諸國百物語卷之三 十九 艷書のしうしん鬼となりし事
十九 艷書(ゑんじよ)のしうしん鬼(をに)となりし事
いがの國くふ八と云ふ所に、寺、六十間(けん)あり。一休(きう)、しゆ行(ぎやう)に出で給ひ、こゝにて日くれければ、宿(やど)をからんとて、寺々をみれども、人、ひとりもなし。一休ふしぎに覺(をぼ)しめし、のこらず、寺々を見給へば、ある寺にうつくしき兒(ちご)、一人、ゐたり。一休、たちより、
「宿かし給へ」
と、の給へば、
「やすき事にて候へども、此寺へは、夜な夜な、へんげの物きたりて、人をとり申し候ふ」
と云ふ。一休、
「しゆつけの事にて候へば、くるしからず」
との給ふ。
「しからば、とまり給へ」
とて、きやくでんにいれ、兒(ちご)はつぎのまにねられけるが、夜半のころ、兒(ちご)のふしたるえんの下より、手まりほどなる火、いくつともなくいでゝ、兒(ちご)のふところへはいるかとおもへば、たちまち、二丈ばかりの鬼となり、きやくでんに來たり、
「こよひ、此寺にとまり給ふ、きやく僧は、いづくにおはしますぞ、とつてくはん」
と、さがしまわる。一休、もとより、をこなひすましてゐ給へば、さがしあたらず。ほどなく夜もあけゝれば、鬼も兒(ちご)のねまにかへるかとみれば、きへにけり。一休、ふしぎにおぼしめし、
「兒(ちご)のねられしえんの下を、みせ給へ」
とて見られければ、えんの下に血のつきたる文(ふみ)、かずもしれずあり。しだいをたづねければ、方(はう)々より、この兒(ちご)をこひしのびよせたる文(ふみ)を、へんじもせずして、えんの下へなげ入れ投げ入れ、をきたる。その文主(ふみぬし)のしう心ども、つもりて、夜な夜な、兒(ちご)のふところにかよひ、すなわち鬼(をに)となりける也。一休、この文どもをとり出だし、つみかさねてやきはらい、經をよみ、しめし給へば、それよりのちは、なにのしさいもなかりしと也。
[やぶちゃん注:「艷書(ゑんじよ)のしうしん」恋文の執心。ここは女から男へのラヴ・レターの山から発生した女の恋の執心の滲んだそれの付喪神的な物の怪であって、一人の女のそれではないことの注意しなくてはならぬ。そこがそれ、この怪異の興味深いところなのである。
「いがの國くふ八」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注に『地名「喰代」の誤読。正しくは「ほうじろ」と言い、原三重県上野市喰代町のあたり』とある。現在、ここは三重県伊賀市喰代である。ここ(グーグル・マップ・データ)
「六十間(けん)」「六十軒」。無論、現在はそんなにないが、先にリンクした地図の画像を見ても、それほど大きくない集落の中心に曹洞宗青雲寺・浄土真宗正光(しょうこう)寺・真言宗永保寺を現認出来る。この山間で六十というのは尋常ではない。関西方面からの伊勢参宮の街道筋、また伊賀衆の本拠地「百地砦(ももちとりで)」もあり、何か因縁があるのだろうか? また、何故、多くが、消えたのか? まさか、この一休が鎮魂した「鬼」に恐れをなした訳でもあるまいに?
「一休(きう)」無論、かの室町時代の臨済僧一休宗純(明徳五(一三九四)年~文明元(一四八一)年)。
「しゆ行(ぎやう)」「修行」。
「うつくしき兒(ちご)」美しい彼がどうして一人残っているのか? 数多の女の一人にさえ惹かれることはなかったのは何故か? 或いはまた、この稚児も、先輩僧の同性愛対象としてトラウマを背負っているのかも知れぬ。かの「一休」(彼は男色はもとより、飲酒・肉食(にくじき)・女犯も平気で行い、盲目の側女(そばめ)森侍者(しんじしゃ)や実子であった弟子までいた)に「恋文の付喪神」に「美童の稚児」ときた日にゃ、こたえられまっせんぜ!
「へんげ」「變化」。
「しゆつけ」「出家」。
「きやくでん」「客殿」。
「つぎのま」「次の間」。
「兒(ちご)のふしたるえんの下より」「稚兒の臥したる(次の間の)緣の下より」。
「手まり」「手鞠」。
「兒(ちご)のふところへはいるかとおもへば」次の間との仕切りはなく、寝ている稚児の姿が一休から見えたのである。
「二丈」凡そ六メートル。
「きやく僧」「客僧」。
「とつてくはん」「捕つて喰(く)はん」。
「をこなひすましてゐ給へば、さがしあたらず」「行ひ澄あして居給へば、搜し當らず」。静かに勤行に専心して瞑想して座っておられたによって、鬼の曇った眼には、その清浄なる姿が全く目に入らず、探し当てることが出来なかったのである。こうした現象は、仏教説話や怪談でしばしば認められるシークエンスである。私は直ちに、上田秋成の「靑頭巾」の以下を想起する(リンク先は私の電子テクスト。講義ノートとオリジナルな現代語訳もある)。
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夜更(ふけ)て月の夜にあらたまりぬ。影、玲瓏(れいろう)として、いたらぬ隈もなし。子(ね)ひとつともおもふ比(ころ)、あるじの僧、眠藏(めんざう)を出でて、あはたゞしく物を討(たづ)ぬ。たづね得ずして大いに叫び、
「禿驢(とくろ/くそばうず)いづくに隱れけん。ここもとにこそありつれ。」
と禪師が前を幾たび走り過ぐれども、更に禪師を見る事なし。堂の方に駈(かけ)りゆくかと見れば、庭をめぐりて躍りくるひ、遂に疲れふして起き來らず。夜明けて朝日のさし出ぬれば、酒の醒(さめ)たるごとくにして、禪師がもとの所に在(いま)すを見て、只、あきれたる形に、ものさへいはで、柱にもたれ、長噓(ためいき)をつぎて默(もだ)しゐたりける。
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「兒(ちご)のねまにかへるかとみれば」「稚兒の寢間に歸るかと見れば」。この行動様式(稚児の懐から懐へ)が私には妖しくも面白くも感じられる。
「ねられしえんの下を」「寢られし緣の下を」。
「血のつきたる文(ふみ)」女が自分の誠心を見せんがために、己が指を喰い破って血で綴った血書(けっしょ)の恋文。
「方(はう)々より」方々(ほうぼう)の複数の女より。
「こひしのびよせたる文(ふみ)」「戀ひ偲び寄せたる文」。
「つみかさねてやきはらい」「積み重ねて焚(や)き拂ひ」。「はらい」の歴史的仮名遣は誤り。
「經をよみ、しめし給へば」「經を讀み、示し給うへば」。「示し」は、一休がその稚児を諭し戒めた、というのである。待てい! 一休さん! あんたに、諭し戒めるられたく、ないわい!……いや、待てよ……案外、禅僧で、しかも一休とくれば――「皆、その女子(おなご)衆ら、抱いてやれば、よかったのじゃて!」――なんどと宣うたのかも知れん。畏れ入谷の鬼子母神!
「なにのしさいもなかりしと也」「なにのしさい」は「何の子細」。これと言って妖しいことは起こらなくなったということである。]
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