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2016/10/18

谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ


 十六 猫の怪  猫恩を報ふ

 文化の季年(すえ)の頃なるが、己が姻族に伊藤某と言へる人あり。平素に猫を愛して撫育(そだて)けるが、候(をりふし)十月の中旬(なかごろ)にして風凛冽(すさまじ)く吹さわぎ、零(おつ)る木の葉は雨のことくいと凌競(ものすこ)き夜なりければ、ひとり冷燈(ともしび)のもとに書(ふみ)を照して閲(み)て在るに、稍(やが)て二更とも覺しきころかの猫へろへろと出來り、席薦(たたみ)二疊ばかりのあなたに居り手をつかへて、嘸(さぞ)お淋(さみ)しく居られませうと人のごとくに言ひけるが、其聲韻(こえ)帛(きぬ)を裂くが如く房(へや)の中陰々(さえわ)たり、蕭然(さびし)き事言はん方なし。某きつと睜眼(にらみ)、さすがに主を想ふてよくも詞を言ひ出したり將(いざ)倶に語るべし、近く倚りねと言はれしに、かの猫主の顏を熟々(つくつく)望視(うちながめ)、忽(たちまち)身を起して座を去りしが、何地(いつち)に往きけん再び見る事なくして失せたりしとなり。

 又、是と同じく藩中田中英の妻、猫を愛して畜(やしな)ひけるが、毎旦(まいあさ)手巾(てぬくひ)の端(はし)の泥土(どろ)に汚(けが)れてありし故異(あや)しく思ひ、童僕(わらべ)どもを詰問(なじ)れども、僉(みな)々知らぬよしして爲方(すべ)なかりしに、一日(あるひ)此妻衣類を洗濯(あらは)んとて未だほの暗きに起出て手水を遣ひて有けるが、この猫手巾を咥へながら裏囿(うら)の方より駈來り、已に裡に入らんとせしが、妻の形容(かたち)を視て驚きたる容子して、其まゝ脱布(てぬぐひ)を放下棄(ほうり)て身を飜(かえ)して遁(にげ)去りけるに、こも復(ふたゝ)び來ることなく行趾(ゆきかた)しらずなりしとなり。こは文政四五年の頃なりしとて、この田中氏語りしなり。又、死人に魅(みい)りしといふ事は、新(あら)町の造酒屋(さかや)兼子某の老母の話あれど、未だその證(たゞし)き說(こと)を得ざれば爰に洩しぬ。

 因(ちなみ)に言ふ。十有餘年の老牡猫は妖(ばけ)て災を爲すものあり。相傳ふ、純黃赤(あかね)色のものは多くは妖を爲す。唯暗室に於て手を以て逆(さかしま)に背を撫れば則光を放ち、或は油を舐(ねぶ)るものはまさに妖を作すべきの表(しるし)なりと、寺嶋氏の和漢三才圖會に載(あげ)り。

 又因に言ふ。世の人多く猫は恩惠(おん)を知らぬものとて苛(から)くあしらふもあれど、彼も情あれば一槪にしか言ふべきにもあらずかし。左有(さる)は語(こと)長けれど、佐々木高貞が閑窓瑣談と言へる册子(ふみ)に載たることを是(ここ)に記して、これが證(あかし)と爲すべし。さてその册子にはいはく、遠江國蓁原(はいばら)郡[やぶちゃん注:「蓁」は「榛」の異体字。]御前崎といふ處に西林院と言ふ一寺あり。この寺に猫の墓鼠の墓といふ石碑(せきひ)一つあり。そもそも此處は伊豆國石室崎・志摩國鳥羽の湊と同じく出崎にて、沖よりの見當に高燈籠を常燈としてありければ、西林院の境内に猫塚の由來を聞くに、ある年の難風に沖の方より船の敷板に子猫の乘りたるが波にゆられて流れ行くを、西林院の住職は丘の上より見下して不便の事に思はれ、舟人(せんどう)をいそぎ雇ひて小舟を走らせ、既に危き敷板の子猫を救ひ取りやがて寺中に養はれけるが、畜類といへども必死を救はれし大恩を深く尊み思ひけん、住職に馴れてその詞(ことば)をよく聞解(わけ)、片時も傍を放れず。斯る山寺にはなかなかよき伽(とぎ)を得たるこゝちにて寵愛せられしが、年をかさねてかの猫早くも十年を過(すぎ)し遖(あつぱれ)逸物(いつもの)の大猫となり、寺中には鼠の音も聞くことなかりしが、さてある時寺の勝手を勤むる男が椽の端に轉寢(ころびね)して居たりしが、かの猫傍に居て庭をながめありし處へ隣の飼猫が來て寺の猫に向ひ、日和もよろしければ伊勢へ參詣ぬかと言へば、寺の猫が言ふ、我も行きたけれど此節は和尙の身の上に危き事あれば他へ出がたしと言ふを聞いて、隣家の猫は寺の猫の側近くすゝみ寄り、何やら咡(さゝや)き合ひて後に別れ行しが、寺の男は夢現(ゆめうつゝ)のさかひを覺えず首をあげて奇異の思ひを爲しけるが、其夜本堂の天井にていと怖しき物音して雷の轟くに異ならず。此筋寺中には住職と下男ばかり住て、雲水の旅僧一人止宿(とまり)て四五日を過し居たるが、此騷ぎに起も出ず。住職と下男は燈火を照して彼是とさわぎけれども、夜中といひ高き天井の上なれば詮方なく夜を明しけるが、夜明けて見れば本堂の上より生血(なまぢ)のしたゝりて落ける故捨置かれず、近きあたりの人を雇ひ寺男と俱に天井の上を見せたれば、かの飼猫は赤に染みて死し、又その傍に隣の猫も疵を蒙りて半ば死したるが如し。夫より三四尺を隔りて、丈二尺ばかりの古鼠の毛は針をうゑたるが如きを生(はや)したる怖ろしげなるが、血に染まりて倒れいまだ少しは息のかよふやうなりければ、棒にてたゝき殺しやうやう下に引おろし、猫をばさまざま介抱しけれども二疋ながら助命(たすから)ず。かの鼠はあやしいかな旅僧の着て居たる衣を身にまとひゐたり。彼是を考へ見れば、舊(ふる)鼠が旅の僧に化て來り住職を喰んとせしを、飼猫が舊恩の爲に命を捨て住職の災を除きしならんと人々感じ入り、やがて二匹の塚を立て法事をせられて囘向し、鼠もいと怖ろしき變化なれば捨て置かれずと、住職は慈悲の心より猫と同じやうに鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶傳へてこの邊(ほとり)を往來の人々の噂に殘れり。塚は兩墓ともものさびて寺中にあり云々といへり。かかれば猫とても恩は忘れぬものなり。豈(いかで)たゞに恩知らずとて慈悲なくすべきものかは。かゝる猫に劣れる人のいと多きは痛むべきことなり。

[やぶちゃん注:「文化」一八〇四年から一八一八年まで。

「某」「なにがし」。

「撫育(そだて)けるが」二字へのルビ。

「凛冽(すさまじ)く」二字へのルビ。音「リンレツ」で熟語としてあり、「凜烈」とも書く。寒さが厳しく身に染み入るさま。「凜凜(りんりん)」も同義。

「凌競(ものすこ)き」読みはママ。二字へのルビ。

「冷燈(ともしび)」二字へのルビ。

「二更」現在の午後九時~十一時、又は、午後十時から十二時までの二時間の夜間の時間帯を指す語。

「へろへろ」見るからに力なく、弱弱しくの謂いであるが、ここは謙虚な感じで、の謂いか。この謙虚さと確信犯での人語の発声、その声のおぞましい不気味さの背後には何が隠されているのであろう?

「席薦(たたみ)」二字へのルビ。

「手をつかへて」礼をするために両手をついて。

「聲韻(こえ)」二字へのルビ。

「陰々(さえわ)たり」二字へのルビ。

「睜眼(にらみ)」)」二字へのルビ。

「熟々(つくつく)」読みはママ。

「何地(いつち)」読みはママ。

「故異(あや)しく思ひ」「ゆゑ、あやしくおもひ」。

「童僕(わらべ)」二字へのルビ。

「詰問(なじ)れども」二字へのルビ。

「起出て」「おきいでて」。

「手水」「てうづ(ちょうず)」。ここは廁のことであろう。

「咥へ」「くはへ」。口にくわえながら。これはこの猫が何かに化けていたことを示すポーズである。

「裏囿(うら)」二字へのルビ。

「駈來り」「かけきたり」。

「裡」「うち」。

「形容(かたち)」姿でもよいが、驚いた顏の方が、映像的には効果的である。

「放下棄(ほうり)て」三字へのルビ。

「文政四五年の頃」一八二一年か一八二二年の頃。

「死人に魅(みい)りしといふ事」「死人」は「しびと」と訓じておく。死者(その猫を可愛がってくれた人物か)に魅入って怪異をなした猫の話。

「新(あら)町」青森県弘前市新町(あらまち)であろう。弘前城南西のここ(グーグル・マップ・データ)。

「未だその證(たゞし)き說(こと)を得ざれば爰に洩しぬ」未だ、その兼子氏の老母自身から親しく話を聴いていないのでここでは割愛することとした。信用に措けぬという意味とは思われない。だったら、西尾は始めっから書かないはずであり、名前まで示したりするほど、えげつない男とは思われぬ。

「純黃赤(あかね)」三字へのルビ。

「暗室に於て」「暗室」は「あんじつ」と読んでおく。真っ暗な部屋で。

「則光を放ち」「すなはち、ひかりをはなち」。これらの条件からは静電気による発光の可能性が認められ、決して怪異とは言い難い気がする。

「作す」「なす」。

「寺嶋氏の和漢三才圖會に載(あげ)り」寺島良安の「和漢三才圖會」の「獸類 卷三十八」の「貓(ねこ)」の良安の猫の一般的な生態の叙述の中には突如、確かに以下のような一節が出る(以下は私の所持する原典を視認して電子化したもの、及び、訓点に従いつつ、私がオリジナルに読み下したものである)。

   *

……凡十有余年老牡猫有妖爲災相傳純黃赤毛者多作妖惟於暗室以手逆撫背毛則放光或舐油者是當爲恠之表也……

(凡そ十有余年の老ゆる牡猫(おすねこ)、妖(ば)けて災ひを爲す有り。相ひ傳ふ、純に黃赤(かあね)の毛の者、多くは妖(えう)を作(な)す。惟だ、暗室(あんじつ)に於いて手を以つて逆に背の毛を撫でて、則ち、光りを放ち、或いは、油を舐(ねぶ)る者、是れ、當(まさ)に恠(くわい)を爲(な)すべきの表(あら)はれなり。)

   *

【二〇二三年十二月二十四日追記】後の二〇一四年四月九日に和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貓(ねこ) (ネコ)」を全文電子化注してあるので、そちらを参照されたい。

「苛(から)くあしらふもあれど」厳しくきつく批判的に扱う向きがあるが。

「彼も」「かれも」。猫も。

「語(こと)長けれど」話が長くなるが。

「佐々木高貞が閑窓瑣談」これは教訓亭貞高(「高貞」は誤り。「春色梅兒譽美(しゅうしょくうめごよみ)」などの人情本で名を成した為永春水(ためながしゅんすい 寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年)の別名)の随筆「閑窓瑣談」(完本は天保一二(一八四一)年成立)の「卷之一」の「第七 猫の忠義」を指す、以下に電子化する。底本は吉川弘文館「日本随筆大成」の第一期第十二巻所収のものを、恣意的に漢字を正字化して示した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。読みは底本では総ルビであるが、この「谷の響の読みを確定出来る場所を含む、一部に限って添えた(その分、後の本文注を減らせるからである)。【 】は底本の割注とするもの。原文には「西林院の住職 小猫の 必死を 救ふ」と題する絵が添えられてあるので、以下の冒頭に掲げておく。

   *

 

Hokusousadaineko

   第七 猫の忠義

遠江國(とほつあふみのくに)榛原郡(はいばらのごほり)御前崎(ごぜんざき)といふ所に高野山の出張(でばり)にて西林院といふ一寺あり、此寺に猫の墓、鼠の墓といふ石碑二ツ有り。そもそも此(この)所は伊豆の國石室崎(いろうざき)、志摩國鳥羽の湊と同じ出崎(でさき)にて沖よりの目當(めあて)に高燈籠(たかどうろう)を常燈(じやうとう)としてあり。されば西林院の境内にある猫塚の由來を聞(きく)に、或年の難風(なんぷう)に沖の方(かた)より船の敷板(いたご)に子猫の乘(のり)たるが波にゆられて流れ行(ゆく)を、西林院の住職は丘の上より見下して不便(ふびん)の事に思はれ、舟人(ふなびと)を急ぎ雇ひて小舟走らせ、既に危き敷板(いたご)の子猫を救ひ取(とり)、やがて寺中(じちう)に養れけるが、畜類といへども必死を救はれし大恩(だいおん)を深く尊(たつと)み思ひけん。住職に馴(なれ)て、その詞(ことば)を能(よく)聞解(きゝわけ)、片時(へんじ)も傍(かたはら)を放れず。斯(かゝ)る山寺にはなかなか能(よき)伽(とぎ)を得たるここちにて寵愛せられしが、年をかさねて彼(かの)猫のはやくも十年(ととせ)を過(すご)し、適(あは)れ逸物(いちもつ)の大猫(おほねこ)となり、寺中には鼠の音も聞(きく)事なかりし。爾(さ)て或時(あるとき)寺の勝手を勤める男が緣(ゑん)の端に轉寐(まろびね)して居たりしに、彼(かの)猫も傍(かたはら)に居て庭をながめありし所へ、寺の隣(となり)なる家(いへ)の飼猫(かひねこ)が來(きたり)て、寺の猫に向ひ、日和も宜しければ伊勢へ參詣(まいら)ぬかといへば、寺の猫が云(いふ)、我も(ゆき)たけれど、此(この)節は和尙の身の上に危(あやふ)き事あれば、他(た)へ出(いでがた)難しといふを聞(きい)て、隣家の猫は寺の猫の側(そば)近くすゝみ寄(より)、何やら咡(さゝや)き合(あひ)て後に別れ行(ゆき)しが、寺男は夢現(ゆめうつゝ)のさかひを覺(おぼへ)ず、首をあげて奇異の思ひをなしけるが、其夜本堂の天井にて最(いと)怖ろしき物音し、雷(らい)の轟(とゞろ)くにことならず。此節寺中には住職と下男ばかり住(すみ)て、雲水の旅僧(たびそう)一人(ひとり)止宿(とまり)て四五日を過し居たるが、此騷ぎに起(おき)も出(いで)ず、住持と下男は燈火(ともしび)を照らして、彼是(かれこれ)とさはぎけれども、夜中といひ、高き天井の上なれば、詮方なく夜を明しけるが、夜明(よあけ)て見れば、本堂の天井の上より生血(なまち)のしたゝりて落けるゆへ、捨(すて)おかれず近き傍(あたり)の人を雇ひ寺男と倶(とも)に天井の上を見せたれば、彼(かの)飼猫(かひねこ)は赤(あけ)に染(そみ)て死し、又其傍(かたはら)に隣家(となり)の猫も疵(きづ)を蒙(かふむ)りて半(なかば)は死したるが如し。夫(それ)より三四尺を隔りて、丈け二尺ばかりの古鼠(ふるねずみ)の、毛は針をうへたるが如きが生じたる、怖ろしげなるが血に染りて倒れ、いまだ少しは息のかよふ樣(やう)なりければ、棒にて敲(たゝ)き殺し、やうやうに下へ引(ひき)おろし、猫をさまざま介抱しけれども、二疋ながら助命(たすから)ず。彼(かの)鼠はあやしひかな旅僧(たびそう)の着て居たる衣(ころも)を身にまとひ居たり。彼是(かれこれ)と考へ察すれば、舊(ふるき)鼠が旅の僧に化(ばけ)て來り、住職を喰(く)はんとせしを、飼猫が舊恩の爲に、命(いのち)を捨てて住職の災(わざわひ)いを除(のぞ)きしならんと、人々も感じ入(いり)、頓(やが)て二匹の猫の塚を立て囘向(ゑかう)をし、鼠も最(いと)怖ろしき變化(へんげ)なれば捨(すて)おかれずと、住持は慈悲の心より、猫と同じ樣(やう)に鼠の塚を立て法事をせられしが、今猶傳へて此邊(こゝ)を往來(ゆきゝ)の人の噂に殘り、塚は兩墓(ふたつ)ともものさびて寺中に在(あり)。【予が友人傳菴桂山遊歷の節に、彼寺にいたりて書とゞめしを此に出せり。】

   *

これを見ると、西尾の引用がすこぶる正確であることが判る。彼の誠実さを伝える証左と思う。「出張」は末寺の意であろう。「遠江圖泰原郡御前崎」現在の静岡県御前崎市。「西林院」現存しない模様である。「敷板」板子(いたご・いたこ)のこと。和船の底に敷く揚げ板。例の「板子一枚下は地獄」のそれ。「三四尺」は九十一~一メートル二十一センチ、化け鼠の大きさ「二尺」は六十一センチ弱である。「傳菴桂山」不詳。このロケーションは挿絵から見ても、現在の御前崎灯台の近くで、調べてみると、寺はないものの、この伝承は残っており、なんと!「猫塚」や「鼠塚」なるものが現存していることが判った!(但し、相互は有意に離れた位置にある)地図を参照されたい。今度、行ってみたいなぁ……

「遖(あつぱれ)逸物(いつもの)の大猫となり」他に例を見ぬ、まっこと天晴れな大きなる猫へと成長し。

「椽」緣。縁側。

「かゝる猫に劣れる人のいと多きは痛むべきことなり」平尾魯僊氏と炉端にて語り明かしたくなる一言である。

 最後に。この手の猫の報恩譚は実に数多ある。私の手掛けた全訳注の「耳囊」の中にも、

之七 猫忠臣の事

とそれとほぼ同話の、

之九 猫忠死の事

の二話が載る(個人的には後者の方が好きである)。そちらもまた、お楽しみあれかし。]

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