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2016/10/26

譚海 卷之一 安永五年日光御社參の事

安永五年日光御社參の事

○日光御社參安永五年に有(あり)。十三日に江戸を御發駕(はつが)に付(つき)、十二日暮六つ時より江戸町の辻々木戸(きど)をうち、夜は往來の人を拍子木にて送り、晝も又然り、翌十三日晝八つ時御成(おなり)相濟(あひすみ)たるよしにて、木戸を開き往來常の如し。夫(それ)より毎夜五(いつつ)ときより木戸をとぢ、曉まで往來を拍子木にて送る。町ごとに上下(かみしも)の辻番の外、中番屋(なかばんや)を假(かり)にしつらひ、家主月行事晝夜詰切(つめきり)、火消の人數も不斷(ふだん)火の元用心に徘徊する。廿一日還御也。廿日の宵より木戸をとぢ、辻々をかたむる事御發駕の日の如し。町々木戸なき時は、竹やらひにて小路にてもがりを拵(こしらへ)たり。又よせ馬といふ事あり、房總より召(めさ)れて道中駄荷(だに)の用にあてらるゝ事也。其馬小屋鳥越橋の西の原、淺草かやてうのうしろの原、柳原あたらし橋向ひの馬場、同所天文はら等也。假小屋をしつらひ率(ひ)くる馬を追入々々(おひいれおひいれ)する事、凡(およそ)三萬餘疋に及(および)けるとか。都(すべ)て道中の傳馬(てんま)をかぞへ入(いれ)ては廿三萬疋程也とぞ。

[やぶちゃん注:本条を持って「譚海 卷之一」は終わる。

「安永五年」一七七六年。月が書かれていないが、主に徳川家康の命日である四月十七日に参拝するように実施されたから、これも総て旧暦四月のことである。因みにこれは第十将軍徳川家治の社参で、じつはこの後の第十二代将軍徳川家慶天保一四(一八四三)年の社参が最後の日光社参となった。因みに、旧暦安永五年四月十二日はグレゴリオ暦一七七六年五月二十九日で、還御の二十一日は六月六日に当たる。ウィキの「日光社参」によれば、そのルートは、『江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城』(いわつきじょう:武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁)『に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿』(さってじゅく:現在の埼玉県幸手市中部から北部地区)『近くで日光街道(日光道中)に入り、二日目は古河城』(こがじょう:現在の茨城県古河市の渡良瀬川東岸にあった古河藩の藩庁)『に宿泊、三日目は宇都宮城に宿泊したのち、四日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計』八泊九日にも及ぶ将軍の外遊としては特異的に長い『行程であった』。

「暮六つ時」不定時法でこの時期だと午後七時半近くである。

「夜は往來の人を拍子木にて送り」番屋(消防・自警団の役割をしていた自身番の詰所。木戸番や火の見櫓を併設していることが多く、江戸・大坂・京都などの大都市及び地方の城下町でも見られた。地元住民が交代で役割に従って担当した)の者が住所や名、通行目的を確認した上、認められた特別通行許可を受けた人間であることを示すために、同道して拍子木を打って通ったという意味か。識者の御教授を乞う。

「五とき」不定時法の夜五つ(初更)なら、八時半過ぎ頃で、定時法の「五つ」なら午後八時前後となる。

「上下」必ずしも各町に「上町」「下町」がある訳ではないから、木戸が設置されてあった町の両端の謂いであろう。

「家主月行事晝夜詰切」家主(やぬし)及び月行事担当の者が、交代で昼も夜もずっと番屋につめて。

「不斷」「絶え間なく」の意の副詞。

「かたむる事」「固むる事」。警固すること。

「竹やらひ」「竹矢來」。竹で造った仮囲い。長さ二~三メートルの竹を斜めに組合せ、交差部を棕櫚繩などで結んだもの。時代劇に出て来る刑場のあれ。

「もがり」「虎落(もがり)」。竹を筋違いに組み合わせ、繩などで結い固めた柵。前の竹矢来よりもサイズも小さく、造作も簡便なものであろう。要は、人がこっそり簡単に通り抜けられぬような障碍物として存在すればよいような代物である。

「よせ馬」将軍家日光社参のために必要な荷馬を徴集することであろう。先に引いたウィキの「日光社参」によれば、『日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば』、ここに出る『将軍家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた』。『これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった』。『なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう』とある。リンク先を見て戴くと分かるが、日光社参は江戸時代、十九回行われているが、その内の十回は総て家光のそれである。

「鳥越橋」鳥越川に架かっていた橋(現在は暗渠)。現在の東京都台東区柳橋にある須賀橋交番前。この橋は江戸時代には須賀橋・天王橋・地獄橋などとも呼ばれた。

「淺草かやてう」「淺草茅町」。浅草橋から浅草橋駅付近の旧町名。

「柳原あたらし橋」現在の東神田三丁目から二丁目の、神田川に架かる美倉(みくら)橋。

「同所天文はら」浅草の新堀と三味線堀の間。天明二(一七八二)年に幕府天文方(てんもんかた)がここに移転し、この時、浅草天文台という呼称を初めて用いたが、それ以来、この付近を天文原と呼ぶようになった。

「傳馬」旅中の状況や急務の送受信のための特別逓送(ていそう)用の馬。宿場毎に一定数が配置されてはいたが、これは日光社参のための別用立てのそれである。]

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