「崖」を書いた頃 梅崎春生
「崖」を書いた頃は、ひどく貧乏していた。昭和二十一年秋の頃で、私はまだ結婚していなくて、東横線の自由ケ丘の松尾という友人宅にころがり込んでいた。神田のどこかに呼出しを受けて、
「近代文学に小説を書かないか」
と言われた。勤め先はあったが、他に原稿を書かなきゃ食っていけないのである。日記で見ると割に早く書いている。
十月二十九日(二十一年)の日記に
「新生の原稿『独楽(こま)』三十六枚まで書いた。これでいいような気もするし、またどだい悪作で、かえされそうな気もする。今日昼自由ケ丘でスピードくじで二十円失い、やむなく渋谷に行って金鵄(きんし)一箇買った」
「独楽」は「日の果て」の下書きみたいなもので、五十枚に書き上げ、編集長桔梗利一から、未だしと返された。(これは書き直して二十二年「思索」秋季号に発表した)
「崖」は割に早く仕上げた。
同十一月二十三日に、
「『崖』、四十枚まで書く」
文学的に張り切っていたのか、金が欲しかったのか。その時の借金と予定入金の表がつけてある。その中に入るあてのある金として、
近代文学――五百八十五円
青春より――百八十円(一枚二十円、税引きとして)
「青春」の方は思い出さぬ。うやむやになったものか。
「近代文学」の方からも税引きを予想していて、一割を加算すると丁度(ちょうど)六百五十円になる。これを持って近代文学社に行き、六十五枚の原稿を手渡した。応接したのは本多さんたちであった。
今でこそそうでもないが、私にはひどく大人に見えた。
私はその頃三十一歳だったが、彼等は皆四十ぐらいに見えた。掘割の見えるがらんとした部屋で、原稿料をもらった。予想に反して税引きでなく全額だったので、うれしかった記憶もある。その後「近代文学」の人々とは、あまり交際がなかったと思う。理由は彼等が酒の飲み手ではなかったからだ。
先年「群像」の座談会で、
「あの頃椎名・野間は文壇について何も知らず、梅崎の方がはるかに文壇通であった」
との平野発言があったが、それは間違っている。赤児性は私も同様であった。ただ私が一年近く赤坂書房(つぶれた)に勤め、かつ自分の原稿で他社の記者ともめごとがあったり、酔っぱらって喧嘩して死にそうになったり、そんなむちゃなことをすることで、やっと文壇の裏々や裏面が判るようになったのだ。「崖」を書いた時はすでに多少はすれていたのかも知れない。
[やぶちゃん注:昭和三九(一九六四)年八月刊の『近代文学』終刊号に初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇の内容は先に電子化した「私の創作体験」(昭和三〇(一九五五)年二月刊岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻初出)や『「崖」について』(昭和三五(一九四〇)年十二月号『近代文学』初出)と重なる部分が多いのでそちらの本文と私の注を参照されたい。]