「崖」について 梅崎春生
日記というものは、やはり努めて怠けずにつけるべきだと思う。
終戦後も、気の向いた時だけつけていたが、今それを取出して読み直すと、書きつけた部分だけはぼんやり覚えているが、その他の部分は茫々として、夢の如きものがある。年齢のせいで記憶力がいくらか減退したせいもあるが、昔のことをあまり思い出したくないという力が、私の内ではたらいているためかも知れぬ。
手元にある大判ノート日記帳、昭和二十一年十一月二十三日の日付けで、「『崖』四※枚まで書く」という記述がある。四※枚の「○」の真中にちょんがついているのは、海軍暗号兵の習慣がまだ抜けていないからで、海軍では零(ぜろ)とローマ字のOを区別するために、零にはチョンをつけていた。[やぶちゃん字注:「※」は「〇」の中央に「ヽ」が入った記号。]
「近代文学」が小説を書け(はがきだったが、名前は誰だったか忘れた)と言って来たのは、だから十一月中旬あたりかと思う。私は独身で、柿ノ木坂の友人宅の三畳間にころがり込んでいて、ひどく貧乏であった。
同十一月二十七日の分に、
「左は借金表」
とあり、いろいろ借金の表がある。実にさまざまな人に金を借りている。「自由堂、都書房の使い込み、四六一円」という項もある。当時私は某書店につとめていて、そこで金を使い込んだらしい。(らしいではなく、ちゃんと覚えているけれども、あまり思い出したくない)
そのあとに「入るあてがあるもの」という項があり、一番最初に「『近代文学』より五百八十五円」と書いている。二十七日にはもう書き上げて、届けたものと見える。
稿料は一枚十円という約束であった。五百八十五とは解せぬ数字だが、税金をこちらで引いて計算したのである。今逆算して見たら、一割五分引きでは、勘定に合わない。一割引きとすれば、ちゃんと合う。六十五枚。六百五十円。その九割が五百八十五円だ。あの頃源泉課税は一割だったようだが、その実感は今残っていない。
その稿料は年内には入手出来ず、二十二年になって貰ったように思う。場所もぼんやりとしか覚えてないが、何か掘割に面したうすら寒いような部屋であった。稿料を渡して呉れたのは、本多秋五さんだったような気がする。今でもはっきり覚えているのは、その稿料は五百八十五円でなく、六百五十円であったことだ。私はたいへん儲けものをしたような気がして、うれしかった。今思うと近代文学社は、ちゃんとした企業体の出版社でなかったから、源泉徴収なんかをする必要がなかったのだろう。
「崖」は二十二年「近代文学」二・三月合併号にのった。
でも、あの頃の六百五十円は、あまり使いでがなかった。同年一月二十五日の日記に「サーカスに行き、かえりお喜代にて二百円消費す」とあり、帰宅して非常にむなしがっている。お喜代というのは当時有楽町マーケットのカストリ屋で、カストリ一杯三十円か四十円だったと思う。つまりカストリ一杯飲むために、原稿を三枚か四枚書かねばならなかった。稿料一枚分でほんとの清酒一合飲めるような時代は来ないかなあ、というのが私の久しい嘆きであった。
[やぶちゃん注:昭和三五(一九四〇)年十二月号『近代文学』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。底本解題に初出『誌では「崖について」となっている』とある。ここでは「手元にある」昭和二一(一九四六)年の「日記帳」が引かれているが、底本には同年の抜粋版の同「日記」が載る。短いので、同年総てを以下に示す。梅崎春生が述べている十一月二十三日附のマルチョン記号は「十」にされてあり、十一月二十七日附の「借金表」は編集部がそれを説明しているだけで割愛されている(その編注は除去した)。
*
昭和二十一年
十月十四月
辰野先生より来信。
つまらぬ作品を注文者にわたすな。やせても朽(か)れても、片々たる作品を書くな、ということ。ダラダラしていた気持が、これでピンとスジガネ入る。
行く道は一筋の外なし。此の自明のことが此の暫く判らなかったのだ。
十月二十九日
「新生」の原稿「独楽」三十六枚まで書いた。これで良いような気もするし、またドダイ悪作で、かえされそうな気もする。自信はない。
十一月二十三日
「崖」四十枚まで書く。
十一月二十七日
吉田君より百円うけとる。之が全財産。
石鹼を買う。
左は借金表。
十二月十二日(木)
ここには事実だけしかない。善悪はない。
真実は一つしかない。それは内奥の声だ。
自分のために生きるのが、真実だ。爾余(じよ)の行動は感傷にすぎない。
皆が修羅である。
独楽(こま)のようにひとりで廻り、そして廻りつくして倒れる他ない。
勲章がより所である。
俺は目の覚めるようなものを見たかったのだ。ただそれだけだ。
自分が何を考えているか判らなくなった。
おれは幽鬼のようにさまよい出たのだ。
*
「崖」昭和二二(一九四七)年二・三月合併号『近代文学』に初出、後に単行本「桜島」(昭和二十三年三月大地書房刊)に再録された。近日、電子化する。
『近代文学』昭和二一(一九四六)年一月から昭和三九(一九六四)年八月まで続いた月刊文芸雑誌。第二次世界大戦中に大井広介の『現代文学』に拠っていた人々を中心に、敗戦後の
昭和二十年の秋に結成された近代文学社の機関誌。本多秋五(後注参照)・平野謙・山室静・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄の七人を同人とし、文学者の戦争責任と転向問題、マルクス主義文学運動の批判などを軸に近代的自我の確立を唱え、荒正人「第二の青春」(昭和二一(一九四六)年)、平野謙「島崎藤村」(一九四七年)、本多秋五「小林秀雄論」(一九四八年)、佐々木基一「個性復興」(同年)の評論や、埴谷雄高の小説「死霊(しれい)」(一九四六年~一九四九年:初期部分)などを掲載した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「私は独身で、柿ノ木坂の友人宅の三畳間にころがり込んでいて、ひどく貧乏であった」昭和二一(一九四六)年の底本別巻の年譜を引く。二月、『目黒柿ノ木坂一五七松尾方(八匠衆一)に鬼頭恭而と三人で同宿生活』。三月から『赤坂書店編集部に勤務』(十二月に『退職)』。九月、『「桜島」が浅見淵の紹介によって「素直」創刊号に発表される』とある。
「本多秋五」(ほんだしゅうご 明治四一(一九〇八)年~平成一三(二〇〇一)年)は愛知県西加茂郡(現在の豊田市)出身の文芸評論家。名古屋の第八高等学校を経て、昭和七(一九三二)年、東京帝国大学国文学科卒業。同年、プロレタリア科学研究所に入り、検挙されたのち、『戦争と平和」論』の執筆に没頭した。戦後は先に示した『近代文学』創刊に参加、「芸術・歴史・人間」を発表。以後『「白樺派」の文学』「転向文学論」などで重厚な評論を展開した。明治大学大教授。
「同年一月二十五日の日記」底本の昭和二二(一九四七)年の「日記」には以下の記事は載らない(抜粋版のため)。]
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