谷の響 一の卷 一 沼中の管弦
次の怪談集の電子化注は、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷(たに)の響(ひびき)」とする。
平尾魯僊は陸奥弘前の魚商の家に生まれ、幼少期より画才を讃えられ、明治以後はその門流が弘前を席巻するまでに至り、尊皇思想家・俳人としても知られる。後半生は平田国学の研究に打ち込んでもいる。かの地の文化に多大の影響を与えた博覧強記の文人であった。著書に「幽府新論」「鬼神論」などがある。
底本は一九七〇年三一書房刊「日本庶民生活史料集成」第十六巻「奇談・紀聞」の森山泰太郎氏校訂の「谷の響」を用いる。読みはかなり難読の当て読みや和訓が多いことから、底本のルビを総て拾った。踊り字「〱」「〲」は正字化した。
序文と目録は一括して最後に示す。
谷の響
谷のひひき 一の卷
弘府 平尾魯僊亮致著
[やぶちゃん注:「弘府」「こうふ」或いは本文冒頭からこれで「ひろさき」と訓じたのかも知れぬ。弘前(城下)の意。
「亮致」「すけむね」。平尾魯僊の本名。]
一 沼中の管弦
寛政の年間(ころ)、弘府(ひろさき)の商賈(あきびと)近江屋某甲(なにがし)といへるもの、其家族相内村の儀兵衞といひし者を訪らひしに、一日(あるひ)儀兵衞此近江屋を慰めんとて、兩三箇(にさんにん)を伴なひ小舟に上(のり)て田光沼(たつぴのぬま)に釣に出けるが、獲(え)もの多きに時を遷(うつ)し既に日も反照(かたむき)たればとて漕歸らんとする時から、傍邊(かたはら)なる蘆(あし)の中に笙を調(すら)ぶる音の聞えけり。
こは奇(あや)しきと言ふうち、琵琶(びわ)・和琴(わこん)・鞨鼓(かちこ)・篳篥(ひつりき)の音など耳辺(みみもと)に聞えて、その妖韻(ひびき)綏々(すずしく)さやかにして、塵界(よ)のものと聞えず。愛(めで)たきこと言はん方なく衆(みな)々耳をすまして聞居たる中に、其韻律(おと)漸々(しだい)に遠しと覺えけるが頻に悽愴(ものすご)く悄然(ぞくぞく)として、満體(みうち)に水を濯(そそ)くが如くなりて少時(しばし)も居るに耐得ず。早卒(にはか)に舟を漕ぎ戾して歸りしなり。
左有(さる)にこの儀兵衞のいへるは、往古(むかし)より此沼の中に、管弦の音の時々聞えたりといふ傳へもあり。且(また)、三四年以前は同村の與助といへる者も聞きたりとて話説(かたれ)ることもあれど、そは風の蘆を吹く音ならめと今に實(まこと)しからず思ひしが、今般(このたび)のことをもて察(み)れば、古人の傳(つたへ)の僞妄(いつはり)ならぬを知りたるなりと語りしとなり。
或ひとの曰く、蘆中(ろちう)に風亙(わた)るときは自ら絲竹の音を發し、浪岸(きし)を叩く時は自然(しぜん)金鼓の響を爲すことは麼什(いづれ)にもあるものにて、俗に言ふ蘆の笛浪の皷(つつみ)など是なり。豈(いかで)樂器の正しき音律なるべき。僉(みな)これ籟聲(かぜのこゑ)といふものにて、さらさら奇(あや)しと爲べきにあらずといへり。
左有(され)どこの沼古くは最々(いと)曠(ひろ)く周際(まはり)三里あまりにして、宛爾(さながら)鏡の如く寒光(ひかり)宇宙(おほぞら)に衝沖(つきい)り、環汀(みぎは)には蘆葦(あし)蕃(いや)叢(しげ)りて凄風(すずかぜ)肌骨に徹(とほ)り、實(げ)に凄冽(ものすご)き幽地(へきち)に在れば幽冥(かくりよ)の神の在(おはし)しかも測(し)るべからず。目下(まのあたり)の理(ことわり)をもて物を決定(さたむ)るはいと狹量(せま)きわざなり。凡(すべ)てこの沼に限らず平瀧沼などは特(こと)に怪しき事多かり。そは二々(つぎ)に擧ぐべし。
[やぶちゃん注:「寛政の年間(ころ)」「年間」で「ころ」とルビする。一七八九年から一八〇一年。
「相内村」五所川原市(ごしょがわらし)は、青森県西部、津軽半島の中南部に位置する五所川原(ごしょがわら)市の市浦(但し、この地区は合併により誕生した五所川原市の北の飛地(間に有意に大きな中泊町が挟まる)である)にあった村。
「田光沼(たつぴのぬま)」青森県つがる市にある堰止湖田光(たっぴ)沼。相内からは南方に十三湖を越えた、直線で十五キロ弱の位置にある。ウィキの「田光沼」によれば、『縄文海進期から平安時代後期までは古十三湖の一部だったと考えられる、平野西部の三角州性低地に残存した沼沢地である。陸地化後も萱に覆われた湿地帯であったが、津軽藩が着手した上流側からの新田開発と用排水路整備は近代以降も続けられ、現在はほぼ水田に囲まれている。東北の広域伝承では、「津軽一統志」弘前藩第五代藩主津軽信寿(のぶひさ 寛文九(一六六九)年~延享三(一七四六)年が編纂させた藩史)に『高倉明神と岩木権現の争いによる洪水と津波(白鬚水』(しろひげすい)『)によって田光沼が生じたとする』。『多都比姫は岩木山神社の祭神の一つである』『が、これに関連して「岩木山縁起」』(一八一一年)『に田光の竜女の岩木山入りに関する伝承がある』とし、竜宮とここで聴こえてくる雅楽ならまさにマッチする気はする。因みに太宰治はかの代表作「津軽」で『春の山上からみた湖面を「古代の鏡」と形容している』ともある。この表現、或いは太宰は本篇の「宛爾(さながら)鏡の如く寒光(ひかり)宇宙(おほぞら)に衝沖(つきい)り」を読んで記憶してのではあるまいか?
「綏々(すずしく)」「スイスイ」で、原義は如何にも落ち着いた、或いは安らかに指せる雰囲気を指し、また相手を求めるような如何にもしっとりとした様子をも意味する。
「塵界(よ)」「塵界」の二字に「よ」一字でルビする。
「早卒(にはか)」「早卒」の二字に「にはか」とルビする。
に舟を漕ぎ戾して歸りしなり。
「今に」今までは。
「實(まこと)しからず」事実ではない。
「浪岸(きし)を叩く時は」「浪」は「なみ」。
「自然(しぜん)」自ずと。自発の意。
「麼什(いづれ)」禅語で普通は「什麼」の語順(「恁麼」とも書く)で、「いんも」と音読みし、「に」を伴った形で副詞的に「このように・かくのごとく」の意の指示を表す。この表記と読みは一般的ではないと私は思う。
「籟聲」「籟」は風が物にあたって発する音。現代では使用されるのは「松籟」ぐらいなものか。
「三里」十一・七八キロメートル。現在の田光沼は新田開発と干拓によって周囲五・七キロメートルまで縮小してしまっている。
「蕃(いや)」盛んに。
「凄風(すずかぜ)」「凄風」は「せいふう」で「強くすさまじい風・ものすごい風」の意である。それを涼しい風と訓じておいて耳には優しい表現ながら、以下の「肌骨」へと意味では真逆を確信犯で狙っている。但し、ちょっと技巧に過ぎ、逆に厭味な感じもしなくはない。
「肌骨」「きこつ」。全身。「肌骨を驚かす」というのは「恐怖でふるえ上がらせる・ぞっとさせる」の常套句である。
「幽地(へきち)」僻地。この「幽」は奥深いの意であるから、おかしくはない。
「幽冥(かくりよ)」これはいい加減な当て字ではない。平田神学に心酔していた平尾らしい読みである。古神道に於いては、人間世界は目に見える「顕世(うつしよ)」であるのに対し、人間の目に見えない幽冥の世界、神の世界は「幽世(かくりよ)」「隠世(かくりよ)」「幽冥(かくりよ)」と呼称するのである。しかもこの「幽冥」の表記は、その多数の漢字表記のある中でも、最もポピュラーなものなのである。
「平瀧沼」田光沼の西南凡そ六キロメートルの位置、現在のつがる市木造館岡(きづくりたておか)にある平滝(ひらたき)沼。地図上で見る限りでは、現在の平滝沼は現在の田光沼の半分以下の大きさである。]

