譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事
相州三浦篝堂の事
○相州三崎に篝堂(かがりだう)とて、官より建置(たてお)かれたる所あり。海岸高き所に堂有(あり)、晝夜兩人づつ詰居(つめを)る也。晝は風波破船などの遠見(とほみ)をいたし、夜は明(あく)るまでたえずかゞり火を燒(やき)て、海舶往來の目じるしになる樣に掟(さだめ)られし也。篝になる薪は、浦々より役割をもちてよせ來る定數(じやうすう)ある事也。然るに此地七月十三日の夜は、いつも難船橫死の幽靈此堂に現ずるゆへ、人甚(はなはだ)恐怖し、其日に限りては數十人寄合(よりあひ)、奐鐘(かんしよう)大念佛にて通夜(つや)するなり。さるにつけても幽靈必ず現(げん)ず、或は大船にはかに現じて漂ひ來り、巖頭(ぐわんたう)にふれてくだけくづるゝ響(ひびき)おびたゞしく震動して、人の耳を驚(おどろか)し、身の毛立(けだち)、その時忽ち數十人影(ひとかげ)まぼろしの如く水面に充滿し、わつといふて此堂をさして入來(いりきた)る事、年々たがはず、恐しき事(こと)言語同斷也。因て年々施餓鬼會を勤め佛事を營む、ふしぎの事に言傳いひつたは)る也。
[やぶちゃん注:「譚海」では珍しい、「ザ・フォッグ」(The Fog 一九八〇年。監督・脚本ジョン・カーペンター)並みにキョワい舟幽霊(ふなゆうれい)の怪談が途中に挟まっている。
「奐鐘(かんしよう)大念佛」のルビは特異点の原典のもの。これは恐らく、現在の神奈川県横須賀市の浦賀港入口に当たる岬(燈明崎(とうみょうがさき))の先端に江戸時代に築造された和式灯台である燈明堂のことであろう。但し、ここならば火は当初から篝火ではなく、油火であった。ウィキの「燈明堂(横須賀市)」によれば、天正一八(一五九〇年)の『徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた』。慶安元(一六四八)年、『江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設』、『燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた』。『当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている』。『建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが』、元禄五(一六九二年)以降は浦賀港の干鰯問屋(ほいかどいやは:干した鰯(いわし)などの魚肥を扱った問屋)が修復費用も捻出するようになったという。『海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた』とある。引用元にはもっと詳しい歴史記載が載るので参照されたい。
「奐鐘(かんしよう)大念佛」「くわんしよう」が正しいが、この「奐鐘」は「喚鐘」で、法会で人々を呼び集めるための小さな鐘を指し、それを皆で打ち鳴らしながら、念仏を唱える水死者を供養する施餓鬼様のものと思われる。]