譚海 卷之一 大坂芝居棧敷の事
大坂芝居棧敷の事
○安永四年友人大坂より來書に云(いふ)、上方大和邊も此節開帳何角(なにかと)賑々敷(にぎにぎしく)、伊勢山田も兩芝居繁昌致(いたし)候。當時は參宮人も山城・大和・大坂・京都邊ばかりに御座候。關東道者(もの)はいまだ少(すくな)く存(ぞんぜ)られ候。されど時分柄(がら)ゆへ伊勢海道は格別にぎはひ申(まうし)候。扨(さて)大坂にてけしからぬ事は芝居にて御座候。尾上菊五郞去年顏見せより忠臣藏致候處、總役者衣裝三度まであらたに仕(し)かへ、今に大あたりに御座候。大坂は棧敷幟(さじきのぼり)と申(まうす)ものを、茶屋中(うち)より芝居の向側(むかひがは)へ出(いだ)し申候。三月廿日までに十七本に及(および)申候。棧敷千軒うれ候得(そうらえ)ば、のぼり壹本づつ出し申候。幾日より幾日までと日付をして賣(うり)たる事記(しる)し申事に御座候。棧敷の直段(ねだん)江戶とは違ひ、日々相場を立(たて)高下(かうげ)致候。二月中より鳥目(ちやうもく)六貫四五百文、此間は七貫二百文までに賣申候。けしからぬ事あるものに候。
[やぶちゃん注:私は文楽好きの歌舞伎嫌いであるので、注はそっけない。悪しからず。
「安永四年」一七七五年。
「尾上菊五郞」初代尾上菊五郎(享保二(一七一七)年~天明三(一七八四)年)。ウィキの「尾上菊五郎(初代)」によれば、『屋号音羽屋、俳名梅幸。幼名は竹太郎』。『京都都萬太夫座の芝居茶屋の出方音羽屋半平の子。初め若女形の尾上左門の門下となり、尾上竹太郎と名乗る』。享保一五(一七三〇)年、『京都榊山四郎太郎座で尾上菊五郎を名乗り若衆方として初舞台』、同二〇(一七三五)年『からは若女形として舞台に立ち評判を取る』。その後、寛保元(一七四一)年には『大坂で二代目市川海老蔵と同座し、翌年の寛保二年には、『鳴神』で海老蔵演じる鳴神上人を相手に雲の絶間姫を演じて大評判を取る。これをきっかけに同年海老蔵と共に江戸に下り、市村座に出て女形として売り出した。その後』、宝暦二(一七五二)年に立役(たちやく)に転じた。しかし、明和三(一七六六)年に『江戸堺町で営んでいた油屋からの出火により隣接する中村座と市村座の両座を焼失、これが「菊五郎油見世火事」といわれるほど反発を買い、帰坂せざるを得なくなった。その後は四年を経て』後、再び、『江戸に下り大当りを取り、三都の舞台で活躍し、最後は大坂で没した』。彼の当り役はまさにここに出る「仮名手本忠臣蔵」の「大星由良助」、「ひらかな盛衰記」の「延寿」や「畠山重忠」などであった。]