谷の響 二の卷 十一 夢魂本妻を殺す
十一 夢魂本妻を殺す
天保年間、三ツ橋某と言へる人靑森勤番の時(をり)、一人の婦人(をんな)と語らひしかど、家婦(つま)ある身にしあれば夫婦にも成りがたく、左右(とかく)するうち任(ばん)も畢りて弘前に上りぬれば、互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける。さるに明る年復勤番にあたりて靑森に往き、いよいよ深く契けるに女も妻のある事を恨み喞(かこ)てるばかりなり。
一日(あるひ)この女宿(やど)なる嬶に語りけるは、過刻(さき)に轉寢(うたゝね)の夢のうちに三ツ橋氏の家に至りて見れば、主の妻なる人はいと淸艷(きよげ)にて衣服を縫ひてありしかば、あまりに嫉(ねた)たく思はれてかれが咽喉(のんど)へ噉(く)ひつけば、母と小兒(ことも)の起噪(たちさわぐ)にその場を去ると見て覺めたるが、今に口の中惡く胸悶悸(どきつく)は何なる事にやと問(たづ)ぬれば、宿の嬶は冷愁(こさびし)き事を言ふ人とて不應(とりあへ)ず、他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ。然(さ)るにその夜晨(あけ)近くなりて勤番所へ駛步(ひきやく)來りて、三ツ橋氏の妻頓死(とんし)したる事を訃音(しら)するに、三橋氏極太(いたく)愕き官曹(やくしよ)に願て宿に歸り、容子を問(たづ)ぬれば母の言へるは、昨日午下(ひるすぎ)のことなるが何處(いづく)より來りけるにや人魂の如きもの飛來りて、息婦(あね)が縫裁(しごと)して居る邊房(へや)へ入るよと見るに、忽ち呀呵(あゝ)と叫ぶ聲に愕き駈入りて觀れば、無慙(むざん)や息婦(よめ)は咽喉(のど)傷(やぶ)れて絶入りたるに、急(にはか)に騷いで藥用をすれども、命門(きゆうしよ)の重傷(いたで)に效(しるし)なく卽便(そのまゝ)空しくなりしなり。怎(そも)何等の冤魂(うらみ)なるか怪しくも怖ろしきものなりと泪と共に語りければ、三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば、獨すまして跡(あと)懇(ねんごろ)に弔ひけり。是よりして此女を疎厭(うと)み、又勤番も畢(をはり)たれば再び會はずして已(やみ)しとなり。この話は三橋氏の母時(をり)にふれて語り、又かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり。こは同姓なる三ツ橋某なる人の話なり。
又、これに類する一話あり。そは寛政の年間(ころ)同國修行する二箇(ふたり)の尼ありて、倶に享年(とし)三十にも足らぬ程なるが、板柳村に來りしに一個(ひとり)の尼暑に傷(あて)られたりとて、正休寺と言へる一向宗の寺に寓居(とまり)て藥用してありけるが、院主なる人彼等が髮を薙(おろ)せる本緣(ゆかり)を問(たづ)ぬるに、一人の尼の曰、さればその縡(こと)に侍(さぶら)ふ。是にはいと奇しき因緣ありき。さるは辱しき事なるが又々懺悔して罪を亡(なく)すべし。吾はもと河内の國の者なるが、郎(をつと)と幼兒一個(ひとり)ありて倶に活業(なりはひ)を勤(いそし)みしが、奈何なる因果に有けるにや、親子三人の渡世(よわたり)難(むつかし)くなりて、いといと塞窘(なんぎ)に暮しけるが、ある日夫(をつと)の言へりけるは斯てあらんには何(いつ)の世に出べきも測られねば、吾はしばらく皇都(みやこ)に出で償身(ほうこう)し、些少(すこし)なりとも本錢(もとで)を持て下るべし。汝はそのうち辛抱して小兒を養育(はぐく)めよ。時々(をりをり)は音信(たより)を爲(な)して生業(すぎはひ)を援(たす)くべしといふて出にしが、二年暮れ三年過しても音信(たより)といふ事更にあらざれば、然(さて)は窘迫(まづしき)を厭ひて吾と小兒を棄てたるなるべし。さりとは恨めしき心かなと歎き喞(かこ)てど詮(せん)術(すべ)なければ、たゞ小兒の成長を憑(たのみ)にして遂に七年を暮したりき。左有(さる)に、ある日いたく勞倦(くたびれ)て轉寢(うたゝね)なせる夢の中に、土地(ところ)は何處か分らねどいと好き家の裡(うち)なるが、亭主(あるじ)と見ゆるは吾が郎(をつと)にて、髮結をして髮を結はせて有ける處に、二歳ばかりの嬰子(をさなご)の郎が膝へ這(はひ)上るを女房を呼んで抱きおろさせ、さも睦(むつま)しげに暮せる樣子なるに、いかにも斯くてありつれば吾等親子を忘るゝも理(ことわり)とは言ひながら、さりとは憎き爲業(しわざ)よとはからず怨炎(ほむら)燃起(もえたち)て、髮を結せる夫の咽喉に噉ひつけば、合家(かない)の者の噪ぐと觀て卽便(そのまゝ)夢は覺たるが、傍なる吾子の急(にはか)に泣出して、噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付ると呍(わめ)きたるに愕きて、手して口の邊(あたり)探しみれば、滑々(ぬらぬら)として兩頰ともに鮮血(なまち)に塗れてありければ、吾ながら寠(あさま)しくも怖ろしく惘忙(あきれ)てものも言ひ得ざるが、さりとは只得(ぜひなき)因果よと、忽ち發起(ほつき)の情(こゝろ)出來て菩提寺へ駈け往き、和尚にかくと懺悔してこれの菩提を弔はん爲め、遂に髮を薙(おろし)てかくの如くに修行に出にき。
さるに殊に奇(あや)しきはこれなる同伴の尼にて侍ふ。そは、去(い)ぬる年其(それ)の國にてこの尼と同じ旅舍(やどや)に宿歇(とまり)けるが、認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ、國地(くにところ)及び尼になれるが由緣(ゆえん)を問(たづ)ぬるに、吾は近江の國の者にて早く兩(ふた)親に喪(わか)れ、親屬の人の扱(せは)にて河内の國より來れるといふ人を贅婿(むこ)にもらひ、親の併習(しにせ)の活業(なりはひ)をして貧しからず暮しけるが、去ぬる年の四月、郎(をつと)なる者子を愛しながら髮を結せて有けるが、女の姿の幻影(まぼろし)の如くに現れて郎の咽喉へ啖(く)ひつきしが、喉管(ふえ)に係りて立地(たちどころ)に失せたりき。こはこれ故郷に妻やありてその怨念のする業か、又馴あひし女の執念か、又生靈(いきりよう)なるか死靈なるか、何にまれ夫はかゝる非業の死を遂げぬれば、未來の追善を營みたくまた此女の怨魂をも鎭めたく、心ひとつに定めなして斯く髮を薙ぎ、諸國の靈佛を拜するなりと語られしに、聞くごとに胸に的中(あた)り、吾が身の上も委曲(つばら)に明して、かく遇ひぬる縡(こと)の奇(あや)しきは偏に亡夫のなす業ならめと、倶に感じあひつゝ同伴(つれだち)て𢌞りしなりと語りけるはいと希(めづ)らしきことなりと、この正休寺の住職の己が外祖父なる人に語れるとて、時々(をりをり)話せることなりけり。こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき。
[やぶちゃん注:本「谷の響」初の本格生霊譚である。
「天保年間」一八三〇年から一八四四年。
「靑森勤番」当時の藩庁は弘前であることを再確認されたい。青森は「重要な港湾」であったが、現在のような県庁所在地とは異なり、津軽藩の「地方」であったのである。ウィキの「青森市」などによれば、寛永元(一六二四)年に弘前藩が現在の青森市沿岸に港の建設を始めたという。翌寛永二年五月には弘前藩は津軽から江戸へ廻船を運航する許可を幕府より得、翌寛永三年四月には森山弥七郎なり人物に町作りを命じている。寛文一一(一六七一)年七月には藩の出先施設である「仮屋」が設置され(これは元治元(一八六四)年七月から明治二(一八六九)年十一月まで「陣屋」と称された)、元禄元(一六八八)年には安方(やすかた)町(現在の青森県青森市安方)に湊番所が置かれた。弘前城下に屋敷を持っていた藩士三橋某の青森「勤番」とは、この番所勤務のことであろう。本話より後になるが、幕末の元治二(一八六五)年には幕府より蝦夷地(北海道)への渡海地に指定された。弘前から青森までは直線でも三十四キロ離れている。
「任(ばん)」勤「番」の当て読み。
「互の戀情(おもひ)やるかたなくして人知れず音信(おとづれ)を通はせける」「(三ツ橋と情婦(現地妻)は)互ひの戀情(をば)、やるかたなくして(=どうにも処理しようがなくて。思い切ることが出来なくて)、人知れず(=妻や親族には内緒で)音信(おとづれ:手紙の遣り取り)を通はせける」。
「明る年」「あくるとし」。
「復」「また」。
「契ける」「ちぎりける」。
「女も妻のある事を」女も三ツ橋に正式な妻があって弘前にいることを。
「喞(かこ)てる」「かこちたる」の転訛。「託(かこ)つ」と書き、「嘆いてそれを口に出して言う・不平を言う」の謂い。
「宿」女の借りている宿(或いは長屋風の貸家)の女主人。以下の夢の具体を語るところから見ると、相当に親しい仲であることが判る。或いは、こうした「現地妻」を斡旋したり、それに部屋や長屋を貸し与えていた、「やり手婆あの」類いかも知れぬ。
「嬶」「かかあ」。
「過刻(さき)に」二字へのルビ。
「主」「あるじ」。
「淸艷(きよげ)にて」は無論、前の「妻」の形容。
「小兒(ことも)」読みはママ。
「その場を去る」自分(青森の情婦)が主語。
「惡く」「あしく」
「胸悶悸(どきつく)」「どきつく」は「悶悸」の二字へのルビ。胸がドキドキする。
「冷愁(こさびし)き事」なんとも言えず暗い淋しいこと。
「不應(とりあへ)ず」とり合わず。
「他事(よそごと)に會釋(あしらひ)おきぬ」いい加減に無視して、あしらっておいた。この対応からは却って、その言葉の不吉な意味を、この老婆(海千山千の「やり手婆あ」であたならなおのこと)が確かに嗅ぎとっていた可能性の高さを示している感じが私には、する。
「駛步(ひきやく)」「飛脚」。
「頓死(とんし)」急死。
「訃音(しら)するに」二字へのルビ。上手い。
「極太(いたく)」二字へのルビ。
「願て」「ねがひて」。
「宿」この「やど」は弘前の役宅の意。藩士の官舎なのであろう。
「息婦(あね)」読みはママ。直後に「息婦(よめ)」と読んでいるのに、不審。
「縫裁(しごと)」二字への当て読み。
「邊房(へや)」二字へのルビ。
「呀呵(あゝ)」感動詞。「呀」は「ああっ!」の擬音語で、「呵」は「叫ぶ」「怒鳴る」の意。
「駈入りて」「かけいりて」。
「絶入りたるに」「たえいりたるに」。人事不省になっていたので。
「命門(きゆうしよ)」「急所」。
「重傷(いたで)」「痛手」。
「泪」「なみだ」。
「三橋氏心に的中(あたり)ども言ひ出べき事にもあらねば」「言ひ出べき」は「いひいづべき」。「三橋氏(うじ)は、『あの青森の女だ!』と心中、思い当たったものの、とてものことに口に出して言えるようなことでもないので。
「獨」「ひとり」。
「すまして」平静を装って。
「疎厭(うと)み」二字へのルビ。
「三橋氏の母時(をり)にふれて語り」誰彼に語り。平尾にではあるまい。
「かの女の夢の話もいつとなく人も知りて、密(ひそか)に語りあひしとなり」これは三ツ橋の周辺の藩士が勤番で青森の番所に勤めた折り、すげなく縁を切ったことを恨んで、飯盛り女か酌婦にでもなっていた元情婦が恨み混じりに語ったか、或いは「やり手婆あ」は藩士らの話(三ツ橋の妻の奇怪な急死事件)を耳にして、かの夢の話を思い出して、吹聴したものかも知れぬ。三ツ橋自身がかなり経って後に誰かに語ってしまったというのは、奇怪なだけでなく、不名誉な事件なれば考え難い。或いは実母にだけは、隠し仰せずして述べたとしても、である。
「寛政」一七八九年から一八〇一年。
「板柳村」既出既注。底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳(いたやなぎ)町』とする。弘前市の北に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「暑に傷(あて)られたり」暑気あたり。日射病・熱中症の類い。倒れたのは、後に懺悔する女ではなく、彼女の生霊に殺された夫の後妻の方である。
「正休寺」底本の森山氏の註によれば、『北津軽郡板柳町にある。板谷山正休寺』。前の「九 蝦蟇の智」に出て注した、弘前の浄土真宗の真教寺の『末寺として、万治二年開基という』とする(万治二年は西暦一六五九年)。青森県北津軽郡板柳町板柳土井で、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「藥用してありけるが」二人して仮に宿らせて貰い、薬を以ってその一人を療治致いて御座ったが。
「院主」「ゐんじゆ(いんじゅ)」と読んでおく。
「奇しき」「くしき」と読みたい。
「辱しき」「はづかしき」。
「懺悔」せめて「さんげ」と読んでおく。本邦に於いて過去の罪悪を悔いて神仏の前で告白してその許しを乞う仏教用語。本来は「さんけ」と清音であったが、近世中期以後には既に「ざんげ」の濁るようになってはいた。
「塞窘(なんぎ)」「難儀」。「窘」(音「キン」)はこれで「たしなむ」と訓じるが、その意味は「苦しむ・悩む・辛苦する」の謂いである。八方塞がりとなって辛苦すること。
「斯て」「かくて」。
「何(いつ)の世に出べきも測られねば」何時になっても全うに暮らせるようには、およそなれそうにもないので。
「皇都(みやこ)」二字へのルビ。京。彼が京に向かった(恐らくは北回り廻船に便乗させて貰ったのであろう)ことは、近江の娘と夫婦になったことからも、間違いはないようである。
「償身(ほうこう)」「奉公」。
「出にしが」「いでにしが」。
「過しても」「すぐしても」。
「窘迫(まづしき)を」二字へのルビ。「窘」は前注「塞窘(なんぎ)」を参照。
「喞(かこ)てど」読みはママ。「かこちたれど」の意であろう。前の「喞(かこ)てる」の注を参照。
「憑(たのみ)」この字は「霊がのり移る・とりつく」の意味以前に「寄り掛かる・頼みにする・よりどころ」の意が原義である。
「髮結をして」髪結いを呼んで。
「合家(かない)」「家内」。
「噪ぐ」「さはぐ」(騷ぐ)。
「覺たるが」「さめたるが」。
「泣出して」「なきだして」とここは訓じておく。
「噫(あゝ)おそろし母は何を喰ひてかく口邊(くちばた)に血は付る」「噫(あゝ)! おそろし!母は何を喰ひて、かく口邊(くちばた)に血は付くる」。子の台詞。この視点移動の効果はホラー映画のように絶大であると言える。実に上手い!
「呍(わめ)きたる」「喚(わめ)きたる」。
「寠(あさま)しくも」「寠」は「小さい・寠(やつ)れる」の意であるが、「なんと卑小に、おぞましくも」の意。
「惘忙(あきれ)て」「惘」(音「マウ(モウ)」)はこれで「惘(あき)れる」(呆れる)と訓じ、「好ましくないことの意外さや甚だしさに驚く」或いは「意外なことに出合ってどうしてよいか分からなくなる」の謂いがある。「忙」はここでは「心を失って落ち着かないさま」を意味しよう。
「只得(ぜひなき)」(このような状況下では他に方法がなく)やむなく・やむをえず(~する)・(~するほか)仕方がない・しようがない」の意で、これは現代中国語でもこの文字列で通用し、他にも「只好」「只有」「不能不」などとも使う。
「發起(ほつき)の情(こゝろ)」発心。
「出にき」「いでにき」。
「其(それ)の國」どこそこの国。国名を伏せたのである。
「認得(みしれ)る顏の樣に覺ければ」さりげないこの印象叙述が凄い! 見知っていたのは、他でもない! かの生霊となって夫の喉笛を嚙み切った時の映像の中で見覚えていたのである!
「扱(せは)」「世話」。
「河内の國より來れるといふ人」男は嘘をついている。そこには無意識の妻への自責の念が働いていると読む。自分の過去を変えることで、それとの関係を截ち切ろうとする意識の底にそれが窺えるのである。
「贅婿(むこ)」二字へのルビ。音「ゼイセイ」で、これは中国で「入婿」のことを指す。夫が妻の家に入ることから、それを卑しんで、「贅(あまりもの)」と称した。また、「贅」には「質物(しちもの)」の意もあり、貧しい夫が妻の家に金品を納める(聘金(へいきん)という)ことが出来ない場合、代りに妻の家の質品(しちぐさ)となって、労力を提供したことからも、この名があるとされる。
「併習(しにせ)」「老舗(しにせ)」と同義。実は「しにせ」とは動詞の「仕似(しに)す」の連用形が元であって、「代々、同じ商売を続けている」店、由緒正しい古い店の謂いとなったものであり、「併習」(何度も同じことを繰り返してそれを習いみにつける)の文字列との親和性は強い。
「喉管(ふえ)」二字へのルビ。
「馴あひし女」「なれあひし女」。こっそりと私の目を盗んで馴れ親しんだ愛人。
「怨魂」音読みでは如何にもである。二字で「うらみ」と訓じておく。
「薙ぎ」「そぎ」と訓じておく。
「胸に的中(あた)り」総ての彼女の懺悔が激しく私の胸を打ち。
「委曲(つばら)に」こと細かに総て。
「明して」「あかして」。
「偏」「ひとへ」。
「業」「ごふ(ごふ)」。「夫のなす」なら「わざ」とも読めるが、ここはやはり「夫のな」した不実な行為、殺された「夫の」恨みの「なす」ところの、現世に生き残っている彼女らに与えられた「運命・制約・悪運」(これも「業」の意にある)という謂いであろうと考えるからである。そもそもが――夫の成した忌まわしい業(わざ)による報いの結果である――なんどと考えるようでは、彼女らは「夫」の菩提は到底、弔え得ないからである。
「己が外祖父なる人」筆者平尾魯僊の妻方の祖父。
「こはあまりにも符合して、世にある作り物語あるは劇場(しばい)の演劇(きやうげん)に似たることとて信(うべな)はれぬといふもあらめど、三橋氏の縡(こと)もあり奇遇の話もままあれば、決(きは)めて妄説(うそ)ともいひ難くて聞たる隨(まま)に書き載せき」平尾魯僊がこの「谷の響」を如何に実証主義に基づいて書いているかを如実に示す附言である。本書は実は眉唾物キワモノの「怪奇談集」などではなく、平尾が冷徹に論理的に検証し、馬鹿馬鹿しい採るに足らぬ作り話と思われるものは一切排除し、事実或いは事実として認定出来る事件、事実性をその核心部に於いて十全に保持していると判断されるもののみを厳選して収録した、確かな「実録集」なのである。]
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