譚海 卷之一 覺樹王院權僧正の事
○威成院僧正又不思議の事ある驗者(げんざ)也。叡山にて萬の行者といふ人有(あり)。一萬日三塔をはじめ京洛の靈場を拜し苦行する事にて、勇猛の人ならでは成就しがたき行(ぎやう)とぞ。此行中に僧正少し慢心を起されければ、天狗取(とり)て谷へ投(なげ)けるとて、其時の創(きず)の痕(あと)、口の樣に殘(のこり)て有(あり)しとぞ。後に江戶神田明神の傍に寺地を賜り住持有(あり)。覺樹王院權僧正と申(まうし)、晩年本所猿江(さるえ)に退居有(あり)、九十歲にて遷化(せんげ)ありしなり。僧正京(きやう)にありし時、白川の奧へゆかれしに、をとかうと云(いふ)仙人に遇(あひ)て談論あり。仙人護法の約ありし故、其像を造り廚子(ずし)に入(いれ)、平生(へいぜい)の居間へ安置せられ、時々護摩きとうの際、祈念せらるゝ事かなふ事には龕(ぐわん)中に聲有(あり)て答(こたへ)けるよし、その折の願(ぐわん)はきはめて應驗(わうげん)有(あり)けるとぞ。堀田相模守殿執政の願(ねが)ひかなひ、僧正の祈念などしるしありけるより、此仙人の像を懇望有(あり)て僧正より相傳あり。今は此像堀田家にありとぞ。天明六年正月猿江の精舍(しやうじや)囘祿(くわいろく)し、僧正の遺物悉く燒亡(しやうばう)し、其折(そのをり)右最勝王經のまんだらも燒却しぬ、悼むべき事也。
[やぶちゃん注:「覺樹王院權僧正」不詳。識者の御教授を乞う。
「威成院僧正」前条末に既出。不詳。但し、「威成院」というのは実在した寺のようで「近世文藝叢書」のこちら(グーグル・ブックス)で『威成院の良昌僧都』と出る。識者の御教授を乞う。ともかくも、この条はその「威成院僧正」なる高僧が実体験した事実を並べてあるようである。これも前話同様、その僧正の語ったことを誰かから津村淙庵が聴き書きしたようなニュアンスで書かれてあるようには感じる。
「萬の行者」不詳。識者の御教授を乞う。
「一萬日三塔をはじめ京洛の靈場を拜し苦行」比叡山延暦寺(言わずもがなであるが、「延暦寺」とは境内地に点在する約百五十ほどから成る堂塔・寺院の総称であって、「延暦寺」という一塔の建造物があるわけではない)はその広大な山内(約五百ヘクタール)を三つに区分し、東を「東塔(とうどう)」、西を「西塔(さいとう)」、北を「横川(よかわ)」呼び、この三区を「三塔」と呼ぶ(それぞれに本堂がある)。これは「千日回峰」ならぬ、一万日(単純計算で二十七年五ヶ月程に相当)をかけて、この「三塔」を始めとして京都の寺院を総て行脚礼拝する行のことか? 識者の御教授を乞う。
「僧正」威成院僧正自身。
「天狗取(とり)て谷へ投(なげ)ける」天狗が威成院僧正を、ぐい! と摑んで比叡山の谷底へ投げた。
「口の樣に」口のようにぱっくりと開いて。
「後に江戶神田明神の傍に寺地を賜り住持有(あり)」というのは文脈から見ると、威成院僧正のことのようである。
「覺樹王院權僧正と申(まうし)、晩年本所猿江に退居有(あり)、九十歳にて遷化(せんげ)ありしなり」ここからかなり唐突に「覺樹王院權僧正」の話に変わる。この条、或いは錯簡があるか? 「本所猿江」現在の東京都江東区猿江。ウィキの「猿江」によれば、『深川地域東部の中でも数少ない江戸時代以前から陸地が広がるエリアであり、「深川猿江」の名で長く親しまれている町である』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「をとかう」不詳。識者の御教授を乞う。
「仙人」僧正の言う場合は仏語で、外道(げどう)の修行者の中で、世俗と交わりを断って神通力を修めた者を指す。
「仙人護法の約ありし故」この「をとかう」なる外道の修行者と覚樹王院権僧正は「談論」の末に互いを認め合ったものなのであろう、「護法の約」というのは「をとかう」仙人が護法童子(密教の奥義を極めた高僧や修験道の行者・山伏。陰陽師らが使役する神霊・鬼神)の法を以って覚樹王院権僧正を護ると約したのであろう。
「其像」これは護法童子像であろう。
「きとう」「祈禱」。
「祈念せらるゝ事かなふ事には龕(ぐわん)中に聲有(あり)て答(こたへ)けるよし」その祈念なさったことがきっと叶う、成就する場合には「龕」(がん:仏像を納めた厨子)の中から、何者かが必ず応じて声を挙げるとのこと。
「その折の願(ぐわん)はきはめて應驗(わうげん)有(あり)けるとぞ」そうした現象が起こった場合には、その願いの成就のさまは、これ、極めて十全に満足出来るものであったということである。
「堀田相模守殿執政」本「譚海」は寛政七(一七九五)年自序であるから、直近の老中首座、堀田氏で相模守というと、出羽山形藩三代藩主・下総佐倉藩初代藩主で正俊系堀田家第五代の堀田正亮(正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)である。彼は家綱の治世に老中・大老であった堀田正俊(寛永一一(一六三四)年~貞享元(一六八四)年)の四男堀田正武の長男で、正亮が老中首座となったのは寛延二(一七四九)年、吉宗の治世の最後である。家光の治世の老中に正俊の父堀田正盛もいるが、正盛・正俊は二人とも「相模守」ではないから、正亮に同定してよい。
「天明六年」一七八六年。
「精舍(しやうじや)」寺院。
「囘祿(くわいろく)」火災。
「右最勝王經のまんだら」これは前話「官醫池永昌安辨財天信仰の事」にある官医池永昌安が、「最勝王経」の説くところを狩野探信に描かせたという大曼荼羅絵。最後に昌安はこの大幅のしかも数十幅に及ぶ、金泥をふんだんに使った(七千両かかった)それを、威成院権僧正に寄附したと述べてある。]