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2016/10/02

伊藤 整   梅崎春生

 

「その性格は円満にして大度、その認識は透徹して明晰、その理想は堅固にして緻密、その学識は深くして広く、温容は玉のような伊藤整氏云々」

「伊藤整氏の生活と意見」その九の冒頭に、そういうことが書いてある。誠にそうだろう。玉と言っても、宝玉からパチンコ玉まで色々あるが、軟かそうに見えてもその実はかたい、たとえばしっとりと光をたたえた古い勾玉(まがたま)のような玉を、私は伊藤整氏の風貌に連想する。このふしぎな勾玉は、どこかに置けばぴったりするに違いないが、今のところはどんな周囲ともぴったりしない。そういう奇妙な色と光を伊藤整氏はもっている。

 私は彼の姿を、時々あちこちで見かける。街のなかで、建物のなかで、みすぼらしい飲屋のなかで。どんな場所に置いても、伊藤整氏はそこの空気と調和していない。まるで鋏で切り抜かれてはめこまれた人物のように見えるのだ。おそらく法廷においても、伊藤整氏の姿はことにそうだろう。全身をもって法廷の不法に抗議し反抗はしていても、あの眼鏡の向うに柔かく光っている眼は、ただひたすら、自らの雪明りの路だけを眺めているに違いあるまい。彼に「伊藤整氏の生活と意見」を書かせるものは、彼にひそむ孤独の悲しみであり、彼生来の詩人的な資質の故であろう。そして、詩人がああいう戯文を書かねばならぬということは、伊藤整氏の不幸というよりは、むしろ現代の不幸なのである。

 こういう人物の風貌を描くことは、まことにむつかしい。

 私は一昨年の本誌にある小説を書き、その中で二瓶(にへい)という人物をこう描いた。

「……小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出て行くような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような皺(しわ)をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他と完全に意識したような、そしてそれがぴったりと身についた、擬似の典雅や柔軟さがあった。身体や顔が全体に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛型かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は老獪な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。……」

 この二瓶という人物を描く時に、ほんのちょっぴりではあるが、私は伊藤整氏の風貌を、思い浮べていなかったわけではない。しかし伊藤整氏にあっては、本当の意味で、韜晦しているのは彼の方ではなく、彼を取巻く周囲の現実なのであろう。それに対する憤りや悲しみが、彼に自然とミミックの形をとらせる。もしも彼に、たとえば戦車(タンク)のような資質があれば、それを破砕して進むだろうが、彼にはそんな野蛮な強さはない。彼は光線を内側に折れ曲がらせては吸い込む、一箇のしずかな孤独な勾玉なのである。彼の眼は、現実に対しながら、現実の彼方にあるものを、常にある感じをもって眺めている。

 彼の『冬夜』というすぐれた詩集の中に、「もう一度」という詩がある。

 

  みんながあの日の服装で

  あの日の顔つきで 落葉松(からまつ)の緑が萌えている道を

  笑いながらもう一度やって来ないかな

  そのときこそは間違いなく

  本当に生き直したい

  過ちをすべてとりかえしたい

 

 こういう柔軟な魂が、法廷に立たねばならなかったということ。これが現代日本の歪みでなくて何であろうか。

 

[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年三月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。本篇には特異的に底本編者による割注が三ヶ所も入る。本文では除去したが、必要な注ではあるので以下の注で示し、補足した。なお、最後に引く伊藤整の詩の題は底本では実は「もう一集」となっている。私は実は詩人としての伊藤が小学生の時から好きなのであるが、これは「もう一度」の誤りである。特異的に訂した。以下、梅崎春生の引く「もう一度」を私の所持する正字版の新潮文庫「伊藤整詩集」から引いておく。春生の引用には最終行に致命的な脱落があるからである。

 

  もう一度

 

みんながあの日の服裝で

あの日の顏つきで 落葉松の綠が萌えてゐる道を

笑ひながらもう一度やつて來ないかな。

そのときこそは間違ひなく

本當に生き直したい

あの過ちをすべて とりかへしたい。

 

「伊藤整」(明治三八(一九〇五)年~昭和四四(一九六九)年)北海道松前郡炭焼沢村(現在の松前町)生まれ。梅崎春生より十歳年上であるが、親しかった。彼の逝去時、私は中学一年であるが、何故か、その年の大晦日の新聞に掲載された著名人の最期の言葉に、彼は何かを貰ったことに対して「もったいない」と言った、とあったのをずっと忘れないでいる。

「伊藤整氏の生活と意見」一九五三年河出書房刊。私は当該書を所持しない(ということは未読である)ので確認不能。

「おそらく法廷においても」の「法廷」の後には、底本では底本編者による『D・H・ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で伊藤整が猥褻文書頒布罪に問われたことを指す。』という割注が入る。以下、ウィキの「チャタレイ事件」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。イギリスの作家デーヴィッド・ハーバート・ローレンス(David Herbert Richards Lawrence 一八八五年~一九三〇年)の作品「チャタレイ夫人の恋人」(Lady Chatterley's Lover 一九二八年:ウィキの「チャタレイ夫人の恋人」からシノプシスを引く。『炭坑の村を領地に持つ貴族の妻となったコンスタンス・チャタレイ(コニー)だったが、蜜月もわずかなままに、夫のクリフォード・チャタレイ准男爵は陸軍将校として第一次世界大戦に出征、クリフォードは戦傷により下半身不随となり、復員後は』二人の『間に性の関係が望めなくなる。その後、クリフォードはラグビー邸で暮らしながら』、『作家としてある程度の名声を得るが、コニーは日々の生活に閉塞感を強めていった』。『クリフォードは跡継ぎを作るため、コニーに男性と関係を持つよう勧める。その相手の条件とは、同じ社会階級で、子供ができたら』、『すぐに身を引くことができる人物であることだった。コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆く。そんな彼女が恋に落ち男女の仲になったのは、労働者階級出身で、妻に裏切られ別れ、かつて陸軍中尉にまで上り詰めたが上流中流階級の周りになじめず退役し、現在はチャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズだった』。『メラーズとの秘密の逢瀬を重ね、性による人間性の開放に触れたコニーは、クリフォードとの離婚を望むようになり、姉のヒルダと共にヴェニスを旅行中、メラーズの子供を妊娠していることに気がつく。一方領地では、戻ってきたメラーズの妻が、メラーズとコニーが通じていることに感づき、世間に吹聴して回っていた。メラーズは森番を解雇され、田舎の農場で働くようになる。帰ってきたコニーはクリフォードと面談するが、クリフォードは離婚を承知せず、コニーはラグビーを去ることになった』)を『日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第百七十五条の』猥褻『物頒布罪が問われた事件で、日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた、占領下の一九五一年(昭和二十六年)に始まり、一九五七年(昭和三十二年)の上告棄却で終結した』。猥褻と『表現の自由の関係が問われた』。『「チャタレイ夫人の恋人」には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。六月二十六日、当該作品は押収され、七月八日、発禁となり、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品には』猥褻な『描写があることを知りながら共謀して販売したとして、九月十三日、刑法第百七十五条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和二十七年一月十八日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金二十五万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和二十七年十二月十日判決)では被告人小山久二郎を罰金二十五万円に、同伊藤整を罰金十万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和三十二年三月十三日に上告を棄却し、有罪判決が確定した』。『被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して、論点についての無罪を主張した』。『最高裁判所昭和三十二年三月十三日大法廷判決は、以下の』「猥褻の三要素」『を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した』。「猥褻の三要素」の項(私が一部に言葉を附加した)。

1 『徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ』ること。

2 1に加える絶対条件として『且つ普通人の正常な性的羞恥心を害』すること。

3 1・2に加える絶対条件として『善良な性的道義観念に反する』こと。

1・2・3が同時に絶対普遍の属性として当該果物に永久に内在すると裁判官が判断するもの。

『(なお、これは最高裁判所昭和二十六年五月十日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)』。猥褻の『判断は事実認定の問題ではなく、法解釈の問題である。したがって、「この著作が一般読者に与える興奮、刺戟や読者のいだく羞恥感情の程度といえども、裁判所が判断すべきものである。そして裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。この社会通念は、「個々人の認識の集合またはその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定するものでない」こと原判決が判示しているごとくである。かような社会通念が如何なるものであるかの判断は、現制度の下においては裁判官に委ねられているのである』。「公共の福祉」の項。『「性的秩序を守り、最少限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」』。「事件の意義」の項。猥褻の『意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所が』猥褻『の判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった』。『公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが』、猥褻『の規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い』。「補記」から。『出版された本のタイトルは「チャタレイ夫人の恋人」だが、判決文では「チャタレー夫人の恋人」となっている。憲法学界における表記も「チャタレー事件」「チャタレイ事件」の二通りがある』。『宮本百合子は『「チャタレー夫人の恋人」の起訴につよく抗議する』を発表した』。『この裁判の結果、「チャタレイ夫人の恋人」は問題とされた部分に伏字を用いて一九六四年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。一九九六年に新潮文庫で、伊藤整の息子伊藤礼が削除部分を補った完全版を刊行した』。『伊藤は、当事者として体験ノンフィクション「裁判」を書いた。「チャタレイ夫人の恋人」は、一九七三年に羽矢謙一』(はやけんいち 昭和四(一九二九)年~:英文学者。明治大学名誉教授)『が講談社文庫で完訳を刊行し』ている。『一九六〇年にはイギリスでも同旨の訴訟が起こっている。結果は陪審員の満場一致で無罪』となっている。以下、「裁判主旨」の項。

1 猥褻とは『徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう』。

2 『芸術作品であっても、それだけで』猥褻性を『否定することはできない』。

3 猥褻『物頒布罪で被告人を処罰しても憲法二十一条に反しない』。

「一昨年の本誌」この後には底本では底本編者による『「群像」』という割注が入る。

なお、私は、羽矢謙一の完訳で大学時分に読んだが、最後まで退屈だった。今、手元にさえない。因みに、読書中、私は一度として勃起もしなかった。私が生涯で勃起した小説は熱愛するルイ・フェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Céline 一八九四年~一九六一年)の(Mort à credit 邦題「なしくずしの死」。一九三六年)のただ一冊だけであることを、ここに告白しておく。

「ある小説を書き」この後には底本では底本編者による『昭和二十五年四月号の「日時計」』という割注が入る。なお、本篇は冒頭に記した通り、昭和二七(一九五二)年三月号『群像』の発表である。「日時計」はこの引用部が「日時計」で、後の部分は「殺生石」というタイトルになり、それが「」まで続き、(同作は『群像』の同年の四月号・七月号・九月号・十二月号に隔月連載された)その「殺生石()」の末尾には『第一部了』と記しており、作者は書き継ぐ意志を持っていたらしい。但し、続編は、遂に書かれなかった。以下の引用部は、その作品最初の「日時計」のほぼ中間部に出る。以下に引用する。主人公は梅崎春生然とした小説家小野六郎(妻はテツ(春生の奥さんは「恵津」))。彼は友人鍋島に頼まれて、彼の飼っている猿を預かっている。それが書き出しで、その猿に勝手に「カマド」と命名するのが小野の友人「二瓶」である。

   *

「これはたしかにおれの猿だ」

 ある日突然、六郎はそんなことを考えた。それは言葉としてでなく、ある実感として彼に落ちてきた。もしそれが言葉としてだったなら、その言葉は無意味な筈であった。猿の保管料や食餌費はまだ鍋島の手から出ていたし、その鍋島も月に二三度は、この猿の成長を見廻りにきていたのだから、自分の猿だと言い切る根拠は、現実にはどこにもなかった。だからそれは、六郎の漠然たる気持」だけなのであった。しかし彼のその気持の中には、嘘や錯覚の感じは全然なかった。それはぴったりと彼に粘着していた。

「とにかくこいつは、おれの猿なんだ」

この猿に、カマドという名をつけたのは、近所に住む二瓶という男である。二瓶は六郎より少し上の、三十をいくつか出た年頃で、神田かどこかにある学校の、講師か教師かをやっていた。小柄な身体にきちんと服をつけ、晴天の日でも洋傘をもって出てゆくような男であった。端正な、こぢんまりした顔に、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡をかけていて、なにかものを言い出そうとする時には、かならず眼を少し細めて、眼尻に笑みを含んだような淑をよせる癖があった。脂肪をふくんだその襞(ひだ)の形のなかに、かすかに宿るへんに暗い邪悪な翳(かげ)りのようなものを、この男と知合った最初から、六郎はぼんやり感じとっていた。そういう笑いに似た表情をこしらえない限りは、普通の話題にすら口を開かないということは、この男がどこかで韜晦(とうかい)した生き方をしている為(ため)だろうと、六郎はかねがね推定していた。そして二瓶の身のこなしや口の利き方には、自分と他を完全に意識したような、そしてそれがぴったり身についた、疑似の典雅さや柔軟さがあった。身体や顔が全休に小柄で、しかもそれなりに均衡がとれていたから、打ち見たところ、なにか精緻な雛形(ひながた)かカタログを眺めるような感じがした。この精巧なカタログは、しかしどうかしたはずみに、何気ない世間話の合間などに、ふとこちらの気持にひりひりと触れてくるような、はっきりしたものの言い方をすることがあった。そういう時でもこの二瓶の眼尻は、老獪(ろうかい)な笑みの翳をいつも絶やさずたたえているのであったが。二瓶は学校の講義を受持っている他に、変名で子供雑誌に童話をしきりに書いていた。彼の童話は相当に金になるらしく、二瓶は割に裕福な生活をしていた。二瓶と知合うようになってから、この男の慫慂(しょうよう)で、六郎もいくつかの童話を書いて、その中の二篇ほど金に換えて貰ったことがあった。しかしこの二つの童話も、二瓶の口ききだから金になったので、雑誌社側で歓迎するほどの作品でもないようであった。むしろお情けで載せてもらったような具合であった。もともと六郎には自信もなかったし、情熱もあまりなかった。金にしてやるという二瓶のすすめで、暇々に書いたにすぎなかった。二瓶にはそういう世話やきの一面があって、言わば六郎はそれに無抵抗で応じただけである。しかし書くことは別に苦痛ではなかった。と言って喜びも別段なかった。だからその作品も、とても二瓶のそれのように、うまく行く筈もなかったのだが。

「君のこの童話は、うまいことはうまいんだけれどもねえ――

 ある日の夕方、庭の入口に立って、二瓶は原稿を六郎に手渡しながら、いつもの物柔らかな調子で言った。その原稿も、ずい分前に二瓶を通じて、ある少年雑誌に行っていた筈の童話であった。それをやっと六郎は思い出していた。

「ちかごろの子供には、ああしたものはぴったりしないと、雑誌社じゃ言うんだよ。戦争前の感じとは、子供たちだって、ちょっとはずれてきているんだよ」

「そうかな。そんなものだろうな」

 受取った原稿をかるく巻きながら、六郎は気のない受け答えをした。別に何の感情もなかった。この原稿のことはすっかり忘れていたのだし、実は自分で書いたものでありながら、その内容も彼はまだ思い出せないでいたのだから。しかしこちらを見詰めている二瓶の視線を感じると、六郎は義務のようにして言葉を継いだ。

「そう言えば、近頃の子供というのは、よく判らないなあ。もっとも大人たちのことだって、僕にはてんで判りやしないけれどね」

「そうでもないだろう」

「いや。どうもそうなんだよ。僕の中には、どこかしら足りないものがあるんだ。童話など書けるような柄じゃないんだね、つまり僕は」

「そうでもないよ。うまいよ、君は」

「そんな言い方はないよ」と六郎はちょつとわらった。

「でも大変なことだなあ。金になるならないは、別としてもね。あんたはよくそこをやって行くね」

 眼尻にれいの笑みをたたえたまま、かすかに顎(あご)でうなずいたりしながら、二瓶は洋傘の尖端で庭土にいたずらをしていた。その二瓶の姿を、見るだけの意味しか持たぬ視線で六郎はちらちらと眺めていた。それから暫(しばら)く、そんな風(ふう)な雑談をした。二瓶は庭土に眼をおとしたり、猿の檻を眺めたりしながら、何時ものようになめらかなしゃべり方をした。そしてふと語調を変えて、こんなことを言った。ぼんやり受け答えをしていたので、それまでの会話とどう繋(つなが)りがあるのか、六郎はちょっと戸惑った。

「君はねえ、とにかく安定してるよ。確かなんだよ。いろんなものがね」

「そんなものかねえ」と六郎はあやふやに相槌(あいづち)を打った。しかし二瓶のその言葉は、繋りが知れないままに、突然心に妙にからまってくるのを、六郎は感じた。

「ちょっと脇へ寄ればいいんだけれどねえ。そこで少し違うんだよ」

 その言い方もよく判らなかった。そこでどう違うのか。何と違うのか。しかしその問いはちらと頭の遠くを走っただけで、言葉にする程の気力も、けだるく六郎の胸からずり落ちて行った。猿を眺めている二瓶の眼尻の笑みから、六郎はなんとなく視線を外(そ)らした。そしてしばらく黙っていた。するとそのけだるさの底から、内臓の一部を収縮させるようなへんな笑いが、沼の底から浮いてくる気泡のように、ぽつぽつと不規則に六郎の頰にものぼってきた。二人はそれぞれに頰の筋肉をゆるめ、それぞれの顔形に応じて声なき笑みを含みながら、檻の中の猿の動きをしばらく眺めていた。やがて二瓶は手をあげて、檻の中を指さした。

「ねえ。やはりカマドにちょっと似てるだろう。あの形がさ」

 猿はその時椅子に腰かけ、大仰に肢をひらいて、しきりに蚤を探していた。その猿の姿勢は、強いて眺めれば、竈(かまど)の形に似ていないことはなかった。しかしそれよりも六郎はその二瓶の言葉の外らし方に、ある常套的な韜晦(とうかい)を瞬間に感じていた。六郎は黙った。彼が黙ったのを見ると、二瓶はふいに照れたような、なにか弁解がましい口調になって、すこしあわてた風(ふう)に言葉を継いだ。

「実ほこの猿を始めて見たとき、こいつは丁度(ちょうど)今と同じ恰好(かっこう)をしてたんだよ。その印象が僕にはつよく残ってるんだ。つまりそのせいなんだな。僕はそれで、お猿のカマドという話を書いたりしたんだがね」

「ああ、それは読んだよ」自然と皮肉な調子になるのを自分でも意識しながら六郎は答えた。「お説の通り、カマドに似てるよ。だから僕もこいつを、カマドと呼んでいるんだ。ちかごろは、テツまでもね」

 六郎の家の竈(かまど)と二瓶の家の竈とは、同じ土質で同じ形をしていた。大きさも全く同じであった。それは偶然でも不思議なことでもない。六郎の家と二瓶の家は、同じ家主が設計し同じ大工や左官(さかん)がこしらえたものだったから。ちょっと変った形の、使いにくい竈であった。火つきが悪く、ともすればくすぶりたがる性質があった。二瓶が似ているというのは、この竈のことである。

「でも、もうすっかり、人間に馴れたようだな、こいつも」二瓶のその言い方は、急に六郎のその答えから遠ざかったが、独白めいた調子に変った。「早いようなもんだな。まだ君にも馴れてなかったのにね、あの頃はさ」

「ああ、そんな具合だったね」蚤をとらえて口に持ってゆく猿の手付きに、六郎はふと視線をうばわれていた。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

「ミミック」mimic。笑わせるために真似る・真似して馬鹿にする・擬態する。「擬態」がこの場合は最もしっくりくる。

「冬夜」昭和一二(一九三七)年六月二十五日インテリゲンチヤ社刊。]

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