、「紀州」(紀州藩)で「大勘定の奉行松本甚五兵衞」とちゃんと明記されており、松本以下、連座で多数の「切腹追放」がなされているにも拘らず、ネット検索に全く掛かってこない。しかし、本文中に「明和五年」(一七六八年)とあることから、これは第八代藩主徳川重倫(しげのり 延享三(一七四六)年~文政一二(一八二九)年)の治世(藩主在任は明和二(一七六五)年~安永四(一七七五)年)の出来事であることが判る。ところがこの藩主、たった十年弱(九年十一ヶ月)の藩主在任で、しかも三十前で隠居している。ウィキの「徳川重倫」を見ると、この藩主自体が、実はかなりのクセ者であることも判明する。『伊勢参りが趣味で』、『性格は徳川御三家の当主とは到底思えない傍若無人ぶりで、家人などに対して刃を振り回したりすることも少なくなく、そのために幕府から登城停止を命じられることも少なくなかったという』。大田南畝の『「半日閑話」によると、江戸屋敷で隣家の松平邸(松江藩)の婦女を銃撃したこともある。理由は、夕涼みをしていたその婦女が自分の屋敷を見下しているかのように見えたことが、重倫の逆鱗にふれたとされているほか、幕府から素行の悪さを咎められて登城停止を命じられていたため、その腹いせでやったといわれる。後日』、『幕府から使者が派遣されて詰問されると、「あれは鉄砲を撃ったのではなく、花火を打ち上げただけだ。なのに天下のご直参(旗本)が花火の音にうろたえるとは何事か」と言い返して笑ったという』。三十歳(数え)の『若さで隠居した理由は、あまりの素行の悪さから幕府に強制的に隠居を命じられたためともいわれる』とある。このトンデモ藩主なら、佞臣に気づかず、気づいた途端に怒り心頭に発し、大殺戮し兼ねない気は十分に、する。
「刑戮」「けいりく」刑罰に処すること。死刑に処すること。
「紀州家の領所勢州に十萬石あり」以前に注したが、紀州藩は紀伊国一国と飛び地として伊勢国南部(現在の和歌山県と三重県南部)を所領とした。伊勢国には飯高郡の全域と、三重郡に一村・河曲郡内に三十五村・一志郡内に五十八村・多気郡内に九十七村・伊勢神宮のあった度会郡内には百四十七村もの紀州藩領があり、伊勢南部三郡で十八万石あった(石高には家臣分を含む)とウィキの「紀州藩」にある。
「松坂もその内なり」紀州藩の藩領(飛び領地)になったのは元和五(一六一九)年。これは紀州徳川家第一代藩主徳川頼宣が藩主となった年である。
「贏利(えいり)」儲け。利益。「贏」は「余り」の意。
「收斂(しうれん)の臣」「收斂」はフラットには「租税を取り立てること・収税」の意であるが、ここは以下の文脈から見て、苛斂誅求の取り立てをする酷吏(実は私腹を肥やす佞臣)と読める。
「はたりとらるゝ」「はたる」は「催促する・促して責める・取り立てる」の意。
「悪敷(あしく)しては」最悪の場合は。
「三井(みつゐ)成(なる)もの」現在の三井グループの家祖三井高利は元和八(一六二二)年に伊勢松阪(現在の三重県松阪市)で生まれている(「三井広報委員会」の記載)。ウィキの「三井家」によれば、『三井家の家伝によると、藤原道長の六男長家の五代孫右馬之介信生が近江国に土着し、武士になったのが三井家の始まりとされるが、史料の裏付けはない』第十二代『出羽守乗定が近江半国守護六角氏から養子高久を迎え、以降六角氏に仕えるようになり、「高」を通字とした。しかし高久の五代孫越後守高安の代、織田信長の上洛によって六角氏とともに三井氏は逃亡し、伊勢国松坂近くの松ヶ島に居住するようになったとされる』。『慶長年間には高安の子高俊が武士を廃業して松坂に質屋兼酒屋を開き、商人としての三井家が創業された。屋号の「越後屋」は高安の受領名に基づく。高俊の後は嫡男俊次が継いだが、実際の商売は高俊の妻殊宝が取り仕切り、越後屋を発展させた。寛永年間始め頃江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開き、後に呉服屋となった。この家は釘抜三井家と呼ばれる。高俊の次男弘重と三男重俊も江戸や松坂で自らの店を開いている』。『一方で高俊の四男高利は俊次の元で手代同様に働きながら経験を積み、一時は本町四丁目の店を任されるほどになったが、母の看病のため松坂に帰った。しかし俊次の死後』、延宝元(一六七三)年に『再起し、長男高平を江戸に送り込んで本町一丁目に呉服屋「越後屋」を出店した。高利自身は本拠を松坂から京に移し、彼の指図で越後屋は急速に業績を拡大し釘抜三井家を上回る大商店へと発展した』。貞享四(一六八七)年には『幕府の納戸御用』、元禄二(一六八九)年には『元方御用を承っている。また両替商もはじめ』、元禄三(一六九〇)年には『幕府の為替御用を受けるようになった。こうして高利・高平の北家が三井家惣領の座を確立した。高利は嫡子で』十人、庶子一人『の男子を儲け、本家と』六『つの庶家を創設した。しかし高利は死にあたって兄弟中の「身代一致」を遺言し、身代を惣領の指導に基づく兄弟の共有財産とすることで財産の分割を防いだ。この事で三井家は強固な結束を持つ共同組織となり、江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けた』。また、兄弟達は年元禄七(一六九四)年に『家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立するとともに、利益の一部から生活費として賄料が各家に対して支給され各家の家政と三井家の事業の分離が図られた』。北家三代『高房以降、代々当主は三井八郎右衛門を名乗った。高房は豪商達の興隆・衰亡を記した『町人考見録』を著して地道な商売の必要性を唱えて大名貸などの派手な取引を禁じていることで有名である。ただし、破産した取引先が持っていた大名貸債権を引き受けさせられたりしたため、三井家と言えども大名貸とは無縁というわけにはいかなかった。また、高房は贅沢を戒めることも説いているが、皮肉なことに北家と八郎右衛門を継いだ長男高美は美術品の蒐集や信仰していた西教寺への寄進などのために大元方からの多額の負債を抱え』、延享四(一七四七)年には『隠居していた父の意向で八郎右衛門の返上に追い込まれた。その後、出家して実子の三井高清(後に八郎右衛門を継承)に北家を譲った高美は三井家からの離脱を申し入れるものの、実際には秘かに借財を続けていたことが発覚』、宝暦六(一七五六)年に『義絶(一族からの追放)処分を受けている。もっとも、高美の例は極端なものであり、他の三井諸家でも賄料を越える奢侈な生活によって負債を抱えており』、安永三(一七七四)年には『三井家は』三つの集団(『三越越後屋を担う北・新町・家原・長井家と両替店・糸絹問屋を担う伊皿子・室町・南・小石川家と松坂の店舗を担う松坂・鳥居坂・小野田家)に分裂するとともに一族の借財や大名貸による負債を清算した。その後』、寛政九(一七九七)年に『再統合されるものの、その後も一族の借財や内紛は度々発生した』とある。本話は後に出る通り、「明和五年」(一七六八年)のことであるから、ここに出る「三井」は当時の当主であった第五代三井高清(たかきよ)か或いは第六代高祐(たかすけ)である。
「五萬兩」「十五萬兩」現行江戸中期の一両八万円換算説(ここではそれより少し前であるから、もっと高値と考えてよい)によるなら、それぞれ四十億円、百二十億円に相当する。
「君公」藩主。第八代藩主徳川重倫。
「せんさく」「穿鑿」。
「慘刻」「残酷」。
「籍沒(せきぼつ)」罪人の財産を官府が没収すること。]
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