諸國百物語卷之三 十 加賀の國あを鬼の事
十 加賀の國あを鬼の事
むかし、加賀の中なごんどの、御死去のとき、かゞ越中能登一ケ國の武士、のこらずひろまにつめゐたる所に、その日のくれがたに、たけ二丈ばかりなるあを鬼、をくよりいでゝひろまへ、きたり。それより、げんくはんへ、ゆき、をもての門をさして出でたれども、三ケ國のしよさぶらひ、みなみな、こうある人なりしかども、ただ
「あつ」
とばかりにて、かの鬼、げんくはんをいづるとき、やうやう腰のかたなに手をかけられけると也。
[やぶちゃん注:「加賀の中なごん」前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長十九年五月二十日(グレゴリオ暦一六一四年六月二十七日))加賀藩初代藩主で加賀前田家第二代。藩祖前田利家長男。慶長三(一五九八)年に父より前田家家督と加賀金沢領二十六万七千石を譲られる。関ヶ原の戦いの後、西軍に与みした弟利政の能登の七尾城二十二万五千石と西加賀の小松領十二万石・大聖寺領六万三千石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領されて加賀・越中・能登の三ヶ国合わせて百二十二万五千石を支配する石高日本最大となる加賀藩が成立した。男子がなかったため、異母弟の利常(利家四男)を養嗣子として迎え、慶長一〇(一六〇五)年に十一歳のの利常に家督を譲った。越中国新川郡富山城に隠居し、幼君利常を後見しつつ、富山城を改修、城下町の整備に努めた。慶長一四(一六〇九)年、富山城が焼失したため、一時的に魚津城で生活したが、その後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝られる)を築き、移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。その後、隠居領から十万石を本藩へ返納するなど、自らの政治的存在感を薄くしていく。慶長一八(一六一三)年には豊臣家より織田頼長が訪れ、勧誘を受けるが、利長はこれを拒否している。慶長一九(一六一四)年、病いが重篤化し、京都への隠棲及び高岡城破却などを幕府に願い出て許されたが、五月二十日、高岡城で病死した。服毒自殺ともされる(以上はウィキの「前田利長」に拠った)。私は中学・高校時代を高岡で過ごした。高岡城跡は非常に思い出深い地である。
「ひろま」「廣間」。このシークエンスは金沢城大広間のロケーションと考えられる。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注もそう推定している。
「二丈」六メートル六センチ。
「げんくはん」「玄關」。
「さして」「指して」。~の方向を目指して。
「こうある人」軍功のある人。]