諸國百物語卷之四 八 土佐の國にて女の執心蛇になりし事
八 土佐の國にて女の執心蛇(くちなわ)になりし事
土佐のくにゝ獵(かり)をして世をわたる人あり。男は四十、女は四十五、六にてありしが、此をんな、かくれなきりんきふかきものにて、男、かりにいづるにも、ついてあるきける。男あまりのうるさゝに、あるとき、獵にいでけるに、かの女ばう、あとより、れいのごとくついて來たる所を、とつてひきよせ、さしころしければ、かたはらなる大木のねより、大きなる蛇(くちなわ)いでゝ、男のくびにまといつきける。男、わき指をぬき、ずんずんに切りはなせば、また、まといつきまといつき、やむことなし。男、せんかたなく、高野へまいりければ、ふどう坂の中ほどにて、蛇(くちなわ)、くびよりはなれをち、くさむらのうちへ、はいりける。男、うれしくおもひ、高野に、百日あまり、とうりうして、もはや、べつぎもあるまじきとおもひ、山をげかうしければ、ふどう坂の中ほどにて、かの蛇(くちなわ)、くさむらのうちより、はひ出でて、また男のくびに、まといつく。男も、ぜひなくて、これより、くはんとうへしゆぎやうせんとて、すぐにたびたち、大津のうらにてのりあひのふねにのりけるが、をき中にこぎ出だしければ、舟、あとへもさきへも、ゆかず。せんどう、申しけるは、
「のりあひのうちに、なにゝても、おもひあわする事あらば、まつすぐにかたり給へ。一人のわざにて、あまたの人のなんぎなるぞ」
と、いひければ、かの男、ぜひなく、くびの綿をとり、
「さだめて、このゆへなるべし」
とて、蛇(くちなわ)をみせ、はじめをわりをざんげしければ、人々、おどろき、
「はやはや、舟を出で給へ」
と、せめければ、
「今はこれまで也(なり)」
とて、かの男、うみへ身をなげ、はてにけり。そのとき、くちなはゝ、くびをはなれ、大津のかたへ、をよぎゆきけり。ふねもさうなく、やばせにつきぬと、せんどうかたりしを聞きはんべる也。
[やぶちゃん注:「蛇(くちなわ)」以下、本文も含め歴史的仮名遣は総て誤り。正しくは「くちなは」。
「かくれなきりんきふかきものにて」「隱無き悋氣深き者にて」。それが誰にもはっきりとわかるほど異常に嫉妬深い者であって。
「かりにいづる」「獵に出ずる」。
「とつてひきよせ」「捕つて引き寄せ」。
「さしころし」「刺し殺し」。
「大木のね」「大木(たいぼく)の根」。
「男のくびにまといつきける」「男の頸(くび)に纏ひ附きける」。私が「首」ではなく、「頸」としたのは、後のシークエンスを考慮してのことである。
「わき指」「脇差(わきざし)」。
「ずんずんに」「寸々(すんずん)に」の意であろう。細かく幾つにも切るさま。ずたずたに。
「高野へまいりければ」「高野」は真言宗総本山高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)のこと。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に古来、『悪行を犯したものでも』、逃げ込むことで、『罪科をまぬかれることがあった』とある。実際的にも高野山は古えより罪人を匿うことをモットーとする治外法権的特権を持ってはいた。但し、徳川幕府創建以降は薄れてしまう。ただ、ここでは弘法大師の強力な呪力によって、邪悪なもの、しかも女人禁制が厳しく守られていた高野山の結界内へは、この蛇は侵入出来なかったという点で、非常に腑に落ちる(論理的な理解は可能)とは言える。しかし、私はこの手の理屈は怪談の怖さを逆に委縮させてしまうものと理解している。
「ふどう坂」「不動坂」。高野山の最も知られた、現行、正規の登り口「不動口(ふどうぐち)」にある坂。その先に女人堂が建てられてあり、そこより上は「女人結界」で女性はその堂までしか立ち入ることが出来なかった(古くは高野山へ登る道は七つあり、「七口(ななくち)」と呼ばれ、それぞれに女人堂があったが、不動坂のそれはその中でも群を抜いて大きいものであったという。因みに高野山の女人禁制は明治五(一八七二)年まで続いた)。
「くびよりはなれをち」「頸より離れ落ち」。
「くさむらのうちへ、はいりける」「叢の中(うち)へ、入りける」。
「とうりう」「逗留」。
「もはや、べつぎもあるまじきとおもひ」「最早、別儀も有るまじきと思ひ」。これだけ時間が経てば、最早、如何なる変事も起ころうはず、これ、あるまいと思い。ただ、女人結界の御蔭であることに気づかぬこの男は、これ、修行の甲斐もない、大たわけであり、結果、命の落とすのは、まさに無智蒙昧からくる自業自得以外の何ものでもないのである。
「げかう」「下向」。
「くさむらのうちより、はひ出でて」「叢の中より、這ひ出でて」。
「くはんとうへしゆぎやうせん」「關東へ修行せん」。何故、高野に戻らないのか。それが私には不思議でしょうがない。
「すぐにたびたち」「直ぐに旅立ち」。
「大津のうら」「大津の浦」。言わずもがな琵琶湖南岸。
「のりあひのふねにのりけるが」「乘り合ひの舟に乘りけるが」。
「をき中」「沖中」。
「こぎ出だしければ」「漕ぎ出だしければ」。漕ぎ出てみたところが。
「あとへもさきへも、ゆかず」「後へも先へも、行くかず」。怪異現象の発現。舟が沖で、船頭(せんどう)が幾ら漕いでも、全く動かなくなってしまったのである。
「おもひあわする事」「思ひ合(あは)すること」。歴史的仮名遣は誤り。心当たりのあること。
「一人のわざにて」「一人の業(わざ)にて」。この「業」は悪業(あくごう)のこと。
「あまたの人のなんぎなるぞ」「數多(あまた)の人の難儀なるぞ」。
「くびの綿をとり」「頸の綿を取り」。頸部に巻き付いて離れぬ蛇を、頸部の病いか疵を隠す繃帯のように擬装して真綿で巻き、蛇が人から見えぬようにしていたのである。
「さだめて、このゆへなるべし」「定めてこの故(ゆゑ)なるべし」。歴史的仮名遣は誤り。
「はじめをわりをざんげしければ」「初め終りを懺悔しければ」。
「はやはや」「さっさと!」
「せめければ」「責めければ」。責め立てたので。
「うみ」「湖」。
「はてにけり」「果てにけり」。
「をよぎゆきけり」「泳(およ)ぎ行きけり」。歴史的仮名遣は誤り。
「さうなく」「左右(双)無く」。原義は「比べるものがない・比類ない・素晴らしい」であるが、怪異としての舟の不思議な停留が解かれ、舟が「漕ぐにまかせて」「順調に」「実に滞りなく」「すみやかに」動き出した、を総て包含した意である。
「やばせ」「矢橋」と書いて「やばせ」と読む。現在の滋賀県南西部の草津市西部の琵琶湖東岸にある地区名。かつての琵琶湖水運の港で、特に江戸時代には東海道の近道(陸路よりも道程を有意に短縮することが出来た)となった対岸の大津と、この矢橋の間の渡船場として栄えた。「近江八景」の一つ「矢橋帰帆」で知られたが、現在は石垣と常夜灯のみが残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。]