譚海 卷之一 守宮幷やもりの事
守宮幷やもりの事
○守宮(いもり)女の臂(はだ)にぬりて他心(たしん)を試(こころみ)るものは、京都にてやもりと稱する物也。江戸にて山うりの持(もち)ありくは、箱根にある赤(あか)はらといふものにて、漢名龍蟠魚といふもの也。また䱱魚をいもりと覺えあやまりたる人あり、そこつ成(なる)事と人の云(いへ)りし。
[やぶちゃん注:「守宮」本文の「守宮(いもり)」のルビは数少ない底本のルビである。しかし、この当て読み自体が既にして混乱しており、「宮」(屋形・屋敷)を「守」るのは「いもり」ではなく「宮守・屋守」で「やもり」なのである。これについては後にリンクさせる私の膨大な電子テクストと注を参照されたい。まず、ここでは、各個に単なる注を施す。和訓の「いもり」は、
脊椎動物亜門両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属 Cynops の両生類である淡水中に棲息するイモリ類
を指す。彼等は基本、中華人民共和国及び日本にしか自然分布しない。ウィキの「イモリ属」によれば、以下の種が挙げられてある。
チェンコンイモリ Cynops chenggongensis(絶滅したか)
アオイモリ Cynops cyanurus
シリケンイモリ Cynops ensicauda
フーディンイモリ Cynops fudingensis
ウーファイイモリ Cynops glaucus
チュウゴクイモリ Cynops orientalis
クァントンイモリ Cynops orphicus
アカハライモリ Cynops pyrrhogaster(後注参照)
ユンナンイモリ Cynops wolterstorffi(絶滅種)
「やもり」先に述べた通り、漢字表記は通常、「守宮」で、
脊椎動物亜門爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属 Gekko の爬虫類のトカゲの仲間である陸上性で好んで人家周辺に棲むヤモリ類
を指す。東南アジアを始めとしたアジア各地に広く分布する。ウィキの「ヤモリ属」にその多くの種が列挙されてあるので参照されたい(本邦に棲息せず、和名を持たない種も多い)が、本邦の本土に普通に棲息し、我が家にも永年、一族が棲みついていて、他人とは思えない馴染みのそれは、
ニホンヤモリ Gekko japonicus
である。但し、本種は「ニホンヤモリ」と言う名でありながら、しかし日本固有種ではないので注意されたい(ウィキの「ニホンヤモリ」によれば、『江戸時代に来日したシーボルトが新種として報告したため、種小名の japonicus (「日本の」の意)が付けられているが、ユーラシア大陸からの外来種と考えられており、日本固有種ではない。日本に定着した時期については不明だが、平安時代以降と思われる』とある)。
「守宮女の臂にぬりて他心を試る」kの「他心」とは二心(ふたごころ)、他意の意で、ここでは狭義に、婦人で、言い交わした男(夫)以外の間男との実際の密通行為の既遂を指す。中国で古来、「守宮」なる生物を、練丹術や漢方で用いられてきた「朱」(辰砂(しんしゃ:硫化水銀HgS。有毒)をある程度希釈したものを入れた中で飼育したものから調剤した薬物を、女性の素肌に塗ると、後にその女が不義の姦淫したかどうかが分かるとされたのである。これについては私の古い電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」に詳しいのでそちらをまずは読んで頂きたいが、その冒頭にも、
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『古今図書集成』禽虫典一八四に、『淮南万畢術』を引いていわく、「七月七日、守宮を採り、これを陰乾(かげぼし)し、合わすに井華水をもってし、和(わ)って女身に塗る。文章(もよう)あれば、すなわち丹をもってこれに塗る。去(き)えざる者は淫せず、去ゆる者は奸あり」。晋の張華の『博物志』四には、「蜥蜴、あるいは蝘蜓と名づく。器をもってこれを養うに朱砂をもってすれば、体ことごとく赤し。食うところ七斤に満つれば、治(おさ)め杵(つ)くこと万杵す。女人の支体に点ずれば、終年滅せず。ただ房室のことあればすなわち滅す。故に守宮と号(なづ)く。伝えていわく、東方朔、漢の武帝に語り、これを試みるに験あり、と」。
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と引き、熊楠も続けて、『『本草綱目』四三と本邦本草諸家の説を合わせ考うるに、大抵蜥蜴はトカゲ、蝘蜓はヤモリらしいが、古人はこれを混同して、いずれもまた守宮と名づけたらしく、件(くだん)の試験法に、いずれか一つ用いたか、両(ふたつ)ともに用いたか分からぬ』とし、取り敢えず彼は『かくトカゲ、ヤモリ、イモリを混じて同名で呼んだから、むかし女の貞不貞を試みた守宮は何であったか全く判らぬ』と匙を投げているのである。即ち、問題はこれで、この「守宮」が所謂、正しい爬虫類の「ヤモリ」類なのか、はたまた、ルビに振る「やもり」、両生類の「ヤモリ」類なのかが、古い時代より、全く以って錯雑してしまって、最早、その比定が出来なくなっているなのである。而して、それがその昏迷を究めたまま、本邦に伝来してしまい、ことさらに信じられるようになり、そこでは専ら「守宮」を「イモリ」と誤って理解されるようになってしまった傾向が強いのである。例えば、延慶三(一三一〇)年頃に成立した藤原長清撰になる私撰和歌集「夫木和歌抄」に所載する寂蓮法師の和歌に、
ゐもりすむ山下水の秋の色はむすぶ手につく印なりけり 寂蓮
というのがあるが、これはまさに古来、媚薬ともされた(後注の引用下線部を参照)井守(イモリ)の粉末には、それを女性の体に塗ると痣(あざ)となり、その女性が姦淫した時にのみ、その痣が消えるという効果があるとされた、当時信じられたそれに基づく一首であり、
……あの女の変節を即座に当てる媚薬の主である井守(イモリ)が棲んでいる山の下の清水……そこに映るその移ろい易い秋の空の気配……その水を私は両手で汲んでみる……その手にあった井守の痣が消えゆく如く……そこに示されたのは……人の移ろい易い心のそのはかない心変わりを語るシンボルであったのだ……
といった意味であろうが、これはもう平安末期には、秘薬を産み出すその生物は両生類の「イモリ」と一般に認識されてしまって定着していたことを如実に示す好例なのである。これは私の好む論考で多くのいろいろな注で綴ってきたのであるが、それを書き始めると、異様に長い注となってしまう。私が纏めてこの問題を最初に考証したのは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈(いもり)」「守宮(やもり)」「避役(大(おほ)いもり)」辺りの注で、これは厖大でここには引けない。されば、先の南方熊楠のそれとそこを併せてお読み戴くことで、私の注にかえたいと思う。悪しからず。
「山うり」「山賣り」であるが、これは山の物を売る行商の意ではないので注意。山師(やまし:投機的な事業で金儲けをたくらむ人の意から、儲け話を持ちかけては他人を欺く人)のようなやり口で、人を騙して怪しい、イカサマ物を売りつける人のことである。
「赤はら」先に掲げた本邦のイモリの単一種で日本固有種であるアカハライモリ Cynops pyrrhogaster 。ウィキの「アカハライモリ」より引く。『本州、四国、九州とその周囲の島嶼に分布する日本の固有種で、当該地域に分布するイモリとしては唯一の種でもある。島嶼では佐渡島、隠岐諸島、壱岐島、五島列島、大隅諸島まで分布するが、対馬島には分布していない。大隅諸島では近年、生息の確認は無い。北海道や伊豆諸島などには本来分布していなかったが、人為的に移入されたものが増えており問題となっている』。『なお、奄美大島から沖縄本島にはイモリ属シリケンイモリ(尻剣井守)Cynops ensicauda とイボイモリ(イモリ科イボイモリ属イボイモリ(疣井守) Echinotriton andersoni が分布している(この二種は棲息数が減少しており、特に後者のイボイモリ絶滅危惧Ⅱ類(絶滅の危険が増大している種)に指定されている)。全長は十センチメートル前後で、二対四本の『短い足と長い尾をもつ。サンショウウオ類と異なり皮膚がザラザラしている。背中側は黒-茶褐色で、腹は赤地に黒の斑点模様になっている。赤みや斑点模様は地域差や個体差があり、ほとんど黒いものや全く斑点が無いもの、逆に背中まで赤いものもいる』。『フグと同じテトロドトキシンという毒をもち、腹の赤黒の斑点模様は毒をもつことを他の動物に知らせる警戒色になっていると考えられている。陸上で強い物理刺激を受けると横に倒れて体を反らせ、赤い腹を見せる動作を行う』。『イモリは脊椎動物としては特に再生能力が高いことでも知られている。たとえば尾を切ったとしても本種では完全に骨まで再生する。また四肢を肩の関節より先で切断しても指先まで完全に再生する。さらには目のレンズも再生することができ、この性質は教科書にも記載されている。多くの脊椎動物ではこれらの部位は再生できない。ちなみに、尾を自切し再生することが知られているトカゲでも、尾骨までは再生しない』。『なお、この再生能力の高さは、生態学的研究の立場からは障害になる場合がある。個体識別をするためのマーキングが困難となるためである。一般に小型の両生類や爬虫類では様々なパターンで足指を切ってマーキングしたり個体識別(トークリッピング)を行うが、イモリの場合には簡単に再生してしまう。尾に切れ込みを入れても、傷が浅ければすぐ再生する。さらに札などを縫いつけても、やはり皮膚が切れて外れやすく、その傷もすぐに癒えてしまう』。『水田、池、川の淀みなど流れのない淡水中に生息する。 繁殖期以外は水辺の近くの林や、クズなどの茂る草地の水気の多い枯れ草の下などに潜むことが多い。 日本産サンショウウオ類』(有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea)『は繁殖時期にのみ水辺に留まるものが多いが、本種の成体は繁殖期以外も水中で生活することが多い。ただし雨の日には水から出て移動することもある。冬は水路の落ち葉の下や水辺近くの石の下などで冬眠する』。『幼生も成体も昆虫、ミミズ等の小動物を貪欲に捕食する。他の両生類の卵や幼生の有力な捕食者ともなっており、モリアオガエルやアベサンショウウオなど、希少な両生類の生息地では厄介者とされる』。『和名の「井守」は、野井戸の中にも生息するので「井戸を守る」に由来するという説や、井は田んぼを意味し、水田に生息することから「田を守る」との意味に由来するという説がある』。『名前がヤモリと似ている。しかし、ヤモリは爬虫類であること、人家の外壁などに生息し一生を通じて水中に入ることがないこと、変態をしないことなどが、イモリとの相違点である』。『春になり気温が上昇し始めると、成体が水中に姿を現す。オスがメスの行く先にまわりこみ、紫色の婚姻色を呈した尾を身体の横まで曲げて小刻みにふるわせるなど複雑な求愛行動を行う。このときにオスが分泌するフェロモンであるソデフリン(sodefrin、額田王の短歌にちなむ)が』(「ソデフリン」は私の過去記事「クビフリン・ソデフリン・シリフリン」を参照されたい)、『脊椎動物初のペプチドフェロモンとして報告されている。メスが受け入れる態勢になると、メスはオスの後ろについて歩き、オスの尾に触れる合図を送ると、オスが精子嚢を落としメスが総排出腔から取り込む。その際にオスの求愛行動に地域差があり、地域が異なる個体間では交配が成立しにくいといわれる』。『メスは、寒天質に包まれた受精卵を水中の水草の葉にくるむように』一つずつ『産卵する。流水に産卵する種類がいるサンショウウオ類に対し、アカハライモリは水たまり、池、川の淀みなど流れの無い止水域で産卵・発生する』。『卵から孵った幼生はアホロートル』(Axolotl:有尾目イモリ上科トラフサンショウウオ科 Ambystomatidae の構成種の中には幼形成熟する個体があり、それらを総称して、かく呼称する。ほれ、昔、流行った「ウーパールーパ」だよ)『のような外鰓(外えら)があり、さらにバランサーという突起をもつ。幼生ははじめのうちは足も生えていないが、やがて前後の脚が生える。ただしカエル(オタマジャクシ)はまず後脚から生えるが、イモリは前脚が先に生える。外鰓があるうちは水中で小動物を食べて成長するが、口に入りそうな動くものには何にでも食いつくため、共食いすることもある』。『幼生は十分成長すると、外鰓が消えて成体と同じような形の幼体となり、上陸する。幼生の皮膚は滑らかだが、幼体の皮膚は成体と同じくざらざらしており、乾燥には幾分抵抗性がある。そのため、上陸した幼体を無理に水に戻すと、皮膚が水をはじいて気泡がまとわりつき、銀色に見えることがある。幼体は、森林内などで小さな昆虫や陸棲貝類、ミミズなどの土壌動物を捕食して』三年から五年かけて『成長し、成熟すると再び水域に戻ってくる『一般的に有尾類は温度変化に弱く、摂餌行動が鈍く、人工環境での長期飼育が困難な種が多い。また、現地で法的に保護されている場合も少なくない。しかし日本のアカハライモリやシリケンイモリは温度変化に強く、きわめて貪欲で、飼育に適し、個体数が多く特に保護されていなかったため、ペットとして日本のみならず欧米でも人気が高まった』。但し、二十一世紀初頭の『時点では先述のように保護地域も設定されるようになった。また、産地不明の飼育個体が逃げだしたり個体を遺棄することによる地域個体群への遺伝子汚染が懸念されている』。『イモリ類は胚発生の実験材料としてもよく用いられる。特に、シュペーマンが胚域の交換移植実験などを通じて、形成体を発見するのにイモリを用いた一連の実験が有名である』。『近年では、その再生力の強さに注目して、再生・分化などの研究に用いられることも多い。一度精子をオスから受け取ると半年以上も体内で保持されメス単独で産卵することや、卵が透明な寒天状物質に包まれており、容易に観察できる点など利点は多い』。『かつて日本では、イモリの黒焼きはほれ薬として有名であった。竹筒のしきりを挟んで両側に雄雌一匹ずつを分けて入れ、これを焼いたもので、しきりの向こうの相手に恋焦がれて心臓まで真っ黒に焼けると伝える。実際の成分よりは、配偶行動などからの想像が主体であると思われるが、元来中国ではヤモリの黒焼きが用いられ、イモリの黒焼きになったのは日本の独自解釈による』とある(下線やぶちゃん)。……因みに、私は自分の分かりもしないことを解ったふりをして引用など、しない人間である。――私は高校時代、演劇部と生物部を掛け持ちしていた。――生物部では、このアカハライモリの四肢を切断し、それを再生させる実験を繰り返していた。――貴方はそんなフランケンシュタイン博士めいた実験に従事したことはあるかね?――私はあるのだよ。――まさに「いもり」の「血」塗られた手で、ね…………
「漢名龍蟠魚」不詳。このソース元が判らない。識者の御教授を乞う。
「䱱魚」これは山椒魚、有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ類(オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus も含まれるが、他の種群は概ね二十センチメートル以下と小型である)のこと。]
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