谷の響 一の卷 十五 猫寸罅を脱る
十五 猫寸罅を脱る
己れ少年の頃、什麼(いづれ)の猫にや有けん最(いと)大きなるが累夜(よなよな)來りて庋格(ぜんだな)を荒し、食を掠喫(とりくら)ひ器物(どうぐ)を損ふこと人の業かと思はるゝまでなりき。左有(さる)からこを捕獲(とらへ)て苛きめ見せんとすれど、疾(とく)逃去りて奈何とも爲術(せんすべ)なし。一日(あるひ)二個(ふたり)の僕(しもべ)と議(はか)りてその避(のかれ)るべき處の隅々(くまくま)を塞(ふさ)ぎ、當夜(そのよ)は三人ともに寢もやらで覗ひしに、又例(いつも)のごとく來りて厨下(だいどころ)に至れり。僕とも密(ひそか)に燈(あかり)を點し急に起身(おこりたち)、手々(てにてに)に棍(ぼう)を振り𢌞して追ひ詰るに、猫はいたく狼狽(うろたへ)て四邊(あたり)に亂趨(くるひまはり)しが、遂に井(ゐど)の傍(かたへ)なる格子を撞(つ)き貫(ぬ)いて脱走(にげうせ)にき。さるにこの猫は大さ小狗の如き逸物なるから、必然(さだめし)格子を破碎(やぶり)て脱(のがれ)しならんと燈火(ともしび)をよせて見やりたるに、一口(すこし)の殘缺(いたみ)もなく又緩弛(ゆるむ)こともなかりしなり。
且説(さて)、この格子の僚子(こし)を排序(ならべ)たる空間(すきま)は一寸四五分に過ざるに、その罅(あひだ)よりかかる犬猫の脱(のが)れ出たるはいと怪しき事と言ふべし。僕等をとこども)の言ふ、猫は魔の物としあればこの小間(すき)よりも出るも理(ことわり)ならん。さりとは意慮不安(きみわろし)といふて笑ひしなり。こは妖魔のなす業かはしらぬなれど、又上梓(かみくだり)なる魔の葉貫と言ふに近かる理とも思はる。
附て言ふ。往にし頃、大蝦蟇の鳥籠の目を
潛りしことありて、この猫と類する話あれ
ど、又蟇のことにも同じことあればしばら
く玆に載げず。
[やぶちゃん注:標題「猫寸罅を脱る」は「猫、寸罅(すきま)を脱(のが)る」と訓じておく。「寸罅」は音読みするなら「スンカ・スンケ」であるが、和訓上手の西尾なら本文に照らして「すきま」と読みたい。本文に出る他の「あひだ」や「すき」ではパンチが出ない気がする。
「庋格(ぜんだな)」「膳棚」。「庋」も「格」も孰れも「棚」の意しかなく(「庋」(音「キ」)には他に「置く・仕舞う」の意がある)、特に食膳や食器の意は持たないから、かなり遊んだ当て読みである。
「業」「わざ」。
「左有(さる)から」そんな訳で。そこで。
「苛きめ」「いたき目」と訓じているか。
「僕とも」ママ。複数を示す「ども」であろう。
「大さ」「おほいさ」。
「小狗」「こいぬ」。
「逸物」「いちもつ」ここは普通の猫と比べて群を抜いて大きいことを指す。
「緩弛(ゆるむ)こと」二字へのルビ。
「僚子(こし)」「僚」は「同じ役目をする仲間」であるから、並んで組んである格子の桟(さん)の単位、一本を指しているものと読める。「格子」の略ではなく、「層(こし)」ではないかと推察する。
「一寸四五分」約三センチ二ミリから四センチ五ミリ。
「さりとは」それにしてもそのように平べったくなって抜けたというのは。「さりとも」の方がすんなり読める。
「意慮不安(きみわろし)」四字へのルビ。何とも柴田天馬訳の「聊斎志異」を読んでいるようで面白い和訓である。
「上梓(かみくだり)なる魔の葉貫」「上梓」は「前に掲げた条」の意。これは前の「十四 ※子(くだ)抒(をさ)を脱れ鷹葉を貫く」(「※」=(たけかんむり)+「孚」)の後段【この条は前段の機織りの怪異の箇所が私には一部理解出来ないため、実際の機織りをなさっている知人に問合せ中なので、電子化はしばらくお待ち戴きたい。悪しからず。】、「鷹の葉貫(ぬき)といへるもこれと等しき一奇事なり。こも世の人の知れる如く、鷹を役(つか)ふに其脚に早緒(を)と言ふを附て放ちやれば、その鷹鳥を追ひて樹の間(あはひ)を飛翔るに、いかなる拍子にやあらん、一片(ひら)の葉を貫くことありて、其葉また緒の中間(なか)に係りてその緒の頭(さき)は鷹の脚に着き、後の端は役ふ人の掌中にあり。これも鷹役ふ人にはまゝあることゝて、古川某語りしなり。是等は實に奇(くす)びの中の奇びと言ふべし」という、鷹匠の手と鷹の脚で完全に閉鎖された糸の中間に、中央をその糸で貫かれた木の葉が入るという超常現象(これは実はその前の「十三 自串」の、生きた雲雀が生木の根と枝葉の間の幹に突き抜かれてばたついている例、西尾の自邸の梨の、木の葉の同様の貫きのケース、また同様の薄の中間の鮒の例をも受けている)を指す。
「理」「ことわり」。人知では解明し得ない超自然の「理」ということになるか。
「附て言ふ」「つきていふ」。これについて附言しておく。
「往にし頃」以前に。
「大蝦蟇」「おほがま」。ガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)。
「鳥籠の目を潛りしことありて」この格子なんどよりももっと狭い細かな鳥籠の格子の目をガマガエルが抜け通って(小鳥を食ってしまった)。
「蟇のことにも同じことあればしばらく玆に載げず」「ガマガエルについては、似たような怪異が多く語られているので、暫くはここには掲げない」の謂いでとっておく。ガマガエルが霊気を吐いて外敵を殺したり、液状に変化(へんげ)して姿を消滅させたりするという話は民俗伝承の中で、しばしば聴くものである。]