佐渡怪談藻鹽草 仁木何某懷胎怪異の事
仁木何某(なにがし)懷胎(かいたい)怪異の事
承應二年の事ならん。仁木氏何其の妻、或日、黃昏の事なるに、連合(つれあひ)は、親しき友の方へまかりて、留主(るす)には、其身と召遣の女而巳(のみ)居寄(より)て、物淋敷(さみしき)世上の噺など相語(かたら)ふ折から、門に物もふと乞(こふ)人有(あり)。件(くだん)の下女、立出(たちいで)て見れば、若き僧のいやしからぬが立寄(たちより)て、
「爰(こゝ)元は、仁木與三左衞門殿の御居宅にや」
ととふ。
「左樣」
と答ければ、
「拙僧は、寺町本典寺の使僧にて候。そと御見參に入候わん」
と乞(こふ)。下女此由告(つげ)ければ、主の答へしは、
「連合何某は、所用に付(つき)て他へ出(いで)ぬる旨、答へよ」
とて、かくと告ければ、
「左あらば、御内室樣へ申置候半(まうしおきさうらはん)」
と言(いふ)に、
「さらば」
とて、請(せう)じ入(いれ)對面あれば、憚入(はゞかりいり)たる風情にて、手を束(たば)ね、
「愚僧は、最前申(まうす)如く、本典寺使僧にて候。當住何某申入(まうしいれ)候は、近頃の懇望に候得共、御手前樣の胎内を御かし被下候得(くだされさうらへ)と達て御賴申(おたのみまうし)候條(じよう)、宜(よろしく)御答被下(くだされ)かし」
と言舌さわやかに演(えんじ)ければ、女主答へて、
「惡穢不淨の某(わらは)に、折入て御賴(おたのみ)、先(まづ)は忝(かたじけなく)存(ぞんじ)候へ。去(さり)ながら、夫(をつと)何某他行候得ば、歸りの節、得斗申聞(とくとまうしきか)せてこそ、□□出御返事申さん」
と也。使僧不興氣にて、
「さあらば、かわる子細も候はゞ、聖人方へ御筆談あるべし。又かわる事なきならば、御答に不及(およばぬ)」
旨、しかしか言(いひ)て歸りぬ。無程(ほどなく)、與三左衞門歸りければ、有(あり)し事ども語りけるに、
「夫(それ)は必定(ひつじよう)、轉寢の夢にこそ」
と大きに一笑して、下女に
「かゝる事ありや」
と尋ければ、去(さる)事一向存(ぞんじ)候へず。暫く臺所に居眠り候内、夢現(うつつ)ともなく、僧の一人、門より入(いり)來れば、今更思ひあたり候樣答(こたえ)ける。夫(それ)より二三日過(すぎ)て、
「寺町本典寺の住持身まかりけり」
と、人々沙汰しあへれば、
「扨(さて)わ」
と各(おのおの)驚きあひぬ。其月より懷胎して一子を生む。幼名竹藏といふ。後に與三兵衞といひ、天晴(あつぱれ)力量ありて、氣剛に、書を讀(よむ)事、終日飽(あか)ず、□字に眼をさらし、神邊に御裔川の編集を□□、筆は御家流を明(あきら)めて、其世に能書と名しられ、彼(かの)本典寺の住持在世の時、法華經を書寫せしに、一部滿(みた)ずして終(をはり)しが、其後與三兵衞書繼(かきつぎ)ければ、同筆のやうになんありしとぞ。
「正しく其僧の生をかへしにこそ」
と、世こぞつて言(いひ)はやせしとなん。
[やぶちゃん注:□は底本自体の判読不能字である。孰れの箇所も私には仮措定すら出来ない。
「仁木何某」本書に多出する佐渡奉行所地役人仁木彦右衛門秀勝の一族の誰かであろう。
「承應二年」一六五三年。
「寺町」現在の佐渡市相川下寺町。この一帯は台地で寺院が密集している。
「本典寺」上記の同地区に日蓮宗栄光山本典寺として現存。元和九(一六二三)年に本山である京都要法寺の第二十一世日躰が佐渡へ来てここに草庵を結んで布教を開始し、寺は寛永六(一六二九)に建立された(例の旧相川地区の「寺社調査」(PDF)に拠る)。
「そと」少し。或いは「内密に」の意も有あり、ここは後の奇体(まさに奇胎)な話柄から両意を含むと読んでおく。
「憚入(はゞかりいり)たる風情」ここは内儀にひどく遠慮している様子ではなくて、話を誰かに聴かれはしないかといった感じでしきりに周囲を憚っている様子を指す。
「手を束(たば)ね」掌を組んで挨拶をする。僧の礼式。
「御かし」「お貸し」。
「達て」「たつて(たって)」。副詞。漢字では他に「強つて」などとも表記するが、「達」も「強」当て字で、本来は「理(ことわり)を斷つて」の意である。「どうしても実現しようと強く要求したり、切実に希望したりするさま」「無理に」「強(し)いて」「如何にしても」「どうしても」の意。
「演(えんじ)ければ」説き、要請したところ。
「惡穢不淨」「あくゑふじやう」。
「折入て」「おりいつて」。
「不興氣にて」如何にも不機嫌な感じを露わにして。
「かわる子細」「變(かは)る子細」。歴史的仮名遣は誤り。お貸し下さることについて変わるお心(変心。胎内を貸さないとする考えに変わること)があったならば。
「聖人」「しやうにん」。本典寺住持。
「又かわる事なきならば、御答に不及(およばぬ)」変わることがないとならば(胎内をお貸し下さるとならば)、その確認の御返事は必要ではない、の意。懇請・要求する側にとって一番、面倒がなく、しかもかなり強引な答え方(対処法)である。私なら、『やられた!』って感じ。但し、この若い僧の説明は、冒頭、仁木與三左衛門にはこの話は既に通してある、という謂い口であるから、女房としては、奇体奇胎の奇怪なる懇請乍ら、即座には断れないのである。
「轉寢」「うたたね」。
「去(さる)事一向存(ぞんじ)候へず。暫く臺所に居眠り候内、夢現(うつつ)ともなく、僧の一人、門より入(いり)來れば、今更思ひあたり候樣答(こたえ)ける」妻の証言と下女のそれが食い違っている。これは下女の記憶の方を操作する幻術をかけたものととるべきではあろう。
「扨(さて)わ」「さては」! 歴史的仮名遣は誤り。
「氣剛」「きがう(きごう)」「剛毅・豪毅」(ごうき)と同じ。意志がしっかりしていて物事に怯(ひる)まぬこと。
「神邊に御裔川の編集を□□」「神邊」(「しんぺん」?)も「御裔川」(「みすゑがは」?)も不詳。但し、「御裔」は「御裔(みすえ)の大田命(おおたのみこと)」を連想させ、この神はかの天孫降臨の際に天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神猿田彦神の子孫神とも、或いは猿田彦神自身の別名とする説もある神の名を連想させはする。この竹蔵、神仏習合の当時、本地垂迹説辺りで「神」道系の周「辺」資料を調べ、「御裔」の大田命に関わる研究を行い、「御裔川」という文献を編集したとでも言うのであろうか? にしても「御裔川」という書は知らぬ。識者の御教授を乞う。
「御家流」「おいへりう(おいえりゅう)」書道に於いては主に武家の公式文書に使われた尊円(そんえん)流の流れを指す。尊円流は伏見天皇の第六皇子で、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗青蓮院第十七世門跡であった尊円法親王(永仁六(一二九八)年~正平一一(一三五六)年)尊円流(そんえんりゅう)が起こした書の流派。「青蓮院流(しょうれんいんりゅう)」「粟田流(あわたりゅう)」などとも呼ばれる。ウィキの「尊円流」によれば、『派生流派が多く、一見隆盛を極めている流派のように見えるが、とくに傑出した能書家はいない(一休宗純が茶道用の掛物として当流を使用しているのがわずかに目立つのみとされる)』。『ただし、武家の公式文書は多く御家流草書で書かれたため、次第に全国のあらゆる階層に普及した。江戸時代には教育熱の高まりとともに、寺子屋などで庶民が学ぶ往来物などの教科書でも御家流の書が用いられていたことから、爆発的に普及。明治に活字文化が普及するまでは、日本の標準書体であったといえる。そのため、江戸時代以前の古文書を読むためには、御家流のくずし字を学ぶことは必須となっている』とある。
「明(あきら)めて」学んで修得し、或いは免許皆伝を得。]
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