譚海 卷之一 おぼこ魚の事
おぼこ魚の事
○をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也。川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す。夫より海へ入(いり)てはいなと稱す。又生長してはなよしと稱し、秋末に至りてはぼらと稱するもの也。又わかなごといふ魚漸(ようよう)生長していなだと號す。又長じて鼻しろと號す。又それより長じたるをばわらさと號す。又生大(せいだい)したるをぶりと稱す。又長大したるをば大いをと號す。これはまぐろほどの形に成(なり)たるときの事也と、相州三浦の人かたりし。
[やぶちゃん注:前段(「をぼこ」から「ぼらと稱するもの也」までは出世魚である鯔(ぼら:条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus)の呼称の変わり方を示したもので、「わかなご」以下の後段は同じく出世魚である鰤(ぶり:スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata)のそれを述べたものである。
但し、この呼称は地方によってかなり異なる。まず、ボラの場合、本「譚海」では、
ヲボコ(オボコ) → スバシリ → イナ →ボラ
であるが、現行では(ウィキの「ボラ」に拠った)、
●東北 コツブラ→ ツボ → ミョウゲチ → ボラ
●関東 オボコ → イナッコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド
●関西 ハク → オボコ → スバシリ → イナ → ボラ → トド
●高知 イキナゴ→ コボラ → イナ → ボラ → オオボラ
老成した、がっしりした大型個体を指す「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから、後に「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった。「イナ」は、若い衆の月代(さかやき)の青々とした剃り跡を青年魚の青灰色でざらついた背中に見立て、俠気(きょうき)に富んで身のこなしが粋なさまをいう「鯔背(いなせ)」に基づくとも、若い衆が粋をこれ見よがしに示すために、髷の形をピンと跳ね上げたのを、この青年魚の背鰭の形に譬えたとする説もある。幼年魚の「オボコ」は子供などの幼い様子や「可愛らしい」の意の「おぼこい」の語源とされ、また「未通女」と書いて「おぼこ」と読んで「処女」をも意味した。「イナ」はボラの幼魚で十八~三十センチメートルまでのもの、「名吉(みょうきち・みょうぎち・なよし)」などとも呼ぶ。以上、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」(現在の神奈川県の三浦)と、現行の関東(関西も)の呼称はよく一致する。
一方、ブリは本「譚海」では、
ワカナゴ→イナダ→ハナシロ→ワラサ→ブリ→オホイヲ(オオイオ)
としているが、現行では、(ウィキの「ブリ」に拠る)、①稚魚(十センチメートル未満)・②二十センチメートル未満・③三十センチメートル未満・④四十センチメートル未満・⑤六十センチメートル未満・⑥七十センチメートル未満・⑦八十センチメートル未満・⑧八十センチメートル以上で区分すると、
●三陸 ②コズクラ・ショッコ→③フクラギ・フクラゲ→④アオブリ→⑤ハナジロ→⑥ガンド→⑦⑧ブリ
●関東 ③ワカシ→④ワカシ・イナダ→⑤イナダ→⑥ワラサ→⑦ワラサ→⑧ブリ
●北陸 ①ツバス・ツバイソ→②ツバス→③コズクラ→④ハマチ→⑤フクラギ→⑥ガンド・ガンドブリ→⑦⑧ブリ
●関西 ②ワカナ→③ワカナ・ツバス→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦メジロ→⑧ブリ
●和歌山 ②ワカナゴ→③ツバス・イナダ・イナラ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥ブリ→⑦オオイオ→⑧ブリ
●島根 ②モジャッコ→③ショウジンゴ・ツバス・ワカナ→④ハマチ・ヤズ→⑤メジ→⑥マルゴ→⑦⑧ブリ
●香川 ①モジャコ→④ツバス→⑤ハマチ→⑥メジロ→⑦⑧ブリ
●高知 ①モジャッコ→②モジャコ・ワカナゴ→④ハマチ→⑤メジロ→⑥オオイオ→⑦スズイナ→⑧ブリ
●九州北部 ②ワカナゴ・ヤズ→④ハマチ→⑤メジロ→⑦⑧ブリ
以上やはり、本「譚海」の「相州三浦の人かたりし」と、現行の関東の呼称はよく一致する。なお、流通過程では大きさに関わらず、「養殖もの」を「ハマチ」、「天然もの」を「ブリ」と呼んで区別する場合もあると記す。
「をぼこと云(いふ)魚は川にあるときの名也」ボラは河口や内湾の汽水域に多く棲息しており、海水魚であるが、幼魚のうちは、しばしば大群を成して淡水域に遡上する。
「川口ヘ出るときは洲(す)ばしりと稱す」河口付近の砂洲の浅瀬で勢いよく泳ぐボラの幼魚をよく見かけるので、この名は腑に落ちる。
「生大(せいだい)したる」成魚で成長した個体。
「長大したる」成魚の特に大きくなった個体。
「まぐろ」スズキ目サバ科マグロ族マグロ属 Thunnus。]