谷の響 一の卷 四 河媼
四 河媼
雌野澤(めやのさわ)の杣士(そまこ)ども山に入りて薪樹(たきき)を伐り、川を流して弘前に運送(おくる)ために諸處(ところところ)に塞柵(やらい)といへるを造れることなるが、番館村の川邊にも一處あり。こは此村の出頭(はし)なる河童灣(かつぱとろ)といふ淵を少し避けて造り設くる事、今猶爾(しか)なりとぞ。
さるに往ぬる弘化四年の年の八月の事なるが、月明(あか)かりし夜に此塞柵の小屋の裡に聲ありて、己が兒童(こども)等(ら)大いに專意(せは)になりて忝なし、皆の衆々(ひとびと)に一禮を演(のべ)ん爲に來れるなりといへるに、杣子(そまこ)ども愕きて誰なるならんと四邊(あたり)を視まわせど、更に其(その)影だにも見得ず。左有(さる)に、その聲全(また)く老女にしていといと蕭然(さびし)かりければ、是なん豫て聞つる河媼といふ者ならんと連切(しきり)に冽凄(ものすご)くなり、寢るに耐ヘずして僉(みな)々起いで、火を焚いて夜を明かせしとなり。
里老(としより)の話説(はなし)に、この河媼といふもの終古(むかし)より番館村の河童灣(とろ)に住めりといひ傳へて、五六十年以前(さき)までは時々(をりをり)里に出で、右の如く謝儀(れい)をいふこと數囘(たびたび)なるから誰も奇しとせざるに、近きころは村に來らでたゞ杣士の假菴(こや)にのみ五六囘(たび)も來れることありしなり。されど、食を貪(むさぼ)るにも人を惱(なやま)すにもあらず、言(こと)畢ればその儘歸ると見えて、復び來ることなしと語れると、村市村の子之丞といへる者語りしとなり。
[やぶちゃん注:「河媼」「かはうば」(読みは以下のウィキに従う)。ウィキの「河媼」は、まさにこの「谷の響」の一条をまるまる訳して解説に当ててある。注も省くとが出来るので、以下に全文を引いておく。『河媼(かわうば)は、青森県中津軽郡西目屋村に伝わる妖怪。安政時代の津軽弘前の郷士・平尾魯遷の著書『谷の響』に記述がある』。弘化四(一八四七)年八月の『ある夜、番館村(現・青森県弘前市)でのこと。岩木川上流の雌野沢の木こりたちが小屋にいたところ、「おらの子供らがいつも世話になっているので礼に来た」と老婆の声がした。驚いた木こりたちが周囲を見回したものの、周囲にはそれらしき者の姿はなく、さびしげな老婆の声の余韻が残っているだけだった。木こりたちは、これが話に聞く「河媼」というものだろうと言い合い、あまりの怖さに眠ることもできず、火を焚いて夜を明かしたという』。『里の古老たちの語りによれば、河媼は番館村の河童灣(かっぱとろ)という淵に住むといわれるもので、このように礼を述べに現れるのみで人に危害を加えるわけでもなく、数十年前までは人里にも現れていたという。また、雌野沢の木こりたちは、山で伐った薪を川に流して弘前に送るため、岩木川のあちこちに塞柵(やらい)と呼ばれる仕掛けを造っていたが、この塞柵は河媼のいる河童灣を避けて造ることが風習として、後に伝えられている』(下線やぶちゃん。注の代わりとなる部分)。
「雌野澤(めやのさわ)」底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。
「杣士(そまこ)」「杣子(そまこ)」樵(きこり)。
「塞柵(やらい)」同じく森山氏の補註に『薪材を流送する際、途中の川中に柵を設けて川水をせき止めると共に、流れ下る薪材を集めておき、水量の増した頃』、『一気に柵を外して下流に運送する仕掛けである』とある。眼から鱗。
「番館村」同じく森山氏の補註に『いま東目屋(弘前市)番館(ばんだて)。むかしの館跡があるという』とある。ウィキの「番館」によれば、『青森県弘前市の地名で、旧中津軽郡東目屋村中畑の一部』とあり、『北部を河川が流れ、西は中津軽郡西目屋村に接する。北は中畑、東は米ヶ袋、南は旧中津軽郡相馬村大助・沢田、西は中津軽郡西目屋村田代に接する』この地名は『中世においての城館である番館(館城)跡から。ちなみに番館跡は縄文時代の遺跡ともなっている』。村としての「番館村」は江戸期から明治九(一八七六)年まで存在した、とある。前の地図の東目屋中学校から近くの岩木川を遡った西目屋村との接触地区の相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「出頭(はし)」村の出鼻(でばな)。
「河童灣(とろ)」こういう呼称は本話以外では聴いたことがない。「とろ」は一般的には「瀞」と書き、河川の流れの中で水が深く、流れの緩やかな流域を指す語ではある。但し、「灣」は必ずしも海岸地形のみを指すものではなく、水域(流域)が弓のように湾曲している場所を指すから、不自然とは言えない。
「裡」「うち」。仮小屋の外ではなく、明らかに自分らがいる小屋の中の同一空間からその声はするのである。こここそが、この怪談のキモである。
「專意(せは)」二字へのルビ。世話。
「忝なし」「かたじけなし」。
「全(また)く」ルビはママ。
「豫て」「かねて」。以前から。
「連切(しきり)に」二字へのルビ。「頻りに」。
「冽凄(ものすご)くなり」二字へのルビ。あまりの恐怖にぶるぶる震えて。
寢るに耐ヘずして僉(みな)々起いで、火を焚いて夜を明かせしとなり。
「謝儀(れい)」二字へのルビ。
「村市村」同じく森山氏の補註に『中津軽郡西目屋村村市(むらいち)』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「子之丞」「ねのじよう(ねのじょう)」と読むか。]
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