祖父遺品の絵葉書から――「松花江 和田香苗 筆」
[やぶちゃん注:表は最上部に右書きで「郵便はがき」、切手欄の中に「軍事郵便」、中央の区切り線の真ん中に右書きで「(陸軍恤兵部發行)」、最下部に右書きで「東京・一瀨印行」とある。
「松花江」(しょうかこう/中国音「ソンホワチアン」)は中国東北部を流れる川で、ウィキの「松花江」によれば、『満州語では松花江は「松阿里鳥喇(スンガリ・ウラー、sunggari ula)」すなわち「天の川」と呼ばれており、この地に入ったロシア人もスンガリ(Сунгари)と呼んだ。第二次世界大戦前の日本、殊に満州国時代の日本人の間でもスンガリ川の名で知られている』。『アムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変え』、『しばらく吉林省と黒竜江省の境の東北平原を流れてから黒竜江省に入り、ハルビン市街区のすぐ北を流れる。その後牡丹江などの大きな支流をあわせて三江平原の湿地帯に入り、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する』。長さは千九百二十七キロメートル、流域面積は二十一万二千平方キロメートルに及ぶ。『冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達する』とある。
「和田香苗」(明治三〇(一八九七)年~昭和五二(一九七七)年)は東京都港区生まれの洋画家。光風会会員。大正九(一九二〇)年、東京美術学校西洋画家(岡田三郎助教室)卒。卒業の年の十一月に渡米、シカゴに赴き、翌年八月にパリに移った。大正一二(一九二三)年二月までヨーロッパ各地を遊学して三月に帰国、同年四月から東京高等工芸学校の絵画授業を嘱託され、翌年助教授、昭和六(一九三一)年教授となり、昭和二〇(一九四五)年三月に退官したが、その後も講師として昭和二四(一九四九)年まで勤めた。後、工学院大学講師、次いで教授。美術学校卒業の大正九(一九二〇)年の第二回帝展で「オルガンノソバ」が初入選、以後、帝展・文展に出品、大正一二(一九二三)年に文展無鑑査。光風会展にも出品、昭和八(一九三三)年、光風会会員となり、後に評議員を務めた。戦後も日展・光風会展に出品したほか、同二二(一九四七)年、同志十名と国際観光美術協会を結成している。彼は昭和一三(一九三八)年五月に陸軍嘱託画家となっている(「東京文化財研究所」公式サイト内のこちらのデータに拠った)。]
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