谷の響 二の卷 十三 犬無形に吼える
十三 犬無形に吼える
往ぬる丙辰の年の五月、下堤町搗屋四郎左衞門が門に立たる幟の下(もと)に五六疋の犬ありて、この幟を向上(みあげ)先に𢌞り後になりて物あるごとく吼えかゝるを、土(ところ)の人も往來の人もいと怪しみ、何物かあるらんと見望(みやり)たれど目に遮(さへぎ)るものもなく、犬はますく猛り吼えけるを、四郎左衞門が僕(しもべ)これを逐ひ散らして停めしとなり。この縡(こと)は此年より五六年前にも有しよしなり。
又、同じ事ながら己が邸裏(やしき)の隣境に柿樹一株(ぽん)ありけるが、二疋の犬この柿樹を望みていたく吼えかゝること少時(しばらく)なれば、柿樹を見上ぐれどもあやしきものもあらず。あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありしが、その主に追立てられて歇(や)みたりし。こは文政七八年の頃にて、今思へば幽界(かくりよ)のものゝ爽來るなるべし。平田のうしの妖魅考にも、かくのごとき无形に吼えたることを記して、幽界に神あることを論(あげつら)へり。最もさもあるべき事なりかし。
[やぶちゃん注:以下の注では、私は現実にあり得る現象としての可能性を各個的には注した(下線太字部分)。……しかし……私の中学・高校時代の友人には、眼の前の夜の浜辺の直近に「誰かいる。」と突然こともなげに静かに言い、数秒後に「ああ、もういなくなった。」と平然としている、所謂、「見鬼(けんき)の性(しょう)」を持つ男がいたし、「小さな頃は家に帰ると、毎日、普通の人の目には見えない狐の子どもたちと一緒に遊んでたわ。」と真顔で言う少女がいた。私のかつての同僚曰く、「赤ん坊を猿島に連れて行ったら、何もいない崖の岩や隧道の闇を見上げて見つめて、ずっと笑っているですよ。何だか、霊でも見えるのかと思うと、気味が悪かったです。」などと言っていた。……そういえば、ついさっき、私の三女のアリスが突如、外で吠えだした(彼女は餌を欲しがる時以外はまず吠えることはない)。出て見ると、誰もいない家の前の寒々とした小径に向かってしきりに吠えていた。……誰も何もいない空間に向かって……こんなことは、彼女と散歩をすると、しばしば体験する。それを不思議に思わなくなっている自分がいる。ある意味、それは「異界」という非日常が半日常化しているアブナい境界に私が棲んでいるということ、なのかも知れない…………
「無形」目に見えない対象物。
「丙辰の年の五月」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年で、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。
「下堤町」底本の森山泰太郎氏の補註によれば、『下土手町の当て字』とある。これは一巻に既出既注で、同じく一巻の森山氏の註で『弘前城下の東部、土淵川を挾んでその土手に町並みを形成して、土手町(どでまち)という』今、『市内の中心街である』とある、ここ(グーグル・マップ・データ)である。「下」とは弘前城との関係から、現在のそれの南東部と採っておく。
「搗屋四郎左衞門」底本の森山氏の補註に、『弘前の米穀商、藩の御用達を勤めた富豪であった。竹内氏、屋号搗屋、代々四郎左衛門と称した』とある。
「幟」「のぼり」。恐らくは屋号や新米入荷などを染め抜いた昇り旗であろう。この場合は、たまたま当日の風の具合と、その幟の状態から、犬にとっては聴き慣れぬ、強いバタバタという音が生じて、それに警戒したものともとれぬことはなく、天候がひどく悪くなりかけていたのであったなら、眼には見えない一種の軽い放電現象が起こっていたのを、敏感な犬が察知したとも採れる。
「停めし」「やめし」。吠えかかるのを止めさせた。
「此年より五六年前」嘉永三(一八五〇)年或いは翌嘉永四年。
「有しよしなり」「ありし由なり」。
「柿樹」今までの西尾の書き癖からは、この二字で「かき」と読んでいる可能性が高い。
「あまりに喧噪(やかまし)さに犬を追ひやりしが、忽ち裏境の垣のもとに馳(はせ)寄りて又烈しく猛り吼え、遂に垣を潛りて裏のやしきに吼えてありし」西尾の屋敷の裏手の墻根の向こうの鄰りの屋敷の垣根と間の、西尾ものでも隣家のものでもない非常に狭い土地(空き地)があって、そこに自然に柿の木が生えており、犬ならば、その垣根と垣根の間の柿の木のある叢に潜り込むことが出来るのであろう。最初は西尾の屋敷内に二匹の野犬が侵入して、その裏庭でその柿の木に向かって盛んに吠えたてたのを、屋敷の外に路地のある、側面の横木戸辺りから追っ払ったところが、野犬らはまた、西尾の屋敷の裏手のそこに潜り込んでゆき、柿の木の直下の叢で吠えたて、その後に隣家の垣根を潜って、隣家の庭に移ってさらに吠えたて続けたのである。ここで犬が一旦、柿の木の根元近くへ行ったにも拘わらず、そこからまた少し離れた隣家の庭に移動した点を考えると、犬らは何かの危険を感じたものかとも思われる。季節が示されていないので、よく判らないが、例えば、これが夏から初秋にかけてであったなら、その柿の木が大木で、その根方や洞などにスズメバチが有意に大きな巣を作っていれば、その翅音を鋭く聴きつけたものか、などという推理も働かし得る。無論、洞の中にいるのは――モモンガ・リス・アナグマ・タヌキ・ハクビシン・イタチ――であっても一向に構わない。なるべく臭いの強い動物が相応しいことは言うまでもない。
「文政七八年」一八二四、一八二五年。
「幽界(かくりよ)」一巻に既出既注ながら、平尾の思想を知る上で重要な語であるので、そのまま再掲する。これはいい加減な当て字ではない。平田神学に心酔していた平尾らしい読みである。古神道に於いては、人間世界は目に見える「顕世(うつしよ)」であるのに対し、人間の目に見えない幽冥の世界、神の世界は「幽世(かくりよ)」「隠世(かくりよ)」「幽冥(かくりよ)」と呼称するのである。しかもこの「幽冥」の表記は、その多数の漢字表記のある中でも、最もポピュラーなものなのである。
「平田のうしの妖魅考」平尾が心酔した江戸後期の国学者で神道家の平田篤胤(安永(一七七六一七七六)年~天保一四(一八四三)年:出羽久保田藩(現在の秋田市)出身であるが、成人後は備中松山藩士の兵学者平田篤穏(あつやす)の養子となった。平尾(篤胤より二十八も若い)自身は彼と面識はないと思わるが、篤胤の長女千枝が文政七(一八二四)年に夫とした伊予国新谷(にいや)藩(現在の愛媛県大洲市新谷町)の碧川篤真(みどりかわあつまさ)と結婚、彼が平田家の養嗣子となり、江戸で平田鐵胤(かねたね)を名乗って篤胤の思想を継いだ。平尾は元治元(一八六四)年(明治維新の四年前)になって、友人を介してその鐡胤の弟子として入門している)が文政四(一八二一)年に刊行した「古今妖魅考」全七巻。ウィキの「平田篤胤」によれば、江戸初期の朱子学派の儒者で、かの林家の祖林羅山の書いた「本朝神社考」の中の、「天狗」に関する考証に共鳴して執筆したもので、『天堂と地獄が幻想に過ぎないことを説いた』とある。底本の森山氏の補註には、『内容は著撰書目に、「此書は古今の記録物語を探りて、謂ゆる天狗妖魅の種々に世を乱し、或は地獄極楽など云ふを変現して人を惑はし、或は異験をも見せて人に信を起さしむる有趣きを説き、且その物等に三熱の苦みと云ふ事の有る因縁までを具に論じ致されたる書なり」とある。平田神道独特の所論である幽界に神あることを論証しようとしたもの』とある。
「无形」「むけい」で「無形」。]
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