甲子夜話卷之二 28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事
2―28 上野御本坊にて、狐、樂を聽く事
岸本應齋が【輪王寺宮の坊官、後罪ありて廢す】話し迚傳聞す。かれ坊官にてありしとき、上野の本坊にて樂あり。其合奏の際、不斗見たるに、書院の上段の床の上に狐あり。樂を聽て歡喜の體なり。人々驚き誰彼と呼びたて、もの騷しくなりたれば逃去ぬ。感心して出たる者なるべしとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「上野御本坊」寛永寺。
「岸本應齋」不詳。識者の御教授を乞う。
「輪王寺宮」「りんのうじのみや」と読む。「輪王寺」は現在の栃木県日光市山内にある天台宗日光山輪王寺。但し、江戸時代までは神仏習合で、東照宮・二荒山神社と併せた一体の「日光山」という祭祀総体の一つであった。ウィキの「輪王寺」の「江戸時代」によれば、『近世に入って、天台宗の高僧・天海が貫主(住職)となってから復興が進』み、元和三(一六一七)年に『徳川家康の霊を神として祀る東照宮が設けられた』際、輪王寺本堂は現在、『日光二荒山神社の社務所がある付近に移され』ている。正保四(一六四七)年、第三代『徳川家光によって、大雪で倒壊した本堂が再建され、現在の規模』となり、承応二(一六五三)年には『家光の霊廟である大猷院(たいゆういん)霊廟が設けられた。東照宮と異なり』、『仏寺式の建築群である大猷院霊廟は近代以降、輪王寺の所有となっている』。明暦元(一六五五)年、『後水尾上皇の院宣により「輪王寺」の寺号が下賜され(それまでの寺号は平安時代の嵯峨天皇から下賜された「満願寺」であった)、後水尾天皇の』第三皇子守澄法親王(しゅちょうほっしんのう)が『入寺した。以後、輪王寺の住持は法親王(親王宣下を受けた皇族男子で出家したもの)が務めることとなり、関東に常時在住の皇族として「輪王寺門跡」あるいは「輪王寺宮」』『と称された。親子による世襲ではないが』、『宮家として認識されていた。寛永寺門跡と天台座主を兼務したため「三山管領宮」とも言う』。『輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺及び寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住持を兼ね、比叡山、日光、上野のすべてを管轄して強大な権威をもっていた。東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)』とある(下線やぶちゃん)。即ち、「輪王寺宮」とは宮家であり、彼は輪王寺住持・寛永寺門跡・天台座主(これらを纏めて「天台一宗総本寺」と称した)であったのであって、現地、日光の輪王寺にいたわけではなく、江戸に常住していたと考えるべきであろう。
「坊官」門跡家などに仕え、事務に当たった在俗の僧。剃髪して法衣を着たが、肉食妻帯・帯刀を許された。「殿上法師」「房官」とも称する。
「迚」「とて」。
「不斗」「ふと」。
「床」「とこ」。
「聽て」「ききて」。
「誰彼と呼びたて」「たれかれとよびたて」。誰彼(だれかれ)となく驚きの声を挙げて。
「逃去ぬ」「にげさりぬ」。