谷の響 二の卷 六 變化
六 變化
また、天保五六年の頃のよし、何地(いづれ)の洋中(より)より揚れるにや、大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしものを、ある太夫の邸宅(やしき)へ持ち來れるを見たりしとて、藩中七戸某語れるなり。又、藩中中村某の話に、一年(あるとし)海口(みなと)勤番の人より海帶(あらめ)を贈られしことあり。そを薦に包み庇(ひさし)の片隅に置(おけ)るが、二十日あまりありて啓(ひら)いて見るに、雨の洩りしと見え大概(おほかた)腐りたる樣にて、その中に多くの蛭蠢き居たりけるに、半身はまだ海帶に着て居るもありしなりと語りしなり。
[やぶちゃん注:「變化」「へんげ」。超自然的に別生物からある別生物へ変生する化生(けしょう)である。
「天保五六年」一八三四、一八三五年。
「大きなる蝦蟇(がま)頭の方(かた)はソイと言ふ魚に化(な)りて【ソイは方言】半躰(なかば)より下は蟇にて有りしもの」「ソイ」は脊椎動物亜門条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目カサゴ亜目メバル科メバル属 Sebastes を指す広域で汎用される通称で青森に限った方言ではない。実際に、私も使うし、富山でもそう呼んでいたし、私の馴染みの江戸前の寿司屋の親爺も普通に使う。というより何より、同属内の種の正式な標準和名に、クロソイ Sebastes schlegeli・ムラソイ Sebastes pachycephalus・オウゴンムラソイ Sebastes mudus さえある。さて、問題は、この頭部がソイで体幹の下半分がガマガエル(正式和名は両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus。但し、ここは青森であるので、その固有亜種であるアズマヒキガエルBufo japonicus formosus とするのが正しい)とは何か? であるが、まず、安易に考えるなら、たまたま釣り上げられたソイを、単に悪食多食のガマガエルが吞み込んだものの、大き過ぎ、しかも鰭の棘が引っ掛かって吐き出すことも出来ずに、そのまま悶死したものを見たというケースで、これは誰でも思いつくが、如何にもつまらない。私が実は最初に想起したのは、海中でソイをまさに海のガマガエルと称するに相応しいかの旧名「イザリウオ」(現在は差別用語として和名変更されてしまった)、条鰭綱アンコウ目カエルアンコウ科 Antennariidae の一種が半ばまで吞み込みかけたところ、ソイは眼の前に垂れさがってきた釣り餌に苦し紛れに喰いつき、それが釣り上げられたというシチュエーションである。カエルアンコウ類は擬態性が著しく、頭部の形状もはっきりしないから、蝦蟇の下半身に見えたとしても、私は強ちおかしいとは思わない。
「太夫」いろいろな職種で当てられる地位名称であるが、ここは「藩士」の話で、しかも「邸宅(やしき)」へ持ち込んだとある以上、神主や禰宜(ねぎ)などの神職の別称ととっておく。
「七戸某」「一の卷」の掉尾「十八 龜恩に謝す」に登場した藩士「七戸某」と同一人物であろう。私のような海洋生物奇譚好きの情報屋と思われる。
「海帶(あらめ)」不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Lessoniaceae 科アラメ属アラメ Eisenia
bicyclis 。
「蛭」これは恐らく環形動物門ヒル綱 Hirudinea とは思われない。湿気を含んで腐っていることからは腹足綱有肺亜綱柄眼目ナメクジ科 Meghimatium属ナメクジMeghimatium
bilineatum 或いはその仲間のナメクジ類であろう。腐ったアラメの茎部に入り込んで内部から蚕食していたと考えれば、別段不思議ではない。但し、アラメは塩分を多量に含んでいるので、ナメクジがそれに堪え得るかは定かではないが。ともかくも、海産の蠕虫類(平尾が「蛭」と言っているのは、実はそういう意味であろう)である可能性は二十日も経っていることから見て、あり得ない。
「着て」「つきて」。]