祖父遺品の絵葉書から――「戰役紀念」(日露戦争絵葉書四種)
[やぶちゃん注:四枚の内、二枚(左下に雪の積もった木の上で歩哨する写真のあるものと沙河(さか/しゃか)会戦の右に双眼鏡の絵が添えられたもの)は表が全く同じ仕様なので、同じ絵葉書セットであった可能性が強い。なお、日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日~明治三八(一九〇五)年九月五日に終了している。以下は総て、日露戦争勝利後の戦勝絵葉書類と思われる。
●「戰役紀念」縦型一枚
上部に消印を真似た印刷で「明治卅十八年戰役陸軍会戦觀兵敷紀念 39・4-30東京」(他英文)とあり、下部に軍艦の絵、上に観兵式の絵が載る一枚は、表は左手に「CARTE POSTALE」(フランス語で「葉書」の意)、下部に「信陽堂分工塲発行」(「発」はママ)とあるのみ。
●「戰役紀念」日露戦争の沙河(さか/しゃか)会戦の一枚
右書きで「沙河會戰中第三司團司令部」(同英文)とキャプション。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、その下に英文で「CARTE POSTALE」、下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(他に二ヶ所に英文があるが、特に特異なものではないので略す)。
「沙河會戰」は日露戦争に於いてロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。ウィキの「沙河会戦」によれば、この戦い以降、冬季に突入し、『沙河の対陣と呼ばれる膠着状態に陥った』。『会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした』。十月九日『にロシア軍の攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという形で戦いが始まった。日本陸軍はロシア軍の攻撃を察知したので、圧倒的な兵力差がありながらもロシア軍に対して効率的な防御を行い、大きな損害を与えた。それから日本軍はロシア軍に対して攻撃を仕掛けたため、ロシア軍は沙河北岸に退却した。日本軍はさらに攻撃を行おうとするもロシア軍の反撃を受けて退いた』。『満州軍は弾薬がつき、大本営は旅順攻囲戦を遂行するために優先して弾薬をそちらに送ったことと、冬季に突入して軍隊行動が困難となったことから満州軍は塹壕で次なる攻勢機会を待つこととなった』。(同会戦の終結は十月二十日とされる)。『なお、この会戦に於いて特筆するべき存在としては梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(俗に言う「花の梅沢旅団」)がいる。近衛後備混成旅団は後備兵(予備役)の兵士たちによって構成された二級部隊ながら、梅沢による卓越した指揮の下、最前線に於いて精鋭部隊に劣らぬ猛烈な奮戦を見せ、勝機の一端をも担う活躍を見せた事で現在にその名を残している』とある。
●「戰役紀念」日露戦争の運河と雪の樹上の歩哨のショットの一枚
上部の写真キャプションは右書きで「運河ニ據ル我歩兵戰」(同英文。「據ル」は「よる」と読む。表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」、「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」下部に右書きで「逓信省發行 東京印刷株式會社製」(同前。前とこの一枚が同一のセット物の二枚と考えられる)。
●右下に騎馬と歩兵と野戦砲の絵の入った、刳り貫き画に写真を合成した一枚
左端に縦に「鴨綠江ノ砲戰」(他英文その他)。これは表は切手塗布位置に一行で「軍事郵便」とある他は、上部の右書き「郵便はがき」と「軍事郵便」の下に英文で「CARTE POSTALE」とあるだけで、上の二枚のようなごちゃごちゃとした他の英文は印刷されていない。]
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