谷の響 一の卷 十八 龜恩に謝す
十八 龜恩に謝す
明和の年間なるよし、鞘師坊(さやしまち)に左五郎といへる泥水匠(さくわん)のものあり。一日(あるひ)深浦に行くとて鯵ケ澤と赤石村の間を通れるに、磯際に烏多く群れてゐたれば何やらんと侍りて見るに、いと大きなる龜一個(ひとつ)在りて烏に圍繞(とりまか)れ、手脚も出し得ず不敢舒(いとちゞみ)になり有りけるに、左五郎惻隱(ふびん)がりて烏を逐ひ退(の)け、龜をば洋中(うみ)に放ししがこの龜十間ばかり泳ぎゆき頭を囘へし、謝せる容子して見えずなりぬ。
左五郎はその日深浦に至りて投宿(とまり)けるが、其夜の夢に白髮の老翁枕頭(まくらがみ)にありて言へりけるは、今日嗣子(せがれ)なるもの助命の恩を蒙れり。いさゝか御禮申すべき旨あれば、歸路(かへり)にはかの龜を授けし處に彳寄(たちよ)りて賜るべしと見て覺めたり。左五郎奇異の思ひをなして又眠れるに、またこの老翁來りて諄々(かへすがへす)も向(さき)に申したる事必ず疑ひ玉ふなといひて失せりき。かゝりけるから左五郎は歸りに及び、かの磯際(いそぎは)に彳(たゝづ)みおりけるに、沖の方より一箇(ひとつ)の大龜泳ぎ爽れるありて、何やらん口に三尺もあるべきもの齟(くは)へたるが、その物を左五郎が足下(あしもと)に置き、頭を垂れ謝する容貌(かたち)して囘頭(ひきかへ)せり。
左五郎こを取上げて見れば、三尺あまりもあるべき木の色ことに美しく漆の塗れる如くにて、いかなる樹といふことをしらず。持歸りてありしことを官府(おかみ)へ聞ゑ上げてこの樹を獻(たてまつ)れ共、吏人(やくにん)も亦これを知り玉はず。後、近衞殿に奉りしに、こは木※(ぼくたん)と言へるものにていと希なるものゝ由なれば、左五郎は平素(つね)も慈愛(いつくしみ)の情(こゝろ)あるから、かゝる稀なる物を得つるは奇特のものなりと、御賞賜として生涯一人扶持賜りしとなり。こは上の御日記にも載され、その時扱ひ爲したる縣官(やくにん)の上書(かきつけ)もあると見たりしとて、藩中七戸某なる人語られしなり。[やぶちゃん字注:「※」=「木」+「難」。]
[やぶちゃん注:底本の森山泰太郎氏の本話の補註に『この話は当時有名であったとみえ、津軽の古書にも記載が多く、大田南畝の「一言一話」にもみえる。年代も左官の名も一定せず、津軽旧記抄では明和五年十月に久田屋善四郎のことと伝え、永禄日記では明和七年のことにしている。とにかく西津軽の海岸では時折大亀か上ったとみえ、この話の数年前、明和元年六月に西の浜より八尺程の大亀が弘前へ来たと平山日記に書いてある』とある。但し、「一言一話」は「一話一言(いちわいちげん)」の誤りである。南畝の五十巻から成る大著の随筆・諸書引用記録で、安永八(一七七九)
年起稿で文政三(一八二〇)年に成立したもの。本「谷の響」は万延元(一八六〇)年の成立であるから、最長で八十一年、最短でも四十年も前の記載ということになる。明和の西暦は次から換算されたい。「八尺」は二メートル四十二センチ強。
「明和の年間」一七六四年から一七七一年まで。第十代将軍徳川家治の治世。
「鞘師坊(さやしまち)」底本の森山氏の「鞘師坊」の補註に『弘前市鞘師町。名の通り城下町特有の職人町である』とある。弘前城の西方直近で現在は鞘師町と下鞘師町に分かれる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「泥水匠(さくわん)」「左官」。壁塗りを仕事とする職人。壁塗り。泥工(でいこう)。宮中の修理に,木工寮の属(さかん:律令制で坊・職・寮のさいかきゅうの四(し)等官)として出入りさせたことに由来する。
「鯵ケ澤と赤石村の間」現在の青森県西津軽郡鰺ヶ沢町と同鰺ヶ沢町赤石町の間。この海岸線の中(グーグル・マップ・データ)。
「烏」「からす」。「鳥」ではないので注意。
「不敢舒(いとちゞみ)になり」三字へのルビ。「舒」は「伸(の)ぶ」で「敢えては舒ぶることせず」で、カラスに啄まれるので首と四肢を伸ばすことが出来ずになって、の意。上手い和訓である。
「十間ばかり」十八メートル前後。
「囘へし」「かへし」。
「深浦」底本の森山氏の「深浦」の補註に『西津軽郡深浦(ふかうら)町。藩政時代、寛永十二年に津軽四浦の一つとして奉行所がおかれた。日本海北部の良港で、北前船が定期に入港する交易港として栄えたが、明治中期以後衰微し、いまは漁港と観光宣伝に努めている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「彳寄(たちよ)りて賜るべし」この「賜る」は補助動詞で、中世以降に発生した、動作者を中心に置いた尊敬語の用法。「どうか、必ずや、お立ち寄りて下さいませ」。
「諄々(かへすがへす)も」「諄諄」は「諄々(じゅんじゅん)と」で今も生きているように、「相手に解るようによく言い聞かせるさま」を言う。
「三尺」九十一センチ弱。
「近衞殿」弘前(津軽)藩主の別称と思われる。ウィキの「津軽氏」によれば、久慈氏から養子に入った弘前藩初代藩主津軽(大浦氏第五代)為信は『近衛家の傍流を自称して藤原氏と称し』、慶長五(一六〇〇)年、『為信が右京大夫に任命された際の口宣案には「藤原為信」とあり、藤原姓の名乗りを朝廷から認可された』。また、第三代藩主津軽信義は寛永一八(一六四一)年の『「寛永諸家系図伝」編纂の際に、近衛家に対して津軽家系図への認証を求め、近衛家当主近衛信尋から、大浦政信』(津軽氏始祖とする大浦光信の三代後の大浦盛信の娘婿)『近衛尚通の猶子であると認められ、系図上において近衛家は津軽家の宗家とされたが、政信の実父が不詳であることから、政信を始祖とする系図に書き換えられた』とある。この明和年間の弘前藩主は第七代で津軽信寧(のぶやす 元文四(一七三九)年~天明四(一七八四)年)であった。
「木※(ぼくたん)」(「※」=「木」+「難」)
「一人扶持」「いちにんぶち」。江戸時代の武士階級或いはそれに準じた地位の者への現物支給の米の給与単位。武士一人一日の標準生計費用を米五合に算定、一ヶ月で一斗五升、一年間で一石八斗、俵に換算して米五俵を支給することを「一人扶持」と呼び、これを扶持米(ふちまい)支給の単位としたものである。これは知行高五石の蔵米取(くらまいとり)の御家人が一年間に受け取る切米(きりまい)に相当するもので侮れないものであるが、実際にその通りには給与されなかった(し得なかった)ことが殆んどであった。特に本話のすぐ後には、天明の大飢饉が奥州を襲っていることにも注意されたい。
「七戸」人名であり、ルビもないので読みは確定出来ないが、ルビを振らないということは地名と同様の「しちのへ」である可能性は高いように思われる。他に「しちと」「しちど」「しちし」「ななと」「ななど」等の読みが考え得られる。]