譚海 卷之一 大坂豪富の者、通用金の事
大坂豪富の者、通用金の事
○大坂豪富の町人、奢侈(しやし)年々甚敷(はなはだしき)に付(つき)て、寶曆十三年の秋、分限に應じ用金を命ぜられ、其外嚴敷(きびしく)せんさくありて、種々の禁を立(たて)られ、是より大坂衰微のはじめとなりたりといへり。夫(それ)までは大坂豪富の者、仲間通用金と云ものをこしらへ融通せしが、是も同時に制止有けり。此仲間金止(とめ)たるは、殊外(ことのほか)大坂の差(さし)つかへに成(なり)たる事とぞ。此通用金といふは、大坂にて爲替金(かはせがね)の仲間、又大名仕送りを取扱ふ者共(ども)、百兩包(づつみ)をこしらへ、上封に銘々名判(めいはん)を連署して、包たる内は銅を小判の形に括(こしら)ひ、重さも富商の斤目(きんめ)にひとしく調置(ととのへおき)て、急に金子(きんす)入用の時は、眞(もこと)の小判にまぜつかひし故、巨萬の金も即時に辨ずる事にて、甚だ融通よろしかりきと。若(もし)右百兩他國へ遣す時は、上封の各判ある方へ持行(もちゆけ)ば、そのまゝ眞金(しんきん)に引(ひき)かえらるゝゆへ、數萬金の通用手つかふ事なし。全體銀札を遣ふよふなるもの也。夫よりは猶(なほ)慥成(たしかなる)物也(なり)。大坂の通用は過判此封金にて自由したるを、制止ありしより奢侈の徒(と)も一時に困窮に及びしとぞ。
[やぶちゃん注:「通用金」これは特殊な謂い方で、ここで説明されているように、一種の為替物件(預金証書や小切手のような機能)を有した、実際の額面の金貨・銀貨が包まれたものではないが、しかし、そこに署名された当該グループの為替金システムに参加している複数の商家・町人の誰かのところにその包を持って行けば、当該額面の通貨に換金してくれるというグループ内で仮通貨を指す。これは正直、私は読むまで知らなかったが、確かに、急に大金の用立てを複数から頼まれた豪商は、手持ち金では不足することも往々にしてあったに違いなく、これはすこぶるよい手立てであったに違いない。大阪では後には完全に紙と化した「銀目手形」(預かり証。現在の預金通帳のようなもので、銀貨は重く大量に持ち歩けないことから、現金を両替商に預けおいて必要に応じて引き出すシステムを採った)が主流ともなったらしい。江戸でもこうした金銀包があったが、これは内容物は正真正銘の等価金銀通貨が厳封されたものであって、それによって気風(きっぷ)のいい江戸商人連は逆に信用を高めたらしい(江戸のそれは山口健次郎氏の論文「江戸期包金銀について」(PDF)を参照されたい)。
「寶曆十三年」一七六三年。
「用金」御用金。幕府や諸藩が財政難に対処するため、御用商人などを指名して臨時に募集(事実上は強制)した金銭。幕府では宝暦一一
(一七六一)年から慶応二(一八六六)年まで、実に十七回も賦課しており、償還が建前であったものの、償還されなかった(出来なかった)こともあった。
「せんさく」「穿鑿」。
「種々の禁を立(たて)られ」この「られ」はそうした金銭貸与要請の強制をかけた幕府に対する尊敬語。
「仲間金」「なかまがね」と読むか。
「重さも富商の斤目(きんめ)」実際の豪商が持つ実包む(じっぽう)の金銀包と同じ目方。重かろうにと思うが、確かに、関西人なれば、例えば百両千両とある包が、鞠のように軽いのは、これ、すかんやろ、な。
「數萬金の通用手つかふ事なし」数万両分の実際の金貨銀貨を扱うことはしない。
「銀札」先に書いた後の「銀目手形」のようなものであろう。
「よふ」「様(やう)」。歴史的仮名遣は誤り。]