甲子夜話卷之二 25 荻生氏の藏、玄宗眞蹟の事
2-25 荻生氏の藏、玄宗眞蹟の事
荻生茂卿【徂徠】、唐玄宗の眞蹟を藏む。今に其家傳寶とす。然ども容易く人に觀せず。會(タマ)々需る者あれば、辭してゆるさずと聞く。因て先年、郡山侯に書翰を贈りて、其事を問ふ。答に、抑家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候。然に此書者他江借覽憚候子細候而、先茂卿申置候にて、何方江茂斷申也。巳に脇坂淡州所望有之候所、緣家なれども斷申遣候事にて候と也。かゝる物を祕し置て人に見せざるは、奈なる事にや。
■やぶちゃんの呟き
「荻生茂卿【徂徠】」「をぎふもけい」(名を訓ずると「しげのり」)。「そらい」。知られた儒者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)。「茂卿」は字及び実名。「徂徠は号。ウィキの「荻生徂徠」によれば、彼は元禄九(一六九六)年に第五代将軍綱吉の側近で幕府側用人(後に甲斐甲府藩柳沢家初代藩主)柳沢吉保に抜擢されて、当時の吉保の領地であった川越で十五人扶持を支給されて彼に仕えている。後には五百石取りに『加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元』(一七〇五)年『に甲府藩主となり』、宝永七(一七〇六)年には吉保の命を受けて徂徠は甲斐国を見聞、紀行文「風流使者記」「峡中紀行」として記している。宝永六(一七〇九)年、『綱吉の死去と吉保の失脚に』よって『柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ』。享保七(一七二二)年以後は第八代将軍『徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて』、享年六十三歳で亡くなっている。従って、彼は柳沢家家臣であり、この話柄当時の荻生家もそうだったのである。「郡山侯」の注を参照。
「唐玄宗」(六八五年~七六二年)唐第九代皇帝。諱は隆基。「國立故宮博物館」公式サイト内のこちらで玄宗直筆の「唐玄宗鶺鴒頌卷」(「鶺鴒頌」(せきれいしょう」))を視認出来る。筆致に太々としたセキレイたちの飛び交うようないいリズムがあるように感ずる。嫌いじゃない。
「藏む」「をさむ」。
「然ども」「しかれども」。
「容易く」「たやすく」。
「會(タマ)々」「偶々」。
「需る」「もとむる」。閲覧を希望する。
「郡山侯」郡山藩藩主たる郡山柳沢家。「甲子夜話」執筆開始の文政四(一八二一)年近くと考えるなら、大和郡山藩第四代藩主で郡山藩柳沢家第五代柳沢保泰(やすひろ 天明二(一七八三)年~天保九(一八三八)年)である。享保九(一七二四)年の「享保の改革」による幕府直轄領拡大政策で、甲斐の直轄領化に伴い、柳沢吉保の長男で当時、甲斐甲府藩柳沢家第二代藩主であった柳沢吉里は大和郡山藩主として移封されている。
「抑家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候。然に此書者他江借覽憚候子細候而、先茂卿申置候にて、何方江茂斷申也。巳に脇坂淡州所望有之候所、緣家なれども斷申遺候事にて候」書き下す。
抑(そもそも)、家臣荻生の玄宗親筆「孝經(こうきやう)」、御覽(ごらん)は易きことに候ふ。然(しかる)に此の書は、他(ほか)え〔→へ〕借覽(しやくらん)、憚り候ふ。子細候ふて、先(さき)に、茂卿、申し置き候ふにて、何方(いづかた)え〔→へ〕も斷り申すなり。巳(すで)に脇坂淡州(わきざかたんしう)、所望、之れ有り候ふ所、緣家(えんか)なれども、斷はり申し遣はし候ふ事にて候ふ。
〔 〕は私の補正。「孝經」中国の経(けい)書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動を記したとされ、「孝」の概説・各階層の「孝」のあるべき姿・「孝」道の必要性を説いたもの。玄宗はこの注釈書「御注孝経(ぎょちゅうこうきょう)」を著わしているから、書写対象としては頗る腑には落ちる。なお、「家臣荻生之玄宗親筆孝經御覽は易きことに候」の箇所は間違えて読んではいけない。「家臣」である「荻生」家の所蔵になる「玄宗親筆」の「孝經」を藩主である私が披見することは全く問題がなく、何時でも出来る、しかし……というのである。静山(保泰より七つ年上)ならずとも「なんじゃい!」と吐きたくなる如何にも慇懃無礼な謂いではないか! 「脇坂淡州」播磨龍野藩第八代藩主で龍野藩脇坂家十代で寺社奉行から老中となった脇坂安董(やすただ 明和四(一七六七)年~天保一二(一八四一)年)であろう。柳沢家との縁戚関係は不詳。
「奈なる」「奈(何)(いか)なる」。