譚海 卷之一 遠州長門御所の事
遠州長門御所の事
○友人某遠州に在番の頃、其所のくもん御所と云(いふ)ことを書記(かきしる)しこしたる書に云(いふ)、遠州秋葉山より南の表山(おもてやま)七八箇村を飯(ゐい)の奧山と唱へ、北東うらの山中六箇村を水久保入(みづくぼいり)と云傳(いひつた)へし事は、そのかみ後醍醐帝都よりむもん御所と申奉(まうしたてまつ)りし御方(おんかた)の、飯の奧山法光寺へおち忍ばせ玉ふに、行良(ゆきなが)親王と申せし君達(きんだち)御所の御行衞(おんゆくゑ)をしたはせ玉ひ、奧の山に尋ねさまよひおはしまし、いのおく山を此奧の山と取(とり)ちがひ、此おく山よりは信濃路へ鄰(となり)しゆへ、信濃路へおもむき玉ひ、信州竝合(なみあひ)といふ所にて薨(こう)じ玉ふ。折からの御辭世のよし、「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」。此(この)故(ゆゑ)によりて遠州奧山六箇村に限りて、莊屋を君門(くんもん)莊屋と唱へ來るよし、今にかくいひ傳へ候。按ずるに此(この)事浪合の記といふ物に委しく記したり。此書狀少しわかりかねたる事あれどもそのままをしるす。
[やぶちゃん注:「竝合(なみあひ)」は特異点の原典のルビ。「世(さ)の」は底本の別校本の補正。「世」を「さ」と読み換えよということであろう。
「くもん御所」不詳。以下の手紙文によるなら、「君門(くんもん)」(この読みは私の推定)「御所」の「ん」の脱落(しばしば起こる)ということなる。こういう呼称の場所は現在の静岡県西部(「遠州」。旧「遠江(とおとうみ)国」)には現認出来ない。
「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。
「飯(ゐい)の奧山」不詳。秋葉山の西直近の天竜川を遡上すると、長野県「飯」田市に突き辺りはする。後の底本の注引用を参照。
「水久保入」不詳。後の底本の注引用を参照。
「むもん御所」不詳。
「飯の奧山法光寺」秋葉山の近くで、現存する同名の寺は静岡県浜松市中区泉にあるにはあるが(日蓮宗)、ここかどうかは不詳。
「行良(ゆきなが)親王」これは尹良親王(ゆきなが(よし)/これなが/ただながしんのう 正平一九/貞治三(一三六四)年?~応永三一(一四二四)年?)か? ウィキの「尹良親王」によれば、「浪合記」(後注参照)「信濃宮伝」などの『軍記に見える南朝の皇族。それらの記すところによれば、後醍醐天皇の孫にして、中務卿宗良親王の王子であり、母は井伊道政の女』『とされる。父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられるが、その内容の信憑性が極めて乏しいため、歴史学の立場からは実在性を疑問視する意見が多い。源尹良とも』。「浪合記」「信濃宮伝」の『間では年紀などに少なからず異同が見られるが』、「南朝編年記略」などを『援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる』。『遠江井伊谷の館で生まれる。初め上野に移ったが』、天授五/康暦元(一三七九)年、『吉野に参候し、親王宣下を蒙って二品に叙される。後に兵部卿を経て』、元中三/至徳三(一三八六)年、『源姓を賜って臣籍に下り、同時に正二位権中納言に叙任され、左近衛大将・征夷大将軍を兼ねた』。元中九/明徳三(一三九二)年の南北朝合一後も、なお、『吉野に隠れ留ま』った。応永四(一三九七)年二月、『伊勢を発して駿河宇津野(静岡県富士宮市)へ移り、田貫左京亮の家に入った』。同五(一三九八)年『春に宇津野を出て上野へ向かうが、鎌倉の軍勢から攻められたために柏坂(迦葉坂か)でこれを防戦。武田信長の館に入って数日逗留した後』、八月、上野寺尾城(群馬県高崎市)に赴いている。同一〇(一四〇三)年、『頼みとしていた新田義隆(義則か)が底倉で害されると、世良田有親らを伴って下野落合城(栃木県上三川町)に没落。次いで桃井満昌・堀田正重など旧功の士』百余騎を『率い、高崎・安中・碓氷の敵を討って信濃入りし、島崎城(長野県岡谷市)の千野頼憲を頼って再興の機会を窺った』。同三一(一四二四)年八月、『三河足助へ向かおうとし、諏訪を発して伊那路に差し掛かった折、待ち受けていた賊徒飯田太郎・駒場小次郎ら』二百余騎が『阻んだため、浪合にてこれと奮戦した(浪合合戦)。味方は』八十余騎で『あったが、結局世良田義秋・羽河景庸・熊谷直近ら以下』二十五人が『討たれ、最期を悟った尹良は子の良王君を従士に託した後、大河原の民家に入って自害した』。但し、『岐阜県の東濃(中津川市・恵那市)の伝説では、親王は浪合で死なず、従士の逸見左衛門九郎朝彬を召し連れ、柿の衣に笈を掛けた山伏姿に身をやつして美濃笠置山の麓の毛呂窪の郷に落ち延び、松王寺で再起を図った。大河原で敗残した従士達も集まって農耕をしながら』二十年余りを過ごしたが、『やがて足利方の知るところとなって敵兵が来襲したため、従士』四十九人が『討死し、親王もまた自害したという。中津川市蛭川と恵那市笠置町毛呂窪に親王の墓所と伝えられる石塔が残っている』ともある。後の底本の注引用を参照。
「君達」「公達」とも書き、「きんだち」は「きみたち」の転じた読み。親王・摂家・清華(せいがけ:公卿の家格の一つで、摂関家に次ぎ、大臣家の上に位する家柄。大臣・大将を兼ね、太政大臣に昇ることが出来る。転法輪三条・今出川・大炊(おおい)御門・花山院・徳大寺・西園寺・久我(こが)の七家であったが、後に醍醐・広幡を加え、九清華という)など、公家の最上層の者の子弟を指す。
「信州竝合(なみあひ)」現在の長野県下伊那郡の西南部にある浪合村(なみあいむら)。天竜川上流の右岸の山中で、話柄の流れからの位置としては、辻褄は合う。
「おもひきやいく世(さ)の旅をのがれきて此(この)浪合(なみあひ)に沈むべしとは」不詳。失礼乍ら、和歌としても辞世としても、見どころは一つもない。
「君門(くんもん)莊屋」不詳。
「浪合の記」底本の竹内利美氏の注に、『「浪合記」。応永年中南朝の貴種が流離の末、信州伊那の山中、浪合で悲運の最後をとげた次第をしるした歴史伝記で、主人公をユキヨシ親王としている。津島社の社家の手を経た後世の仮托の作らしい。飯の奥山、水久保は遠州側で、天竜川の東に位する。宗良親王の隠住した地方なので、こうした伝説も生じた』とある。]