諸國百物語卷之三 四 江州白井助三郎が娘の執心大蛇になりし事
四 江州白井助(すけ)三郎が娘の執心大蛇になりし事
江州喜多の郡とちう村りうげ峠と云ふ所に、高橋新五郎といふ大(をゝ)百姓あり。五さいになる男子を一人もてり。そのむかいに白井介(すけ)三郎とて、これもおとらぬ百しやうなるが、三さいになるむすめをもてり。たがいのをや、ねんごろのあまりに、のちのちはふうふにもせんとて、いひなづけのさかづきをさせ、とし月をおくる所に、ほどなく、男子(なんし)十さいになりしころ、新五郎、かりそめにわづらひつきて、むなしくなりけるが、そのあとぜんぜんにをとろへければ、介三郎、はじめのけいやくをちがへ、むすめ十五になるとき、となりざいしよの、うとくなる百しやうとえんぐみして、すでにしうげんの當日にもなりければ、此むすめ、思ふやう、われはいとけなきころより、むかいの男子と、いひなづけをもいたしをき、今、しんだいのおとろへたりとて、よそへゑんにつく事、道ならぬことなり、と、おもひ、下女をたのみ、ひそかに、むかいの男子をよびよせ、
「さてさて、そのはうさまとわれわれ、いとけなきときよりも、たがいのをやのはからいにて、ふうふのけいやくいたし候ふに、今、それがしを、ほかへゑんにつけ申され候ふ事、かへすかへすも、くちをしきしだい也。しうげんもこよひにきはまり候ふ也。われをいづかたへも、つれてのき給はれ」
と云ふ。男子(なんし)きゝて、
「御しんていのほど、かたじけなくは候へども、われはかやうになりはて候ふ身なれば、ゆめゆめうらみは候はず。ときにゑんづき候へ」
といへば、むすめきゝて、
「此うへはちからなし」
とて、すでに、じがいをせんとする所を、男子(なんし)、おどろき、おしとゞめ、
「さほどにおぼしめさば、いづかたへもともなひ申さん」
とて、むすめとゝもに、夜にまぎれ、たちのきぬ。されども、いづくをたのみとさだめねば、とある所にやすらい、とほうにくれてゐたりしが、むすめいひけるは、
「此世にてそひ申す事は、とかくに、かなひ申すまじ。是れなるふちに身をなげて、ながきらいせにて、同じはちすのうてなにて、そひ申さん」
といへば、男子(なんし)も、
「尤(もつとも)」
とて、ふうふ、もろとも、手をとりくみ、そこのみくづとなりけるが、なにとかしたりけん、男子(なんし)は木のえだにかゝりて、ゑしづまず。その間(ま)にみちゆき人、見つけて、すくひあげゝれば、男子(なんし)はたすかりぬ。男子、つくづくとおもひけるは、われ、ふりよに木のえだにかゝる事、定業(ぢやうごう)いまだきたらぬゆへなるべし。此うへは、さまをもかへ、むすめのぼだいをもとはんと思ひ、わが家に歸りぬ。さて男子(なんし)の母は、しゆく願の事ありて、石山のくわんをんへ、まいられけるが、せたの橋のほとりに、十四五なるむすめ、さめざめと、なきゐたり。母たちより、事のやうすをたづねければ、此むすめいひけるは、
「われは、これより北ざいしよのものなるが、まゝ母にかゝり候ひて、いろいろとさいなまれ申すにより、あまりにたへかね、宿をたちいで、此所にて身をなげ申さんとぞんじ候ふ」
と、かたりければ、母もふびんにをもわれて、
「さいわい、われ一人の男子(なんし)をもつ、これとふうふにいたすべし」
との給へば、むすめよろこび、
「よろづたのみあぐる」
といへば、母もよろこび、これ、ひとへに、くわんをんのひきあわせとて、此むすめを、ともなひかへり、男子(なんし)とふうふになしけるが、男子も過ぎにしかなしみも、うちわすれ、今はひよくのかたらひ、ふかくして、男子(なんし)一人、もうけたりしが、はや、三さいになりにける。あるとき、夫(をつと)、ほかへゆきたるまに、女ばう、へやに入り、ひるねしてゐけるが、この子、母のヘやに入りて、母を見て、わつとなきてはいで、わつとなきてはいで、かくのごとくする事、三度にをよべり。夫、かへりて、此ありさまを見て、ふしぎにおもひ、へやにゆきみれば、女ばう、たけ一丈あまりの大じやとなりて、よねんもなく、ふしゐたり。夫、おそろしくおもひ、よびをこしければ、また、もとの女のすがたとなりて、夫にむかい、
「さてさて今まではふかくつゝしみ候ひしが、今は、わがすがたを見へまいらせ候ひて、御はづかしく候ふ。われはそのむかしの新五郎がむすめ也。そのはうさまにそひ申したきしうしん、死しても、はれやらず。今また、女にさまをかへ、としごろ、あひなれ申したり。今はこれまで也。御なごりをしく候ふ」[やぶちゃん字注:妻の台詞中の「新五郎」はママ。底本にもママ注記がある。ここは「介三郎」でなくてはおかしい。]
とて、かきけすやうに、うせにけり。そのゝち、此子、母をしきりにたづねけるゆへ、夫もあまりの物うきにかの池につれゆきて、
「あまりに此子、こひこがれ申すあいだ、今一度、すがたをあらはし、みへ給へ」
といへば、池のうちより、たちまち、女のすがたあらわれいで、子をうけとり、しばしがほど乳をのませ、いとまごひして池にいりぬ。そのゝち、此子、なをなを、母をこひしがり候ふゆへ、又くだんの池につれゆきて、又、よび出だしければ、此たびは池のうちより、大蛇のすがたとなり、あらわれいで、くれなひの舌をふりまはし、此子をのまんとして、うせければ、そのゝちは、ふつと、母をば、こがれざると也。夫も、このありさまのかなしさに、そのゝち、親子もろともに、かの池に身をなげて、つゐにむなしくなりけると、所の人、かたり侍る。
[やぶちゃん注:標題「白井助三郎」はママ。挿絵の右キャプションは「白井の娘のしうしん大蛇に爲事」か(「爲」は「なる」)。何ともこれ、最後の最後まで哀しい話ではないか。
「江州喜多の郡とちう村りうげ峠」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『現滋賀県高島郡朽木村栃生(とちう)。「竜華峠」は「途中峠」ともいい、高島郡から、京都大原へ出る若狭街道の途中にある峠』とある。これは所謂、「途中越(とちゅうごえ)」と呼ばれる峠で、現在は京都市左京区大原小出石町と滋賀県大津市伊香立途中町の境に位置する峠である。ウィキの「途中越」によれば、「栃生越(とちゅうごえ)」「竜華越(りゅうげごえ)」又は『途中峠とも呼ばれる。なお、広義には峠前後の道の名称としても呼称され』、標高は三百八十二メートルとある。『峠の名称は、延暦寺の僧侶で千日回峰行を創始した相応和尚(そうおうかしょう)がそれぞれ開山した無道寺』(八六五年開山。延暦寺山内にある)『と、葛川明王院』(八五九年開山)『の中ほどに位置する「龍花村」を「途中村」と命名したことから』「途中」越と『呼ばれるようになったと伝えられて』おり、『また、龍華越または橡生越』『とも称されたほか、朽木にあった橡生村と区別するため』『に龍華橡生とも称された』ともあるのでここと考えてよい。「喜多郡」は不詳。旧近江国にはこれに近似した郡名はない。実はさらに注意する必要があるのは、同じ滋賀県内に同じく昔は「竜華峠」と呼ばれていた全く別な「鞍掛峠(くらかけとうげ)」があることである。こちらは三重県いなべ市と滋賀県犬上郡多賀町を結ぶ峠で、前の「竜華峠」とは琵琶湖を挟んだ対称位置にある(ウィキの「鞍掛峠」を参照されたい)。
「ねんごろのあまりに」あまりにも極めて親しくしていた結果として。
「うとくなる」「有德なる」。裕福な。
「しうげん」「祝言」。
「しんだい」「身代」。
「よそへゑんにつく事」「他所へ緣に就く事」。
「道ならぬこと」節操のないこと。
「そのはうさまとわれわれ」「その方樣」(新五郎の息子)と「われわれ」(私。一人称単数で用いた場合は遜った謂い方になる)。
「つれてのき給はれ」「連れて退き給はれ」。駆け落ちである。
「御しんてい」「御心底」「御」は「ご」と読んでおく。
「ときに」時(とき)恰(あたかも)も心お静かに。
「じがい」「自害」。
をせんとする所を、男子(なんし)、おどろきおしとゞめ、
「とかくに」多くの場合は。
「ながきらいせ」「永き來世」。
「同じはちすのうてな」「同じ蓮(はちす)の臺(うてな)」。「蓮の臺」は極楽浄土で佛が座るとされる蓮の花で出来た台(だい)のこと。
「そこのみくづ」淵の「底の水屑(みくづ)」。
「ゑしつまず」「え沈まず」。歴史的仮名遣は誤り。
「みちゆき人」「みちゆきびと」と訓じて通行人の意の一単語でとる。
「ふりよに」「不慮に」思わずも。
「定業(ぢやうごう)」前世からの因縁によって定まっている善悪の業報(ごうほう)。決定業(けつじょうごう)。但し、ここは単にそれによって定められた「寿命」の意でよい。
「さまをもかへ」「樣を變へ」。剃髪して出家し。
「むすめのぼだいをもとはん」「娘の菩提をも訪(と)はん」。「訪ふ」は「弔う」に同じい。
「しゆく願」「宿願」。かねてよりの願い事。流れから考えれば、傾きかけた家運の再興とそれに繋がるはずの跡取りである息子への良き縁談という連動した願いであろう。
「石山のくわんをん」現在の滋賀県大津市石山寺(いしやまでら)にある真言宗石光山石山寺(いしやまでら)。本尊は如意輪観音。京都の清水寺・奈良の長谷寺と並ぶ。日本有数の観音霊場。
「せたの橋」「瀨田の橋」滋賀県大津市瀬田の瀬田川に架かる瀬田の唐橋(からはし)。現在の全長は二百六十メートル。藤原俵藤太秀郷の三上山(みかみやま)の百足退治で、唐橋を渡る俵藤太の前に龍宮の姫が変身した大蛇が現れるように、橋の下にある淵が竜宮に繫がっているとする伝承があり、橋の東詰めには藤太や竜宮の王を祀る龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ)もある。
「かゝり」仕組んだものにはめられ。
「さいなまれ」苛められ。
「よろづたのみあぐる」「何もかも! どうぞ! お頼み申し上げまする!」。
「くわんをんのひきあわせ」「觀音の引き合(あは)せ」。「あわせ」は歴史的仮名遣の誤り。
「ひよくのかたらひ」「比翼の語らひ」。「比翼」は「比翼鳥」で雌雄それぞれが目と翼を一つずつもち、二羽が常に一体となって飛ぶとされる中国の伝説上の鳥。夫婦の仲が親密なことの譬え。
「一丈あまりの」三メートルもある。
「よねんもなく」「餘念も無く」。完全に深い眠りに落ちていることを表現。
「そのはうさまにそひ申したきしうしん」「その方樣に添ひ申したき執心」。大事なことはその忌まわしき妄執故に、遂にはおぞましき大蛇と変じてしまったという最も捨てがたき愛欲という煩悩の悪因という点である。ここが筆者が、この怪談に仕組んだ辛気臭い教訓性なのである。しかし、私はそんなものはつまらんことだと思うている。
「あひなれ」「相ひ馴れ」。
「物うきに」「もの憂きに」。なんとも言えず、悲しく、つらいので。
「のまんとして」「吞まんとして」。人口にて吞み込まんとするような動きを見せて。先に引いた高田衛編・校注の「江戸怪談集 下」の脚注には、『吞みこむふりをして。しかし、ここに本来の蛇性を表現しているのかもしれない』と記しておられる。高田氏には、私の愛読書でもある「女と蛇 表徴の江戸文学誌」(一九九九年筑摩書房刊)という作品もある。
「ふつと」ふっつりと。それっきり。]
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