譚海 卷之一 朝士太田源藏・こたは三四郎の事
朝士太田源藏・こたは三四郎の事
〇宮家の徒士(かち)衆に、太田源藏とて本所に住(すめ)る人あり。劍術絶技を究め勇力も又有(あり)、安永の比(ころ)俠客(きやうかく)のかしら也。又小從人(こじふにん)にてこたは三四郎と云(いふ)人下谷に有、是も俠遊を好み、下谷の俠客のかしら也。其(その)徒(と)動(ややも)すれば相あらそふ事絶(たえ)ず。ある日淺草の酒家に兩人のかしら行過(ゆきすぎ)たる事有。座敷を隔て居たり、何れも數十人の徒を隨へ豪飮(がういん)の體(てい)成(なり)しが、三四郎鄰(となり)座敷に源藏有(ある)事をきゝ、座敷のふすまをひらき、島臺をもち源藏方に來り、久敷(ひさしく)高名を承り及び、今日はからず一所に會(くわい)するまゝ、舊識(きうしき)に成申度(なりまうしたき)由をいひ聞(きき)て、一盃をつくし源蔵へさし、御肴(おんさかな)に是(これ)をとて、脇差を拔き臺に置(おき)返盃を乞(こひ)ける、源藏も心得候とて返盃して同じく白刄(はくじん)を添(そへ)て出(いだ)しける。此上承知にて忝(かたじけな)し、日を約し度(たき)由を云(いふ)、源藏日を期(き)するまでもなし、今日願(ねがふ)由也。さらば何方(いづかた)にて立合(たちあひ)申(まうす)べきやと。源藏何方までもなし此所(ここ)にて勝負を試みべしと云。既に匁傷(にんじやう)に及(およば)んとするをみて、亭主大(おほき)に驚き、何共(なんとも)我等亭にて御互に怪我等も有之(これあり)ては、上の御咎め鄰里(となれるさと)の難義も迷惑に候へば、御用捨(ようしや)下さるべしと詫(わび)ければ、源藏尤(もつとも)也(なり)、さらば何方にても御望(おのぞみ)にまかせ立合申んと云(いふ)。三四郎悦び、然らば拙者が宅へ來らるべしやと。源藏尤宜(よろしき)事也とてゆかんとす。其徒も同道せんと云(いふ)を源藏止(とど)め、全く是は兩人斗(ばかり)の事にて他人にあづからず。若(もし)各(おのおの)を同道せば、いかなるまきぞへの罪をえられんも氣の毒、必ず無用なりとて押止(おしとどめ)、一人三四郎が宅へ行(ゆき)たり。門を入(い)るとそのまゝ錠をおろし、逃出(にげいださ)んやうなきにかまへ、扨(さて)座敷へ招じ逢(あひ)けるに、源藏いよいよ詞氣(しき)たはまず、傍若無人恐るゝ色もなかりしかば、三四郎殊の外感伏し、高名聞(きき)しにたがはず、不測の地に臨(のぞみ)て益(ますます)恐るゝ氣色(けしき)なし、我等が及(およぶ)所にあらず、今より巳後(いご)は何とぞ眞知(しんち)のまじはりをゆるされ下され、生死をもともにし、兄弟同樣に思ひ給はれと願ひければ、源藏も承引(しやういん)し、扨其跡にて盃盤珍羞(はいばんちんしう)を勸め、歡を盡(つく)し深更迄ありて別れけり。
源藏三枚橋迄歸る時、十人斗(ばかり)拔身(ぬきみ)にて左右より突來(つききた)る。傘にて三四人みぞの中へうちたふし、其餘は縱橫ににげ行(ゆき)ける。一人をとらへみるに彼(かの)三四郎が徒也。源蔵甚(はなはだ)怒り、三四郎甚(はなはだ)此興(ひきやう)也、其座にて勝負に及ばず、かくだましうちにせんとする言語同斷臆病也と云(いふ)。此者顏色(がんしよく)藍の色の如し、全く左樣の次第にあらず、三四郎感服の體(てい)を旁觀(ばうかん)致しぬれど、まだ君(くん)の手際(てぎは)を存ぜねば試み侍らんとて、仲間のものどもかくせし事也(なり)、ゆるし給はれといへば、さらば手際をみよとて引つらるゝに、鳥越のあたりまで行(ゆき)て一向にあるき得ず、魂消(たまげ)て地にふしうごかざれば、今は益なしとて、豆腐屋の大桶の水をうちあけ、此男に引かぶせ歸りけるとぞ。此源藏本所の惣若年(すべてのじやくねん)を悉く從へ、或は人の急に赴き難をすくひ、又は氣をつかひぬす人をふせぎなどせしかば、源藏が有(ある)所は靜謐(せいひつ)にして、行人(かうじん)も夜の妨(さまたげ)なく、本所の人倚賴(よりだのみ)して尊(たつと)みけり。ある夜源藏同道ありて娼家に遊びしに、同道の男は名妓の客也。源藏はその妓の新造に會たり。既に枕席を催して寢(いね)んとせし時、名妓たびだび來りて使用のために新造を二三度おこしつかひけり。源藏閑話を妨(さまたげ)られ怒(いかり)をおこし、此妓をよびて云(いひ)けるは、いかに汝が新造なればとて、かく度々よびおこして歡(くわん)をさまたぐる事をなす、我も太田源藏とて人にしられたるもの、かくまであなづられたる事なしといひければ、此妓大(おほき)に驚き罪を謝し退(しりぞき)しが、しばらくありて此妓新たに衣裳を着かへ、再び入來り源藏に申(まうし)けるは、君こゝに來り給ふ事をしらずして失禮の罪のがれがたし、深くこゝろにとゞめ玉(たま)はるべからず、ねがはくば一盃をすゝめ奉らんとて、手づから酌をとり、扨(さて)新造にいひけるは、源藏ぬしはわが客にもらひ侍るまま、まげて得心(とくしん)してくれよと云(いひ)て、みづからがざしきへ御出(おいで)下されよと云(いふ)。源藏はなはだ迷惑におもひけれども、既に同道の客へもことはり[やぶちゃん注:ママ。]をいひ、歸したるよしなれば、源藏思案に及ぶところなく、其夜は名妓の閨(ねや)に一宿し、いんぎんに飽(あき)て歸りぬ。其後此妓源藏をまねく事三度に及び、藝者人形上るり酒飯まで華麗をきはめ、一席の饗應此妓悉く辨(べん)ぜり。數十金の費(つひへ)に及べる事とぞ。源藏深く妓の志(こころざし)を感じ、何とぞ一囘盛筵(せいえん)を設(まうけ)て此(この)報(むくひ)をなさんと思ふに、黃金(こがね)調(ととのふ)る才覺なければ、御くら前のくらやどに至り、官俸(くわんはう)の先納(せんなう)を借受(かりうけ)ん事を乞(こひ)けるに、伴當(ばんたう)承引せず口論に及び、源藏佩刀にて伴當をむねうちにせし所、刀ぬけて伴當を匁傷(にんじやう)し公裁(おほやけのさばき)に及び、源藏囚牢(しふらう)せられたり。其上年來(としごろ)の舊惡種々露顯し、死刑を免(めん)され、終(つひ)に玄界島へ流罪に處せられぬ。任俠無賴のあやまち成(なり)といへども、意氣の感ずるために身をあやまてる事惜(おし)むべし。後(のち)三四郎も惡行(あくぎやう)つのり、又遠流(おんる)に處せられけるとぞ。
[やぶちゃん注:「譚海」始まって以来の長尺物語風実録記事である。
「朝士」「宮家の徒士(かち)衆」永続的に江戸に居住した皇族やそれに準じた家柄の人物はいないと思われるからこれは所謂、「武家伝奏役」や「寺社伝奏」などの勅使・院使・仙洞使の任にあたった公家が任務のために短期的に滞在した伝奏屋敷に雇用されていた「徒士(かち)」と考えてよいか。但し、実在した太田源蔵は以下に示す通り、小十人組の武士である。
「太田源藏」(生没年未詳)は実在した江戸中期の侠客(「強きを挫き、弱きを助ける事」を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称であるが、多くの場合は市井無頼の徒としての「やくざ者」に対する幻想的な美称でしかなかった)。西丸の小十人組(後注参照)に属する幕臣であったが、仲間と「本所組」を組織して親分となった。江戸市中で乱暴を働いたり、偽造した贋証文で借金をしたりして、安永元(一七七二)年に捕らえられ、死罪を宣せられたが、獄舎の火災の際、緊急避難で「お解き放ち」となった。しかし、正直に帰牢したため、減刑となり、玄界島(げんかいじま:現在の福岡県福岡市西区に属する島か)に流された。名は時勝。以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「安永」一七七二年から一七八〇年まで第十代徳川家治の治世。
「小從人(こじふにん)」底本では「從」の右に編者による訂正注として『十』が附されてある。「小十人組」は江戸幕府の職名。将軍外出の際に扈従(こしょう)して前駆(まえがけ)を勤めた足軽の組で、一組二十人、十組で構成され、小十人頭の指揮下、本番・御供番・詰番・御供加番の四手に分れた。若年寄支配、詰所は檜の間であった。
「こたは三四郎」モデルは太田源蔵と同時代の侠客小幡三四郎(おばたさんしろう 生没年不詳)。太田と同じく講談社「日本人名大辞典」を調べると、幕臣だが、明和(一七六四年~一七七二)の頃、江戸で仲間とともに「下谷組」を組織して親分となった。「本所組」の太田源蔵に決闘を求めたが、逆に相手の度胸に惚れ込んで、謝罪して止めたという。後に事件を起こして捕縛され、遠島となったという。
「島臺」婚礼などの祝儀の宴席などで用いる飾り台。州浜(すはま:海に突き出た州のある浜辺)を象った台の上に松・竹・梅・鶴・などの縁起物を配したもの。蓬莱山を模したものとされる。浅草辺りなら、子分走らせれば、簡単に手に入ったものと思われるし、大きな酒家ならば、台だけなら用意があったであろう。或いは、事実、それ用の台だけで可能性が私は高いようにさえ思う。
「舊識(きうしき)」故人。旧知となるような友人。
「脇差を拔き臺に置(おき)返盃を乞(こひ)ける」このポーズが当時の侠客同士の果し合いの合図であったのであろう。
「白刄(はくぢん)」抜身の短刀或いは脇差。
「鄰里(となれるさと)」読みは私の推測。隣近所。「りんり」は戴けない。
「用捨(ようしや)」中止する。止める。
「詞氣(しき)」読みは推測。「士氣」の当て字ととった。戦いに臨む意気込み。或いは「言葉の語気」の強さかも知れぬが、このシークエンスでごちゃごちゃと喋って吠える太田というのは如何にも空元気っぽくて考えにくく、いただけぬ。
「たはまず」「撓まず」であろう。但し、だとすれば「たわまず」が正しい。ねじけたり、力なくなったりすることもなく。
「眞知(しんち)」まことの無二の知己(ちき)。
「給はれと願ひければ、源藏も承引(しやういん)し、扨其跡にて盃盤」この箇所は前後に丸括弧が附されてあり、編者が底本とした以外から、挿入したものと思われる(その注記は解題にはなく、書誌学的には問題がある)。
「珍羞(ちんしう)」「羞」は「食べ物」の意で、珍しい食べ物。珍しい料理。珍肴(ちんこう)。
「三枚橋」下谷三枚橋。現在の御徒町駅直近の位置を同定候補しておくが、ごく近くの仲御徒町通の板橋や和泉橋通の石橋も同じく「三枚橋」と呼称していたので限定比定は出来ない。
「源蔵甚(はなはだ)怒り」以下の叙述から、ここで源蔵はとって返して三四郎に直談判したとしか思われない。
「此興(ひきやう)」「卑怯」が正しい。
「藍の色の如し」すっかり蒼白になって。
「旁觀(ばうかん)」「傍觀」。
「君(くん)」貴殿。
「引つらるゝに」襟首摑んで引っ張って無理矢理歩かせて引きずっていったところが。
「鳥越」現在の東京都台東区鳥越か。源蔵の住居と想定し得る隅田川を渡った本所に近い。
「惣若年((すべてのじやくねん)」読みは私の勝手な類推。
「倚賴(よりだのみ)」同前。
「新造」「しんぞ」「しんぞう」とも読む。吉原で御職女郎(おしょくじょろう・吉原限定の最高位の女郎)に付添った若い見習いの遊女。「振袖新造」・「留袖新造」・「番頭新造」の三種があった。男をとらない少女の禿(かむろ)が成長し、十三~十四歳になると「振袖新造」と称した。
「汝」この娘。源蔵が相手として選んだ新造。
「歡(くわん)をさまたぐる」儂(わし)とこの新造との歓談を妨げる。
「あなづられたる」「侮られたる」。馬鹿にされた。彼への侮蔑よりも、まだ男を殆んど(或いは高い確率で全く知らぬ)新造の気持ちや苦労を不憫の思った源蔵の意気に感じたところの方が強い。
「此妓大(おほき)に驚き」彼女は自分が禿から新造になった辛い昔を思い出したのに違いない。だからこそ、以下のシークエンスに続くのである。
「いんぎん」「慇懃」。
「飽(あき)て」十全にしっぽりと楽しんで。通常の最上に花魁級は初対面の客とは一夜を共にしないのが掟であるから、これは異例中の異例である。
「三度」数多いことの表現。
「人形上るり」人形浄瑠璃。但し、通常は置屋の亭主の許可なしには花魁でも遊廓外の劇場に行くことは原則、許されなかった(はずである)。
「辨(べん)ぜり」用意し賄った。
「數十金」数十両であるから六十両は下るまい。
「何とぞ一囘盛筵(せいえん)を設(まうけ)て」何とかして、この名妓の心意気に、一度は応えてやって、盛大な宴会を自分自身の主宰出費で設定して。
「御くら前のくらやど」「御蔵前の藏宿」。公事宿(亭主は役所に提出する願書や証文・訴状など諸々の書類の作成や清書、手続きの代行や弁護人的役割もこなした宿)であろう。
「官俸(くわんはう)の先納(せんなう)」公務員俸給(通常は米の現物支給)の現金による前借りであろう。
「伴當(ばんたう)」底本には編者による訂正注が右に『(番頭)』とある。
「むねうち」「棟打ち・刀背打ち」。しかも以下の叙述から鞘のままであったので源蔵はただ、懲らしめるためであって実際の傷を与える確信犯ではなかったことが判る。しかし言っておくが、たとえそれでも、非解放性の単純骨折であったとしても、内臓破裂や損傷を伴う甚大な致命的骨折も十全に発生し得た。しかもこの場合は、「刀ぬけて」その番頭に実際の刃傷を加えたというのであるから、これは単なる暴行罪ではなく、立派な傷害罪であり、当時の裁きでは最悪の重刑である殺人未遂罪であるところの、確信犯の刃傷(にんじょう)として処理されたのである。
「公裁(おほやけのさばき)」読みは流れからの私の趣味。
「其上年來(としごろ)の舊惡種々露顯し、死刑を免(めん)され」かたりがおかしい。「其上年來の舊惡種々露顯(すれども)、死刑を免され」であろう。ここで筆者津村が事実とされる、獄舎の火災の際に解き放たれたが、命ぜられた通りに帰牢したために減刑となって流刑とされた事実を語らないのは、理屈が通ぜず、かなり不満である。]
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